千野文太郎は1819年(文政2)、塩村(現・熊谷市、旧・大里郡江南町)に生まれた。文太郎は俗称で、姓は千野、名は賢隆と称した。性格はおとなしく、気立てが良く、正直で誠実な人柄であった。農に従事して怠ることがなかったが、時には薪を馬の背にのせ、市に行って売り、帰りには酒をしたたかに飲んで上機嫌で馬にゆられ、詩歌を吟じ帰ったと云う様で村夫子然としたところもあった。
 幕末の儒者寺門静軒は文太郎を評して、「農耕しては食し、機織しては衣とすれば、体は苦労だとしても心は安閑としていられる。農人は羨ましい」と農民学者文太郎を羨んでいる。農業の傍ら学芸にも精進した。学問や書においては「声譽(せいよ)(よい評判)を馳す」という風で世間でも良い評判を得ていた。俳諧・和歌にも秀で、
蟻通と号していた。1878年(明治11)9月、大里巡幸を拝して「巡りあふ月の宮古そ十き鏡」の秀句が残されている。又生花投げ入れにも巧で一民と称していた。世に言う在野の文人であった。
 性格が温順・誠実で農業を愛し、高い学芸を体得し、春風駘蕩とした生活を持している人物のもとに人が集まって来るのは当然であった。彼は自宅に質素な学塾を開いていたのであろう。その人格・学徳を慕って弟子達がその門に集まり、皆、彼を先生と称して、敬意を払って接していた。
 又、彼は塩村の戸長でもあった。1885年(明治18)9月、飯島岡右衛門の養嫡子が不和で離別した手続きに不都合があって、遅れ迷惑をかけたことへの始末書を、戸長千野文太郎の名において県令吉田清英へ提出している。こんな他人の民事的なことにまで責をおって始末書を出している。政治的には不向きな人であったろうが、誠実な性格の良く現れた出来事であったと言えるだろう。
 1897年(明治30)8月発起人飯島貴寿等によって「師恩ノ万一ニ報センガ為メ」に建碑を思い立った。その趣意書ともいうべき「謝恩録叙」に「吾師蟻通千野先生温厚篤実、人ニ教テ倦マス、故ニ郷党ノ子弟贄(にえ)ヲ執テ(入門の礼として進物を差上ること)子来ス」と、人柄の良さと飽くなき教育への情熱を慕って近隣の村々から集まった多くの門弟達は「其門ニ入テ其教ヲ承(う)ケ而(しか)シテ今ヤ世ニ処シ人ニ交リ稍(やや)過失ヲ少クスル真ニ先生ノ賜(たまもの)ナリ」と、先生のお陰をもって世に処し、大過なく生きてゆく事ができたと、その薫陶に感謝している。
 1898年(明治31)11月文太郎は79歳の長寿をもって他界された。「千野文太郎翁会葬式役割記」によれば先生の遺徳を偲ぶが如く、葬儀は神葬祭をもつて盛大に執行され、多くの門人達が参列した。墓は塩村の千野家墓地にあり、戒名は「普教院以文弘道居士」と諡(おくりな)された。文を以って道を弘めるという文太郎にとってその生涯に相応しいものであった。
 そして翌年12月、門弟たちによって念願の顕彰碑が塩村字塩東(熊谷・小川道の途中、塩村の俗称おおまがり付近)に建てられた。篆額(てんがく)(碑の上部に篆文で書かれた題字)は枢密院顧問官・子爵杉孫三郎の書で「千野君碑」とあり、其の下に碑文が刻まれている。その文章はかつて寺門静軒翁撰と記された175文字の碑文原稿と酷似している。両者を考え合わせれば高位の方が筆を振るい、高名な儒学者が文を草したということは千野文太郎がそれだけ高い評価を得ていたことを示すものということが出来ると思う。
 碑の裏面に有縁の方々の名が刻まれている。筆弟56人中、古里の人11人、吉田の人13人、建碑の発起人の中には、古里の飯島貴寿、中村武八郎、安藤富五郎、越畑の久保三源次、吉田の鞠子万右衛門、小林所左衛門、小林三右衛門。幹事に古里の飯島平六、田嶋三津五郎、吉田の内田源七。いずれも門弟で薫陶を受けた人々で、後年村の指導的立場にあって活躍した方々であった。千野文太郎先生の学塾のあった塩村は熊谷・小川道にそった古里の東隣七町(750メートル位)のところにあり、わが郷党から門弟達が通い易いところにあった。従って見られる通りの多くの門弟が教えを受けることが出来た。千野文太郎先生を大いに顕彰し、厚恩に謝せねばなるまい。


※寺門静軒(てらかどせいけん)(1706-1868):「江戸小石川水戸藩邸内に生まれる。江戸時代の儒学者。江戸駿河台に克己塾を開いて子弟を教育し、著書である「江戸繁昌記」がベストセラーとなったが、風俗を乱すものとして江戸追放となり、各地を流転。奈良・四方寺の吉田家などに寄寓しながら、安政6年に妻沼・歓喜院に入り「両宜塾(りょうぎじゅく)」を開きました。その門弟には竹井澹如、石川弥一郎らがいます。鎌倉町・石上寺に寄寓後、晩年は親交深い根岸家に身を寄せ、邸内の三余堂で塾生を指導していました。(熊谷市のHPより引用)