GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2008年06月

村の法度・五人組帳

 江戸時代の農民統制は領主にとって極めて大切なことであった。この時代の経済の基本が米価であり、所有する土地からの米の収穫高(石高)が人の地位価値を決めるほどであったから、「農は国の大本」といわれ、それに従事する者の身分は「士農工商」と支配階級である武士の次に置かれていた。従って幕府・領主の農民に対する政策は重要な課題とされてきた。その一端を示すものが「法度」である。法度というのは掟(おきて)・禁令・触(ふれ)・議定等名称は区々であるが、生活を規制・拘束する法律の総称である。

 農村に対してはどんな法度が課せられたのだろうか幕府の庶民統制として知られている制度に「五人組」制度がある。五人組は五戸前後の家を組み合わせて設置されたもので、年貢の納入、キリシタン・浪人の取り締まり、日々の生活にまで立ち入って、彼等に連帯責任、相互監察の役目を負わせ、支配の末端組織として重要な役割を荷(にな)わせた。名主は「五人組帳」というものを毎年領主に差し出した。この五人組帳には組員全員が署名捺印している部分と、その前に彼等が守らなければならない法度が数々記された部分とがあり、この法度の部分を「五人組帳前書」といつている。

 1836年(天保7)、吉田村の「五人組帳」の前書を見て行こう。この五人組帳は山本大膳版と刻印され、木版仕立のものであり、旗本山本大膳(六百石)の知行所全部へ配布されたものと思われる。

 冒頭次ぎの様に述べて、五人組のあり方をしめしている。

一、兼(か)ねて仰(あおせ)出され候通大小百姓五人組を極(き)め置き、何事によらず五人組内にて御法度に相背(そむ)き候義は申上るに及ばず、悪事仕(つかまつ)り候もの之有り候はばその組より早速申し上べく候、 (中略) 若(もし)五人組に外れ申し候もの御座候はば名主組頭曲事(くせごと)(法に背く事柄)に仰附らるべく候事

 即ち大百姓から小前、下人に至るまで全てを五人組で組織し、組員で法度に背いたものを報告させ、若し隠しておいて他から判明した時は五人組員、名主全員が処罰された。謂所五人組のあり方は連帯責任制であり相互監視で、そのことを始めに規定している。五人組帳前書の内容項目は地域、時代により区々であり数か条から五十ヵ条、百ヵ条にも及ぶものもあったが、この吉田村のものは十二項目で、比較的少ないものであった。一項目は前書のとりであるから第二項から逐条概略見ておこう。

一、欠落(かけおち)者、あやしき者、一人(ひとり)者に宿を貸さぬこと。但し縁者のときは名主組頭で穿鑿(せんさく)し証人を立て許可すること。
一、手負い(傷を負っているもの)行き倒れ(病気、疲れ、寒さ等で路上に倒れること)の者があれば報告すること。煩っている者は看病し早速申し上げること。
一、奉公人の請け人(保証人)には猥(みだ)りにならぬこと。
一、浪人を抱え置くときは名主に申上げよく理解し請け人を立て手形を取って役所の帳簿に記載すべし。
一、切支丹宗門御制禁のこと。不審なる者は捕らえ置くこと。また召仕(めしつかい)等は寺請状(庶民がキリシタン信徒でなく寺の檀家であることを檀那寺に証明させた書状)を取り入念吟味すること。
一、耕作商売もせず遠国まで遊び歩き博奕(ばくえき)賭け事を好み不似合いの衣裳を着るような不審なる者あれば早速報告すべし。
一、夜泊まりで他所へ外出するときでも行き先用事の仔細を名主五人組へ断るべし。盗人訴人は密々御役所の定めの筒に書付を入れること。
一、鉄砲は許可ある以外所持すべからず。
一、聟取養子取は名主組頭立合い念を入れ後日争いにならぬようにすべし。
一、婚礼の節は貧富によらず一汁一采有り合わせの野菜肴二種に限り、過酒をせず、衣類櫛簪等は華美にならぬこと。
一、婚礼の節は奢ることなく名主組頭の内一人立合い客は親類組合本家分家に限るべし。

 末尾に「月々再々読諭し悪事に移らず 善事に導候様心掛け申すべし」とむすんでいるので、毎月五人組の者共へ読んで諭しこの法度を徹底させようとした意図が窺える。なおこの法度に違背したものがあれば組合員は言うに及ばず、村役人までも罰せられることが再度うたわれている。

