明治時代の半ばを過ぎた頃、菅谷の地域を中心に无邪志同盟会(むさしどうめいかい)という教育や実業の発達をめざす団体がつくられて活発な活動を展開した。嵐山町の『報道』459号(1996年9月)の「博物誌だより26」で、誕生の様子が次のように記されている。

  『同盟雑誌』の発刊
 今年(1996)はO157による病原性大腸炎が流行し、生ものに気をつかう夏でした。
 ところで、ペリー来航以後、外国との交流が活発化した我が国では、港から入ってくる病原菌にはことのほか悩まされました。なかでも、コロリ(虎狼痢)と呼ばれて恐れられたコレラ(虎烈刺)は明治維新から日清戦争までの30年ほどの間に8回も流行し、政府は1897(明治30)年に伝染病予防法を公布して、コレラ・赤痢など8種類の病気を法定伝染病としました。日清戦争では、戦死者1400人に対して、病死者は12,000人弱で、全体の90%にも達していたのです。そのうちの大半が伝染病であったといわれています。
 そのころ、嵐山町域を中心として、无邪志同盟会(むさしどうめいかい)という「教育ノ上進」と「実業ノ発達」を目的とする結社がありました。城山学校(菅谷小学校の前身)に本部が置かれ、会員は150名ほどで、『同盟雑誌』という機関紙を発行していました。城山学校の校長は七郷村の井上久五郎で、現大字広野の井上清さんのおじいさんにあたります。同盟会は日清戦争開戦の半年前に、菅谷同盟会として発足したものでした。
 『同盟雑誌』は現在3号までが、東京大学法学部の明治新聞雑誌文庫に保管されています。1895(明治28)年4月2日発刊の創刊号の編集人は唐子村の新井歌吉、印刷人は菅谷村大字大蔵の大澤八三朗、発行人は菅谷村の村長であった関根美太郎でした。前年11月に開かれた七郷村の送兵会での井上久五郎の演説や、種籾(たねもみ)の選択法などが載っています。
 2号には、戦後の教育と実業のあり方が論じられる一方、小川町の医師でクリスチャンであった関根温が「衛生十ケ条」を寄せています。そこでは,「伝染病ノ最良ナル予防法」は、空気・食物・水・皮膚・下着・衣服・住居・便所・土地・習慣・徳義のすべてを清潔にすることだと書かれています。
 3号には、青年論とともに培養法や蚕種(さんしゅ)選別法などが寄せられています。
 また、各号とも地域の人々の和歌や俳句も紹介していて興味をひきます。
 日清戦争当時に、嵐山町域を中心にこうした教育と農業改良をめざした雑誌が発行されていたことは、大変注目されますので、今後の調査が待たれます。
 
  同盟員の拡大
 この『同盟雑誌』を発刊した当時の菅谷同盟の会員数を見ると、1894年(明治27)2月は104名、1895年4月335名、1896年7月430名と確実に会員が拡大している。それにともない『同盟雑誌』は翌年から第1号と第2号、1896年(明治29)に第3号が発行されている。第2号に記された会計報告には「金三十円 同盟雑誌二号千部印刷代」と記されている。この同盟雑誌を使って急速に会員拡大をはかったのであろう。
 最初の会員104名の分布状態を見ると次のようになる。

 地域別会員数  104名(2名重複 実質102名)
  菅谷村88(鎌形15 菅谷10 遠山2 大蔵13 根岸4 平沢9 川島10 千手堂6 志賀19)
  七郷村3(広野2 勝田1)
  比企郡唐子村6(現・東松山市)
  比企郡宮前村6(宮前2 水房3 月輪1)(現・滑川町)
  大里郡市田村1(旧・大里町、現・熊谷市)
   2名の重複は唐子村で名誉会員と通常会員のダブル登録による。

 このように菅谷同盟が、名前のように菅谷村を中心にして隣接する近村に広がっていることが分かる。しかし、市田村だけは大里郡にありやや離れている。

  特別名誉会員福島儀平と斎藤武次のこと
 この離れた市田村に会員のいることが、菅谷同盟の活動の一端を示しているといえよう。この同盟が発足したときの会員を見ると、特別名誉会員が2名、名誉会員が16名、通常会員86名であるが、その特別名誉会員の筆頭に書かれている福島儀平の村が市田村なのである。実は福島儀平は市田村大字手島にある精業舎【1889年(明治13)設立】の舎長である。『同盟雑誌』第1号に、精業舎が「蚕種販売及豫約廣告」と題する大きな広告を載(の)せている。そこには蚕種製造人として精業舎員5名の名前が挙げられ、「小生等年々精業舎流の清温育ニテ蚕児ヲ飼育セシモノナリ即清温育トハ温暖育清冷育ノ一方ニ偏セズ温暖清冷ヲ折衷(せっちゅう)シテ蚕児ニ桑葉ヲ與ヘ七十度以上ノ温気ニ為シ置キ、一時間或ハ二時間ヲ経テ例(仮)令温度降ルト雖(いえど)モ多分ノ注意ヲ要セズ天然ノ気候ニ一任シ又蚕室モ目張(めばり)ヲ為サズシテ毎日新鮮ナル空気ヲ流通セシメ蚕児ノ活動ヲ自由ナラシムルヲ以テ目的トス」と記して、「第一條 蚕種壱枚(百蛾附)金壱円トス」、以下六條まで予約、配布その他が記されている。この蚕種製造の精業舎代表の福島儀平を特別名誉会員に迎え、『同盟雑誌』第1号に精業舎の広告を載せていることは、菅谷同盟が目的の一つに挙げる「実業ノ発達」の実業の中心が養蚕業の発展をめざしていたことを示していた。福島儀平は菅谷同盟発足にあたり「春蚕飼育日誌百部」を寄付している。もう一人の特別名誉会員が鎌形小学校の校長斎藤武次であることは「教育ノ上進」という会の目的からきているといえよう。同じように同盟の本部が城山小学校(菅谷小学校の前身)に置かれていることは、教育を重視していることの表れであろう。

  菅谷同盟の活動
 「教育ノ上進」と「実業ノ発達」を柱にしながら具体的にはどのような活動をしていたのか。同盟雑誌第2号、第3号に記されている会計報告を見ると、同盟雑誌の発行、講師への謝金、縦覧雑誌購読代、凱旋歓迎費、総会での撃剣挙行費、俳諧開催費,幻燈会費、蚕種審査員待遇費、精業舎繭共進会への寄付、名誉戦死者への香花料、凱旋会員への祝杯、本会功労者への感謝状と記念杯などが記されている。撃剣会は剣道の試合、幻灯は別の「村人との楽しみ」の項で紹介したように、家庭教育、女子や子どもの教育、時代物語、社会教育、歴史、戦争など幅広いもので、映画登場以前の娯楽の一つであった。
 ここから見えてくるのは、養蚕関係のものを中心にして、俳諧開催、幻灯会、撃剣会などの文化娯楽関係のもの、日清戦争関係の凱旋行事や戦死者への香花料贈呈などと幅広い活動を展開していたことである。その個々についてのもっと掘り下げた活動内容については、資料発掘に基づく分析が必要である。