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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2008年08月

大正2年(1913)8月都幾川の大洪水(『唐子村郷土誌』水害史より)

 大正二年九月大洪水[ママ。八月が正しい]

一、大正二年八月二十六日午前中ヨリ降雨二十七日午前二時頃ヨリ東北風起リ午前六時ヨリ風力次第に加ハリ十一時頃ヨリ増水午后一時石橋葛袋地内都幾川北岸堤防総越水一尺ニ及ビ四十三年度ノ大洪水ヨリモ高キコト二尺為メニ葛袋字河北ハ侵水床上三尺ニ及ヘルモノアリ午后三時頃ヨリ減水セリ

二、都幾川南岸ニアリテハ大字下唐子字中井ハ流域ニ最モ接近セルヲ以テ被害甚シク堤塘亦半潰セル所アリ高橋馬太郎ノ宅ハ半潰ニ及ベリ

三、水量は四十三年度ヨリ多大ナルモ風力甚タ弱カリシト時間ノ短カカリシトヲ以テ被害ノ程度激甚ナルニ至ラザリシハ不幸中ノ幸ナリシ

四、大字上唐子地内月田橋ハ其ノ橋詰ノ道路崩潰シ塵防柱ヲ失ヒ橋身ニ歪ヲ生セリ

五、都幾川河身ニモ変化ヲ来セル所アリ

六、被害状況【以下省略】

※「明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(1)」、「明治43年(1910)8月の水害について菅谷村役場達(2)」、「都幾川水害の歴史 (『唐子村郷土誌』水害史より)」、「明治43年(1910)8月都幾川出水の状況(『唐子村郷土誌』水害史より)」、埼玉県編『埼玉県水害誌 明治四十三年』。

嵐山町内を流れる川 武蔵国郡村誌

都幾川 源を秩父郡大野村より発し東流して本郡平村に入り鎌形、菅谷両村の界にて槻川を合せ屈曲東流して長楽村に至り越辺川に合す、長九里三十四町五十五間・風土記に郡の中程を流る水源は秩父郡大野村の山間より出郡中慈光山の溪間より湧出する清水と合て一条の川となる慈光山を都幾山と号す故に此川をも都幾川と号すと云、又郡西別に槻川ありて下流此川に合す、ときとつきとは音も近く似てまぎれやすし〔源平盛衰記〕に木曽越後へ退きしに頼朝勝に乗に及ばずとて武蔵国月田川の端あをとり野に陣取とあり今下青鳥村は郡の中央にて則この川槻川と合せしより遥に下流の岸にありざれば彼記に月田川と記せしは此川をさすこと明なり田の字もし衍字(えんじ)ならんにも当時下流までつき川と号せしならん、されど今は槻川と合てより下流はすべて都幾川と号して槻川とはいわざるなり此水流都幾山より艮(うしとら)へ流れ鎌形村の北にて槻川とあい東流して又巽(たつみ)に折上井草村の西にて越辺川に入る川路七里ばかり上流は山間なり下流平地の間には堤を築きて水溢にそなう、河原の闊二百間隰水清浅なれば所々に歩行渡する所あり冬春の間ばかり橋を架して往来を通す。

槻川 源を秩父郡白石村の山間より発し屈曲東流して安戸村より本郡腰越村に来り菅谷、鎌形二村の間にて都幾川に合す、長三里四町五十四間・風土記に西の方にあり水源は秩父郡白石村の山間より出郡中腰越村にいり東の方へ屈曲して小川村に至る此所にて兜(かぶと)と諸小流と合して一となり鎌形村の北に至りて都幾川に入、水源よりここに至りて三里ばかり川幅大抵五十間。

市ノ川 三等河に属す源を男衾村牟礼村より発し今市村より本郡北方高見村に来り南流して滑川を容れ東流して横見郡の界を流れ荒子村の界より全く本郡松永村に来り、東方鳥羽井新田にて荒川に入る長九里二十七町十三間・風土記に郡の中央より北によりてあり水源は男衾郡無礼村溜井の余水巽(たつみ)に流れ郡中高見村に入るこれより大抵東流し松山町の北に至りて北に折れ又東に曲りて横見郡との郡界をへて鳥羽井新田の北に至り猶東流す、ここより泥川となりていよいよ郡界にそい小見野郷十ヶ村の地に至りて荒川に入川幅十間程此川昔は鳥羽井新田の北より艮(うしとら)の方横見郡の地へ流れしを享保八年(1723)井沢弥惣兵衛命を受け今のごとく郡界へ新川を穿ちしより水流かわりしと云、故に鳥羽井新田より下流は新市ノ川と呼べりその辺は霖雨すれば水溢する故堤を築て是にそのう此川すべて屈曲多し大凡九十九曲に及ぶこれを延てはかれは川路二十里に及ぶと云・按風土記の誤謬に似たり此川は横見郡志に詳なるを以て茲に贅(ぜい)せず。

滑川 源を郡北吉田村より発し東流して松山町にて市ノ川に合す長四里十六町四十間・風土記に水源は吉田、古里の二村の悪水流れ古里村にて一条となり三里ばかり流れて松山町の北にて市ノ川に入るすべて砂利川なり。

     武蔵国郡村誌比企郡誌

嵐山町の剣道 『埼玉県剣道連盟三十年史』

   埼玉県県道連盟小川支部
 小川地方の剣道は。その歴史は古く、それぞれの時代に活躍された先輩の記録も多く残されている。
 群馬県馬庭【多胡郡吉井町馬庭】の、樋口十郎右衛門定蒿の流れをくむ念流と、両神村【埼玉県秩父郡小鹿野町】小沢口の逸見太四郎義年(へんみたしろうよしとし)の流れをくむ甲源一刀流、および、秩父郡の高野佐三郎(たかのささぶろう)【1862−1950】の流れをくみ小野派一刀流の三派が中心をなしていた。他流派との交流もあったようである。

