GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2009年01月

嵐山町里づくり文化構想の推進 2 1981年

   里づくり文化構想=その二=
              文化行政推進委員会の答申

   第一章 第一部会の報告
    町民・地域文化を主とする課題
 第一部会は、町民・地域文化等にかかわる「町民文化大学の開催」「町の日の制定と嵐山祭」および「里づくりボランティア活動」の三課題について審議し、次のようにとりまとめた。

 一 町民文化大学の開催
 この課題は、「里づくり文化構想」第2章「里づくりへの新たな提言」の中でとりあげられている。これを「里づくり」のなかでどう位置づけ、嵐山町にふさわしい特色ある講座にするかについて、もっとも意をもちいた。その特色として、次の四つの要件をみたすよう配慮した。
 1 目的を明確にする
 この大学講座を「里づくり」のための学習の場として位置づけた。公開講座「里づくり教養コース」などを、設けたのもそのためである。その他の講座も一貫して「里づくり」を志向しているが、もとよりその基礎をなす個人の資質の向上を含むものである。
 2 「嵐山を知る」講座を設ける
 「里づくり」は、「嵐山を知る」ことから始める。この考え方に立って、過去、現在、未来にわたり、町の人文、自然両分野の知識を得る講座を企画し、初年度は歴史講座を設けた。
 なお、これを長期にわたり、記録し集大成すれば「嵐山学」というべき体系をまとめることができる。
 3 新しい嵐山の文化をおこす
 町の古い文化を発掘し、再び盛んにするための講座がもてないかを検討した。さしあたり、かって栄えたといわれる窯業をとりあげ、「焼きもの講座」を設けた。将来は、これに類するもの、または、現代の嵐山町にふさわしい文化を発掘してゆきたい。
 4 町民多数の参加を求める
 目標が「里づくり」にあるため、老若男女を問わず、町民多数の参加を期待するもので、それに見あう講座を考えた。初年度は健康講座、以後はスポーツ講座、教育問題講座などを考えたい。なお、女性の参加をすすめるため、特に女性講座を企画した。
 最後に「町民文化大学」の開設に当っては、町内各界各層の代表者等十名程度による「町民文化大学運営委員会」を設け、運営に万全を期するよう進言する。

 二 町の日の制定と嵐山祭
 1 町の日
 町の日の制定は、前年の報告書で「町の木である梅の木の見直しをおこない、梅の花の咲く頃に町の日を制定する」となっていた。しかし、今回改めて検討した結果、梅にゆかりのある特定の日を設けることは、理論的にも根拠がうすく、むしろ「梅の日」「梅まつり」と名づけてはとの意見が出た。
 一方、四月十五日は、嵐山町の「町村合併」と「町制施行」の二重の記念日にあたり、町の歴史にとって重要な意味があるので、この日を「町の日」に制定するのが適当とする結論となった。
 なお、町の日に嵐山祭を実施すべきだとする意見もあるが、嵐山祭の期日が流動的なので、別個のものとして考えたい。
 2 嵐山祭
 嵐山祭(仮称)の開催については、従来町民の間に、たびたび論議されてきたが、ついに今日まで実現するに至らなかった。しかし町では、以前から重忠祭などの行事があり、これに類する催しを全町的行事として開催することを望む声が根づよいので、次のように嵐山祭の構想をまとめた。
  (1)目的
   ア 町民が仕事の余暇を共に楽しみ、相互の連帯感を育てる。
   イ 嵐山町の名物行事に育て、観光資源として生かす。
  (2)性格
   町ぐるみの行事とし、町民全体および各種団体の参加を得て、嵐山町にふさわしい行事とする。
  (3)運営
   実施にに当っては、文化団体党の各種組織の代表者による「嵐山祭実行委員会」を組織し、これが実施主体となって運営することが望ましい。
  (4)時期
   春または秋の二案が出た。春の場合は重忠祭の期日を繰りあげ、町制施行記念日と合併して実施する。秋の場合は、「文化の日」を中心に三日間程度とする。
  (5)会場
   小、中学校、公民館、集会所等の公共施設を活用し、特に駅前道路および国道二五四号線の一部を歩行者天国として会場にあてる。
  (6)行事
   第1案は「文化の日」を中心に次の行事等を組み合せたものを、嵐山祭行事とした。第2案は春の場合で、重忠祭と町制施行記念日を合体した案であったが、第一案が有力であった。
   ア 文化展(菊花展)
   イ 意見発表会
   ウ 農産物品評会、即売会
   エ 獅子舞、嵐山ばやし
   オ 嵐山の味コーナー、餅つき
   カ 音楽隊等のパレード
   キ 花火大会
   行事については、右記のものが実施可能のものとして考えられるが、さらに参加する諸団体の意向を尊重し、関係者の十分な合意を得て、計画、実施することが望ましい。
     『嵐山町報道』304号 1982年(昭和57)3月25日

嵐山町里づくり文化構想の推進 1981年

   里づくり文化構想=その実現の方向と提言=
              文化行政推進委員会の答申

 地方の時代・文化の時代の潮流が、今や県・市町村レベルで全国的に連帯し活発な動きを呈し、行政の重要課題として位置づけられています。
 こうした状況のもとで、埼玉県においては、全国に先がけ、文化行政への取り組みを県政の最重要施策として、各種の施策が実施されています。
 その一環として、埼玉県文化行政モデル市町村推進事業が昭和五十三年(1978)にスタートし、行田・狭山の二市が指定を受け翌年度には、白岡・嵐山の二町が指定され、さらに昭和五十五年度には横瀬村が指定され、それぞれその地域の独自性を生かした答申がなされました。
 さて、昭和五十四年度に指定を受け答申された「里づくり文化構想」の具体的推進方策をめざし、昭和五十五年度においても第二次の県の指定を受け、同年(1980)八月に嵐山町文化行政推進委員会が発足し四回にわたる全体会議と三つの部会にわかれ各部会六回の部会議と二回の文化講演会を開催しました。
 こうした経過のもとに、文化行政推進委員会で「里づくり文化構想=その実現の方向と提言=」が作成され、昭和五十六年(1981)三月二日、町長へ答申がなされました。
 報道委員会では前回の「里づくり文化構想」に引続き、この答申の内容を広く町民の皆さまに知っていただくよう以下三回にわたって紹介します。

   里づくり文化構想の推進

      思えば遠し元久の
       昔語りを今さらに
      槻川の瀬の音に聞く
       千古の声は夢の跡

 「ここ嵐山の地は、わたしたちの住む里である」この意識はそのまま「里づくり」の源泉である。この思いはやがて「嵐山を知る」心となり、「嵐山を愛する」情となる。この自然の愛情、しかも泉のように湧き出る自発の心こそ「里づくり」の精神であろう。これを「里づくりボランティア精神」といってもよい。わたしたちがめざす「里づくり」の実現も、結局この心に帰するものではないだろうか。
 嵐山町文化行政推進委員会は、昭和五十四年度の文化行政懇談会のあとを受け、昭和五十五年(1980)八月から五十六年二月の間に開催された。今回の目的は、前年答申した報告書「里づくり文化構想」の実現方策についての提言であった。
 さて、「里づくり文化構想」は嵐山町の未来像である。この像を今後ともさらに鮮明にしつつ、少くとも現に与えられた構想を、全力をあげて実現せねばならない。
 そこで今回の推進委員会では、次のように対処した。まず全体を三つの部会に分け、第一部会は「町民・地域文化を主とする」課題、第二部会は「行政の文化化を主とする」課題、第三部会は「自然・歴史・施設等総合的結合」の課題をそれぞれ審議し、第一章以下にその報告をまとめた。
 ただ、課題の性質上、互いに相違する点もあり、審議の進め方、報告書の様式文体等について不統一な箇所もあるが、ご了承を得たい。
     『嵐山町報道』303号 1982年(昭和57)1月20日

七郷村誌原稿 吉田村(社寺明細帳) ルビ・注

   明治十六年(1883)七月十二日
    社寺明細帳
         比企郡吉田村

埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字宮山
            村社
             六所神社
 一祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
 一由緒 寿永弐年(1183)九月十五日創立
 一社殿 間口弐間三尺 奥行三間
 一境内(けいだい)反別 百弐拾九坪 官有地第一種
   境内(けいだい)
  一稲荷神社 壱社
   祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
   建物 但間口三尺五寸 奥行三尺
 一氏子 四拾戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
               右村氏子惣代
                 藤野兵左衛門
               仝断
                 中嶋半次郎
               戸長
                 藤野文八


埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字陣屋東
                村社
                 峯野神社
 一祭神 大山祗命(おおやまつみのみこと)
 一由緒 慶長五年(1600)折井市左衛門源次忠ノ創立
 一社殿 間口弐間 奥行弐間
 一境内(けいだい)反別 百弐拾五坪 官有地第一種
   境内(けいだい)
  一稲荷神社 一社
   祭神 倉稲魂命
   建物但間口三尺五寸 奥行三尺八寸
  一琴平神社 一社
   一社殿 但間口壱尺五寸 奥行八寸
 一氏子 弐拾壱戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
              右村氏子惣代
                内田太一郎
                鞠子萬右衛門
              戸長
                藤野文八


埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字宮田
               村社
                手白神社
 一祭神 手白香姫(たしらかひめ)命
 一由緒 天治元年(1124)九月十五日創立
 一社殿 間口壱間四尺 奥行壱間四尺
 一境内(けいだい)反別 百六拾四坪 官有地第一種
   境内(けいだい)祭神 壱社
    祭神 倉稲魂命
    社殿 間口三尺五寸 奥行三尺五寸
 一氏子 拾壱戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十二日
              右氏子惣代
                嶋田藤右衛門
                小林磯五郎
              戸長
                藤野文八


埼玉縣武藏國比企郡吉田村字西ノ谷
              村社
               五龍神社
 一祭神 高霊神(たかおかみのかみ)命
 一由緒 建長七年(1255)九月十五日創立
 一社殿 間口五尺 奥行六尺
 一境内(けいだい)反別 六拾四坪 官有地第一種
 一氏子 八戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通リ取調候処相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十二日
               氏子惣代
                 好田佐吉 
                 小林初太郎
               戸長
                 藤野文八


埼玉縣管下武藏国比企郡吉田村字宮田
               村持
                嚴嶋神社
 一祭神 弁戈天命
 一由緒 永久弐年(1114)四月創立
 一神殿ハ石 間口壱尺弐寸 奥行壱尺
 一境内(けいだい) 八坪 官有地第一種
 一信徒 拾壱戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
               右信徒惣代
                 嶋田藤右衛門
                 小林磯五郎 
               戸長
                 藤野文八


埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字長竹四百卅番
                   村持
                    稲荷神社
 一祭神 倉稲魂命
 一由緒 天正三年(1575)四月創立
 一神殿ハ石 間口壱尺 奥行壱尺弐寸
 一境内(けいだい) 弐坪 官有地第一種
 一信徒 八戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
                右信徒惣代
                  荒井新兵衛 
                  荒井太右衛門
                  小林常吉
                戸長
                  藤野文八


埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字清水
          村社
            白山神社
 一祭神 大山祗命
 一由緒 天明弐年(1782)九月ノ創立
 一神殿石 間口弐尺 奥行壱尺
  字清水弐千百四十□番
   一林反別三畝廿壱歩  民有地第壱種
     地價金 三拾七銭    山越新造受
     地租(ちそ)金 九厘
       内 民有地第壱種
      境内(けいだい)拾歩 山越新造受
 一信徒 六戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
                 信徒惣代
                   山越新造
                   山越長兵衛
                   山越富八
                 戸長
                   藤野文八


埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字中谷
               村持
                観音堂
 一本尊 拾壱面正観音
 一由緒 寛永十一年(1634)三角坊ノ開基(かいき)創立タリ
 一本堂 間口弐間三尺 奥行三間
 一観音堂境内(けいだい)敷 此坪数八拾壱坪 官有地第一種
 一信徒 四拾戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
                  信徒惣代
                    藤野政次郎
                    馬場久左衛門
                  戸長
                    藤野文八


埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字三反田
                村持
                 釋迦堂
 一本尊 釈迦牟尼佛
 一由緒 天明元年(1781)荒井甚平之創立ニシテ後宗心寺ヘ寄附
 一本堂 間口三間 奥行三間壱尺
 一境内(けいだい) 此坪数百拾壱坪 民有地第弐種
     此地價金三拾弐銭 宗心寺
 一信徒 四拾戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通リ取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
                信徒惣代
                  鞠子萬右衛門
                  内田太一郎
                戸長
                  藤野文八


埼玉縣管下武藏國比企郡吉田村字前
              村持
               阿彌陀堂
 一本尊 阿弥陀如来
 一由緒 寛永二年(1625)九月十五日ノ創立
 一本堂 間口弐間三尺 奥行四間
 一阿弥陀堂敷 此坪数百九拾弐坪 官有地第四種
 一信徒 四拾戸
 一管轄廰迄距離 拾四里
右之通リ取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
                信徒惣代
                  鞠子萬右衛門
                  内田太一郎
                戸長
                  藤野文八


埼玉縣武藏國比企郡吉田村字馬場
      同郡中尾村慶徳(けいとく)寺末
              曹洞宗通幻派 宗心寺
【通幻は曹洞宗の僧侶。越前武生に元享二年(1322)生まれ。明徳二年(1391)越前武生龍泉寺で没。総持寺五世(妙高庵開基(かいき))、兵庫県永澤寺・石川県聖興寺(廃寺)、千葉・滋賀県総寧寺開宗心寺開山(かいさん)。禅師亡き後は「通幻十哲」と呼ばれる弟子たちが全国に曹洞宗の教えを広め、爆発的に各地に寺院を開いて檀信徒を獲得。現在、全国一万五千の曹洞宗寺院のうち、九千ヶ寺が通幻禅師の流れを汲んでおり、「通幻派」として一大勢力を形勢。龍泉寺はその通幻派の本山として、丹波の永澤寺とともに、宗門に重き立場をなす。】
 一本尊 釈迦牟尼佛
 一由緒 慶長五年庚子(1600)開山(かいさん)ハ雲哲和尚開基(かいき)折井市左衛門源次忠ノ創立
 一本堂 間口八間三尺 奥行六間三尺
   外ニ間口貳間 奥行壱間四尺 玄關上【?】
 一境内(けいだい)此坪數 千六百六拾五坪 民有地弐種
   此地價金 百拾六円八拾銭 宗心寺受
 一境内(けいだい)建物
  白山妙理権現堂 間口三尺 奥行三尺
  由緒 慶長五庚子年(1600)雲哲和尚ノ創立
 一鐘樓(しょうろう)  壱宇 壱間四面
 一庫裏(くり)  間口 九間三尺 奥行 三間三尺
 一土蔵(どぞう)  間口 弐間 奥行 三間
 一衆寮(しゅりょう)  間口 五間三尺 奥行 弐間
 一隠寮(いんりょう)  間口 五間 奥行 三間
 一木小屋 間口 四間 奥行 弐間
 一境外(けいがい)所有地 民有地第一種
 字寺前 百三十弐番
  一田 壱畝壱歩  此地價金 八円弐十一銭六厘
 字宮田 九百四十一番
  一宅地 四畝拾弐歩 此地價金 拾円六拾五銭
 字八反田 弐百弐番
  一田 壱反弐畝廿三歩 此地價金 七拾円三拾壱銭九厘
 字亀井作 弐千百弐
  一田 弐反弐畝九歩 地價金 八拾四円四十五銭六厘
 字前 八百九十八番
  一畑 壱反九歩 地價金 拾弐円六十銭七厘
 字馬場 千五十番
  一畑 四畝十九歩 此地價金 六円拾九銭七厘
 字仝所 千五十一番
  一畑 弐畝拾五歩 地價金 弐円七拾六銭九厘
 字馬場 千五十弐番
  一畑 壱反三畝拾九歩 地價金 拾九円八十一銭四厘
 字仝所 千五十六番
  一畑 弐反八畝拾九歩 地價金 三拾八円三拾弐銭七厘
 字仝所 千五十四番
  一畑 三畝三歩 地價金 三円四十四銭三厘
 字仝所 千五十七番
  一畑 四畝九歩 地價金 六円七十四銭七厘
 字馬場 千五十九番
  一畑 四畝廿七歩 地價金 七円六十八銭一厘
 仝所 千六十壱番
  一畑 九畝拾三歩 地價金 四円九十弐銭七厘
 字宮田 九百四十七番
  一林 六反九畝廿八歩 地價金 拾円四拾九銭
 仝所 九百六十七番
  一林 壱反壱畝拾八歩 地價金 壱円七十四銭
 字馬場 千弐十番
  一林 六畝七歩 地價金 九十三銭五厘
 字仝所 千五十三番
  一林 九反三畝八歩 地價金 拾三円九拾九銭
 字仝所 千六十九番
  一林 壱町壱反九畝十九歩 地價金 拾七円九十四銭五厘
 字小在地 千弐百五十七番
  一林 弐十一歩 地價金 拾銭五厘
 字鶴巻 千九百十弐番
  一林 壱反壱畝壱歩 此地價金 壱円六拾五銭五厘
 字山下 千九百五十一番
  一林 九百五畝十三歩 此地價金 拾四円三十一銭
 字天神臺 弐千十六番
  一林 壱反九畝廿九歩 此地價金 弐円九拾九銭五厘
 一檀徒人員五百五十四人
 一管轄廰迄距離拾四里
右取調候所相違無御座候也
  明治十六年(1883)七月十弐日
                 檀徒惣代
                   嶋田新太郎 
                   嶋田藤右衛門
                 戸長
                   藤野文八

