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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2009年02月

嵐山町 町民文化大学開講 1981年

   安らぎの里づくり推進
      まず町民文化大学
     講演や歴史、焼き物講座
 心豊かな安らぎのある猯い鼎り瓩鯡椹悗靴討い詒羇觀翰鮖劃は、その第一弾として「町民文化大学」を開講する。市町村が独自でこうした構想を進めているのは県内でも初めて。同町では、この新企画を足場に、自然、歴史、公共施設の三本柱による爐垢个蕕靴ぅラが里瓩鮗存修気擦燭い板イ蠕擇辰討い襦

 同町では、さる五十四年(1979)九月、住民、文化団体、学識経験者らメンバー二十人で「嵐山町文化行政懇談会」(簾藤惣次郎代表)を結成、里づくりについて協議した結果、「美しい自然」「ゆかしい歴史」「近代的な公共施設」という嵐山町の独自性を生かした里づくりを推進することにした。
 美しい自然と環境では‥坿川、槻川をきれいにしホタルの里をつくる∋海△い亮消呂縫轡腑Ε屬鮨△┐凸晶蠅鬚弔るなど。
 ゆかしい歴史では―澱藝廖¬攸湘損安綺廚魍く鎌倉街道を整備し、笛吹峠から将軍沢の窯跡群へ通じる猯鮖砲瞭鮫瓩鯊い覘菅谷館跡、杉山城跡を整備して城跡公園にするなど。
 公共施設では,佞襪気畔眛察関東遊歩道を結んだ拠点に文化活動の宿泊施設をつくる古い民家の移築保存などそれぞれ具体的な構想を打ち出した。

  来月、松本清張氏招く
 この構想に基づく里づくり推進の第一弾が「町民文化大学」の開校。来月、作家松本清張さんを招いて「古代史と私」と題した講演会を開くのを皮切りに来年二月まで必修コースとして「里づくり教養講座」、さらに選択コースとして「歴史講座」「焼きもの講座」「女性講座」「健康講座」を毎週土、日曜日に開くことにした。町民が一体となって里づくりのボランティア精神を養い、学習の場を通じて嵐山町を愛する心を養っていこうというねらい。魅力ある里づくりを町ぐるみで進めていくとしている。
     『読売新聞』埼玉県北版 1981年(昭和56)5月21日

十周年を迎えた町民文化大学 1990年

   「里づくり」は「人づくり」
     十周年を迎えた町民文化大学
 もののゆたかさから、心のゆたかさを求めて私たちの生活は変ろうとしています。
 一人ひとりが人間として尊重され、健康でいきがいのある明るい生活ができることと併せて、嵐山町ではふるさとの限りない発展を願い「文化をはぐくむ町」を一つの目標としています。
 昭和五十六年(1981)二月に嵐山町文化行政推進委員会により、「里づくり文化構想」の実現をめざしてその方向と提言がまとめられました。
 大きな柱としての町民文化大学が同年(1981)六月二十一日、国立婦人教育会館を会場に開講されました。
 本年、十周年を迎えるに当って、原点を探りながら現状を把握し、さらに二十一世紀に向けての将来像を考えようということで、「ひろげよう十周年の成果を」をテーマに、パネルディスカッションが開催されることになりました。
 町民文化大学の十年を踏まえながら取材してみました。

  大学草創期
 十一月十一日勤労福祉会館において、パネルディスカッションにさきだち、「町民文化大学のあすを考える」と題して、町民文化大学運営委員会会長の開発欣也氏の基調講演が行われました。
 嵐山町には、すでに培(つちか)われた教育の土壌があったこと等、氏のゆたかな学識と真摯な語りで、大学の草創期の説明がありました。さらに町民文化大学の十年の歩みと現状が述べられました。
 昭和五十六年(1981)六月二十一日「町民文化大学」は町民の資質の向上をはかり、嵐山を知り、嵐山を愛し、人と人とのふれあいを大切にし、自治と連帯によってゆたかな里づくりを進めるという主旨で開講されました。
 コースは、必修と選択に二つに分かれ、必修コースの講師として、当時の婦人教育館館長縫田曄子氏や、元文部大臣永井道雄氏らの名が見られます。また、選択コースでは、女性講座に女性として初めてエベレスト登頂に成功した田部井淳子さん、健康講座にはマッサージ実習など、有名人や特色のある講座がもたれています。
 「里づくりボランティア精神」の涵養(かんよう)にも貢献できるものと期待された様子が、当時の報道二九九号に見られます。

  十年のあゆみ
 十年の経過を、開催された講座でたどってみますと、歴史、焼きもの、女性、健康、ふるさと、文学、音楽、俳画、読書、コミュニケーション、太極拳の十一講座です。
 のべ受講生は二千三十九人となります。因(ちな)みに、開講時の受講生は二百六人、平成二年度は二百十一人です。
 規定の修了認定を受けた人は、平成元年度までですが、六百七十四人(うち男性八十人)となっています。

  別表
 年度 受講生 男  女 中央部 南部 北部 町外
昭和56  321 112  209  261  13  38   9
  57  129  35  94  111   8   8   2
  58  139  48  91  123   2  10   4
  59  131  29  102  106  10  13   2
  60  127  19  108  113   4   8   2
  61  144  18  126  122   5  12   5
  62  143  23  120  130   5   6   2
  63  206  36  170  171  10  22   3
平成元  243  29  214  220   4  10   9
  2  211  25  186  191   4  12   4
 計   1794 374 1420  1548  65  139  42
           町民文化大学運営委員会提供
            ※昭和56年度は申込者数

 つぎに受講生を地域的に見ますと別表のような状況です。
 人々が自主的に学習したいと思う時、会場が近いとすぐに利用できますが、一方では遠隔地のためという地理的条件が問題にもなっているようです。
 大学の特長としてはつぎのようなことが定着しています。
一、目標を「里づくり」におき、実施の母体は町長部局においたこと。(社会教育との基本的な相違)
二、運営委員十名によって企画から運営まで委(ゆだ)ねられていること。
三、波及効果として新しい文化活動が生まれたこと。
   例えば、「焼きもの同好会」(焼きもの講座)「歩こう会」(健康講座)「俳画教室」(俳画講座)「太極拳同好会」(太極拳講座)等。

  ひろげよう十年の成果を
 十周年記念としてのパネルディスカッションでは五名のパネラー(受講生)から体験発表がありました。
 受講の理由や、学習が自他にどう生かされているか、また、町民文化大学の原点である「里づくり」を語り合い再確認した場面もみられました。
 会場の受講生からも活発に意見が出されました。
 情報社会に対応するために情報を処理する意欲や能力を身につけることの必要性を実感していること、ドイツ統合や、米ソ関係の氷解など思いがけない時代の流れを目のあたりにして、地球人として世界的な広い視野からの見方、考え方が求められている、という切実さの中に、時代に合ったカリキュラムを望む声もありました。
 また波及効果としては、同好会どまりにしないで、町の内外にPRしてほしいという要望も出されました。
 十一月三日の文化展や、東松山市で行われるスリーデーマーチに嵐山町の「歩こう会」として参加してほしいなど、具体的な提言や、話し合いが行われ、初めての試みとしては有意義なパネルディスカッションでした。
 当日の司会者でもあり、運営委員歴十年の武谷敏子さんに、十年を振り返ってのお話をうかがってみました。