 当支部の古流には、次のものがある。
 年代    演武場     流派        指導者           住所
 寛政    養気館     念流      (免)小久保勘右衛門  小川町上古寺
 天保12   講武館     甲源一刀流 (師)内田周三     ときがわ町西平
 寛永2    士関演武場  甲源一刀流 (師)水野清吾年賀   嵐山町志賀
 嘉永5    講武館     甲源一刀流 (師)新井荘司     小川町上横田
 明治初期 講武館     甲源一刀流 (師)野口愛之助    小川町青山
 明治初期 千手院庫裡  甲源一刀流 (師)沢田俊明     嵐山町千手堂
 明治初期 千手院庫裡  念流      (師)田中友治     ときがわ町玉川
 明治2    長養館     甲源一刀流 (5)中村清介     嵐山町古里
 明治4    養気館分館  念流      (5)宮崎定次郎    小川町錦町
 昭和6             甲源一刀流 (皆)瀬山鉄五郎    嵐山町千手堂

 右のほか、故人の主な指導者は、小川町の(免許皆伝師範段位)小久保満尊、(6段)小久保麟、(師範)新井仲助、(師範)新井正吉、(奥儀)山口助太郎、(奥儀)山口佐武郎、(教士7段)落合洪太郎、(教士6段)千野寿助。東秩父村の(5段)真下寅三。都幾川村【ときがわ町】の(錬士5段)小池宇一。玉川村【ときがわ町】の(免許皆伝)岡野玉造、嵐山町の(5段)島粼里次郎などである。
 戦後、昭和27年(1952)4月29日(天皇誕生日)に小川町大塚の陣屋台に於て、県下の剣道大会がはじめて開催された。
 当日、81組の試合が行われ、招いた先生方は、小沢丘、奥田芳太郎、鈴木祐之丞、梅沢照佳、星野五郎、間中鹿太郎、清水茂一郎、諸貫五三郎、北村博学であった。【別記の県下剣道大会番組によれば、菅谷村からの参加者は、(2段)細谷信一、粟生田儀一、関根浄二、野口千代平、(3段)細谷信一郎、小沢宗一、星野金作、(4段)恒木美浪であった。】

 小川部会剣道連盟の結成は、昭和25年(1950)で、初代会長には、結成に尽力された宮崎星麿が就任した。二代目には落合洪太郎、そして三代目の黒沢利輔に至っている。
 現在、当支部では、各町村ごとに行っている稽古日のほか、寒稽古、暑中稽古及び昇級審査会、毎年9月15日の県下剣道大会、他支部等で行われる大会、県の大会、スポーツ少年団の大会、各地の研修会、稽古会へ積極的に参加している。

   主な稽古場と指導者
 嵐山町は、菅谷小、中学校及び大妻女子高校等で約六十名。指導者は(3段)内田弘二、(3段)中島秀雄、(4段)木村嘉有、(3段)権田茂、(2段)中島雄二。居合道では、(4段)高橋明夫、(4段)佐久間正光である。小川町、都幾川村、玉川村、東秩父村等略】

   『埼玉県剣道連盟三十年史』(1984年11月)149頁〜151頁
   嵐山町にかかわる部分を抜萃し誤植などは訂正した

演武会・撃剣会・剣術会 1906年

○松山の演武会 は既報の如く去る【一月】三十一日松山第一尋常高等小学校運動場に於て開催せられたり。会する者剣士百十余名。審判員として高野佐三郎(たかのささぶろう)、大塚箏暖、青木七郎、中村清助【中村清介が正しい】、小久保満尊、高野茂義等の諸氏。来賓として警察本部より石橋警部長、天野警務課長、和田警部を始めとし、川越武田鴻巣小川の各警察署長、県会議員、各名誉職員等、其他参観者無慮■[三?]千余名。正午頃より開会せられて、第一に総員乱試合(そういんみだれしあい)、第二源平野仕合(しあい)、其他五十余の組合せ仕合に取かゝりしも数多き仕合の果つべきもあらざるより一、二の仕合を以て終りを告げ、五人抜き三番を始め、(吉見)藤崎利明、吉田伊助(宮前)島崎幸次郎【(菅谷)島崎里次郎?】の三氏勝を得、又二人抜は戸口幸助、内田瀧次郎、瀬山勝蔵、吉岡梅吉、勝田鐵蔵、江森梅吉、林道次郎、横川泰■、根岸善作、田中守吉、小林廣吉、藤崎利明、吉岡梅吉、椎橋近太郎、権田浅吉、松崎幸次郎の諸氏、勝を得、又次なる高点組合に一等(十人)高山常吉、二等(八人)三上喜三郎、三等(七人)中村虎蔵、四等(八人)七尾菊太郎、五等(五人)宮沢常吉の五氏勝ちを得、後ち数組の組合せありて午後六時頃全く閉会せりと云ふ。(『埼玉新報』1906年2月2日)

●小川の撃剣会 来る十八日小川町尋常小学校校庭に於て撃剣会を開催する事は既に報せし処なるが其後発起人及び準備委員等夫々運動の結果、夜間は煙火等を有志より寄付する事となりたれば、嘸(さ)ぞ当日は意外に雑踏を極むることとならん。(『埼玉新報』1906年3月17日)