 字明賀 第弐百七拾番
  一田 五反廿壱歩 地價金貳百六拾壱円八拾壱銭四厘
    明治十八年(1885)六月十八日 小林政右衛門ヨリ買受済

七郷村誌原稿 吉田村(地籍帳) ルビ・注

    地籍編纂帳
        比企郡吉田村
           戸長(こちょう)役場

 官有地
  第一種
   一神地 反別壱反六畝拾歩
     内
    村社 此反別壱反六畝歩  四ヶ所
    社地 此反別拾歩     二ヶ所
  第二種 ナシ
  第三種
   一用材林 反別貳反三畝廿八歩
   一原野 反別拾壱町壱反八畝拾六歩
      内
     芝地 反別三反八畝壱歩
     秣場(まぐさば)【肥料、飼料用の草を刈り取る場所。村々の入会や一村持ちのものが多い】 反別拾町八反拾五歩
   一滑川 反別九反九畝拾五歩
   一池 反別九歩
   一溜池 反別七町弐畝弐拾五歩
   一溝渠(こうきょ)【みぞ】 反別九反九畝六歩
      内
    一溜池用水路 反別九反九畝六歩
      但 長五千九百五十弐間巾平均三尺
    一堤塘(ていとう)  壱町壱反貳畝廿六歩
       内
      滑川堤敷反別四反九畝廿歩
       但 長千四百□□□巾平均壱間
         土手所反別六反三畝六歩
    一道路 反別七町八反弐畝弐歩
       内
      村道 反別壱町五反五畝弐十弐歩
        内
       反別弐歩 掲示場敷
      耕作道 反別六町弐反六畝拾歩
    一堂宇敷 反別九畝弐歩


 民有地
  第一種
   一田 反別六拾弐町五反九畝廿四歩
       外ニ反別弐町五反廿九歩 畦畔敷
   一畑 反別三拾四町九反壱畝拾五歩
       外ニ反別壱町四反弐十歩 堀敷
   一比企郡吉田村宅地 反別八町五反弐畝廿三歩
   一林 反別百三拾五町壱反拾弐歩
      内
     薪炭(しんたん)材林 反別百三拾五町八畝拾七歩
     竹林 反別壱畝廿五歩
   一芝地 反別三反拾四歩
   一萱野 反別壱反五畝廿四歩
  第二種
   一溜池 反別弐畝拾弐歩
   一墓地 反別八反拾歩
   一斃馬捨場 反別壱反四畝九歩

合計 反別弐百七拾六町壱反三畝廿六歩
  此譯
 官有地
  此反別弐拾九町六反四畝拾四歩
 民有地
  此反別弐百四拾六町四反九畝拾弐歩

右ハ地籍編纂之儀本年本縣之第六号ヲ以テ御達之趣ニ依リ私共立會取調候所書面之通リ相違無之候也
  明治十五年十二月
   比企郡吉田村
            小前惣代
              島田新太郎
            仝
              小林儀五郎
            戸長
              鞠子萬右衛門
 埼玉縣令吉田清英殿

七郷村誌原稿 吉田村(村誌) ルビ・注

   武藏國比企郡吉田村誌 仝 【埼玉県比企郡嵐山町吉田】

凡例
一熊谷縣廰(けんちょう)ヲ載セテ埼玉縣廰(けんちょう)ヲ載セサル者ハ當時該縣ノ所轄ナレハナリ
一全村ノ面積未タ實測ヲ経サレヲ以テ暫ク之□□□如キモ□□實測ヲ経サレハ少差ナキ□□□□□村□記載ニ随フ
一原野牧場等該村ニナキ者ハ総テ科目ヲ掲ケス
一田畑其他反別ハ明治九年改正以前ノモノヲ記ス各村録申ニ據ル
一戸數人口學校生徒及舟車牛馬等ハ総テ明治九年(1876)一月一日ノ調査ニ據ル 仝上
一森林社□□□係ル者ハ該村元標 元標ナキ
 □□□家輻湊□□□リス[   ]リ之ヲ定ム
一管轄□□等新編武藏風土記大成武鑑藩翰譜武藏田園簿(むさしでんえんぼ)【正保期(1644〜1648)の武蔵国郷帳の控。各郡村高及び寄せ高、道のり等が書かれている】等ニ據リ校正シ猶疑ハシキ時ハ風土記或風田園簿或田ノ字ヲ冠シテ嵌(かん)注シ異同ヲ示ス
一字地ハ新編武藏風土記ニ載スル小名ノ如キ古称ヲ採ルト雖モ其古称ヲ失セシモノハ地租(ちそ)正後ノ称ヲ以テ之ヲ補フ

比企郡吉田村
 本村古時伊古郷水房庄松山領ニ属ス

彊域(きょういき)
 東ハ滑川【『新編武蔵風土記稿』比企郡総説に「水源は吉田・古里の二村の悪水流れ、古里村にて一条となり。三里ばかり流れて、松山町の北にて市ノ川に入。すべて砂利川なり」とある】ヲ隔テヽ和泉廣野両村ト相對シ西ハ越畑村南ハ勝田村ト山巒(らん)或ハ樵径(しょうけい)【小径】ヲ限リ北ハ土塩村【塩村の誤り】古里村男衾郡西古里村ト小径及ヒ耕地ヲ接ス

幅員
 東西拾九町廿間南北ニ拾三町廿間

管轄沿革
 天正十八年庚寅(かのえとら)(1590)徳川氏ノ有ニ帰シ後村高ヲ割(さ)キ旗下士折井市左衛門【寛永十年〜折井市左衛門次忠】山本四兵衛【寛永十年〜山本四兵衛正吉】曽我又左衛門【寛永十年〜蘇我又左衛門古祐】松下清九郎【寛永十年〜松下清九郎重氏】ノ采地(さいち)【領地・知行所】トス
 風土記○【?】高三百六十三石五斗八升折井左京二百石山本四郎兵衛十九石曽我又左衛門八十石六斗六升九合松下清九郎知行トノス
 曽我氏ノ采地ハ其後菅沼氏ニ替リ四氏世襲ス明治元年戊辰(つちのえたつ)(1868)折井氏四百石山本氏二百石松下氏八十石六斗六升九合菅沼氏十九石八升二合明治元年戊辰(つちのえたつ)武藏知県事ノ管轄トナリ二年己巳(つちのとみ)(1869)二月品川縣ニ隷(れい)シ【属し】八月韮山(にらやま)縣ニ轉シ四年辛未(かのとひつじ)(1871)十一月入間縣ニ属シ六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷縣ノ所轄トナル

