江戸時代の交通は道路と河海に頼っていた。道路は江戸を中心に五街道が発達し、それに付随して脇往還(脇街道)もつくられていった。こうした街道筋には宿駅が設けられ、旅する人々を宿泊させ、また荷物の運搬に要する人馬の継立等の便宜をはかっていた。大きな宿駅には一日百人百疋の人馬を常置し、特に諸藩公用旅(参勤交代等)の継立に充てたというが、時勢と共に往来が激しくなり、継立人馬の不足が生じてきた。そこでその近隣の村々から人馬を出させる制度を設けた。これが「助郷役」である。助郷の村々は宿駅より五里以内にあり、差し出す人馬は村高百石につき馬三疋人足二人の割合であった。この助郷が恒常的になったものが「定助郷」といったが、その定助郷では負担に耐えられない程の大旅行団や大小旅行団が重複して通行の際は他の村々の助力を要請した。その際宿駅または定助郷村から前もって村を指名したのでこれを「差村(さしむら)」という。差村を道中奉行に進言すると道中奉行は指名された村柄(村の様子)を調査したうえで差村に指定したが、村の中にはこれを拒否する村もあった。
 古里村の「助郷」の状況はどうであったか。1764年(明和元)、中仙道深谷宿から差村の要請があったが村では赦免を願い出、村柄見分の上、道中奉行所倉橋与四郎は「差免候重而申付候事無之者也」(赦したので、重ねて申し付けることは無い)のお墨付きを東西古里村惣百姓へ与えた。この書付は以後永く古里村に降りかかった差村の危難を救ってくれる上で大変役立つ存在となった。
 次いで1796年(寛文8)8月、奈良梨村の名主光右衛門が古里村を相手取って「助郷人足滞出入」の訴を起こした。川越から秩父・上州への往還の拠点であった奈良梨村は「連々困窮に及び百姓数も減少、継立人足勤められる者拾九人」となってしまったので、拠無く古里・能増・高谷・伊勢根・越畑の五箇村に人足の助合を頼んだが、古里村は明和年中の御裁許をたてに断った。評定所は訴を受けて返答書を持って対決せよと命じた。結果は記録にないが恐らくお墨付きによって事なきを得たのであろう。
 1839年(天保10)には中仙道深谷宿が「困窮の余り人馬継立難し」との理由で、差村を申し立てた。古里村も差村の対象となり奉行所より立石伝八郎と町田庄右衛門が村柄御見分のため11月27日廻村となった。これに対して十給(古里村は10人の旗本・代官で分割支配されていた)惣百姓代兼で名主の善蔵と清左衛門は次の6ヶ条をもって愁訴に及んだ。
 1、高(収穫)319石6斗7升5合と少なく10人の知行支配地が入り交り、無民家もあり、人の少ない困窮の村である。
 2、当村は熊谷宿から3里、小川村へ2里にあたり、中間の御用継立に難渋している。
 3、深谷宿へ4里、荒川・吉野川があり、少々の出水でも川留めとなり御用に差し支える。
 4、当村は山間にあり猪鹿多く昼夜を分かたず田畑を荒らすので番小屋をたて、番人を置いて防ぐのに難儀至極の状況である。
 5、当村は山谷にあり田畑悪しく、天水場(雨水に頼って農耕するところ)にて困窮極まり夫食(農民の食糧となる米穀)に差支え地頭所より貧民手当を戴いている程である。
 6、明和年中御見分の倉橋与四郎様書付を頂戴所持している。
 なお、十給中の内藤一学知行所の名主孫十郎は同文の愁訴を地頭所役人へも提出している。
 1866年(慶応2)の「御伝馬差村歎願書」の末尾に「是迄何れの宿方へも助郷等一切相勤候儀無之」と記しているので、この結果もその難を遁れることが出来たのであろう。
 次いで、1859年(安政6)8月、熊谷宿定助郷32ヶ村総代問屋栄蔵達が「定助郷当分休役差村ヘ代助郷被仰付候様」と嘆願書を道中奉行に差し出した。即ち、近年脇往還多くなり緒家樣御通行相殖え、触人馬では処理困難となって来ていた。又定助郷の村々は荒川・利根川の間にあり、照れば旱損、降れば水損両難遁れ難く違作(不作)が打ち続いて来たところ、6月には異病流行し死亡した者少なからず。7月24日、25日には降雨大風にて荒川・利根川堤切込(決壊)出水、宿郷一円水没、家具・農具・家作流失し、人馬死亡する者少なからず。夫食手当ても出来ない有様であった。その上8月12日、13日再び大雨となり出水、田畑皆無、麦作蒔入れの時期に差し掛かったが、為す術もなく茫然自失の態であった。そこで、59ヶ村を選んで当9月より10ヶ月の間差村仰せ付けられ、御伝馬急場の救助を歎願した。その中に古里・吉田・勝田が含まれていた。
