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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2008年09月

鎌形村内郷と植木山の合併許可 1874年6月

   明治初期の村の合併
 町村分合への動きとして、政府から布達された最初の法令は、1872年(明治5)の太政官布告第119号である。これは従来町村の中には一村が幾つかの組に分離され、それぞれ別の行政体となっていたものがあったので、まずそうした区別を廃止して一村の行政をまとめて取扱うこととしたもので、厳密の意味では、町村合併の布告とはいえないが、町村単位の行政を徐々にまとめていこうとするものであった。
 実質的な町村合併をすすめるものとしては、翌1873年(明治6)6月に町村分合及び町村の名称変更等に関する手続きを示した大蔵省達第99号、ついで同年12月大蔵省第186号がある。政府の意図は、人口や土地面積の少ない村は、「毎年無用の労費を掛、区入費並に村費を相嵩(かさ)む」ので、これ等の面から当時存在した弱小町村や、住家の少ない新田村を合併させ、当時の地方財政の中心となっていた、民費や村費の軽減を図ったものである。

   鎌形村の合併
 鎌形村と植木山村は各々もと独立した一村であったが、田、畑、宅地とも入会し、かつ風俗・習慣等も共通して従来から一村同様の状態であった。その上この両村は、いずれも戸数三〇戸【?】に満ない小村であるため、無用の経費がかさんで冗費が増し、住民はその負担に難渋困惑した。そこで両村の重立った者一同協議の結果、両村を合併することに意見が一致し、明治七年(1874)五月熊谷県訓令河瀬秀治にその旨願出た。
 よって県は、その状況を詳細に調査したところ、願出の通り不都合の点が認められなかったので、明治七年(1874)5月17日県令代理兼参事津田要から内務省大久保利通に、両村合併の儀を伺出た。ところが「両村合併之儀ハ明治六年大蔵省第九九号布告布達ニ照準人口絵図面取調当可伺出事」として却下されてしまった。
 このため県は、更に絵図面等を調査及び調製の上、翌六月十四日再伺いしたところ、ようやくその理由が認められて、同月二十八日「書面申立之通可取計事」として異議なく許可され、ここに鎌形村が新発足した。
   『嵐山町史』(1983年9月)520頁〜521頁から作成

  鎌形村内郷と同村植木山の合併許可史料

「庶第百二十五号」
   村合併之儀ニ付伺
本県管下
武蔵国秩父郡
薄(ススキ)村
一、反別四百九拾七町五反八畝三歩
一、戸数五百四軒
一、人口弐千三百十五人
同国同郡
白井差(しらいさし)
一、反別壱町六反三畝拾五歩
一、戸数三軒
一、人口拾六人
    反別四百九拾九町弐反壱畝拾八歩
  合 戸数五百七軒
    人口弐千三百三拾壱人
右合併         薄(すすき)村
【中略】
同国比企郡
鎌形村内郷(うちごう)
一、反別五拾七町壱反八畝拾八歩
一、戸数七拾六軒
一、人口四百三人
同国同郡
同村植木山(うえきやま)
一、反別六拾町五反壱畝弐拾九歩
一、戸数六拾四軒
一、人口三百拾人
    反別百拾七町七反拾七歩
  合 戸数百四拾軒
    人口七百拾三人
右合併         鎌形(かまがた)村
【中略】
右者小村或者耕地人家共入会、従前一村同様之村々ニ付、御布告ニ基便宜ヲ商量合併願出取調候処、不都合筋無之候間聞届可然候哉、麁絵図面(そえずめん)相添、此段奉伺候也
          熊谷県令河瀬秀治代理
 明治七年六月十四日 熊谷県権参事 津田要 印
  内務卿 大久保利通殿
(指令・朱書)
 書面申立之通可取計事
  明治七年六月廿八日 内務卿 大久保利通 印

 『埼玉県史料叢書7(下) 入間・熊谷県史料四』(埼玉県教育委員会、2007年3月発行)82頁〜84頁。鎌形村の他に、秩父郡薄村(すすきむら)、那珂郡秋山村、高麗郡岩沢村、高麗郡高麗本郷、入間郡松郷(まつごう)の合併が認められている。

