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新編武蔵風土記稿 勝田村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  勝田村(かちだむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字勝田)
 
 勝田村ハ松山領ニ属(ぞく)シ江戸ヨリ行程(こうてい)前村*1ニ異(こと)ナラズ*2。按(あんず)ルニ『東鑑(あずまかがみ)』*3建久四年(1193)二月十日ノ条(じょう)ニ、毛呂太郎季綱(もろたろうすえつな)*4勧賞(かんしょう)*5トシテ武蔵国泉・勝田ノ地ヲ賜フヨシ見エタリ。コノ勝田ト云フハ即チ当村ノコトニテ、泉ハ隣村和泉村(いずみ)ナルベシ。サレバ古クヨリ開ケシ村ナルコト知ラル。東ハ伊子村ニ隣リ、南ハ広野村ニテ、西ハ吉田村ニ錯(まじわ)リ、北ハ和泉村に境(さかい)セリ。東西十八丁南北二十五丁許(ばか)リ、民戸四十六。コノ村正保(しょうほう)ノ頃(1644−1648)ノモノ*6ニハ岡部外記(おかべげき)*7ガ知行(ちぎょう)タリシコト見エタリ。ソノ後モ子孫続キテ知行セシガ、安永元年(あんえい)(1772)岡部徳五郎罪(つみ)アリテ没収*8セラレ御料所(ごりょうしょ)トナリ、同キ九年猪子左大夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リテ今モ其子孫栄太郎ノ知ル所*9ナリ。
   *1:伊子村(いこむら)。現・滑川町大字伊古。
   *2:江戸より16里。
   *3:吾妻鏡(あずまかがみ)。鎌倉幕府編纂(へんさん)の歴史書。1180年(治承4)源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵(きょへい)から,第六代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任(かいにん)されて1266年(文永3)に京都に帰るまでを記述(きじゅつ)。
   *4:季綱の父毛呂太郎季光(すえみつ)は入間郡毛呂郷(もろごう)の在地領主で、源頼朝に仕えて人柄と力量で信頼され、源氏一門に準(じゅん)じる待遇を受けて豊後守(ぶんごのかみ)に任じられ、毛呂郷の地頭職を安堵(あんど)されたという。季光の子季綱も頼朝に仕えていた。
   *5:ほうび。
   *6:正保田園簿。
   *7:今川義元(よしもと)の家臣川村善右衛門(かわむらぜんえもん)の妻は、善右衛門の死後に江戸幕府の後の二代将軍秀忠の誕生(たんじょう)で、その乳母(うば)として召しだされ、大姥(おおうば)と呼ばれて奉公した。大姥の息子の主水(もんど)は家康に仕え、家康の指示で大姥の旧姓を継(つ)いで岡部(おかべ)主水(もんど)を名乗ることになった。岡部外記は主水の孫で岡部家の三代目、将軍家光の時代に小姓組(こしょうぐみ)に組み入れられている。
   *8:岡部家は廃絶(はいぜつ)、岡部家八代目徳五郎は遠山(とおやま)の遠山寺(えんざんじ)に入門、27歳で死亡。
   *9:知行所。

 高札場(こうさつば)*1 村ノ西ニアリ
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

 小名(こな) 高倉 新井 天神山

 淡洲明神社(あわすみょうじんじゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ。

 天神社(てんじんじゃ)*1
   *1:菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る。学業成就、学問の神として崇拝されている。

 鹿島社(かしましゃ)*1
   *1:武勇の神、国家鎮護(こっかちんご)の神として武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀る。

 稲荷社(いなりしゃ)*1
   *1:五穀豊穣(ごこくほうじょう)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)の神として信仰された。

  以上ノ四宇(よんう)*1ハ百姓持(ひゃくしょうもち)
   *1:4社。


 正福寺(しょうふくじ) 新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、男衾郡(おぶすまぐん)富田村不動寺(ふどうじ)末、宝蔵山(ほうぞうさん)ト号(ごう)ス。開山(かいさん)祐尊(ゆうそん)、万治(まんじ)元年(1658)九月十六日示寂(じじゃく)ス*2。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*3ヲ安(あん)ス*4。
   *1:空海によって開かれた真言宗の一派。
   *2:死去。
   *3:阿弥陀の略。
   *4:安置。

新編武蔵風土記稿 太郎丸村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 
   太郎丸村(たろうまるむら)
(現・埼玉県比企郡嵐山町大字太郎丸)

 太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ*1、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村*2ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)*3アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)*4トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』*5ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)*6・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)*7ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)*8アリ。爰(ここ)モ本村*9ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロ*10ナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)*11セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。
   *1:水房村は江戸より16里。1里は約3.927キロメートル。
   *2:現在は滑川町大字水房。
   *3:支配地の田畑(たはた)の面積(めんせき)や生産高を調査(ちょうさ)すること。
   *4:開発によって新しい村が作られたり、村高を分割して新村をつくったりしたとき枝郷とか枝村といった。
   *5:検地帳(けんちちょう)。
   *6:現在は滑川町大字中尾。
   *7:1868年(明治元年)に伊古村と変更(へんこう)した。
   *8:水害など。
   *9:水房村。
   *10:知行所。
   *11:幕府に回収。

 高札場(こうさつば)*1 村ノ西ニアリ。
   *1:禁令や法令を板書し、庶民に周知するよう掲示した場所。

 市ノ川 村ノ南堺(みなみさかい)ヲ流ル、川幅(かわはば)三間(さんげん)*1
   *1:1間は約1.8メートル。

 淡洲明神社(あわすみょうじんじゃ) 村ノ産神(うぶすなかみ)*1ナリ、村持(むらもち)。
   *1:守り神、鎮守の神。


 観音堂(かんのんどう)*1 村持。
   *1:観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の像を祀(まつ)っているお堂。

