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嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2009年03月

武蔵比企郡の諸算者22 明覚村大附 宮崎萬治郎 三上義夫 1941年

 二十二、宮崎萬治郎武貞は比企郡明覚村【現・ときがわ町】大附の人で、悪戸の岡田軍治郎の師宮崎隆齋は即ち此人である。今は孫孝平氏の代になって居る。其墓は居宅に近く畑の間にあるが、其墓誌は次の通りである。

 宮崎萬治郎武貞老翁墓。
 翁師宮崎。名萬治郎。初名柳吉。號隆齋。本郡大附村人。父曰辰右衛門。母岡野氏。以文化五年正月五日生。性温厚。幼好學。從鷂輿寮侏桓業。及長益進。博通天文暦法醫易。尤熟數理而極其蘊奧。名聲聞遠邇。執贄者甚衆。終以明治十六年十月七日。病没於家。享年七十六。以神式葬先塋之次。翁娶郡之大橋村岡野氏女古登。生一男一女。長林貞嗣家。越遺族及門弟等相謀建墓碑。以弔翁之幽魂。噫。于時明治三十六年五月。

 宮崎萬治郎は大工が本職であったのだけれども其事は墓誌には見えない。遺族の談に依れば、算法を何処で習ったかは判らない。大工で東京の方をあるいた事もある。慾を知らない人であったそうで、方々の大盡の家を数えてあるいた。現に八十歳くらいの人が、鎌形(菅谷村)【現・嵐山町】から墓参した事もある。お米を持って来て供えた。明治四十五年(1912)五月九日に火災に会ったので、色々の事が判らなくなったが、易や数学の書物が倉に入れてあったのは、火災を免れた。額の奉納など云ふ事は聞かないし、十露盤の先生云々と云ふ談話が出た事もないと云ふ。
 墓の台石には大字本宿岡田軍治郎を筆頭に、大谷、長瀬、岩川、小山、小杉、西本、大豆戸、五明、腰越、桃木、田中、志賀、日影、其の他の人々が多く姓名を列して居るが、甚だ読み易くない。そうして「門人計三百人」と記るす。然らば岡田軍治郎は一の弟子であったのであろうが、其他にも亦十露盤の指南に当った人は必ずあろう。而も未だ之を詳かにせぬ。軍治郎の妹、新井老夫人の談は、軍治郎伝中に録して置いた通り、萬治郎の経歴を示す為めに大切である。
 墓誌に萬治郎の師として、瀬戸僧石祐とあるが瀬戸は明覚村に属し、大附と隣る。瀬戸に皎圓寺(こうえんじ)あり、其墓地に参拝するに、

  霊山三十六世當山二十世闡宗碩猷大和尚

と刻せる一基がある。台石に「大月村、鷂預次筆子中營之」とあり、又「天保十四年(1843)九月、法嗣碩諦建之、當山二十一世……」及び「當山二十二世……文久二壬戌年(1862)五月廿二日、法嗣碩、詔建之」と云ふのもある。此の二十世碩猷と云ふのは墓誌の石祐と同じ人であろう。現住職桑山桃禅師の談に此人は比企郡平村【現・ときがわ町】の霊山院(りょうぜんいん)から転住した人であるが、未だ其伝記の委細は知られぬようである。萬治郎は此人から暦算の学をまでも学んだであろうか何うか。碩猷の石塔の建てられた天保十四年(1843)には、萬治郎は二十六歳であった筈である。
 萬治郎の没した明治十六年(1883)に、孫の當主孝平氏は僅かに三歳であったので、伝聞の乏しいのも当然であろう。孝平氏父子は、今も大工を營んで居る。
 家に萬治郎の作った薬種箪笥一棹があり、今は種子入用になって居る。器用な作品である。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)12頁〜13頁  目次
※本文にあるように嵐山町域では、鎌形、志賀に弟子がいたようである。

武蔵比企郡の諸算者21 高坂村本宿 岡部軍治郎 三上義夫 1941年

          武蔵比企郡の諸算者(五) 『埼玉史談』12巻3号 1941年(昭和16)1月

 二十一、岡田軍治郎は比企郡高坂村【現・東松山市】本宿の内の悪戸(あくど)の人である。此人の名も亦正代観音算額の客席に列せられて居る。高坂の故老の談に、小堤と岡田とが此辺での算者であったと云ふ。悪戸の住宅の付近に墓があり、

  雅窓韻運居士
  慈芳妙黄大婦
 雅、大正十五年三月十一日岡田軍治郎、行年八十六歳。
 慈、本郡龜井村竹本坂本伊平長女、明治二十八年一月廿一日、同きみ、行年五十三歳。
  昭和二年三月建    施主 岡田安五郎

