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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2008年07月

都幾川水害の歴史 (『唐子村郷土誌』水害史より)

   水害史
一 本村【唐子村】水害ノ沿革
本村ハ都幾川流域村ノ中央ヲ西ヨリ東ニ流レ南北ニ両断シ年毎初夏ヨリ秋分ニ至ル間 川水漲溢(ちょういつ)シ両岸ノ耕地水害ヲ蒙(こうむ)ラザリシハ殆ト希(まれ)ニシテ年二三回ハ必ス水害ニ罹(かか)ルヲ常トス然レトモ大洪水ノ悲惨ヲ蒙ルコトハ近古万延元年申年(1860)ノ洪水大字葛袋字寺前破堤全部落人家床上浸水全部ニ亙レリ近クハ明治十九年(1886)大字神戸字明戸堤破壊耕田凡ソ拾町歩立毛損害ヲ蒙リ最近ニ至リ明治四十年(1907)ノ水害ハ多大ノ立毛ヲ損失セリ殊(こと)ニ四十三年(1910)八月十日以来古今未曽有ノ大洪水ニテ全村殆ント七分水冠トナリ其惨害状況下表ニ示スカ如ク是カ為メ損害ヲ蒙リタル一切ノ概算額金六万円ニシテ是レ本村住民五百六十餘戸ノ蒙リタル損害ナリ
【加筆】大正二年(1913)八月二十七日午前二時大洪水四十三年度ヨリ高キコト二尺石橋葛袋堤防総越水葛袋字河北ハ床上浸水三尺ニ及ベルモノアリシ
【唐子村水害区域畧図は省略】

※「明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(1)」、「明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(2)」、明治43年(1910)8月都幾川出水の状況(『唐子村郷土誌』水害史より)」、「大正2年(1913)8月都幾川の大洪水(『唐子村郷土誌』水害史より)」、埼玉県編『埼玉県水害誌 明治四十三年』。

明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(2)

 親発第三三号
 明治四十三年八月十六日          比企郡役所第一課長
 菅谷村長殿
本月八日以来連日ノ強雨ノ為メ諸川汎濫シ遂ニ郡内堤塘ノ破戒ノミニテ七十有二ケ所ノ多キニ至リ旧吉見領川島領全部其他五六ケ町村ニ侵入シ人畜ノ死傷家屋ノ流失倒壊セルモノ甚ダシク其惨状見ルニ忍ヒサル有様ニ有之ヲ以テ十二日以来侵水家屋ニ対シテハ炊出シ給与ヲ施行セルニ其人員二万九千余人ノ多キニ至リ尚二三日間施行ノ上引続キ食品救助米ヲ給与セサルヲ得サル次第ニテ多量ヲ要スル義ニ有之候処県下ハ勿論東北地方致ル所水害ナルヲ以テ供給ヲ他ニ仰キ難ク候ニ付自然郡内ヨリ蒐集セサルヲ得サルヘキ場合モ生スヘキニ付貴村内米所有者ニ対シ郡外ニ輸出セサル様御配慮相願度且現在貴村内見込玄米現在俵数御取調折返シ御回報相願度
右依命通牒ス
追テ当業者ニ対シテモ本文ノ旨趣御示達相願度申添候也

右ノ通ヒ達候ニ付御移牒候間可然御配斗相願度及御依頼候也
 明治四十三年八月十七日           菅谷村役場
常設委員殿

     (『明治四拾参年五月 部内諸達 比企郡菅谷村』綴より)

※「明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(1)」、「都幾川水害の歴史 (『唐子村郷土誌』水害史より)」、「明治43年(1910)8月都幾川出水の状況(『唐子村郷土誌』水害史より)」、「大正2年(1913)8月都幾川の大洪水(『唐子村郷土誌』水害史より)」、埼玉県編『埼玉県水害誌 明治四十三年』。
1910年(明治43)の大水害については、埼玉県編『埼玉県水害誌 明治四十三年』。

明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(1)

   明治四十三年八月十七日           菅谷村長
   常設委員殿

 左記ノ通リ通牒越サレ候ニ付御部内当業者江御諭示相願度及御依頼候也

 左記

 庶発第七七号ノニ
 明治四三年八月十六日  第一課長 印
 菅谷村長殿
水害ニ際シ穀物其他物品ノ暴利ヲ貪ラントスル者無之様適宜ノ方法ニ依リ当事者ニ注意方其筋ヨリ電話ニ接シ候ニ付テハ御部内ニ於ケル各当事者ニ於テ右様ノ事無之様充分御注意有之度且其状況ハ時々報告相願タシ
右依命通牒ス