新編武蔵風土記稿 菅谷村(現・嵐山町) ルビ・注

  菅谷村(すがやむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷)
菅谷村ハ江戸ヨリ十五里*1、郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)ヘヲ伝ヘズ。古ハ須賀谷ト書キシヲ仮借(かしゃく)シテ今ハカク記セリ。『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』*2ニ長享(ちょうきょう)年間(1487-1489)、須賀谷之地平沢山ト云フコトミエタリ。其文ノ大略ハ古城蹟(こじょうあと)ノ条ニ出セリ。平沢ハ隣村ナレバ当村ヲ指セシコト明ナリ。下リテ正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃マデモ須賀谷ト書キシガ、元祿(げんろく)ノ図*3ニハ菅谷ト書シタレバ、改リシハ元祿前ノコトナルベシ。戸数四十。江戸ヨリ秩父郡、或ハ中山道へ出ル脇往還(わきおうかん)ニシテ人馬継立(つぎたて)ヲナセリ。東ハ月輪(つきのわ)村ニ接シ、巽(たつみ)*4ノ方ハ上唐子(かみからこ)村ニテ、南ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テ大蔵(おおくら)村ニ隣リ、西ハ平沢・志賀ノ二村ニテ北ハ杉山・太郎丸ノ二村ナリ。東西八町南北九町。此モ天水ヲ待テ耕セリ。御入国(ごにゅうこく)*5ノ後ハ岡部太郎作(おかべたろうさく)*6ノ知行所(ちぎょうしょ)ニシテ、寛文五年(1665)時ノ地頭(じとう)撿地(けんち)セリ。其後子孫徳五郎*7ノ時、上地(あげち)*8セラレシヨリ御料所トナリ、安永九年(1780)猪子左太夫(いのこさだゆう)*9ニ賜リ子孫栄太郎知行セリ。
  *1:1里は約3.927キロメートル。
  *2:室町時代の漢詩文集。著者は万里集九(ばんりしゅうく)。
  *3:「新編武蔵風土記稿」の比企郡巻1にある郡図の「元禄年中改定図」のこと。
  *4:南東。
  *5:徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
  *6:旗本。岡部家二代目の岡部玄蕃(げんば)のこと。初代岡部主水(もんど)の母は家康の命で秀忠(ひでただ)の乳母(うば)を勤め、主水は家康から2千石を与えられる。玄蕃は秀忠に小姓組(こしょうぐみ)で仕えた。
  *7:岡部家8代目。「新編武蔵風土記稿」の勝田村の項には「罪アリテ没収セラレ御料所トナリ」と記されている。
  *8:没収。
  *9:旗本。

高札場*1 北ノ方ニアリ。
  *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 元宿(もとじゅく) 昔宿並(しゅくなみ)ヲナセシ所ナリ。
都幾川 南方ヲ流ル。川幅二百間(けん)*1
  *1:1間は約1.8メートル。およそ360メートル。

山王社(さんのうしゃ)*1村ノ鎮守ナリ。村持下同ジ。
稲荷社(いなりしゃ)*2
天神社(てんじんしゃ)*3
  *1:1907年(明治40)に菅谷神社と改称した。
  *2:五穀豊穣(ごこくほうじょう)をもたらす神を祭った。
  *3:学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祭った。

東昌寺(とうしょうじ) 当時元ハ長慶寺(ちょうけいじ)ト云フ。古城ノ鬼門(きもん)*1ニアリ、其頃ノ開山(かいさん)*2ヲ伝ヘズ。後寛文(1661−1673)ノ始能国芸大ト云フ僧、村民孫右衛門トイヘルモノト謀(はか)リテ今ノ地ニ引移シ、長慶山東昌寺ト改メ、曹洞宗遠山寺(えんざんじ)ノ末トナリ、再興ノ功ハ則チ本山二世幻室伊芳ニユヅリ、コレヲ勧請(かんじょう)開山トナセリ。サレバ能国芸大ハ寛文八年(1668)十二月十六日ノ示寂(じじゃく)*3ナレドモ、開山ノ僧伊芳ハ天文五年*4(1536)二月朔日(さくじつ)*5ノ示寂ナリ。本尊弥陀(みだ)*6ヲ安ス*7。
観王堂*7 千手観音(せんじゅかんのん)ナリ、村持。
  *1:陰陽道で、鬼が出入りする門とされ忌み嫌われた北東の方角。災いを避けるために鬼門の方角に神仏を祭った。
  *2:寺を開いた僧侶。
  *3:高僧の死のこと。
  *4:「天文五年」は、雄山閣版「新編武蔵風土記稿」では「天文十五年」(1546)。
  *5:陰暦(いんれき)で月の第1日。ついたち。
  *6:阿弥陀(あみだ)の略。
  *7:安置。
  *8:雄山閣版「新編武蔵風土記稿」では観音堂である。


