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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2008年11月

多田家に保存されている医学書

 太平聖恵方
 志賀の多田家に保存されている医学書の最も代表的なものは、『太平聖恵方』(たいへいせいけいほう)である。
 この医学書は、中国の宋(そう)時代(960年〜1279年)の初期992年に、宋の皇帝の命令で編纂(へんさん)された医学書である。本文は100巻で、目録が1巻、合計101巻の大著である。内容的には中国の後漢(ごかん)時代、西暦(せいれき)200年頃に活躍した医師張仲景(張機)が編纂したといわれる『傷寒論』を受け継ぐもので、これに宋政府の所蔵する医学書も利用して編纂したものと言われている。張仲景の『傷寒論』は中国医学の基本となったと言われるもので、後世に大きな影響を与えた書である。したがって『太平聖恵方』は、中国医学を集大成(しゅうたいせい)したものである。朝鮮にも伝わり高麗(こうらい)時代(918年―1392年)の朝鮮医学の中心になった。日本へは鎌倉時代に伝えられたと考えられている。なお『太平聖恵方』の完本は中国では失われ、明治になって日本から写本が逆に中国に伝えられたと言われている。
 多田家に所蔵されているのは、『太平聖恵方』(全100巻、別冊総目次1巻)のうち、9、73、74、83巻が欠落しているが、それ以外の97冊が現存している。
 これだけの医学書がなぜ多田家にあるのだろうか。江戸時代の多田家についての詳細は、「領主岡部家と陣屋の多田家」にゆずるが、ここでは簡単に述べる。多田家は江戸時代に陣屋(じんや)として、江戸に住む旗本岡部家の領地支配を担当していたが、宝暦(ほうれき)年間に領主が岡部氏から松平氏にかわり、多田家三代目の多田一角英貞(いっかくひでさだ)は領主を失い、やむなく江戸に出て御典医(ごてんい)の久志本左京常一の門に入り、ここで修行して医者の道に進んだ。
 多田家所蔵の『太平聖恵方』第100巻目、つまり最後の巻の最終頁に、次のように記されている。

  元本典薬頭(げんぽんてんやくのかみ)【幕府で医薬に携わった者の長官】久志本家秘蔵(くしもとけひぞう)         
  日東安永(あんえい)七戊戌(つちのえいぬ)年皐月(さつき)【陰暦(いんれき)五月の異称(いしょう)】
  武州比企郡菅谷散人多田一角氏源英貞謹写(きんしゃ)

 これによると、久志本家秘蔵の『太平聖恵方』を、門弟となった多田一角英貞が安永七年(1778)に筆写(ひっしゃ)したことが分かる。漢文で書かれた『太平聖恵方』の全巻を筆写することは大変なことであったと思われる。そこには医学の道にかける多田一角英貞の熱い思いがうかがえる。欠落している第9巻は、総目次の8巻から14巻までの傷寒論関係の2巻目、73巻74巻は69巻から81巻までの婦人関係の巻の中の2巻、83巻は82巻から93巻までの小児関係の2巻目の巻である。一連の内容のものをそこだけ筆写しなかったとは思われない。長年の間に失われたのではなかろうか。
 なお筆写の完成した安永7年の前年に、岡部家8代目の徳五郎が死亡している。徳五郎は家の廃絶によって遠山村の遠山寺に入門していたが、そこで死亡した。遠山寺にある徳五郎の供養塔には「願主 多田姓」と刻まれている。供養塔の建てられたのは安永6年である。そのときの多田家は、医師になっていた多田一角英貞とその養子元佐貞休の時代であった。願主の多田姓の人物は、徳五郎を知っている英貞であったと思われる。その翌年に多田一角は『太平聖恵方』の筆写を完了したことになる。