と、正面並に両側に刻する。
 軍治郎の家は裕福であったが、家事に勉めず、教授や他の事ばかりする人で、身代をも減らせたし、後に他の婦人を容れで幾人も子があり。家を別けて隠居したので、本分家共に豊でなかったと云ふ。本家は一人娘へ安五郎を迎え、今は孫の代となる。隠居は男健吉氏(昭和十三年五十歳)が嗣いで居る。健吉氏夫妻、本家の遺族、及び軍治郎の妹から色々と談話を聞く。
 軍治郎は初め比企郡七郷村広野の広正寺寛山和尚に師事した。遺族の談では十露盤も亦此人に学んだのであろうと云ふのであるが、其師宮崎隆齋は固より別人である。軍治郎は書にも巧みであり習字と十露盤を教えた。現に家訓の一軸が遺り、

  大正壬戌孟夏上解日、録一茶翁勸農之詞。
        八十二歳 岡田鷗村書。

とある。没前には児童を集めて千字文遊びをした事もある。書を人に頼まれて絹本を用意しながら永眠したので、其儘になった事もある。
 比企郡唐子村上唐子新井順一郎氏祖母(昭和十三年九十一歳)は、軍治郎の妹で談話も珍らしく明瞭であるが、先づ此老夫人の談を録して置く。

 軍治郎の十露盤の先生は、大附(おおつき)【現・ときがわ町】の人で、大附蜜柑を産する所である。悪戸の実家へ迎えで来て、教わった。先生々々と計り言って居たので、名前をば知らぬ。其先生は元と大工であったが、十露盤の先生になって、大盡の家々を教えてあるいた。先生が来て居れば、他から習いに来るものもあるし、二月も三月も逗留して居た。余程よい所まで教わったようである。それは老夫人が十二三から十■くらい迄の事で、毎年百姓の暇の時に来て居た。其頃に六十くらいの先生であった。其先生は迚も好い人であった。元は大工だが、先生をしてあるき出してからは、大工をばしなかった。先生が兄の所へ来て居ると、方々から多い時には七八人も習いに来て居るものがあった。其人達へ食事をも出して居た。費用も懸かったが、そんな事には御構いなしであった。大附の先生の忰の嫁が神戸から行って居た。玉川に大盡があって、大附の先生は其家へもショッチュウ行って居た。其大盡も習った。

 此新井老夫人の記憶に依って、岡田軍治郎が算法を学んだ時の事情が斯くまでに判然したのは嬉しい。然るにも拘らず、悪戸の遺族の方では、全然忘れられて居るのであるから、算術指南の人物が如何に忘れられ勝ちであるかも亦思われる。
 軍治郎が従学した広野の和尚と云ふのは、菅谷村川島の鬼鎮神社に碑が立って居る。其文に拠れば、

 前広正寺寛山老和尚。初視篆于東昌。後移化於廣正。慶應乙丑秋七月解印矣。其两刹住山之日。應化利生之餘。攝耳門弟子。其巖如父。其愛如母。噉淡節昌。行持皎潔。終始如一矣。……弟子數百人。其入室昇堂者。以十算之。可謂得人也。弟子相議曰。……

 老和尚の使った筆を埋めて碑を立てる云々と云ふのである。そうして慶應二(1866)壬寅年春三月と見える。台石に筆弟子の連名があるが、神戸村と岩殿村の二人の次に、悪戸岡田軍治郎、大黒部本田濶造の名があり、それから多くの人名が出て居る。悪戸に於て此和尚の事は記憶せられ、十露盤の先生の方は忘れられて居ると云ふのも、宮前村【現・滑川町】月輪に於ける内田祐五郎の碑文の所載と照応するものが思われる。
 更に続いて新井老夫人の談を記るして置く。

 鬼鎮さんに碑のある先生は、十露盤をば教えない。えらい人であった。其碑の立ったのは、老夫人十八の時であった。軍治郎は十七の時まで寛山に習う。それから家へ引込んで、手習の師匠をした。学校の始まった時にも、第一に先生になった。本庄へ行って試験を受ける。よい加減の身代であったのを無くして、慾のない人で、丹念な事では驚くほどであった。役場へも二十八年も出た。占などをもした。自分の事は構わないで、人の事なら何でもした。登記の時にも高坂村の十三字の測量を引受けてした。測量も上手であった。役場を引いてからも、土地の事などで人が頼みに来た。土地台帳でもちゃんと写して居った。人の恨みや憎しみを受ける事は少しもなかった。

