GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

通俗巡回文庫始まる 1910年

 1909年(明治42)9月、埼玉県知事は「教育ノ普及並青年修養ノ資ニ供スルノ目的」をもつて「通俗巡回文庫」を設置しました。全県を6方面48区に区分し、一定量の図書を巡回閲覧させ、義務教育以後の青年女子の修養と風紀の振興と知識の開発を意図したものでした。
 この時期公共の図書閲覧機関が極めて未発達で、本を読む機会に乏しかった地域の人々にとっては本に接する良い機会だったことでしょう。翌年6月、七郷村に巡回文庫が到着し、新築なった七郷小学校で開始式が行われました。
 どんな本がどのように巡回されたか、吉田・広野・古里地域の例を図示してみました。一度に25冊〜37冊の本が配られ、一ヶ所に13日滞留させました。小学校長が事務取扱となり、一週間以内の貸出しもしたようですが、主として小学校を閲覧所としていました。本の種類は伝記・道徳・農業・女性・家庭に関するものが多く、小説や娯楽類の読み物はほとんどみあたりません。
 1914年(大正3)の比企郡下の文庫閲覧人員を10月末より翌3月10日まで130日間の統計でみますと、3万1284人で、一日凡そ240人の人々が本を読んだことが分かります。
 普及利用の程度、或いは効果は即断できませんが、知事が「是ヲ以テ、(中略)図書館設置ノ基礎ヲ為スニ至ルベシ」と告諭した通り、これが図書館の先駆となりました。
 七郷青年興農会学集部々長馬場覚司の名前で、金泉寺に於いて図書館開館式の挙行が案内された文書が残されています。年不詳ではあるが、恐らく若かった馬場覚司が活躍した大正10年代(1920年代前半)のことだと思われます(市川貢家文書7172)。

   付 巡回文庫図書目録・回覧順序図

※資料 根岸茂夫家文書150、井上清家文書88、市川貢家文書2351、『小川町の歴史 資料編(近代)』

 →「七郷村郷土研究91 社会教育 青年会」、「菅谷村郷土誌20 教育会、同窓会、青年会の沿革

勤皇の志士 奥平栄宜(兵庫)

 奥平栄宜は1839年(天保9)千手堂内田元次郎と持正院38世栄州の長女との間に次男房吉として誕生した。39世栄鏡の嫡子が早世していたので、1850年(嘉永3)房吉12歳の時、其の養子となり家督を相続することになった。房吉は幼少期、義父の教える寺子屋の筆子として学問の手ほどきを受けたが、彼が養子となった持正院は円城寺聖護院を本所とする本山派修験の寺であったから、その宗法の習得練磨に精進しなければならなかった。修験道は難行苦行をなめて霊験を習得することを業とする一派であったから、13歳から15歳まで3年間寒中水行の荒行を修する傍ら、漢学を関左、菊地五郎、菊城等に学んだ。1854年(安政元)には「加行護摩二十一座」を修し、名を全教房栄宜と改め、栄鏡の長女サワと結婚、遂に1856年(安政3)弱冠18歳で持正院第40世住職となった。
 1868年(明治元)正月、栄宜は新聞により維新の大業がなったことと徳川恩顧の幕臣が徒党を組んで乱に及び、その鎮定のため有栖川宮、聖護院宮が京を発向したことを知った。彼は欣喜雀躍「予平素勤皇ノ志篤ク尽忠報告ノ志ヲ達センガ為王政復古ノ今日ニ至リ空ク辺土ニ彷徨スル時ニアラズ」と、3月28日親兄弟縁者の制止を振り払って上京した。栄宜30歳の時であった。始め勝海舟や山岡鉄太郎と共に、暴走する幕臣の鎮撫に当たったがのち、尾張藩の磅礴隊に加わり西丸吹上見附番頭として有栖川宮の警衛の任にあたり、11月には京都へ凱旋、紫宸殿に於いて勲功慰労の令旨を賜った。1869年(明治2)尾張へ帰り、藩校明倫堂で学問修行の傍ら練兵分隊指令として活躍したが、国の老父(栄鏡)病危篤との報に接し、無念ながら暇を乞い平沢村へ帰ってきた。
 その後1872年(明治5)太政官の修験廃止の布告によって、栄宜は持正院護持のために奔走することとなった。1874年(明治7)には天台宗寺門派として「八ヶ院総代」を申し付けられ、翌々年には「一派教導仮副取締」となって、近隣の寺門派寺院の取り纏めとお世話に力を尽くした。また1880年(明治13)衛生委員に選任され1884年(明治17)まで勤めた。その間「衛生委員通信」を出す等、地域の社会事業に貢献した。晩年は有栖川宮が総裁を務めた「日本帝国水難救済会」に加盟したり、各種の事業や災害へ寄付をする等、彼は常に村民の師表としてその生涯を終わった。
 1916年(大正5)「皇君に捧まつりし身なれどもまだ存命の心恥かし 梁山」の歌を残し、翌年69歳をもって永眠した。勤皇の志を失わなかった奥平栄宜を偲ぶことが出来る。

古里の助郷

 江戸時代の交通は道路と河海に頼っていた。道路は江戸を中心に五街道が発達し、それに付随して脇往還(脇街道)もつくられていった。こうした街道筋には宿駅が設けられ、旅する人々を宿泊させ、また荷物の運搬に要する人馬の継立等の便宜をはかっていた。大きな宿駅には一日百人百疋の人馬を常置し、特に諸藩公用旅(参勤交代等)の継立に充てたというが、時勢と共に往来が激しくなり、継立人馬の不足が生じてきた。そこでその近隣の村々から人馬を出させる制度を設けた。これが「助郷役」である。助郷の村々は宿駅より五里以内にあり、差し出す人馬は村高百石につき馬三疋人足二人の割合であった。この助郷が恒常的になったものが「定助郷」といったが、その定助郷では負担に耐えられない程の大旅行団や大小旅行団が重複して通行の際は他の村々の助力を要請した。その際宿駅または定助郷村から前もって村を指名したのでこれを「差村(さしむら)」という。差村を道中奉行に進言すると道中奉行は指名された村柄(村の様子)を調査したうえで差村に指定したが、村の中にはこれを拒否する村もあった。
 古里村の「助郷」の状況はどうであったか。1764年(明和元)、中仙道深谷宿から差村の要請があったが村では赦免を願い出、村柄見分の上、道中奉行所倉橋与四郎は「差免候重而申付候事無之者也」(赦したので、重ねて申し付けることは無い)のお墨付きを東西古里村惣百姓へ与えた。この書付は以後永く古里村に降りかかった差村の危難を救ってくれる上で大変役立つ存在となった。
 次いで1796年(寛文8)8月、奈良梨村の名主光右衛門が古里村を相手取って「助郷人足滞出入」の訴を起こした。川越から秩父・上州への往還の拠点であった奈良梨村は「連々困窮に及び百姓数も減少、継立人足勤められる者拾九人」となってしまったので、拠無く古里・能増・高谷・伊勢根・越畑の五箇村に人足の助合を頼んだが、古里村は明和年中の御裁許をたてに断った。評定所は訴を受けて返答書を持って対決せよと命じた。結果は記録にないが恐らくお墨付きによって事なきを得たのであろう。
 1839年(天保10)には中仙道深谷宿が「困窮の余り人馬継立難し」との理由で、差村を申し立てた。古里村も差村の対象となり奉行所より立石伝八郎と町田庄右衛門が村柄御見分のため11月27日廻村となった。これに対して十給(古里村は10人の旗本・代官で分割支配されていた)惣百姓代兼で名主の善蔵と清左衛門は次の6ヶ条をもって愁訴に及んだ。
 1、高(収穫)319石6斗7升5合と少なく10人の知行支配地が入り交り、無民家もあり、人の少ない困窮の村である。
 2、当村は熊谷宿から3里、小川村へ2里にあたり、中間の御用継立に難渋している。
 3、深谷宿へ4里、荒川・吉野川があり、少々の出水でも川留めとなり御用に差し支える。
 4、当村は山間にあり猪鹿多く昼夜を分かたず田畑を荒らすので番小屋をたて、番人を置いて防ぐのに難儀至極の状況である。
 5、当村は山谷にあり田畑悪しく、天水場(雨水に頼って農耕するところ)にて困窮極まり夫食(農民の食糧となる米穀)に差支え地頭所より貧民手当を戴いている程である。
 6、明和年中御見分の倉橋与四郎様書付を頂戴所持している。
 なお、十給中の内藤一学知行所の名主孫十郎は同文の愁訴を地頭所役人へも提出している。
 1866年(慶応2)の「御伝馬差村歎願書」の末尾に「是迄何れの宿方へも助郷等一切相勤候儀無之」と記しているので、この結果もその難を遁れることが出来たのであろう。
 次いで、1859年(安政6)8月、熊谷宿定助郷32ヶ村総代問屋栄蔵達が「定助郷当分休役差村ヘ代助郷被仰付候様」と嘆願書を道中奉行に差し出した。即ち、近年脇往還多くなり緒家樣御通行相殖え、触人馬では処理困難となって来ていた。又定助郷の村々は荒川・利根川の間にあり、照れば旱損、降れば水損両難遁れ難く違作(不作)が打ち続いて来たところ、6月には異病流行し死亡した者少なからず。7月24日、25日には降雨大風にて荒川・利根川堤切込(決壊)出水、宿郷一円水没、家具・農具・家作流失し、人馬死亡する者少なからず。夫食手当ても出来ない有様であった。その上8月12日、13日再び大雨となり出水、田畑皆無、麦作蒔入れの時期に差し掛かったが、為す術もなく茫然自失の態であった。そこで、59ヶ村を選んで当9月より10ヶ月の間差村仰せ付けられ、御伝馬急場の救助を歎願した。その中に古里・吉田・勝田が含まれていた。
 これに対して、古里村では差村の知らせに驚き早速奈良梨村と連合して、9月、道中奉行所へ「熊谷宿代助郷御免」を願い出た。嘆願書に「差村被仰付候ハヽ一村潰及転退候外無御座候」と、村全体が破産するか、どこかへ逃げ隠れる他はない程の困窮となることを訴えた。別に同9月林・有賀知行所の名主栄八と運太郎が給々惣代として地頭所へほぼ同文の内容で差村を回避出来る様願い出た。そしてこれも又避けることが出来た。
 次いでその5年後、1863年(文久3)4月、再び熊谷宿より当分助郷が触れ出された。触書には「今般御変革被仰出」と幕府の御改革を理由として挙げている。この御改革というのは1862年(文久2)8月に出された「参勤交代制の緩和」である。参勤交代というのは大名の妻子を江戸に常住させ、江戸と国許とを1年交替で往復させる制度であった。この年これを緩和して3年毎の出府(江戸に出ること)とし妻子の帰国を許した。その為諸大名御当主、妻子、御家族、御家来といった方々挙って国許へ引っ越すということとなった。従って道筋にあたった熊谷宿は普段の人馬継立では処理出来ず、近隣村々へ応援を触れ出した訳である。古里村は早速いろいろ難渋を申し立て当分助郷御免除を願い出た。しかし今回は遁れられないと思ったのか、「二重役」の解消を条件に請印(承諾の印)の押印を保留した。「二重役」というのは、古里村が秩父通り(熊谷から秩父への道)の途中にあって、熊谷からの人馬を一手に継立小川へ送る役と、川越往還(川越から上州への道)の途中の継駅奈良梨村へ継立人馬を差し出すという二つの課役をさしている。要求は秩父通りの一手継立を止めて、熊谷から直接小川村へ持ち越しにしてくれるのならば今回は御請けしようというのである
 3月には十給総代名主卯兵衛が熊谷宿御役人へ訴え、4月12日には佐々井半十郎代官所組頭利兵衛が道中奉行所へ追願に及んだが、裁許は困難だった。なお「御伝馬御免除出府諸入用帳」に依れば同年5月3日には平三郎と運太郎が出府、6日逗留先の公事宿(農民達の民事訴訟を取り扱う宿)万屋にお呼出があり「助郷免除」の旨達しがあった。
 御請け印形を差出し、7日代官佐々井様へ帰村届を提出し、9日村へ帰ったことが記されている。7日間の出府の旅で〆て1貫768文を費やしている。助郷免除の裁許を得るのも書面一通では用が足りなくなっていった。
 1866年(慶応2)6月第二次長州征伐のため政長軍が江戸を出発することとなった。この軍勢の輸送のため東海道は大変な混雑となることが予測されたので、品川宿は早くも2月当分助郷の御印状を各村々へ発した。これに対し、古里村では4月、十給知行所連名で道中奉行所へ「品川宿当分助郷之儀幾重ニも皆御免除」下さる様嘆願書を提出した。又ほぼ同文の免除願を古里有賀忠太郎知行所の名主総代運太郎の名において東海道品川宿へと差し出した。免除の理由は秩父通り、川越往還の二重役の継立人馬が手余りのこと、村勢が貧困であること、過去の差村(明和度・天明度・天保度・安政度・文久度)の何れの時にも免除されて来たこと、その上十給内では御上洛に供奉する地頭(旗本)も多く歩役人夫を多数差し出していること等々を挙げている。ただこの度は征長御上洛の折柄で出精相勤なければならないことがよく分っていたので、「御用向御差支出来奉恐入候間、不得止事出府此段御歎願奉申上候」と出府してまでその意を通す決意で結んでいる。名主運太郎は「品川宿江助合歎願中用留帳」に克明に出府の様子を伝えている。それに依れば、運太郎と儀四郎は1866年(慶応2)3月29日古里を出立、同晦日湯島の足立屋に落ち着き、その後免除歎願に奔走、9日嘆願書を差し出した。同18日お呼出しがあったが決着せず。この間儀四郎は栄八と交代、その栄八も21日帰村してしまった。同24日村では一同相談の上、26日儀四郎を再び出府させ、5月14日再嘆願書を差し出したのである。7月23日にお呼び出し、同月24日夜通しで飛脚が走る程の重大な結果が齎されたものと考えられる。
 但し3月29日から8月1日まで儀四郎、運太郎、栄八に常三郎も加えて延147日出府滞在して歎願の決果、〆99両1分2朱と323文を費やしたが、助郷が回避されたという記録はない。
 1872年(明治5)各駅の助郷解散命令が出され、宿駅制度も廃止されたので、これ以降は宿駅の問屋も定助郷の村々も、差村を仰せつけられた村々も人馬継立の課役に苦しめられることはなくなった。