○小川の剣術会 は既報の如く去る十八日尋常小学校敷地に於て開かれたり。審査官は県下各警察署嘱託教師逸見武市、大塚箏暖、高野茂義、蘭幕丑之助、比留間利象、山田啓蔵、青木七郎、岩田淳蔵。主任として高野佐三郎、小久保満尊、中村清介の諸氏あり。正午十二時より百有余名の組合に入りしも、前日調製せし組合悉皆果す能はざりしより組合を一変し、番外として沖健吉(両刀)、吉田文作(長刀)の五本勝負を初めとし、沖先生三本にて勝を得、数十番の試合を為し、松本吾六、大戸安五郎の鉢金試合をなし、一本勝負五人抜数十の勝を得、松本五六先生念流形の指南として(馬庭流)比企郡玉川村田中たけ、同うめの姉妹と形を切り、東西の選手一本勝負五人抜を試合せしも、容易に勝を制する者出来ざるより、又々待なし五人抜となり、高點試合天地人三名の勝を取り、高野佐三郎、青木七郎の両先生、武士道の形を切り終って、高野先生一般稽古を為し終りしは午後五時三十分過、観客の主なるは石橋警部長、天野、前川、朝倉の各警部、埼玉公論社長鯨井、朝日新聞通信員押田、本社の荒巻にて、当日の観覧者は無慮(むりょ)【およそ】五千なりき。同日午後八時より田中楼に慰労会を開きしが会するもの五十余名、発会総代として大友警部挨拶を為し、公論社長鯨井、新聞社員及び来賓総代として答辞を為し、了って同町の紅裙連杯盤を斡旋し、各歓を盡して散会せしは十一時過三十分頃なりき。主なる勝負は左の如し。(○は勝 ▲は預り)
 (○○○沖健吉 ○○吉田文作)(島田芳次郎▲千野孫)(大戸安五郎 ○○○松本五六)(○○島次郎 木元林蔵)(○○村田宇三郎 斎藤吉太郎)(高山常吉▲永島半蔵)(○○荻野準平 新井源■郎)(○青木五■ ○○中村虎蔵)(○○中山太三郎 林梅次郎)(宮崎定次郎 ○○渋谷一)(○○吉野千太郎 原川佐一郎)(○○沖健吉 ○大戸久蔵)(○○森田八十治 大戸安五郎)(落合源之助▲石川清太郎)(瀬山鉄五郎▲矢島藤作)(○○斎藤政二郎【政次郎?】 野口市太郎)(河合總之助▲宮澤常吉)(七尾菊太郎▲岩田淳蔵)(○○三上喜三郎 三上大吉)(蘭幕丑之助▲宮澤常吉)(山口助太郎▲比留間利象)(小久保満尊▲小澤仁三郎)(中村清助【中村清介?】▲三上大吉)(○○村田宇三郎 ○小久保啓助)
▲待なし五人抜
三上喜三郎 村田宇三郎 岩田淳蔵 渋谷一 中村虎蔵 蘭幕丑之助 三上喜三郎 安澤常吉【宮澤常吉?】 島崎金次郎【島里次郎?】 新井久吾 森熊次郎 小久保惣助 市川市太郎 吉田小五郎 矢島藤作 池上岩太郎 高瀬時次郎 斎藤政次郎
▲選【?】手五人抜
河合綱之助【總之助?】 斎藤政次郎 沖健吉 中村虎蔵 蘭幕丑之助 三上喜三郎 安澤常吉【宮澤常吉?】 渋谷一 三上大吉 村田宇三郎 岩田淳蔵 矢島藤作
五人抜とせしも容易に勝負を決する能はざりしかば、待なしとなし其結の果、河合、三上(大吉)外三人となり、次に高點試合に移り、宮澤常吉(五點)、梅澤真蔵(四點)、高山常吉(四點)となれり。(『埼玉新報』1906年3月21日)

  撃剣:げきけん、げっけん。刀剣、または竹刀、木刀で身を守り、敵を討つ術。また、その稽古、試合。剣術。剣道。(『日本国語大辞典』)
  演武:えんぶ。武芸の稽古をすること。武芸を行なうこと。(『日本国語大辞典』)

 嵐山町域の剣士、中村清介(古里)、瀬山鉄五郎(千手堂)、島里次郎(川島)の名前がある。嵐山町では、甲源一刀流が盛んだった。士関演武場を開いた水野清吾年賀(志賀)の墓石の台座には同門者四百名以上の名前が刻まれている。瀬山鉄五郎は「英名録」を残している。瀬山家を訪れた剣客に名を記してもらったり、鉄五郎が参加した試合の相手、あるいは訪れた道場で手合せや面談した人などに名前を記してもらったもので、1896年から1917年まで21年間の記録である。詳細は石田貞「郷土の剣豪資料」(『嵐山町博物誌調査報告第4集』1999年3月)を参照。

大塚箏暖の左右社

明治ノ初メ、月輪小学校ニ校長タリシ、大塚箏暖氏、宮前村ノ呱々(ここ)ノ声ヲ揚ゲタル、市町村制発布ノ当時推サレテ村長トナリ、未だ全ク五大字【羽尾・月輪・水房・中尾・伊古】混一セラレザリシ、人情風俗ノ異レルヲ統御シ次イデ縣会議員トナリテ県政ニ参与セシ経歴ヲ有スル士ナルガ、氏ガ趣味ハ如何ニモ多方面ニシテ史学、文章詩歌俳諧、絵画ニ及ビ、加フニ武技ニ達シ、甲源一刀流ノ流ヲ汲ム。左右ハ氏ガ人格ノ発露セシ者ニシテ文ヲ右ニシ武ヲ左ニスルヲ意味ス。明治初年ノ創立ニして毎年夏冬ノ稽古を催ス。已に二十有余年、郷党子弟、此ノ風ニ化セラレ、本村ノ中、少年ニシテ嘗テ竹刀ヲ手ニセザルモノ稀(まれ)ナリ。中ニハ武技ヲ以テ、独立自営、自ラノ進路ヲ開拓セシ者少ナシトセズ。而シテ氏ニ最モ多トスルハ是等自立ノ士ヲ出セシ事ニ非ラズシテ一郷ヲ挙ゲテ、尚武ノ気風ヲ養成セラレシ事是ナリ。門弟已ニ五、六百名、氏ハ目下松山町ニ居住セシガ、老イテ益々盛ナリ。令息大塚誉田(ほもた)氏アリ。父君ノ業ヲ次キテ、左右社ノ前途、春海ノ如キモノアリ。
     『宮前村郷土誌』(大正拾五年)第二章教化第七節社会的教化ノ機関