 更に1838年(天保9)には鉄砲の再調査があり「議定連形之事」として「相改候得共鉄砲は勿論筒台似寄候品にても一切無御座候」と山本・松下・菅沼・折井知行所村々小前全員が署名捺印して報告している。鉄砲の不法所持の禁止取締りである。

 又1858年(安政5)には「議定一札之事」として「博奕宿は申すに及ばず二銭壱銭之諸勝負事一切致間敷候」と山本・松下・菅沼知行所小前役人連印して議定書を提出している。

 そして又、1866年(慶応2)「組合村々一同相談之上議定取極御趣意左之通り」と組合村々三十一カ村が評議して次の事柄を議定し連印の上報告した。その内容は

一、婚礼・紐解(幼児が附け帯をやめ帯を用いる祝)・孫祝(初子の誕生祝)等の祝儀の折酒は一切無用、婚礼のみ酒一升、客は両隣、組合総代、親類総代、村役人各一人とすべし
一、葬儀に酒は無用、追善法事も質素にすべし
一、諸振舞(饗応すること)の儀は相止めるべし
一、九月九日の日待ちに客の行来を止め、初米を神仏に備える儀は家内限りとすべし
一、正月の祝も門松も質素に、餅は支度せず、酒盃一切無用、年頭品は紙一折とすること
一、村々の付き合いと称して良いにつけ悪きにつけ酒を用いたが今般取極め候上は致さざること
一、日々の食物なるべく粗食相用うべきこと

の七項目だが、祝儀不祝儀、年中行事付き合い、日々の食生活まで細かく規定している。

 吉田村の五人組帳を中心に幕末の村の法度をみてきたが、要するに切支丹宗の制禁、博奕の厳禁、鉄砲不法所持の禁止、祝儀不祝儀日常生活の質素倹約、浪人部外者の排除対応等々が中心になっていた。

 思うに、幕府は天変地災(旱天・大水)から飢饉となり困窮疲弊の農民が一揆を企て、欠落、逃散した農民が浪人博徒に操られて騒乱を起こすことを恐れて、治安の維持のためこの様なやや過酷とも思われる法度が定められたのであろう。

進学できなかった「悔しさ」

 1999年(平成11)8月14・15日の両日、嵐山町中央公民館展示室で第6回博物誌展示会を開催しました。今回は、「戦時下の青春〜大字菅谷・関根正一さんの遺稿から〜」と題して、関根正一さんの遺稿、書簡等を展示し、130人余の町民の皆さんが訪れました。
 展示会会場で話題になったことの一つが、「小学校卒業後、中学校・高等女学校・実業学校等へ進学出来なかったことの悔しさ」です。戦前、これらの学校への進学者は、多い年でも5人程度でした。
 関根正一さんの学年を例として、小学校卒業後の進路(尋常科・高等科卒業時)について「学校一覧表」より人数を調べてみました。関根さんは、1925年(大正14)2月生まれですから、前年1924年(大正13)4月以降に生まれた子どもたちと同学年になります。1931年(昭和6)4月、菅谷第一尋常高等小学校に入学しました。一年生は86人(男50人・女36人)。四年生までは2クラスで学びました。男子の半分は、一年生の時は二年生の女子と、二年生では三年生の男子と、三年生では四年生の男子と、四年生では三年生の男子と一緒という複式学級編成でした。1935年(昭和10)12月3日、五年生の時、菅谷の大火で小学校の校舎四棟が焼失しました。
 1937年(昭和12)3月、尋常科を卒業します。75人(男44人・女31人)の卒業生の進路の内訳は、高等科入学者62人(男39人・女23人)、中学・高等女学校等5人(男2人・女3人)、「修学せざるもの」8人(男3人・女5人)です。
 1939年(昭和14)3月に高等科を卒業します。卒業した57人(男38人・女19人)の進路は、青年学校34人(男19・女15)、中学校・実業学校3人(男)、「その他で修学」(大河青年学校二部など)5人(男)、「修学せざるもの」16人(男12人・女4人)でした。
 小学校卒業後、さらに中学校や高等女学校等へ進学するには、親の理解、そしてなによりも経済力が必要でした。子どもの希望だけではどうにもならなかったのです。関根正一さんは高等科卒業後、村役場の使丁として働きながら勉強を続けました。関根さんのように進学できなかった悔しさをバネに独学で学び続けた人も少なくなかったのです。
    [博物誌だより」1999年(平成11)10月号より作成