 岡田健吉氏夫妻の談に、軍治郎は村会の初めに議員になり、それから役場へ出たのであり、役場を止めてから再び議員になった事もある。登記と云ふのは、松山の登記所で代書をしたのである。八十歳の時にも登記へ通うて居り、此方も随分長らくやって居た。隠居したのは高坂村川袋であり、明治四十三年(1910)の洪水の時には書物なども浸水して、無くしたのが多い。丹念な人であったから反故のようなものまでも、悉く取って置いてあったが。凡て駄目になった。現に残って居るのは、算木と地租改正の時に使った三寸五分の磁針の小方儀などである。其時には大字西本宿の丈量をした。弟子が碑を建てるとも、言って居たが、身代が悪くなったので、建てないでしまった。酒は好きであったが、茶も煙草も嫌いであった。温和な人で人と争うような事はなかった。没前二ヶ年位は本家へ帰って居って亡くなった。別に病気はなく眠るが如くに他界した。親切をすると、岡田先生のようだと言われる程であった。
 遺子健吉氏も亦測量などする人で、境堺の問題などあると頼まれる事もあり、東上線開通の時には鉄道敷地の丈量などにつき、役場から頼まれてやった事もある。
 岡田軍治郎遺品の算書などを見る事が出来なかったのは、残念であるが、比較的に其経歴を詳かにし得たのは仕合せである。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)9頁〜12頁  目次
※本文にあるように、岡田軍治郎は広野村広正寺の寛山和尚の弟子であった。唐子村の新井順一郎は、菅谷小学校で教鞭を執ったこともある。

武蔵比企郡の諸算者20 岡部雄作 三上義夫 1940年

 二十、岡部雄作は比企郡中山村【現・川島町】北園部の人で、正代の算額に教員と言って居るのは、学校教員を勤めて居た事を云ふのである。居宅の付近なる醫音寺の門前に其碑が立って居る。即ち言ふ、

 首唱文學政治於武之比企郡川島者。曰岡部君雄作。片岡君勇三郎。片岡君曾爲衆議院議員。今也梓木將供。然君聦明不衰。矍鑠如壯者。可謂南極星輝矣。君姓岡部。名雄作。慂其別號。以嘉永四年八月廿七日。生於比企郡中山村北園部。家世里正。考曰彦右衞門。妣高橋氏。幼英異嗜讀書。年甫十三。就余先考研經史。傍學筆札。詰執鑷。如渇赴泉。故先考不勞。而業大進。十八歳歸郷里。自是專勵家業。用心於農事改善。明治五年。朝始布學制。募志願者。養成外。翁率先應募。入本庄暢發學校。以優等卒業。還開學校。骸生徒。此爲川島普通學之始也。君便暇繙洋書佛典。又用竹刀。試練身心。最精於水利算數。苟有艮地方。知無不爲。如京塚長樂吹塚隄防。及釘無水門通渠。其効不尠云。由是聲譽大揚。以公選爲各名譽職。不堪枚擧。其所施行。概不離於三道云。嗚呼。所以令翁至於此者。抑賢母高橋氏。外藹蠱很蕁嘗開演武場。以矯文弱。又與片岡勇三郎。内野翅析催。締盟共習討論演説。時延名士於東京。開演説會。俾人起政治思想。此所以有川島今日之盛也歟。性快濶無他嗜好。然甚愛梅柳松竹。扁其居。曰四樹節堂。前後學骸垳淺歓諭G枳昇艦臓B臙村中島傳兵衞之三女。擧三男二女。長曰胤三。嘗師嵩古香及余。而後學于大郷。今入東京日日新聞社而在要途。次曰要多。次曰俊治。爲一家。次曰寛。出嗣野澤氏。長女楚乃。適高柳章
治郎。次女比古。適二野政次郎。至諸孫十八人。富哉孫也。詩云。瓜瓞綿綿。翁有馬。今茲大正九年。君躋古稀壽城。於是受業松崎莊太郎。島村鷲太郎。岡部運吉。來曰。同窓胥謀。欲爲翁建壽碑於同村醫音寺。以報陶恩。併諷澆俗。屬余文。予聞之歎福師弟情誼之篤。
也。乃系以詞。曰。
 鶴骨仙姿。松操竹心。英氣充滿。
 霜雪不侵。年開七帙。蒼顏如童。
 愛梅親柳。陶林之風。功在郷隣。
 百世不空。自是閑雅。念保其躬。
 龜齡容易。況武内公。強哉強哉。
 眞川曷雄。
        川越  汪水利根川丈雄撰。
    篆額  前大現東海晦巖常正禪師。
        東都知恩會主畑中俊應謹書。