自力更生村を訪ねて 比企郡七郷村 1933年

 繭も安い、麦も安い。行きつまった農村経済は、今後どうなって行くのか。底知れぬ悲観論者の多い中に、全村一致、奮然として自力更生にめざめて、五年後には、なにもかも打って変ったやうな模範村を建設しようといふ、比企郡七郷村の実況視察に出かけた。

 鬱陶しい梅雨空の中を、熊谷小川間の縣道を一走り『この山の向ふが七郷村で……』と教へられるまゝに、秩父連峰の裾ながくうねった小山つヾきの麓をめぐって、七郷村役場へ辿りついた。この村は富の程度が比較的平衡して、一戸当りの耕筰反別、田が四反七畝、畑が四反八畝、際立って貧乏人のない代り、徒らに遊惰菌をまき散らすやうな、豪農もない、しかし大正八、九年の好況時代、農村一帯を風靡した投機的思想が容赦なくこの山村にも浸潤して自づと不真面目になった。個人主義にも傾いた。小作争議など比企郡のトップをきって、隣村の八和田村までも困らしたといふ始末。昭和六年頃には、全村の負擔ザット二十万円、預金十二万円、差引八万円の赤字を出した上に、二十三町歩余りも他町村の人に侵略されたといふ逆転状態となった。

 『コレは大変だ!』『安閑としてをられぬ』『七郷村の非常時だ』とばかり、心ある篤農家連から叫ばれ出されたのが、つまい今日の経済更生計画となったもので、それだけに真剣味もあり、ハチきれるやうな熱と力の奮闘振りである。

 一体この村は総戸数五百五十一戸、人口二千九百七十九だが、総面積中田が二百四十七町歩、畑が二百五十七町歩、山林はザッと田の倍額に当る四百八十町歩といふ山村なので、自づと自力更生には蓄農方面には重点をおいて、まつさきに農事経営の改良、つづいて同購販による経済部の確立、生活の改善、教育の作興等々を目標に、昭和八年五月一日、雄々しくも全村民の宣誓式が調印されたものである。

 経済更生上特異性の多い一、二断面を描写すると、村では尋常四年以上の生徒は、必らず自宅に一人一頭の兎を飼ってゐる。また女子青年団では一人三頭主義で、結局各家庭では、養鶏三十羽、養兎八頭、養豚三頭を飼ふ事になってゐる。現在村内には三ヶ所の育雛場があるが、毎年三百羽乃至五百羽の雛を全損に実費配布の計画まであり、どこの家庭にも、白色レーグホーンが村の更生を寿くが如く勇ましい叫びをあげ、満一年後の今日、全村の収入は養鶏で約五千円、養豚で一万四千円も増加、その反面における金肥の如き、五ヶ年後には見事半減して、これに代る自給肥料の増産をはかるといふ計画である。

 また自家用醤油の如きも、全村二十二ヶ所で組合醸造を開始、一昨年までは三千四百円からの醤油を購入してゐたが、行末その大部分を自給自足の方針で、一方耕地の少ない水田に二毛作を励行、宅地には毎戸、梅、栗、柿等を各三本平均に栽培、お互に共同販売を励行、すべてに冗費を少くして生産を増加するといふ方針である。『幸ひ今年は麦も米も繭も円滑に共同販売が行はれまして、最近小麦も四千俵、日東製粉へ共同出荷した』といふ話であった。

 特にふってゐるのは、産業組合の共同精神を幼ない児童に植ゑつけるため、小学校内に信用組合購買部が設けてある。組合長以下役員は先生方だが、四年級以上の生徒側から、評議員を選出、学用品は一切、村の産業組合で購入するといふやり方。さらに貯金奨励のため、学校では毎週土曜日放課後、一定の時間に縄なひを実習、月額十円以上の貯金をつづけてゐる事である。

 『何事も協同の力です。これが本当にめざめた農村のとるべき道でした』と、村農会の田畑指導員【田畑周一指導員】はそれからそれと話はつきない。実行上一番なやんだのは各自家庭における更生日記の記帳で、比較的若い人達は別として、年寄り連はやゝもすると複雑化した記帳を嫌ったものであったが、メキメキと更生する村の現状を見て、昨今では漸く『なるほど、今までおれ達は無提灯で野道を歩いてゐたのだ』と述懐してゐるほどで、いよいよ役場前には、三十坪あまりの共同作業場や、農業倉庫、共同醤油醸造場まで新築するといふ意気込みである。

 面白い事に、村には村治上一切の政党的色彩がない。県道が一本もない。勿論鉄道線路もない、電燈のついたのもつい二、三年前で、ないもの尽くしのやうだが、料理店が一軒もない事だけは、村人の不便を忍ぶ誇りの一つである。村が経済更生にめざめたのは、農学校【熊谷農学校】出身の若い人達による農事研究会の座談会が動機となったと、比企郡農会の横山農林技手のお話。さういはれゝば当の栗原村長さんも【栗原侃一(かんいち)村長】、熊谷農学校第四回卒業、新人、同村随一の育雛家藤野昇君も昭和四年の卒業生、その他中、農学校卒業の青年が二十数名も数へられ、何れもその中堅となって、自力更生に邁進してゐるのはたのもしい。