 『開講当初は、ちょうど犢駭婦人の十年瓩涼羇崘ということもあって、選択コースに女性講座を設けて婦人問題をとりあげたということもありました。歴史のひと齣(こま)になりましたね。
 町民文化大学が、よそから講師や、パネラーを呼ぶこともなく、いわば身内だけで今回のようなパネルディスカッションを開くなんて、……十年たったんだなあと改めて思います。
 特にこの十年は、昭和から平成へと日本の歴史は勿論、想像もつかない早さで世界の状況は変ってしまいました。
 いまや政治も経済も、すべて地球レベルの視点が必要になっています。
 私は町民文化大学を町民教育の場と捉えたいのです。
 町をよくするためには、町民の一人ひとりが意識を変えることにあると思っています。
 私達の生活は、どれひとつとっても政治につながっているわけですから、政治をよくしてこそ地域社会がよくなるのであって、そのために町民の学習の場が必要だし、それがまた重要な役割を果たすことになると思うのです。
 町民文化大学は、企画から運営まですべて民間の自主性に委ねられていて、行政主導型とは違うわけです。だからこそ町民教育の場と考えたいのです。
 いずれにしても十年とは長いようですけれど実際には考えたことの半分も実現できませんでした。』

 教育は一朝一夕に成果の見えるものではありません。ゆたかな心を持ち、たくましい人間であるために「物ごとの本質を見極め、真理を求める心」「人を思いやるやさしい心」「他人と協調して仕事のできる能力」「より高い価値を求め、自ら生きる目標の実現に努める態度」など、個人の資質向上によって、自己実現していく地道な努力が必要です。その上に「里づくり」構想を図るために基礎をさらに充実発展させ、新しい文化を興し、中断することのないよう長期計画が必要だと思います。
 以上を実現するためには核となる運営委員の研修は欠くことができません。

  生涯学習との共生
 嵐山町でも生涯学習推進のための取り組みが、いよいよ本年度から展開されます。
 そこで独自の理念を持つ町民文化大学が、社会教育や民間主催のカルチャー教室などと、どう共生していくかが今後の大きな課題だろうと思われます。
 信頼と連帯に満ちた「里づくり」をめざして開講されるものである以上、それらの成果は、常に学びの場から生まれるものであり、帰するところ絶えざる自己啓発が肝要であるという以外にはありません。
 本年度最後の講義は、十二月二日、十周年のしめくくりにふさわしく、町民文化大学の生みの親でもある前町長の関根茂章県教育委員長の講演です。
 演題は「次代に期待するもの」が予定されています。
     『嵐山町報道』390号 1990年(平成2)11月29日

地域振興特別整備事業が一巡 1982年3月

   地区の生活環境改善に貢献
     地域振興特別整備事業が一巡
            コミュニティづくりにも一役

 第一次地域振興特別整備事業が終了しました。この事業は身近な生活環境施設を整備し、快適な居住環境を作ることを目的として、昭和五十二年度から五十六年度まで(1977年4月〜1982年3月)までの五カ年計画で実施され、昨年度調整区域の各地区を一巡しました。
 生活関連道路の改良舗装、集会所建設などに地区が実施主体となり、これに町が補助金を交付するという方法で事業が進められました。補助額は集会所建設事業では、工事費、備品購入費の二分の一補助で、限度額はそれぞれ五百万円、五十万円となっておりました。しかし、集会所を建設した四地区全てが限度額いっぱいの補助金を受けました。
 この事業の特徴は、地区が実施計画を立て、地区が実施主体であるということです。
 確かに、今まで車が通れなかったような道路が改良舗装され、物理的な生活環境が以前に比べ見違えるほど便利になったことは事実です。
 しかし、地区にあるいろいろな要望を一つにまとめ、自分たちの地区の事業を何にするかといった地区住民の話し合い、触れ合い、いわゆるコミュニティづくりという精神的な面での果たす役割も見逃せません。
 五十七年度から新たに第二次地域振興特別整備事業が始まりましたが、このコミュニティづくりの輪をいっそう広げるものとなっております。

  鎌形地区は集会所を建設 56年度
    大蔵地区は道路改良に 56年度
      勝田地区も道路改良に 53年度

     『嵐山町報道』306号 1982年(昭和57)4月25日

菅谷婦人会の今昔 1983年

 現在活躍している菅谷婦人会は昭和二十六年(1951)二月に設立されました。
 戦後の男女同権のもとで、婦人の地位向上が叫ばれ組織的活動の機運は高まりつつあったが、当時村の教育委員の助力もあって、村内各字からの代表四・五名ずつと青年団女子部や小中学校の女教師に呼びかけて設立準備委員会をつくり、村内を一団にまとめたようです。
 当時の活動は戦後の子どもの教育に関心が強く、母親と教師の話し合いや、栄養料理の講習、冠婚葬祭の簡素化などの生活改善にも力を入れ、新しい時代への脱皮を計りました。また資金づくりの為、運動会に売店を開いたり、会員から七、八圓里気弔洌鬚隆麌佞鮟犬瓩毒清┐愬笋蝓△修梁絛發鷲愎猷颪隆雍發箸靴童什澆飽き継がれております。

  婦人教育会館オープンを機に再出発
 三十四年(1959)には愛育会活動も始まり意欲的に取り組んだが、忙しい農業の合間を縫っての活動、加えて各字からの交替制による役員の選出等々、なかなか思うにまかせぬ状況もあってその後休会となりましたが、三年後の四十五年(1970)には、また各方面に呼びかけ新会員を募りました。地元に国立婦人教育会館設立をきっかけに再出発し、現在の婦人会の基礎を作りました。
 菅谷婦人会は、設立間もない頃より、全国地域婦人連合会に加入し、現在比企地区の連合会長も兼ねて活躍しておられる現会長に、菅谷婦人会の現在についておききいたしました。
 「地域的には、菅谷9区、平沢上原地区、川島の十一支部で、会員数二四五名の特徴は、農家・商家・勤め人、新旧の住民と、環境的にも、年齢的にも(二〇代〜七〇代まで)幅広い層が含まれているということでしょうか。」

  バザー・議会傍聴も
 「活動は本部三役・文化部・レク部・体育部の正副部長、十一支部の各正副部長が、会員の希望を入れた自主的な年間計画を立て、月一・二回の行事を行います。最近は講演会、議会傍聴等の希望も高まっております。定着した行事の一部に、<チャリティバザー>ボランティア活動として、毎年一回開催、収益の全額を、町の福祉協議会へ寄付。<水泳教室>婦人教育会館の温水プールを利用し五年間続けてまいりました。今後は自主グループとして独立しますが、婦人の健康のため永く続くよう祈っております。
 地域ぐるみの問題として、子供の健全育成が切望されております。今年は文化活動の一つとして、吉岡たすく著『親のつとめって何だろう』を全員で回読し、助言者をお招きして、話し合いの集いを計画しております。住みよい地域づくりの為にも会員一人ひとりの自覚をたかめてゆきたいと思います。」(報道編集委員 伊東・加藤記)
     『嵐山町報道』315号 1983年(昭和58)7月30日
      参照:『嵐山町報道』で「婦人のページ」が始まる
      参照:
菅谷婦人会会則 1960年(昭和35)
     