草莽の師 塩村の千野文太郎

 千野文太郎は1819年(文政2)、塩村(現・熊谷市、旧・大里郡江南町)に生まれた。文太郎は俗称で、姓は千野、名は賢隆と称した。性格はおとなしく、気立てが良く、正直で誠実な人柄であった。農に従事して怠ることがなかったが、時には薪を馬の背にのせ、市に行って売り、帰りには酒をしたたかに飲んで上機嫌で馬にゆられ、詩歌を吟じ帰ったと云う様で村夫子然としたところもあった。
 幕末の儒者寺門静軒は文太郎を評して、「農耕しては食し、機織しては衣とすれば、体は苦労だとしても心は安閑としていられる。農人は羨ましい」と農民学者文太郎を羨んでいる。農業の傍ら学芸にも精進した。学問や書においては「声譽(せいよ)(よい評判)を馳す」という風で世間でも良い評判を得ていた。俳諧・和歌にも秀で、
蟻通と号していた。1878年(明治11)9月、大里巡幸を拝して「巡りあふ月の宮古そ十き鏡」の秀句が残されている。又生花投げ入れにも巧で一民と称していた。世に言う在野の文人であった。
 性格が温順・誠実で農業を愛し、高い学芸を体得し、春風駘蕩とした生活を持している人物のもとに人が集まって来るのは当然であった。彼は自宅に質素な学塾を開いていたのであろう。その人格・学徳を慕って弟子達がその門に集まり、皆、彼を先生と称して、敬意を払って接していた。
 又、彼は塩村の戸長でもあった。1885年(明治18)9月、飯島岡右衛門の養嫡子が不和で離別した手続きに不都合があって、遅れ迷惑をかけたことへの始末書を、戸長千野文太郎の名において県令吉田清英へ提出している。こんな他人の民事的なことにまで責をおって始末書を出している。政治的には不向きな人であったろうが、誠実な性格の良く現れた出来事であったと言えるだろう。
 1897年(明治30)8月発起人飯島貴寿等によって「師恩ノ万一ニ報センガ為メ」に建碑を思い立った。その趣意書ともいうべき「謝恩録叙」に「吾師蟻通千野先生温厚篤実、人ニ教テ倦マス、故ニ郷党ノ子弟贄(にえ)ヲ執テ(入門の礼として進物を差上ること)子来ス」と、人柄の良さと飽くなき教育への情熱を慕って近隣の村々から集まった多くの門弟達は「其門ニ入テ其教ヲ承(う)ケ而(しか)シテ今ヤ世ニ処シ人ニ交リ稍(やや)過失ヲ少クスル真ニ先生ノ賜(たまもの)ナリ」と、先生のお陰をもって世に処し、大過なく生きてゆく事ができたと、その薫陶に感謝している。
 1898年(明治31)11月文太郎は79歳の長寿をもって他界された。「千野文太郎翁会葬式役割記」によれば先生の遺徳を偲ぶが如く、葬儀は神葬祭をもつて盛大に執行され、多くの門人達が参列した。墓は塩村の千野家墓地にあり、戒名は「普教院以文弘道居士」と諡(おくりな)された。文を以って道を弘めるという文太郎にとってその生涯に相応しいものであった。
 そして翌年12月、門弟たちによって念願の顕彰碑が塩村字塩東(熊谷・小川道の途中、塩村の俗称おおまがり付近)に建てられた。篆額(てんがく)(碑の上部に篆文で書かれた題字)は枢密院顧問官・子爵杉孫三郎の書で「千野君碑」とあり、其の下に碑文が刻まれている。その文章はかつて寺門静軒翁撰と記された175文字の碑文原稿と酷似している。両者を考え合わせれば高位の方が筆を振るい、高名な儒学者が文を草したということは千野文太郎がそれだけ高い評価を得ていたことを示すものということが出来ると思う。
 碑の裏面に有縁の方々の名が刻まれている。筆弟56人中、古里の人11人、吉田の人13人、建碑の発起人の中には、古里の飯島貴寿、中村武八郎、安藤富五郎、越畑の久保三源次、吉田の鞠子万右衛門、小林所左衛門、小林三右衛門。幹事に古里の飯島平六、田嶋三津五郎、吉田の内田源七。いずれも門弟で薫陶を受けた人々で、後年村の指導的立場にあって活躍した方々であった。千野文太郎先生の学塾のあった塩村は熊谷・小川道にそった古里の東隣七町(750メートル位)のところにあり、わが郷党から門弟達が通い易いところにあった。従って見られる通りの多くの門弟が教えを受けることが出来た。千野文太郎先生を大いに顕彰し、厚恩に謝せねばなるまい。


※寺門静軒(てらかどせいけん)(1706-1868):「江戸小石川水戸藩邸内に生まれる。江戸時代の儒学者。江戸駿河台に克己塾を開いて子弟を教育し、著書である「江戸繁昌記」がベストセラーとなったが、風俗を乱すものとして江戸追放となり、各地を流転。奈良・四方寺の吉田家などに寄寓しながら、安政6年に妻沼・歓喜院に入り「両宜塾(りょうぎじゅく)」を開きました。その門弟には竹井澹如、石川弥一郎らがいます。鎌倉町・石上寺に寄寓後、晩年は親交深い根岸家に身を寄せ、邸内の三余堂で塾生を指導していました。(熊谷市のHPより引用)