県立小川高等女学校の開校 1928年4月

  請願書
顧ふに欧州の戦乱は各国共に女子の実力を認め女子教育の普及徹底を期せんか為大なる努力を傾注するに至り我国に於ても時代の要求に応して女子教育に対する自覚を促し従って女子の向学心非常に高まり尋常小学校以上の教育を受くるもの漸く多く特に県立高等女学校入学志望者も逐年増加し或は遠く東都に遊学するものあり然れとも静に之を考ふるに女子をして遠く父母の膝下を離れて修学せしむるは子女の訓育上考慮を要するものあるは勿論家庭の実情に伴はさるの憾(うらみ)あり是に於てか小川町当局者並有志は深く之に鑑み女子教育の振興は現時の急務にして延(ひ)いては地方開発に貢献すへきものあるを感し奮然之か計画を建て修業年限四ヶ年実科高等女学校を小川尋常高等小学校に併設し以て温良質実なる女子養成機関とし一面女子教育の為憂慮しつつある地方人士の希望に副はんことに努めたり而して本年四月に於ける同校入学志願者を調査するに比企郡菅谷村以西は勿論外秩父及大里郡の西部に亘(わた)り実に一町十七ヶ村に達せるの状況にして之即当地方に女子中等教育機関の必要なるを証明するものなり抑〃(そもそも)小川町たるや戸数一四〇〇人口七千余に過きさる小都会なりと雖(いえども)鉄道開通以来煩に進展の気運を示し近く八王子高崎間敷設鉄道交叉する暁に於ては生徒通学上更に大なる利便を来たし通学の範囲は益々拡張せらるへくと存候 就ては敷地及び校舎建築に要する費用は寄付可致候に付小川実科高等女学校を昇格して県費移管の儀特別の御詮議に頂度関係町村連署の上此段奉願候也
     菅谷村役場『昭和2年学務部』綴

 県立中学校開設について、松山町と小川町との間で熾烈な招致合戦が展開されたが、1922年(大正11)3月、松山町設置と決定され、翌年4月県立松山中学校が開校した。続いて、県立高等女学校設立についても松山町と小川町で招致運動が繰り広げられた。
 小川町では1925年(大正14)4月、小川尋常高等小学校内に小川実修女学校を、松山町では翌1926年(大正15)、松山実科高等女学校を開校した。小川町では同年11月、県に実科高等女学校設置申請を提出し、翌年2月5日に認可されたので実修女学校を廃止し、埼玉県小川実科高等女学校が小川尋常高等小学校の三教室を使用して4月開校した。
 実科高等女学校開校に続いて県立高等女学校への昇格運動が展開された。近隣の村々を引き入れ、小川町は8月6日、県に昇格を陳情し、11月には町会で県立高等女学校が認可された場合、1927年度・校地8000坪、28年度・7万2000円、29年度・2万5000円を校舎建築費、運営費として寄付することを可決した。「請願書」は、1927年(昭和2)7月27日に小川町から菅谷村役場が受け取ったものである。
 同年12月、県会で設置が可決され、翌28年1月から新校舎建築を開始、4月1日、埼玉県立小川高等女学校が小学校を間借りして発足した。女学校が新校地・新校舎に独立したのは1929年(昭和4)9月だったが、敷地の他に校舎建築費など工事費の70%近くを負担した小川町をあげての県立高等女学校誘致運動はここに結実した。
     『小川小学校誌』(1989年11月)190頁〜195頁
     『小川町の歴史 通史編』下巻(2003年7月)438頁〜440頁

八高線(越生―小川)の開通   1934年3月

○八高線越生小川間十三キロ百の完成も近づき開通式三月廿四日と確定となった。
     『武蔵野月報』1934年(昭和9)2月1日

  小川高等女学校 生徒の激増 益発展せん
財界の不況は教育にも及ぼして一時は入学生の関係から一学級制にとまで言はれた県立小川高等女学校も来年度は頓(とみ)に入学生の増加を来し現在に於て既に百名を越へ二学級を置くことになったが八高線の開通とともに四通八通の要地となる小川町はすべてに於て益(ますます)発展するものと見られて居る。
     『武蔵野月報』1934年(昭和9)2月1日

菅谷村青年団・菅谷地区青年団役員 1946年〜1961年

  菅谷村青年団
 昭和21年度 団長:瀧澤重信
 昭和22年度 団長:内田喜雄
 昭和23年度 団長:内田喜雄
 昭和24年度 団長:内田喜雄
 昭和25年度 団長:権田昭三
 昭和26年度 団長:杉田彌市
 昭和27年度 団長:杉田彌市
 昭和28年度 団長:山下賢治
 昭和29年度 団長:関根盛二

  菅谷地区青年団
 昭和30年度 団長:金井佐中 副団長:瀬山実・曽田利夫
 昭和31年度 団長:瀬山実 副団長:遠藤
 昭和32年度 団長:高橋昭忠 副団長:内田章
 昭和33年度 団長:内田章 副団長:栗原重夫・内田ふじ
 昭和34年度 団長:栗原重夫 副団長:内田清司
 昭和35年度 団長:内田清司 副団長:長島崇
 昭和36年度 団長:長島崇 副団長:根岸恵治・高橋博
     『埼玉県連合青年団史』(1985年11月発行)854頁