菅谷地区婦人会会則 1960年4月

  第一章 名称 目的事業
第一条 本会は菅谷地区婦人会と称し事務所を菅谷村役場若しくは菅谷小學校に置く
第二条 本会は会員相互の教養を昂め日本婦人の美徳を高揚し民主主義にもとづく文化生活の実現をはかり明るい村の建設に寄与する事を目的とする
第三条 本会は前条の目的を達成するために左の事業を行う
  一、講習 談話 実習 座談会の開催
  二、慰安 娯楽等に関する集会の開催
  三、家庭生活並びに社会生活の改善向上に関する運動
  四、青少年の指導と不良化防止 孝子節婦*の表彰
  五、婦人会特に寄与せられた篤志家への感謝と表彰
  六、その他 本会の目的達成に必要と認められる事業
  第二章 会員組織
第四条 本会は地区内に居住する成年 婦人及び有志を以て組織する
  第三章 会員組織
第五条 本会には左の役員を置く
  一、会長  一名
  二、副会長 二名
  三、理事  若干名
  四、出納係 一名
  五、監事  二名
  六、幹事  若干名
  七、評議員 若干名
  八、顧問  若干名(村長 教育委員 公民館長並びに婦人団体に理解をもつものの中よりすいせんし会長これを委嘱する)
  九、レクリエーション係 二名
第六条 本会の役員の任務は次の通りとする
  一、会長は本会を代表し会務を総理する
  二、副会長は会長を補佐し会長事故ある時その職務を代行する
  三、理事は理事会を構成し会務執行に必要な事項を審議し各種事業の企画等について協議する
  四、出納係は会計をする
  五、監事は本会の会計を監査する
  六、幹事は会長の命を受け事務をつかさどる
  七、評議員は理事会の諮問に応じ意見を述べる
  八、顧問は会長の諮問に応じ意見を述べる
  九、リクリエーション係は会長の命を受けリクリエーションに必要な一切の事を行う
第七条 本会の役員選出方法は次の通りとする
  一、理事は部落別にすいせんし会長之を委嘱する
  二、会長副会長は理事会のすいせんにより総会の承認を得るものとする
  三、監事は会員中より理事会の承認を得て会長之を委嘱する
  四、評議員は(元会長副会長の内より)理事会の承認を得て会長之を委嘱する
  五、顧問は理事会の承認を得て会長之を委嘱する
  六、幹事 会長之を委嘱する
  七、リクリエーション係は理事会で選出し会長之を委嘱する
第八条 本会の役員の任期は一ヶ年とする 但し重任を妨げない 補欠による役員の任期は前任者の残任期間とする
  第四章 会議
第九条 本会の会議は総会及び理事会とする
    会議はすべて会長が招集する 但し理事の三分の一以上の要求があった場合会長之を招集しなければならない
    議案は出席会員の過半数を以て決する
第十条 総会は本会の最高決議機関で毎年一回これを開き予算決算その他の議案について協議決定する 但し必要に応じ臨時総会を開くことが出来る
第十一条 理事会は必要に応じ臨時開催し事業の執行について協議する
  第五章 会計
第十二条 本会の経費は篤志家の寄附金会員の会費及びその他の収入を以てこれに充てる
第十三条 会費は当分の間年額(金  )とし二回に納入することが出来る
     但し家庭に止むを得ない事情のある場合には会費を免除することが出来る
第十四条 本会の会計年度は毎年四月一日に始まり翌年三月三十一日に終る
  第六章
第十五条 本会には左の帳簿書類をおく
  一、会則要書綴  二、会員名簿  三、役員名簿
  四、金銭出納簿  五、記録簿   六、貯金通帳
第十六条 各地域毎に支部を置く
第十七条 本会会則の変更は必ず総会の議決を経なければならない
第十八条 本会は会員に対し各項に該当する場合慶弔の意を表す
  一、長期病気  一、罹災 一、脂肪 一、本会の発展に功労あったと認めるもの
  一、その他
第十九条 基本金は毎年積立るものとしその利子も併せ基本金に繰入れ積立てておくものとする
第二十条 本会則は昭和三十五年四月 日より施行する

*「節婦」(せっぷ)は「節操をかたく守る婦人。貞節な女性。」(大日本国語辞書)

参照:菅谷婦人会の今昔 1983年

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言

   私は墨田の鐘紡工場から派遣されてきた

 私は昭和12年(1937)に結婚しましたが、その頃は炭屋と氷屋をやっていました。そのとき徴用で墨田にある鐘紡の工場に入ることになりました。工場に行ってみると道の右側は紡績工場で女工さんばかり、左側は男ばかりでエンジン工場でした。当時、鐘淵ディゼルという言葉は使っていました。
 当時、川口に本社にある鐘淵ディゼルは船のディゼルエンジンをつくる工場でした。東京の墨田にある鐘淵の工場でも川の淵にエンジン生産の工場をつくって生産を始めたので、私はそこに徴用されたのです。私がその墨田にある鐘淵の工場からこちらに来たのは、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の前ですね。3月7日か8日頃です。嵐山に、川口からは偉い人がずいぶん来ていました。墨田から来たのは私の他は小林さんだけでした。
 小川町に現地本部の事務所がありました。その小川町には宿舎があって、朝鮮人は小川駅の前などにもかなりいました。私は資材を配る仕事で嵐山の方が中心でした。この辺では朝鮮人は山の木を伐り、工場の基礎造りをしていました。

【1996年9月11日・話者:嵐山町平沢S・K氏(1909年生まれ、87歳)・聞き手:石田貞】

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言
    戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言

   神中組などの朝鮮人

  娘の葬式に朝鮮人も多数が来てくれた
 私の娘が1年と3ヶ月で亡くなり、葬式をしたときの「貴美子葬式控」があります。それを見ると朝鮮の人も多数来てくれたのが分かります。
 私の家の裏に神中組の三組の飯場がありました。金山、真山、立川の飯場です。公会堂にも朝鮮人が泊まっていて、安田文太郎さんが親方でした。私の家は一間を安田さんに貸していました。そこに安田さん夫婦と双子の子どもの4人がいました。安田さんは、食事は私たちとは別にしていました。外に下屋を出して、そこで炊事をしていました。風呂はうちのを使いました。飯場の人は公会堂でやっていました。それらの割り振りは役場とおまわりが来て強制的でした。その他、お寺、公会堂、大きい家は半強制的でした。家賃は、私のところは親方が入ったので月50円でした。他よりいくらかよかったようです。金寧武弘は公会堂の南に突き出したところに住んでいました。岩本周吉は河井信太郎さんの家にいました。村上仙太郎は隣の内田与一さんの家にいました。神中組、林飯場、金山相駿、公会堂の平沼健次郎、この人は安田の部下です。安田飯場一同、真山飯場の白川與捨、真山又英、これらは同じ飯場です。
 これらは葬式に来てくれた人の飯場名や朝鮮人の個人名です。娘の葬式に多くの朝鮮人が来てくれたのです。当時、平沢では大きい家、平沢寺(へいたくじ)、不動様、公会堂などに朝鮮人が泊まっていました
 結局、立川、真山、金山の三人が神中組の親方で、飯場を持っていました。米など、幾人いるのかわかりませんが俵で運んで来ました。立川は飯場が奥だったのであまり付き合いはありませんでした。平沼健次郎は安田の従業人で、よい人でした。安田さんは私の家に泊まっていましたが、神中組ではなかったようです。安田さんの方が早く先に来ていて、幾月か経ってから神中組が来たのです。