消防のはじまり

 明治になっても消防に関する規定は示されませんでした。江戸の町火消がそのまま存続したように、各村独自に消防手段を講じていました。埼玉県では1886年(明治19)、「消防編成規則」が制定され警察署が所轄する消防組が各町村毎に誕生しました。

 菅谷においては翌年一月消防組合が設置され、菅谷(49)、志賀(109)、平沢(40)、遠山(24)、千手堂(34)、鎌形(84)、大蔵・根岸・将軍沢(48)の消防夫を擁し、消防ポンプ・鳶口・玄番(大桶)・梯子等の消防器具を備えていました。1895年(明治28)の七郷村古里の消防組の器具をみると水機・大桶・小桶・鳶口・梯子等であまり変わりはありません。その内消防ポンプ・水機といっているものは当時流行の「竜吐水」ではなかったのでしょうか。1888年(明治21)越畑でも熊谷の竜吐水師新井喜三郎から十六円で購入しています。当時の消防は自営でしたから、これらの費用を消防費として徴収、或いは寄付によってまかなわれていたのです。

   資料:竜吐水の図、竜吐水購入領収書(越畑村)、器械寄付金証、消防手任命書等

郵便のはじまり

 江戸時代封書の送達は飛脚屋に委ねられていましたが、一八七一(明治四)年官営の郵便事業が発足、簡便な葉書も翌々年発行されて、全国的に広まっていきました。1872年(明治5)、松山(現東松山)・小川にも郵便取扱所(後の郵便局)がもうけられましたが、嵐山町域の村々は松山・小川両所の管轄に属していました。郵便函が菅谷・志賀・遠山・鎌形・大蔵に置かれ、毎日一回集配されていました。郵便に必要な切手は副戸長宅で売っていたようです。菅谷に郵便局が開局したのは1920年(大正11)のことでした。

  資料1:久保常右衛門宛封書(明治十二年)。消印は東京となっている。宛名が小川宿在越畑村なので小川局を経由したものとおもわれる。

  資料2:田幡宗順宛郵便はがき(明治十六年)。消印が比企・武蔵・松山となっている。

警察のはじまり

 1871年(明治4)以降警察制度は除々に整えられていきました。1875年(明治8)「行政警察規則」が公布され、それまで松山に置かれていた取締所も警察出張所となり、邏卒(らそつ)の呼称も巡査に変りました。菅谷には分屯所(警察第九松山出張所第八菅谷分屯所)がありましたが、1877年(明治10)、松山警察菅谷分署と改称されました。この時の菅谷分署は九坪の民有地に六坪半の庁舎が建てられ、巡査五人が常駐し、三十五か村を管轄していました。庁舎は同年8月に新築されていますが、同年3月・4月に鎌形の簾藤信平・菅谷の関根伊右衛門・杉山の初雁京之助外十三名がその建築費として寄付をしています。七郷では受持巡査駐在所を造ろうとしたが果たせず、金泉寺の玄関茶の間を借り受けたということで、当時は警察も民力に頼らざるを得なかったのです。

   資料:小川分署巡査派出所寄付金取立帳。金泉寺文書。

七郷駐在所のあゆみ 1914年5月

1914年(大正3)5月17日 七郷村大字吉田1912番地に小川警察署七郷巡査駐在所開設。
1948年(昭和23)2月5日 警察法施行に伴い国家地方警察小川地区警察署七郷巡査駐在所と改める。
1952年(昭和27)9月18日 駐在所改築工事着手、同年11月30日完成。
1953年(昭和28)4月10日 記念植樹(柿・梨・梅)。
1954年(昭和29)6月1日 警察法施行に伴い小川警察署七郷巡査駐在所と改める。
1960年(昭和35)11月1日 巡査駐在所の巡査を削り七郷駐在所と改める。
1977年(昭和52)5月18日 嵐山町大字越畑1-426番地に移転。
2000年(平成12)4月 武蔵嵐山駅前交番が新設に伴い太郎丸地区が武蔵嵐山駅前交番管内へ移行。
2001年(平成13)11月27日より嵐山町農業構造改善センターの一室に仮駐在所を設ける。
2001年(平成13)11月29日 駐在所改築工事着手、2002年3月22日完成。