組頭の罷免 1857年

   村方三役 組頭の罷免
 江戸時代、村の行政は領主の支配のもとで、村方三役(名主・組頭・百姓代)と呼ばれる人々によって行われてきた。名主は村の代表であり村政のすべてを処理した。組頭(与頭)は村長に次ぐ村役で村長を補佐する役どころで、村が分割されているところでは二、三人で勤める処もあった。百姓代は名主以下の職務を観察する目的で後年設けられ、小前(高持の小百姓)から公選されたので小前総代ともいった。いづれの村役も村内の信望が高く、ある程度の経済力を持った人々であったが、時としては行政上の不信や後任選びの縺(もつ)れ等による問題も発生していた。 
 これは古里村市川又兵衛知行所の出来事である。
 1857年(安政4)4月、同知行所の名主徳次郎が死亡し、その後跡について差縺(さしもつ)れが起こった。小前総代であった仙次郎は百姓要蔵、源三郎、常次郎、権六、善五郎を代表して、1857年(安政4)9月4日、出府の上、当時組頭であった明三郎の不行跡4ヶ条を地頭所へ訴え、その名主就任を阻止しようとした。即ち4ヶ條は次の様な事であった。

 一、1855年中(安政2)、御林山(おはやしやま)(領主の直轄した山林でお留山と呼び勝手に伐木厳禁の場所)の雑木を理不尽に伐木。それを止(と)めたが役権をもって願済みとして伐木におよんだこと。
 一、1854年(安政元)、明三郎は潰れ百姓(つぶれひゃくしょう)(破算した百姓)伊三郎の持ち山、字藪谷(やぶやつ)において雑木を並外れて伐採し自宅へ運び込んだこと。
 一、1855年(安政2)、源三郎の所有する字船久保(ふなくぼ)の畑地内に明三郎の畑地二畝歩(せぶ)余り入り交じり、是まで横領されていたので畝歩だけ引き揚げるといいだし、取調べたところ源三郎の持ち地に相違ないことが判ったが、難題を持ちかけ多分の金子を貪(むさぼ)り取る計画だったこと。
 一、明三郎と隣接していた潰れ百姓孫七の屋敷内、横二間三尺竪(たて)十五間余囲い込み、組合のものが見付け掛け合いに及んだが、境筋は其の方には分らないだろうと、役権をもって不法申募り、取りあってもらえなかったこと。

 この外にも種々悪計をたくらみ小前に難渋を強いていた。訴状は「明三郎差配(指図)此上請候様相成候而者潰及退転(落ちぶれてその地を立ち退くこと)候外無御座難儀至極仕候」と、即ちこのままでは潰百姓になるか、夜逃げでもする外よりないというぎりぎりの窮状を訴え、組頭明三郎の罷免を願い出た。
 1857年(安政4)9月8日、明三郎も、地頭所の仙次郎達へ年番名主(年毎に交代して勤める名主)を命じても障りはないかのお尋ねに答える恰好で前の訴状へ対して次のような返答書を提出している。
 伊三郎の家は流行病で一家死失し、一人残った盲目の娘は村岡村のごぜ(三味線を弾きうたを歌って銭を貰う盲目の女)の弟子とし、やがて跡相続させたいと思っていたところ、仙次郎外二人名主徳次郎と馴れ合い、断りもなく伊三郎の家財道具、屋敷、野山、竹木までも売り払い横領した。
 又、仙次郎達は潰百姓佐助方も相続人が居るのに人別を除き、私に断りもなく佐助の跡式を横領した。
 又、仙次郎達は私が役儀を勤めていては銘々の悪事が露顕してしまうことを恐れているのである。
 この様な者共に年番名主仰せ付けられてはこの上どのような悪巧みをするか計りしれないので、私は「右様之者共之支配請不申候」と答申した。
 それぞれに相手を誹謗し、己の立場を主張したが、一体地頭所の裁可はどうなったのだろうか。「明三郎申口不相立」と、返答書の抗弁は少しも聞き入れられず、「明三郎義役儀も乍相勤不行届之儀ニ付退役被仰付候」という結果となった。
 名主徳三郎は死し、明三郎は退役となっては「跡役一同で相談の上取り決め、その者の指図を受けよ」と仰せ渡された。1857年(安政4)9月、百姓要蔵・善五郎・明三郎は連印の上「済口証文」を地頭所に提出している。
 跡役は誰がなったのだろうか。事件の翌年の1858年(安政5)5月27日の文書は市川又兵衛の御林山の雑木を長井五右衛門知行所の名主常三郎が理不尽に伐木したことを訴えたものであるが、その文書の末尾に訴人の名が記されている。
     名主 源三郎
     組頭 善五郎
     百姓代 要蔵
いずれも組頭明三郎を弾劾して訴出た百姓六名の中から選ばれた人々であった。

村の法度 五人組帳

 江戸時代の農民統制は領主にとって極めて大切なことであった。この時代の経済の基本が米価であり、所有する土地からの米の収穫高(石高)が人の地位価値を決めるほどであったから、「農は国の大本」といわれ、それに従事する者の身分は「士農工商」と社会の第二に置かれていた。従って幕府・領主の農民に対する政策は重要な課題とされてきた。その一端を示すものが「法度」である。法度というのは掟(おきて)・禁令・触(ふれ)・議定等名称は区々であるが、生活を規制・拘束する法律の総称である。
 農村に対してはどんな法度が課せられたのだろうか幕府の庶民統制として知られている制度に「五人組」制度がある。五人組は五戸前後の家を組み合わせて設置されたもので、年貢の納入、キリシタン・浪人の取り締まり、日々の生活にまで立ち入って、彼等に連帯責任、相互監察の役目を負わせ、支配の末端組織として重要な役割を荷(にな)わせた。名主は「五人組帳」というものを毎年領主に差し出した。この五人組帳には組員全員が署名捺印している部分と、その前に彼等が守らなければならない法度が数々記された部分とがあり、この法度の部分を「五人組帳前書」といつている。
 1836年(天保7)、吉田村の「五人組帳」の前書を見て行こう。この五人組帳は「山本大膳版」と刻印され、木版仕立のものであり、旗本山本大膳(600石)の知行所全部へ配布されたものと思われる。
 冒頭次ぎの様に述べて、五人組のあり方をしめしている。

一、兼(か)ねて仰(あおせ)出され候通大小百姓五人組を極(き)め置き、何事によらず五人組内にて御法度に相背(そむ)き候義は申上るに及ばず、悪事仕(つかまつ)り候もの之有り候はばその組より早速申し上べく候、 (中略) 若(もし)五人組に外れ申し候もの御座候はば名主組頭曲事(くせごと)(法に背く事柄)に仰附らるべく候事

 即ち大百姓から小前、下人に至るまで全てを五人組で組織し、組員で法度に背いたものを報告させ、若し隠しておいて他から判明した時は五人組員、名主全員が処罰された。謂所五人組のあり方は連帯責任制であり相互監視で、そのことを始めに規定している。五人組帳前書の内容項目は地域、時代により区々であり数か条から五十ヵ条、百ヵ条にも及ぶものもあったが、この吉田村のものは12項目で、比較的少ないものであった。1項目は前書のとおりであるから第2項から逐条概略見ておこう。

 一、欠落(かけおち)者、あやしき者、一人(ひとり)者に宿を貸さぬこと。
  但し縁者のときは名主組頭で穿鑿(せんさく)し証人を立て許可すること。
 一、手負い(傷を負っているもの)行き倒れ(病気、疲れ、寒さ等で路上に倒れること)        の者があれば報告すること。煩っている者は看病し早速申し上げること。
 一、奉公人の請け人(保証人)には猥(みだ)りにならぬこと。
 一、浪人を抱え置くときは名主に申上げよく理解し請け人を立て手形を取って役所      役所の帳簿に記載すべし。
 一、切支丹宗門御制禁のこと。不審なる者は捕らえ置くこと。また召仕(めしつかい)等は寺請状(庶民がキリシタン信徒でなく寺の檀家であることを檀那寺に証明させた書状)を取り入念吟味すること。
 一、耕作商売もせず遠国まで遊び歩き博奕(ばくえき)賭け事を好み不似合いの衣裳を着るような不審なる者あれば早速報告すべし。一夜泊まりで他所へ外出するときでも行き先用事の仔細を名主五人組へ断るべし。
  附り、 盗人訴人は密々御役所の定めの筒に書付を入れること。
 一、鉄砲は許可ある以外所持すべからず。
 一、聟取養子取は名主組頭立合い念を入れ後日争いにならぬようにすべし。
 一、婚礼の節は貧富によらず一汁一采有り合わせの野菜肴二種に限り、過酒をせず、衣類櫛簪等は華美にならぬこと。
 一、婚礼の節は奢ることなく名主組頭の内一人立合い客は親類組合本家分家に限るべし。
 一、婚礼の節大勢にて申し合わせ途中にて妨害したり、船着場で船頭穢(え)多(た)非人祝儀をねだったりすることあれば訴出るべし。

 末尾に「月々再々読諭し悪事に移らず善事に導候様心掛け申すべし」とむすんでいるので、毎月五人組の者共へ読んで諭しこの法度を徹底させようとした意図が窺える。なおこの法度に違背したものがあれば組合員は言うに及ばず、村役人までも罰せられることが再度うたわれている。
 更に1838年(天保9)には鉄砲の再調査があり「議定連形之事」として「相改候得共鉄砲は勿論筒台似寄候品にても一切無御座候」と山本・松下・菅沼・折井知行所村々小前全員が署名捺印して報告している。鉄砲の不法所持の禁止取締りである。
 又1858年(安政5)には「議定一札之事」として「博奕宿は申すに及ばず二銭壱銭之諸勝負事一切致間敷候」と山本・松下・菅沼知行所小前役人連印して議定書を提出している。
 そして又、1866年(慶応2)、「組合村々一同相談之上議定取極御趣意左之通り」と組合村々31ヶ村が評議して次の事柄を議定し連印の上報告した。その内容は、

 一、婚礼・紐解(幼児が附け帯をやめ帯を用いる祝)・孫祝(初子の誕生祝)等の祝儀 の折酒は一切無用、婚礼のみ酒一升、客は両隣、組合総代、親類総代、村役人各一人とすべし
 一、葬儀に酒は無用、追善法事も質素にすべし
 一、諸振舞(饗応すること)の儀は相止めるべし
 一、九月九日の日待ちに客の行来を止め、初米を神仏に備える儀は家内限りとすべし
 一、正月の祝も門松も質素に、餅は支度せず、酒盃一切無用、年頭品は紙一折とすること
 一、村々の付き合いと称して良いにつけ悪きにつけ酒を用いたが今般取極め候上は致さざること
 一、日々の食物なるべく粗食相用うべきこと