  神中組は平沢二区でトンネル掘りをめざした
 神中組の元は小川町にあり、そこから三つの飯場の人たちが来たのです。平沢に半地下工場をつくりに来た人たちより、神中組は3ヶ月くらい遅れて来ました。したがって平沢の谷津で工事をしている藤本さん【平沢の谷津で半地下工場の建設を仕切っていた朝鮮人】などとは別でした。公会堂には10人くらいいました。
 仕事の現場は平沢二区のトンネル掘りで、コミュニティセンターの向こうの工事場です。やがて地下トンネルを掘り、志賀の方からも掘ってきて、つなげる予定だと思います。公会堂の人たちは向こうから、神中組はこちら側から掘り、こっちの方が工事は進んでいて、やがてトンネルを掘るというときに戦争が終わってしまいました。志賀の方にも朝鮮人はかなりいました。工事ではトラックは全然使っていません。トロッコの線路を引いて運び出していました。
 志賀の高橋材木屋の谷津にもトンネルがあると聞いています。神中組が飯場を造る時の材料は志賀の高橋金造さんの親父さんの所からのものもありました。
 飯場は、田圃に金山飯場、その後ろの山を切り開いたところに真山飯場、その後ろに立川飯場とつくられました。飯場のところには井戸も掘りました。各飯場に何人くらいいたか、10人から多いところで20人くらいいたと思います。米の配給は小川町から2俵か3俵積んできました。飯場は、間口が6間くらい、奥行き3間くらいはありました。中は大部屋ですが、世帯持ちは区切ってありました。三つの飯場とも朝飯を食べて、8時か8時半にぞろぞろ穴掘りなどの仕事に出かけるのをよく見ました。昼は食べに来て、1時頃にまた仕事場に帰りました。話してみるとみんないい人でした。根っからの土方の人は少なかったようです。東京あたりからやむをえず来た人が神中組には多かったですね。世帯持ちも3,4組いました。
 戦後、安田さんたちは早く帰って行きました。安田さんは30歳くらいでした。

【1996年9月9日・話者:嵐山町平沢W・U氏(1916年生まれ、80歳)・聞き手:石田貞】

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

嵐山町議会議員定数24名となる 1983年

   昭和五八年第二回定例町議会【1983年6月29日〜7月1日】
 ○嵐山町議会の定数を減少する条例(案)の提出について
                     提案者 中島源之議員
                     賛成者 恒木重議員
                      〃  三村泰明議員
                      〃  長島崇議員
 これは嵐山町の議会の議員定数を現行の二六名から二名削減して二四名にし、次の一般選挙から適用しようというものである。
 提案理由は、
 一 財政窮迫が叫ばれている今日、少しでも財政削減を考えるべきである。
 二 全国の町村の八六%が減数している。
 三 選挙制度調査委員会が公聴会で意見を聞いた結果、定数を削減すべきであると発言した人たちが過半数をしめた。
 四 員数を考えた時常任委員会は四委員会制を考えると最低六名定員が必要であり、二名削減が妥当であると考えるむねの説明がなされた。
 これに対して質疑がなされ、財政問題と議会制民主主義を守る問題をどうとらえるのかに質疑が集中した。
 採決にさきだち討論が行われた。最初に反対討論が根岸豊議員より行われた。
 反対理由として
 一 現在の議員定数は地方自治法という法律の中できめられた人数で行っており問題はない。
 二 行政改革や財政問題は別の問題であり、そのことに取りくむならば特別委員会をつくりその中で検討すべきである。
 三 昭和五三年(1978)に今まで減少していた条例を廃止して人口増加と住民意識の反映を理由として二六名の定数に全員一致で成立したものを費用の点だけで議論すべきではない。
 四 今回減数条例がでたことに対して議員みずから反省して住民と密着した活動を行い、町政に反映することができるならば解決できる問題であると考える。
という反対討論がなされた。続いて賛成討論を中島酉造議員が行った。
 賛成の理由とし
 一 選挙制度調査委員会の答申は尊重すべきである。
 二 隣接市町村でも多くが減数している。
 以上の賛成討論がなされ採決にうつった。採決にあたって冨岡一夫議員を代表者として「無記名投票とされたい」という文書による要望がだされ無記名投票による採決の結果、
  賛成 一八票
  反対  七票
 以上の結果、原案のとおり可決成立し二四名とすることになった。
     『嵐山町議会史』(嵐山町議会史編さん委員会、1987年3月発行)346頁〜348頁
      参照:
嵐山町の議員定数 削減、現状維持? 1983年

志賀二区自治会 県のコミュニティ推進地区に指定される 1982年

   県のコミュニティ推進地区に指定される =志賀二区自治会=
 地域住民の地域社会に対する意識を高め、住みよい、ふれあいのある生活の確立を図るため、コミュニティづくりの重点的な育成を図りつつ、この成果を全町的に波及させることを目的として、県コミュニティ協議会より八月十八日指定され、今後三年間に、その推進を図ることになった。
     『嵐山町報道』309号 1982年(昭和57)9月30日

地域コミュニティの昔と今 1989年

   互いを守る
     コミュニケーションの場・組織はどこに
                        =昔と今を探る=
 「内平らぎ外成る」という平成の世の中を迎えたというのに、この思いとはうらはらに、なんと殺伐な世の中でしょう。大きなところでは中国の天安門事件、身近なところでは幼児誘拐殺人事件等々、気の重くなることが続発しています。
 特に、大人も子供も多忙な今日、そのはざまで起きた近隣市町の幼児誘拐殺人は心の凍る思いがします。人があふれているようでも、一瞬のうちに空白場面ができるような現状を考えるとき、地域のコミュニケーションの必要性を痛感させられます。むろん他人への過干渉は避けなければなりませんが、決して無関心であってはならないでしょう。
 過去の日本には自然法則的なコミュニケーション組織や慣習があり、地域内での人間関係・家族構成など、相互に熟知している庶民生活がありました。これが、戦前・戦中時代に悪用された苦い経験もありますが、相互扶助の関係は現在より密であったと思います。そしてまた、現在のような多様性をもつ流動の時代であればこそ、地域のコミュニケーションや心のゆとりが必要といえるのではないでしょうか。
 嵐山町は町民憲章で「きまりをまもり、ともに助けあい平和なまちをつくりましょう」とうたっています。一人ひとりが気持ちにゆとりを持ち、目くばり・気くばり・思いやりが持てたら、あんな悲しい事件の再発防止の一助ともなるのではないでしょうか。そんな思いから我が町の過去・現在のコミュニケーションについて取材してみました。

