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七郷の学校統廃合問題

嵐山町北部の七か村は1884年(明治17)越畑村連合となった。この当時、連合内には、杉山学校(1873年創立)と吉田学校(1879年創立)の二つの小学校があったが、1886年(明治19)、二校は統合されて大字越畑に昇進学校が設立された。1889年(明治22)には町村制が施行され、越畑村連合の各村は、広野村川島が菅谷村に合併した外は、合併して七郷村となり、昇進学校は七郷尋常小学校と改称された。

 1894年(明治27)、七郷村では、新たに学区制を設け、村内に二つの小学校を置くことになった。大字古里・吉田・越畑及び勝田・広野の一部を通学区とする第一七郷小学校と、大字杉山・太郎丸及び勝田・広野の一部を通学区とする第二七郷小学校である。

 しかし、九年後に事件は起った。1903年(明治36)10月12日に学区廃止調査委員会が、従来の学区を廃止、七郷村中央に一校を新築し高等科を併設する事を決議、これは10月18日の村議会において満場一致で可決された。ところが、思わぬ所から横槍が入った。12月10日、比企郡長山田奈津次郎が七郷村へ来村、小学校の統合に反対し、第二小学校の存続を強く支持したと思われる。12月20日、村会議長から郡長に対し、「お考えには応ぜられぬ」と答申、村会と郡長の間に於て意見が相違し村会議決事項の施行が困難となった。村会議員十一名は連署して辞職届を村長に提出、久保三源次村長もまた「去ル十月十八日ノ決議ノ件ニ対シ責任ヲ重ジ、茲(ここ)ニ辞職候也」と辞職届を郡長宛提出、さらに第一小学校学務委員三名も辞職届を出した。こうして学校統合問題のもつれは村長、村会議員などの退陣へと進展し、この問題は一時中断することになる。

 翌1904年(明治37)12月20日、村長久保三源次は埼玉県知事に陳情書を提出した。その中で、第一小と第二小の二校の存続は、村を二分することになり、村民の円満を欠く状態となること、経済上からも二校を維持してゆくために村民に多くの経済負担を強いていることを挙げ、更に統合によって、高等科を併置し学校教育の基礎を確定することが出来ると主張した。そして第二学区住民の中に統合に同意しない者がいることを理由として、その実施を躊躇(ちゅうちょ)している郡長に対して、「県知事閣下より適切な御指示をお願いします」と切々と現状打開を陳情した。

 その後、五年の歳月を経て、1909年(明治42)第一・第二の学区は廃止され、七郷尋常高等小学校が現在の七郷小学校の校地に誕生したのである。思うに広域の学校の統廃合には、想像を絶する軋轢があるものだろう。

    博物誌だより85(嵐山町『広報』2001年8月号掲載)より作成

正・副戸長と村政

 1871年(明治4)、戸籍法が定められその担当者として戸長制度が設置された。翌年大小区の行政区画の実施により大区には区長、小区には戸長が置かれることが定められ、政府の地方支配機構の末端に位置するものとして戸長は誕生した。

 1872年(明治5)には従来の村方三役(名主・与頭・百姓代)の称は廃止され、正・副戸長となった。戸長は選挙によって選ばれ、その年限は三年から四年とされていた。選挙は「不動産のなき者・婦人・十五歳以下の者・戸主に非ざる者・懲役一年以上の刑を受け放免後満三年を過ざる者」は除いた村民達の投票で行われたが、多数の投票を得たもの二、三名の中から「当役官選ニ任スベシ」として、県庁役場において選任した。根岸村の根岸太之吉は1874年(明治7)、熊谷県から「戸長申付候事」という辞令を交付されている。選挙といってもやはりお上から申し付けられる役職であったようである。

 正・副戸長職は「其村之土地人民ヲ保護シ各自主之権力ヲ保チ他人ノ妨害ヲ防キ上意ヲ下達シ下情ヲ上通スルノ任ナレバ尤公正忠愛ノ人ヲ選挙セサルヘカラス」ということで、戸長の適格性は述べつくされている。1875年(明治8)にも正副戸長心得が出されているが「其部内の保護と上布令の旨趣を奉し下人民の勤惰を監視し丁寧親切に?正すへし」とその役割を示している。

 正副戸長の仕事を特定することは困難だが1875年(明治8)から1884年(明治17)にかけて記録された各村の「戸長役場備置帳簿」を見ると、共通しているものに戸籍簿・田畑反別名寄帳・地代台帳、地引帳・租税割賦帳・租税取立帳・田畑質地押印帳・地所売買譲渡公証割印帳・村議定書・五人組帳等がある。思うに村民一戸一戸に対する把握、村民の集合体である村経営の掟を定めること、村民の所有する土地の把握、それから生ずる租税に関する割当、取立、皆済の仕事、或いは土地の売買、質入に対する戸長の奥印・証明等々が主たる仕事であった。前出1875年(明治8)の「正副戸長心得」に賦課・収税・請願伺等の戸長奥書、公布諸達の衆知について注意すべき点を教諭しているのと附会する。

 村の財政を司るのも戸長の役目であった。1884年(明治17)から1888年(明治21)の五年間の古里村の村費を見ると次の通りである。村費は地租の三分の一と定められているので、ここの村費が全額とも思れないが支出が明細でなく、丼勘定の感が強い。1874年(明治7)の古里村の「記」とされている書付をみると会所入費・学校入費・筆墨紙ろうそく代・炭代・出県入費・学校入費及び定使給等が記載され、やや細かい状況が把握できる。最後に1883年(明治16)、古里村戸長安藤貞良が村勢を調査したものが残されているので、それを見よう。


 町村名 古里村

  人口 四百五十七人

  戸数 八十四戸

  田畑山林総反別 弐百弐町八反八畝十二歩

  病院 ナシ

  学校 五ヶ村聯合吉田学校エ通学

  村社名 兵執神社【ヘ執のヘはふねが訓の漢字】

  戸長役場 第四十二番地安藤貞良自宅貸用ス


 戸長役場は戸長の自宅であったことがわかるが、1876年(明治9)調査の『武蔵国郡村誌』においても嵐山町旧十六村すべて「戸長宅舎を仮用す」となっているから、聯合戸長制或いは1889年(明治22)の市町村制施行まではこんな状況だったのだろう。七ヶ村が合併して七郷村になり1897年(明治30)に至ってようやく役場が新設されるようになる。

  参考資料:中村常男家文書943 正副戸長選挙規程

               内田喜雄家文書95 平沢村 村役場附書類目録 明治8年

               根岸茂夫家文書37 根岸村 戸長役場帳簿目録 明治17年

               根岸茂夫家文書10 根岸村 戸長辞令書 明治7年

               藤野治彦家文書188 吉田村 戸長役場備置帳簿預リ証 明治17年

馬場儀平次年譜

1868年(明治元)  4・18 馬場藤三郎の長男として誕生
1878年(明治11)  5・ 3 椙山学校下等小学第6級 優
1880年(明治13)  4・29  〃 小学高等科第5級 優
1881年(明治14) 11・ 1  〃 小学高等科第2級卒業 優
1885年(明治18)  4・  石川軍平妹ちよ(慶応元年生れ)と結婚(18歳)
1888年(明治21) 11・ 1 歩兵第15連隊(高崎)へ入隊(21歳)
 【1899年(明治22) 4・1 町村合併により七郷村誕生】
1891年(明治24) 11・30 除隊 陸軍上等兵(21歳)
1892年(明治25) 10・ 9 儀平次発起人で久保三源次他2名の入営送別会開く。参加者73名
1894年(明治27)  8・31 召集令状受領(27歳)
1894年(明治27)  9・11 過員のため即日、帰郷を命ぜられる
 【1894年(明治27)8〜1895年(明治28)4 日清戦争】
1894年(明治27) 10・21 忠勇義烈会の発会(発起人儀平次、参会150余人)
1894年(明治27) 11・30【?】 従軍志願意見書を出す
1895年(明治28)  3・ 6 高崎補充大隊第4中隊へ新兵教育係として入隊
1895年(明治28)  6・   帰郷
1899年(明治32) 11・21〜1901年(明治34) 5・ 2 七郷村収入役職務代理(32歳〜34歳)
 【1904年(明治37)2〜1905年(明治38)9 日露戦争】
1904年(明治37)  7・21 七郷村助役(37歳)
1904年(明治37) 12・12 充員召集により後備歩兵第49連隊へ入隊
1905年(明治38)  1・21 外地出征。「満州」各地転戦(38歳)
1905年(明治38)  4. 3 戦地より家族への教訓を送る
1905年(明治38) 11・10 復員
1912年(明治45)     この間、区長20余年。道路委員として甲乙丙の道路新設に貢献
1936年(昭和11)  9・10 69歳にて永眠。戒名:義岳永忠居士
1937年(昭和12)  5・ 9 妻チヨ73歳にて永眠。戒名:教屋理順大姉。

