松と松の間から丸いものが出てきたと思うとパンとはねる。みんなが「今のはきれいだった」と「わあ」とかんせいをあげる。ちちばしのほうからも「わあ」というかんせいがこっちのほうまできこえる。
 これは、私が偶然に昭和34年の中学一年生の夏休みの作文集を見つけて、平成6年に編集発行した「ある夏休みのことです」の中の私の近所の女の子が書いた作文の一部分です。
 私の子供の頃は、車もなくテレビもなくお金もなくて娯楽の少ない時代、熊谷の花火大会と言うと大人も子供も楽しみの一つでした。ですから、花火大会の見える高台などにみんなで集まって花火大会を一緒に見て楽しみました。
 この作文の中のちちばし(上土橋)と言うのが、尾根台より400mばかり北東にある江南地区板井が望める私の家の畑沿いの農道のことで、熊谷の花火には毎年たくさんの部落の人がうちわを持って集まりました。
 その頃は、山の中もきれいに管理されておりましたので、子供たちは花火の観賞とともに山の中を駆け回ったりガシャガシャ取りをしたりもしました。きれいな花火が上がると「わいわい」しながらみんなで喜び合いました。
 私も、熊谷の花火の時には、家の前の耕地を隔てた高台ののうてん坂にも行ったことがありますが、もっぱら上土橋に行っての花火見学でした。
 上土橋の花火見学のところの畑に一度だけスイカを作りました。スイカが大きく生ったので、そろそろ食べごろだと思ってとりに行ったらなくなっていました。これがちょうど花火大会の頃と重なっていた時期だったので花火大会で見つかってしまって、戯れに盗まれたのかなとの思いが、未だに頭の中に残っています。
 ともあれこの頃は、自家用車なんて考えもつかない時代、行動範囲も限定されていて娯楽も少ない時代でしたから、熊谷の花火大会は大人も子供も楽しみだったのです。
 今から考えると、その頃は近所の交わりも深く、近所の人達はみんな根っこまで知り合う仲でしたので、何の気兼ねもなく付き合い助け合っていた時代だったのかと思われます。