  
 かつての嵐山町には、生活に密着したコミュニケーションの場として、大人たちには各種の講、道普請・堀普請やおこもり、子供たちには天神講と呼ばれるものなどがありました。講は豊作を願っての集いで、老人たちのおこもり(お堂にこもって一夜をあかす)と同様信仰に通じるものです。道普請・堀普請は字のとおり、現在のように道路や水路が整備されていなかった時代の生活協同体としての地域の協力活動でした。そしてそれらが終了した後は、各々が持ち寄った料理や酒などで爐日待ち瓩噺討个譴覬磴魍擇靴鵑世箸いい泙后8什澆任眛刺畧舛老舛鯤僂┐道弔辰討い訝楼茲發△蠅泙后
 子供たちの天神講*、これは一夜を徹して一軒の家に地域の子供全員が集まって遊ぶものです。これには大人と子供のふれあい、年齢差を超えた子供たちのつながりがあり、大人たちも地域の子供は自分の子供同様に接していたそうです。そして遊びの世界のルールも、年長の子供たちを中心に秩序があったといいます。
 その他ユニークなものとしては牋貍ぼたもち瓩あげられます。これは男遊びと呼ばれる集いの一つで、男性だけで大きな一升ぼたもちを作って、皆で食べる風習です。豊作を願っての行事で、由来は鎌倉時代にさかのぼり、現在でも五年に一度行われている地域があります。
 このようにあげてみますと、娯楽の少なかった昔の方が生活に密着したコミュニケーションが発達していたとはいえないでしょうか。

  
 急激な社会情勢の変化により、地域コミュニティ(共同生活体)の意識が薄れがちといわれます。コミュニケーションの必要性が認識されながらも、大人も子供も忙しい生活に追われ、ゆとりのなさからくるわずらわしさ感も加わり、地域のつながりが弱まりつつあるのではないでしょうか。夏休みを前にして、悲しい事件の再発防止を願いつつ、特に子供たちのまわりを探ってみました。
 あの悲惨な事件をきっかけに、大人たちの意識にも少々変化が起きているようです。親相互の連絡をち密にするのはもちろん、地域での連帯の必要性を認める人、子供の世界を過剰に保護するだけではなく意識的に親の世界を広げる(例えば地域活動に積極的に参加し、親と子供共通の世界を広げる)必要性を感じる人、見知らぬ子にも注意を払うようになった人等々。また、地域によっては、持ち寄り親子パーティをしたりして、日ごろからコミュニケーションを大事にしているところもありました。
 ところで七月五日にこんな交流が行われました。前回の芝桜の植え付けに続き、フラワーラインの除草作業は、近在のかたがた、ふる里造り推進協議会会員、そして同ラインを通学する玉ノ岡中学校の生徒たちの協力ですっかりきれいになりました。さらにコスモスの植え付けも新たにされました。
 とにかく通学中の生徒は近在に迷惑をかけがち(道いっぱいに広がって歩いたり、ゴミを捨てたり)ですが、こんな協同作業の試みがきっかけとなり、お互いに気軽にあいさつし、声がかけられるようになればすてきですね。また世話をすることにより愛情も生まれましょう。交流と情操を育てるこんな試みは今後も必要ではないでしょうか。
 取材に歩いてみて、まだまだ地方の良さを残している町でもあるとホッとさせられました。

  将来
 さて皆さん、以上のように嵐山におけるコミュニケーションの場や組織を、「昔と今」にわたって、調べてみました。あとは、この状況をふまえ、嵐山町の将来を模索することが問題となるでしょう。
 そこで、今後の嵐山町は、どのような町になっていくと思われますか。二十一世紀に向け、どんな町づくりを目指しているのか町長にお話を伺ってみました。

 町長談(要約)「アンケート調査の結果では、嵐山町のイメージ及び自慢できるものとして猖かで美しい自然瓩箸硫鹽が圧倒的に多く、また町の将来像として犲然環境に恵まれた町瓩箸硫鹽が約半数を占め、次に福祉・産業と続いている。
 経済生活が豊かになり都会化が進むにつれ、人の関心は個人生活のほうに比重が大きくおかれるようになってきている。それ故、町民相互のコミュニケーションを図るのは昔に比べ難しくなってきてはいるが、心の豊かさ・ふれあいがはぐくまれるような町を目指し、開発とのかねあいも考えながら、自然環境に恵まれた町づくりに力をそそいていきたいと考えている」

 町長のいわれる狄瓦里佞譴△い鯊膸にできる町づくり瓩修譴砲禄嗣碓貎佑劼箸蠅療慘呂睇要でしょう。町政には住民の幸福度を優先して考えた町づくりを期待するとして、私たち一人ひとりがほんの少し気持ちにゆとりを持ち、自分の生活のみでなく周囲に目をやる余裕を持つことができたら、そんな町づくりに一歩近づけるのではないでしょうか。
 子供社会は大人社会の反映といわれます。もし、大人たちが人の痛みを感じることができなければ、まして子供たちは…でしょう。ほんの少しの目くばり・気くばり・思いやり、そんな人間味の投影したコミュニティとしての町。まずは私たちが率先して何かを実践してみませんか、大事なものが失われない前に…。
     『嵐山町報道』375号 1989年(平成元)7月31日
     * 天神講については田幡憲一『菅谷上組の天神講』参照。

十一回目を迎えた嵐山まつり 1992年

   ふれあい にぎわい わかちあい 嵐山まつりは秋日和
 今年で十一回目を迎えた嵐山まつりは当所、県から商工会へ商工祭をするようにという指導があったことから始まったものです。どうせやるなら町の活性化のために町全体の祭りにしたいと、町当局へ働きかけて昭和五十七年(1982)十一月三日第一回が実施されました。現在の農業部会のメンバーのアイデアとも重なり、町・農協・商工会が中心となって、今日まで続いてきました。
 統一テーマに「ふれあいで築くみんなの嵐山まつり」を掲げていますが、これは現在もかわりません。
 買いものだけでは市場と同様で祭りではありません。ゲームなどに参加して楽しんでもらいたいということから現在のようにさまざまの催しが実施されるようになりました。当初から主会場は菅谷中学校校庭です。会場では各部会の趣向をこらしたテントが校庭にところ狭しとたち並び、花かざりやのぼりの赤や青が秋の陽(ひ)に鮮やかに映えます。いかにも祭りといえる華やかさが、訪れる人たちの気分を盛り上げています。