市川藤三郎と産業組合

 市川藤三郎は常吉の長男として1871年(明治4)に生まれた。常吉は五人の男の子を儲けた。次男高次郎は病身で1916年(大正5)に病没してしまうが、三男和市郎は県立二中(熊谷中学校)から札幌農学校(現北海道大)土木科を経て、近衛連隊の工兵将校となり、四男茂平は熊谷中学校から慶応義塾(現慶応大)経済科を経て経理将校となった。五男徳治は日清・日露の戦争の影響もあり、熊谷中卒業後直ちに軍隊に入り軍曹にまで昇進した。明治の中頃において中学への進学者は希少であり、ましてこの寒村にあって大学教育をうけたことは稀有の事と言わざる得ない。いづれにしても軍人優位の社会情勢の中でそれぞれ立派に身を立てていった。

 これ程までに子供の教育に熱心だった常吉だが、何故か藤三郎にはそうした学歴も軍歴も見当たらない。わずかに1893年(明治26)、成田村の晩成義塾権田春徳から常吉宛の書状に、教え子からの寄付により墓碑を建設したい旨の便りがあったのを見ると、近隣の私塾において数年学問を習った形跡が窺える程度である。当時の通念として長男は家業を継ぎ、家督を相続してゆくものとされていた。また農業後継者として学問必要はないと考えられていたからではないだろうか。また軍籍になかったのは当時の徴兵制度のなかに嫡男は兵役が免除される特典があったためである。こした状況の中で藤三郎は成長し、父常吉の膝下にあって家業に精励していた。

 1909年(明治42)、常吉は他界し、その家督を藤三郎が相続した。時に藤三郎三十八歳であった。偉大な政経家であった常吉の死によって、家業・家政のすべてが藤三郎の双肩にかかってくることになった。この頃、日露戦争後で景気が下降し、明治天皇の崩御を契機に不況は一層ひどくなり、世に諒闇(天子が父の喪に服する期間)不景気といわれる時代にあった。藤三郎はこの状況から脱却し農村生活の安定をはかるべきことを痛感していた。これに先立って、1900年(明治33)、「産業組合法」(信用組合・販売組合・購買組合・生産組合の四種、七人以上で成立)が公布され、組合員の協力によりその産業経済の発展をはかり、資力の少ない中・小生産者を救済することを目的として、農村部を中心に組織されていった。1910年(明治43)には全国で七三〇八組合が結成されていたことが伝えられている。藤三郎はこうした社会情勢の中から「七郷信用組合」の設立をおもいたったのである。

 1913年(大正2)3月12日、市川藤三郎を発起人として創立総会を宝薬寺(越畑)において開催、3月28日「産業組合設立許可申請書」を県知事に提出、同年11月22日設立が認可された。

 申請書によれば、組合名は「有限責任七郷信用購買販売組合」、設立者は、市川藤三郎・船戸小重郎・新井重太郎・青木五三郎・久保三源次・市川兵蔵・馬場儀平次・田嶋稲吉・船戸平左衛門の九名で、産業組合法に依り設立申請する旨記述されている。なお、同年12月20日には熊谷区裁判所小川出張所へ設立登記申請がなされ、名実共に産業組合が成立した。その後1914年(大正3)5月には埼玉県信用組合連合会へ加入、6月には全国組織の産業組合中央会への勧誘を受け、これに加盟、1917年(大正6)には仮事務所(吉田鶴巻の七郷村役場前方)を定め、ここに確固たる基盤を築くことができた。

 早速、同年12月1日、出資申込金第一回払い込み通知が出された。出資金は一口に付き一円で、20日までを納期とした。どの位の申し込みがあったのだろうか。1913年(大正2)12月から1914年(大正3)3月までの会計帳簿を見ると、第一回払い込み二三五口、増資十七口であった。収入としては二五二円あったことになる。支出の面を見ると目立つのが貸付金で、1913年(大正2)には船戸揖夫の一〇〇円を筆頭に九人三〇五円が貸し出され、1914年(大正3)には久保三源次の五〇円を始に、十人一九五円が貸し出され、計五〇〇円となっている。これに対し収入としての払い込み金は二回分で五〇四円で、収支とんとんの状況である。他の販売物品の購入や運営にも資金は必要で、止む無く藤三郎が1月25日に一〇二円、2月14日に一四六円物品肥料の購入代金として出資している。経営状況は所謂自転車操業であり、出資金だけでは運営できず、藤三郎の持ち出し分が多かった。従って、購入先への支払いも滞り勝ちでしばしば支払い督促をうけている状態であった。

 ではどんな物品が購買されていたのだろうか。最も多くしかも重要だったものは肥料である。1897年(明治30)頃から人肥にかわって化学肥料が利用されるようになり、当地方にもそうした傾向が伝えられ、需要がたかまったのだろう。硫安(硫酸アンモニア)・過燐酸石灰・生石灰・チリ硝石・大豆粕等が販売されている。次いで多いのは食品で、砂糖・塩・醤油・酒粕・海産物等、また燃料として石油・木炭、 細かい日用雑貨ではローソク・線香・油紙・障子紙・桧笠・カッパ・盆花・盆ゴザ、そして道具類として草刈鎌・桑切り鎌・宮島(杓子)・蚕具等、苗木から蔬菜類の種子まで販売された。今日のスーパーマーケツトの小型判のようであった。

 個人の側から購入利用状況を見てみょう。次に示したものは1921年(大正10)の組合員・栗原侃一家の「物品買入覚帳」の一部である。購入者はこの帳面に記載してもらい、現金なしで物を買うことが出来た。購入品は前掲のものとあまり変わらないが、裏地・シャツ・股引・学帽・巻ゲートル・手拭といった衣料が目に付く。十年の間にやや変わってきた。

  買入月日  金 額  品名・数量、

  2月4日    40銭   釘・60匁釘

  3月2日    10銭   縫糸

  3月2日    1円38銭   裏地・地縞1反

  3月29日     30銭   白足袋

  【中        略】

  1月26日    20銭    お玉2本

  1月26日    25銭    ひしゃく1本

  1月26日    10銭    水引

  1月26日   1円      小桶

 大正11年7月27日 右計19円88銭・利子2円33銭 相済 青木

 栗原家の場合は1921年(大正10)2月4日から(途中省略)翌年の1月26日まで記載があり、1922年(大正11)7月27日に「青木」(青木五三郎か)のサインがあって、「相済」となっているので、この時に支払いをしたのであろう。この帳面の表紙裏の諸注意に「掛買金ハ毎月末ニ必ズ支払スルコト」とあるのを見れば、これは明らかに規則に反している。一年以上も支払いがない上に、延滞の利子が一割一分強というのでは、経営状況がおおらかと言おうか、杜撰(ずさん)といわざるをえない。それでも信用購買販売組合の名前の通り信用に守られながら永続していった。

 1932年(昭和7)8月、三十年間にわたって組合長を勤めた市川藤三郎が死去し、創立の同志であった青木五三郎にその職を譲った。1936年(昭和11)、安藤寸介が組合長に就任し、翌年創立者の功績を讃えて故市川藤三郎へ感謝状が贈られた。感謝状が贈られるまでもなく信用組合は頼母子講や金融機関の代替でもあったし、生活必需品の低廉販売等によって農村生活の向上に益することが多かったことを思えば先見の明のあった藤三郎の功績は大きかったと言えよう。1942年(昭和17)、組合長は藤三郎の長男武市に引き継がれたが、未曾有の戦争のために、1944年(昭和19)に七郷村農業会に吸収され、やがて終戦とともに七郷農業協同組合へと移行されていった。

 資料:市川貢家文書(二次整理分)1493 感謝状

    栗原靖家文書84 物品購入覚帳

    仮事務所前の写真

百年前の年賀ハガキ

 今年も大変年賀郵便が輻輳しましたが、ここに示した一枚の写真は今から百年程前、1893年(明治26)、小石川(東京)の宮島栄三郎から越畑(七郷)の市川常吉に宛てた「郵便はがき」による年賀状です。この市川家には明治期の「郵便はがき」が千百余枚保存されていますが、その中で最も古い年賀の郵便はがきです。

 葉書の文面は御定まりの「謹賀新年」の賀詞に続いて「大廈(家)将来の万祥を祈り併平素の疎濶謝す」と挨拶文を添えていますが、それだけではなく次に「明治廿六年略歴」として、黒地に白抜きで新暦による祝日・日曜・雑節等を表記し、それに並べて「仝年旧暦」として、八将神の吉凶・庚申の日・甲子の日・八専・種まきの日等々まで印刷されています。1872年(明治5)太陽暦(新暦)が採用されますが、なかなか定着せず、明治二十年代になってもその励行遵守が促されていた状況を考えると、新暦もよいが旧暦も捨てがたいという気持がよく現れた面白い意匠となっています。なお、活字印刷による葉書も見られる頃ですが、これは旧来の印刷術である木版で作られたもので、今日に残る貴重な一枚の年賀葉書でしょう。

