1872年(明治5)「学制」が頒布(はんぷ)された。その序文ともいうべき「被仰出書」に「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんこと」と述べて、全国を8大学区、32中学区、210小学区に分け、学区毎に各々学校を一校置くこととした。単純に計算しても全国に小学校を5万3760校設置して、不学の人のなくなることを希(こいねが)った。しかし簡単に計算通り小学校が設置された訳ではない。1872年(明治5)埼玉県が文部省に出した伺書に「中学一所ヲ置ケバ二百十小学校ヲ置ク可キノ御規則ニ候処、二三ノ黌(こう・校)ヲ興ススラ百方手ヲ尽サスシテハ其功成リ難キ」と訴え、1874年(明治7)になっても県下全体で小学校277校を数えるに過ぎなかった。小学校が曲りなりにも開設されていったかげには、江戸時代以来、継続盛行して来た寺子屋・郷学に負うところが多かったと思う。本町に於てその足跡を探ってみると次の様なものがあったことが考えられる。

〔広野〕広正寺 寛山和尚 1813年(文化10)生 1867年(慶応3)遷化 54才 広正寺住職 号:東雲庵字山子
 寛山の功績を讃えて建てられた筆塚「大般若経書廃筆記」の裏面に350余名の筆弟の名前が刻まれている。又、大蔵の大沢晩斎の著「余力集」にも寛山が病に罹ったのを憂えて贈った七言律詩中に「学弟一千人」とあり、なお右綺(下福田村光福寺隠居)の「筆塚碑蔭記」にも「弟子蓋数百人其入室昇堂者以十算之」とある。数はともかくとして多数の弟子達が寛山によって教導されたことは間違いない。寛山の寺子屋というべきか。

〔吉田〕宗心寺 光外栄老 宗心寺住職 生没年不明 1859年(安政6)住職を寛補にゆずる
 1872年(明5)2月に記録された「筆弟人数改帳」に筆弟68人の名前が連記され、内15人の死亡が記録されている。思うに光外が宗心寺住職を退任した1859年(安政6)以降寺内において弟子の指導に当ったものであろう。

〔杉山〕八宮神社 杉山宝斎 1825年(文政8)生 1889年(明治21)没 65才 幼名:多聞 名:義順
 1883年(明治16)建碑の「杉山宝斎退筆塚」があるが、その裏面の「旌真報恩鑑」に180余名の名が刻まれている。門弟その有縁者であろう。宝斎の営む寺子屋が存在し、それが椙山学校(すぎやまがっこう)へと引継がれたことは想像に難くない。

〔鎌形〕鎌形八幡神社 斎藤周庭 1811年(文化8)生 1890年(明治23)没 80才
 1883年(明治16)建立の「周庭翁碑」によれば、近隣の子弟を集めて教導、その数200余人と伝えられている。鎌形学校の先駆ということが出来るだろう。

〔大蔵〕自宅 大沢国十郎 1831年(天保2)生 1914年(大正3)没 84才 号:沢大器・晩斎
 1885年(明治18)の彼の履歴書に「嘉永五年(1852)十二月ヨリ家庭ニ於テ近隣村ノ児童ヲ教育シ読書習字等授業ス凡生徒二百有余名明治五年(1872)ニ至リ疾病ニ遭テ辞ス」と記している。又「童蒙入学録」には1852年(嘉永5)から1872年(明治5)まで在籍の氏名が88名記録されている。自宅を教場とした寺子屋が営まれていたのであり、次の大蔵学校の前身となったと考えられる。