 此碑文は園部雄作の経歴を大概明らかにして居る。最も推理算數に精しとあるが、算數は本庄の賜發學校で學んだものか、若くは地方の算者に師事したのか、明らかでないのを恨とする。文中に川島云々と云ふのは、此地方が川島稜と云わるゝものを指す。高多開治の出た紫竹の如きも亦川島領の一部である。
 雄作の没年月日は墓石には未だ刻してないが、過去帳には

  彰仁院心月晴峯居士、俗名雄作、行年七十歳
  大正九年十一月七日逝、父彦右衞門母久和

と見える。
 雄作が教授に当ったのは、寺へ学校を開いた時の事であるが、家へも一人や二人は習いに来たものもあった。而も三男俊治が家を継ぎ、昭和八年(1933)四十八歳で没したし、明治四十三年(1910)の洪水には床上五尺にも及んだので、書類などは其時に皆失われ、今では何も判らなくなってしまったのである。
 碑文中に長男胤三か嵩古香に学ぶとあるが、古香は野本了善寺の住職にして、其子嵩海藏師は長く史料編纂所に在職されて、私も相識の間柄である。(未完)
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)38頁〜39頁  目次

武蔵比企郡の諸算者19 大野旭山 三上義夫 1940年

 十九、大野旭山門人と額面に記載があるからには、旭山は算法を教授したに違いないが、其人の事は判明し難い。宮鼻大野氏は、元とは相当の身上で、村でも一二であったが、今はひろくした(栗原萬治氏談)。大野氏の墓所は宮鼻香林寺に在り、墓と過去帳に拠るに

  曹山淳洞居士
    文久元年酉八月二十八日逝 捨五郎
  雪山活道居士
    明治十七年二月四日    利三郎(?)

と云ふのがある。併し戒名に旭山と号するものは見当らぬ。寺へ来合せて居た人の談には、利三郎は十露盤では元と高坂村一番であった。其家に十露盤の本が沢山あったのを知って居ると云ふのである。けれども其家の当主大野次郎氏の談では、利三郎の後の栄次郎か、小堤幾蔵から十露盤を習った事はあろうが、此の家に十露盤を教えた人があったと云ふ話しは伝えがないと云ふ事である。
 大野旭山が若し宮前の人で、明治十年正代観音奉額の時に存命であったならば、其姓名は客席と云ふ中に列せあれようものに、之を見ないのは、当時既に故人であったか、然らざれば他郷人に違いあるまい。全く不判明と云ふ外はない。正代と宮鼻とは連接した小部落である。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)37頁〜38頁  目次

武蔵比企郡の諸算者18 高坂村正代 栗原萬次 三上義夫 1940年

 十八、栗原萬次は高坂村【現・東松山市】正代(しょうだい)の人、其墓に

  大正四年三月卅一日卒、初代栗原萬次、行年七拾歳
  慈厚院顯日萬居士
  至孝院妙貞日慈大姉
  大正五年三月彼岸日創立
      後嗣 大字宮鼻 栗原小一郎

と誌るす。孫栗原萬治氏の談に、祖父は十露盤が達者であって、相当に教えたし、習いに来るものもあった。珠算で何でも出来ないものはないと云ふ程であった。萬次が兄で、年次は弟である。年次は教えはせぬ。半次の方が後に没した。
 正代観音額に、兄弟共に大野旭山門人とあるが、師伝の事は伝らず、旭山は宮鼻の西のはづれの大野氏ではあるまいかと云われるのみであった。小堤幾蔵の娘の言う如く、後には小堤からも教はったと云ふのも、或は事実であらうが、其れも判明せぬ。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)37頁  目次

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

   私の家にも朝鮮人が泊まっていた

 父はJ・Nといい、ここは下中(しもなか)と言います。家は当時は農家でした。母屋、物置、豚小屋などがあって、その前に堆肥場がありました。あとは畑でした。向こうの道まで私の家の地所でした。
 家には大きな物置があって、その向かいに大きな堆肥場があって、その二階を住める状態にして朝鮮人が住んでいたと思います。父はそこを堆肥場と言ってました。下がコンクリートになっていましたが、今思うとあのような所に住んでいたのかと思います。住める状態にして住んでいたと思います。N・Iさんもいたと思います。小屋はトタン屋根のものです。朝鮮人は10人くらいいたと思います。女の人はご飯を炊く人がいたと思います。私は家に居ても父がうるさいから、あまり口をきくことはしませんでした。私は昭和4年(1929)生まれですから、15歳の頃です。いたのは知っていても、どこへ行って働いているのかわわかりません。みんなまとまって出かけていました。歩いて行きました。Iさんは父親と一緒でした。Iさんは働き、堆肥場で自炊していました。朝鮮人は、私の家には母屋と同じくらいの大きい物置がありましたので、この風呂やトイレを使っていました。