  アイデアいっぱい
 商工観光部会は、商工会の六事業部と観光協会がそれぞれアイデアを出し合って担当しています。
 今年初めて登場したのが青年部のうなぎつかみ大会です。
 原価四百五十円のうなぎを百五十匹仕入れての大サービスです。一回一分間で百円。
 去年はミニSLが大人気でしたが、今年は部品取替えや点検で解体中のSLにかわって電車が運行されました。
 「産湯の清水駅」から発車する電車には子供も大人も一緒に乗りごこちを楽しんでいました。
 パターゴルフが始まりました。十メートルほどの円の中心の穴に、六つのゾーンから一人ずつ順にゴルフボールを打ち入れていく競争です。さまになるゴルフ好きのお父さん達に負けずに、小中学生やおじいさんおばあさん、お母さんも頑張って、みんな商品のお米や箱詰めのインスタントラーメンを抱えて帰っていきました。
 建設部は大中小のまな板の販売と無料の包丁の研磨です。
 もうおなじみさんがいて九時半の開始時間には三十丁以上の申しこみです。数人のベテランが丁寧につぎつぎと研いでいきます。出来上った二丁の包丁を受けとった八十一歳の中山さんは「ありがとうありがとう」とくり返しお礼を言いながら「老人の一人暮らしだから包丁なんて研げないので、毎年ここで頼むんです。」渋谷から十年前に越して来て、嵐山町がとても気に入っているとお元気な声で話してくれました。
 午後から商業部のイベント、ジャンケン大会が始まりました。台の上にはカラーボールの箱と賞品の醤油、ティッシュペーパー、大小のぬいぐるみ、自転車などが並んでいます。
 大きなプラカードには、グーがピンク、チョキが白、パァが青と書かれています。カラーボールを取り出す二人のおじさんの、どちらが勝つか判断し、仕切りのロープの中に入ります。「ジャンケンポン!」。箱の中からとり出されたボールの色で勝負がきまります。
 いよいよ最後の景品の自転車となり「わあッー」と歓声がひときわ高くあがり大勢が出て行きます。何度もくり返される、勝って拍手する人、最後の最後で負けてがっかりする子、そんな中で自転車を手にしたのは志賀小六年の青木君でした。羨ましそうな大勢の友だちに囲まれて自転車を押して帰りました。
 大人から子供まで多くの人が一緒に楽しめたゲームでした。

  サービス満点の老舗
 花の苗や種を配布したり、スペアキーを作ってくれるのは環境部会のみなさんです。
 一人一箇の制限はあるものの無料のキーは好評で、待つ間もなく出来上ります。午前中に百箇、午後五十箇と盛況でした。机上に置かれた交通遺児援護募金の箱には快く協力する人たちが大勢でした。
 当初の嵐山まつりのアイデアを生み出したと言う農業部会の貢献度はいつも大きなものがあります。
 農産物、海産物の販売、牛乳の無料配布、ライスワインの試飲会などサービスのコーナーになっています。
 恒例になっているもちつき大会と、つきたてのお餅の無料配布も人気の的です。
 今年はさらに爐△鼎粒あてクイズ瓩加わりました。爛献礇鵐吋鸞膕餃甅爛ぅ鵐肇蹈イズ疆で優勝者が米三十kgを抱えて大喜びでした。
 農産物は三十数品目にもおよび、すべて町内の農業者(野菜直売所の組合員)が一生懸命生産したものです。新鮮で安心してたべられると好評でした。
 爐△気蟒Δき瓩筺△笋やうさぎのいる動物広場は子供たちの格好の遊び場となりました。
 農業部会は回を重ねるごとに新しいコーナーもふえて、嵐山まつりへの気配りもさすがと感じられました。

  とんではねて健康測定
 体育館は健康部会の会場で賑わっています。
 大腸ガンや血圧の検査の呼びかけに応じながら歩を進めると狡垢覆錣箸啾膕餃瓩亮付に行きあたりました。
 子供たちがチームメイトを探しながら七人一組で申し込みに列をつくっています。
 体育館の高い天井に子供たちの歓声がひびき、七人の足並みが揃って床に弾みます。長い縄が子供たちの頭上をめぐり「十!十一!十二!…」とみんなの声がだんだん高くなっていきます。幾つものチームが挑戦しては失敗し、なかなか七人の息が合うのはむずかしいようです。

  歌とおどりと演奏と
 実行委員長斉藤弥三郎氏のもと、四十八団体の芸能同好会の中から、民謡、舞踊、カラオケ等が披露されました。
 今回はじめての試みとして車輌の舞台が使われました。「どうも屋根が低くてこわいですね」というのは出演者の弁ですが、芸能部会は嵐山まつりの花であることは間違いなさそうです。その中で、今回初めて玉ノ岡中学校の吹奏楽部員の特別演奏がありました。
 女子部員十五名による演奏曲は「隣りのトトロ」「シンコペィテットクロック」「ハンガリヤ舞曲第五番」の三曲でした。さわやかな態度、さわやかな制服、そして何よりも磨かれた演奏に聴きほれた多くの観客の拍手は高く、いつまでも続きました。
 タクトを振った福島弥生先生は言います。「少しあがったのかしら、思うように伸びませんでした。来年は菅谷中学校をはじめ、多くの学校が参加してくれるといいですね。」の印象的な言葉を胸に演奏した生徒の一人に聞いてみました。「どう、あがらなかった?」「いいえ普通でした」

  いざ出陣
 時代まつりの実行委員は朝八時半から県立歴史資料館で準備に忙しく立ち働いていました。九時すぎには一般参加者も習合して具足をつけはじめます。中学生の一団は、昨年も参加した先輩の指導で協力しながら立派な足軽の姿に変身していきます。足袋(たび)をはくのが苦労のようでした。
 ひときわりりしい女性の足軽に、参加の動機を聞いてみました。「その年の役場の新入職員は足軽として参加する慣例があるので…」ということでした。
 鎧武士は専門家がつぎつぎと具足を一つずつつけていきます。武将一人の支度が完成するのに二十分程かかります。具足の素材は実物よりも軽いというものの武将になる人も着付ける方も大変です。
 戦国時代の武者は剛健だったのだ、とは現代の武者の一致した感想のようです。
 名将の生きたと言われるわが町ならではの時代まつりは貴重な体験学習の場でもあります。
 秋色の美しい県立歴史資料館の前庭に、畠山重忠・木曽義仲ののぼりがはためき、ゆかりの武士のおもかげを彷彿(ほうふつ)とさせる出陣式は壮観でした。

  みんなで支える嵐山まつり
 晴天に恵まれた当日、菅中校庭は朝七時半から準備に忙しい担当者でにぎやかでした。新しいイベントやゲームを考える人、駐車場や交通整理に当った交通指導員、安全協会、ボーイスカウトの方々。
 味を落とさないために当日午前三時頃に掟て漬け物を袋詰めしたお母さんたち。その他団体やグループ、町内業者の自主的な売り場も目立ちました。大勢の努力で支えられた嵐山まつりです。会場を訪れた人々もこれを支えています。毎年必ず来る人も何人もいます。安全な野菜や食品がほしい人、焼き物や、俳画の絵葉書など嵐山独特のものがほしくて来る人。
 親戚を呼んで一家で来る人。久し振りに友だちに会えるのが楽しみで来る人。目的は違ってもみんなが嵐山まつりを毎年待っているのです。
 「ふれあいで築くみんなの嵐山まつり」の目的は達成されつつあるようです。
     『嵐山町報道』414号 1992年(平成4)12月1日