菅谷屯所・菅谷分署・今市屯所・今市分署・男衾分署

 嵐山町全域は現在、小川警察署の管轄です。明治の前・中期頃、この地域を管轄していた警察は?
 埼玉県警察本部教養課発行『新警察風土記』(1978年6月)から関わりのありそうな部分を拾ってみました。

 小川警察署の歴史
1875年(明治8)12月 松山警保出張所小川村巡査屯所が設置された。
1876年(明治9)2月 松山警保出張所は松山警察出張所と改められ、同年10月5日埼玉県警察第九松山出張所と改められ、更に、同年12月9日同出張所第三十四小川屯所となった。
1877年(明治10)2月5日 警察署・分署制の実施により松山警察署小川分署となった。1878年(明治11)5月、埼玉県から内務省に報告した資料では、民家を借用して庁舎とし、定員は巡査6人。1890年(明治23)12月の定員は、警部1人、巡査17人、諸雇い1人、計19人。
1898年(明治31)4月3日 比企郡小川町大字大塚25番地ノ2に庁舎を新築移転。管轄区域は比企郡内の小川町、竹沢村、大河村、八和田村、七郷村菅谷村、玉川村、明覚村、平村、秩父郡の大河原村、槻川村、大椚村の1町11ヶ村。
1918年(大正7)4月1日 今宿村、亀井村が小川警察署管内に編入される。
1923年(大正12)12月20日 小川町大字大塚34番地に土地を購入、翌24年1月8日小川町大字小川138番地の深谷商業銀行小川支店所有建物を仮庁舎にあて、同年3月1日工事竣工、本庁舎へ移転。
1925年(大正14)6月15日 小川分署は小川警察署に昇格する。
1927年(昭和2)1月28日 亀井村、今宿村は越生警察署管轄となる。
1938年(昭和13)8月 庁舎改築案がまとまり小川町大字大塚34番地ノ10に着工、翌39年7月13日竣工。
1948年(昭和23)3月7日 警察法施行とともに小川町警察署が置かれて小川町を管轄し、残りの各村に今宿村、亀井村の2村を加えた村部は国家地方警察小川地区警察署が管轄した。
1951年(昭和26)10月1日 警察法の改正により、小川町警察署は廃止され、小川地区警察署に統合され、今宿村、亀井村は越生地区警察署の管轄となる。
1954年(昭和29)7月1日 警察制度の再度の改革により小川警察署となり、区域は、現在の小川町、嵐山町、ときがわ町(玉川村、都幾川村)、秩父郡東秩父村の管轄となる。
     埼玉県警察本部教養課発行『新警察風土記』(1978年6月)180頁より作成

 東松山警察署の歴史
1872年(明治5)11月14日 入間県当時、比企郡松山町に松山町見張番所が置かれた。1873年6月15日、入間県と群馬県が合併し熊谷県となり、同年11月1日松山町取締所と改められたが、1874年2月松山警視出張所となった。同年7月22日付で定員10人と定められた。
1875年(明治8)8月 従来の警視出張所を警察出張所に改め、更に、同年12月19日警察出張所を警保出張所と改め等級が設けられた。松山警保出張所は三等で、管理は十五等出仕1人、等外一等出仕1人が詰めていた。同年12月27日松山駐屯所が設置された。
1876年(明治9)2月9日 松山警保出張所は、再び松山警察出張所と改められ、同年8月、熊谷県が廃止され、旧入間県部分は埼玉県に編入される。同年10月5日松山警察出張所は埼玉県警察第九松山出張所と改められる。更に同年12月19日の改正で松山出張所の所轄屯所は、第三十四小川屯所、第三十六松山屯所、第三十七坂戸屯所、第八菅谷分屯所となった。
1877年(明治10)2月5日 警察署・分署制の実施により、松山警察出張所は松山警察署と改められ、屯所はそれぞれ分署と改められた。当時の警察署は松山町大字松山541番地にあったが、1879年(明治12)4月、松山町大字松山4561番地に庁舎を新築移転した。
1882年(明治15)8月10日 松山分署、菅谷分署(後に交番所ができる)はともに廃止され、同時に坂戸分署は川越警察署の所轄となったため、松山警察署の所轄分署は小川分署だけになる。
1886年(明治19)10月15日 新たに下細谷分署が新設され、松山警察署の所轄となる。1889年(明治22)4月1日下細谷分署は吉見分署と改められたが、1893年(明治26)12月1日廃止された。
1909年(明治42)9月20日 松山町大字松山4561番地に庁舎を新築移転した【1879年と同じ場所?】。
1925年(大正14)6月15日 小川分署は、小川警察署に昇格し、松山警察署の所轄からはなれる。
1948年(昭和23)3月7日 警察制度の改革により、自治体警察の松山町警察署が設置されて松山町を管轄し、他の村部は国家地方警察松山地区警察署が管轄した。
1951年(昭和26)10月1日 警察法の改正により自治体警察は廃止され、国家地方警察松山地区警察署に統合された。
1954年(昭和29)7月1日 警察制度再度の改革により松山警察署となる。同時に松山町は、大岡村、唐子村、高坂村、野本村と合併して市制を施行し、東松山市となり、警察も埼玉県東松山警察署となった。同年11月3日、合併により川島村、滑川村が誕生し、吉見村と共に管轄区域が一市三ヶ村となった。
1955年(昭和30)10月13日 東松山市大字松山4373番地に庁舎を新築して移転、1968年(昭和43)9月住居表示変更により同市本町1-2-21番地となる。1972年(昭和47)11月3日、川島町、吉見町が誕生し、管轄区域は一市二町一村となる。
     埼玉県警察本部教養課発行『新警察風土記』(1978年6月)168頁〜169頁より作成