 官製「郵便はがき」は郵便制度が創設された1871(明治4)の翌々年、1873年(明治6)12月に発行されたのが始まりです。これが年賀状として利用されるようになったのは1879年(明治12)頃からで、1890年(明治23)の1月1日から三日間は賀状が急増したとつたえられています。こんな気運に乗ってこの地域にも「郵便はがき」の年賀状が現れたのでしょう。その混雑の緩和のため1899年(明治32)、年賀郵便の特別取扱制が実施されるようになりました。暮れの十二月二十日から三十日までに出された年賀郵便は元旦に配達されることとなつたのです。

 ところが日露戦争が始まった1904年(明治37)には、七郷村長久保三源次の名において、「戦地ニ在ル軍人軍属其他従軍者ニ宛テ発送スル年末年始ノ賀状ヲ廃止スベキ事」という回章が出されました。文中「其筋ヨリ」としていますから全国的にこの措置はとられたのでしょう。また1940年(昭和15)から1947年(昭和22)までは戦争のため年賀の特別取扱いが中止されるという躓(つまず)きもありましたが、1949年(昭和24)「お年玉付年賀はがき」が売り出され、今日まで国民的行事として毎年々々盛況の中に郵便はがきによる年賀状の交換が行われてきたと言えるでしょう。

     博物誌だより126 (嵐山町広報2005年1月号)から作成

金泉寺祖舟和尚と筆子塚

 越畑金泉寺境内の一隅に写真のようなさして大きくない一基の石碑がある。碑面は「当十六世」とあり、基壇に「施主筆子中」と刻まれている。「当十六世」というのは金泉寺十六代の住職ということである。金泉寺過去帳によれば、十六世は「当寺拾六世東外宗舟大和尚 弘化三丙午三月於当寺隠居其後月窓寺江住職於彼寺遷化」となっている。また1846年(弘化3)、日影村の真光寺からの「差上申遷化届書之事」という文書に、「別所村月窓寺祖舟長老…略…当三月十九日寅之下刻遷化仕候」とあり、東外宗舟大和尚は金泉寺十六世祖舟であることが明らかである。従ってこの小さな石碑は祖舟の墓石であり、筆子達によって建てられたものと考えられる。

 前出の過去帳によれば、祖舟の生国は加賀国金沢で、武士の家に生まれたが、金沢の鶴林寺に入って修業のうえ出家した。1818年(文政元)、先住禅喬の後任として金泉寺住職となり、在任十七年間、後住本瑞に席を譲り隠居、その後別所村(現ときがわ町)月窓寺へ移転、1846年、彼の地において遷化したのである。墓石に「施主筆子中」とあるのは、彼が金泉寺において読み書きを教えた筆子達が施主となって建てたものであることを意味している。云うところの筆子塚でもある。元来筆子塚は寺子屋(近世の初等教育機関)の生徒(寺子)が恩師(師匠)の遺徳を顕彰するために建立したものである。即ち、祖舟の筆子塚の存在は金泉寺に寺子屋があり、付近の子弟を集めて読み書きえを教えたことを物語っている。1852年(嘉永五)、祖舟和尚の七回忌が営まれた。「十六世和尚七会忌香資授納控」には吾兵衛・善兵衛・吉左衛門・新右衛門等三十六人の名前が書かれ、中にはもと・みきといった女性の名も見られた。総額七貫弐百文にもなったが、恐らくここに香資を寄せた人々の多くは教え子であったのではないだろうか。祖舟和尚が近世越畑地域の初等教育を担ってきた功績は大きいといわざるを得ない。

 

 蛇足ながら、1820年(文政3)、祠堂金の寄付を勧進、七十人から多額の金員を集め以来諸霊の祭奠、堂宇の補修等の資となした。また、1821年(文政4)には「不許葷酒入山門」と刻んだ石碑を山門の傍らに建て、不浄なものや心を乱すものは寺門内に入ることを許さないという厳しい禅宗の教義を標榜し、寺の格式を整えるのに大きく貢献した。なお、近年新潟県小国町にある上谷内観音堂[1827年(文政10)再建、創建者男谷検校の孫恵山尼]の勧進帳に「武州比企郡越畑村金泉寺祖舟和尚観世音一体」とあり、祖舟が観音堂に観世音菩薩像を勧請していたことがわかった。因果関係は不明であるが、祖舟和尚の力量の大きさと、仏の道を説く者の真摯な姿を見ることが出来る。

Latitude : 36.077415
Longitude : 139.302056


久保三源次年譜

1872年(明治 5)  8・11 久保常右衛門の長男として誕生
1881年(明治14) 11・ 2 椙山学校小学科第4級 優
1883年(明治16) 12・ 5 家督代替願を戸長に提出認可される(16歳) 
1884年(明治17) 10・15 椙山学校小学初等科卒業(埼玉県) 
1884年(明治17) 11・17 一等賞下される(埼玉県)
1886年(明治19) 10・30 昇進学校中等小学第1級卒業(15歳)
1888年(明治21)     ちよ(明治5年生れ)と結婚(17歳)
1889年(明治22) 4・〜6・ 改良清温育 養蚕日誌を書く(飼育者:久保三源次)
 【1899年(明治22) 4・1 町村合併により七郷村誕生】
1892年(明治25) 12・ 1 要塞砲兵第1連隊(横須賀)へ入隊(21歳)
1893年(明治26)  3・  貴治誕生
1894年(明治27)  2・23 実弟義三郎死去
1894年(明治27)  3・ 3 貴治死去
 【1894年(明治27)8〜1895年(明治28)4 日清戦争】
1894年(明治27) 11・29 陸軍砲兵二等軍曹に昇進(23歳)
1895年(明治28)  1・  出戦命令下る(24歳)
1895年(明治28)  5・25 野戦首砲廠旅順口支部へ着任
1895年(明治28) 11・30 除隊、帰国
1896年(明治29)  2・23 凱旋により旡邪志同盟会頭井上久五郎より石杯を受く(25歳)
1897年(明治30)  8・ 7 七郷村収入役職務代理 〜1899年(明治32)10・11(26歳〜28歳)
1899年(明治32)     日本赤十字社員・日本尚兵義社社員となる
1901年(明治34)  4・  七郷村村会議員に当選(30歳)
1902年(明治35) 11.28 七郷村助役に就任 〜1903年(明治36)4・8(31歳〜32歳)
1903年(明治36)  4・ 8 七郷村村長に就任 〜1907年(明治40)4・7(36歳〜36歳)
1903年(明治36) 12・17 小学校統合問題より村長辞職
1903年(明治36)     七郷村軍友会設立(32歳)
 【1904年(明治37)2〜1905年(明治38) 9 日露戦争】
  12・12  充員召集により後備歩兵第49連隊へ入隊 
1905年(明治38)     日露戦争の功により勲七等青色桐葉章を受く
1905年(明治38)     愛国婦人会七郷村委員となる
1905年(明治38)     七郷村農会長となる
1910年(明治43)  2・  在郷軍人会初代分会長に就任(39歳】
1911年(明治44) 10・18 再び助役就任 〜1912年(明治45)3・4(40歳〜41歳)
1912年(明治45)  3・ 4 七郷村村長に再任 〜1916年(大正5)1・8(41歳〜45歳)
1920年(大正 9) 12・  比企郡会議員に当選(49歳)
1920年(大正 9)     日本赤十字社に尽力した功により木杯を受く
1927年(昭和 2)     昭和天皇即位の大礼により記念章を受く
1946年(昭和21)  8・ 4 75歳にて永眠。戒名:慈雲院三徳源居士
1953年(昭和30)  3・21 妻チヨ83歳にて永眠。戒名:観光院千峰妙性大姉

友愛に貫かれた儀平次と三源次の生涯

 これは明治という日本の大変革期に越畑(おっぱた)に生まれ、友愛を育(はぐく)み人間愛に包まれて、熱い心で軍務に、村政に精励した馬場儀平次(ぎへいじ)と久保三源次(さげんじ)の物語である。

 儀平次は1868年(明治元)に、三源次は五年後の1872年(明治5)にそれぞれの家の長男として誕生した。学校の制度が目まぐるしく変り、就学率の極(きわ)めて低かった時代(明治14年就学率全国平均45%)に、二人とも八年間にわたる小学校教育を終えた(椙山(すぎやま)学校・昇進(しょうしん)学校)。しかも度々、優等賞を受ける俊才(しゅんさい)であった。栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し、とはこのことを云うのであろう。後年二人の書いた書簡を読むにつけ、その学才の高さが、今日の大学卒業者に比(ひ)するとも劣らないものであることに驚かされる。