里程(りてい)
 熊谷縣廰(けんちょう)ヨリ西方三里八町字前谷(まえやつ)ヲ元標トス
 四隣和泉(いずみ)村ヘ弐拾町勝田村ヘ十六町越畑村ヘ十五町古里村ヘ十五町土塩村【塩村の誤り】ヘ十五町小江川村(おえがわむら)ヘ三十町
 近傍(きんぼう)宿町松山町ヘ三里中山道熊谷驛ヘ三里八町

地勢
 山巒山巒(さんらん)連亘(れんこう)【長くつながり続くこと】起伏シ東ニ市ノ川【滑川の誤り】ヲ帯(お)ビ東北ニ少シク平地アルノミ運輸不便薪ハ餘アレトモ炭ハ乏シ

地味(ちみ)
 色赤或黄埴ヲ交ユ稲梁(とうりょう)ニ適シ麦桑ニ應ゼズ水利不便時々旱(ひでり)ニ若シム

税地
 田 四拾五町四反弐十四歩
 畑 四拾町四反九畝六歩
 宅地 壱町六反弐畝弐十九歩
 大縄場(おおなわば)【新たに開墾した土地の四囲を測量・検地し、およその面積を求めたもの】 弐十四町九反六畝四歩
 総計 百十弐町四反九畝三歩

字地
 長竹(ながたけ) 村ノ西隅ニアリ東西七町南北八町三十間
 沼下(ぬました) 長竹ノ東ニ連ル東西五町弐十間南北九町弐十間
 前谷(まえやつ) 沼下ノ東南ニ連ル東西九町三十間南北十六町弐十間
 下(しも)  前谷ノ東ニ連ル東西三町四十間南北十町三十間
 上(かみ)  下ノ西北ニ連ル東西八町五十五間南北六町三十間

貢租(こうそ)
 地租(ちそ) 金千三十七円八十一銭三厘
 賦金(ふきん)【わりあての金銭。県税】 金拾円四拾九銭六厘
 総計 金千四十八円三十銭九厘

戸數
 本籍 八拾四戸平民 社四戸 寺一戸曹洞宗
    総計八十九戸

人數
 男弐百六拾四口 女弐百三拾九口 総計五百三口

牛馬
 牡(おす)馬四拾貳頭

船車
 荷車一輛小車

山川
 滑川 深処一丈浅処三尺廣処五間狭処二間緩流濁水村ノ北方土塩村【塩村の誤り】ヨリ来リ東南端勝田村ニ入ル其間十一町五十間

湖沼
 三反田沼(さんたんだぬま) 東西五十間南北百弐拾間周回百七十間村ノ西方ニアリ
 五反田沼(ごたんだぬま) 東西百八十間南北三十間周回弐百十間村ノ西方【南方か?】ニアリ
 新沼(しんぬま)   東西百弐十間南北四拾貳間周回百六十貳間村ノ南方【西方か?】ニアリ

道路
 寄居道 村ノ東北【?】勝田村界ヨリ西方古里村界ニ至ル長三拾四町三間幅八尺
 □道  村ノ東方和泉(いずみ)村界ヨリ西方越畑村界ニ至ル長十三町廿五間巾三尺


 峰(みね)社  村社々地東西拾三間五尺南北拾三間五尺面積百弐拾五坪村ノ北方ニアリ祭神不詳祭日陰暦十月十五日
 六所(ろくしょ)社 村社々地東西十三間五尺南北十三間五尺面積百二十九坪村ノ南方ニアリ大山祇命ヲ祭ル祭日十月十五日
 手白(てじろ)社 村社々地東西十弐間三尺南北十六間一尺面積百五十弐坪村ノ中央ニアリ手白香姫命ヲ祭ル祭日十月十五日
 五龍(ごりゅう)社 村社々地東西九間南北十間面積七十四坪村ノ乾ノ方ニ在リ高□命ヲ祭ル祭日十月十五日


 宗心(そうしん)寺 東西三十一間南北五十一間面積千六百六十五坪村ノ中央民有地ニアリ曹洞宗中尾村慶徳(けいとく)寺ノ末派ナリ文禄三年(1594)元地頭折井市左衛門次忠開基(かいき)僧雲哲ヲ開山(かいさん)トス

事務所
 村ノ北方戸長(こちょう)宅舎ヲ假用ス

物産
 繭 拾石  楮 三百四十貫目  生絹(きぎぬ) 百六十疋(ひき)【布帛二反が一疋】
 薪 五百駄

民業
 男ハ農業ヲ専トシ女ハ農桑(のうそう)紡織ヲ専トス

  明治十五年(1882)七月編輯
           埼玉縣八等屬 三輪 正

右ハ当村由緒明治十五年(1882)ニ至リ密細捜索之上我等盡力編製之上縣令エ進達ノ後御下附候也
        比企郡吉田村
          筆生(ひつせい)【書記】
               藤野佐十郎∪
          仝
               藤野光五郎
          仝
               藤野喜一郎∪
               島田藤右衛門
          戸長
                鞠子萬右衛

嵐山町花の研究会発足 1997年

   女性だけの花生産組織
     埼玉・嵐山町花の研究会
      直売所が縁で結成
       出荷順調、産地化へ期待
 埼玉県嵐山町のJA埼玉中央嵐山支店では、JAの直売所が取り持つ縁で、女性だけの花の生産組織が産声を上げた。取り組むのは五十代の農家の担い手、二十二人。共同で種まき作業を行い、技術を学んでいる。市場と直売所への出荷も軌道に乗り、新たな花産地として地域の期待もかかる。
 この組織は、「嵐山町花の研究会」。発足は昨年(1997)六月。会員は野菜や切り花を栽培して、JAの直売所へ出荷する女性たち。直売所で顔を合わせるたびに「花を作りたいね」「それなら市場出荷しよう」「量をまとめるには一緒にやろう」と意見がまとまった。早速、ほかの女性に呼び掛けたところ二十二人が集まった。
 技術は、東松山農業改良普及センターがバックアップ。昨年(1997)十二月には、四人の会員がパンジー、ノースポールの花苗を市場に初出荷した。
 この(1998)三月には、瀬山和子さんの野菜ハウスを借りて、二百三十は子にマリーゴールド、サルビア、アゲラータムの三種類を種まきした。先月(4月)末にはこれを会員に配布し、今月中旬には市場出荷が始まる。
 瀬山さんは、野菜を市場と直売所に出荷していたが「新しいことに取り組みたい」と始めた。赤花のオダマキ、ガザニア、パンジーなどは市場でも高値で取引され、直売所でも売り切れるほどの人気。「咲き出すのが楽しみ。年三回の回転で出荷したい」と、新しい作物に期待も大きい。
 同JA直売所は一九八九年にオープン。生産部会の五十三人の会員は、女性と高齢者が主力。花苗は種類が多いのが特徴。今のシーズンはスズラン、ヒトリムスメ、ハタルブクロなどの草花のほか、食用のナスタチュウム、スイートバジルといったハーブ類も豊富。女性客にも「顔見知りになると、こちらから苗の注文ができるのがいい」と評判も上々。
 同JAの遠山尚支店長は「女性の生産者組織ができたので、これからは花きやはハーブの栽培に力を入れていきたい」と話している。
     『日本農業新聞』1998年(平成10)5月8日

県企業局 嵐山工業団地造成を予算案に計上 1987年

   テクノグリーン構想の“受け皿”
     県、嵐山工業団地を造成へ 規模は78.2ヘクタール
       新年度から買収 所要経費を予算計上
 県企業局は新たの工業団地として、比企郡嵐山町勝田地区に嵐山工業団地を造成する方針で、新年度から買収に取りかかることになった。このため所要経費を新年度予算案に計上する。産業の振興と雇用機会の拡大を進めるのが狙いで、県のテクノグリーン構想(先端産業などの誘致)の“受け皿”の一つとしても考えられている。