菅谷村

古城蹟 凡(およそ)三丁*1四方ノ地ニシテ南ノ一方ハ都幾川ヲモテ要害(ようがい)トシ、其余ノ三方ハ穴堀アリテ所々ニ堤(つつみ)ノ形残レリ。其内ハ総テ陸田トナリタレド、今モ本丸・二ノ丸・三ノ丸等ノ名アリ。『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』ニ云フ、長享(ちょうきょう)戊申(つちのえさる)(1488)八月十七日入須賀谷之北平沢山間太田源六資康(おおたげんろくすけやす)*2之軍営(ぐんえい)ト。此辺ニ平沢村アレバ須賀谷ハコヽノコトナルべケレバ、此頃ハ太田氏ノ陣営ナリシコト知ラル。又『東路土産』*3ニ鉢形ヲ立テ須賀谷ト云フ所ニ、小泉掃部助(こいずみかもんすけ)*4ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)云云(うんぬん)トアリ、今モ当所ヨリ上州(じょうしゅう)ニ至ルニ小川・鉢形ト人馬ヲ次デ順路ナレバ、此書ニ載(のせ)セタル小泉ガ宿所モ当所ノコトナルベシ。又ココヲ畠山重忠居城ノ地トモ云ヒ、後岩松遠江守義純(いわまつとおとうみのかみよしずみ)*5一旦畠山ガ名籍(めいせき)*6ヲ続イテ爰(ここ)ニ住セシナドイヘリ。サレド重忠晩年当所ニ移リシコトシラル。『東鑑(あずまかがみ)』*7元久(げんきゅう)二年(1205)六月二十二日ノ条ニ、重忠十九日小衾郡*8菅谷ヲ出テ云云トアレバ、全クコノ地ノコトナルベシ*9。郡名ハタマタマ訛(なま)リ書セシニヤ。男衾郡畠山村古城蹟ノ条ト参考スベシ。
  *1:距離の単位町(ちょう)のこと。1町は約109メートル。
  *2:扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家老太田道灌(どうかん)の息子。道灌は扇谷上杉氏の下で江戸城や河越城(かわごえじょう)の築城も担当。父道灌が扇谷上杉の実権を握っていることから主君の上杉定正に殺害されたため、太田一族は山内上杉家のもとに走ったといわれている。
  *3:「東路津登(あずまじのつと)」のこと。
  *4:後北条氏の家臣で、当時菅谷城の城代(じょうだい)。
  *5:源氏から分かれた新田氏二代目の新田義兼の娘が、同じく源氏から分かれた足利氏の義純を婿(むこ)に迎え、その間に時兼(ときかね)が生まれた。義純は足利姓で、息子の時兼から岩松姓を名乗るようになった。上野国(こうずけのくに)新田荘岩松郷(群馬県新田郡旧尾島町)に住み地頭職を務めた。後に明治になったとき子孫の俊純(としずみ)は男爵(だんしゃく)になり、新田氏を称した。なお新田義兼の弟新田義季(よしすえ)は後に名を変え、徳川氏の始祖(しそ)とされる徳川義季となる。
  *6:名簿。ここでは「名跡」(みょうせき)の意か。
  *7:「吾妻鏡(あづまかがみ)」。鎌倉幕府編纂(へんさん)の歴史書。1180年の源頼政の挙兵(きょへい)から、第6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任(かいにん)されて1266年に京都に帰るまでを記述(きじゅつ)。
  *8:男衾(おぶすま)郡。
  *9:雄山閣版では、「ことにして」。
  

新編武蔵風土記稿(千手堂村)ルビ・注

 千手堂村(現・埼玉県比企郡嵐山町大字千手堂)

 千手堂村(せんじゅどうむら)
千手堂村ハ江戸ヨリ行程(こうてい)拾六里、郷(ごう)名前村*1ニ同ジ。領(りょう)ハ松山ニ属(ぞく)セリ。村名ハ千手観音(せんじゅかんのん)ノ堂アリシヨリ起リシト云フ。此堂今ハ一院トナリ、民戸四十余。東ハ菅谷村(すがやむら)ニ続キ、南ハ槻川(つきかわ)ヲ限リテ鎌形村(かまかたむら)ニ隣リ、西ハ遠山村(とおやまむら)ニテ、北ハ平沢村(ひらさわむら)ニ境ヘリ。東西五町(ちょう)*2南北四丁(ちょう)*3許(ばか)リ。当所ハ古ヘヨリ御料所(ごりょうしょ)*4ナリシガイツノ頃ニヤ大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)*5ニ賜(たまわ)リ、宝暦元年(ほうれき)(1751)所替(ところがえ)アリテ御料所ニ属シ、同十三年(1763)清水殿ノ領知(りょうち)トナリ、寛政九年(かんせい)(1797)上リテ御料所ニ復セリ。検地(けんち)*6ハ寛文八年(かんぶん)(1668)坪井次右衛門(つぼいじえもん)糺(ただせ)セシ後、延宝八年(えんぽう)(1680)新開(しんかい)ノ地*7アリテ中川八郎左衛門(なかがわはちろうざえもん)改(あらため)シト云フ。
   *1:平沢村と同じ玉川郷に属する。
   *2:1町は約109メートル。
   *3:丁は町と同じ。
   *4:幕府の直轄領。天領。
   *5:江戸時代中期の幕臣大岡忠相(おおおかただすけ)。先祖は徳川氏三河以来の家臣で旗本。町奉行に昇進して越前守となる。さらに寺社奉行、奏者番(そうしゃばん)になり、加増されて一万石の大名になる。八代将軍徳川吉宗の信任が厚かった。
   *6:支配地の田畑(たはた)の面積(めんせき)や生産高を調査(ちょうさ)すること。
   *7:新しく開墾した土地。

高札場(こうさつば)*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟(おきて)などを書いてかかげた立て札の場所。

小名(こな) 中島 原 谷 上

槻川(つきかわ) 南ノ方鎌形村(かまかたむら)堺(さかい)ニアリ、川幅(かわはば)十八間*1(けん)。
   *1:1間(けん)は約1.8メートル。

春日神社 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、村持。

番神社*1 同持。
   *1:三十番神。天台宗・日蓮宗で、法華経を守護する神。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づく。1か月の30日間、1日一体ずつ祭る。


