GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2009年04月

埼玉県立興農研修所が設立される 1952年

   県立興農研修所 −近く開所式−
 わが国における特異の存在として、全国的に有名であった日本農士学校は、終戦により解散団体に指定され、その財産は法務府の所管に移されたが、その後財団法人日本農学校が、更に之を買受けて、本年(1952)三月までその経営を続けて来た。所が昨年末にこれを県が買収して県立の興農研修所を設置するという話が伝った。新聞はこれを経営難に陥ったからと報道した。そして本年一月十二日には埼玉県立興農研修所設置条例が公布されたが更に三月十八日には研修生規定が定められ、又所長、所員等職員の陣容も整って学生の募集に着手し、愈々来たる四月二十一日開所式を挙行することになった。
 研修所の目的は、東洋精神と民主主義精神とに立脚する農道を習得させると共に農業技術を研鑽し新時代における農村の指導及び将来海外進出に適する人物を育成することにあるという。
 そこで、旧来の学校教育や古い型の塾教育の殻を破って、新時代に即した指導方法を工夫し、確立すると共に、その対外活動も地元及び生徒の推薦町村や県内外の篤農家との連絡を密にすることは勿論、青年団、婦人会、農業団体などと提携して、講習会、研究会、品評会等を常時開催して社会的貢献を図る予定であるという。
     『菅谷村報道』21号 1952年(昭和27)5月5日

参照:埼玉県立興農研修所生徒募集要項

合併により菅谷村報道委員会再結成 1955年

   報道委員会結成総会
    新会長に山岸宗朋氏、副会長は杉田角太郎・安藤義雄両氏
 新しい報道委員会の結成総会は、予定通り、十二月十二日午后、菅谷小学校を会場として開催された。
 村長高崎氏が風邪で咽喉(のど)をいためていたので、代って小林助役が司会をして、会則案を審議、別掲の通りに決定して新委員会運営の根本規則が定められたが、流石に広報、宣伝を任務とする報道委員会だけあって、発言は極めて活潑であった。又、会則によって、役員の詮衡が行はれ、会長に、山岸宗朋氏、副会長に、安藤義雄、杉田角太郎の両氏が選出され、運営委員に別掲十七名が決定した。
 次に新会長が代って、就任の挨拶の後、会計に小林助役、顧問に各種団体の長を委嘱すること、事業計画、予算等を決定し、午後五時閉会。続いて新委員会の出発を祝って懇親会に入り、委員会の将来を中心に、大いに胸襟を開き、初会合にして、すでに十年の知己を得たもののようであった。
 役員及び、顧問の顔触れは次の通り。
  会長  山岸宗朋(菅)
  副会長 杉田角太郎(遠)
      安藤義雄(古)
  運営委員 関根昭二(菅) 遠藤庄吉(川) 滝沢重信(志) 内田実(平) 山下重平(遠) 関根茂章(千) 小林博治(鎌) 金井宣久(大) 根岸直次(根) 中村常男(古) 吉場弘三(古) 内田千代造(吉) 市川紀元(越) 井上清(広) 内田哲郎(杉) 大沢松平(太)
  顧問 ○村長、高崎達蔵○農協組長、侭田雪光、市川武市○小学校長、藤野秀谷(七)、小沢利政(菅)、小高正文(鎌)○中学校長、吉田熊吉(菅)、安藤専一(七)○P・T・A会長、田幡順一(菅)○婦人会長、根岸き(菅)、金子ひさ(七)○興農研修所長、野口静雄○農業委員会長、大野幸次郎○教育委員長、小林才治○議長、栗原侃一○【川越農高菅谷分校】石川次郎(分校主任)