 計画されている工業団地の規模は七八・二ヘクタール(計画全体面積一〇五・一ヘクタール)。関越自動車道の下り線からみると、右側方面にあたる。都市計画法上は市街化調整区域。比企丘陵地帯に位置し、造成対象地の約八割が山林。農地は山あいに入りくんでいる谷津田(やつだ)が約十三ヘクタールある。水田の水源として使われている「ため池」も約十カ所所在している。公共開発のため農地転用許可はいらないことになる。
 計画によると、六十二年度と六十三年度の二カ年計画で買収を完了、併せて環境アセスメントの実施も終えるスケジュールを考えている。
 導入企業としては、金属製品、一般機械器具、電気機械器具、精密機械などを想定している。
 この工業団地造成については、六十年(1985)七月、地元に地権者協議会もできており、嵐山町とともに県、県企業局に開発要請をしている。
 現在、県企業局が造成中(買収中も含む)の工業団地は、川里(北埼玉郡川里村)、大利根(同郡大利根町)、川本(大里郡川本町)、羽生(羽生市)の四つ。このうち、川本、羽生両団地は本年度から買収に入っている。これに新年度から嵐山工業団地が加わり、五カ所になる。
     『読売新聞』1987年(昭和62)1月30日

   市街化町営区域の開発
     先端技術工場はOK
       19市町村で規制緩和
 市街化調整区域内の開発許可基準の見直しを進めていた県は二十九日、地域振興のため、先端技術型の工場、研究所の開発を許可できる地域に加須、鴻巣、北本、幸手市など十九市町村を指定した。来月二日から運用される。
 今回新たに開発が許可となるのは、第一、二種住居専用地域に隣接せず、開発面積が一−五ヘクタールの医薬品、通信、電子、光学器械やバイオテクノロジー、新素材などを製造、研究する先端技術型の工場や研究所。農業振興地域の農用地域や、治水、県土保全、環境保全上重要な地域などは認められず、市町村長の同意のほか、県開発審査会の許可も必要とされる。
 今回の指定町村は、県東北部から北部にかけての地域開発が望まれる地区で、先端技術産業や、学術研究機関の導入を目指している県の「テクノグリーン構想」の対象地域も多く、この開発規制緩和が地域振興に大きなプラスとなる期待は大きい。
 四市以外の指定町村は次の通り。
  越生、日高、滑川、嵐山、川島、鳩山、妻沼、岡部、川本、騎西、大利根、宮代、菖蒲、庄和町、大里村
     『読売新聞』1987年(昭和62)10月30日

テクノグリーン構想のエリアと構成市町村が公表される 1985年

   テクノグリーン 県が五エリア公表
     小川、都幾川は「比企」に
 都心から約五十キロ以遠の県北地域の活性化をめざすテクノグリーン構想の五つのエリアと構成市町村が【七月】二十九日公表された。
 比企、秩父、児玉、大里、利根の各地域テクノグリーンエリアで、構成市町村は計四十。希望は六エリア、三十四市町村から出ていたが、エリアについては別々に希望していた深谷市など五市町と熊谷など四市町村を、広域市町村圏計画などのからみで大里地域として一本化した。
 また、同様の理由で、小川町と都幾川、玉川、東秩父村が比企地域、行田市、南河原村が利根地域の構成市町村に加わったが、逆に希望を出していた鴻巣市、吹上町、川里村、越生町、名栗村は除外された。
 八月中旬から各エリアごとに行政や経済団体、学識経験者らによる構想推進協議会を設立し、協議会を中心に整備基本計画を作成、来年度以降、実施計画づくりを行い、手をつけられる事業から実施してー然と産業が調和する地域づくり地域資源を活用する産業の振興J9臈、先端的産業構造−などの総合的産業振興を図る。
 県商工部では、これまでの産業、都市機能の集積状況、今後の計画などから、比企には学術研究開発基地を考えている。

  テクノグリーン構想エリア
 比企地域:東松山市、滑川町、嵐山町、小川町、吉見町、鳩山町、都幾川村、玉川村、東秩父村
 秩父地域:秩父市、横瀬町、皆野町、長瀞町、吉田町、小鹿野町、両神村、大滝村、荒川村
 児玉地域:本庄市、美里町、児玉町、上里町、神川村、神泉村
 大里地域:熊谷市、深谷市、妻沼町、岡部町、川本町、花園町、寄居町、大里村、江南村
 利根地域:行田市、加須市、羽生市、騎西町、大利根町、栗橋町、南河原村

     『読売新聞』1985年(昭和60)7月30日

松くい虫被害は人災 大塚基氏

 松くい虫は天災でなく人災だと思っています。
 昭和54年(1979)から14年間の松くい虫との駆除の戦いは何であったのかを考えるとき、空しさを感じます。
 嵐山町では419ha、埼玉県では6379ha(蓄積で127万6298)の松林が15年ばかりの間にほとんど100%近くも姿を消し、かろうじて生き残った松が、かつての松林の中に申し訳なさそうに寂しく立っています。全国ではどれ程の面積の松林が、松くい虫によって姿をけしたのかと思うと恐ろしくもなります。
 そして一番に残念なのは、嵐山町の山林の半分ほどを占めていた優雅で気品のある風情を蓄えていた松林を、これからの子供たちに残して上げられなかったと言う事です。
 『松竹梅』と縁起のよい事の一番になっている松の本当の趣を、子供たちに教えて上げられなくなったと言う事です。
 しかし、それは人災だと思います。
 明治時代末期に九州で発生が確認されたとの記録がある中で、松くい虫の被害は徐々にひろがっていたとしても、急速に被害量が増えたのは昭和40年代後半になってからです。それは農村から若年労働力が他産業へと流出したことによって農林業従事者の高齢化が定着し、農山村のの過疎化が進んで、農林業の曲がり角と大声で叫び始められた頃からでした。
 林業従事者の減少は山の管理の放棄を意味したのです。
 それまでは山の手入れがゆきとどいて、松くい虫の媒介虫であるマダラカミキリの生息に適しない環境がありました。それに、山の手入れをしていたので枯れ松の発見が容易で、すぐに伐採してしまいました。竈等で燃やして冬場の燃料源、暖房源としていたので、松くい虫の蔓延を食い止めることができたのです。
 ところが、林業従事者の減少が始まった昭和30年代後半から、山の管理が放棄され始めました。ですから、10年の歳月を経て山の荒廃が進んだ40年代後半になると、急速な勢いで広がり始めてしまい、昭和53年度には日本全国で200万立方メートル(東京池袋のサンシャインビル約3杯分)という被害量が記録されました。
 九州、西日本を食い尽くして関東へも深く食い込んで来たのです。
 ですから、嵐山町で歯ぎしりをして松くい虫防除を頑張っても無理だったのです。
 しかし、それらの経過をたどってみると、明治時代からあったという松くい虫の被害に対して、行政はどのようにして対処してきたのか今更ながら考えさせられます。
 国から県までの何万、何十万、何百万人とも思える職員を使い、所有者まかせにするための難しい言い訳のための要領、要綱を作って、数え切れないほどのお金を使い、結局は押さえこむことのできなかった松くい虫。
 なぜに私が考えたように、日本の国の資源の防衛という考え方で、町民総動員とか、国家の一大事と考えて自衛隊などを総動員するとかで、奥深い山の中はヘリコプターで吊るってでも平地に持ってきて、焼却などの方法で100%の枯れ松の発生がなくなるまで、完全に処理して駆除すると言う考え方で対処できなかったのだろうかと悔やまれてなりません。
 3年も徹底した駆除が行われていたら日本の松も助かったかもしれません。それに、日本中で、無駄に使われた何百億だか、何千億だか、何兆だか分からない税金から支出された経費と、そこに携わった国、県、市町村の職員の手間を考えると、どれ程の無駄な経費が費やされたか、計算ができないほど大きな額だと思われます。
 そして、それらの事を考えると、言い訳のような計画が立案され、展開された結果だと思えるのです。
 ですから、やはり人災だと思えるのです。
     大塚基氏『嵐山町とともに』(2003年3月)529頁〜530頁


   松くい虫大暴れ 森林公園
     立ち枯れ昨年の倍
       被害拡大 民有林で駆除進まず
 松くい虫(マツノマダラカミキリ)によるマツの被害が一昨年(1982)以降、県内でも増え続け、県西北部を中心に立ち枯れが目立ち始めた。比企郡滑川町と熊谷市にまたがる森林公園では、被害の拡大防止と景観維持のため、切り倒した木がことし既に千四百本余りにもなり、昨年同期の二倍になった。公園周囲は民有林が多いため、駆除も効率良く進まず、「来年はさらに被害が増える可能性がある」と、対応に追われている。