千手院(せんじゅいん) 曹洞宗*1、遠山村(とおやまむら)遠山寺(えんざんじ)末、普門山(ふもんざん)ト号ス。本尊千手観音ヲ安セリ。当院古ヘワツカノ堂ナリシヲ幻室伊芳(げんしついほう)ト云フ僧一院(いちいん)トナセリ。依テ彼僧ヲ開山トス。示寂(じじゃく)ハ天文十五年(てんぶん)(1546)二月朔日(ついたち)ト云フ。入間郡黒須村蓮華院(れんげいん)ノ観音堂(かんのんどう)ニカケタル鰐口(わにぐち)ノ銘ニ、奉施人武州比企郡千手堂鰐口(わにくち)大工(だいく)越松本、寛正二年辛巳*2(かんしょう)(しんし)(1461)十月十七日願主(がんしゅ)釜形四郎五郎(かまがたしろうごろう)トアリ、越松本*3ノ三字ハ解シ難ケレド、是(これ)当院ノモノナルベケレバ寛正ノ頃*4ハイマダ堂タリシコト知ルベシ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:昭和改修版(1957年1月発行)には、「寛政二年辛巳」となっているが、文意と干支からして、「寛正」が正しい。雄山閣版も「寛正二年」としている。
   *3:『入間市史通史編』329頁によると、「大工越松本」とあるのは鳩山町小用の鋳物師(いもじ)の製作を意味する(清水与四次『小用村上小用村鋳物師の研究』)という。
   *4:「寛政」を*2により、「寛正」と改める。


光照寺(こうしょうじ) 日蓮宗(にちれんしゅう)*1下総国(しもうさのこく)葛飾郡(かつしかぐん)真間弘法寺末、法蓮山ト号ス。本尊三宝(さんぼう)*2ヲ安ズ。
  *1:鎌倉時代の日蓮を開祖とする仏教の宗派。
  *2:三宝尊。向かって右に多宝如来、中央に「南無妙法蓮華経」の題目、左に釈迦牟尼仏を配したもの。

新編武蔵風土記稿 志賀村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

   志賀村(しかむら)(現・比企郡嵐山町大字志賀)

志賀村ハ菅谷(すがや)村ノ内ナレバ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村*1ニ同ク、又郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)エモナシ。ソノ分村(ぶんそん)セシハ寛文(かんぶん)年中(1661−1673)ナリト云フ。サレバ正保(しょうほう)年中(1644−1648)ノ国図(くにず)*2ニハ此村名見エズ。元祿(げんろく)(1688−1704)改定ノ図*3ニ始テ出タリ。爰(ここ)モ隣村*4ト共ニ人馬次立(つぎたて)ヲナセリ。村名古ハ四ヶ村ト書キタリシト。イツノ頃ヨリ今ノ文字ニ改リシト云フハ詳(つまびらか)ナラズ。民家百二十、少シク宿並ヲナセリ。東ハ太郎丸(たろうまる)・月輪(つきのわ)ノ二村ニトナリ、南ハ菅谷村(すがやむら)・千手堂(せんじゅどう)・平沢(ひらさわ)ノ三村ニシテ、西ハ下里(しもざと)・中爪(なかつめ)ノ二村ニ続キ、北ハ市ノ川(いちのかわ)ニ限リテ杉山村ニ界(さか)ヘリ。東西二十町南北十町許(ばか)リ。コヽモ古ヘ岡部太郎作*5ノ采地(さいち)*6ナリシガ、明和(めいわ)九年(1772)上(あが)リテ*7御料所(ごりょうしょ)トナリ、安永(あんえい)九年(1780)秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)*8ニ賜リ、今モ子孫左衛門佐領セリ。検地ハ前村*9ニ同ジ。
   *1:菅谷村と同じで江戸より15里。
   *2:正保田園簿のこと。武蔵国のものは武蔵田園簿ともいう。
   *3:元禄郷帳。
   *4:菅谷村。
   *5:旗本。岡部氏2代目岡部玄蕃のこと。初代岡部主水(もんど)の母は徳川家康の命で秀忠(ひでただ)の乳母(うば)を勤め、主水は家康から2千石を与えられる。玄蕃は秀忠に小姓組(こしょうぐみ)で仕えた。
   *6:知行地。
   *7:上地(あげち)となって。没収されて。
   *8:秋元但馬守永朝のこと。秋元家の祖先は、戦国時代の末期深谷城主上杉憲盛(うえすぎのりもり)の重臣「上杉四天王」の一人秋元越中守景朝(あきもとえっちゅうのかみかげとも)で、深谷城落城後息子の長朝(ながとも)が家康に仕え、秋元家四代目秋元喬知(あきもとたかとも)と七代目涼朝(すけとも)はともに川越藩主・幕府の老中を勤めた。その涼朝の子が秋元永朝で、秋元家を相続して江戸城で奏者番(そうしゃばん)を務めた。
   *9:菅谷村。

高札場*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

小名  鎌ヶ谷戸  坊谷  下新田


市ノ川 村ノ北ヲ流ル、川幅三間*1。
   *1:1間は約1.8メートル。

八宮明神(やみやみょうじん)二社 何レモ村ノ鎮守(ちんじゅ)ニテ村持。


稲荷社(いなりしゃ) 保食稲荷(うけもちいなり)ト号ス。保食神(うけもちのかみ)*1は稲荷ノ祭神ナレバ、タマタマ此唱ヲ得シナルベシ。
   *1:食物を司る神。

諏訪社(すわしゃ)*1
   *1:狩猟・農業の神社として崇拝された。


太神宮(だいじんぐう)*1 以上三社共ニ村持。
   *1:天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀った。

宝城寺(ほうじょうじ) 曹洞宗*1、中尾村慶徳寺(けいとくじ)末、大谷山ト号ス。開山臥雲寅竜(がうんいんりゅう)ハ慶長(けいちょう)三年(1598)十一月十六寂(じゃく)ス。本尊正観音*2ヲ安ス。
   *1:鎌倉時代に道元によって開かれた宗派で、坐禅を重視した。
   *2:聖観音に同じ。