七郷村青年団・七郷地区青年団役員 1946年〜1961年

  七郷村青年団
 昭和21年度 団長:市川紀元
 昭和22年度 団長:中島立男
 昭和23年度 団長:中島立男
 昭和24年度 団長:吉場豊
 昭和25年度 団長:吉場豊
 昭和26年度 団長:安藤仙一・青木幸枝
 昭和27年度 団長:阿部富育
 昭和28年度 団長:阿部富育
 昭和29年度 団長:阿部富育

  七郷地区青年団
 昭和30年度 団長:田畑由一
 昭和31年度 団長:田畑俊夫
 昭和32年度 団長:藤野圭一
 昭和33年度 団長:田畑忠三
 昭和34年度 団長:島田敏雄
 昭和35年度 団長:中村正
 昭和36年度 団長:加藤明弘
     『埼玉県連合青年団史』(1985年11月発行)854頁〜855頁

※参照:七郷青年団団結歌 1955年(昭和30)頃

七郷青年団創立 1917年3月

  創立
創立年月日 大正六年(1917)三月二十一日
創立ノ大要 明治四十三年頃本村各字毎ニ大字単位ノ青年会ナルモノアリテ自発的ニ自己ノ修養ニ勉メ勤労ト貯蓄ニ邁進シ何等他ノ指導ヲ受ケズ青年相互ニ於テ切磋琢磨シ其ノ名称モ励農会、学習会、戊申青年会等アリシガ大正六年(1917)三月二十一日内務文部両大臣ノ訓令ニ基キ村内一円トシタル系統的ナル七郷村青年団ヲ創立ス而シテ各字毎ニ支部ヲ設立シ上旨ノ指導ヲ受ケタリ
以来小学校長団長ニシテ団員ノ年齢ハ四十才マデヲ団員トシ二十五才迄ヲ正団員トセリ
大正十五年(1926)七月団則ノ大改正ヲ行ヒ団員中ヨリ団長ヲ選出シ数度ノ改選ヲ経テ今日ニ至リシガ昭和十六年(1941)四月文部省令ニ依リ再度ノ改組アリ団則ヲ制定シ国民学校長ヲ以テ団長トシ現在ニ至ル

  表彰
大正十五年二月十一日 施設経営宜シキヲ得其ノ成績顕著ナリ
                  埼玉県知事
昭和四年三月一日 新聞事業ニ尽瘁
                  東京日日新聞社
昭和五年一月一日 新聞事業ニ尽瘁
                  国民新聞社
昭和七年二月十一日 青年訓練所銃器購入資金参百五拾円寄付ニ依リ
                  七郷村長

        七郷青年団沿革誌(1941年4月)

菅谷村青年団・嵐山町青年団・嵐山町青年クラブ役員 1962年〜1984年

  菅谷村青年団
 昭和37年度 団長:高橋博 副団長:冨岡秀・小林峰久・関根イチ・奥田和恵
 昭和38年度 団長:青木孝 副団長:冨岡秀・小林峰久
 昭和39年度 休団
 昭和40年度 団長:小澤勝 副団長:安藤欣男・小久保一徳
 昭和41年度 団長:小澤勝 副団長:安藤欣男・小久保一徳

  嵐山町青年団
 昭和42年度 団長:小久保一徳 副団長:金子敏雄・笠原淑枝
 昭和43年度 団長:金子敏雄 副団長:冨岡成恭・金子時子
 昭和44年度 団長:冨岡成恭 副団長:大野益一・高橋篤子

  嵐山町青年クラブ
 昭和45年度 団長:早川国男 副団長:新井康夫・村田初子
 昭和46年度 団長:飯島康夫 副団長:新井康夫・中島きよ子
 昭和47年度 団長:鈴木秀和 副団長:関口稲男・中島きよ子
 昭和48年度 会長:鈴木秀和 副会長:山下正幸
 昭和49年度 会長:山下正幸 副会長:田畑安嗣・中村春江
 昭和50年度 会長:田畑安嗣 副会長:高崎裕・大野秋子
 昭和51年度 会長:田畑安嗣 副会長:大澤真一・大野秋子
 昭和52年度 会長:木村一夫 副会長:根岸正浩・田幡邦子
 昭和53年度 会長:米山幸男 副会長:中島敏雄・長島世津子
 昭和54年度 会長:馬場春雄 副会長:根岸正浩・高坂ますみ
 昭和55年度 会長:米山桂司 副会長:中島泰正
 昭和56年度 会長:中島秀雄 副会長:米山桂司・中島泰正
 昭和57年度 会長:米山桂司 副会長:井上公雄・権田茂・星野博子
 昭和58年度 会長:権田茂 副会長:中島秀雄・米山桂司
 昭和59年度 会長:金井敏明 副会長:権田茂
     『埼玉県連合青年団史』(1985年11月発行)855頁〜856頁