 県農林課によると、県内の松くい虫被害は、木材量で五十六年度八千立方メートルだったのが、五十七年度一万三千立方メートル、五十八年度二万六千立方メートルと急増した。五十三年度以降大被害を受けた茨城、千葉県が沈静化に向かっているのに対し、被害の深刻さをうかがわせている。
 「関東地方では被害を受けた地域が海岸部分から内陸部分へと徐々に移っている。県内では四十九年(1974)に最初の発生が確認されてから、次第に増え続けた。ここ一、二年がピークと見ているが、予断は許されない」と同課。
 緑豊かな林での森林浴−を目玉にする森林公園にとって、松くい虫による被害拡大は、さまざまな意味で痛手となった。この虫は、公園の景観の中心となる大木から荒らすほか、枯れた木を放置すると、景観上の問題だけでなく、翌年の大量発生につながる。このため、樹幹へ予防剤を特別に注入したり、枯れ木を伐倒したりするなど、費用はうなぎ登りだ。
 三百四ヘクタールの園内には、約四十万本の松があり、枯れ木を切り倒して、焼却処分する作業も被害の速度に追いつかない。今年度末までに、伐倒する木は千九百−二千本になりそうだという。
 県林務課では、松食い虫の防除を補助し、被害を受けた地域全体の取り組みを呼びかけているが、大半が民有林で足並みがそろわないという。また、森林公園でも「防除は公園内だけの努力ではどうにもならず、周りにま枯れ木の伐倒など協力を呼びかけた。しかし、地主は東京在住など不在者が多く、思うように進まない」と嘆いている。
 松くい虫被害 マツノマダラカミキリによって運ばれる線虫「マツノザイセンチュウ」が、幹の表皮から入って木の樹脂道などを破壊、枯らしてしまう。マツノマダラカミキリは六月中旬から七月にかけ、前年の被害木からたくさんの線虫を体につけて羽化、新たな木を荒らす。防除は枯れ木の伐倒処分や薬剤使用があるが、薬剤の広範な撒布は他の動植物の保護との関係から、実施しにくい。
     『朝日新聞』1984年(昭和59)11月23日

   いま森は病んでいる
     松枯れ現象に悩む滑川町・森林公園
       食樹などで「森づくり」
         小・中学校に呼び掛け 全国で初の試み
 昨年一年間で約二万本の松が枯れるなど、森林被害に悩む国営武蔵丘陵森林公園(比企郡滑川町)は、今春から周辺や都内の小、中学校に呼び掛け「みんなの森づくり」運動に取り組んでいる。これは、同公園が失われた森林資源の再生を願い、もう一度、人間と森とのかかわりを見直してもらおうと始めたもので、今年が一回目。国営公園が、このような取り組みをするのは全国でも初めてで、モデルケースとして注目されている。

 森林公園は東西約一キロ、南北約四キロ、標高四十−九十メートルの丘陵地につくられ、四十九年(1974)に開園した。総面積は、西武球場(所沢市)の約五十七倍に当たる三百四ヘクタール。園内にはアカマツ、クヌギ、コナラなど約五百種類、八十万本の樹木が繁茂し、武蔵野の雑木林の面影を色濃く残している。
 ところが、五十四年(1979)ごろからアカマツなど立ち枯れる、松枯れ現象が出始めた。五十九年(1984)には、園内の松が約五千本枯れ、昨年(1985)は、その四倍に相当する約二万本が枯れた。
 原因は、松の木に入り、水分をくみあげる樹皮層を食い荒らすザイセンチュウが、マダラカミキリムシによって媒介され、森林内に大量に発生した。いわゆる松くい虫被害だった。
 しかし、同公園では、遠因にはアカマツの建築材としての価格が下落し、無用の資源として放置される傾向があり、それが被害拡大につながっているとみている。
 こうした状況を克服しようと同公園は、森の落ち葉を集めてたい肥にしたり、木を切って炭をつくるなど過去の歴史を学びながら、人間と森とのかかわりを子供たちに見直してもらおう、と植林を企画。同時に森の役割も再認識してもらえればと、枯れたアカマツ林の跡地に、アラカシとシラカシを植樹する「みんなの森づくり」運動を提唱、小、中学校に参加を呼び掛けた。
 その結果、今月末までに地元の滑川町や東京都練馬区内の小、中学校八校から五百十九人の参加があり、アラカシ、シラカシ合わせて約三百五十本を植樹した。

   「人間と森とのかかわりを見直して」
 森作りに参加した滑川町立福田小の子供たちは、植樹したシラカシが大きく育ち、ドングリの実をつけるのを楽しみにしている。都内練馬区から参加、スコップを手にしたのも初めてという小学生は「森の大地の中には、こんなにいろんな根がはえているとは知らなかった」と森の仕組みを実感した。
 国営公園が、このような森づくりに取り組むケースは全国で初めてだが、同園では、こうした子供たちの飯能に刺激され、今後も参加校を増やしていきたいとしている。
     『埼玉新聞』1986年(昭和61)4月21日

参照:美の国あきたネット「松くい虫被害の防除方法について」(http://www.pref.akita.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1136882769926&SiteID=0)