の七項目だが、祝儀不祝儀、年中行事付き合い、日々の食生活まで細かく規定している。
 吉田村の五人組帳を中心に幕末の村の法度をみてきたが、要するに切支丹宗の制禁、博奕の厳禁、鉄砲不法所持の禁止、祝儀不祝儀日常生活の質素倹約、浪人部外者の排除対応等々が中心になっていた。
 思うに、幕府は天変地災(旱天・大水)から飢饉となり困窮疲弊の農民が一揆を企て、欠落、逃散した農民が浪人博徒に操られて騒乱を起こすことを恐れて、治安の維持のためこの様なやや過酷とも思われる法度が定められたのであろう。

江戸時代の隠居 その生活の保証

 今の世の中で「隠居」という言葉は余り聞かれなくなったが、江戸時代には人生の中で或る時、第一線を退きやや閑な人生を過ごすという風調を「隠居」と称した。厳密には世帯主が生存中に自分の自由意思によって所有する権利を相続人に譲って閑居することを言う。武士は主君にお役御免を願い出て、子息に家督を譲って隠居の身分となる。町人は店の中心から退くことを宣言して息子なりしかるべき後継者に財産権利を譲り、自分は隠居所に閑居する。農民は所有する田畑を息子に渡して閑人となる。こうした人々の生活の保証は得られたのだろうか。

 1820年(文政3)、宗心寺十四世周山は住職の席を後任雉賢和尚に譲った際「隠免之記」なる書付を送っている。退隠する者が現当主に隠居後の生活保証を約束させたものである。その内容は次の通りであった。

  一、田方四反七畝歩(年貢諸役は先勤) 一、胡麻一升六合 一、小豆三升
 一、大豆六升一、味噌半樽余 一、醤油壱樽と壱升 一 、堅木真木入用次第
 一、小麦粉 少々宛ニ貰い一、蕎麦粉 少々宛ニ貰い

 「年々被下候」とあるので生存している間毎年これだけの手当ては受けられた。一人の食生活を賄うに不足はなかったろうが、衣・住の費はどうしたのだろう。田四反の収穫を換金してそれに充てたのだろうか

 1849年(嘉永2)に同じ宗心寺において現住職の隆暁が閑居大和尚(十七世劫外と思われる)に「隠居免議定一札」を差し出している。内容は次の通りであった。

 一、金三両也 年中小遺 一、玄米拾俵 年中飯米 一、真木 入用次第 
 一、野菜 入用次第一、蕎麦粉 入用次第 一、小麦粉 入用次第 
 一、大小豆 入用次第 一、胡麻 壱升一、水油 三升 一、餅白米 壱斗
 一、醤油 弐樽 一、味噌 壱樽

 「御存命中年々其都度入用次第」と極めて心強い一文が添えられている。内容は前者とあまり変わっていないが、三両の金を一年の小遣として差し上げるというのは有難い限りで、三両もあれば贅沢しない限り一年位生活出来たという時代にあっては生産性の少ない老人にとって余裕のある生活が保証されたことになろう。

 僧家の二例をみたが、俗家(農民層)においても類似の書付が見られる。

 1802年(享和2)古里村の武兵衛が実父五郎右衛門に「賄料相渡シ申」という一札を差し出している。恐らく五郎右衛門が退隠し実子武兵衛に家督を譲った際、隠居の生活費として約束したものであろうう。内容は次の通りであった。

 一、下郷地ニ而すな畑(川沿いの荒砂混じりの畑) 弐枚 一、同所畑添之田 壱ヶ所

 一、同所下ニ而すな畑 壱枚 一、寺ノ後ニ而大畑 壱枚 一、柏木山壱ヶ所
 一、新林山 壱ヶ所一、下郷地下ニ而麦畑 九升蒔

 全部が田畑・山林である。一枚・弐枚というのは一区画・二区画というほどの意味で広さを特定していない。山にしても一ヶ所というだけで広さは不明である。しかし百姓にとって土地が財産であり、土地から生ずる果実、米・麦・野菜・薪等によって生活が支えられていたので、土地が隠居の賄料となったのであろう。この一札の末尾に「若シ又親父様江不和之義も御座候ハヽ加判之者共立合急度可申付候」という一文で結ばれている。親子の間で仲違いした時は立合った者が必ず履行させることを誓約したものであり、組合総代原右衛門、親類総代長左衛門が連署し、更に名主銀六が「相違無之」ことを書き添えている。之だけ慎重にしておけば、家督を譲った親も老後の生活において安心出来たであろう。

 更にもう一例、1867年(慶応3)、運太郎(安藤)が栄之助に与えた書付がある。この書付によれば、伯父長左衛門の死後栄之助が家督を相続して来たが、病身のため身代を維持してゆくことが出来ず、隠居することとなった。その家督を運太郎が受け継ぐことを承諾して、隠居する栄之助に隠居免(隠居の財産としてその家の動産不動産を分割してあてがうもの)を約束したものである。内容は次の通りであった。

 一、田弐斗蒔 字前田ニ而 此小作米五俵也
 一、畑八升蒔 字寺脇 外ニ金壱両ツヽ年々

 一、山壱ヶ所 字かに沢東平 一、隠居庭畑 一、月々金壱両ツヽ

 一、玄米七俵也年々〆拾弐俵也

 米が年に十二俵(四石八斗)、畑は八升蒔の広さだが何反何畝とは特定出来ない。しかし金が年一両づつついている。そして別に月々金一両づつとあり、金を合算すれば年に十三両となる。その上字蟹沢に一山あって、なお隠居所には庭畑(庭の前面にある蔬菜の畑)がついている。かなり豊かに安定した生活が保証されているように思う。伯父の家を相続したので、その子(運太郎の従兄弟)の退隠につき普通より手厚くしたのだろう。伊左衛門外六人が連署して、此書付の信憑性を高めている。

 以上僧俗それぞれについて四例をみてきたが、財産・権限を次代に移譲して余生を送る身分としては充分な生活保証がなされていたように思われる。儒教思想の徹底していた江戸時代においては敬老の精神も浸透していたことであろうし、また「隠居免(隠免)」なる語が今日まで伝えられて来たところを見ると、書き立てるまでもなく一般的に行われていたとも考えられる。但し経済的なことを考えると誰でもと言う訳にはいかず、こうした確りした隠免書付は或る程度の経済力を保持していた人々の間で実行せれたものであろう。

※資料
 吉田宗心寺文書62「現雉賢和尚江隠免書付」文政三年(1820)
 同115「差上申隠居免議定一札之事」嘉永二年(1849) 
 中村常男家文書194「賄料相渡シ申一札事」享和二年(1802)
 安藤文博家文書701「差出申書付之事」慶応三年(1867) 

明治時代のムラ規約

 江戸時代から農民に対する法令・生活規範を示す掟は数多あった。
 1643年(寛永20)、田畑の売買を禁ずる「田畑永代売買の禁」、1649年(慶安2)「諸国郷村江被仰出」という副題付で、農民生活を三十二ヶ条にわたって規制した「慶安の御触書」*1、そして寛永年間、五人組制度(5軒を一つの単位とする相互扶助的行政制度)が整えられてからは五人組帳が数年毎に書かれるようになった。その前書に法度の遵守、貢租の完納、治安の維持、キリシタンの禁止等農民の厳守すべき事柄が示され、これに対し五人組が連署して了承させられてきた。こうした法令・触書・取締条項はいずれも幕府の「農は国の大本」、「農民は生かさず、殺さず」の方針に従って作成され、農民達は一方的にこれに従わされて来た。
 明治期に入ってもこうした意向はあらかた踏襲されていったが、部落単位、小字単位で農民自身の手になる掟が創られるようにもなってきた。ここに挙げる「広野村下郷規定」はそれに当たるものであろう。これは1884年(明治17)12月15日定められたもので、広野村の中の下郷地域にのみ通用する規定であった。小前総代栗原保之丞が中心になり、19名が連署している。おそらく当時下郷は19軒で構成されていて、全員が賛同したということだろう。掟、規定がどうして出来るのかというと、その地域の中での社会生活を円滑に行っていくための約束が必要になった時、或いはある方針を徹底遂行しようとする時に成立する。
 この規約の場合、文末に次の様な一節がある。「村方下郷是迄不極リ(ふきまり)*2ニテ落葉掃取草刈等ノ義ニ付度々(たびたび)苦情(くじょう)申者有之候、近頃(ちかごろ)又私が総代人ニナリタルヲ以テ右等之義ニ付書面ヲ差シ出ス者アリ或ハ苦情ヲ唱(とな)フル者有之候ニ付」と、即ち、肥料となる落葉を勝手に掃取るものがいたり、飼料としての草を気侭に刈ることへの苦情が絶えなかったことが、この規定を創った理由である。
 定めの条項は5つで、落葉掃取の日限を定める事、他人の所有地に入って、野荒(田畑の作物を荒らし取ること)したものは見つけ次第通報する事、野荒人からは50銭とる事、馬入道や道端の落葉掃取は自由とする事、草刈でも芝刈でも一切野荒にかかるものは見付け次第科料(50銭)とする事である。決め事はさしたる事ではないように思われるが、当時の人々にとっては困り果てた事柄だったのであろう。
 なお、この決定に当たっては住民皆が参加して協議し、不参のものには分かり易いように全文仮名をつけて回覧している。承諾の捺印についても、印形は大切な品なので追って日時を定め、「拙宅(総代の家)」へご持参の上捺印するようにと、細かく配慮している。又「別紙規定ノ通二而者差支ノ御方も可有之ニ被存候ニ付集会ノ節ノ相談ニ而若し差支ノ者ハ地主ニ話シ貰ヒ置クベシト申し候間、是亦添へて申上置候」とあくまで丁寧に、承服出来兼ねる者は申し出るように伝えている。
 維新以来政治の体制が大きく転換したとはいえ、この規定の内容、制定に至る過程等見るに、実に丁重で、かつての幕政時代の上意下達式の法令、規定とは大きく様変わりし、農民達自身が自分達のために作成した様子が強く感ぜられる。
 降って1905年(明治38)に作られた「規約書」は前者とは大分趣を異にして江戸時代の上意下達的に作成されたものと思われる。この規約の制定された年は日露戦争中であり、日清戦争後国家経済は逼迫し、その上未曾有の大戦に突入した訳で、国家全体の経済負担は著しいものがあり、勢い国民の末々に至るまで節約・倹約が強制されるに至った。こうした国家統制といった背景からこの規約は作成されたものである。1905(明治38)2月12日に七郷村長久保三源次は「目下時局ノ大勢ニ鑑ミ」として、歳末歳首について餅搗・回礼・〆飾り・来客への酒食献酬を禁じ、「其他諸事質素ヲ旨トスベシ」と、各地区の常設委員へ通達している。この主旨を戴して規約は作成されたのだろう。なお同様の規約は大蔵・千手堂地域にも存在しているので、行政機関からの指示指導があって成立したものと考えられる。
 内容はとかく華美になり勝ちな「祝儀」の簡素化を規定し、祝い事の席には客を招かないか、少数とし「酒ハ三杯ニ限ル」と極端に制限している。また、見栄を張る風潮にあった「葬儀」についても、念仏玉(供養のためにくばられる菓子と小銭)の遣り取りを禁じ、忌明・年回も客は親戚縁者のみに限定し、「穴掘リ人足(墓穴を掘る人)ハ四人ト定メ、穴場ノ酒ハ一升ニ限ル」と細かく規定している。また、当時農村部で盛んに行われ、農民達の唯一の楽しみとなっていた講・日待についても、新規の講(社寺を参詣する同好者の組織)をつくることは見合せ、各社寺への代参人は一講につき一人、代参なき日待は全廃と制限した。夜明かしで酒宴を張った男の日待(田植え・稲刈り・正月・庚申等)は規定から省かれたが、「婦人の遊日待ハ壱年一回ニ限ル」とした。男尊女卑感の強かったこの時代においては女性の遊楽は冗費と考えられていたのだろう。そして最後に前出した他人所有の山林での落葉掃採・柴草刈の禁止を定めている。
 文末には内田蔦五郎他49名が署名捺印しているが、これは前出の署名とは異なり江戸時代以来の慣行によった請書(うけしょ)としての署名捺印と思われる。
 この規約は非常時とはいえ全体として極めて厳しい、ゆとりのない規定であり、農民の生活を厳しく規制するものであった。そしてこうした傾向はこの後も永く生活規範のなかに君臨していったのである。