 熊谷警察署の歴史
……
1876年(明治9)12月19日 県令甲第110号布達により警察出張所の所轄割りが定められ、熊谷出張所の所轄屯所は、第二十四熊谷屯所、第二十五妻沼屯所、第二十六深谷屯所、第三十寄居屯所、第三十五今市屯所となった。
1877年(明治10)1月 内務省乙第五号により、同年2月5日(警察署・分署制の実施により)従来の出張所は警察署、屯所は警察分署とした。これにより熊谷警察署が誕生した。
1880年(明治13)7月1日 熊谷分署は熊谷警察署に統合され、1882年(明治15)8月10日妻沼分署、今市分署は廃止された。また、寄居分署は警察署に昇格し所轄を離れたため、熊谷警察署が所轄したのは深谷分署のみとなる。
1886年(明治19)10月15日 妻沼警察署及び熊谷警察署今市分署が新設され、同日熊谷警察署深谷分署は警察署に昇格して所轄を離れた。
1889年(明治22)4月1日 今市分署男衾分署と改められたが、1893年(明治26)12月1日廃止され、同時に妻沼警察署は分署となり熊谷警察署の所轄となった。
1902年(明治35)6月1日 一郡一警察署制の実施により、深谷警察署は熊谷警察署深谷分署となり、深谷警察署寄居分署も熊谷警察署の所轄となる。また、妻沼分署は廃止された。
1920年(大正9)4月1日 深谷分署は警察署に昇格し、1926年(大正15)7月1日分署制の廃止により寄居分署も警察署に昇格して熊谷警察署の所轄を離れた。
……
     埼玉県警察本部教養課発行『新警察風土記』(1978年6月)229頁〜230頁より作成

吉田村松下・菅沼知行所田畑屋敷反別一覧

 知 行 所   松下清九知行所   菅沼小膳知行所 
 石  高   80石6斗6升9合   19石8升2合 
 全 反 別   5町1反8畝19歩   2町1反11歩 
 内  訳  反 別 小 計  反 別  小 計 
田  上   9反819 22反021 0反426  4反425  
中   12反214  3反929
 14反528 16反019 4反212  4反324  
下々  1反421 0反112 
 38反1畝10歩  8反8畝19歩  
上   2反206  5反828  0反129  1反711  
3反622  1反512 
 3反729 6反102  0反702  0反702  
下々  2反303  
 計 12反0畝00歩   2反4畝13歩  
 屋    敷   1反7畝09歩  0反2畝06歩  
新 開 畑     5反5畝程
相成
申候    
   開発山
御座候    
1反110   0反726
 7反200  1反927
下々  5反806  6反711
 14反116  9反504

都幾川の筏下し

●写真 1820年頃筏連中建立の水神塔(東松山市上唐子 月田橋際)