嵐山町の松くい虫被害の拡大 大塚基氏

 埼玉県における松くい虫防除事業は昭和48年度(1973)より実施されてきましたが、嵐山町では昭和51年(1976)4月16日に開所した県立嵐山郷敷地内において、昭和52年(1977)に枯れ松が12本発見されました。松くい虫なのか、工事による衰弱なのか否か確認できぬままに、嵐山郷の自主対応により焼却処分されました。
 ところが、昭和53年度をこえて昭和54年(1979)に入るとヾ惘杞眤道路工事中の越畑城周辺、古里の嵐山郷周辺、川島のモテル嵐山荘の敷地内の三か所から被害の枯れ松が発見されました。明らかに松くい虫被害木です。
 東松山農林事務所の担当は森田陽一郎技師、『そんでなんだいなあ』との話の中で、この三か所を嵐山町の一番最初に松くい虫が侵入して来た場所として位置付けました。
 そこで、私はいつも松くい虫の侵入経路の説明をするとき、関越高速道路工事中の越畑の城山付近、古里の嵐山郷敷地内の松くい虫は工事用の車の上か木材に付着してやって来て、川島のモテルの敷地内の松くい虫は愛をたしかめあうためにやって来た二人づれの車にのって来たのだろうと言いました。
 とにかく嵐山町の松くい虫はこの3地点から発生しました。
 嵐山町に松くい虫が入ってきたら大変なことです。松で覆われている嵐山町の山が空坊主になってしまいます。そこで、親しくしていた嵐山町4Hクラブと栗原弥之助さんにお願いして、被害木は全て伐採、消毒して処分しました。
 55年(1980)に入ると、鎌形の千騎沢橋の上流の都幾川沿いの上原の山にも松くい虫が発生して、4Hクラブに伐採、消毒してもらいました。
 そんな形で嵐山町4Hクラブと栗原弥之助さんに協力を願って、当初発見された関越高速道路工事中の越畑城山周辺、古里の嵐山郷周辺、川島のモテルの敷地近辺に松くい虫による被害木は見当たらなくなり、努力の甲斐があったと胸をなぜおろしました。ところが56年(1981)に入ると、昭和55年(1980)6月30日に竣工になった平沢の水道庁舎の周りに松くい虫による被害木が発見されました。工事にともなう松くい虫の侵入だったと思われますが、裏山深く食い込みはじめています。それに吉田の新沼の側の八坂神社のある山にも新たに発見されました。4Hクラブに依頼して昨年駆除した筈の鎌形の上原の山林からも発生しました。
 しかし、徹底的な駆除の実施という努力の甲斐あって、松くい虫の発生も無くなり、枯れ松もなくなりました。そして、綺麗になった古里の嵐山郷周辺の松林を見ながら「よかったなあ」と思いながら、北田地区の水田に接する江南町、川本町の山林に目を移したところが、枯れ松がいっぱいに並んでおり、愕然としてしまいました。
 そこで、気をつけて嵐山町に接する他市町村の山林を調べたところが、町境のいたる所に、松くい虫によって枯れたと思われる松が並んでいます。
 その様子をみて、嵐山町の山林の松くい虫だけを本気で駆除しても松くい虫は根絶できないであろうことをつくづくと感じました。事務的の行われている松くい虫対策に不安を感じました。
 55年(1980)に入ると県でも松くい虫撲滅のパンフレットを作り、56年には松くい虫被害立木防除指針を作って市町村に配布、松くい虫の防除を推進しました。しかし、効果は上がらず松くい虫の被害は急激な勢いで拡大するいっぽうです。
 そこで県では、昭和58年(1983)までは県の職員(農林事務所林務課職員)によって指導および関連事務一切を取り仕切ってきましたが、被害木の増大にともなって県の対応が困難となったので、各市町村の病害虫防除協議会の中に松くい虫部会を設立させ、埼玉県緑化推進委員会より補助金を各市町村の松くい虫部会へ流して所有者等との交渉を委託することを考えました。
 嵐山町においても、防除が追いつかない他市町村からの松くい虫の侵入にはお手上げを感じはじめていた昭和58年(1983)8月2日、中央公民館大会議室における林業研究会役員会に、農林事務所の中村専門調査員、磯崎技師が参加して、『県の指導による農林事務所を中心とした防除体制から、各市町村に松くい虫部会を発足させて、その部会を中心とした防除体制の確立の推進をはかることになったので、新たな体制づくりをお願いしたい』との説明がありました。
 そこで嵐山町では、58年(1983)12月5日に嵐山中央公民館大会議室において、嵐山町病虫害防除協議会の松くい虫部会の設立総会を開催し、規則の承認とともに補助金40万円を基礎とした予算、役員の決定を行い、駆除及び補助金の窓口として、松くい虫防除の推進団体を発足させました。そして、古里の緑を守る会、町内材木業者、土建業者の協力をえながら、何としても嵐山町から松くい虫を根絶しようと頑張りました。
 でも、松くい虫被害は、平沢の水道庁舎の周りと嵐山町の市町村界を起点として、昭和59年(1984)から嵐山町全域にわたって爆発的な発生となりました。61年度(1986)からは微害地域であった嵐山町も中被害地区となり、埼玉県病害虫防除事業実施要項に基づき、町において実施計画を作成しました。その計画書に基づいて町が事業主体となって行うことになりました。
 しかし、昭和60年(1985)を挟んだ2〜3年の間に、嵐山町の全体の山に広がってしまい手の付けようが無いほどになってしまいました。
 県からの松くい虫防除の補助金はそれから以後も続きました。被害木の増大にともなって県の指導も、松くい虫が嵐山町に侵入してきた当初は被害木を全部処理することが前提でありましたが、防除の内容も高速道路、国道等の主要道路周辺の公衆に目立つ場所を重点的にするようにとのお役所的ともいえる指導となり、駆除の場所については県の担当者の踏査により指導が行われるようにもなりました。
 でも、その経費たるや、嵐山町の予算を通って松くい虫に要した金額だけでも昭和54年(1979)から平成4年(1992)までの間に80,943,500円【八千九十四万三千五百円】になります。県が独自で行った関越道路沿いや嵐山渓谷の防除などを合わせると、1億円を大きく越えてしまうのではないかと思われます。
 私は、綺麗にした古里の嵐山郷の周りを眺めたら、北田地区の水田の向こうの江南町、川本町の山林にぎっしりと立ち並んでいる枯れ松が見えました。その時から、松くい虫にいくらお金をつぎ込んでも、行政側の単なる言い訳だけだと思うようになってしまいました。いくら補助金を注ぎ込んでも限界があると思うようになってしまいました。
 道路沿いの被害木ならば発見も簡単、駆除処理をするために運び出しても焼却等も簡単、そして完全に処理できますが、一歩山に踏み込んだ所では発見も困難ですし、駆除処理も完全とは言えません。奥深い山であるならば不可能にひとしくなります。
 そんな状態の中で、県が補助金を思い切り注ぎ込んでも、民間が勝手にやろうとしても、お金を溝にすてるようなものだと思うようになってきました。
 ですから、『日本の松』という資源を本当に守ろうとするならば、日本の国の資源の防衛という考え方を持つことが必要だと思いました。町民総動員で対応するのと同時に国家の一大事と考えて、自衛隊を総動員してでも奥深い山の中の枯れ木はヘリコプターで吊るってでも平地に持ってきて、焼却などの方策を講じて、松くい虫に侵されている枯れ松が一本も無くなるまで何年かかっても遣らなければ駄目だと思いました。そういう考え方で臨まなければ、絶対に松くい虫の被害を食い止めることはできないと思いました。
 ですから、県庁に行っても、農林に行っても、地元においても、あらゆるところで松くい虫の駆除方法は町民総動員で対応すると同時に、国家の一大事と考えて自衛隊を総動員すべきとの考え方をぶち上げていました。
 そんな話の中で、ちょうど山口敏夫元衆議院議員が労働大臣のころ、山口氏と懇意にしていた知人が「山口先生に話して閣議に取り上げて貰うようにお願いする」と言ってくれました。でも、その後なんの音沙汰も無かったと言う事は『政治の土俵の上では意味のない事柄』として処理されてしまったのであろうと思いました。やるせない思いにかられると同時に、本当に日本を愛している政治家ならば、私ごときが云々を言う前に、何十年、何百年かかって蓄えられてきた日本の貴重な資源である松の材積を、松くい虫によって消滅させない方策をこうずるであろうと思いました。
 そして、絶対に駆除しきれないであろうと思われる方法で、税金の無駄遣いとしか思えない方法での対応にやるせない思いに駆られました。
 しかし、その様な流れの中で、防除を推進していた嵐山町の松くい虫も、昭和47年(1972)3月調べで嵐山町のほぼ半分を占める419haあった純粋な松林を、昭和60年代にはほとんど食い尽くしてしまいました。
 嵐山町の山林に松の枯れ木が一面に拡がった様は何とも言えない惨めな山の風情を醸し出していました。
 そして、平成の時代に入ってからの数年は、朽ち果てた立ち枯れの松林が延々と続く状況が町全体を覆いました。一歩山林の中に足を踏む入れると、何百年もかかって二抱え、三抱えするほどに成長した素性の良い真っ直ぐな立木松が枯れて倒れています。それを見ていると、松が何かを訴えているような気がして、何とも言えない悲しみが込み上げてきました。
 松くい虫の防除事業もそんな状況を踏まえて、本来の防除から道路、家屋等に接する危険箇所の被害木除去と主要道路沿い、景観保全場所にある被害木の除去を目的にするようになってゆきました。
 そして嵐山町の松くい虫防除事業も平成4年(1992)をもって区切りとしました。
     大塚基氏『嵐山町とともに』(2003年3月)523頁〜527頁

   天然記念物ダウン
     小川の大マツ 松くい虫で指定解除
       初のケース

 樹齢五百年を超すアカマツとして、昭和十七年(1942)から県指定天然記念物となっていた比企郡小川町能増大杉の永昌時の大マツが、松くい虫の被害で今年(1985)一月までに枯れた。このため、県教委は一日、同マツの天然記念物指定を五日付で解除することに決めた。松くい虫被害での天然記念物指定解除は初めて。
 県教育局文化財保護課によると、永昌寺の大マツに松くい虫被害の兆しが見られるようになったのは五十八年(1983)。すぐに寄居林業試験場の指導で薬を注入していったんは持ちこたえたかに見えた。しかし、昨年夏、再び枯れが目立ち始めたため、枝の切除、薬の注入など三十三万五千円をかけて手当てをしたが、同年夏の暑さと水不足が影響したのか、今年一月初旬には木全体が赤く変色して枯れてしまい、回復する見込みもなくなったという。
 県指定の天然記念物となっているマツは神社の森なども含めて他に三件あるが、いづれもかなりの樹齢で、松くい虫にあえばひとたまりもないため、県教委などでは対策に頭を痛めている。
     『朝日新聞』1985年(昭和60)3月2日