 儀平次は卒業後間もなく十六歳にして馬場家の家督(かとく)を相続し、十八歳で妻帯、若くして一家の生計を荷(にな)ってゆく事となった。そして、1888年(明治21)年徴兵(ちょうへい)によって歩兵第十五聯(れん)隊(高崎)へ入営(にゅうえい)、1891年(明治24)陸軍上等兵で除隊した。入れ替わりに翌年、小学校卒業以来農事に勤(いそし)み、盛んになってきた養蚕業にも手を染め、改良温育法の研究に取組んでいた三源次も徴兵され、要塞砲兵(ようさいほうへい)第一聯隊へ入隊した。

 その後を追うように12月6日儀平次が三源次へ送った手紙がある

「玉書謹(つつしん)デ拝見仕(つかまつり)候、陳者(のぶれば)足下恙(つつが)無(な   く)御入隊ニ相成欣喜(きんき)ノ至ニ奉存(ぞんじたてまつり)候(中略)君ト手ヲ分ツ、独 リ悲ニ不堪(たえず)(略)嗚呼(ああ)、是ヨリ以後ハ君ヲ措(おい)テ誰(だれ)ヲカ友トセン(略)生(せい)、今ヨリ一心ヲ君ノ勤務中ト同ウシ決シテ生モ他出ヲ禁ジ諸事控(ひか)エ目ニシテ月日ヲ送ル(略)君ヨ遠隔(えんかく)ナガラモ兄弟ノ約ノ如クセヨ只、生ハ君ノ名誉ヲ挙ゲテ帰国セン事ヲ日ニ月ニ楽(たのし)ムノミ尚(な)ホ三十日ノ夜、又昇堂(しょうどう)シテ御尊家一同取分(とりわけ)君ノ妻君(さいくん)其他妹樣方ニ至マデ兄上樣ノ御不在中ニハ決シテ遊(あそび)日(び)ナリトモ可成(なるべく)丈(だけ)他出セズ、只(ただ)母上樣ノ御合手(おあいて)ヲ致シ、他ヨリ必ズ不名誉ヲ来タサザル事ニ注意(略)生不肖(ふしょう)、将来益(ますます)貴家ニ力(ちから)ヲ尽シ、百事不都合(ふつごう)出来ザル事ニ注意可致(いたすべし)(略)次ニ御老母樣ヤ御母上樣其他妻君(さいくん)御妹共ニ至ル迄心ヲ一番ニ止メ、日々農業無抜目(ぬけめなく)致シ居(おる)心掛ニ付、君ニモ其心ニ成リテ御勤メ被下度(くだされたく)願上候(略)君ノ御実家ハ御女中計(ばかり)ニ付、生等不足ナガラモ充分御注意可致(いたすべく)候トモ尚貴殿ヨリ御書状ヲ以テ不在中ニ充分注意シ諸事不都合アラザル様可致事(いたすべきこと)ヲ御送付相成度候也(あいなりたくそうろうなり)」

 儀平次の切々とした友愛の情あふれ、残された女性ばかりの久保家を護り、三源次が後顧(こうこ)の憂(うれ)いなく軍務に精励出来るように激励する姿を偲ぶことが出来よう。

 1894年(明治27)年3月3日悲報が三源次のもとに届いた。

「如何(いか)に貴家は不幸なる哉(かな)、又不幸の嵩(かさ)みたる哉(かな)、談ずるにも生、涙数降(すうこう)して談ずるを得ず、(略)貴兄の実弟儀三郎君永々の病気の処遂に去月二十三日を以て無常の風に導かれ、未だ其の涙の干(かわ)かざる中に大切なる貴兄の一子貴治(たかじ)様(略)寿命とは申す者の不憫(ふびん)なる哉(かな)、遂(つい)に本月三日黄泉(こうせん)の客に相成(あいな)り(略)君よ君一心を変ずる勿(なか)れ、君一心不乱(ふらん)に軍業勉励し(略)決して悪酒抔(など)呑(の)む事勿(なか)れ、必ず呑(のみ)玉(たま)ふなよ、思止るは男子なり」

 実弟の死はおろか、前年に生まれた愛児貴治(たかじ)をも失った三源次の胸中は如何許(いかばか)りか、それでも儀平次は一心不乱に軍務に精励せよと励まし、その身を案ずればこそ悪酒を禁じている。
 1894年(明治27)年8月、日清戦争勃発(ぼっぱつ)、31日儀平次は召集令状(しょうしゅうれいじょう)を受領(じゅりょう)、後事を馬場松太郎に託(たく)して、勇躍(ゆうやく)高崎の聯隊へ入隊したが、9月11日突然、過員により帰休(ききゅう)を命ぜられ、泣く泣く帰郷することになった。しかし、儀平次はこのままでは引き下がらなかった。

 10月31日、「天皇陛下ニ御厚恩ノ万分一ニモ奉報(むくいたてまつ)ラント一心不乱 義ハ山岳ヨリ高ク死ハ鴻毛(こうもう)ヨリ最ト軽キト覚悟シテ郷里ヲ出発シタルニ其精神ヲ貫徹(かんてつ)スルヲ得ザルハ不幸之レヨリ大ナルハナシ」という熱い赤心(せきしん)は[従軍志願意見書]を提出させるに至った。当時、既に砲兵軍曹に昇進していた三源次はこの相談を受け、次の一文を送っている。

「追白(ついはく)、貴兄事(こと)従軍志願致準備(じゅんびいたす)ニテ、余ニ御相談被下(くだされ)、誠ニ敵(てき)概(がい)ノ御精神実ニ感ズルニ余リアリ、然(しか)レドモ君ハ一度兵役ノ義務ヲ終リタルニアラズヤ今回トテモ吾々モ同様従軍ノ叶(かな)ハザレバ素(もと)ヨリ残念ノ義ニ候得共(そうらえども)、是互(これたがい)ニ之ヲ忌避(きひ)シタルニハ無之(これなく)、何レモ命ニ依テ成ル者ナレバ是非ナシ、世ニハ少モ其義務ニ服ザル者モ有ルニアラズヤ、君ヨ其念ヲ絶(た)チ、家ニアリ殖産(しょくさん)事ヲ盛大ニシ、余暇ニハ壮年輩(はい)ヲシテ鼓舞(こぶ)、敵愾(てきがい)気性ヲ発奮(はっぷん)スル事ニ勤(つと)メ、父母ノ膝下(しっか)ニアリテ忠孝二つヲ全(まっとう)セヨ、是余(よ)ガ深ク希望スル所ナリ、敢(あえ)テ愚(ぐ)意(い)ヲ吐露(とろ)ス」

 即ち、血気(けっき)にはやる儀平次を諌(いさ)め、儀平次またよく其の言を入れ、七郷・八和田・菅谷・宮前聯合忠勇義烈会を主唱(しゅしょう)し、会員百七十余名を集め、軍資金を献じ、大いに敵愾心(てきがいしん)を鼓舞した。

 1895年(明治28)1月20日、三源次から儀平次宛に「故郷ヲ懐(おもい)テ」と題する一書が送られて来た。

「かりにも他郷に身を寄せて誰れか故郷を懐はざる者あらん、己れの生れし方を恋はざる者あらん、況(ま)して我々の如き身の自由ならざる者に於(おい)てをや、都は如何に慰(なぐさ)むる者多きと雖(いえど)も故郷の好(よ)きにしかず、己れ北の空を眺むる時寝る時未(いま)だ一たびも故郷の老母の事、母の事、親友の事或は思を通(かよわ)せし乙女の事(笑い玉ふ(たまう)な)家事の整頓及び火事の事思い出さぬ事とてなし、山又山、川又川幾(いく)数(かず)をへだてぬる処に我が故郷は有るらん、恋しき母は居(お)るならん、親しき友は居るならんと想ふ心のやるせなく、山時鳥(やまほととぎす)を聞くに付、森の子がらす見るに付、己が心如何(いか)ならん、(略)嗚呼(ああ)、思へば余が兵役に服するの前、放蕩(ほうとう)以て君及び父母の意を傷(そこな)ふ事数回其不幸の罪何事か之に加へん、然(しか)るに未だ一日も其意を安んぜし事なく郷を離れ、殊(ことに)、日清開戦以来層一層(そういっそう)其我が為めに君又家族の慮(りょ)を煩(わずら)わし何を以てか之に報(むく)ゆることを得(え)ん、転(うた)た悵然(ちょうぜん)として哀愁極(きわまり)て為(な)す所を知らず然(しか)りと雖(いえども)、古(いにしえ)に既往(きおう)は咎(とが)めずと云う語あり、故に日に月に其精力練り、上(かみ)は皇恩の万分の一に報い、下(しも)は自家の功名を成(な)し、以て父母の名顕(あらわ)さんとす、君之を諒(りょう)せよ」

 遠く故郷を離れて軍務に従事する三源次が故郷を偲(しの)び、祖母や母、親しき友のことを想うやるせない心情がよく伝わってくる。こうした状況下におかれた義兄弟のために儀平次は1892年(明治25)年から1895年(明治28)まで、何と四十六通の手紙を送っている。或いは農事や養蚕の事、火事・洪水の事或いはお祖母(ばあ)さん・お母(かあ)さん・奥(おく)さんの様子を伝え、そして久保家の守護を誓い、健康を気遣(きづか)いながらも軍務への精勤(せいきん)を励まし続けた。