【1998年・話者:嵐山町菅谷U・N氏(1929年生まれ 69歳)・聞き手:石田貞】

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言

   朝鮮で徴兵検査を受け日本へ

 私は大正14年(1925)に韓国の全羅南道で生まれました。そして16、17歳のときに、日本から来ていた大工さんに誘われて名古屋に来ました。しかし日本語はわからないし、何もなく、腹が減ってしょうがない。旅費がないが帰りたいと韓国人の世話役の人に連絡すると、協和会*の役員がやって来て、せっかく来たのだからと鉄工場に世話してくれました。そこは三菱の下請工場でした。そこで働き、20歳のときに韓国に帰り、昭和20年(1945)の2月10日に徴兵検査を受けて甲種合格になりました。そのため、やがて徴兵の赤紙が来るのかと思っていましたが、いくら経っても来ませんでした。当時父は日本に来ていました。空襲が激しく、もし父がやられたら骨を拾わなければと思って私も日本に帰って来ました。父は群馬県の太田市にいたことがあります。そこから避難して埼玉の嵐山に来たのです。
 私は嵐山ドライブインの裏の山の方の仕事はしませんでしたが、双葉のわきの方では仕事をしました。飯場の親方は日川でした。人夫頭です。モッコを二人で担いでドロを運びました。日川さんは見回りに来ました。何の工事かという話は全くなく、仕事だけやらされました。整地作業です。高い所のドロを崩して、低い田圃に埋めたりしての平地作りです。昼飯は、飯場の女性が作ってくれた弁当を食べました。田圃のセリをとって食べたこともあります。もう一つやった嵐山での仕事は、東武東上線の脇での整地作業でした。平沢と志賀の間を走る東上線の線路がおおきくカーブしている所の小川よりの場所で、線路の南側の所の整地作業です。山が線路まで迫っているので,その山の裾を平らにして、線路と同じ高さの平地をつくる作業でした。線路に沿って3〜4メートルの幅の平地を作ったのです。何のために作るのかは聞いていていませんでした**。トラックが入るくらいの幅がありました。この工事をしているときに戦争が終わりました。
 熊谷が空襲され***、焼夷弾が落ちてきたのを覚えています。父と一緒に熊谷空襲を見ていました。焼夷弾で夜でも昼のような明るさでした。Nの飯場の畑にサツマイモの穴があって、父が私をその穴の中に入れて、父がその上にかぶさり「死ぬなら俺が先だ」と言ったのを覚えています。

【1998年5月6日・話者:嵐山町菅谷N・I氏(1925年生まれ 73歳)・聞き手:石田貞】
 *:戦時中に在日朝鮮人を管理・統制した組織。すべての在日朝鮮人は各警察署管内ごとに組織され、警察署長を会長に、特高課内鮮係りを幹事とする協和会支部に組み込まれていた。
 **:平沢・志賀の地区で建設する半地下工場の資材を下ろし、トラックに積み込むためにつくったものと思われる。
 ***:1945年(昭和20)8月14日午後11時30分頃から15日未明にかけて行われたB29による熊谷空襲。埼玉県下の空襲で最も大きな被害を受けた空襲である。

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言

  昭和21年元日に復員した
 平沢には何百人も朝鮮人がいたというけど、私が復員したときはほとんどいませんでした。工事をやっているとき私は戦争に行っていました。昭和17年(1942)1月10日に入隊しました。復員したのが昭和21年(1946)1月元日の朝帰りました。まる4年間でした。南大東島にいましたから、わりと早く復員になりました。帰ってきたときには朝鮮人は大体引き揚げて、幾人かが残っていました。

  平沢のあちこちに朝鮮人が泊まっていた
 この辺の農家の物置とか不動様とかお寺、それにH・Uさんの家、昔は種屋をしていましたが、部屋がいくつもあったのでそこにたくさんいたそうです。平沢寺(へいたくじ)にも庫裏(くり)が空いていたのでおそらくいたと思います。不動様の守り神はお犬様で2頭いたので、朝鮮人がそれを怖がって縁の下に入り込んでしまったといいます。本尊様の両脇に2体の犬がおりました。人間くらいの大きさで、赤と黒の二体でした。そこに泊まったのです。そこをみんな飯場と言っていました。