   話のタネ 安産の“ご神木”ダウン
 昔から安産のマツとして比企地方に知られている同郡滑川町伊古の伊古神社(吉田茂宮司)境内にある「はらみ松」が松くい虫のために枯れてしまい、地元の人たちを残念がらせている。
 このマツは、本殿前にある樹齢五百年を超すアカマツ。同地方には、「お産の時にはらみ松の皮をはがして煎じて飲むと安産」という言い伝えがある。昔は、安産講というのがあって、相当広い範囲から“参拝”にくるご婦人が多かったという。最近でもマツの“ウロコ”の間に五円、十円などの硬貨がはさんである事もあり、根強い信仰が残っている。
 関係者が、松くい虫の被害に気がついたのは、昨年のこと。町の指導で薬を注入するなどして処置したが間に合わなかった。今年になって、木全体が枯れてしまった。結局、先月上旬に関係者が話し合って、根元から二十メートルほど残して切り倒してしまった。
 関係者は、「残念だが仕方がありません。まだ根元の部分が残っているので…」と言うが、さすがに残念そう。
     『埼玉新聞』1985年(昭和60)6月2日

武蔵嵐山駅橋上駅舎が完成 2002年

   橋上駅構想棚上げ7年 東上線・嵐山駅
     町、東武と交渉せず
   駅東区画整理同意の条件 地権者が反発
 三年後に完成が迫っている比企郡嵐山町の「嵐山駅東土地区画整理事業」で、駅前広場が計画されていながら、広場側から直接東武鉄道が利用できるめどが立っていないままになっている。町側は、線路に橋を架けることで鉄道利用者の便をはかる、としているが、地権者の組合員のなかからは「橋上駅ができるということで事業計画に賛成した。これではだまされたも同然」と反発する声が出ている。

 同事業は、東武東上線武蔵嵐山駅東側一帯の三十一・四ヘクタールに道路や公園を整備し、住み良い住宅地を造る目的で五十七年(1982)に事業認可された。事業主体は、地権者四百六十九人で作る組合で、総事業費は二十七憶五千万円。六十六年度(1991)に完成の予定で工事が進んでいる。
 橋上駅構想が出てきたのは四十九年(1974)。改札口は駅西側にしかなく、反対側の東側に住む人たちはう回して踏切を渡らなければならないため、この年に制定された町の第一次総合振興計画のなかにこの構想が盛り込まれた。その後、区画整理事業がスタートしたものの、駅東口開設の話がいっこうに進まず、昨年(1987)十二月十日、組合員たちが組合理事会の賛同を得たうえで、橋上駅建設促進の請願を町に提出した。
 これに合わせて理事数人が、町側に橋上駅化の進み具合を問い合わせたところ、五十六年(1981)四月、前町長名で東武鉄道に駅東口を開設してほしいという要望を一回だけ出し、これに対し、同年(1981)六月、東武鉄道から「跨線橋を考えているが、建設費用は全額町で負担願う」との回答があった。が、その後、町は七年間、東部側と具体的な交渉を全くして来なかったことが明らかになった。
 同町都市計画課では、「橋上駅は鉄道の施設なので自治体が金を出してつくるわけにはいかない。六十五年度(1990)の駅前広場完成に間に合わせるよう約一億五千万円の総工費をかけ、二カ年計画で跨線橋をかける予定」といっている。しかし、組合理事の一人は「駅東口が開設するということで当時、地権者から同意を集めて回った。これまで町が東武との交渉をすべて任せてくれ、といってきたから、当然、交渉が続けられていると思っていた。これでは、地権者にどう責任を取ればいいのか」と憤慨している。
 また、こうしたなかで、組合理事長の関根昭二町長が、「町長と理事長を兼務しているから橋上駅化が進まない」という組合理事からの指摘に憤慨、辞意を表明して一カ月以上も組合理事長の任務を放棄した末、今月十三日一転して辞意を撤回するという事態も起きている。
 関根町長の話 区画整理事業の開始前、将来は橋上駅をつくらなければ、と町が地権者に説明したのは知っているが、要望が出てきたのは最近。東武と交渉してこなかったのは、客観情勢が整っていなかったからだ。
     『朝日新聞』1988年(昭和63)4月19日

   念願の東西連絡通路が開通!
     5月30日に渡り初め
 町民の念願であった駅構内の東西連絡通路が完成し、【1990年】5月30日に開通式が行われました。
 午前十時、町長・議長・区長会長によるテープカットが行われ、引き続き、菅谷小学校卒業生による鼓笛隊の先導で参列者全員がつぎつぎと渡り初めをしました。
 なお、この東西連絡通路には、いままで分断されていた新・旧両市街地住民の交流を活発化させる場として、町民ギャラリーが設置され、今後町民の広場として利用されていくと思われます。
   東上線武蔵嵐山駅東西連絡道路概要
     建築場所 埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷東上線武蔵嵐山駅構内
     建築面積 557.8平方メートル
     構造   鉄骨造2階建
     事業費  164,800千円【1憶6480万円】
     着工   平成元年(1889)12月16日
     完成   平成2年(1890)5月24日
          『嵐山町報道』第385号 1990年(平成2)6月30日

参照:『東上沿線 今昔物語』「東上沿線 車窓風景移り変わり(第23号)」 No.26武蔵嵐山駅北側の思い出(http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/konjaku-23.html)

飯能市・嵐山町 県民休養地基本計画まとまる 1981年

   飯能、嵐山の県民休養地
     57年度から建設へ 県が基本計画

 県立奥武蔵自然公園内の飯能市と比企丘陵自然公園内の嵐山町に県が建設を予定していた「県民休養地」の基本計画がこのほどまとまった。
 昨年秋の候補地決定以来、計画検討委員会(会長・国立公園協会池ノ上容理事長)や、県庁内の事業推進連絡会などで検討を続けてきたもので、県では今後、地元との事業分担協議を進め、十月中には実施計画を決める。「五十七年度から建設にかかるが、七カ年継続事業の予定で建設が終わった施設から順次開放する」と県環境部は説明している。
 「県民休養地」は自然との触れ合いがねらい。今回まとまった基本計画によると、飯能市の場合は、奥武蔵自然公園内の約百五十ヘクタールが計画対象面積で、市内を流れる入間川の左右両岸沿いに地形を生かした「丘陵型」「河川型」の施設を設ける。
 主な施設は水遊び場、釣り場、植物展示場、ホタルの谷、キャンプ場、スポーツ施設、カブト虫の森、自然探勝路など。春から秋のシーズンに約六十五万人の利用を見込んでいる。県自然保護課では、国民宿舎はすでにあるし、飯能河原も水遊び場としてよく知られているので、今回は両岸を結ぶつり橋の建設や、上流の吾妻峡も水遊び場として整備する、としている。
 また、嵐山町の方は比企丘陵自然公園内の約四百ヘクタールが対象。やはり地形にそった「丘陵型」「河川型」「田園型」の組み合わせで、町内を流れる都幾川と槻川に沿っている。
 その主なものは国民宿舎、歴史の広場、スポーツ施設、水遊び場、釣り場、ホタルの里、バッタの原っぱ、キャンプ場、国チョウのオオムラサキを育てるオオムラサキの森、野鳥の森、自然探勝路などで、春から秋にかけ約百六十万人の利用を見込んでいる。
 同地区には、すでに国立婦人教育会館、県立歴史資料館などがあり、「県民休養地」の建設は一層町のイメージアップに役立つ、と地元でも歓迎している。
     『朝日新聞』1981年(昭和56)9月3日

   県が「オオムラサキの森」
     嵐山渓谷に楽園を復活
 各地で絶滅が心配されている『国チョウ』のオオムラサキを保護、増殖するため、県はことしから『オオムラサキの森』づくりを始める。
 オオムラサキは、昭和三十二年(1957)日本昆虫学会で『国チョウ』に撰ばれた世界に誇る日本の代表的な大型チョウ。雄の羽は濃い紫色に輝いている。二十数年前までは全国の各地でその優雅な姿を見せていたが、最近ではめったに見られなくなった。すみかのクヌギやエノキの茂った雑木林が減ったためだ。
 県の『オオムラサキの森』の予定地は『昔は(国チョウが)いっぱい飛んでいた』という、嵐山県民休養地の中の嵐山渓谷近く(比企郡嵐山町)。
 ことしは予定地の自然状況を調査し、十年がかりで、クヌギやエノキを移植、卵をフ化、増殖させてオオムラサキの楽園復活を目指している。
     『埼玉新聞』1982年(昭和57)2月3日

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