 村長さんの案内で、字吉田地内になる藤野君の育雛場を見学したが、養鶏一千羽、当年二十五歳の青年藤野君が、学校時代の習得を実地に活用、素晴しい成績をあげてゐる。四年前名古屋から十六円でレーグホーンの雌雄雛を買ったのが元で、その後生めよ、殖せよの鶏鳴、鼠算となって、今では鶏卵の実収年額二千二、三百円、飼料千五百円を差引いても、純益八百円は確実、しかも自作田畑三町あまりが、肥料買はずの豊作といふから大したものだ。昇君成功の秘訣は『鶏舎が崖の上で高燥、羽虫一つわかないこと、朝夕の労働を惜しまず鶏の心になって愛養すること、専門的に孵化事業で手を延ばさず、孵化は本場の名古屋で、育雛は手元で副業の本旨を没却しないこと』等々で、雌千羽に雄四羽、鳥の精力の偉大なのと、青年昇君の奮闘振りには全村民が感激してゐる。

 かうして七郷村はまさに輝かしい更生の途上にあるが、どんなに着眼や組織がよくとも、かんじんの心臓が弱くなってはと、村長さん以下各幹部は目下その統制連絡に大童だ。石の階段構へ、一寸見たところ不動尊かビシャモンテンさまのやうな役場の中で、当の村長さんは、全身ただ更生の意気に燃えてゐる。『お賽銭まであげませんが、よくこの建物は不動様と間違へられましてネ』と苦笑しながらも、五年後の偉大なる神通力に多大の期待がかけられてゐた。

          北條清一『武州このごろ記』(日本公論社、1935年発行)301頁〜306頁
          筆者は東京日日新聞社浦和支局長

七郷村役場の陣容 1934年

  比企町村行脚 七郷村の巻(10) 現役場の陣容(不二雲生)
本村に於ける自治は地勢上関係か、それとも伯仲せる人物の対抗か、任期半にして職を去るものが頗る多い。町村制が施かれて以来、初雁鳴彦氏五年を最長に久保三源次、栗原慶次郎、船戸楫夫氏の一期を最長するに過ぎない。今町村制施行以来の村長名を列記せば、

初代 田幡宗順 明治二十二年(1889)五月 在任一年二ヶ月
二代 安藤貞良 同二十三年(1890)八月 在任三年九ヶ月
三代 藤野文八 同二十七年(1894)四月 在任一年二ヶ月
四代 船戸熊吉 同二十八年(1895)七月 在任一年四ヶ月
五代 田中浪吉 同二十九年(1896)十月 在任二年十ヶ月
六代 船戸熊吉 同三十二年(1899)七月 在任三ヶ月
七代 中村清介 同三十二年(1899)10月 座員三年六ヶ月
八代 久保三源次 同三十六年(1903)四月 在任四ヶ年
九代 井上萬吉 同四十年(1907)五月 在任一ヶ年
十代 道祖土(さいど)半造(職務代理) 同四十一年(1908)四月 在任十ヶ月
十一代 藤野文八 同四十二年(1909)一月 在任 一ヶ年
十二代 田畑馬作 同四十三年(1910)五月 在任一ヶ年
十三代 田幡宗順 同四十四年(1911)五月 在任十ヶ月
十四代 久保三源次 同四十五年(1912)三月 在任三年十ヶ月
十五代 栗原慶次郎 大正五年(1916)三月 在任満期【四ヶ年】
十六代 舩戸楫夫 同九年(1920)一月 在任満期
十七代 初雁鳴彦 同十三年(1924)二月 在任五年
十八代 田中長亮 昭和四年(1929)三月 在任八ヶ月
十九代 市川藤三郎 同四年(1929)十月 在任九ヶ月
二十代 栗原侃一 同五年(1930)十月

以上で村長の平均年令は二年八ヶ月に過ぎないが、といふて同村が政党的に立て分れて対抗したといふでもない。こうした頻々として頭首は変ったが、地方自治は却って互に注視した結果か、自治にみるべきものが遺されてゐるのは同村の為に慶賀すべきである。
現在に於ける同村役場は庁舎甚だ狭小にして自力更生の指定村とも思はれぬ程の質素にやってのけてゐるところに栗原村長の面目が躍如として現れてゐるのかしら。現役場の陣容は

村長 栗原侃一 就任 昭和五年(1930)十月 事務分担 文書収受、庶務、会議、学務、社寺、消防、社会
助役 青木五三郎 就任 昭和五年十一月 事務分担 地籍、土木
収入役 藤野胸義 就任 大正十年(1921)八月 分担 会計
書記 藤野菊次郎 就任 大正六年(1917)七月 分担 戸籍、兵事
同 栗原喜十郎 就任 昭和二年(1927)三月 分担 税務 会議書記
同 安藤文三 就任 昭和八年(1933)四月 分担 勧業、統計、衛生

外に村技術員があり、信用組合があるが兎に角一般町村に対比して少数を以て繁多の大なる事務を分担してゐるといふことがいへる。栗原村長の如きは信念に燃えること強く、非常農村の救済には好恰の逸材で過去に於て或は村長とし或は団体の代表として困憊(こんぱい)の極にある農村救済に多忙の身をさいて奮闘するは人の知るところである。青木助役は温厚篤実にして懇切講和性を豊富に持ち、一面を世話すきで名実共に助役としての適材であり女房役として申し分なし。藤野収入役は頭脳綿密にして会計事務に当(あた)る逸材だある。性潔粉碎にして自己の所信は絶対貫徹するの気宇、勤倹貯蓄主義で酒席に列するは嫌ふところで、珠算は最も得意とする所にして、栗原書記と共に名珠算家の称がある。その他の書記何れも適材適所で大に手腕を発揮して、更生村としての指定を遺漏なく処理しつつある。
     『埼玉日報』1934年1月28日