※「明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(2)」、「都幾川水害の歴史 (『唐子村郷土誌』水害史より)」、「明治43年(1910)8月都幾川出水の状況(『唐子村郷土誌』水害史より)」、「大正2年(1913)8月都幾川の大洪水(『唐子村郷土誌』水害史より)」、埼玉県編『埼玉県水害誌 明治四十三年』。

村の地名 村々の地名 根岸村(『嵐山町誌』604頁〜605頁)

  ▽根岸村
 根岸という地形の特長と名前の由来はすでにのべた。そして大蔵郷に属すとあるので、「大蔵館」の根岸であったかもしれないと想像したが、大蔵村と根岸村の関係では、観音様が安養寺の支配であり、村の鎮守神明社、三宝荒神社が安養寺持となっているから、両村の関係は深いと考えられる。安養寺は大蔵村鎮守山王社の別当をつとめている。いづれにせよこの村が古い開発の地であったことは、字名に我妻山、シトメ山、傾城谷等、昔の人達の意識や生活に結びついていると思われる名前があり、又都幾川の古い流路が残っていて、そこには皿淵・女淵・袈裟王淵などいう伝説めいた地名の場所があることなどから、推しはかることが出来る。
 我妻山(あづまやま) 吾妻山山とも書き、前山ともいう。東北の二方は都幾川に向い、東南は神戸村の鞍掛山に連り、西は将軍沢村の耕地を一望し、北の一部は村内の水田、人家を見下ろしている。頂上に吾妻神社がある。祭神は日本武尊であるから、吾妻山の名は、日本武尊の「吾嬬者耶(あづまはや)」の伝説から出たものであることは明らかである。
 道潅(どうかん) 松山県道の両側字道上の一部である。珍しい名前である。地元の古老に尋ねたが不明である。道潅といえば、すぐに太田道潅に結びつけたいところであるが、これは無理だろう。地名辞書によると「どうかん」と呼ぶ地名には、東京日暮里に「道閑山」とあるだけである。この道閑山も太田道潅に結びつけて、道潅のつくった城のあとだという説がある。然し新編武蔵風土記稿ではこれを否定して、「大道寺幽山の落穂集追加に、ここは関道閑という人の屋敷蹟であるということを、北条安房守*が聞伝えていた。又谷中の感応寺と根岸村の善性寺は関小次郎長耀入道道閑の開基であって、この人がこの辺を領していたというから、道閑山は関道閑**の住居蹟であることは明らかである。太田道潅が有名なので、近郷、ややもすれば、彼が事蹟に付会するのみ」***といっている。有名な道潅山(道閑山)でもこのとおりであるから、根岸村と太田道潅は縁がないようである。観音堂などと結びつけたい地名であるが、その手がかりが得られない。関道閑に関して同じ名の根岸村が出ているのは奇しき一致である。

*北条安房守氏長(1609-1670)。後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本でオランダ築城法、攻城法、地図学なども学んでいた。地図作製当時は幕府大目付を勤めている。

**関道閑は、江戸付近の土豪。日暮里付近の「道灌山」という地名の由来は太田道灌と関道閑の両説がある。

***『落穂集』は江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐(1639-1730)の1727年(享保12)の著作。徳川家康の出生から大坂夏の陣まで編年体にまとめたものと、家康の関東入国以後江戸時代初期の政治、経済、社会、文化等の各分野のおこりを随筆風に記録し、落穂選集といわれるものがある。

 道灌山之事
問云、今時本郷駒込之末に道灌山と申明候有之候、是も太田道灌斎江戸の城居住之節山居なども有之候哉其元にハ如何被聞及候哉、答て云、我等なども左様に斗相心得罷有候所に右江戸大絵図出来献上之前に至り、何れも致拝見候処へ岩城伊予守殿にも御出、江戸御城之噂など有之、伊予守殿久嶋伝兵衛に御尋候は、本郷の末に道かん山と申て有之候、太田道灌屋敷の跡にても有之候哉と尋給ひ候を以、側にて安房守殿御聞あられ、伊予守殿へ御申被成候は、あの道かん山と申ハ関道灌と申たる者の居申たる屋敷跡にて太田道灌とハ違ひ候と御申ニ付、其子細を承度候得共、岩城殿と安房守殿と対談の義故無其儀(そのぎなく)打過、三十年斗以前我等用事有之、毎度彼辺へ罷越ニ付在所之年寄たる者共に出合相尋候へ共、関道灌と申人の名を承りたる義も無之由申候也