第一回嵐山まつりが開かれる 1982年

   農業・商工・文化芸能などに分かれ
     盛大に第一回嵐山まつり
       無料のもち・だんごもたちまち品切れ
 「ふれあいで築くみんなの嵐山まつり」を統一テーマに、第一回嵐山まつりが11月3日菅谷中学校を主会場に、盛大に開催されました。
 この嵐山まつり、人と人とのふれあいを大切にし、「自治と連帯」による豊かな里づくりを進めようという趣旨で設けられました。
 そして、町、農協、商工会を中心に、農業、商工、文化芸術などの部会に分かれ、各種団体の協力により実施されました。
 天候にも恵まれ、人出も順調で米消費拡大推進連絡協議会で用意した無料のもち、だんご、ライスワインなどは午前中で品切れになるほどでした。また、農協、商工会などの出店も盛況で、まずは、第一回目大成功というところです。
     『嵐山町報道』311号 1982年(昭和57)12月5日

川後岩沼はどこ?

川後岩沼2006年5月web

嵐山町大字越畑(おっぱた)の川後岩沼(かわごいわぬま)は大沼と呼ばれることもありますが、1万分の1の嵐山町総図や市販の地図には川越大沼と印刷されています。川後岩入という小字名があることや、溜池台帳から「川越」の誤記は明白ですが、耳で聞くと「かわごえのま」とも聞こえます。江戸時代の『名寄帳』にも平仮名で「かわごえ」と書かれているものがあります。

Latitude : 36.087057
Longitude : 139.298154

川後岩沼2006年12月web

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言

   私は一緒に仕事をした

  でずらの仕事
 私は土方仕事をしている朝鮮人相手に出面(でずら)の仕事をやりました。これは働きに出てくる人数の点呼をする仕事です。その工事で何をつくるのかはよく分かりませんでした。藤本という親方がいて、その下に班長クラスの配下がいて14、15の班に分かれ、1班は15人〜25人くらいいました。班長は飯場頭です。朝鮮人労務者の人数の点呼は移動が多いので何人かよく分からないので、私は飯場ではなく仕事の現場を回って今日は何人出しているかと点呼しました。一か所が15人から20人くらいの人数でした。しかし朝鮮人労務者の全体の人数は、移動が多いので何人いたかはよく分かりませんでした。そして働いている人は、どんなものが出来るかは知りませんでした。
 一般の朝鮮人人夫はほとんど朝鮮名でした。だからでずら係りとして点呼をとっても、一度として数が合うことなしですよ。顔は分からないし、名前も分からないからなのです。二通り名前を持っていましたからね。それでこんなこと出来ないと私は「でずら」の仕事は1週間でやめて、その後は食糧の配給をとりに行ったりしました。通帳を持ってとりに行くのです。朝鮮人だけでは言葉が通じないので、私が引き連れて行きました。食糧の配給では二重の名前で余計もらったりしました。タバコも配給でした。それからモッコ、ロープ、などの世話役をしました。天秤棒なども作りました。モッコが壊れたり、ロープが足りないとかするので、現場を回ってそういうものを用意してやったりする方の仕事にかわったのです。

  平沢の谷津で半地下工場の建設
 平沢の谷津だけで工事の場所は変電所を入れて6ヶ所です。半地下工場をつくると言っても、やったのは山の斜面を崩して平らにして、約1メートル位の高さまでコンクリートをうち、その上に明り取りの窓をつけ、その上に屋根を乗せる半地下式です。整地の仕事は全部朝鮮人でした。朝鮮人が使った道具は、エンピ、トウグワ、ツルハシ,ジョレンなどでした。
 その後大工が入ってき、材料を持ってきました。大工は日本人でした。これらの材料は、戦争が終わってから地元にくれたのです。それで煙草屋のこっちの消防小屋などを作りました。

  工事の總責任者は今野さん
 鉄筋コンクリートの責任者の今野さんは、日本の会社の總親方(鐘淵ディゼルの疎開工場建設を請負っていた鉄筋コンクリート株式会社菅谷出張所の工事主任今野東一郎)でステッキを持って見て歩いていました。単身で来ていました。今野さんは現場の親方連中に一番はぶりをきかせていました。その下で藤本がやっていたのです。夏山などもその配下でした。今野さんは平沢の村田治夫さんの離れに一人で泊まっていました。私は今野さんとも付き合ったけれど、仕事関係の話はしませんでした。鐘淵ディゼルという言葉は聞いていましたが、ディゼルエンジンを作るということは聞いていません。ただ軍需工場をつくるということだけです。昔は、そういうことは秘密で公開しませんでした。しかし憲兵がたまには回って見に来ました。

  平沢の上原団地、千手堂、東昌寺の団地のところにも工事
 陣中組は内田和一さんの家に泊まっていました。しかしここには来ないで平沢の上原団地や千手堂の方で仕事をしていました。そこも木を切って工場の敷地を造っていました。東昌寺の団地にもいくらか機械を入れました。東昌寺の裏には当時のコンクリートが残っているようだが、あそこは平坦地なので早く工事が行われ、機械がいくらか工場に入りました。うちの方は工事が間にあわず、機械を旧道に置きました。

  双葉の工事現場
 双葉の谷津には飯場はないけれど,半地下工場の現場がありました。6ヶ所ほどです。そこも藤本がやりました。双葉は志賀分です。双葉の敷地は高くなっていますが、もとはもっと低くて、山を崩して整地したものです。そこにコンクリートを打ちました。工事は双葉のところが一番進んでいて、コンクリート道までやりました。ここへは荷物が入るときにトラックで持って来ましたが、あとは東上線で運んで来て、途中で降ろしたといいます。

  朝鮮人は主に寺、公会堂、民家に泊まった
 平沢では朝鮮人をめぐっての事件は何も起こりませんでした。区長から話もあって警戒はしていました。地元の人は警戒して、日暮れになったら女の人は一人歩きをしませんでした。区長の斡旋(あっせん)もあって朝鮮人は農家に泊まるようにしていました。飯場生活ではなく、寺、公会堂、民家などに泊まりました。朝鮮人の場合、家族持ちの人は飯場にいましたが、それは親方たちです。子どもはその親方の子どもでした。人夫の家族持ちはいませんでした。平沢寺(へいたくじ)とか飯場では食事をつくっていましたが、やったのは親方の奥さんたちでした。人夫はみんな若い人で20から30代の人でした。飯場頭(はんばがしら)は50代の人もいました。
 一番大勢いたのは平沢(ひらさわ)の種屋(たねや)です。それから平沢寺が無住ですから、その本堂と庫裏(くり)に泊まっていました。上の不動様にも泊まっていました。平沢寺に30人〜35人くらい、種屋にはもっといました。個人の家には7人〜8人くらい泊まっていました。仕事は朝7時〜夕方5時までやっていました。それ以上は残業でした。明るいうちは電気をつけないで、そのままやりました。年齢は20歳〜30歳代の人で、年をとった人は頭です。