  比企町村行脚 七郷村の巻(11) 活動の人と奇特の人(不二雲生)
本村に於て活動の中心人物は何んといっても村長【1930年10月〜1934年10月〜1936年2月〜1940年2月】栗原侃一氏か。氏はすでに村会議員として当選すること三回【1925年4月〜1929年4月〜1933年4月〜1937年4月〜1942年5月〜1946年4月】、助役としては田中【田中長亮】、市川【市川藤三郎】両村長を補佐し特に産業の改発、教育の刷新に努力し、昭和五年村長に就任するや、氏の敏腕は愈々現れ、この非常不況時に際会しても、村民多数の嚮(むか)ふところを対処せしめて村治に何等の支障を来さしめず今や全村更生の緒につき、綽々(しゃくしゃく)として余裕ある自治振りを示して名宰相の名辞をうけてゐるのも心うれしい。
助役青木五三郎氏も曩(さき)に収入役【1910年5月〜1912年6月】として多年本年行政につくし今又助役【1930年11月〜1934年11月】として就任するや温健にして明敏なる手腕と力量とを以て村長を村長を補佐し、産業組合長として本村経済立て直しに努力しつつある。
収入役【1921年8月〜1937年8月】藤野胸義氏は質実剛健にして金銭の出納には確実を旨とし而も明敏なる手腕を有し経済上幾多難関あった本村を更生せしめつゝある。
書記藤野菊次郎氏は温順にして快活特に戸籍事務に精しく数十年の体験は全く同村に於ける生字引きである。
技術員田畑順一氏は口の人、実行の人として特に選ばれて農会技術員に就任し、以来農産物の販売統制を手始に七郷村自力更生の道を講じ、一面青年団長として青年指導、啓発にも努めてゐる。
騎兵大尉安藤巳代吉氏は日本精神の指導者として終始せらるゝ村民尊敬の的、氏は明治四十年(1907)軍隊生活に入ってから二十有余年間一日の欠勤もなく奉公の誠を致し、帰郷後は分会長【在郷軍人分会長】、連合分会顧問として活躍し、尚又青年教育には最も興味をもたれ未だ青年訓練所の設置を見ざる大正十五年(1926)より本村公民学校生徒の体操、殊(こと)に軍事教練を指導し、爾来(じらい)今日迄名誉指導員として青年教育に従事せられ、本村青年訓練の名声の高き、氏の力にまつ処実に多大である。
分会長【在郷軍人分会長】田中正光氏はさきに農会技術員として貢献し、尚分会長、青年訓練所上席指導員として範を垂れてゐる。
製糸教婦安藤■■氏は大字古里に生れ幼より学を好み技芸に長じ、小学校を卒へて武州製糸工場に入り、専心繰糸の研究に従事し、指導員の位置にあって工場の為に尽すこと大、先般本村小学校の増築に際し金五拾円を母校の為に寄付した尊敬すべき婦人である。
大塚さだ氏も大字古里に生れ、幼にして上京、とある家に女中として仕へ忠実に主家の為につくし、此の程貯への中より金弐拾余円をさきて、村の貧困罹災者に同情金して送り越した奇特の人である。
笠間一之助氏は大字吉田の生、小川町笠間呉服店の養子となり、現在に於ては川越市に於て一流の呉服問屋として益々隆昌の域に進みつゝある。氏は青年教育の必要と郷里を思ふ一念から今回青年訓練所銃器購入費として金貳百円を同村青年訓練所に寄付された感ずべき仁である。
船戸源次郎氏は越畑の生で、小川町に分家し、十有余年の辛苦を以て印刷業に成功し、今回七郷小学校備品費として金貳百円を投じて寄付せられた奇特の人、これ等は何れも初等教育の生んで麗しい清い結晶であるといへやう。
     『埼玉日報』1934年2月4日

知行合一、学業一如の教育 日本農士学校

   知行合一、学業一如の教育

 県下に農民の修養道場が二つある。一は農民講道館、一は比企郡菅谷の莊「日本農士学校」である。両者を比較すると、前者が著しく農家経済の鍛練に重点を置いてゐるのに対し、後者は精神鍛練に重点を置き、農本主義を高調し、農村青年に、日本農村の中堅人物として相応はしい教養を與へることを第一義としてゐる。即ちいふ−−『知行合一、農業一如でこそ健全なる人生である。然るに現代教育の通弊として、知と行、学と業、この両者が乖離して人生に醇厚(じゅんこう)なる統一がない。業に即せざる学の付加は、人間を徒らに浮侫(ふねい)ならしめ、また、裡に真箇(しんこ)の学を有せざる業は、人を頑躁【?】に堕せしめて、共に道を離れることが遠い。現時農村人の不安無気力もまたこゝに因るところが多い』と。

 そこで農士学校では、人生の両輪たる知と行、学と業とを、晴耕雨読の間において帰一せしめ、農道を開拓しようといふのである。

 農場経営に主力を注ぐ講道館は、農民生活は晴耕雨読ではいけないといひ、農場経営を目して農本生活の一細胞とする農士学校は、晴耕雨読の裡に、知行学業兼備の農道人材を養成せんとしてゐる。そこに両者の相違がある。

 貨幣経済に重きをおく講道館が、農家生産費を「如何にしてより高く売るか」を研究し、農家の商業化を考へてゐる時、農士学校は農道人材の養成は、五年十年では成らぬ、短くも三十年後に目標を置いてゐる。この点がまた大きな差違である。

 農士学校は校長を検校といふ。腐敗堕落せる現世相を正視するに堪えず、盲目となって世道人心を導かんとの寓意なるや。盲目縞の野良着を校服とし、午前は講堂に学び、午後は田畑に出て耕作に従事する。野良から引揚げた校生は、絣の着物に袴をつけ、木綿紋付の羽織といふ書生姿になる。職員と四十余名の校生が混然一家をなしてゐる。

 検校菅原兵治氏は語る。『われわれの道場は農村の本肥を作るところである。世の多くの農村問題研究家は、デンマークの研究はしても、東洋の研究を怠ってゐる。農村問題の著書は読んでも、実際は見てをらぬ。いはゆる篤農家の誇大経営を、われわれは排撃する。農村対策といふものは、処方箋で投薬するやうには、いかないものだ。農村問題が世間の関心をひいて、自力更生といひ、産業組合運動といひ、実状において、ある部分ですでに行き過ぎてゐる。ジャーナリズムが、農村をチヤホヤすることなく、この辺で「行き過ぎたもの」に対して、鋏を入れて剪つてやることが、真実に農村を考へてやる誠実ではあるまいか』