 その他の医学書
医方聚要
(いほうじゅよう) 巻一  著者 奈須(なす)玄(げん)竹(ちく)
  奈須玄竹は、医者として徳川家康に使えた奈須重貞の子で、当時の名医の一人。病気の症状とそれに対する薬物の与え方が記されている。全12巻のうち第1巻を所蔵。 
新医貫奇方(しんいかんきほう) 刻医無りょ子 医貫卷之三  刻医無りょ子 医貫卷之四 著者 趙献可 生没年不明であるが、中国の康熙帝(こうきてい)時代、17世紀後半の医学書。
張機方証義 巻二 吉田一幽謹撰 医学書
痘科鍵(とうかけん) 朱慎人先生纂(さん) 東都書肆(とうとしょし) 生日堂繍梓(しゅうし) 安永6年須原屋他板。
新刻幼科諸方總録 巻之下 五条橋通高倉西江入町 書林 川勝五郎右衛門。
表紙欠落【傷寒尚論編次原文】 序 仲景傷寒書。
聖済總録 中国の北宋時代に宋太医院編纂の医学書。日本には江戸時代になってから伝えられた。日本での発行は、幕府の官医養成の医学校である医学館が行なった。多田家には、聖済總録二之上(運気)二之中(運気)二之下(運気) 聖済總録五(諸風門) 聖済總録六(諸風門)聖済總録49、50(肺臓門)聖済總録77、78、79(泄痢門、水病門)聖済總録122,23,124,125(咽喉門、ヨウ瘤)の8冊が所蔵されている。
表紙が読めなくなっている医学書
 江戸日本橋南二町目  戸倉屋喜兵衛繍梓(しゅうし)【天然痘の治療書を出していた】。
 表紙欠落(序 仲景傷寒書 傷寒尚論編次原文)

     写真  太平聖恵方 医方聚要 聖済總録

領主岡部家と陣屋の多田家

 志賀の多田家に伝わる多田家由来記によると、多田家の先祖多田七左衛門は武州羽生領の須影村(すかげむら)で生まれ、1679年(延宝(えんぽう)7)に比企郡菅谷村に移り住み、江戸にいる旗本岡部藤十郎から菅谷の領地支配を命じられたという。七左衛門が菅谷村に移り住んだのは、没年から逆算すると47歳の頃と思われる。他方岡部藤十郎は初代岡部主水(もんど)から数えて五代目の岡部家の当主である。

 菅谷村の領主岡部家
 岡部家の先祖は岡部主水元清(もんどもときよ)で、母は秀忠(ひでただ)【後の二代将軍】の乳母(うば)を勤め、家康の信頼厚く大姥(おおうば)といわれていた。息子の主水は旗本として幕府から二千石を与えられた。二代目岡部玄蕃元満(げんばんもとみつ)は小姓組(こしょうくみ)【将軍の身近に仕え、旗本の出世コーストされた】になった。三代目岡部外記元直(げきもとなお)は家光のときに小姓組で仕えた。四代目岡部久太郎元周は四代将軍家綱(いえつな)のときに御書院番(ごしょいんばん)【御小姓組と並んで旗本の出世コース】に組み込まれた。その息子が五代目岡部藤十郎である。1702年【元禄15】、藤十郎は父の岡部久太郎の病死で家を継ぎ、江戸で小普請溝口摂津守(みぞぐちせっつのかみ)組入りを命じられ、1704年【宝永元】には御小姓組【北条右近太夫組】に移っている。

 陣屋としての多田家
 多田家はこの岡部藤十郎の領地支配を菅谷村にいて命じられたのであるが、それが何年のことであるか今のところはっきりしていない。多田家初代の七左衛門には実子がなかったため、羽生領秀安村(ひでやすむら)【多田家の元居住した須影村の隣村】陣屋の平馬重勝(へいましげかつ)を養子に迎えていたので、七左衛門の死で多田平馬重勝が後を継ぎ二代目になった。そして1715年【正徳五】に元貞から多田平馬に対して「拾石ニ五人扶持向後遣之者也」という文書が与えられている。このときの岡部家の当主は岡部藤十郎元親であるが、元貞の名前の後には元親の場合と同じ[慥]の字の角判が捺されている同一人物であろうか。
 十石に五人扶持というのは、一年に米十石(米25俵)と五人分の扶持(ふち)(家族や家来を養うための手当)を支給するということである。多田家は岡部家からこのような支給を受けて、陣屋(じんや)として岡部家の領地支配を担当したのである。やがて岡部氏は長慶寺を廃寺にして、その跡地【菅谷の自治会館の前】を多田平馬重勝に与えた。重勝はそこを多田家の墓地として、大姥の徳を尊敬してお堂を建てて千手観音(せんじゅかんのん)を祀り、多田堂と名づけた。重勝は後年岡部藤十郎から志賀の屋敷地を隠居屋敷として与えられた。重勝が亡くなると息子の多田一角英貞(いっかくひでさだ)が多田家三代目となり、陣屋としての役割を受け継いだ。