 町の南を槻川と都幾川が流れ、鎌形の北東で合流し、都幾川となって東流する。川の合流点を落合(おちあい)とか二瀬(ふたせ)と言い、地名ともなって二瀬橋が架けられている。今は上流で取水され水量が減りその上富栄養の生活排水が流れ込み河原は草原となり石は見えない。昔は河原は石や砂利で今の何倍もの水が流れていた。そして、川が流域の林産物を運ぶ唯一の大動脈であった。川には橋はなく、浅瀬を歩いたり、「大蔵仮橋橋賃なし」等の記録にある様に仮橋や渡船で越えていた。橋があると橋賃と言って金を取られた。有料橋なのである。

 都幾川は比企郡内を、神戸(ごうど)、葛袋(くずぶくろ)、早俣(はやまた)、長楽(ながらく)と流れ、坂戸の赤尾(あかお)で越辺川(おっぺがわ)と合流する。更に上尾(あげお)の平方(ひらかた)の手前で荒川と合流し、江戸へと流れていく。この流れを利用して、江戸期(吉野良男家文書)から大正頃まで筏(いかだ)が下(くだ)っていた。吉野栄作家に残る1890年、1891年(明治23、24)の文書によれば、現在の東京都北区、荒川区にあった豊島河岸(としまがし)とその下の尾久河岸(おくがし)には、樫(かし)、雑、松等燃料材が送られている。江東区の深川の木場(きば)には建築材の松丸太が流されている。売り上げを控えた文書には、炭六百俵とか、樫、雑等々の記載があり、この荷主は鎌形の吉野治平である。豊島河岸の仕切に「……差引金十七円九十六銭六厘……鎌形吉野治兵衛殿代理千代田啓次郎様」、別紙に「記・筏壱双弐枚・乗賃七円五十銭・一円五十銭出し金・残六円・十二銭小家代・棹(さお)大十銭・小棹四本十銭・締計六円三十二銭・差引残金十一円六十四銭六厘相渡ス 早又千代田啓次郎 吉野治平様」とあり、豊島河岸の売上金から千代田が筏乗せ賃等を差引いて吉野に渡している。早俣河岸の千代田に荷物を運んで貰ったということだ。

 『東松山の歴史』中巻によれば、江戸期には、葛袋に筏玉川問屋があり、玉川郷の林産物を江戸に下していた。玉川郷とは、嵐山町根岸より上流の都幾川、槻川に面した村々と考えればよい。東秩父の村も入っている。簾藤勉家文書に松丸太を十四両二分で売った仕切状がある。買い主は玉川屋三右衛門とあり、角印の中には千住橋際玉川屋と彫ってある。江戸の千住大橋際の河岸に、玉川町中宿(ながじゅく)(現玉川村根際。ねぎわ)の豪商小沢三右衛門の出店があったに相違はあるまい。とまれ、筏下しは江戸より明治前期を最盛期として、明治末〜大正と終焉を向かえる。今はただ水神塔(すいじんとう)を残すのみで、忘れ去られ分からなくなってしまった。

水神塔に刻まれた筏連中17ヶ村48名中、嵐山町域13名の名前は次のとおりである。

根岸村:根岸勇蔵
将軍沢村:鯨井五右衛門
鎌形村:杉田宅右衛門・杉田金兵衛・岩澤彦兵衛
    長嶋源右衛門・長嶋儀八
千手堂村:関根源左衛門
遠山村:山下茂七・山下平吾・杉田民右衛門
    久留田半右衛門
大蔵村:金井広治郎

   博物誌だより99(嵐山町広報2002年10月号)から作成

Latitude : 36.030551
Longitude : 139.336627

地租改正とは

 地租改正は、明治政府が国の安定した財政基盤を確立するために、18783年(明治6)から行なった租税制度の改革です。江戸時代からの地租は、耕作農民が米によって納める物納制でした。しかし、これでは農作物の豊作や凶作によって、税収が大きく変動します。そのため安定した税収を確保するために地租改正を行なったのです。

 1873年(明治6)の地租改正法

  1 課税の基準を、従来の不安定な収穫高から一定した地価に変更しました。
  2 地価の3%を地租として金納させることにしました。
    1877年(明治10)に地価の2.5%に引き下げました。
  3 納税者はその土地の所有者としました。

 改改正地券の発行

 地租改正の調査を行なった政府は、土地の所有者に地租改正法による地券を発行しました。この地券には次のようなことが記されています。
  土地の所有者  土地の所在地  地目(田・畑・宅地・山林など)
  段別(面積)  地租(地価の3%の金額)