 *1:慶安の御触書(けいあんのおふれがき)は、1649年(慶安2)、江戸幕府が農民統制のために発令したとされてきた文書。現在では1697年(元禄10)、甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が、慶安年間出された幕法であるとして広まったものであると考えられている。
 *2:体裁がわるいこと。きまりがわるいこと。

古里に電燈灯る 1929年

 江戸時代の照明は菜種油などを燃やす行灯(あんどん)か、蝋燭(ろうそく)を灯す燭台(しょくだい)・雪洞(ぼんぼり)・提灯(ちょうちん)でした。幕末、西洋から石油を燃料とするランプが伝えられ、明治に入ると石炭ガスを燃やすガス燈が街路を照らすことになり、生活は一段と明るさを増すことになりました。
 次いで電燈が初めて点灯されたのは1878年(明治11)3月25日、工部大学校(東大工学部)におけるある祝賀会の時でした。この電燈はアーク燈でしたが、今でもこの日を「電気デー」として記念しています。続いて1885年(明治18)、白熱燈も発明され、全国各地に電燈会社が次々と誕生し、その利用は急速に広まって行きました。しかし、埼玉県の電燈は1900年(明治33)に川口、1902年に大宮、1905年に川越と点灯されましたが、1913年(大正2)にいたっても全県380町村の中、電気供給を受けたものは8分の1の45町村に過ぎませんでした。
 七郷村北部の古里への伝播は更に遅く、1929年(昭和4)4月28日、東京電燈株式会社熊谷出張所と電燈設置の契約が締結されています。電気工事は85世帯、172燈の設置に5月21日から44日間、電工延156人を要しました。安藤寸介・安藤幸蔵を中心に25名の電燈委員会が設けられ諸事審議、運営にあたりました。
 総経費は500円を超え、1戸当り6円弱の負担でした。その他有力者は相当の寄付もし、引込み用の小柱は各戸自弁ということで大変な出費となりました。6月28日、本検査、夜仮点火。ランプに代わって明るい電燈が灯(とぼ)ったのです。その夜、点燈祝賀会が開かれ、来賓10名、字内の人々30名程が参加、電燈の灯ったことの喜びを分かち合いました。
 始め電燈料は定額制(一定時間だけ点燈して一定の料金)で、16燭(しょく)一灯で月78銭でした。やがて計量器(メートル器)に示される使用量にもとづき料金を支払うメートル制が導入され、いつでも電気がつくようになりました。
 明るさは16燭で20ワット、32燭でも40程度の明るさでしたが、それれでも行灯やランプよりははるかに明るく手間もかからず安全であつたので、大いに歓迎され普及していきました。

武蔵国郡村誌 古里村(現・嵐山町) ルビ・注

   古里村(ふるさとむら) 【現・埼玉県比企郡嵐山町大字古里】


本村古時伊子郷(ごう)*1、水房庄(しょう)*2松山領(りょう)*3に属す。
  *1:もと行政区画が国・郡・郷・村とあり数村を合せたものを郷と呼んだ。
  *2:郷と並び称されるが元荘園の名を受け継いでいる土地の呼び方。
  *3:大名等の領地。


彊域(きょういき)*1
東は男衾郡塩村と耕地を接し、西は西故里(にしふるさと)*2鷹巣二村と森林を連(つら)ね、南は本郡吉田村、男衾郡古里村に接し*3、北は板井、本田二村と畦畔(あぜ)を接す。
   *1:境界内の土地。
   *2:西古里。    
   *3:「男衾郡古里村に接し」は、誤り。

幅員(ふくいん)*1
東西十七町五十間。南北十五町五十間。

   *1:広さ。はば。
  
管轄沿革
天正十八年庚寅(かのえとら)(1590)徳川氏に帰し代官の支配たり。正保の頃(1644-1647)村高三百十九石六斗三升七合を割(さ)き旗下士酒井紀伊守、有賀半左衛門、内藤権右衛門、松崎権左衛門、長井七郎右衛門の采地(さいち)*1となし、余は猶代官に属す。宝暦中(1751-1763)代官属地は清水家の領地となり、寛政中(1789-1800)代官に復す。元祿十一年戊寅(つちのえとら)(1698)酒井氏の采地は上地(じょうち)*2となり、林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛に分与す。延享二年乙丑(きのとうし)(1745)松崎氏の采地を割(さ)き伊織に分つ。後代官属は再ひ清水家の領地となり、安政二年乙夘(きのとう)(1855)復(ふたた)ひ代官の支配となる。維新の際武蔵知県事の所轄となり、二年己巳(つちのとみ)(1869)品川県となり尋(つい)て*3韮山県に転し、四年辛未(かのとひつじ)(1871)入間県に隷(れい)し*4、六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県に属す。
  *1:知行地。
  *2:上知。幕府に拝領地を返すこと。あげち。
  *3:ついで。まもなく。
  *4:所属する


里程(りてい)*1
熊谷県庁より西方二里二十町。
四隣 吉田村へ十八町、西故里村(にしふるさとむら)へ十六町、本田村へ一里、板井村へ十六町三十間、塩村へ十五町。
近傍(きんぼう)*2宿町小川村へ一里二十町、榛沢郡寄居町へ三里五町。
   *1:みちのり。里数。

   *2:付近。         

地勢
東西は丘陵連亘(れんこう)*1、運輸不便、薪炭贏餘(えいよ)*2。
  *1:連亙。つながって長く続いていること。
  *2:あまり。剰余。


地味(ちみ)*1
色赤黒、水利不便、時々旱害(かんがい)*2を被(こうむ)る
  *1:地質の良否の状態。
  *2:干害。ひでりのために生じる農作物等の被害。


税地
田  三十二町七反七畝歩
畑  三十町二反五畝二十七歩
宅地 一町九反一畝二十八歩
山林 九町一反二十一歩
総計 七十四町五畝十六歩


字地
前田(まえだ) 村の南にあり、東西百三十間、南北百間。
明時(みょうとき) 前田の東に連る。東西二百間、南北八十間。
下耕地(しもこうち) 明時の東北に連る。東西二百三十間、南北五十間。
駒込(こまごめ) 下耕地の西に連る。東西百四十間、南北三百間。
岩根沢(いわねざわ) 駒込の西に連る。東西五十間、南北三百五十間。
長峯沢(ながみねざわ) 岩根沢の西南に連る。東西八十間、南北三百間。
尾根(おね) 長峯沢の西に連る。東西百八十間、南北百五十間。
向井(むかい) 尾根の西に連る。東西百間、南北百八十間。
薮谷(やぶやつ) 向井の西に連る。東西百八十間、南北四十間。
中内出(なかうちで) 薮谷の西に連る。東西百間、南北二百四十間。
内出(うちで) 中内出の南に連る。東西百間、南北百五十間。
神伝田(しんでんだ) 内出の西に連る。東西百八十間、南北百七十間。
上耕地(かみこうち) 神伝田の西南に連る。東西二百間、南北百三十間。
柏木(かしわぎ) 上耕地の東に連る。東西六十間、南北二百六十間。
道参山(どうさんやま) 柏木の西に連る。東西二百間、南北六十間。
神山(かみやま) 道参山の南に連る。東西二百五十間、南北二百四十間。
御領台(ごりょうだい) 神山の北に連る。東西百七十間、南北百間。
富士塚(ふじづか) 御領台の東北に連る。東西百二十間、南北二百六十間。
馬内(もうち) 富士塚の西に連る。東西百四十間、南北二百間。
原後(はらご) 馬内の北に連る。東西四百七十間、南北五十間。
林合(はやしあい) 原後の南に連る。東西三百間、南北百二十間。
中の下(なかのした) 林合の南に連る。東西二百間、南北百間。
新林(しんばやし) 中の下の東北に連る。東西百二十間、南北百六十間。
蟹沢(がんざわ) 村の中央にあり、東西百七十間、南北二百六十間。
二塚(ふたつか) 蟹沢の東に連る。東西百六十間、南北三百間。
茨原(いばら) 二塚の北に連る。東西百八十間、南北二百間。
保井(ぼい) 茨原の北に連る。東西二百間、南北七十間。
元全町(がんぜんまち) 保井の東に連る。東西二百五十間、南北五十間。
清水(しみづ) 元全町の南に連る。東西百三十間、南北二百間。
善久(ぜんきゅう) 清水の東に連る。東西九十間、南北二百五十間。
上土橋(かみどばし) 善久の東に連る。東西百二十間、南北二百二十間。
下土橋(しもどばし) 上土橋の北に連る。東西百四十間、南北九十間。