  工事の総監督今野さんが家に泊まっていた
 私の家の離れには今野さんという監督の人がいました。うちの母が朝飯だけをつくって出していました。朝飯だけでいいから、麦飯でなめもので結構だと言うので出していたといいます。私は復員してきて、母が朝飯を出すのを見ています。米の飯など終戦後ですから食べられなかったのです。帰ってきたとき今野さんはまだいました、今野さんは朝鮮人労働者の総監督の地位だったようです*。
 今野さんは一人で来ていました。家族は新潟です。今野さんが、この米を新潟に運んでくれないかと言うので、小林さんと二人でリュックで背負って持って行ったことがありました。復員して間もなくのことです。今野さんは、戦後も幾年もいました。残務整理でしょう。

  半地下工場の跡
 朝鮮人を使ってやったことは裏の方の半地下工場の建設です。道路を造って山と山の間を切り取って、そこに造ったのです。今も昔の面影はいくらかありますが、木が生えてきて分からなくなりました。私が復員した時にはまだ裏に半地下工場の建物が一棟ありました。基礎コンクリートをうって上に木造のかまぼこ型の屋根を造ったものです。鉄工場の裏に入ったところにありました。双葉に行く道のすぐ左側です。私が復員で帰ってきたのが元日の朝で、部落の人たちがぞろぞろ来るので、「なんだい」と聞くと、あそこに半地下工場ができたけれど、終戦でいらなくなったので部落でもらった。それで元日に新年のあいさつのあとみんなで見に行ってきたと言うのです。地元ではその木造の部分をもらって解体して,タバコ屋のてまえの消防小屋を作ったのです。志賀も建物の残りをもらい、小さい集会所のようなものを作りました。双葉(ふたば)のフェンスとの境に作りました。コンクリートの基礎が残っている頃、滑川高校の生徒を案内したことがあります。道の両脇にコンクリートがうってありました。下から1メートル位の高さにね。中はくつ石みたいのがうってありました。コンクリートは今のようないいものではないので、大きいハンマーで叩くと壊れました。機械はまだ全く入っていませんでした。半地下工場の大きさは、間口が5間くらい、奥行きは10間くらいだった気がします。こういう形のものはずいぶんありました。出来ていたのは、モーテルの所、双葉のフェンスの境の所などです。この辺は道の両サイドが山で、そこを切り開いて工場を造ったのです。トラックが入れるように道を造り、谷間、谷間に工場の敷地を造ったのです。
 トンネルは平沢の第二区で10メートルくらい掘り込んだトンネルがあります。そこは私の地所です。あの団地が出来るときに売ってしまいました。
 志賀の祖父が入(じじがいり)は、コンクリート打ちはまだ始まらなかった。道路は造って、谷間、谷間に工場を造るように整地をした段階です。変電所を造る予定でした。沼の所の道の両側に飯場がありました。どういう人がいたかはわかりませんが、私が復員して来たときには小笠原から疎開してきた人が入っていました。大工さんみたいでした。飯場は板張りのもので屋根はトタンでした。生活するのがやっとのものでした。
 沼の所のところにあった飯場が、鐘ヶ淵の地下工場つくりの事務所があったところです。ドライブインの手前の小さな掘りの手前、今栗の木の植えてあるところです。

  買収されていた土地が戦後返還された
 私の家は、ずいぶん広い場所が戦争中に買収されましたが、戦後そのまま返還になりました。モーテルのあった所なども、道に面した所を使っただけです。あとは畑のままでした。作付けした所を買収しても、まだそのままでした。道路に使った所は別ですが、畑は手付かずでした。少しも荒れてはいませんでした。食糧増産ですから荒らすどころではありませんでした。

【1996年9月5日・話者:嵐山町平沢H・M氏( 1923年生まれ 73歳)・聞き手:石田貞】
*:実際は鐘淵ディーゼルの疎開工場建設を請負っていた鉄筋コンクリート株式会社菅谷出張所の工事責任者だった。

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

武蔵比企郡の諸算者17 高坂村早俣 千代田勝四郎 三上義夫 1940年

 十七、千代田勝太郎、同じく早俣で、十露盤の弟子もあったと云ふ。師匠を家に頼んで置いて習ったと云ふ話も伝って居る。仕事はしないで、十露盤をしたり、正月には義太夫をやる、碁や将棋をやると云ふ事ばかりして居た。役は色々と勤めた。併し多くの事は伝えがない。墓に「泰獄軒千丈奇勝居士、大正十一年(1922)八月三十日、俗名勝四郎事、享年七十又一」とある。(孫芳助氏並に千代田仲次氏談)。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)37頁  目次

