奥平栄宜は1839年(天保9)千手堂内田元次郎と持正院38世栄州の長女との間に次男房吉として誕生した。39世栄鏡の嫡子が早世していたので、1850年(嘉永3)房吉12歳の時、其の養子となり家督を相続することになった。房吉は幼少期、義父の教える寺子屋の筆子として学問の手ほどきを受けたが、彼が養子となった持正院は円城寺聖護院を本所とする本山派修験の寺であったから、その宗法の習得練磨に精進しなければならなかった。修験道は難行苦行をなめて霊験を習得することを業とする一派であったから、13歳から15歳まで3年間寒中水行の荒行を修する傍ら、漢学を関左、菊地五郎、菊城等に学んだ。1854年(安政元)には「加行護摩二十一座」を修し、名を全教房栄宜と改め、栄鏡の長女サワと結婚、遂に1856年(安政3)弱冠18歳で持正院第40世住職となった。
 1868年(明治元)正月、栄宜は新聞により維新の大業がなったことと徳川恩顧の幕臣が徒党を組んで乱に及び、その鎮定のため有栖川宮、聖護院宮が京を発向したことを知った。彼は欣喜雀躍「予平素勤皇ノ志篤ク尽忠報告ノ志ヲ達センガ為王政復古ノ今日ニ至リ空ク辺土ニ彷徨スル時ニアラズ」と、3月28日親兄弟縁者の制止を振り払って上京した。栄宜30歳の時であった。始め勝海舟や山岡鉄太郎と共に、暴走する幕臣の鎮撫に当たったがのち、尾張藩の磅礴隊に加わり西丸吹上見附番頭として有栖川宮の警衛の任にあたり、11月には京都へ凱旋、紫宸殿に於いて勲功慰労の令旨を賜った。1869年(明治2)尾張へ帰り、藩校明倫堂で学問修行の傍ら練兵分隊指令として活躍したが、国の老父(栄鏡)病危篤との報に接し、無念ながら暇を乞い平沢村へ帰ってきた。
 その後1872年(明治5)太政官の修験廃止の布告によって、栄宜は持正院護持のために奔走することとなった。1874年(明治7)には天台宗寺門派として「八ヶ院総代」を申し付けられ、翌々年には「一派教導仮副取締」となって、近隣の寺門派寺院の取り纏めとお世話に力を尽くした。また1880年(明治13)衛生委員に選任され1884年(明治17)まで勤めた。その間「衛生委員通信」を出す等、地域の社会事業に貢献した。晩年は有栖川宮が総裁を務めた「日本帝国水難救済会」に加盟したり、各種の事業や災害へ寄付をする等、彼は常に村民の師表としてその生涯を終わった。
 1916年(大正5)「皇君に捧まつりし身なれどもまだ存命の心恥かし 梁山」の歌を残し、翌年69歳をもって永眠した。勤皇の志を失わなかった奥平栄宜を偲ぶことが出来る。