 同じ年の3月儀平次は再び応召(おうしょう)され、高崎補充大隊へ入隊、新兵教育掛(かかり)を命ぜられる。一方三源次にも1月出戦命令が下り、旅順口へ着任したが、幸いにも日清戦争は四月講和条約が締結(ていけつ)され、戦争が終わった。儀平次は6月に帰郷、三源次も11月には除隊となって帰国できた。以来二人は七郷村の村政に深く関(かかわ)って行くことなる。
 先ず1897年(明治30)、三源次は二十六歳の若さで七郷村収入役職務代理となり、1899(明治32)には儀平次も又三十二歳で収入役職務代理となった。三源次は1901(明治34)年には村会議員に当選、翌1902(明治35)年には助役、1903年(明治36)には三十二歳で村長に就任した。

 時に1904(明治37)年2月、再び戦争勃発、即(すなわ)ち日露戦争である。この頃儀平次は三源次村長のもとで助役代理の職にあったが、そこへ召集の報(しらせ)あり、同年7月21日、村長三源次は申報書(しんぽうしょ)をもつて留守(るす)第一師団長阪井重季宛に「馬場儀平次ハ本村助役在職中ニシテ戸籍及徴発(ちょうはつ)事務主任者ニ有之(これあり)代人ヲ以テ代ヘ可(べか)ラザル者ニ候」と具申(ぐしん)、第一師団参謀(さんぼう)渡辺、これを諒(りょう)とした。三源次は行けば死ぬかもしれない戦争に、親友儀平次をゆかせたくなかった。しかし、戦火は拡大し12月には遂に、儀平次は後備歩兵第49聯隊に入隊を命ぜられ、「儀平次ガ 行末(ゆくすえ)如何(いか)ニト 人問ハヽ 水ノ流ト 吾(われ)ハ答ヘン」の一首を残して、1905年(明治38)1月には海外へ出征、満州各地を転戦、儀平次は三十八歳になっていた。もはや老兵である。4月には奉天に達し、そこから父親へ宛て一書を送っている。

「謹啓(きんけい)仕候(つかまつりそうろう)、陳者(のぶれば)御地方蝶舞、鳥歌ふの好期節に相成候(あいなりそうろうこう)、御家内樣愈々(いよいよ)ご清祥(せいしょう)之由奉欣賀候(きんがたてつりそうろう)、(略)来信に依れば覚司(かくじ)は今回励農会会計長に選任被致居候由(いたされおりそうろうよし)、就ては諸事務は金銭等之取扱ひ(い)を為す役目に付随分(ずいぶん)注意周到(しゅうとう)にして出務を要す、何共なれば人の信用不信用は只(ただ)、金銭上に止まり、些少(さしょう)たる事も後悔ゆとも其詮(せん)なきものなれば、厳重ニも熱心に注意致すべき事に御座候(ござそうろう)、古語に曰(いわく)、一年の計は元旦にありと、金言なる哉(かな)、人の一生は未成年之うちにあり宜敷(よろしく)善良に心掛けべき事に御座候(ござそうろう)間、御祖父様にて御教訓相成度候(あいなりたくそうろう)、(略)次に過般家政之教訓申上候得共(そうらえとも)、猶(なお)又(また)、小生心配に付左に一言申進候(もうしすすめそうろう)間宜敷(よろしく)ご承引被下度候(くだされたくそうろう)、早々不備(ふび)
       教訓
              覚嗣ニ告(つぐ)
一、予不在中は取分(とりわ)け母ニ幸ニ、祖父ニ順ニ、叔母姉妹弟等ニ信ニ、以て世人ニ善ニ交誼(こうぎ)を結ぶべし、以て父の帰国を待てよ
              ちよニ告
一、父ニ幸ニ妹ニ信切ニして、子供等を善良ニ教育し、一家之和ニ注意を加へ、吾(わ)が不在中ハ専(もっぱ)ラ夫の名誉上ニ留意する事、日夜忘却(ぼうきゃく)すべからず、以て我家祖先之恩二報(むく)ふべし、以て夫の帰国を待てよ

              かんニ告
一、其許(そこもと)は随分不仕合(ふしあわ)せの事なれば、必ず百般ニ堪忍(かんにん)して家業ニ従事し、兄の無事帰国するを待つべし
右之者は吾不在と雖(いえど)も主人在宅と心得て百事ニ従事相成度(あいなりた)し、外しま及つき以下皆老父之命ニ従い一言も反(そむ)く事なき様致し度し、此教訓は各自眠間(ねむるま)も忘るヽ勿(なか)れ、若吾が意ニ反く事有ば其罰(ばち)必ず宥(ゆる)すべからず、夫れ留意せよ

              

 三源次出征中は久保家の残された女性たちを気遣い、何くれとなく尽力して来た儀平次だったが自分も応召され戦場に出てみると、自分の家の人々が心配になり、厳しくも懇篤(こんとく)な忠言を長男覚嗣、妻ちよ、実妹かんへ与えたのである。戦場にあった人々は儀平次も三源次もみんな家郷(かきょう)をしのび、残してきた人々を気遣ったことだろう。

  1905年(明治38)9月には戦争も終決し、11月に儀平次も無事復員した。日露戦争中、三源次は応召されることもなく、七郷村村長として1907年(明治40)年4月まで銃後(じゅうご)に在って村治に勤め、軍友会(後の在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)を設立し、愛国婦人会委員となって、婦人層や在郷の壮年層の指導、戦意の高揚(こうよう)につとめた。また農会長を兼任(けんにん)農政にも深く関与した。

 1911年(明治44)10月再び助役に就任、翌年には村長に再任された。一度ならず二度までも村の要職を歴任する事になったのは,いつに彼の人徳と熱誠(ねっせい)に拠(よ)るものと思われる。1916年(大正5)まで村政に尽瘁(じんすい)、遂に1920年(大正9)、比企郡会議員に当選、県政にまでかかわって力を尽くすこととなった。儀平次は三源次ほど華々しく表面にたって活躍はしなかったが、その後二十余年の長きにわたって、区長、道路委員、衛生委員等を歴任、三源次の村政を支え、その良き理解者・協力者となって村の諸問題の解決に尽くした功績は大きく、儀平次あっての三源次と云うとも過言(かごん)ではない。

 儀平次は1936年(昭和11)9月、熱く国を愛し、友愛と人間愛につらぬかれた一生を終わった。六十九歳であった。三源次は軍籍にあって手柄を立て出世もしたが、それ以上に村にあって再度助役・村長そして郡会議員を歴任、長きにわたって村治に尽くした功績は偉大であった。1946年(昭和21)8月、七十五歳にして永眠した。後年、五男茂男は歌碑を建ててその功を称えた。

 碑文に云う

  人からは 土龍(もぐら)村長と 言われつヽ

         我父は村の道を拓(ひら)きし(土屋文明選)

太陽暦と国の祝祭日

 明治五年十一月太政官は「今般太陰暦(たいいんれき)ヲ廃シ太陽暦(たいやうれき)御頒行(ごぶんこう)相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候」と布告し、「諸祭典旧暦月日ヲ新暦日ニ相当シ施行可致事太陽暦一年三百六十五日 閏年三百六十六日四年毎ニ置之」とした。従来の暦は正確には太陰太陽暦というので、小の月を29日、大の月を30日とし、12ヶ月で354日とし、太陽の運行の1年365日に合せるために19年間に7度の閏月を置いて調整して来た。布告文の中で「太陽暦ノ如キ各国普通之ヲ用ヒテ、我独リ太陰暦ヲ用ユ、豈(あに)不便ニ非ズヤ」と述べているが、月の運行を主とする太陰暦に矛盾がある上に、我国も開国以来諸外国との交際、貿易が頻繁となると不便を感ずるのは当然であった。しかし、一般国民の生活としては江戸三百年以来親しんで来た旧暦を一朝にして改めることはむずかしかった。政府も二、三年太陽暦の下で太陰暦を比較したならば、「下民モ必ズ其便ヲ覚フベシ」と考えていた。ところが1876年(明治8)正月を迎えるに当って「農事又ハ金銭融通之都合ヲ以テ旧暦正月ニ至リ休業慶祝可改旨協議罷在候宿村モ有之哉ニ相聞」ということで、祝祭日も政府の思う通りに行われず、布達第百廿五号をもって「自己之都合ヲ以旧暦相用候義ハ最不相す事ニ候 一月一日は不及申兼テ布達之通諸祝日相祝可申様」と区長を以て懇切に説諭するよう指示している。降って1887年(明治20)12月比企郡平沢村から連合戸長に提出した「御請届」によれば「積年之習慣一時ニ蝉脱セス政令謹順ナラザル向モ有之」と改暦以来15年を経過しても尚旧暦に拘泥して、新年の佳節及国の祭日も区々で、これでは忠君愛国の臣民の分にも悖(もと)り、外国人に対しても愧(は)ずべきことであるとして、堅く新暦を守ることを誓約している。続いて布達百廿五号は「太陽暦遵守奉表祝意候ニ付テハ左ノ条項ヲ履行スベシ」と言葉力強く命じている。即ち祝祭日が列挙されているが、今日のそれと比較すると大部趣を異にしている。
    上段(旧暦)                   下段(新暦)

