23 お蚕様
養蚕は昔から農家の主要な収入源でした。
ですから蚕は、お蚕様と言って崇めてきました。
そんなお蚕様との子供の頃の想い出は、

1)蚕室
 お蚕様は、家で掃き立てたので、蚕の飼育が始まる4月下旬までに蚕室をつくりました。
 20畳ぐらいはあったでしょうか。蚕屋の一区画を障子で囲い目張りをして、温度が逃げないように密封した部屋を作り、その中に水洗いした蚕棚を組み立て、そこに通称「竹かご」と言う{蚕ぱく}と言う蚕を飼育するための竹製の平籠を差し込み、何時もは蚕室の中の床下に隠されている囲炉裏を開き、近所の養蚕農家と一緒にホルマリンによる共同消毒をおこなって掃立を待ちます。
 その年の桑の芽吹き状況を参考にしながら、掃立て日が決定され蚕種が運ばれてきます。
 そして、お蚕様が掃立(蚕の卵から孵化した幼虫を羽箒で蚕種紙から掃きおろし初めて桑を与える作業)てられると、通常2令まで蚕室において温度管理に気をつけながら24時間体制での稚蚕飼育が行なわれました。
 私も、物心ついた時には蚕室の中にいました。そして、大きな真名板の上で、大きな包丁で小さく刻まれた桑の給餌や除さを手伝っていました。
 ですから、生暖かさの混ざった甘酸っぱいような蚕室のあの臭いは忘れられません。それとともに忘れられないのは、5〜6歳のころだったでしょうか。蚕室の中の囲炉裏の中に足を突っ込んで火傷をしてしまって、びっこを引いている時に、蚕屋の前の下道を源三叔父が山羊を引いて通りかかったのを覚えています。

2)お蚕(こ)あげ
 私の子供の頃のお蚕あげは、透明状のきいろの色に体がなったひきり(熟蚕)を、一匹ずつ拾い上げて藁まぶしに入れてやることでした。
 ですから、その頃のお蚕あげは、ひきりが出始めると一斉に何万もの蚕を拾わなくてはならないので、近所や親戚の人にも応援を求めて手伝ってもらいました。
 お蚕様は時期が来て暖かくなると、一斉にひきりになってゆく習性を持っているので、夕方ひきりがいくつか見えると、明日は10時から学校を早退、朝方何匹かひきりが見えると、今日の午後から早退して手伝えと親から言われました。どうしようも無いときには、学校へ行って教室の黒板に名前を書いてくるだけで、早退扱いになったので、駆け足で学校まで行って黒板に名前を書いてきたこともあります。
 お蚕上げの時には、学校を早退して手伝うことは当たり前のこととなっていました。そして、お蚕あげの手伝いは、正職についたあとも許される範囲内で蚕をやめるまで続きました。
 お蚕あげの私の小さい頃の仕事は、みんながひきりになった蚕を拾い集めて入れたざつき(おぼんのようなひきりを入れる容器)から、蚕を箕の中に移し変えて、屋根裏の3階又は2階でまぶしの中にひきりの蚕をいれている父の所へ持って行くことでした。
 6〜7人前後の拾い手から「ざつきがいっぱいになったからお願い」との声が、矢継ぎ早にあるのを駆け足で巡りまわり、駆け足で3回又は2階(2階の蚕は3階に上げ、1階の蚕は2階に上族)に持って行きました。大きくなるにつれて私の仕事も力仕事へと変わってゆきました。それよりもまして、お蚕あげのやり方も、昭和26年から普及が始まった回転まぶしが30年代後半には主流を占めるようになったので、お蚕様拾いも、一匹一匹の手拾いから簡易条払い機、そして動力条払い機と推移し、桑条からお蚕様を無理やり振り落とす方法に変わりました。そしてその上に網をかけて、網の上にお蚕様を這い上がらせて、ゴミと分離して回転まぶしの中に振り込んでいく方法に変わりました。
 なぜか生産工場方式になったようなきがしますが。

3)わらまぶし作り
 我が家の蚕室の3階には、藁を交互に折っただけの簡易まぶしを作る機械があり、その機械で編まれたまぶしに蚕を上族していました。
 しかし、戦後になってからの普及だったのでしょうか。それとは別に、藁でまぶしを編む機械があって、私が小学生のころには、そのまぶし織り機械で編まれた改良まぶしが主体となっていました。
 今は編み方を忘れてしまいましたが、簡単な編み方であったので、親に頼まれて冬場の仕事として、足りないからと言われて、ずいぶん多く作りました。
 しかし、昭和26年から普及が始まったとされる回転まぶしの普及により、徐々に藁まぶしは主流の座を追われ、昭和30年代後半になった頃には、回転まぶしに上族しても繭を作らずにいたお蚕様を「もしかしたら、繭を作るかも知れない」との理由で、藁まぶしの中に上族しておこうとの残務処理的な使用方法になっていたように思われます。

