村方三役 組頭の罷免
 江戸時代、村の行政は領主の支配のもとで、村方三役(名主・組頭・百姓代)と呼ばれる人々によって行われてきた。名主は村の代表であり村政のすべてを処理した。組頭(与頭)は村長に次ぐ村役で村長を補佐する役どころで、村が分割されているところでは二、三人で勤める処もあった。百姓代は名主以下の職務を観察する目的で後年設けられ、小前(高持の小百姓)から公選されたので小前総代ともいった。いづれの村役も村内の信望が高く、ある程度の経済力を持った人々であったが、時としては行政上の不信や後任選びの縺(もつ)れ等による問題も発生していた。 
 これは古里村市川又兵衛知行所の出来事である。
 1857年(安政4)4月、同知行所の名主徳次郎が死亡し、その後跡について差縺(さしもつ)れが起こった。小前総代であった仙次郎は百姓要蔵、源三郎、常次郎、権六、善五郎を代表して、1857年(安政4)9月4日、出府の上、当時組頭であった明三郎の不行跡4ヶ条を地頭所へ訴え、その名主就任を阻止しようとした。即ち4ヶ條は次の様な事であった。

 一、1855年中(安政2)、御林山(おはやしやま)(領主の直轄した山林でお留山と呼び勝手に伐木厳禁の場所)の雑木を理不尽に伐木。それを止(と)めたが役権をもって願済みとして伐木におよんだこと。
 一、1854年(安政元)、明三郎は潰れ百姓(つぶれひゃくしょう)(破算した百姓)伊三郎の持ち山、字藪谷(やぶやつ)において雑木を並外れて伐採し自宅へ運び込んだこと。
 一、1855年(安政2)、源三郎の所有する字船久保(ふなくぼ)の畑地内に明三郎の畑地二畝歩(せぶ)余り入り交じり、是まで横領されていたので畝歩だけ引き揚げるといいだし、取調べたところ源三郎の持ち地に相違ないことが判ったが、難題を持ちかけ多分の金子を貪(むさぼ)り取る計画だったこと。
 一、明三郎と隣接していた潰れ百姓孫七の屋敷内、横二間三尺竪(たて)十五間余囲い込み、組合のものが見付け掛け合いに及んだが、境筋は其の方には分らないだろうと、役権をもって不法申募り、取りあってもらえなかったこと。

 この外にも種々悪計をたくらみ小前に難渋を強いていた。訴状は「明三郎差配(指図)此上請候様相成候而者潰及退転(落ちぶれてその地を立ち退くこと)候外無御座難儀至極仕候」と、即ちこのままでは潰百姓になるか、夜逃げでもする外よりないというぎりぎりの窮状を訴え、組頭明三郎の罷免を願い出た。
 1857年(安政4)9月8日、明三郎も、地頭所の仙次郎達へ年番名主(年毎に交代して勤める名主)を命じても障りはないかのお尋ねに答える恰好で前の訴状へ対して次のような返答書を提出している。
 伊三郎の家は流行病で一家死失し、一人残った盲目の娘は村岡村のごぜ(三味線を弾きうたを歌って銭を貰う盲目の女)の弟子とし、やがて跡相続させたいと思っていたところ、仙次郎外二人名主徳次郎と馴れ合い、断りもなく伊三郎の家財道具、屋敷、野山、竹木までも売り払い横領した。
 又、仙次郎達は潰百姓佐助方も相続人が居るのに人別を除き、私に断りもなく佐助の跡式を横領した。
 又、仙次郎達は私が役儀を勤めていては銘々の悪事が露顕してしまうことを恐れているのである。
 この様な者共に年番名主仰せ付けられてはこの上どのような悪巧みをするか計りしれないので、私は「右様之者共之支配請不申候」と答申した。
 それぞれに相手を誹謗し、己の立場を主張したが、一体地頭所の裁可はどうなったのだろうか。「明三郎申口不相立」と、返答書の抗弁は少しも聞き入れられず、「明三郎義役儀も乍相勤不行届之儀ニ付退役被仰付候」という結果となった。
 名主徳三郎は死し、明三郎は退役となっては「跡役一同で相談の上取り決め、その者の指図を受けよ」と仰せ渡された。1857年(安政4)9月、百姓要蔵・善五郎・明三郎は連印の上「済口証文」を地頭所に提出している。
 跡役は誰がなったのだろうか。事件の翌年の1858年(安政5)5月27日の文書は市川又兵衛の御林山の雑木を長井五右衛門知行所の名主常三郎が理不尽に伐木したことを訴えたものであるが、その文書の末尾に訴人の名が記されている。
     名主 源三郎
     組頭 善五郎
     百姓代 要蔵
いずれも組頭明三郎を弾劾して訴出た百姓六名の中から選ばれた人々であった。