貢租
地租 米百三十七石四斗四升八合
    金三十四円三十七銭二厘
賦金(ふきん)*1 金二十五銭
総計 米百三十七石四斗四升八合
    金三十六円五十二銭二厘
  *1:割り当てられた金銭。賦課金。


戸数
本籍 七十九戸 平民
社  八戸  村社一坐 平社七坐
寺  二戸 天台宗一宇 曹洞宗一宇
総計 八十九戸


人口
男 二百十二口
女 二百九口
総計 四百二十一口


牛馬
牡馬三十一頭


舟車
荷車三輛 中車


山川
和田川 深二尺八寸、巾八尺。村の西方本田村より来り東方板井村に入る。其間二十二町。


道路
熊谷往還(おうかん)*1 村の東方塩村界より西南西故里(にしふるさと)村界に至る。長十一町一間一尺、道巾二間。
  *1:街道。主要な道路。


湖沼
駒込溜池 東西十五間、南北四十間、周回百十間。村の寅(とら)の方*1にあり田の用水に供す。
   *1:東北東の方位。

岩根沢溜池 東西十二間、南北四十間、周回百四間。村の寅(とら)の方にあり田の用水に供す。

薮谷溜池 東西二十五間、南北五十間、周回百五十間。村の子(ね)の方*2にあり田の用水に供す。
 *2:北の方位。

神山溜池 東西三十間、南北十五間、周回九十間。田の用水に供す。

林合溜池 東西二十五間、南北十五間、周回八十間。村の亥(い)の方*3にあり田の用水に供す。
   *3:北北西の方位。


蟹沢溜池  東西二十五間南北百二十間周回二百九十間村の子(ね)の方にあり田の用水に供す

神社
舳執社(へとりしゃ) 村社。社地東西十間、南北十五間、面積百五十坪。村の中央にあり武甕槌命(たけみかづちのみこと)*1を祭る。祭日九月十九日。社地中老樹あり。
  *1:剣の叩武道の叩

 
 稲荷社 平社。社地東西十一間、南北二十一間、面積二百三十一坪。村の東北にあり倉稲魂命(うかみたまのみこと)*1を祭る。祭日二月初午(はつうま)。社地中松の老樹あり。
  *1:五穀豊穣をもたらす神。

 
 愛宕社(あたごしゃ) 平社。社地東西九間、南北六間、面積五十四坪。村の東方にあり火産靈命(ほむすびのみこと)*1を祭る。祭日六月十五日。
  *1:火難除けの神。

 
 八幡社 平社。社地東西四間、南北十二間、面積四十八坪。村の西にあり誉田別尊(ほんだわけのみこと)*1を祭る。祭日八月十五日。
  *1:記紀の第15代応神天皇。仲哀天皇の皇子で、母は神功皇后。


天神社 平社。へ執社地中にあり菅原道真を祭る。祭日二月二十五日。

 
日枝社(ひえしゃ) 平社。社地東西八間半、南北十七間、面積百四十五坪。村の西にあり大山咋命(おおやまくいのみこと)*1を祭る。祭日九月七日。
  *1:家内安全、豊業振興の神。

 
 小女郎社(こじょろうしゃ) 平社。社地東西九間、南北七間、面積百四十五坪。村の西に帛幡千々姫(はくはたちぢひめ)*1を祭る。祭日一月十五日。
  *1:『七郷村誌原稿』では、「帛」ではなく、拷幡千々姫(たくはたちぢひめ)。高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の女(むすめ)。穀霊神の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の母。

 
山神社 平社。社地東西九間、南北十二間、面積百八坪。村の西にあり大山祗命(おおやまづみのみこと)*1を祭る。祭日一月初申(さる)。
  *1:山の神。神奈川県伊勢原市大山の阿夫利神社の祭神と同じ。


仏寺
瀧泉寺(りゅうせんじ) 東西二十一間、南北三十八間、面積九百坪。村の北方にあり。天台宗東京山王社別当勧理院の末派なりしか、維新の際浅草寺末となる。当寺は旧(も)と光林寺と称せしを、慶安三年(1650)僧真海中興せしとき今の寺号に改むと云。

 
重輪寺 東西六十四間、南北五十間、面積三千坪。村の西方にあり。曹洞宗上野国群馬郡白川村瀧沢寺の末派なり。慶長二年(1597)僧理山銀察開基す。


役場
事務所 村の中央。戸長宅舎を仮用す。


物産
繭 五十三石
米 二百四十石
薪 六百駄


民業
男女農桑山稼(かせぎ)を専とす。

むかしの吉田村の様子 1764年(明和元)頃

 『武蔵国郡村誌』によれば御一新の折の吉田村は折井氏(四〇〇石)・山本氏(二〇〇石)・菅沼氏(一九石余)・松下氏(八〇石余)の四給入会の村で、総高六九九石余であった。この状態は徳川氏関東入府以来与えた採地であり、一部菅沼氏が曽我氏に変り、石高の微動はあったが、概ね受け継がれてきた。
 いま、ここに一七六四(明和元)年の吉田村に関連する二つの村明細帳が残されている。 一つは松下清九郎知行所のもので、他の一つは菅沼小膳知行所のものである。松下は八〇石余、菅沼は拾九石余合わせても九十九石、吉田村全体石高の七分の一程で、これをもって全村の昔時を語ることは出来ないが、大凡の様子は類推出来ると思う。
 先ず土地の状況は別表に示したように、田畑共広さにおいて上・中田畑が下・下々田畑を上回っている。『郡村誌』によれば地味は色が赤或は黄色で埴(徴密な黄赤色の粘土質)が交じり、稲粱(いねとあわ)に適しているが、水利が悪く旱魃に苦しめられたと記されている。両所の石高・反別から試算してみると反当り松下は一石八斗、菅沼は一石で平均すれば一石四斗で、石盛の標準一石五斗に比べて、それなりの収量は収められていたと思われる。
 これに対して労働力は両所合わせて、家数八軒、人口男十八人女十七人の計三十五人、一軒当たり四人か五人の家族で、その内に子供、老人も含まれていたであろうから、本来の働き手は十五人から二十人位であったろう。それに馬三頭で、ほぼ七町歩の田畑の耕作はかなりの重労働であったろう。従って新開畑の項に見られる通りほとんどが藪山になり収穫は思うように得られなかったようである。
 この収穫の中から上納される年貢米は大里郡の江川村の河岸(かし)から津だし(港から船の荷を積んで出すこと)された。
 水利の関係は中央に滑川が流れ、そこに堰が一ヵ所あり、水門圦樋(いりひ)が二ヵ所に設けられていた。その他溜池は吉田全体で十五ヵ所あり、四給入会いであったので羽口(堤防の傾斜地)を修理したり、樋(溜池から水を導き送るための管)の伏替、或いは堀さらえ等は村全体の負担で行われた。
 道は割合よく整っていたと思われる。なにしろ滑川に橋が十二ヵ所にわたって架けられていたし、小川へ二里、熊谷へ三里、深谷へ四里、鴻巣へ六里と道は四通していた。ただこの道の普請や橋の架け替えも村役で全体で負担しなければならなかった。
 その他村の負担になったものに「助郷」(宿駅常備の伝馬人足が不足したとき指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村)があり、川越から高崎へ通ずる脇街道の宿駅志ケ村(志賀)への助郷村に定められていたので、時により人馬の提供を与儀なくされていた。また記録によれば猪鹿が多く出て田畑を荒らした。領主に鉄砲の貸与を願い出た文書もみられ、これを追い払い畑作をまもることにも多大の労力が払らわれた。
 村民の大部分が農に従事し、天変地異の起こらない限り過不足のない生活だったろう。ただ、河川・溜池・道路・橋等の管理補修への負担は大きく、助郷役等の夫役もまた生活を圧迫した事であろう。

古里の土地開発 1870年

 1870年(明治3)6月韮山県役所へ開拓の願出があった。願出た人物は古里村の横田裕次郎知行所(28石余)の小前役人総代の百姓代兼吉と名主の藤吉である。
 御一新になって徳川領はすべて上知(政府へ土地を返納すること)されていたので旗本横田氏の所領も新政府韮山県の支配下にあった。出願された韮山県も誕生間もなく土地をどう所有するのか、どう管理運用するのか定説も法制もなかったので混乱していたと思われる。幕政下では領主に願い出れば穏田(かくしだ)とならない限り、収入増(年貢が増える)となることでむしろ奨励された。
 「村明細帳」や「年貢割付帳」にはしばしば「新開」として記されている。
 例えば吉田村の「明細帳」に
    外
  新開 中畑  壱反壱畝拾歩
  同  下畑  七反弐畝歩
  同  下々畑 五反八畝六歩
 右之内五反五畝山ニ相成申候
とあり、十四反開発しても、三分の一は畑として使えなくなったことを報告している。
 開発には莫大な労力かかっていても、それに見合う収益が必ずしも得られないという恨みはあった。
 そうした事情があってか兼吉・藤吉は同年三月に願い出たが許可にならず、今回二度目の出願取調べとなった。
 開発の場所は古里村字馬内(もうち)と熊谷から小川に通ずる往還の間の旧地頭林(領主の私有する山林)三反歩(約九百坪)のところである。5年前の1865年(慶応元)に地頭所において残らず伐木し、今では藪山(雑草雑木の密生しているところ)となっている所であった。2人は今回更に麁絵図(略図)を貼付し、1871年(明治4)から3ヵ年間、毎年永86文宛上納する事を条件に申し出た。
 開発側にしてみればここを切り開き作物を作ってみても、成功するかどうか分からない、それでも年86文の上納約束をしてまで許可を受けたかった。土地についての考え方も変ろうとしていた時期だったのだろう。
 新政府は1871(明治4)には「田畑勝手作」を許可し、翌年には「土地永代売買禁令」を解除、「地券」(土地の所有者、地目、反別、地価を明記したもの)の発行を定めた。土地に関する規制や運用が緩和され、全国で開発が進み、やがて北海道への開拓へと進んでいった。