武蔵比企郡の諸算者16 高坂村早俣 千代田石郎 三上義夫 1940年

 十六、千代田石郎も亦早俣の人で、同じく小堤門人である。今は孫仲次氏の代になって居るが、石郎は男子なく、娘おむめに婿を迎え、子がなくて妹てつの娘に仲次を迎えて家を嗣いでいるのである。石郎は明治三十六年(1903)三月廿四日五十五歳で没し、戒名を輝山覺道居士と云ふ。むめ女の婿を中蔵と云ふ。むめは才女であって、正代で十露盤をも習ったが、寧ろ筆の方が得手であった。子供等を寄せて教えもした。利巧過ぎて身代を無くしたと言われ、北海道へ渡って快復を図らんとしたが、素志と違いて、中蔵は死亡し、帰って来た。そうして間もなく大正十一年(1922)五月二十九日四十八歳で没した。書類は多くあったが、今は残存するものが少ない。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)36頁〜37頁  目次

武蔵比企郡の諸算者15 高坂村早俣 橋本喜八 三上義夫 1940年

 十五、高坂村【現・東松山市】早俣(はやまた)の橋本喜八は、正代観音額に門人のあったように記してあるが、遺族の談では一度習えば忘れない人であったけれども、別に教える事はしなかった。二三代前には和尚さんか何かになって、教えてあるいた人もあった。喜八は役場へ出た。火事に会った事もあり、明治四十三年(1910)四月二十六日凡そ七十歳で没し、亡後直ちに洪水があった。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)36頁  目次

武蔵比企郡の諸算者14 高坂村川邊 中村安太郎 三上義夫 1940年

 十四、中村安太郎は小堤門人で、高坂村【現・東松山市】田木(たぎ)の川邊の人である。川邊は同村毛塚の内であるが、田木の川邊と俗称されて居る。父は吉見から婿に来たが、盲人で按摩をして居た。安太郎は十露盤だけの人で、他からも教わりに来た。土木の測量などに雇われて行く事もあった。殺生が好きで、随分遠くまでも出掛けて行った。狐や狸までも捕えた。百姓仕事は家内に任せて追った。後には中気のように没した。(川邊での伝聞に拠る)。
 高坂村大黒部(おおくろべ)、中村清重氏母子の談に、祖父安太郎は川邊在住中には教授したが、大黒部に移ってからは多少教えた位のものである。中気のようになって、左手の自由を失し。長く病んで居た。未亡人は(昭和十三年)九十歳で存命であるが、耳が遠くて話は出来ぬ、明治五年(1872)、七年(1874)、二十九年(1896)等の関流天元術など云ふ教授本が現存し、アラビア数字をも使って居る。初めには梁上二珠の十露盤を使ったが、後に一珠のものにした。安太郎は大黒部へ移ってから没したが、宮鼻香林寺に在り誠智道安信士、大正九年(1920)四月八日卒、中村紋吉「養父、俗名安次郎、行年七十歳」と刻する。実は安太郎が正しいのであろう。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)35頁〜36頁  目次

武蔵比企郡の諸算者13 高坂村正代 小堤幾蔵孝継 三上義夫 1940年

 十三、小堤幾蔵孝継は高坂村(現・東松山市)正代(しょうだい)の人、神能門人であった。遺族は満州に在住中であるが、旧宅の前の路傍に碑が立って居る。上に紀恩碑の三宇を横書し、次の碑文がある。

 比企郡高坂村大字正代小堤幾藏孝繼老人者。故断従右衞門孝光翁之門人。而和算之大家也。其門弟渡於各村凡有五百之數矣。先生常爲骸。實懇篤也。其門中活動世者。擧而不可數。於是起報恩謝之議。酬至于紀念品之事。會二三之發起者。同心協力。而聽衆生之賛助。漸決定得就此擧。宜乎門家之頌。斯恩而不能巳也。染谷氏與衆謀。欲立碑以録其事。傳之無窮。請余作銘。其辭曰。
  先生鴻。粒我育我。繄誰之力。今我不録。終忘恩。今後紀念。厥謀允臧。其恩罔極。
 維時大正八年五月上院建之。眞々田信芳撰并書。
            石工 鷲巣武平刻之