   菅谷村報道委員会規約
第一条 本会は菅谷村報道委員会と称す。
第二条 本会は各部落選出の委員を以て構成し委員の定数は五十五名以内とする。
 (2)委員の任期は二年とし重任を妨げない。
第三条 本会の事務所は菅谷村役場内に置く。
第四条 本会は民主主義の理念に基き村民に必要なことがらを正しく知らせ明るい村の建設に資するを以て目的とする。
第五条 本会は前条の目的を達成する為に次の事業を行う。
 一報道資料の蒐集、二報道の実施、三報道効果の測定、四その他必要と認めた事業
第六条 本会には次の役職員を置く。
 会長一名、副会長二名、運営委員若干名、会計一名、役職員の任期は一ヶ年とし、重任は妨げない。
第七条 役員は委員会に於て委員の互選に依り之を決定する。
第八条 会長は本会を代表し会務を総括する。副会長は会長を補佐し会長事故ある場合は会務を代行する。運営委員は会務の運営執行に関する部分を掌る。
第九条 本会の会議は委員を以て構成する委員会と運営委員を以て構成する運営委員会の二種とする。
第十条 前条の会議は委員の過半数の出席がなければ成立しない。但し役員改選の場合は実人員が過半数であることを必要とし運営委員会に於て臨時緊急を要する場合はこの限りでない。
第十一条 委員会及び運営委員会の議長は会長が之に当り議事は全て多数決により、可否同数の場合は議長の決するところによる。
第十二条 委員会及び運営委員会は次の各号の議決に当るものとする。
 (1)委員会は本会運営の基本方針及び予算の決議、決算の承認、規約の改廃等に関すること。
 (2)運営委員会は本会の運営執行に関すること。
第十三条 本会の事務は運営委員之に当る。
第十四条 本会に顧問をおくことができる。顧問は委員会の同意を得て会長が之を委嘱する。
第十五条 本会には左の簿冊を備えなければならない。
 委員名簿、役員名簿、会議録、会計に関する簿冊、文書収受発送簿
第十六条 本会の経費は有志の醵金その他の収入を以て之に当る。
第十七条 本会の事業年度は毎年四月一日に始り翌年三月三十一日に終る。
附則
 この会則は昭和三十年十二月十二日より施行する。
     『菅谷村報道』65号 1955年(昭和30)12月20日

合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月

   村議教委選
    村政運営の新陣容成る
     古豪・新鋭・轡を並べて当選
 新村第一回の村議、教委選は予定の通り十月九日執行、夫々別項の通り、村議は投票により二十二名、教委は無投票で四名の新議員委員が当選した。今、本選挙の経過を辿れば、十月四日締切までに、菅谷地区定員十二に対し、十四。七郷地区定員十に対し十三。教育委員定員四に対し五の届出があり、両者共はげしい選挙戦に入る形勢を示したが、その後教委は一名の辞退があって、無投票となり、村議は七郷地区で一名辞退となり、選挙は村議選のみに単一化されて、稍々(やや)落つきを見せた。然し両地区とも定員外二名で、比較的立候補が少かったので、それだけ当選圏得票数の上昇が予想せられるため、選挙戦は深刻であった。
 選挙当日は好天気に恵まれ、又、村民に最も身近な村議選であるだけに、有権者の出足は極めて好調で、平均投票率、菅谷地区は、九二・六九%で、第五投票所(大蔵・根岸・将軍沢)の九六・〇五%が最高であり、第四投票所(鎌形)の八六・六八%が最低である。七郷地区は平均九一・三二%で稍々菅谷地区に劣っている。
 当選者の顔触れは、年齢では最高六六歳から最低三十歳。平均年齢五一・四歳といふ、最も油の乗ったところ。経歴では、村長、議長、教委長、農委長、農協長、その他村内各種団体の中心的地位の前歴者現職者が轡(くつわ)を並べ、新村政を議するに相応(ふさわ)しい絢爛(けんらん)たる陣容を形成している。
 初村会は十月下旬に招集、議長、副議長、常任委員等を選出して、態勢を整え、その第一歩を踏出すことになる。
 又、教委は議会選出委員決定次第、初顔合せを行うことになるが、公選委員四名はいづれも前教育委員で、その道のベテランであり、今後の教育行政に多大の期待がかけられている。