新編武蔵風土記稿 鎌形村(現・嵐山町) ルビ・注

  鎌形村(かまかたむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字鎌形)
    附持添新田(もちぞえしんでん)
鎌形村ハ鎌形郷大河原庄松山領ニ属ス。江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ前村に載(の)ル所ト同ジ*1。民戸百三十六、東ハ大蔵村(おおくらむら)、南ハ須江(すえ)・竹本(たけもと)ノ二村ニ境ヒ、西ハ田黒村(たぐろむら)ニ接シ又槻川(つきかわ)ヲ隔(へだ)テ遠山村(とおやまむら)ニ隣レル処アリ、北ハ千手堂(せんじゅどう)・菅谷(すがや)ノ両村ナリ。東西二十町、南北二十四、五町、用水ハ都幾川(ときがわ)ヲ引キ来テ田間ニ沃(そそ)ゲリ。正保(しょうほう)ノ頃(1644-1648)ノ頃ハ御代官所ニテ寛文八年(かんぶん)(1668)曽根五郎左衛門(そねごろうざえもん)検地セリ。後元禄十一年(げんろく)(1698)金田周防守(かねだすおうのかみ)ガ采地(さいち)*2ニ賜リ、夫(それ)ヨリ引続キ子孫主殿(しゅでん)知ル所*3ナリ。此余(このほか)持添新田*4アリ、元文五年(げんぶん)(1740)芝村藤右衛門(しばむらとうえもん)、明和五年(めいわ)(1768)宮村孫左衛門(みやむらまござえもん)、文化六年(ぶんか)(1809)浅岡彦四郎(あさおかひこしろう)等検地ス。
   *1:将軍沢村(しょうぐんざわむら)と同じく江戸より16里。
   *2、3:知行所
   *4:村の地続きを開いた新田で、収穫不安定な場合は石高はつけず、本村から出耕作している新田村居の農民が不在の土地。

高礼場(こうさつば)*1 二ヶ所 南北ニ分テリ。
   *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。


小名 上原 塩沢 植木山


塩山 西方ニアリ上リ四五町*1。
   *1:1町は約109メートル。

槻川 村ノ北ノ方ヲ流ル。川幅十五六間*1砂利川ナリ。田黒村ヨリ入リ村内ニテ都幾川ニ合セリ。
   *1:1間は約1.8メートル。

都幾川 坤(こん)ノ方*1ヲ通ゼリ。水幅三十間余、此川ニ添(そ)ヒテ堤(つつみ)アリ。
   *1:南西の方角。

清水 村ノ南ノ方ニアリ、竹藪(たけやぶ)ノ間ヨリ湧(わき)出セル小流ナリ木曽殿清水(きそどのしみず)ト呼ベリ。旱魃(かんばつ)ニモ水涸(かれ)ルコトナシト云フ。又此辺ヲ木曽殿屋敷トモ呼ベリ、此辺総テ六ヶ所ノ清水アリシガ、今ハ其形モ残ラズ。猶(なお)八幡社ノ条ニモ載(の)セタリ。

鎌形村


八幡社 村ノ鎮守(ちんじゅ)ニシテ又田黒村・玉川郷等ノ産神(うぶがみ)*1ナリ。天正十九年(てんしょう)(1591)社領二十石ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜リシニ、寛文四年(かんぶん)(1664)焼失セシガ貞享二年(じょうきょう)(1685)再ビ御朱印ヲ賜リ、正徳年中(しょうとく)(1711-1716)ニ当住某ガ記セル社伝アリ*2。其中ニ延暦十二年(えんりゃく)(793)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)勅命ヲ蒙(こうむ)リ東奥ノ夷賊(いぞく)*3退治トテ関東ニオモムキシトキ当所塩山ニ勧請(かんじょう)セリ。相続キテ伊予守頼義(いよのかみよりよし)*4・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)*5モ東征ノミギリ所願ヲコメ其後義賢(よしかた)*6・義仲(よしなか)*7・頼朝(よりとも)*8・尼御台所(あまみだいどころ)*9等信仰浅カラズ、神田(しんでん)*10若干ヲ寄セラル云云。又義仲誕生(たんじょう)ノハジメ七個処ノ清水ヲ挹(く)テ産湯(うぶゆ)ニ用ヒシト云フ。コノ七ヶ所ノ清泉今ハ大抵廃セリ*11。又当所の鐘(かね)ハ軍旅(ぐんりょ)*12ニ奪ハレ秩父郡御堂村(みどうむら)*13浄蓮寺(じょうれんじ)ノ宝器(ほうき)とナリタレバ今ハ鐘ナシ云云等ノコトヲ載(の)セタリ。サレド彼鐘銘ニ上州緑野郡板倉郷円光寺鐘正慶二年(しょうけい)(1333)癸酉(みずのととり)三月云云及ビ武州比企郡釜形郷八幡宮鐘大檀那(おおだんな)矢野安芸守(やのあきのかみ)文明十一年(ぶんめい)(1479)己亥(つちのとい)八月九日ト云ヒテアリ、サレバ元ハ上野(こうずけ)*14ニアリシヲ当所へ持来リ、又秩父郡へ転ゼシナラン、サハアレ古社ノ証(あかし)トハナスベシ。又銅華蔓(けまん)二ツヲ神宝トス。一ハ円経五寸五分弥陀(みだ)ノ坐像ヲ鋳出シ、傍(かたわら)ニ安元二(あんげん)丙申(ひのえさる)天(1176)八月之吉清水冠者源義高*15トアリ、一ハ円経四寸八分薬師ノ坐像ヲ鋳出ス、左傍ニ貞和四戌子(いぬね)年(1348)七月日大工兼泰(かねやす)トアリ、右傍に四ノ文字アレド磨欠シテ読得ズ。当所ニ置ケルユエンハ伝ヘズ。華鬘(けまん)二図上ニ載ス。
   *1:鎮守の神。
   *2:
   *3:都から遠く離れた人たちを野蛮人として軽蔑していう語。えびすの賊。
   *4:源義義。源義家の父。
   *5:源義家。
   *6:源義賢。源頼朝の叔父で木曽義仲の父。
   *7:木曽義仲。
   *8:源頼朝。
   *9:源頼朝の妻政子。
   *10:神社に付属し、神社維持のための田。
   *11:七清水の位置は、中世編1-1-1の図を参照。
   *12:軍隊。
   *13:現・東秩父村御堂。
   *14:現・群馬県。
   *15:源義仲の子。

  ○別当*1 大行院(たいぎょういん) 本山修験(しゅげん)、幸手不動院*2ノ配下ナリ、鎌形山真福寺ト号ス。開山栄長寂年(じゃくねん)*3ヲ伝ヘザレト、御堂村浄蓮寺文明十一年(ぶんめい)(1479)ノ鐘銘ニ永運栄海ナドアルモ、当院世代ノ内ナリト云ヘバ旧キコト推(おし)テ知ルベシ。
   *1:神社の管理にあたるもの。
   *2:関東を代表する本山派修験の大先達で配下の本山派修験寺院を支配した。
   *3:死亡の年。

  ○桜井坊(さくらいぼう) 大行院ト同ジク不動院ノ配下ナリ、大聖院ト称ス。中興清伝天正三年(てんしょう)(1575)寂ス*1。本尊不動ヲ安ス。
   *1:死亡する。

  ○石橋坊(いしばしぼう) コレモ不動院ノ配下、開山源慶大永元年(たいえい)(1521)寂セリ。本尊不動ヲ安ス。此二坊ノ本山大行院トシ同ジケレド今ハ大行院ニ属シテ配下ノ如シ。


  ○薬師堂


瀬戸明神社 村民持


班溪寺(はんけいじ) 禅宗曹洞派*1、入間郡越生竜穏寺ノ末、威徳山ト号ス、本尊釈迦ヲ安セリ。開山ハ本寺十六世鶴峯聚孫寛永三年(かんえい)(1626)十二月十六日寂(じゃく)セリト。サレド当時ハ清水冠者義高母威徳院殿班溪妙虎大姉追福ノタメニ草創セリ。コハ旧キ人ナレバ鶴峯ハ中興ニテ開山ノ名ハ失ヒシナルベシ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。


  ○鐘 享保四年(きょうほう)(1719)ノ銘ナリ。文中木曽義仲ノ長男清水冠者義高、為阿母威徳院殿班溪妙虎大姉創建所也ト見ユ。


  ○天神社


宗信寺(そうしんじ) 日蓮宗*1、下総(しもうさ)国真間弘法寺ノ末、経王山ト号ス。本尊三宝ヲ安ス。開山日法慶安(けいあん)元年(1648)七月十五日寂セリ。
   *1:鎌倉時代、日蓮によって開かれた宗派。

※鎌形八幡神社社額
鎌形八幡社額

※鎌形八幡神社天井画
天井画

※奉納額 明和8年(1771)
奉納額

新編武蔵風土記稿 古里村(現・嵐山町) ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。
 
  古里村(ふるさとむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字古里)