 これに対して、古里村では差村の知らせに驚き早速奈良梨村と連合して、9月、道中奉行所へ「熊谷宿代助郷御免」を願い出た。嘆願書に「差村被仰付候ハヽ一村潰及転退候外無御座候」と、村全体が破産するか、どこかへ逃げ隠れる他はない程の困窮となることを訴えた。別に同9月林・有賀知行所の名主栄八と運太郎が給々惣代として地頭所へほぼ同文の内容で差村を回避出来る様願い出た。そしてこれも又避けることが出来た。
 次いでその5年後、1863年(文久3)4月、再び熊谷宿より当分助郷が触れ出された。触書には「今般御変革被仰出」と幕府の御改革を理由として挙げている。この御改革というのは1862年(文久2)8月に出された「参勤交代制の緩和」である。参勤交代というのは大名の妻子を江戸に常住させ、江戸と国許とを1年交替で往復させる制度であった。この年これを緩和して3年毎の出府(江戸に出ること)とし妻子の帰国を許した。その為諸大名御当主、妻子、御家族、御家来といった方々挙って国許へ引っ越すということとなった。従って道筋にあたった熊谷宿は普段の人馬継立では処理出来ず、近隣村々へ応援を触れ出した訳である。古里村は早速いろいろ難渋を申し立て当分助郷御免除を願い出た。しかし今回は遁れられないと思ったのか、「二重役」の解消を条件に請印(承諾の印)の押印を保留した。「二重役」というのは、古里村が秩父通り(熊谷から秩父への道)の途中にあって、熊谷からの人馬を一手に継立小川へ送る役と、川越往還(川越から上州への道)の途中の継駅奈良梨村へ継立人馬を差し出すという二つの課役をさしている。要求は秩父通りの一手継立を止めて、熊谷から直接小川村へ持ち越しにしてくれるのならば今回は御請けしようというのである
 3月には十給総代名主卯兵衛が熊谷宿御役人へ訴え、4月12日には佐々井半十郎代官所組頭利兵衛が道中奉行所へ追願に及んだが、裁許は困難だった。なお「御伝馬御免除出府諸入用帳」に依れば同年5月3日には平三郎と運太郎が出府、6日逗留先の公事宿(農民達の民事訴訟を取り扱う宿)万屋にお呼出があり「助郷免除」の旨達しがあった。
 御請け印形を差出し、7日代官佐々井様へ帰村届を提出し、9日村へ帰ったことが記されている。7日間の出府の旅で〆て1貫768文を費やしている。助郷免除の裁許を得るのも書面一通では用が足りなくなっていった。
 1866年(慶応2)6月第二次長州征伐のため政長軍が江戸を出発することとなった。この軍勢の輸送のため東海道は大変な混雑となることが予測されたので、品川宿は早くも2月当分助郷の御印状を各村々へ発した。これに対し、古里村では4月、十給知行所連名で道中奉行所へ「品川宿当分助郷之儀幾重ニも皆御免除」下さる様嘆願書を提出した。又ほぼ同文の免除願を古里有賀忠太郎知行所の名主総代運太郎の名において東海道品川宿へと差し出した。免除の理由は秩父通り、川越往還の二重役の継立人馬が手余りのこと、村勢が貧困であること、過去の差村(明和度・天明度・天保度・安政度・文久度)の何れの時にも免除されて来たこと、その上十給内では御上洛に供奉する地頭(旗本)も多く歩役人夫を多数差し出していること等々を挙げている。ただこの度は征長御上洛の折柄で出精相勤なければならないことがよく分っていたので、「御用向御差支出来奉恐入候間、不得止事出府此段御歎願奉申上候」と出府してまでその意を通す決意で結んでいる。名主運太郎は「品川宿江助合歎願中用留帳」に克明に出府の様子を伝えている。それに依れば、運太郎と儀四郎は1866年(慶応2)3月29日古里を出立、同晦日湯島の足立屋に落ち着き、その後免除歎願に奔走、9日嘆願書を差し出した。同18日お呼出しがあったが決着せず。この間儀四郎は栄八と交代、その栄八も21日帰村してしまった。同24日村では一同相談の上、26日儀四郎を再び出府させ、5月14日再嘆願書を差し出したのである。7月23日にお呼び出し、同月24日夜通しで飛脚が走る程の重大な結果が齎されたものと考えられる。
 但し3月29日から8月1日まで儀四郎、運太郎、栄八に常三郎も加えて延147日出府滞在して歎願の決果、〆99両1分2朱と323文を費やしたが、助郷が回避されたという記録はない。
 1872年(明治5)各駅の助郷解散命令が出され、宿駅制度も廃止されたので、これ以降は宿駅の問屋も定助郷の村々も、差村を仰せつけられた村々も人馬継立の課役に苦しめられることはなくなった。