一月一日   松飾国旗掲出        一日 元旦
         神拝年礼ノ事         第二月曜日 成人の日
   三日   元始祭
   三十日  孝明天皇祭
二月十一日 紀元節              十一日 建国記念の日
三月廿日   春季皇霊祭                    二十日 春分の日
四月三日   神武天皇祭          二十九日 みどりの日
五月                       三日  憲法記念日
                          四日  国民の休日
                          五日  子供の日
七月                       二十日  海の日
九月廿三日 秋季皇霊祭          十五日 敬老の日
                          二十三日 秋分の日
十月十七日 神嘗祭             第二月曜日 体育の日
十一月三日 天長節             三日  文化の日
   廿三日 新嘗祭             二十三日 勤労感謝の日
十二月                      二十三日 天皇誕生日

 上段、当時の祝祭日は神と天皇を慶祝する日であり、天皇制による神国日本の国体をよく表している。なお最後に「旧暦年賀及び五節句(*)等は断然廃止の事」と結んでいる。旧暦による行事が横行していたことが窺える。
 また、文中「御国旗ヲ掲出スル事以下同断」とあり、祝祭日には国旗を掲出する様指示されている。1873年(明治6)11月布達第125号にも「御国旗相掲け可奉祝之御日柄及布達」の文言があり、既に10月14日定められた祝祭日に国旗を掲出するよう布達されていた。掲出すべき国旗「日の丸」についてはその発生に諸説あるが、1873年(明治6)10月10日熊谷県令河瀬秀治が各区正副区長へ出した告文の中に「日の丸」の旗の形状規定を示している。「流曲尺ニテ二尺五寸 竪壱尺七寸五分 日ノ丸差渡し一尺五分 先ノ明七寸五分 乳ノ方明七寸」、これれをメートル法に直して図指すると左の如くになる。国旗の制定の時期を確定することはむずかしいが、明治三年十月の太政官日誌の御布告写によれば「海軍御旗章、国旗章別冊之通ニ候条」とあって図示されたものと同じである。この国旗(日の丸)を祝祭日には掲出せよということであった。後世、祝祭日を旗日と呼んだのはその名残りであろう。

*:五節句
  正月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、
  七月七日(七夕)、九月九日(重陽)

【参考資料】
  井上清家文書 ���   4 内外各種新聞要録附録 明治五年十一月
  中村常男家文書 ���546 用留 明治五年
      仝    ���  551 用留 明治七年
  内田喜雄家文書 ���102 御請届 明治廿年十二月
  『新聞が語る明治史』 明治元年〜明治廿五年 (原書房)
  『日本史広辞典』 (山川出版)
  『近代総合年表』 (岩波書店)

古里瀧泉寺のこと

 江戸時代の瀧泉寺に関する記録は極めて少ない。文化・文政期に編纂された『新編武蔵風土記稿』、明治十年代に書かれた『武蔵国郡村誌』、1896年(明治29)合綴(ごうてつ)された「村誌寺社明細帳」等によって本末寺、寺領等について勘案してみよう。
 本寺の開山は1364年(貞治3)に示寂した僧侶とされているので、名前は判然としない伝説的な事柄ではあるが、江戸開府以前二百四十年、南北朝時代に創建された古い寺ということになる。また本寺は山王社即ち日吉神社の別当(神仏習合思想により神社に設けられた神宮寺)勧理院(城琳寺)の末寺として建てられ、金剛山金州院、光林寺と称されていた。1650年(慶安3)に中興の祖真海が出るにおよんで、寺号を瀧泉寺と改称している。本尊に「弥陀を安ぜり」とあるから、ご本尊は今も変わらぬ「阿弥陀如来」であったと思われる。1777年(安永6)には光海出でて本堂を再興した。寺域は東西二十一間・南北三十八間、面積九〇〇坪(少々計算が合わない)であったという。
 1869年(明治2)8月の書付文書を見ると寺名が「天台宗世尊院触下 万年山瀧泉寺」となっている。「勧理院」が駒込千駄木(東京・文京区)にある「世尊院」と変わり、山号も「金剛山」から「万年山」になっている。本尊が「阿弥陀如来」というのはかわらない。除地(朱印地・見捨地以外で租税を免除された土地)が二千九百坪とあり、広大に聞こえるが舳執神社の社地が二千九百二十五坪あり、瀧泉寺は寺領を共有した形であったのでこのよう記したのであろう。その後1871年(明治4)になって、神仏分離令(1868年の政令)のためであろう、社地を改めて分割し、二千五百七十七坪を神社分に、三百四十八坪を寺分とした。
 なお1871年(明治4)社寺の所領の上地令が出るに及んで、時の戸長安藤貞良は県令にたいして「社寺境内外取調書」を提出している。それによれば除地は四反壱畝五歩となつているが、内訳をみると境内一反七畝四歩、墓地一畝歩で他は畑二反三畝一歩すべて上知され、直作人へ払い下げられている。周囲は上知官林・上知畑地となつている。

   【安藤文博家文書408の図 準備中】

 また、「寺社明細帳」や『郡村誌』は一様に「維新の際浅草寺末となる」としているが、1886年(明治19)の瀧泉寺世話人安藤貞良と浅草寺執事との往復書簡を見ていると、浅草寺を本寺とするには少々曲折があったように思う。1886年1月6日、安藤貞良は塩村の常安寺立会いの上取り調べた寺明細帳を浅草寺へ送って奥印を願い出たところ、2月2日返事があって「然る所当寺従来末寺名帳に該瀧泉寺儀ハ相見へ不申候」と、寺明細帳四通を返戻してきた。要するに瀧泉寺は浅草寺の末寺ではないので奥書は出来ないということであった。その後2月17日に至って浅草寺執事から「本月十二日付書簡を以云々御申越之旨正ニ致承知候」との書簡がもたらされた。2月12日付の安藤貞良・常安寺(塩村の兼務寺)の朝倉亮全からの再度の請願に応えて、末寺として奥書したという知らせであった。

 1886年(明治19)11月の「寺属明細取調書」において
   「 埼玉県武蔵国比企郡古里村外一番
      本寺東京浅草寺末
      等外寺 金剛山瀧泉寺 」と堂々と記載されている。この取調書によれば、
    本尊 弥陀如来
    本堂 間口五間×奥行五間
    庫裏 間口四間三尺×奥行五間三尺
    境内坪数 四百三十八坪
    境外所有地 畑弐畝五歩(中内出甲七百六十五番)
    檀家 拾壱軒
とあり、所々に検閲の印が押され、末尾に略絵図が付けられている。

   【安藤文博家文書561の図 準備中】

 本末寺・寺領等の関係についてその推移を見て来たが、挿入された二枚の略絵図に本堂・庫裏・墓地は示されているが「鐘楼」は見当たらない。鐘撞堂や梵鐘はあったのだろうか。
嘉永六年(1853)丑十一月、瀧泉寺の留守居恵前房が書き写した文書がある。「右瀧泉寺釣鐘破れ候ニ付今般相払」と、即ち鐘がこわれたので廃棄した。「釣鐘出来之節切付可申候」として、元禄四年(1691)辛未八月に作られた鐘銘が書き残されている。鐘楼はともかくも梵鐘は嘉永六年(1853)まであったことが分かる。次に釣鐘を創る時は元禄四年の鐘銘(壊れた釣鐘に刻まれていたもの)を彫刻してくれという意味で全文を書き残した。
鐘銘は「経云若打鐘時三悪道一切苦悩皆停止」に始まる九行百三十七文字の鐘撞の功徳を説いた名文が綴られている。銘文の作者は金剛山瀧泉寺秀源法印であり、施主は古里村安藤長左衛門外三人、鋳物師(いもぢ)(鋳物職人、鐘の鋳造者)は江戸の人で長谷川伊勢守藤原国永となっている。