万福寺(まんぷくじ) 新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、秩父郡安戸(やすど)町*2上品寺(じょうほんじ)末。山号*3ヲ唱ヘズ。本尊不動*4ヲ安ス*5。
   *1:真言宗の一派。
   *2:安戸村とも書く。現・東秩父村大字安戸。
   *3:寺号の上につける称号。例○○山○○寺。
   *4:不動明王。
   *5:安置する。

新編武蔵風土記稿 吉田村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  吉田村(よしだむら)(埼玉県比企郡嵐山町大字吉田)
 
 吉田村ハ松山領ニ属(ぞく)ス。家数七十余。東ハ和泉村(いずみむら)、南ハ勝田村(かちだむら)、西ハ越畑村(おっぱたむら)、北ハ古里村(ふるさとむら)ニ接(せっ)セリ。東西十八町(ちょう)南北三十町。江戸ヨリ行程(こうてい)十六里(り)*1。御入国(ごにゅうこく)*2ノ後、折井市左衛門(おりいいちざえもん)・山本四兵衛(やまもとしひょうえ)・曽我又左衛門(そがまたざえもん)・松下清九郎(まつしたせいくろう)等ニ賜(たまわ)レリ。其内山本四兵衛ニ賜リシハ寛永十年(かんえい)(1633)二月ノコトナリト家譜(かふ)*3ニ載(の)セタリ。曽我又左衛門ノ知行(ちぎょう)*4ハ何ノ頃カ替(かわ)リテ菅沼氏ニ賜(たま)ヒシナルベシ。今ハ折井九郎次郎・山本大膳(やまもとだいぜん)・菅沼又吉(すがぬままたきち)・松下内匠(まつしたないしょう)等知行ス。検地(けんち)*5ハ宝永(ほうえい)二年(1705)四月御代官(おだいかん)町野惣右衛門(まちのそうえもん)糺(ただ)*6セリ。
   *1:1里は約3.927キロメートル。
   *2:徳川家康が天正18年(1590)江戸城に入ったことをさす。
   *3:寛政重修諸家譜(かせいちょうしゅうしょかふ)のこと。
   *4:主君から与えられた領地。
   *5:支配地の田畑の面積や生産高を調査すること。
   *6:調査。

 高札場(こうさつば)*1 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

  小名(こな) 上(かみ) 下(しも) 長竹(ながたけ) 前谷(まえやつ) 沼下(ぬました)
 滑川(なめがわ) 当村ノ田間(たま)所々ヨリ涌出(わきいで)ル水、村内ニテ落合(おちあい)ヒ一条ノ流トナリ、始テコノ名ヲ負(お)ヘリ。コレ滑川ノ水源(すいげん)ナリ。
 峰明神社(みねみょうじんしゃ)
 手白明神社(てじろみょうじんしゃ)
 五竜明神社(ごりゅうみょうじんしゃ) 以上三社祭神詳(つまびらか)ナラズ、泉蔵院(せんぞういん)持。
 六所社(ろくしょしゃ)
 天神社(てんじんしゃ) 以上二社ハ村民ノ持。
 宗心寺(そうしんじ) 三休山(さんきゅうざん)ト号ス。曹洞宗*1、中尾村慶徳寺(けいとくじ)末、故(モト)ノ地頭折井市左衛門次昌(つぐまさ)、其父次忠(つぐただ)ガ菩提(ぼだい)*2ノ為ニ僧了三雲哲(りょうざんうんてつ)ヲ開山(かいさん)トシテ元和年中(げんな)(1615−1624)起立(きりつ)ス。次忠法諡(ほうし)*3:好源院三休道白(こうげんいんさんきゅうどうはく)ト云ヒ、天正十八年(1590年)八月四日卒(そつ)ス*4:。本尊釈迦(しゃか)*5ヲ安(あん)ス*6。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:冥福(めいふく)を祈る。
   *3:死者へのおくり名。
   *4:死ぬこと。
   *5:釈迦牟尼(しゃかむに)のこと。
   *6:安置すること。
  
   ○ 鐘楼(しょうろう) 元祿七年(げんろく)(1694)ニ鋳(ちゅう)シ鐘(かね)ヲ掛(か)ク。
   ○ 稲荷社
 泉蔵院(せんぞういん) 三宝山(さんぽうざん)福王寺(ふくおうじ)ト号ス。新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、埼玉郡上ノ村(かみのむら)*2一乗院(いちじょういん)門徒(もんと)ナリ。本尊(ほんぞん)不動(ふどう)*3ヲ安ス。
   *1:真言宗の一派で、根来寺を中心に発展した。
   *2:現・熊谷市上之。
   *3:不動明王。悪魔(あくま)や迷(まよ)いを静めるとして信仰された。

   ○山宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ)
 薬師堂(やくしどう)
 観音堂(かんのんどう) コノ二堂ミナ村民持。

新編武蔵風土記稿 遠山村(現・嵐山町) ルビ・注

   遠山村(とおやまむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字遠山)

遠山村モ玉川領ニ属シ江戸ノ里数モ前ニ同ジ*1。民戸二十余。東ハ千手堂(せんじゅどう)・平沢(ひらさわ)ノ二村ニ隣リ、南ハ田黒村(たぐろむら)ニテ、西北ハ下里村(しもざとむら)ニ接(せつ)セリ。東西二十町余、南北十七町許(ばか)リ。御入国(ごにゅうこく)*2ノ後ヨリ御料所(ごりょうしょ)*3ナリシガ、宝永六年(ほうえい)(1709)内藤某ニ賜リ今モ子孫主膳(しゅぜん)知行セリ。撿地(けんち)ハ前村ニ同ジ*4。
   *1:下里村(しもざとむら)から江戸まで17里と同じ。
   *2:徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
   *3:幕府の直轄地。
   *4:下里村の1668年(寛文8)坪井次右衛門実施と同じ。

