二十二、宮崎萬治郎武貞は比企郡明覚村【現・ときがわ町】大附の人で、悪戸の岡田軍治郎の師宮崎隆齋は即ち此人である。今は孫孝平氏の代になって居る。其墓は居宅に近く畑の間にあるが、其墓誌は次の通りである。
宮崎萬治郎武貞老翁墓。
翁師宮崎。名萬治郎。初名柳吉。號隆齋。本郡大附村人。父曰辰右衛門。母岡野氏。以文化五年正月五日生。性温厚。幼好學。從鷂輿寮侏桓業。及長益進。博通天文暦法醫易。尤熟數理而極其蘊奧。名聲聞遠邇。執贄者甚衆。終以明治十六年十月七日。病没於家。享年七十六。以神式葬先塋之次。翁娶郡之大橋村岡野氏女古登。生一男一女。長林貞嗣家。越遺族及門弟等相謀建墓碑。以弔翁之幽魂。噫。于時明治三十六年五月。
宮崎萬治郎は大工が本職であったのだけれども其事は墓誌には見えない。遺族の談に依れば、算法を何処で習ったかは判らない。大工で東京の方をあるいた事もある。慾を知らない人であったそうで、方々の大盡の家を数えてあるいた。現に八十歳くらいの人が、鎌形(菅谷村)【現・嵐山町】から墓参した事もある。お米を持って来て供えた。明治四十五年(1912)五月九日に火災に会ったので、色々の事が判らなくなったが、易や数学の書物が倉に入れてあったのは、火災を免れた。額の奉納など云ふ事は聞かないし、十露盤の先生云々と云ふ談話が出た事もないと云ふ。
墓の台石には大字本宿岡田軍治郎を筆頭に、大谷、長瀬、岩川、小山、小杉、西本、大豆戸、五明、腰越、桃木、田中、志賀、日影、其の他の人々が多く姓名を列して居るが、甚だ読み易くない。そうして「門人計三百人」と記るす。然らば岡田軍治郎は一の弟子であったのであろうが、其他にも亦十露盤の指南に当った人は必ずあろう。而も未だ之を詳かにせぬ。軍治郎の妹、新井老夫人の談は、軍治郎伝中に録して置いた通り、萬治郎の経歴を示す為めに大切である。
墓誌に萬治郎の師として、瀬戸僧石祐とあるが瀬戸は明覚村に属し、大附と隣る。瀬戸に皎圓寺(こうえんじ)あり、其墓地に参拝するに、
霊山三十六世當山二十世闡宗碩猷大和尚
と刻せる一基がある。台石に「大月村、鷂預次筆子中營之」とあり、又「天保十四年(1843)九月、法嗣碩諦建之、當山二十一世……」及び「當山二十二世……文久二壬戌年(1862)五月廿二日、法嗣碩、詔建之」と云ふのもある。此の二十世碩猷と云ふのは墓誌の石祐と同じ人であろう。現住職桑山桃禅師の談に此人は比企郡平村【現・ときがわ町】の霊山院(りょうぜんいん)から転住した人であるが、未だ其伝記の委細は知られぬようである。萬治郎は此人から暦算の学をまでも学んだであろうか何うか。碩猷の石塔の建てられた天保十四年(1843)には、萬治郎は二十六歳であった筈である。
萬治郎の没した明治十六年(1883)に、孫の當主孝平氏は僅かに三歳であったので、伝聞の乏しいのも当然であろう。孝平氏父子は、今も大工を營んで居る。
家に萬治郎の作った薬種箪笥一棹があり、今は種子入用になって居る。器用な作品である。
『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)12頁〜13頁 目次
※本文にあるように嵐山町域では、鎌形、志賀に弟子がいたようである。