 地租改正の結果と影

 地券の発行によって個人の土地の所有が認められるようになりました。また土地の売買や担保の対象として扱われるようになりました。そして納税義務者は、地券を所有する地主と自作農になりました。
 政府の税収入は安定しましたが、政府は従来の税収が減らないことを方針にして、地価を高めに定めたので、農民の負担はかえって重くなりました。その上、地租を金納するために米を売ろうとすると、商人に買いたたかれることも起こりました。
 また小作人の場合は、地主に納める小作料は米による現物納でしたから、米価上昇による利益はすべて地主のものになりました。
 やがて地租反対一揆が各地で起こり、政府は1877年(明治10)に地租の税率を3%から2.5%に引き下げざるをえませんでした。「竹やりでドンと突き出す二分五厘」ということばが残されています。

         資料 地券の写真

中爪の和算家・細井長次郎の門人たち

 細井長次郎は1798年(寛政10)に中爪村(現小川町)に生まれた和算家である。中爪には大師様で有名な普光寺があるが、1852年(嘉永5)3月、細井が普光寺へ奉納した算額の写が残っている。現物は1951年(昭和26)頃に破却されたという(『小川町の歴史 通史編 上巻』687頁〜688頁、2003年8月)。その資料(小川町中爪・細井弘一(ひろいち)家文書2、『小川町の歴史 資料編5』資料番号665、258頁〜259頁掲載)には32名の門人の名前がある。嵐山町域の門人として、鎌形村:小林升之助・小林於初・長嶋栄吉、3名の名前がある。小林於初(おはつ)は、女性であろう。

 
 

沙門恵長・本田良輔・本田百助・細井初太郎・大塚仲三郎・松本琴次郎・大塚宗作・松本善輔・大塚久左衛門・大塚治三郎・大塚房次郎・市河武兵衛・馬場岩蔵・市河亦四郎・市河善次郎・坂田七右衛門・馬場伊三郎・内田新蔵・内田森蔵・市河与之吉・市河熊太郎・(越後藤塚)坂田音吉・(鎌形)小林升之助・小林於初・長嶋栄吉・(下小川)関口元次郎・林庄兵衛・久保和吉・久保金助・(下里)新井鶴蔵・(高見)高橋和重郎・(当所)柳瀬□蔵

 
 

 細井が没するおよそ一年前の1859年(安政6)正月に作られた「中爪村細井氏算法門人帖」(小川町高見・高橋喜久男家文書7、『小川町の歴史 資料編5 近世?』資料番号666、258頁〜260頁掲載)の門人を村別にまとめると以下のようになる。門人のいる村々は、花園町(現深谷市)・寄居町・小川町・嵐山町域の旧村である。嵐山町域では、吉田村の船戸滝造、越畑村の根岸勝次郎・船戸清助、菅谷村の高橋国次郎・関根藤次郎・小沢太郎兵衛の名前がある。

 
 

花園村:戸塚織之助、鷹巣村:若林初太郎、寄居:吉田鶴吉、富田村:吉田松五郎・吉田勝五郎・根岸徳次郎・内田平三郎・吉田平次郎・小沢太蔵・嶋田仙之助、中爪村:細井門弟指南・柳瀬愛作、高見村:高橋倭重郎・中嶋安吉・関口才吉・小高百松・戸野倉新五郎・戸野倉学太郎・中島貞次郎・江原治郎吉・戸野倉喜重郎・坂田広吉・石田徳次郎・根岸善次郎・小高伝八・関口早之助・田嶋徳次郎・中嶋軍平・戸野倉平吉・小沢利平・戸野倉柳三郎・中嶋久太郎・坂田喜一郎・黒沢近之助・高橋亥十郎・小高梅次郎・山崎丑太郎・根岸平兵衛、能増村:田口源次郎・田口右太郎・森田嘉七?、小川:福島万次郎・福島伴次郎・福島つる、角山村:根岸安次郎、村:坂田荒五郎、高谷村:岡部竹六郎・塚越春吉、吉田村:船戸滝造、越畑村:根岸勝次郎・船戸清助、管ケ谷村(→菅谷村):同苗(→高橋?)国次郎・関根藤次郎・小沢太郎兵衛

 
 

 