村の地名 特殊な地名 根岸・ねがらみ(『嵐山町誌』546頁〜548頁)

  ▽根岸・ねがらみ
 館や城に関係して出来た地名に、根岸、ねがらみ、根古屋、寄居、山下(さんげ)などがある。本町では根岸村と杉山村のねがらみの二つがこの例にあたる。
 根岸村の本来の意味は「山の根岸の義なるべし」といわれている。根岸と呼ぶ地は大体この地形に一致している。岸というのはもと水際のことである。それが丘の麓まで根岸といって岸が転用されたということは、この土地が比較的新しい開発で、その名が各地に流用し通用したものであることを示している。
 つまり人口の増加につれて、谷田のせまい水田では米の生産が不足して来る。そこで麓の沼地や低湿地の泥の溜まって水の退いたところに畔を作って、苗をしつけるようになる。根岸、つまり山の根はそこに家を作りそのような新田を作るのに便利なところであった。そこで誰かが言い出したのであろうが、これがもとで同じような地形で同じような開発をして住みついた人たちがだんだんこれを根岸と呼ぶようになった。そして根岸は一般に通用する地名となったのである。このような根岸が一方に存すると共に、もう一つの根岸が現われた。前述のように荘園が分裂して多くの「小名」が、各自、館を構えて、兵農の根拠とした。その時、その保護の下にある家来や百姓の住んでいたところを又根岸というようになった。館や城は防備の用にも供するものであるから、地形としては土地が高燥で生活に適し、従って展望も開け、前面に平地水田を有し、後方は山に続くという条件の地が一番よい。出来れば先ずこのような地が選ばれたのであろうから、根岸はその地形の一部分になっているわけである。だから館や城の根際となる性格を充分にもっていた。それで根古屋などと同じよ[う]に城下の村であるという観念に固って来たのであろう。「ねがらみ」も又岡の麓にある民家の地であろうといわれている。岡に沿うことをカラム、カラマクといった。越畑の「軽巻」はこのカラマクの転化であろう。城の二つの入口を大手、搦手という。搦手は険阻な山城の裏手から崖を斜めに下る出路である。根搦(ねがらみ)へ下りていくから搦手というのである。
 そこで根岸村は、武士の館に関係あったかどうか。館の跡はない。然し「風土記稿」には或書に書いて、従って根拠はハッキリしないが「熊谷直実の子孫で、佐渡俊直という人が、根岸村に住して、松山城主の上田安独斎に属し……」とあるから、この佐渡俊直の館の周辺の地であったため、根岸と呼ばれたか、或は又、「沿革」には、大蔵郷に属すとあるから、例の「大蔵館」の根岸の地であったかも知れないとう想像が出てくる然し推測の範囲を出ない。
 「ねがらみ」となると、確実に杉山城の「ねがらみ」であって、城山の麓の民家の地を一時このように呼んだ時代があると考えられる。根岸村と吉田村に「山下」という字名がある。根古屋や寄居によく似た城下の地域を「サンゲ」という地方がある。城山の下という意味である。山下と書くがサンゲと読んでいる。本町の山下もサンゲではないかと一応、村人に訊してみたが、そのような呼び方はしないという。山下(さんげ)は読みにくいので、いつの間にか、山下(やました)と変ったものとも思われないことはない。

大野良如翁略伝

写真:題目塔(道路反対の銀杏の木の所から道路拡張にともない現在地に移動)

 玉ノ岡中学校の前の道を志賀方向に下り、相生橋(あいおいばし)の手前で車道を右折して50mほど進むと路傍に2m以上もある粘板岩の石碑がある。正面には「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のヒゲ題目(だいもく)の七文字が刻まれており、妙法山(みょうほうざん)二十二世日暉(にちき)とある。妙法山とは行田市忍一丁目にある蓮華寺(れんげじ)という日蓮宗の寺院の山号であり、日暉は蓮華寺二十二世、本山龍口寺(りゅうこうじ)九世、大本山池上本門寺(いけがみほんもんじ)七十八世の遠光院日暉上人である。この題目塔の裏面に大野良如翁略伝が記されている(以下原文を書き下し文に改めた)。