高札場(こうさつば)*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 滝守 井上 小林 蛇谷 中沢 茗荷沢 打越 横吹

槻川(つきかわ) 村内南ノ方ヲ流ル。川幅十間(けん)*1許(ばか)リ。
   *1:1間(けん)は約1.8メートル。

八幡社 村ノ鎮守ナリ、遠山寺(えんざんじ)持。

稲荷社

神明社 共ニ村民持

遠山寺(えんざんじ) 曹洞宗*1、上野国緑野郡(こうずけのくにみどのぐん)御嶽村永源寺末、長谷山(ちょうこくさん)ト号ス。寺領十石ノ御朱印(ごしゅいん)ハ慶安二年(けいあん)(1649)賜(たま)フ所ナリ。開山ハ漱怒全芳*2永正十五年(えいしょう)(1518)十二月十五日示寂(じじゃく)、開山ハ遠山右衛門太夫光景(とおやまうえもんたゆうみつかげ)ト云フ。過去帳ヲ見ルニ当寺開基無外宗関(むげそうかん)居士(こじ)コノ父政景(まさかげ)也。天正八年(てんしょう)(1580)三月廿三日開基桃雲宗見(とううんそうけん)大居士遠山右衛門大夫藤原光景天正十五年(1587)五月廿九日トアリ、按(かんがえる)ニコノ二人トモニ開基トノセ、宗関居士ノ下ニ此父政景也トアルニヨレバ、其実光景が父政景ノ追福(ついふく)ノタメニ当寺を草創(そうそう)シテ、父ヲ開基トセシヲ合セテ二人共開基ト記セルニ似(に)タリ。又開山ノ寂(じゃく)*3永正十五年トナレバ是(これ)モ請待開山(しょうたいかいざん)ナルベシ。又按ニ隣村田黒村(たぐろむら)ニ、遠山右衛門大夫光景が城蹟*4ト云フ地アルヲ以テ考フレバ、当時此辺彼ガ所領ナリシコト知ラル。光景が事蹟(じせき)ハ他ノ書ニ所見ナケレド、此人モ甲斐守綱景(かいのかみつなかげ)*5等ノ一族ニテ共ニ北条氏ニ仕ヘシ人ナルベシ。
○鐘 本堂ノ軒(のき)ニ掛ク。銘文(めいぶん)中ニ遠山右衛門大夫光景家臣杉田吉兼ト云フ者、大檀那(おおだんな)*6トシテ鋳造(ちゅうぞう)セシ鐘ナリシガ後*7破壊(はかい)セシニヨリ、元祿十一年(げんろく)(1698)当寺十一世畦峻和尚*8ノ代ニ再造セシコトヲ載ス。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:漱恕全芳(そうじょぜんほう)が正しい。
   *3:死亡する。
   *4:小倉城址(おぐらじょうし)。
   *5:北条氏の家臣の遠山丹波守綱景。HP『風雲戦国史』の「武家家伝 武蔵遠山氏」。
   *6:重立った寺の檀家(だんか)。布施などを多くする人。
   *7:雄山閣版では「彼」。
   *8:圭峻大和尚が正しい。

地蔵堂 村民持

参照:小倉城址、遠山氏については、大塚仲太郎「小倉城阯」(『埼玉郷土史談』1935年)。杉田一夫「小倉城址に登る」、中島運竝「武蔵嵐山の桜」。

新編武蔵風土記稿 大蔵村(現・嵐山町) ルビ・注

  大蔵村(おおくらむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字大蔵)

大蔵村ハ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ*1、大蔵郷(おおくらごう)ニ属シ領名(りょうめい)モ亦前村ニ同ジ*2、昔帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)*3ガ武州大蔵ノ館(やかた)ト聞エシハ当所ニテ、ソノ旧蹟(きゅうせき)今ニ存シテ慥(たしか)ナルコトナレバ、久寿(きゅうじゅ)(1154-1156)ノ頃ヨリ唱ヘシ地名ナルコト論(ろん)ナシ。民戸七十余、東ハ根岸村、南ハ将軍沢村(しょうぐんざわむら)、西ハ鎌形村(かまがたむら)ニテ、北ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テヽ千手堂(せんじゅどう)・菅谷(すがや)・上唐子(かみがらこ)ノ三村ナリ。東西八町南北六町、正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃ハ御料所(ごりょうしょ)*4ニシテ検地(けんち)ハ夫(それ)ヨリ前寛永三年*5(1626)(かんえい)アリシニ、後次第ニ新田(しんでん)ノ地開ケシハ万治三年(1660)(まんじ)・寛文八年(1668)・天和(てんな)二年(1682)ノ三度、時ノ代官糺(ただ)セリ。元禄四年(1691)(げんろく)地ヲ割(さい)テ石黒某ニ賜(たまわ)リ、残ル御料ノ所ハ宝暦(ほうれき)十四年(1764)清水殿領地トナリシヲ、寛政九年(1797)再ビ御料トナリ今モ替(かわ)ラズ。
  *1:根岸村と同じで、江戸より16里。
  *2:根岸村と同じで、玉川領に属する。
  *3:源義賢。近衛天皇(このえてんのう)の皇太子時代にその護衛(ごえい)をする帯刀(たちはき)した長官であったのでこのように呼ばれた。義賢は木曽義仲(きそよしなか)の父。源義賢は兄義朝の長男源義平=悪源太義平(あくげんたよしひら)に攻められ討ち死。義賢の子二歳の駒王丸(こまおうまる)は畠山重能(しげよし)、斉藤実盛(さねもり)らに助けられ、長野の木曽谷(きそだに)で成長して後の木曽義仲になる。
  *4:幕府の直轄領。天領。
  *5:雄山閣版(19666月発行)により、寛文三年を寛永三年に訂正。