鬼鎮神社の祭礼 1906年4月

 比企郡菅谷村大字川島ない鬼鎮神社は来る八日(旧二月十五日)に例年の如く祭事を執行する筈なりと云ふが当日は東京日本橋区浜町三丁目十五番地小谷野富吉氏の奉納に係る石華表(重量九百六十貫)建立式をも併せて行ふ筈。目下是れが準備中なりと云ふ。されば当日は各地方より老若男女の参詣するもの例年より多かるべく、従って非常の雑踏を極むることならん。
     『埼玉新報』1906年(明治39)4月6日

川島鬼鎮神社社前の石鳥居 1906年

鬼神神社埼玉新報記事1906051川島鬼鎮神社は寿永年間秩父二郎畑山の重忠【畠山重忠】公菅谷に城郭設備の際、方位の上より東北の隅は鬼門に相当するを以て鬼門除けと唱ひ並に衝立船戸神【衝立久那止命(つきたつくなどのかみ)】八衢比賣神【八衢比賣命(やちまたひめのみこと)を勧請奉祀せるものにして、爾来陰暦三月九月の十五日を例祭とす。図中に示す華表(かひょう)【神社の鳥居】は日露戦争に際し数万の守護札を無料配布せしを以て東京■講社より凱旋後奉納せられ、三月十五日の例祭を兼ね上棟式を挙行せられたるものなり。華表の下に佇立(ちょりつ)【たたずむこと】せるは社掌高橋信久氏及令子(れいし)【令息】佐久氏なり。
     『埼玉新報』1906年5月13日

変わった節分祭 1934年

  変った節分祭 菅谷村の鬼鎮神社
     余興たっぷりで大宣伝

「福は内、鬼も内」といふ変った追儺(ついな、おにやらい)式を行ふ比企郡菅谷村川島の鬼鎮神社に於ては年々節分会に参会するものが増すにつれ本年も大々的に宣伝することに準備がなってゐる。本年も例年の通り午後六時追儺式が執行されるが、余興として煙火、芝居、福豆授与、福引等があり、善男善女で賑ふことであらう。
     『埼玉日報』1934年(昭和9)1月28日

  鬼鎮神社の豆まき
     本年は一段のにぎはひ

鬼鎮めとして全国的に其名を得た菅谷村川島の鬼鎮神社では、吉例によって二月三日、節分追儺祭を大々的に奉行して、大にしては国家の基礎より又一般信仰者の安全を祈願するが、尚当日は参詣者一同に福運【福豆?】を頒(わか)つと同時に、余興として福引を出し、煙火、芝居等まで為すから一層の賑を見るであらう。
     『武蔵野月報』17号(1934年2月1日発行)

  箭弓社節分祭 松山芸妓も総出動参加
松山町の県社箭弓稲荷神社では例年の通り東都から年男年女を迎えて午後八時社殿に於て大追儺式を執行するが例年の通り松山芸妓も大丸髷姿で追儺式に参加すると。なほ例年の通り余興には神楽、煙火、福引の催があると。
     『埼玉日報』1934年1月28日

  各地のついな祭
○小川町成田山
遠く明治時代から毎年行はれて来た小川地方代表的の豆まきである。本年は午後八時より小川料亭菊水を年男の楽屋として上品寺鈴関師によって大護摩を修行せられる。年男は申込によって採用される。
○小川町千日堂
一昨年あたりから子育呑龍の意気込で七才の小児を年男として福引を出してゐる。本年あたりは相当賑かであらう。
○槻川八幡大神社
昭和元年頃からの企てであるが、同地の高橋社掌の尽力と氏子崇敬者によってますます広くなり、近頃では付近に名を響かせるまでになり、今年は一層地元人士の奮発によって、種々催し物から福引まで添へ、前景気又盛なものである。
○大河原 能木神社
これも地元信仰者によって盛大に行はれ、殊(こと)に本年は氏子総代の努力と馬場師等の熱心によりて、神前に福運を迎へる人等の山を見ることであらふ。
○竹沢 金比羅大神
神道修成派埼玉県第一教務支局竹沢氏によって奉行され、宣伝をせぬからあまりに知られて居らぬが、堅実を以て追々地方に認められて来るであらう。豆まき式は午後五時。
     『武蔵野月報』17号(1934年2月1日発行)

『武蔵野月報』は、毎月1回20日発行。購読料一ヶ年3円。小川町14番地武蔵野月報社発行。編集兼発行人山崎松三郎。

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