          北條清一『武州このごろ記』(日本公論社、1935年発行)67頁〜69頁

日本農士学校の用地買収 1930年9月

   畠山重忠館跡に高等農学校設立
     既に廿町歩を買収契約 酒井忠亮伯が建築する
比企郡菅谷村畠山重忠館跡付近の土地二十余町歩に対し、最近同村郵便局長等の斡旋で土地買収の契約をなし、既に地主十数名から売買契約の調印を取ってゐるが、右は東京の伯爵酒井忠亮(さかいただあき)【酒井忠正(さかいただまさ)】氏が私立高等農業学校を同地に設立のため、校舎の敷地と実習地の買収であって、校名は私立高等農士学校とする筈であるといはれる。
     『東京日日新聞』埼玉版1930年(昭和5)9月26日。句読点を新たに付けた。

菅谷館跡に農士学校建設 1930年12月

   重忠館の跡に日本高等農士学校 わが国最初の特殊学校
比企郡菅谷村畠山重忠館跡に設立することとなった日本最初の特殊学校である日本高等農士学校は六万坪の広大なる敷地の買収なり、この程発起人伯爵酒井忠正、金鶏学院学監安岡正篤、東方籌(はかる)の諸氏の校舎、実習地等の実地視察があり、来春早々工事に取りかかる筈であるが、同校生徒は中等学校卒業者で全国各道府県から二名宛知事の推薦者のみを入学せしめ、全部学寮に起臥、校舎は和風疊敷とし、詩情、哲学、信仰の中に新自治主義の研究によって、その一町一村をして小独立国家にしたてやうといふ特殊学校であって、教習要領、目的の大要は左の如くで、酒井忠正伯が校長となる筈である。
   目的
 一、東洋聖賢の学を講究す
 一、特に日本民族精神並に国体と治道とを研究す
 一、政治経済の体用を習ひ世界の情勢を講究す
 一、産業組合、青年団、公民教育等の村政の研究
 一、農芸実習による勤労訓練
   教習要項
 一、学生は総て学寮に起臥し師弟寝食を共にすること
 一、講堂、教室は和風疊敷とし、静座調息に習はしむること
 一、利用学課については能ふ限り農事試験所、博物館等と連絡を取りて研究すること
 一、権威ある同人の来校を得て講究同遊せしむること。機宜に上京せしめ金鶏学院において講習せしむこと
 一、有益なる視察見学旅行をなすること
 一、聖々の祠堂を立て祭祀を行なふこと
     『東京日日新聞』(埼玉版)1930年(昭和5)12月13日

日本農士学校の神饌田田植式 1933年7月

   顕官の田植式 収穀は新嘗祭供御 菅谷村日本農士学校で
比企郡菅谷村にある金鶏学院日本農士学校の神饌田田植式は一日午後四時から後藤農林大臣、院長酒井忠正伯、安岡学監、東方主事、菅原校長以下職員生徒五十四名によって厳かに行れた。後藤農相、酒井院長等は自動車を連ねて午後三時来着、小憩の後金鶏神社の参拝、農園の視察の後、生徒等と同じ紺木綿の襦袢、股引、菅笠を被り腰に山澤の雄と染め抜いた手拭をはさみ高坂神官の司祭で一同玉串を奉納し、終って二班に分れ水田に降り立って二畝歩の挿苗を終り、一同河原で渋茶にぼたもちを喫し、午後六時帰郷したが、収穀は伊勢大神宮、明治神宮、靖国神社、氷川神社、金鶏神社の新嘗祭供御に献ずるのであると。
     『埼玉日報』1933年(昭和8)7月9日

明治初年の神仏分離と古里の龍泉寺

 古里(ふるさと)の兵執神社(へとりじんじゃ)のある小高い丘の中腹に、天台宗の龍泉寺(りゅうせんじ)がある。住職は小川町中爪(なかつめ)の大師様・普光寺(ふこうじ)の住職さんが兼務しており、建物は兵執神社の社務所としても使われている。現在、檀家(だんか)は十二軒、ほとんどの檀家が寄居町鷹ノ巣(たかのす)にあり、古里には新しい檀家が一軒あるのみである。

 龍泉寺は化政年間(1804〜1830)に編さんされた『新編武蔵風土記稿』等によれば、天下祭で有名な江戸山王大権現社(さんのうだいごんげんしゃ)の別当(べっとう)勧理院城琳寺(じょうりんじ)の末寺で、金剛山(こんごうざん)金州院(きんしゅういん)と言う。十四世紀中葉に開山し、1650年(慶安3)に中興した。古里村の鎮守(ちんじゅ)・微執明神(へとりみょうじん)社(現兵執神社)の別当として、神社の春秋の例祭や祭典を取り仕切り、寺の本堂を社務所として使い、獅子舞、里神楽(さとかぐら)等の祭具も寺に保管し、神社と寺院が同居し融合していた(神仏習合)。江戸時代は寺請(てらうけ)制で、すべての家がどこかの寺の檀家(だんか)となる。古里の家々は、慶長年中(1596〜1615)に村内に開山した曹洞宗の重輪寺(じゅうりんじ)の檀家であった。

 明治維新政府は王政復古を看板に祭政一致の理念をかかげ、神仏分離令と称される一連の布告を発し、神社から仏教的要素を一掃しようとした。1868年(明治元)、龍泉寺の本寺、城琳寺は廃寺となり、山王大権現社は日枝(ひえ)神社と改称した。権現は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説で仏が衆生(しゅじょう)を救うために権(かり)(仮)に日本の神として現(あらわ)れるという意味だったからである。