   【安藤文博家711 鐘銘原文】

 その後「釣鐘出来之節」はあったのだろうか。年不詳ながら鐘について、江戸深川の釜屋七左衛門が瀧泉寺に宛てた覚書が残されている。文面に
   「一口 差渡シ壱尺八寸鐘壱本 
        貫目四拾五貫附
       代金拾三両壱分也  
     右之通リ念入鋳立差上ケ可申候 」とある。
 鐘は直径54.5僉⊇鼎168圈大釣鐘とは云い難いが立派なもので、代金十三両一分と見積もっている。しかしこの釣鐘が出来たとか、出来なかったという証拠はない。ただ年不詳といったが「申六月二十日」との記載があり、鐘の破損廃棄の嘉永六丑年以降の「申」の年は「万延元申年(1860)」か「明治五申年(1872)」が考えられるが、明治五年頃は廃仏棄釈の横行した時代であり、万延元年以降は幕末喧噪の中にあって、ともにその実現は難しかったのではあるまいか。いづれにしても「瀧泉寺幻の鐘」として記憶にどどめる他あるまい。

賃貸された荷車

 二つの大きな車輪がついて人の引く木製の荷車を、嵐山町域では、ニグルマ、ダイハチグルマ、タカハグルマ、ダイシャ等と呼んでいたようである。明治期から太平洋戦戦争後にリヤカーが普及するまで、荷車は農作物、繭、肥料、薪炭、貨物の運送手段として使われてきた。

 1893年(明治26)、七郷村吉田の藤野長太郎外七人は荷車1輌を6円50銭で購入した。この年、同村越畑では、米1俵が3円31銭で小川町の米屋に販売されているので、この荷車の値段は、米2俵分に相当する。荷車は、ボウヤという車大工に作ってもらう高額な品物であった。

 1876年(明治9)に編さんされた『武蔵国郡村誌』には、嵐山町域16ヶ村の荷車の記載がある。保有数は、鎌形村が18輌と多いが、6ヶ村はナシ、他はあっても1、2輌で、合計31輌、32軒に1輌という保有率、車の大きさ別では中車23、小車8である。1911年(明治44)には、菅谷、七郷2村合計で91輌に増加し、12軒に1輌の割合となったが、その後も、すべての農家が荷車を保有するまでにはならなかった。

 吉田の共同購入された荷車は、共同所有者の8軒が使用しない時には貸し出されていた。賃貸料は一日4銭で、1896年(明治29)には、17回貸し出され、合計80銭の収入があった。貸出先は、吉田が大部分であるが、勝田、越畑、八和田村中爪(現小川町)にまで及んでいる。貸し出された時期は12月から1月に集中している。

 年間賃貸料としての80銭はどう遣われたのか。1月と5月に車税として25銭ずつ、2回で50銭、村税営業割が6銭3厘と6銭2厘で12銭5厘となり、合計62銭5厘が納税されている。税制度の細則を調べてみる必要があるだろうが、1875年(明治8)布告の車税規則では、荷積車は大きさにより、大七、大八は年間1円、中小車(大六以下)は50銭が課税され、耕作のみに使用される車は免税とされていた。納税後の残金17銭5厘に営業的な価値があったかどうか判断しがたいが、自他共に利するところは大いにあったと思われる。

   博物誌だより88(嵐山町広報2001年11月号掲載)から作成

学制の発布と学校の開設

 明治新政府は1872年(明治5)、「学制」を発布し、全国に小学校五万三千七百六十校の設置を目指し、国民皆学を標榜しました。しかし思惑どうり事は進みませんでした。埼玉県が文部省に出した伺書に「ニ・三ノ黌ヲ興ススラ百方手ヲ尽サスシテハ其功成リ難シ」と嘆き、1874年(明治7)になっても県下全体で二百七十七校の小学校を数えるに過ぎませんでした。それでも小学校が曲りなりにも開設されていったかげには、江戸時代以来の寺子屋に負うところが多かったと思われます。1872年(明治5)に記録された宗心寺の「筆弟人数改帳」は住職光外栄老の学塾の名簿ですし、大蔵の大沢晩斎も1872年まで自宅で教えた児童の名を「童蒙入学録」に記しています。その他にも杉山八宮神社の杉山宝斎や鎌形八幡神社の斎藤周庭も門弟を教導したことがその筆塚で明らかにされています。こうした先人の学塾(寺子屋)を基礎にして、この地域の小学校は誕生したのです。『武蔵国郡村誌』(明治9年)によれば公立小学校は、鎌形村、菅谷村、杉山村に既に存続していたことが分かります。

   鎌形村:村の西方にあり、生徒男六十九人女十八人

   菅谷村:村の乾の方東昌寺を仮用す。生徒男十二人女七人

   杉山村:東西十九間南北十二間。村の中央にあり。生徒男四十九人女十三人

 ここに椙山小学校が与えた杉山伊保利(年齢:十一年八月)の小学下等卒業の証書が残されています。1876年(明治9)4月の日付です。当時の小学規則によれば小学校は下等四年、上等四年の二段階になっていましたから、逆算すれば伊保利は1872年(明治5)

、七歳で入学したことになり、椙山小学校が明治5年に開設されていた事が分かります。

 こうして学制以来徐々に小学校は誕生してゆきましたが、そこに通う生徒は多くはありませんでした。広野村の六歳から十四歳(就学対象年令:男女六十一人)の1874年(明治7)から1876年(明治9)までの就学状況を見ますと、女子は一人、男子も半数以下で、全国的に見ても三十二%から三十八%という有様で、政府の皆学方針は遅々としていました。

 ただ教育の内容をみますと、下等小学の教科目は読み方、書き方、算術は勿論ですが、「地学大意」(地理)「窮理学大意」(物理・化学)「養生法」(保険・衛生)といったものまであり、七・八歳の児童としては相当程度の高いものでした。実際、古里・中村常男家には「輿地誌略」(世界各国の地誌大要)「小学化学書」「窮理捷径十二月帖」、大蔵・山下豊作家にも「地理初歩」等の教科書が残されていますから、これ等を学んだのは確かです。1874年(明治7)、文部省刊行・師範学校編集「小学読本三」の記述をみますと「母又童子に告げて曰 夫人世の業を務むるは猶乱れたる糸を理むが如し」というようでとても今日の比ではありませんでした。

金札の発行

 徳川幕府が倒れて御一新となったが、新政府の経済的基盤は勿論通貨そのものも不足していた。幕府が鋳造した金銀銭貨及び各藩が出した藩札が当時流通していたが、幕藩の瓦解によって当然通貨の不足を生じ、新政府も国民も大いに困窮することになった。そこで1868年(明治元)7月4日(旧5月15日)、新政府は新紙幣として十両、五両、一両、一朱、一分の五種類を発行した。これが太政官札、世に「金札」というものである。

 1868年(明治元)12月の通達・願書を見ると「金札之儀は世上融通のため御発行相成候」とか「万民之疾苦救なされ候厚御趣意」によって金札貸渡しがなされたことが記されている。中爪村名主藤右衛門は村内の農工商の買入のため或いは困窮の者に貸与えるために「金札千両」の拝借を願い出るが、許可にならず、「月迫之折柄旁当惑罷在候」ということで、更に越畑村・菅谷村・和泉村の名主が合同で古賀一平(武蔵知県事)役所へ願出ている。新座郡の上内間木村の「金札五千両」十三年賦の貸渡願もあるが、いづれも思うように貸与されなかったのだろう。

 初め金札は時の相場によって通用させ正金(江戸幕府の貨幣)との引替も出来た。しかし1869年(明治2)になると「断然相場廃止正金同様通用致す可き旨」通達される。世上物価の紛乱・不弁が生じたとしているが、新貨幣金札への疑惑が大きかったためであろう。「愚昧之小民共に置き候ては疑惑いたし金札不請取」とか、「在々より諸品持出し東京市中売買の折柄金札不請取と疑惑申立候」という具合で、金札に対する疑惑が根底にあった。貨幣制度はその発行元の信用において流通が成り立つものであるから、新政府が樹立されても未だ徳川幕府程の信用はもたれていなかったのだと思う。それが疑惑を生み流通に頓挫を来たし、正金への引替に傾いたのであろう。

 新政府は納税に金札を用いることを許可すると共に「聊の疑惑も不生融通いたし候様」小前(農民)共へ申諭することを通達し、「万一心得違之ものも御座候はヾ御召捕の上如何厳科仰付られ候とも違背仕間敷候」と連印誓約させている。それでも金札の流通は意に任せなかったのだろう。早くも1871年(明治4)6月7日(旧5月10日)新貨幣条例が定められ、両を改め呼称を円・銭・厘とし、一両を一円、百文を一銭とする十進法を定めた。翌年七月(旧四月一日)新貨幣計五二八九万七一六五円が発行された。世に言うゲルマン貨幣である。

銭箱2
     鎌形・宗信寺の銭箱 天明八戊申年(1788)

  資料:中島立男家文書70 中村常男家文書520

     藤野治彦家文書153 近代日本総合年表(岩波書店)

     明治大正家庭史年表(河出書房新社) 大和銀行貨幣資料館あんない

田幡和十郎の「太郎丸八景」 1828年

 1828年(文政11)秋、田幡和十郎は太郎丸のすぐれた景観(けいかん)八ヶ所を選んで漢詩・和歌に詠んだ。和十郎弱冠(じゃっかん)十八歳の時であった。
 太郎丸の佳景八ヶ所の詩歌は次の様なものである。