4)桑つみ
 昭和34年(1959)に年間条桑育の技術体系が確立されて普及が始まって桑摘みの仕事がほとんどなくなりましたが、私の子供の頃には、春蚕の4〜5令期はいずれにしても、初秋蚕や晩秋蚕はほとんど摘み桑で飼育しました。
 ですから、学校から帰ったり、休みの日などは桑爪をつけて、親たちには負けないように桑摘みを歯を食いしばって頑張ったものです。お蚕様は、昼夜を問わず気候に関係なく、温度が適温であれば桑を食べ続けますので、桑が無いとなれば、雨でびっしょりになっても、月の光の中でも桑を取り続けました。
 昭和34年の七郷中学校一年生の夏休みの作文をまとめた「ある夏休みのことです」にあるえみこさんの作文のように、私も桑摘みの手伝いを当たり前のこととして、朝早くでも、雨が降っても、夜になっても、何のためらいもなく積極的に手伝いました。

5)繭だし
 繭だしも昭和30年代中頃までは、牛の引く荷車に積んでの出荷で、繭の出荷場所は、七郷村農業協同組合(今の埼玉農業協同組合嵐山支店)でした。
 そして、物心ついた時には、出荷のたびに繭だしの手伝いをしていました。
 繭を出荷する朝は、まだ暗い内に起きて、父母、祖父母と一緒に、色つき繭などに気をつけながら、繭袋の中に繭をつめて秤で量って荷車に積み込みました。そして忙しく朝飯にして、私は学校に行く支度をすませて父と一緒に家を出ました。
 農協に着くと、繭の袋を荷車から下ろして順番を確保し、繭の傍に私が監視役として居て繭の選検が始まるのを待ちます。その間に父は、手頃のところに荷車を置き、牛を手頃のところにつないできます。
 やがて受荷の受付時間が近づくと、養蚕組合の先生や職員、それに繭の出荷を手伝う人達がやってきます。そして選繭係、計量係、記録係、積み込み係と、それぞれの係が持ち場に着くと受付が始まります。
 受付が始まると、選繭台の上に繭が乗せられて、選繭係が選繭台の上に乗った繭の中から、色つき繭、玉繭などの悪い繭を取り除き、良い繭を選繭台の掻き出し口から製糸会社の集荷用の繭袋につめてゆきます。
 このときに養蚕の先生は、選繭台の繭を手にとって繭の品質の等級を決めます。等級は繭価にも大きく影響しますので、先生の言葉に養蚕農家は一喜一憂しました。
 そして、袋詰めにされた繭は、所有者によって計量係のところの台秤に乗せられます。計量が済むと養蚕組合に引き渡されます。その後は養蚕組合の関係者によって、製紙会社が引き取る所定の場所に積み込まれます。
 また一人、また一人と選繭が終わるたびに、順番を待つ人達は自分の繭袋を前に進めてゆきます。そして選繭台に近づくと、順番の人の繭袋を選繭台の上に乗せて空けるのを手伝いっこして、スムースに選繭が出きるように協力しあいます。
 私の仕事は、他人の繭袋と混ざらないように管理すること、選繭台に近づいたら手伝いっこをして順番がきたら繭袋を選繭台の上に乗せて繭袋を空けて(選繭台の上に乗り、近くの人に繭袋を台の上に乗せてもらって、その袋を空にすることが多かったです。)選繭が終わったら、帰るまで繭袋を保管して置くことでした。
 父の仕事は、選繭が始まると、選繭人の傍に行き、選繭され袋詰めにされた繭を計量台秤に乗せ、すべての計量が終わったら、家で量った数量と出荷量を比較確認し、荷受票を受け取ることでした。
 そして、荷受の終わった父に繭袋を渡すと私の仕事は終わりとなって学校に急ぎました。
 繭だしの手伝いは、中学校まで同じような形で続き、高校に入ってからは、都合の許す限り自転車で父の後を追って手伝いました。
 役場に奉職してからは、私のトラックに繭袋を積んで父がバイクで私の後を追い、荷受が終わりしだい私は職場へ、父はバイクに繭袋を積んで家に帰りました。
 私の住んでいる古里地区は、いつも繭だしの順番が早い地区に入っていたので、出勤前の繭出しが可能だったので、養蚕をやめる平成11年まで、ほとんど繭出しに携わりました。

6)桑原きっかけ
 山の仕事も終わり、冬場の仕事も一段落して春の芽吹きを待つ3月下旬頃から4月の上旬にかけてが、その年の良い桑園を作るための手入の季節です。
 桑の畝間の一方の桑株の根元に、畝間にある草やゴミをけずり寄せ、その上に桑園専用の(桑)肥料を施し、そのまた上に、山で刈り取った下草などを敷き込みます。そして反対側の方の土を桑で切り取って、その土をかける作業を桑原きっかけと言いました。
 この作業は、桑の生育に必要な元肥となる金肥を入れ、下草などを入れて土をつくり、古根を切って新根を増殖させて、桑木を若返らせて良質な桑葉を量産するためのものです。
 ちょうど学校が春休みの時期の作業でしたので、桑原きっかけには毎日のように狩り出されましたが、桑原きっかけには楽しみもありました。一生懸命に土とにらめっこしてする仕事なんどえ、矢尻とか、石斧とかが見つかるのです。その発見に興味を持っていましたので、そんな石を見つけると手にとって喜んだり、がっかりしたりも仕事の合間のひとこまでした。
 そんな仕事の楽しみの中でひろった矢尻や石斧などは、家に持ち帰り引き出しなどに入れておきましたが、母屋の建て替えをする中で、どこかへ行ってしまいました。
 残念に思っています。