 かくの如く、僧侶・神官・修験或いは農民が寺院・神社或いは自宅を教場として、附近の筆弟達を教育して来た。しかし学制発布以後村々にあった私家塾(寺子屋)は「不都合ノ儀モ有之候間悉皆(しっかい)令廃止候事」となり、前記の私塾・寺子屋も存続できなくなった。さりとて急速に公立の小学校を建設することは当時の社会経済体力から云って到底出来得なかったろう。1876年(明治9)1月比企郡全体を調査し記録した『武蔵国郡村誌』によって、学校の設置状況を見ると、鎌形村に「公立小学校(村の西方にあり生徒男六十九人女十八人)」、菅谷村に「公立小学校(村の乾の方東昌寺を仮用ス)」、杉山村に「公立小学校(東西十九間南北十三間の中央にあり生徒男四十九人女十三人)」とあり他の村々に学校の存在は認められない。学制発布以来4年が経過している。この間この地域に学校はなかったのか、『七郷村誌』によれば、「明治六年八月一日(1873)創メテ杉山学校ヲ設立シ大字杉山九番地民家ヲ以テ校舎ニ充ツ」としている。又杉山伊保利が1876年(明治9)4月12日椙山小学校の小学下等を卒業した証書が残されているが、当時の学制は下等小学校は4年間で、伊保利はこの時11年8ヶ月の年となっているので入学は8才、そして1872年(明治5)と推定される。又比企郡内公立小学校敷地調査表によれば、杉山学校敷地は二反二畝十五歩が「明治七年(1874)中敷地ニ御払下相成」となっているので1873年(明治6)頃には学校が存在したことが窺える。杉山学校の創立存在を立証して来たが、同様に『嵐山町誌』にも記された如く、1873年(明治6)班溪寺に鎌形学校が、1874年(明治7)に東昌寺に菅谷学校が置かれたことも首肯出来るように思う。即ち経済的困窮の状況に置かれた村落においては寺院や私邸を仮用して学校が開かれ急場を凌(しの)いだのである。
 学制による小学校は下等小学4年(6才〜9才)、上等小学4年(10才〜13才)の就学で各等8級に分け、「此二等ハ男女共必ズ卒業スヘキモノトス」と定めた。1874年(明治7)県から文部省に伺出た教則を別表に示した。教科の内書取・問答・復読・暗誦・作文は除いて読本・算術・習字について8級に別け表記したが、1つの級が6ヶ月で卒業となるので程度も高く、進度も速い。国民皆学となるとかなり無理があったと思う。
 又学制は「生徒幾分ノ授業料ヲ納メサル可カラス」として受益者負担を定めたが、「貧困ノ民多クシテ一時ニ学資ヲ弁ズルコト難シ」という状況で、「授業料ヲ厳ニ督促スルトキハ、寒郷荒駅ノ民情自ラ就学ヲ嫌避スル思ナキ能ハス」と云う程であった。1892年(明治25)9月七郷村長が県へ提出した「授業料額伺」は別表の通りで貧富と学年に応じ九等に分けて定めている。
 古里の田嶋家が昇進学校へ納付した授業料の領収書が残されているが栄三郎の分は1890年(明治23)7・8・9月分いづれも25銭、栄吉の分は1891年(明治24)8・10・11月分12銭5厘、1893年(明治26)4・5月分は22銭5厘である。地租の納付額、学年に応じて授業料に等差があったことを実証している。
 授業料は1893年(明治26)廃止となった。しかし経済的問題と旧来の陋習から就学を拒む者が多かった。広野村の1874年〜1876年(明治7〜9)の就学・不就学書上を別表に示し、全国との比較もしてみたが、就学率は著しく低いものであった。
 1873年(明治6)12月には早くも「学問ハ人民日用ノ急務タルヲ以テ、其ノ子弟ヲ小学ニ就カシムルコトヲ告諭ス」として、学に就かなければ「文盲ノ野人トナリ生涯人タルノ道ヲ得ル能ハズ」とまで云って督学を行ったが、急足に就学率をあげることは出来なった。1879年(明治12)学務委員制度が設けられ、「学令児女ヲシテ故ナク学ニ就カシメザル父母及ヒ後見人アルトキハ之ヲ説諭シテ就学セシムベシ」と督学にあたらせた。戸長を通じての執拗なまでの就学督励と、1890年(明治23)の教育勅語の発布の頃を契機に、教育は国民の三大義務(他は兵役・納税)の一つという認識が生れ、1890年(明治23)全国統計で平均就学率がようやく50%を超えることとなる。初等教育の定着にはほぼ4分の1世紀を要したということであり、これから更に充実発展期にかけて幾多の問題を処理しなければならなかった。

【参考文献】
  宗心寺文書186「三休山光外栄老筆弟人数改帳」
  杉山貞夫家文書104「杉山伊保利卒業証書」
  大沢知助家文書661 履歴書 825・826「余力集」・104「童蒙入学録」
  田島定栄家文書36・37・38・83・84・92・93・97・98・107 授業料納付書
  広野区有文書49・55 就学不就学書上・167 学令人員取調手続
  埼玉県文書 比企郡内公立小学校敷地調査表・七郷尋常小学校授業料額伺
  埼玉県史料叢書2 埼玉県史料二 政治部 学校
  武蔵国郡村誌 比企郡 巻之六 巻之七
  私家版『七郷村誌』 安藤専一著
  『嵐山町誌』
  『嵐山町学校沿革誌』嵐山町教育委員会編
  『日本近代教育史大事典』(平凡社)
  大沢知助家文書「東雲庵先生遺稿」