  三本松の夜雨
 今夜通霄思渺然
 霏々戸外雨如烟
 風吹松滴向何落
 更憶明朝花色鮮

 いつの間に ふるともなくて 夜の雨
          三もとの松の 雫にぞしる


  淡洲社暮雪
 風来寒冽自然深
 雲淡頻々一色陰
 日暮玉英飄堕積
 松杉真白満宮森

 神心 にごらぬからに 淡の洲の
          夕べにきよく 雪のふりける

  市の川帰帆
 萬頃晴川興自幽
 幾多漁艇賈前浮
 波心一脉清流徹
 帆影随風帰峯頭

 家々の 土産(つと)をもとめて 市の川
          村浪もよく 帰ゑる友船


  萱場晴嵐
 晴日紅雲興不窮
 忽然萬籟満山中
 即今頻失煙霞色
 薄葉飄來撹碧空

 四方山の 雲吹それて おちこちの
          あらしになびく 尾花かるかや

  平ヶ谷戸落雁
 白雲千里望淒然
 野色西風興可憐
 幾陣雁飛何処去
 追随叫々落平田

 朝な夕な 平ヶや戸に 友の居て
          空行雁も 落るこの頃


  妻夫橋夕照
 幾重青嶂碧渓潯
 民竈軽烟出樹陰
 数里引筇行客渡
 橋頭残照夕陽沈

 忍びかね 夕日のてりし 旅人の
          女夫(めおと)のはしを 恋わたるなり


  向山晩鐘
 林籟山風祇樹隈
 嶺雲還盡素烟堆
 入看幽景青連宇
 処々鐘声暮色催

 詣ふでつる 人の帰りを むかい山
          のぼればひヾく 入相のかね


  三堂山秋の月
 山色淒涼爽気催
 雲晴峯畔月明来
 清輝次第翻天外
 含露柱花徹暁開

 秋の夜の さやかのかけを 三堂山
          名におふ月も 外なかなくに

 抑々(そもそも)、八つの風景(八景)を選んで詩歌を詠ずる風習は中国北宋時代(960〜1127)に洞庭湖・潚水(しゅうすい)・湘水(しょうすい)を中心として、すぐれた景観を選んで詠んだ「潚湘八景」にはじまる。これがわが国に伝わったのは室町時代(1336〜1579)で、五山禅僧達が漢詩文や山水画を愛好したことによって取り入れられていった。1500年(明応9)公家の近衛政家・尚道父子が琵琶湖畔に遊んだ時、付近の景観の美しさに感動して和歌八首を詠んだ。これが「近江八景」と云われるもので、わが国「八景もの」の元祖となった。その後江戸時代にはいり「八景もの」がだんだんと流行して、各地に「〇〇八景」がつくられていった。その原因は霊場巡拝(伊勢参り・大山詣・四国札所めぐり等々)を中心に諸国を旅することが流行し、名所・景勝地を訪れることが盛んとなったこと。又、江戸の中期以降は浮世絵版画が興り、景勝地の宣伝にこれが利用されたこと。安藤広重(1797−1858)の「東海道五十三次」を始め「江戸百景」とならんで「近江八景」を版画にして世にだしたのが好例である。又、1830年(文政13)に再販され、当時の文章規範とされた「御家流諸状用文章」の頭書欄に「近江八景」の漢詩・和歌及び略画ながら当時の景観を偲ばせる図画が収録されている。恐らく庶民の教養として読み伝えられたであろう。そうしたことが「太郎丸八景」を生んだと思われる。
 中国の「潚湘八景」わが国の「近江八景」そして和十郎の「太郎丸八景」の三者に共通しているのは景観の主題である。「秋月(しゅうげつ)」(秋の夜の月)、「夕照(せきしょう)」(ゆうばえ)、「晴嵐(せいらん)」(晴れた日のかすみ)、「帰帆(きはん)」(帰路につく帆掛け舟)、「晩鐘(ばんしょう)」(入相(いりあい)の鐘)、「夜雨」(夜ふる雨)、「落雁(らくがん)」(空から舞い下りる雁)、「暮雪(ぼせつ)」(くれがたに降る雪)の八つで、どの主題も連想してみれば美しい情景で、詩歌の題材としてはこの上ないものだが、太郎丸において、その場所を特定することは、今となっては大変難しい。

 『御家流諸状用文章』に収録された「近江八景」

重輪寺の位牌座争い 1775年

 古里山重輪寺は1774年(安永3)8月新位牌堂(檀家の位牌をまとめて安置するお堂、祠堂ともいう)の建立に着手、同年12月に完成をみた。
 ところが翌年正月古里村の百姓長左衛門、新兵衛から重輪寺を相手取り重輪寺本山群馬郡白川村龍澤寺へ訴えが出された。それによれば、牌堂の普請にあたって重輪寺から先祖の位牌立て位置が少々脇へ片寄るときかされ、元々本堂ご本尊脇に置かれていたものだが、少しの移動は「不苦」(くるしからず)と了解していたが、普請が終わると檀家の位牌を残らず牌堂へ移し、順不同に立て置かれた。約束が違うので再応先規の通り立て置くように願い出たが、外の檀方に差し障(さわ)るので聞き入れられないとのことであったので、止むを得ず本山へ対し、「私共先祖位牌は本尊脇へ立て置かれる様」と訴えた。
 同年2月には上柴村金竜寺、和田山村金左衛門等の内済扱い人が立ち入り、長左衛門、新兵衛一家先祖の位牌は東側初め(好位置)に立て置き、絵図面を差し出すことで内済、訴状の貰い下げを願い出た。
 これで一件落着と思われたが、名主の庄左衛門、茂左衛門が重輪寺、長左衛門、新兵衛を相手取り奉行所へ訴訟に及んだ。要するに長左衛門・新兵衛先祖の位牌が茂左衛門の先祖の位牌より座上に置かれたのは如何(いかが)の訳か、寺と馴(な)れ合ってのことではないかといった位牌座の争いであった。重輪寺は本寺からの申付けで直しがたい旨を主張して譲らなかった。庄左衛門達は名主惣檀中に何の挨拶もなく新規の定を立てることは「心得難し、仕来の通り仕るべし」と訴えた。この訴えに対し奉行所は6月13日「評定所へ罷出(まかりいで)対決すべし若し不参に於いては越度(あやまち)と為すべき者也」と評定衆連署をもって申し渡され、大事件になってしまった。
 そこで先ず返答書を評定所へ出すことになり、同年6月長左衛門、新兵衛は返答書を差し出した。即ち「新牌堂完成後私共に沙汰なく茂左衛門の指図で勝手侭に位牌を配置したが、私共の先祖位牌は少々訳合あり(当寺開山に尽力多分の寄付等をしてきた事)本尊脇へ立て来たったという旧例を本山へ訴え、扱人立ち入った結果、旧例に随って取り計らうことで内済している。茂左衛門達は私共が菩提所と馴れ合って本山へ願い出たことを遺恨に思って提訴したが、そのようなことはないので御賢察下さい」と、また重輪寺も同時に返答書を提出した。事の経緯は前同様であったが、重輪寺としては「縦(たと)い誰が上座に相成り候共強いて拙寺に意見なし、この上は皆で相談して決められたし、尚長左衛門、新兵衛と馴れ合ったとあるが、この出入(争い)の発端は両人が拙寺を本山へ訴えたことにあるのだから、それは言い掛かりである。また位牌座の立て方は拙寺一己の存意ではない」と突っぱねた。
 1775年(安永4)7月の日付で「新位牌堂建立之絵図一枚重輪寺へ預置」とした絵図が残されている。その末尾に「右位牌座順之儀は先規本堂に之有候通相違無御座候」として、茂左衛門、庄左衛門、新兵衛、長左衛門が連署している。また同年8月に賢栄(重輪寺の僧)によって記された一文によれば「長左衛門慥(たしか)なる証拠書付を以申立仍之訴訟人共へ御理解被仰聞先規之通済方被仰付」と、この訴訟の済口証文はないが、位牌座の争いは長左衛門達の主張が通って目出度く円満に解決した様である。
 思うに死後の世界に於いても地位の上下は看過出来ないということだろうか。


※資料:中村常男家文書118 安永4年2月「お貰下内済証文之事」、中村常男家文書148 安永4年4月「乍恐書付を以御訴訟奉申上候」、中村常男家文書119 安永4年6月「乍恐返答書ヲ以奉申上候」、中村常男家文書121 安永4年6月「乍恐以返答書奉申上候」、中村常男家文書152 安永4年7月「覚」、安藤文博家文書66 安永4年正月「乍恐右之書を以奉願上候」、安藤文博家文書69 安永4年4月「乍恐書付を以御訴訟奉申上候」、安藤文博家文書75 安永4年8月「記」

→「寺院明細帳 曹洞宗 重輪寺 古里村(現・嵐山町)

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