 多田家は医者の道へ
 ところがやがて宝暦(ほうれき)年間に岡部氏にかわって松平氏が領地を支配するようになった。岡部氏の知行地がなくなったため英貞はやむなく江戸に出て、御典医(ごてんい)の久志本(くしもと)左京(さきょう)常一の門に入った。久志本は将軍家の医師を勤め二千石の知行地を持つ有力な医師であった。英貞はそのもとで医師の道を歩み、多田家初代の医師となった。菅渓(かんけい)先生と自称したという。しかし英貞の息子弥十郎は江戸へ出て、武士の道へ進んだ。そのため英貞は内田與兵衛(よへえ)の息子元佐貞休を養子に迎えて英貞の医師門人として、多田家二代目の医師に育てて跡継(あとつ)ぎにした。貞休は多田家4代目になる。元佐貞休の息子多田元淳は、多田家5代目であるが、江戸の医師高橋芸亭に師事して多田家医師三代目として良医になり、貞休、元淳の時代に多田家は隆盛を極めたが、元淳は23歳で死亡した。やむなく北足立郡榎戸村の医師横田半十郎の三男龍庵(りゅうあん)を養子(ようし)に迎え,彼は多田家四代目の医師【眼科】になった。その長男元三も医師となり、後を継いだ。多田家7代目、多田家の医師としては五代目である。彼を最後に多田家は農業を営むようになった。時代はもう幕末になっていた。
 多田家は最初の三代目までは陣屋として、江戸にいる岡部家の領地支配を担当したが、三代目の多田一角英貞の時代に岡部氏の領地支配が終わりになったため、英貞は生計の道を求めて江戸に出て医学を学び、医者となった。以後、若くして亡くなった者を含めて英貞から五代医者が続いたのである。この多田家には、中国伝来の医学書『太平聖恵方』や幕府の官医養成の医学校である医学館発行の医学書などが多数保存されている。多田家の医学書については別の項で紹介する。
 他方岡部家は五代目藤十郎の時代に多田家に陣屋として領地支配を命じたが、岡部家八代目の徳五郎が安永6年(1777)に問題を起こして岡部家は廃絶(はいぜつ)になり、徳五郎は遠山村の遠山寺に入門し、27歳で死亡した。徳五郎の墓は遠山寺にあるが、墓の願主は多田姓となっている。おそらく没落した岡部家の最後を多田家が弔ったものと思われる。なお岡部家の廃絶は、多田家三代目の多田一角英貞が医者になってからでのことであった。

遠山右衛門大夫藤原光景の墓

 この苔むした寶篋印塔は遠山右衛門大夫光景の墓と称されている。
遠山氏の遠い祖先は建久年代(千二百年代末)に溯る。美濃国遠山荘(現在の岐阜県恵那郡)の出身であり、後北条氏に仕え、曽祖父丹波守真景の時代から江戸城代を勤める一方遠山の南境の小高い山頂に建つ小倉城の城主でもあった。光景の父右衛門大夫政景は相川鴻之台の合戦において顕著な武勲をたてながらも祖父綱景とともに討死、その菩提を弔うために遠山寺に本堂を寄進する。光景の子孫から江戸時代の名奉行としてテレビや映画のドラマで有名な遠山の金さんこと遠山左衛門尉景政がでている。光景の没年は天正十五年五月二十九日である。当地に残った子孫は、山下家を名乗っている。

   平成十六年十二月吉日
    遠山寺二十三世    清純 撰


岡部徳五郎の墓 遠山寺の歴代住職の墓から少し離れた所にある。墓石は、住職の墓(墓石の頭が丸い)と同じ形。

    安永六丁酉天        【安永六年 1777年】
   円寂的道玄端上座居
    十一日念二日        【念二日 二十二日のこと】
      願主  多田姓

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