  言葉の問題
 朝鮮人がどういう形で来たのかは聞いたことはありません。言葉は朝鮮語をしゃベっていました。しかし片言でもこっちで言うことは通じていました。朝鮮人同士でしゃべっていることは、私たちには分かりませんでした。ただ先にたつ朝鮮人は日本語が上手(じょうず)でした。親方たちは、朝鮮語で仕事の指図をしていました。そして私たちとは日本語で話しました。したがって通訳はいなくても親方とは話は通じていました。藤本や夏山などは、みんな日本語がうまかった。全く出来ない人は半分くらい。あとは片言でした。

  朝鮮人のリーダー藤本さん
 藤本などは全く訛(なま)りもなく、日本人といっても分かりませんでした。娘たちも日本の学校を出てました。藤本の一番の親方は広田といい、日本の高校まで出ていて、お不動様の演芸の時ときなど彼が出ると、人夫たちが『朝鮮大統領!』などと言ってはやし立てましたよ。藤本の妻は日本人です。藤本はあれだけ話せるから日本へ来てかなり経っていたと思います。ただ字は分からなかったようです。字を書くのを見たことはありません。なんといっても広田という人が、全部難しいことはやっていました。
 藤本は最初私の家に住み、親も一緒でした。やがてこの先に家をつくって住みました。分家の物置と飯場に朝鮮人はかなり住んでいました。
 私は、東京に勤めていましたが、藤本さんに「東京へ行くだけの金を払うから仕事を手伝ってくれ」と頼まれて、1日10円でやることになりました。普通は、せいぜい5円でした。朝鮮人はいくらであったかは分かりませんでした。私が仕事を手伝うようになったのは、藤本の仕事が始まってすぐでした。私はその年の6月16日に入隊しました。
 藤本さんの組は朝鮮人だけでした。日本名を名乗っていても全部朝鮮人です。二人ほど日本人の奥さんの人がいます。藤本の下に、金山、金田、新井、山本、木村、綿貫などがいました。日川は志賀の方にいました。種屋にいた新井ははしこくて、世話役をしているだけで仕事などしたことがありません。藤本みたいな親方がもう一人いました。藤本の配下の朝鮮人は百穴へも行ったり来たりしていました。仕事が大変で逃げ出した人はいませんでした。
 私みたいな日本人は他に5人くらいいました。しかし現場で仕事の監督などはしていません。現場では藤本の下にいた広田とその弟が仕事を仕切っていました。広田は日本の高校を出た人で、26歳が27歳くらいでした。
 戦争が終わると工事はすぐストップです。戦争が終わり、2月ほど経つと朝鮮人はめっきり減りました。嵐山に残ったのは、八丈、小笠原、父島などから来ていた人です。そういう人はもとは魚とりだったようです。

【1996年7月25日・話者:嵐山町平沢O・Y氏(1923年生まれ、73歳)・聞き手:石田貞】

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

干害で消防ポンプが大活躍 1955年

   人口揚水の微笑
 ねこの手もかりたい農繁田植期も夢の様に過ぎ去った。六月も二十八日。「今日も田植えをすることが出来ない」と東の空に炎々と燃えるが如くに昇りジリジリと照りつける太陽をうらめしく眺めて、家中で語らい合う。野良に出てもカラカラに乾き切ってムンムンしてゐる。
 其の遠山に清らかな槻川はせせらぎの音も軽ろやかに、時期の田植えの水に困りきってゐる我々の気持を察せぬか、知らぬ素顔で南の山際を流れ去って行く。二十八日も午后、照りつける太陽のもと、消防団の役員の方のお話しで利用場に集り、村の理解ある諒解を得て、消防ポンプを利用し田植えを行うべく揚水(ようすい)をして下さるとの事で、全く天を眺めては溜息をしてゐた我々は感慨無量。
 早速二十九日早朝より、消防役員の方々はまだ忙しい自分の毎日の仕事を投げ出して「機械の操法は我が責任」とばかり、責任感にもえて先頭に立ち機械を運転してくださり、思いもつかなかった槻川の水は忽ちにして川から遠く離れた高い処の乾ききった水田に向って放水され、見る間に水は満たされ、手早い作業によって次々と微笑みのうちに苗が植えつけられ、やがて地内四町歩の水田はたった二日間にして青々とうづめられ、初夏のそよ風になびく日をむかえることが出来た。
 此の文明文化の進歩が斯(か)くも山中までシントウした事はスリ鉢の底遠山に生れた我々にとっても、一つのほこりであり、今后のより一層のめざましい発展を期待すると共に胸に深くきざみ、今回の消防団役員各位の理解ある御協力を深く字員一同心より感謝致して居る次第です。(遠山・吉田又一)
     『菅谷村報道』59号 1955年(昭和30)7月25日


   消防ポンプで水揚げ
     水田植付に懸命の努力
       潅漑面積 八町三反余
 この夏は近年に珍しい空梅雨のため、六月下旬になって天水依存地帯は水田植付不能におちいった。村当局はこの対策として、消防ポンプにより給水を計画。自動車ポンプ四台、手挽ガソリンポンプ一台、可搬動力ポンプ三台を動員し、六月二十五日から七月六日迄十二日間、自動車ポンプ延二十四日、手挽ガソリン及び可搬動力ポンプ延二十一日を費(ついや)し、未曽有(みぞう)の大規模な人工給水を実施した。その結果、水利最悪の場所若干を残すのみで、極めて好成績の裡(うち)に給水作業を終了した。
 鍬を打ち込めばぱっと白煙立つ乾き切った水田。固い土壌に注がれる水に泡をたてて崩れ落ちてゆく。水の廻るのを待ち兼ねて腕利(うできき)の若者達が、一滴の水も漏らすまいと見事なくろを塗ってゆく。ポンプの放口からは一分間四石余の水が一瞬の淀(よど)みもなく出ているが、手指で仕事がす早く、何時も給水の方が追はれ気味である。近所、親戚の応援で、せまい田に牛馬が二、三頭、はいってかきならす。これ又駆(は)せ付けた応援の老若男女(ろうにゃくなんにょ)が水田せましとばかり一列横隊に並び、左手に持つ苗束に右手が器用に通ふと見る間に、まるで機械のようにつっつっと苗は植へられ、足取り軽く後ずさりする。これを追って前から青い波が押し寄せる如く、瞬く間に忽ち青田がひろがって行く。畔塗りの男達も田植の女達も腰を延ばす度毎に植へたての青田を眺め乍ら有り難い事だ、大したものだと心から感嘆の声をはなつ。
 三十度をこえる炎天下、連日陣頭指揮の村長さん、その熱意にピッタリ呼吸の合った消防団員、機関係、放水係、連絡係。一致協力、終日活躍の後、今植付の終った青田に月の映る頃、帰路につけば、あたり一面の水田より期せずしておころ蛙の声は、さながら凱歌の如く、自ら胸の暖る情景であった。
 かくて【大字千手堂】八町三反の旱田(かんでん)は見事植付を完了した。(中島元次郎記)
     『菅谷村報道』59号 1955年(昭和30)7月25日

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