高札場(こうさつば)*1 二ヶ所 御料私領ノ二所ニ分チ建リ。
  *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 堀ノ内 木ノ宮 御所ヶ谷戸 柏田 入鹿 遠山ヶ谷戸 傾城久保
   地尻 粟津ヶ原 不逢ヶ原トモ云フ

都幾川(ときがわ) 北端ヲ流ル、川幅二百間(けん)*1。
   *1:1間は約1.8メートル。

山王社(さんのうしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、社領十石ハ慶安年中(1648-1652)(けいあん)賜(たまわ)レリ。


○別当(べっとう)*1 安養寺(あんようじ) 天台宗*2 下青鳥村(しもおおどりむら)浄光寺ノ末、大乗山寂光院(だいじょうさんじゃっこういん)ト称ス。本尊阿弥陀(あみだ)ヲ置リ。開山広覚応永元年(1394)(おうえい)草創(そうそう)トノミ伝ヘリ。サレド是等(これら)ニ拠(よ)レバ山王社モ旧キモノナルベシ。
  *1:神社の管理者。
  *2:平安時代に唐の天台山で天台宗を学んだ最澄が帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。


天神社*1
  *1:学業成就(じょうじゅ)・学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祀る。


愛宕社(あたごしゃ)*1
  *1:防火の神。


天王社*1
  *1:疫病(えきびょう)の神。厄除(やくよ)け祈願。


神明社*1
  *1:天照大神を祀る。


稲荷社*1
  *1:農耕神・商売繁盛の神。


諏訪社(すわしゃ)*1 以上安養寺ノ持。
  *1:狩猟・農耕・武芸の神。


神明社 村民ノ持。


向徳寺(こうとくじ) 時宗(じしゅう)*1、寺領十石、慶安(けいあん)二年(1649)ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜ヘリ。相模国(さがみのくに)藤沢*2清浄光寺(しょうじょうこうじ)*3ノ末、大福山無量院ト号ス。開山清阿宝治二年(1248)(ほうじ)四月八日寂(じゃく)セリ。後廃寺(はいじ)トナリシニ向阿徳音中興セリト云フ。此僧ハ天和二年(1682)(てんな)十二月十五日寂セリ、今ノ寺号ハ此僧ノ名ヲ用ヒタルニ似タレド、中興ノ時改メシモノナルベシ。本尊三尊阿弥陀 恵心僧都(えしんそうず)*4ノ作ナリ。
  *1:鎌倉時代に一遍智真(いっぺんちしん)によって開かれ浄土教の一宗派。
  *2:現・神奈川県藤沢市。
  *3:時宗の総本山。
  *4:平安時代中期の高僧源信。


○鐘楼(しょうろう) 鐘ニ元文五年(1740)(げんぶん)鋳造(ちゅうぞう)ノ銘アリ。


○熊野社*1
  *1:国土安泰・延命長寿・無病息災の神。


○稲荷社


古城蹟(こじょうあと) 村ノ西方ニアリ方一町許(いっちょうばか)リ、構(かまえ)ノ内ニ稲荷社アリ今ハ大抵陸田トナレリ、カラ堀及ビ塘(つつみ)ノ蹟(あと)残レリ。此ヨリ西方ニ小名堀ノ内ト云フアリ。昔ハ此辺マデモ構ノ内ニテ帯刀先生義賢ノ館蹟(やかたあと)ナリト云フ。サレド『東鑑(あずまかがみ)』*1ニ義賢ハ久寿二年(1155)(きゅうじゅ)八月武蔵国大倉館(おおくらやかた)ニ於テ鎌倉悪源太義平ガ為ニ討亡ボサルトアリ。此事ハ『平治物語(へいじものがたり)』*2『百練抄(ひゃくれんしょう)』*3等ニモ載(の)せタレド事実ノ詳(つまびらか)ナルコトハ記録ナシ。大蔵ト云フ地名ハ多磨郡(たまぐん)*4ニモアレド、当所義賢墳墓(ふんぼ)アリ、又郡中ニ義賢ニツカヘシモノノ子孫遺(のこ)ルトキハ、此処義賢ガ旧跡(きゅうせき)ナルコト疑フベカラズ。
  *1:吾妻鏡。
  *2:鎌倉時代初期の軍記物語。
  *3:冷泉天皇(れいせいてんのう)から後深草天皇(ごふかくさてんのう)にいたる編年体(へんねんたい)の記録。武家方の「吾妻鏡」と対比される公家方の重要資料。
  *4:源義賢居住の伝承は町田市大蔵や世田谷区大蔵に残されている。


古墳(こふん) 巽(たつみ)ノ方*1村民丈右衛門ガ持ノ畑中ニアリ。相伝フ帯刀先生義賢ガ墳墓(ふんぼ)ナリト。高サ三尺許(さんじゃくばかり)トオボシキ塔ナレドモ半ハ土中ニ埋リ、且五輪(ごりん)*2モ欠損シ其中ワズカニ梵字(ぼんじ)ヲ彫(ほ)リタル五輪ノ内ノ一石ノミ残レリ、ソレニ雨覆(おお)ヒヲナシ注連(しめなわ)ヲ引キ土人*3ハ尼御前(あまごぜん)*4ノ碑ナリトイヘドコレモ定カナラズ。
  *1:南東の方角。
  *2:地輪、水輪、火輪、風輪、空輪からなる五輪塔。平安時代中期から鎌倉期に造られた供養塔。
  *3:土地の人。
  *4:あまごぜ。「御前」は、中世、女性に対して用いられた敬称の接尾語。尼に対する敬称。ここでは源義賢の妻。