   大野良如翁略伝

翁諱(いみな)ハ良如幼名利三郎後ニ太郎兵衛ト称ス大里郡御正(みしょう)村新田秋山磯五郎次男弘化元年(1844)四月生也。人ト為リ愨実(かくじつ)誠意ナリ。慶應元年(1865)二月出テ杉山村大野夘之吉ノ養子トナリ同姓ヲ嗣グ。刻苦シ其ノ業ヲ努メ有年余ニシテ不幸ニモ眼疾ヲ患ヒ失明シ日夜焦慮ス。結縁ナル哉(かな)遂ニ法華経ニ帰依シ篤ク吾ガ日宗ヲ信シ信念弥堅ク意ヲ決シ明治十五年((一八八二))三月北埼玉郡忍町蓮華寺ノ前住故平野日教ニ従ヒ而薙染(ていせん)シ尓来草庵ヲ結ビ暇ヲ止メ眠ヲ断チ亘(もとめて)自(みづから)行ヒ他ヲ化シ勉励シテ・(う)マ不(ず)。翁ヲ信ジ来(きた)ル者日ニ多ク聖誕七百年ノ嘉辰(かしん)ヲ迎ヘ其記念碑ヲ建ント欲スルニ及ビ併(あわせ)テ翁ノ略歴ヲ記シ以テ後ニ伝フト云
  維(こ)ノ時大正十辛酉(しんゆう)歳(1921)秋日
           本化沙門妙法山伝灯 日暉識(しるす)

 

 大野良如は大野万吉さんの曾祖父で、1924年(大正13)4月、日蓮宗管長身延山七十四世日鑑(にちかん)上人の開眼祈願した日蓮聖人の尊像を安置した祖師堂(そしどう)を建てた。このお堂は、今も大野家の宅地内にあり、奉納された絵馬や太鼓も残されている。地元の方のお話では、「御祖師様(おそっさま)」の祭典には、多くの人が集まり、露店が出るほど賑わったそうである。
 「翁ヲ信ジ来ル者日ニ多ク」と大本山の日暉に言わせ、墓碑には「崇拝(すうはい)ノ信徒雲集シ声望隆(たかく)、遠近ニ聞ユ……嗚呼(ああ)大ナル哉居士ノ徳、仰(あお)ゲバ蒼空(あおぞら)ノ如ク俯(ふ)セバ大海(おおうみ)の如シ。窮(きゅう)セル事ナク又尽(つ)クル事ナシ」と記された大野良如翁。信仰を以って斯(か)くも名高き大徳(だいとこ)が杉山の一隅(いちぐう)に居たとは驚きの一語に尽きる。
 因(ちな)みに題目塔建立賛同者は二百九十九名、寄付金額は五百三十七円に達する。大変な額である。

Latitude : 36.060453
Longitude : 139.314086

杉山・大野良如翁墓誌(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/sekizoubututyousakai/cat7263999/index.html)も参照。博物誌だより107(嵐山町広報2003年 月号掲載)から作成

嵐山町域と周辺の村々が属した大区小区制

・第5大区第8小区(比企郡15ヶ村)田黒村・玉川郷・番匠村・馬場村・関堀村・上瀬戸村・桃ノ木村・田中村・本郷村・別所村・五明村・日影村・雲河原村・平村・下瀬戸村

・第6大区第3小区(比企郡9ヶ村)中尾村・伊古村・水房村・月輪村・羽尾村・石橋村・上唐子村・下唐子村・神戸村

○第6大区第4小区(比企郡14ヶ村)奥田村・須江村・大橋村・泉井村・竹本村・鎌形村将軍沢村根岸村大蔵村千手堂村遠山村平沢村菅谷村志賀村

○第6大区5小区(比企郡14ヶ村)高見村・能増村・奈良梨村・伊勢根村・高谷村・上横田村・下横田村・勝田村・中爪村・杉山村太郎丸村広野村越畑村吉田村

○第7大区第9小区(比企郡5ヶ村)福田村・土塩村・和泉村・菅田村・古里村、(男衾村4ヶ村)塩村・小江川村・須加広村・野原村

・第7大区第10小区(男衾郡5ヶ村)本田村・畠山村・今市村・西古里村・鷹ノ巣村

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