古里村ハ江戸ヘノ行程(こうてい)前村ト同ジ*1。郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)ヘ詳(つまびらか)ナラズ。東ハ土塩村(つちしおむら)ニ隣リ、南ハ吉田村ニ錯(まじわ)リ、西北ノ二方ハ男衾郡(おぶすまぐん)西古里・本田ノ二村ニ接(せつ)ス。東西十七、八町(ちょう)、南北八町*2許(ばか)リ。民戸七十。正保(しょうほう)ノ頃(1644-1648)ノモノニハ高室喜三郎(たかむろきさぶろう)御代官所及ビ酒井紀伊守(さかいきいのかみ)、有賀半左衛門(ありがはんざえもん)、市川太左衛門(いちかわたざえもん)、内藤権右衛門(ないとうごんえもん)、松崎権左衛門(まつざきごんざえもん)、永井七郎右衛門(ながいしちろうえもん)ガ知行*3トアリ、後宝暦(ほうれき)年中(1751-1764)ニ至リ御料所(ごりょうしょ)*4ノ分ヲ清水殿ノ領地ニ賜(たまわ)リシニ、寛政(かんせい)年中(1789-1801)上リテ又御料所トナレリ。松崎権左衛門ノ知行ハ子孫権左衛門忠延(ただのぶ)ノ時、延享(えんきょう)二年(1745)七月二男松崎伊織幸喜ニ分テリ。酒井紀伊守ノ知行ハ子孫兵部(ひょうぶ)ノ時上リテ元祿十一年(げんろく)(1698)林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛ガ家ニ賜リ、今モ此等ノ子孫、永井五左衛門、市川瀬兵衛、内藤熊太郎、有賀滋之丞(しげのじょう)、松崎藤十郎、同キ弥兵衛、林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛ノ知行所ナリ。
  *1:前村(奈良梨村)から江戸までの行程17里と同じ。
  
*2:1町は約109メートル。
  
*3:領知。領地。
  
*4:幕府の直轄地。

 高札場(こうさつば)*1 十ヶ所ニアリ。
  *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

  小名(こな) 中内手(なかうちで) 峯内手(みねうちで) モウチ

 滑川(なめがわ) 南ノ方吉田村ヨリ来ル水、村内小渠(しょうきょ)*1ノ悪水(あくすい)*2ニ合シ、一条*3ノ流トナリテ東ノ方ヲ通ズ。川幅四、五間。
  *1:小さな堀。
  
*2:水田の水を落とす小川。排水路。用水の反対語。悪水堀。
  
*3:一筋。

 兵執明神社(へとりみょうじんしゃ)*1 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ。社内ニ蔵(ぞう)スル宝永(ほうえい)七年(1710)ノ棟札(むなふだ)ニハ兵執明神ト書セリ。
  *1:武甕槌命(たけみかづちのみこと)を武勇の神として祀る。

 愛宕社(あたごしゃ)*1
  *1:雷神を祀り、防火の守護神。

 稲荷社(いなりしゃ)*1
  *1:五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神を祀る。

 以上三社ハ竜泉寺持。

 竜泉寺(りゅうせんじ) 天台宗*1、江戸山王社(さんのうしゃ)別当(べっとう)城林寺ノ末、金剛山(こんごうさん)金州院(きんしゅういん)ト云ヒ、開山(かいさん)ノ僧ハ貞治三年(じょうじ)(1364)十月示寂(じじゃく)セシ*2ト云フノミ。其名詳ナラズ。当寺ハモト光林寺(こうりんじ)ト号セシヲ、慶安三年(けいあん)(1650)真海(しんかい)ト云フ僧中興(ちゅうこう)セシ時今ノ寺号ニ改メタリ。真海ガ寂年(じゃくねん)*3詳ナラズ。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*4ヲ安セリ*5。
  *1:平安時代に中国で学んだ最澄(さいちょう)が、帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。
  *2:死亡する。
  
*3:死亡した年。
  
*4:阿弥陀(あみだ)の略。
  
*5:安置する。

 重輪寺(じゅうりんじ) 元ハ重林寺ト書セリ。曹洞宗(そうとうしゅう)*1、上野国群馬郡白川村竜沢寺末、旧里山ト号ス。慶長(けいちょう)年中(1596-1615)ノ草創ニテ、開山理山銀察(りざんぎんさつ)ハ寛永十年(かんえい)(1633)十一月廿五日化ス*2。本尊地蔵*3ヲ安セリ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
  
*2:死亡する。
  
*3:地蔵菩薩。

新編武蔵風土記稿 広野村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

   広野村(埼玉県比企郡嵐山町大字広野)

 広野村(ひろのむら)ハ水房庄(みずふさしょう)*1ニ属(ぞく)セリ、領名(りょうめい)及(およ)ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村*2ニ同ジ*3。村ノ四方、東ハ太郎丸村(たろうまるむら)ニテ、南ハ杉山村(すぎやまむら)ニ接(せつ)シ、西ハ越畑村(おっぱたむら)、北ハ勝田(かちだ)・伊子(いこ)ノ二村ニ続ケリ。東西二十八町(ちょう)*4南北十町(ちょう)許(ばか)リ。戸数(こすう)六十軒(けん)、御打入(おうちいり)*5ノ後高木筑後守廣正(たかぎちくごのかみひろまさ)ニ賜(たまわ)リ子孫(しそん)続キテ知行(ちぎょう)*6セシガ、元祿十一年(げんろく)(16989御料所(ごりょうしょ)*7トナリ同十三年黒田豊前守(くろだぶぜんのかみ)ニタマヒ、同キ十七年木下求馬(きのしたきゅうま)・島田藤十郎(しまだとうじゅうろう)・内藤主膳(ないとうしゅぜん)・大久保筑後守(おおくぼちくごのかみ)ガ家ニ賜(たまわ)リテヨリ今ニ替(かわ)ラズ。
   *1:『新編武蔵風土記稿』に出てくる庄名。属したのは広野・水房村枝郷太郎丸・福田・伊子・水房・水房村枝郷中尾・野田・岡郷・小江川の九か村。現在の嵐山町・滑川町・東松山市・熊谷市の旧江南町あたり。
   *2:千手堂村。
   *3:「江戸ヨリ行程拾六里」。
   *4:1町は約109メートル。
   *5:徳川家康が天正18年(1590)江戸城に入ったことをさす。
   *6:支配。
   *7:幕府の直轄地。

 高札場(こうさつば)*1 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

 小名(こな) 川島 爰(ここ)ハ村ノ飛地(とびち)ニシテ東ノ方太郎丸村ヲ隔(へだ)テシ所ヲ云フ。
       勝田(かちだ) 是(これ)モ村ノ飛地ナリ、北ノ方勝田村(かちだむら)ノ辺(へん)ニアリ。
       上郷(かみごう) 中郷(なかごう) 下郷(しもごう)
 八宮社(やみやしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、泉覚院持
 鬼神明神社(きじんみょうじんしゃ) 村民持(そんみんもち)。
 金鑽社(かなさなしゃ)*1此(この)神社ハ当国(とうこく)ノ古社ナリ。児玉郡金鑽村(かなさなむら)金佐奈(かなさな)神社ノ遥拝(ようはい)ノ為ニ建シナルベシ。持(もち)前ニ同ジ。
   *1:地元に残る安政七年(1860)の神社修復帳には金皿大明神と記されている。金皿山(かなさらやま)の山頂近くにあったが、関越自動車道の建設により今はふもとに移されている。火伏(ひぶせ)の神として信仰されている。

 廣正寺(こうしょうじ) 曹洞宗(そうとうしゅう)*1 郡中(ぐんちゅう)市ノ川村(いちのかわむら)*2永福寺(えいふくじ)末(まつ)、高木山(こうぼくさん)ト云フ。慶安二年(けいあん)(1649)寺領(じりょう)二十石(こく)ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜(たま)ヘリ。当山(とうざん)ハ入間郡龍ケ谷村(たつがやむら)龍穏寺(りゅうおんじ)、四世(よんせい)ノ住僧(じゅうそう)天庵(てんあん)ノ草創(そうそう)*3ニシテ、元ハ萬福寺(まんぷくじ)ト号(ごう)セシヲ、当所(とうしょ)ノ地頭(じとう)高木甚左衛門正綱(たかぎじんざえもんまさつな)、其父筑後守廣正(ちくごのかみひろまさ)ノ追福(ついふく)*4ノタメ永福寺ノ僧起山(きざん)*5ヲ請(こう)テ中興(ちゅうこう)*6シ、父ノ実名(じつめい)ヲモテ寺号(じごう)*7トシ中興開墓トセリ。廣正(ひろまさ)ハ慶長十一年(けいちょう)(1606)七月二十六二日卒ス*8。法名(ほうみょう)萬福院殿大翁秀椿大居士(まんぷくいんでんだいおうしゅうちんだいこじ)ト云フ。正綱(まさつな)ハ寛永(かんえい)九年(1632)十一月十日卒ス。廣正寺性空道把居士(こうしょうじせいくうどうはこじ)*9ト謚(おくりな)*10セリ。中興開山(ちゅうこうかいさん)起山(きざん)元和六年(げんな)(1620)十一月十二日化(か)ス*11。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*12【阿弥陀(あみだ)の略】ヲ安(あん)ス。小野篁(おののたかむら)*13ノ作ト云フ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗とならぶ禅宗の二大宗派。
   *2:現・東松山市大字市ノ川。
   *3:創建。
   *4:追福。
   *5:起山洞虎禅師(きざんどうこぜんじ)。
   *6:ふたたび盛んにすること。
   *7:寺の呼び名。廣正寺。
   *8:死ぬこと。
   *9:正しくは廣正寺殿性空道把大居士(だいこじ)。
   *10:死後、徳をたたえて贈る称号。
   *11:死ぬこと。
   *12:阿弥陀の略。
   *13:平安時代前期に宮中に仕え参議になった漢学者。歌人として名を残した。
 
  ○鐘楼(しょうろう) 享保年中(きょうほう)(1716−1735)ニ鋳(い)タル鐘(かね)ヲ掛(か)ク。
 泉覚院(せんかくいん) 本山修験(しゅげん)*1男衾郡(おぶすまぐん)板井村(いたいむら)*2長命寺(ちょうめいじ)配下(はいか)、本尊(ほんぞん)不動(ふどう)*3ヲ安(あん)ス。
   *1:京都の聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派修修道(しゅげんどう)のこと。修験道は日本固有の山岳信仰に根ざし、密教(みっきょう)の影響(えいきょう)を受けて形成された宗教の一派。
   *2:江戸時代から1889年(明治22)までの村名。現・熊谷市の旧江南町の大字名。
   *3:不動明王のこと。


 弥陀堂(みだどう)*1
 薬師堂(やくしどう)*2二宇(にう)*3共(とも)ニ村持(むらもち)。
   *1:阿弥陀仏(あみだぶつ)を安置したお堂。
   *2:薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)を安置したお堂。
   *3:二つのお堂。

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