  村議当選者
    (註) (1)得票数(2)所属党派(3)住所(4)生年月日(5)村議経歴(6)公職経験
▽菅谷地区
大野幸次郎
(1)264(2)無し(3)志賀(4)明治28(1895).8.9(5)元(6)教育委員、農業委員
栗原彌之助
(1)257(2)無し(3)遠山(4)明治43(1910).3.20(5)前(6)農協理事、農調委員
福島愛作
(1)252(2)無し(3)将軍沢(4)明治27(1894).3.19(5)元(6)遺族会長、村長、公平委員
金井倉次郎
(1)239(2)無し(3)大蔵(4)明治40(1907).1.13(5)新(6)教育委員、農協監事
森田與資
(1)234(2)無し(3)川島(4)明治37(1904).7.1(5)新(6)区長、民生委員
山田巌
(1)210(2)無し(3)平沢(4)大正14(1925).1.3(5)新(6)農協理事
杉田峯吉
(1)201(2)無し(3)鎌形(4)明治39(1907).3.9(5)新(6)農業委員
青木高
(1)200(2)無し(3)菅谷(4)明治38(1905).1.7(5)前(6)青色申告会長
高橋亥一
(1)194(2)無し(3)志賀(4)明治36(1903).10.23(5)前(6)農協理事
中島勝哉
(1)189(2)無し(3)菅谷(4)明治45(1912).4.25(5)前(6)農業委員
米山永助
(1)166(2)無し(3)菅谷(4)明治36(1903).2.4(5)前(6)村議、農協監事
山下欽治
(1)161(2)無し(3)鎌形(4)明治41(1908).10.19(5)前(6)農業委員
▽七郷地区
安藤武治
(1)223(2)無し(3)古里(4)大正4(1915).8.16(5)新(6)なし
船戸常作
(1)214(2)無し(3)越畑(4)明治31(1908).10.27(5)新(6)収入役、固定資産評価審査委員
栗原侃一
(1)204(2)無し(3)広野(4)明治22(1889).10.7(5)元(6)村長、教育委員長
内田幾喜
(1)196(2)無し(3)杉山(4)明治32(18999.2.10(5)元(6)村長、公平委員、遺族会長
大塚禎助
(1)168(2)無し(3)古里(4)明治34(1901).9.16(5)前(6)国保運営委員
市川武市
(1)156(2)無し(3)越畑(4)明治35(1902).10.10(5)元(6)村長、農協組合長、公平委員
坂本幸三郎
(1)148(2)無し(3)吉田(4)明治36(1903).2.9(5)前(6)社教委、国保運営委員
田畑周一
(1)147(2)無し(3)勝田(4)明治37(1904).9.23(5)前(6)国保運営委員、監査委員
島田忠治
(1)140(2)無し(3)吉田(4)明治41(1908).3.1(5)前(6)消防団長
小林文吾
(1)127(2)無し(3)吉田(4)明治27(1894).9.5(5)元(6)教育委員

  教育委員当選者
    (註) (1)所属党派(2)住所(3)生年月日年齢(4)教育委経歴(5)公職経歴
根岸忠與
(1)無し(2)菅谷(3)明治44(1911)11.14(44)(4)前(5)消防団長
小林才治
(1)無し(2)鎌形(3)明治35(1902).1.28(53)(4)元(5)収入役
馬場覚嗣
(1)無し(2)越畑(3)明治21(1888).11.3(66)(4)前(5)村議
金子慶助
(1)無し(2)杉山(3)明治28(1895).8.24(61)(4)前(5)民生委員