 この時、龍泉寺には恭禮(きょうれい)という僧がおり、葬式を行う檀家(滅罪(めつざい)檀家)が十軒ほどあったので廃寺は免(まぬが)れたが、本寺の保護を失い、新に浅草の浅草寺(せんそうじ)の末寺となる道を探っていく。

 神仏分離により、微執明神社は舳執社(へとりしゃ)となった。仏教側から日本の神を呼ぶ場合に明神(みょうじん)の語が用いられることが多かったのでその使用を避けたものと思われる。さらに、龍泉寺の住職に替わって新に隣村板井(いたい)村鹿島(かしま)社(現熊谷市出雲乃伊波比(いずものいわい)神社)の社掌篠場(しのば)豊盛が舳執社の神職となって祭典を執行、寺の施設は使えず民家を借りて社務所等に充てた。

 1869年の版籍奉還(はんせきほうかん)に続いて1871年(明治4)には社寺領の上知(あげち)令が出され、境内地以外は没収される。檀家の少ない龍泉寺の経営は一層苦しくなり、塩村(現江南町)常安寺(じょうあんじ)が兼務住職となる。困難な条件の中で、兵執神社の氏子・重輪寺の檀徒が龍泉寺の信徒として、龍泉寺の檀徒、住職と力を合わせ、寺を維持してきた。

 下の絵は、飯島四郎次(四雲)さん(1890〜1964)が1956年(昭和31)に描いた龍泉寺(左より、薬師堂、本堂、庫裡(くり))。この建物は1966年(昭和41)9月25日未明に来襲した台風26号で倒壊した。飯島さんは浪花節語り、ささらの笛の吹き手としても活躍した。

          博物誌だより113(嵐山町広報  年 月号掲載)から作成

昭和初期の消防組役員

 菅谷消防組の第1部は菅谷、第2部は川島(この時期は志賀元広野)、第3部は志賀、第4部は平沢、第5部は遠山、第6部は千手堂、第7部は鎌形、第8部は大蔵・根岸・将軍沢におかれました。七郷消防組では第1部は古里、第2部は吉田、第3部は越畑、第4部は勝田、第5部は広野、第6部は杉山、第7部は太郎丸におかれています。役員氏名の誤植は[  ]内に訂正してあります。後に村会議員になっている人物が多いように見受けられます。

  菅谷消防組
 大正七年(1918)十一月二十九日設置、組頭一名、部長八名、小頭十九名、消防手四百八名、計四百三十六名。
組頭 杉田富次
第一部長 根岸福次  小頭 関根清一  同 坂本金兵衛[松本金兵衛]
第二部長 横田一重[権田一重]  小頭 島和一郎  同 権田豊治
第三部長 大野幸太郎  小頭 内田留太郎  同 大野義次  同 栗原福松
第四部長 村田佐平  小頭 内田茂  同 奥平昇
第五部長 杉田光慶  小頭 山下邦治  小頭 小菅山福治
第六部長 瀬山幸太郎  小頭 関口利平  同 瀬山直治
第七部長 杉田庄次郎  小頭 内田武一 同 小林才治 同 吉野文雄
第八部長 山下彌五郎  小頭 小澤彦八 同 吉澤花平  同 金井梅吉
   『埼玉県消防発達史第一編』(1933年7月発行)306頁


  七郷消防組
 大正十年(1921)四月十九日設置、組頭一名、部長七名、小頭二十一名、消防手三百五十七名、計三百八十六名
組頭 栗原侃一
第一部長 飯島四郎次  小頭 安藤恵三郎  同 吉場順作 小頭 安藤寛一  同 飯島善蔵  同 荻山忠治
第二部長 中島千代理[中島千代種]  小頭 藤野胸義  同 小林惣三  同 小林近義  同 小林文助 同 川口重吉
第三部長 市川半兵衛[市川半衛]  小頭 船戸榮吉  同 馬場菊次郎  小頭 青木仲次郎
第四部長 田中昇  小頭 松本袈一  同 田畑周一
第五部長 永島進  小頭 横田勝造[権田勝造]  同 井上文雄
第六部長 金子忠良  小頭 初雁茂  同 内田幾喜
第七部長 中村保蔵  小頭 大澤利一  小頭 中村貞義
(307頁)
   『埼玉県消防発達史第一編』(1933年7月発行)307頁

   消防功労者 七郷村 栗原侃一
 熊谷農学校出身にして、曽(かっ)ては南埼玉郡役所に多年農業技手たりし氏は明治二十二年(1889)生。現に消防組頭、村会議員、学務委員、衛生組合長、村農会長、現村長等々有(あら)ゆる名誉要職にありて村治上貢献せらるゝ其の功蹟[功績]は顕著なるもの頗(すこぶ)る多く、村民の信頼殊(こと)に篤(あつ)く又趣味の士。
  『埼玉県消防発達史第一編』(1933年7月発行)193頁〜194頁

1844年(天保15)〜1845年(弘化2)頃の菅谷村の領主と石高・家数

■ 猪子岩三郎知行所   202石071   39軒
  (勝田村193石621、太郎丸村100石172、葛飾郡遠野村66石3042、同郡吉野村53石0288、葛飾郡西大輪村123石6898)

■■菅谷村   202石071   39軒

   「武蔵国改革組合村々石高・家数取調書」(『新編埼玉県史資料編14 近世5 付録』、1991年発行)

1844年(天保15)〜1845年(弘化2)頃の太郎丸村の領主と石高・家数

■猪子岩三郎知行所  100石172  21軒
  (勝田村193石621、菅谷村202石071、葛飾郡遠野村66石3042、同郡吉野村53石0288、葛飾郡西大輪村123石6898)

■■太郎丸村  100石172  21軒

   「武蔵国改革組合村々石高・家数取調書」(『新編埼玉県史資料編14 近世5 付録』、1991年発行)

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