細井は1860年(安政7)正月28日に61歳で没した。墓は不動堂共同墓地(小川町中爪1122)にある。戒名は法算心綿信士。墓石の裏面に細井長次郎門派とあって沙門恵長を筆頭に合計47人の門弟の名前が刻まれている。

 吉田の船戸……、古サトの荻山……という名前が読めた。

 

 二点の文書と墓石から嵐山町域の細井長次郎の門人は古里・吉田・越畑・菅谷・鎌形の各村にいたことがわかった。

Latitude : 36.063885
Longitude : 139.290866

 

1884年(明治17)の県令あて開墾願

 太郎丸の田幡丈家に残された文書の中に、1884年(明治17)に埼玉県令吉田清英宛に出した「開墾地願」の控(ひかえ)が残されている。提出者は五名。自分の持つ草生地や林を開墾して、田畑や宅地にかえることの許可願いである。各々の開墾造成地(かいこんぞうせいち)には野取絵図(のとりえず)が付けられている。

 開墾地願に記されている草生地と林、開墾後の土地の一覧
  名前・現地目・ 面積(坪)・ 開墾後の地目・反別・収穫物・量
  田幡載太郎(草生地・52坪・田・55坪・米・1斗5升1合)
       (林・17坪・田・48坪・米・5升)
       ( 林・96坪・宅地・96坪)
       (林・18坪・宅地・18坪)
       (林・36坪・畑・47坪・麦・1斗2升5合)
  田幡亀吉(林・139坪・畑・169坪・麦・4斗5升)
  関口菊次郎(林・86坪・畑・87坪・麦・2斗3升2合)
  大沢太吉(林・32坪・畑・32坪・麦・8升5合)
  田幡熊次郎(林・47坪・畑・47坪・麦・9升4合)
(なお、田幡亀吉の場合のように開墾造成地の面積が増えているものは、造成時に面積を増やしたものである。)

 1884年(明治17)の時代状況

 太郎丸の人たちが県に開墾願いを出した1884年(明治17)はどんな時代だったのか。1881年(明治14)から始まる大蔵卿松方正義のインフレ抑制策によって、日本全体がデフレになり、埼玉県内でも民衆の生活は困窮(こんきゅう)を極めていた。1884年(明治17)には、秩父の山間の人たちが生活の苦しさのなかで武装蜂起(ぶそうほうき)する秩父事件が起こった。翌85年には埼玉県会議長加藤政之助が、県内民衆の窮乏状況(きゅうぼうじょうきょう)を視察している。彼の『埼玉県惨状視察報告』によると、「比企、横見両郡の人民世間不景気に沈み且物価の下落せるために其収入を減じて諸懸(しょかかり)の諸税負担に堪(た)へざるが為めか近年来非常に各自負担を増加し其高頃日驚くべきの巨額に登りたる」と述べ、比企郡の人民の負債額121万1843円・毎戸平均106円84銭5厘と述べ、比企・横見の両郡を「最も惨状を極めたる土地」の一つにあげている。太郎丸村も厳しい状況にあったはずである。

 開墾による変化

 太郎丸村の開墾願には、開墾地は「耕作便宜(べんぎ)」「商法便宜の場」で、「格別の立木も無く、人夫等の労賃も無く開墾」出来る地であると記されている。その開墾願をみると、草生地と林の地価が、開墾によって地目が田、畑、宅地に変わることによって大きく変わってくることがわかる。たとえば、田幡載太郎の草生地の地価はわずかに8銭7厘であるが、開墾によって造成された田の地価は6円93銭1厘、実に約80倍に跳ね上がり、収穫される米は1斗5升1合になる。関口菊次郎の場合は、林の地価が43銭、開墾による畑の地価が3円55銭であるから8.3倍に、麦の収穫2斗3升2合なっている。五人の持っている草生地と林の地価を合計してみると2円38銭2厘であるが、開墾によって造成された田、畑、宅地の地価の合計は34円28銭6厘、実に17倍になっている。太郎丸ではわずかな土地の開墾でも、不況の中で生活を守る打開策として行われたと思われる。しかし地価が上がると、地租(ちそ:土地に課される税金)も合計五銭九厘だったものが84銭6厘、14.3倍になってくる。

   開墾地の野取絵図の例(田幡載太郎の草生地)

   太郎丸村の開墾地(五人の開墾地を図面に示す)

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