上唐子の獅子舞奉納 7月22日(日) 更新

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上唐子氷川神社の夏祭り 2012年7月22日(日)
お昼過ぎから午後2時過ぎまで獅子舞奉納


上唐子の獅子舞
上唐子の獅子舞は江戸時代中期の正徳3年(1713年)に祭りが始められたと太鼓の内側に記されており、300年もの間、脈々と伝えられてきました。戦中戦後のしばらくの間、中断せざるを得なかったり、昭和61年、平成20年に奉納先の氷川神社が焼失するなど悲しい過去もありましたが、地域の方たちの並々ならぬ努力によりほぼ原形に近い形で行われています。
 現在は、7月24日に近い日曜日に唐子上一公会堂から「街道くだり」が出発し、氷川神社に向かいますが、かつては、その年の神社の総代の家から23日に浄空院、24日に氷川神社で奉納をしていました。
 上唐子の獅子舞の中でもっとも複雑できれいな曲は「昇(正)殿神楽」と言われています。この曲は街道くだりの途中と後庭の最後で演奏しますが、この曲が流れると「田んぼの上を風が渡ってくるように涼しさを感じる」と地区で語り継がれています。(東松山市公式Webサイト「東松山市の獅子舞」より)

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氷川神社沿革(境内の石碑より)
創立慶長年代(1596-1615)の棟札があったが年月不詳。後に1867年(慶応3)社殿を新設、鎮守として1873年(明治6)村社に定められる。
1986年6月22日、火災により社殿焼失。
1987年12月、氏子の総意により社殿を再建。
2008年8月2日、唐子地区で起きた一連の放火事件により、氷川神社の社殿、本殿を焼失する。
2009年11月30日、臨時氏子総会で直ちに再建を決め、氷川神社再建委員会を立ち上げ、完成する。
2009年12月12日、本殿遷座祭及び、社殿社殿竣功奉祝祭を行う。


   氷川神社の場所(東松山市公式Webサイトより)

野田の獅子舞奉納 2012年7月8日(日)

赤城神社の夏祭り終わってました。7月8日(日)午後5時からでした。
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東松山市公式WEBサイトにある開催日=7月14日、10月14日に近い日曜日」は、
正確には、「7月14日、10月14日に近い前の日曜日」なのでは?


野田の獅子舞
 市内で最も古くから行われている野田の獅子舞は寛永12年(1635)に始められたと言われています。8畳ほどの敷物の上で3匹の獅子が穏やかに舞うことから「座敷獅子」と呼ばれています。
 昭和40年(1965)に市指定文化財に指定された獅子舞道具の中に「獅子頭」と「太右エ門さんの笛」があります。桐を材料にした獅子頭は前面に縄文風の線刻を施して気品を表現し、吊り上った大きな目が獅子の力強さを表わしています。また、笛の名手と今でも語り継がれる「太右エ門さんの笛」は笛の師匠から4代に渡り引き継がれているもので他の笛と比べると響きが良く気持ちの良い音がでるそうです。
 この笛を受け継いだ故長谷部喜夫さんは、長い年月をかけ、笛の音を一音一音確かめながら○●の記号で表した楽譜「ささら獅子舞・笛の音曲」を昭和53年に作成しました。こうした努力により野田の獅子舞の笛の音は絶えることなく、吹き継がれてきました。(東松山市公式Webサイト「東松山市の獅子舞」より)


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再建記念碑
赤城神社は室町時代文亀二年(1502)二月此の里に祀らる今より
四百六十年前也御祭神は大國主命豊城入彦命彦狭島命と
素盞嗚尊菅原道真公を合祀す永正二乙丑年(1505)一月四日松山
城主上田正直公より里名野田と賜るに依って野田村鎮守
社と改め奉祀す本殿は当時の建造に倣て宝暦十一辛巳年(1761)
十二月に修復並びに外殿建立安政元年(1854)春雨乞い祈願の為
御池を掘り翌安政二年秋に大願成就の意を以って拝殿を建
て奉る外殿二百二年拝殿百八年の星霜を重ねて老朽す氏
子協議の結果外殿拝殿を再建す総工費壱百七十五万円な
り建碑して記念に録す
 昭和三十七年(1962)十月十月十四日 建主 総氏子中

市野川羽尾E地区 ヒメヒオウギスイセン 2012年7月13日

刈払作業後、また伸びてきた竹を刈取り

刈取前

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刈取後
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ヒメヒオウギスイセン(アヤメ科)
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別名:クロコスミア、モントブレチア

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明治時代にヨーロッパから渡来した園芸種が野生化し各地に広がる

市野川羽尾A地区 ワンド 2012年7月

A地区新川入口の岩の後のワンド 7月5日
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A地区新川入口の岩の後のワンド 7月9日

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左の木はエノキ

神戸用水と番水表 2012年7月

神戸用水
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都幾川鞍掛堰から取水。右岸の神戸・下唐子・葛袋の農業用水。


番水表(2012年7月・8月)

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上神戸(ごうど)・中神戸・下神戸・下唐子(からこ)・葛袋(くずぶくろ)

市野川羽尾A地区 本川・新川に挟まれた「島」部分 2012年7月9日

草刈りが行われました
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この後の、キツネノカミソリの開花が楽しみです

市野川羽尾A地区 県土事務所発注の草刈りが実施されました 2012年7月9日

A地区新川左岸から下流方向を撮影
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A地区新川河道、入口付近のワンド横から下流に向かって撮影
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A地区新川河道中ほどから下流に向かって撮影
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A地区新川右岸からワンド下流方向を撮影
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