 裏面に建設者二十九人の姓名がある。
 正代青蓮寺に父母の墓はあるが、幾蔵の墓には未だ石が立ててない。同寺過去帳に依って

  大正十一年十一月十三日死亡
  樂邦道泰信士   小堤幾藏 行年八十歳

とある事を知る。幾蔵の父伴五郎は文久二年(1862)五十四歳で没し、母ちゃうは明治三十一年(1898)八十二歳で終る。屋号を小松屋と云い、幾蔵の若い時には餅屋を営み、妻は産婆をした。大きい老爺で、静かな人であった。其一代に一身上をこしらえ上げた。(青蓮寺での談)
 幾蔵の娘で、南隣の入間郡勝呂村島田に嫁した岡安さと女(明治四年生)の談に、幾蔵には弟子が沢山あって、三十七、八年頃(1904、1905)が弟子の最も多い最中であった。弟子の中にも教えた人がある。早俣の千代田石郎が一番弟子であった。
 二番弟子は田木の中村安太郎で、其家は今では大里郡で精米をやって居る。安太郎の存命中に其処へ出たのである。安太郎にも弟子があった。
 宮鼻(みやはな)の栗原真次も弟子で、さと女のやっと覚える頃に習いに来た。教えはしなかったであろう。萬次の兄平次も亦弟子であった。
 幾蔵の家は代々鍼医をして、幾蔵も矢張りやって居た。十露盤の本も鍼医の本も沢山あったが、さと女の弟が十年前に没し、他に兄弟はなく、其後に書物を尋ねて見たが、判らないでしまった。
 正代世明寿寺の観音堂に一面の算額があるが、二ヵ條の題術より成り、

  断従右衞門之門人
    當國比企郡正代村住 小堤幾藏
  明治十丁丑年第十一月

とあるが、他の算額をば見ぬ。望月神能氏に於て小右衛門の額と云ふのは、之を指すのか何うか。
 此額面には幾蔵門人中にて門人であった、早俣(はやまた)千代田石良、中新田村【現・鶴ヶ島市】高篠種治、田木村中村安太郎、早俣村橋本喜八の姓名が記るされ、此四人社中の幾人かも名が出て居る。此外にも五十余人の門人名があり、近在の郷村に分布する。且つ客席として、北園部、教員、岡部雄作、宮崎隆齋先生門人、元宿村岡田軍治郎、大野旭山先生門人、宮鼻村栗原萬次、同同同平次、小新井村島田直衛、宮鼻村澤田留次、同同政次の諸人の名がある。此記載様式は珍しいものであるが、之に依って此地方の算家若干人の姓名を知り得るのである。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)34頁〜35頁  目次

武蔵比企郡の諸算者12 高坂村高坂 加藤芳治 三上義夫 1940年

 十二、加藤芳治は高坂村【現・東松山市】高坂の人、其子である当主濱太郎氏、並に別家に出て居る其妹にも会ったが、神能の弟子で、門人百人位もあったろう事と、十九歳の時から役場に四十五年間も勤め、榛澤郡内ヶ島(うちがしま)【現・深谷市】の役場から頼まれて行って居って、二ヶ年も居り、弟子もあったが、高坂の役場から迎えられて帰って来て、五年くらいの後に没した事など伝えられて居るに過ぎぬ。遺品は何もない。
 此家では他に十露盤をした人はないと伝えて居る。位牌に拠れば、明治四十年(1907)三月二十八日没、隨雲義峯居士と云ふ。六十五歳であったと語られる。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)34頁  目次

武蔵比企郡の諸算者11 高坂村望月 神能小右衛門孝光 三上義夫 1940年

 十一、神能小右衛門孝光は比企郡高坂村【現・東松山市】岩殿の内の望月の人で、岩殿山正法寺でも算者として知られて居る事を聞く。今は三代目の輝治氏の代になって居るが、同氏の談は次のようである。

 小右衛門は十露盤が余程出来たようで、教えて居った。高坂の加藤芳治が一番弟子で、正代(しょうだい)の小堤が二番弟子であった。此二人は能い加減にやった。他にも弟子は幾らもあったが、小堤はこよみ位は出したし、門人が多かった。家の前に碑が立って居る。神能氏へも此二人が来て碑を建てたいと言ったが、二人共に裕福でないので、遂に立てずにしまった。芳治は胸算用が上手であった。役場へ出て、十露盤を使わないで、懐手をして居って、算用をばちゃんとやった。それが特点であった。

 神能氏は昭和三年(1928)十月に火事に会って、丸焼となり書物も算木も悉く焼奉した。
 小右衛門は戒名を玄昭道智信士と云い、明治五年(1872)三月二十日に没したが、享年を知らぬ。其妻ふで女は天保八年(1837)四月十四日没であるから、小右衛門の没するまでに三十五年を経て居る。恐らく七十五六歳であったろうかと云ふ。算法の師伝は判らぬ。
     『埼玉史談』12巻2号(1940年11月)33頁〜34頁  目次

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