  村議選挙記録
   有権者 投票者 投票率
▼第一投票所(菅谷、川島、平沢)
1123人、1057人、94.12%
▼第二投票所(志賀)
530人、494人、93.20%
▼第三投票所(遠山、千手堂)
288人、270人、93.75%
▼第四投票所(鎌形)
661人、573人、86.68%
▼第五投票所(大蔵、根岸、将軍沢)
532人、511人、96.05%
菅谷地区計
3134人、2905人、92.69%
▼第六投票所(吉田、越畑、勝田)
637人、602人、94.00%
▼第七投票所(広野、杉山、太郎丸)
819人、736人、89.86%
▼第八投票所
631人、568人、90.01%
七郷地区計
2087人、1906人、91.32%
菅谷村合計
5221人、4811人、92.15%

     『菅谷村報道』63号 1955年(昭和30)10月20日


   初村会
    議長に栗原侃一氏
     副議長 山下欽治氏を決定

 新村議による初の村会は十月二十九日午前十時から本庁会議室に於て開かれた。先づ抽籤によって議席の決定が行はれ、村議会規則の朗読の後、議長選出について休憩、菅谷地区と七郷地区に分れてそれぞれ別室にて協議。十一時三十分再開、議長に栗原侃一氏、副議長に山下欽治氏を満場一致で承認、任期は二年とし、改選の際に再選はさまたげないが、副議長が議長に昇格する習慣は作らないという附帯条件を決めた。
 正午再び休憩し、教育委員、監査委員、常任委員などの割ふりについて二時間にわたって協議し、その結果、次の諸氏を決定した。午後三時二十分散会。
  ○教育委員 市川武市
  ○監査委員 田畑周一

  常任委員
総務委員 (委員長)福島愛作 (副)大野幸次郎 田畑周一
     高橋亥一 大塚禎助 中島勝哉 市川武市 内田幾喜
土木委員 (委員長)米山永助 金井倉次郎 島田忠治 栗原彌之助
     内田幾喜 中島勝哉 船戸常作 (副)田畑周一
産業経済委員 (委員長)坂本幸三郎 杉田峯吉 市川武市 山田巌
     安藤武治 森田與資 小林文吾 (副)大野幸次郎
警防委員 (委員長)青木高 金井倉次郎 (副)島田忠治 栗原彌之助
     坂本幸三郎 山田巌 船戸常作 杉田峯吉
厚生委員 (委員長)大塚禎助 福島愛作 森田與資 (副)高橋亥一
     安藤武治 米山永助 小林文吾 青木高
                          (尚、任期は二年)

  教委臨時会
   新委員会成立
    委員長 小林才治 副委員長 金子慶助

 既報の通り、公選委員は十月九日改選により、四名当選。二十九日、議会選出委員に市川武市氏が決定したので、教委臨時会が、十一月二日、村長により招集された。
 先ず、村長の司会によって、議席を決定、年長者馬場氏が仮委員長となって、委員長を選出、小林氏を決定、続いて小林委員長となって、副委員長に金子氏を選出した。
 以上で、日程を終り、続いて七郷中学校建築促進について協議、午後四時散会した。
     『菅谷村報道』64号 1955年(昭和30)11月20日

※この菅谷村、七郷村合併後初の村会議員選挙については、『菅谷村報道』論壇に次の記事がある。関根、出野氏共に教育委員選挙無投票を批判するが、村会議員候補者の「地区推薦」については否定の関根氏と、現状止むを得ずと「肯定」の出野氏との対立がある。
   高崎達蔵「村議会議員の改選に際して」『菅谷村報道』63号 1955年10月
   関根昭二「選挙を顧みて」『菅谷村報道』64号 1955年11月
   出野好「今次選挙における関根氏の批判に対する卑見」『菅谷村報道』65号 1955年12月
 教育委員は、1956年(昭和31)まで、市町村教育委員も都道府県教育委員も、住民による直接選挙で選ばれていた。1952年(昭和27)の菅谷村教育委員選挙については、次の記事がある。
   根岸き「婦人会長の立場 −選挙後話−」『菅谷村報道』26号 1952年10月

戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(8)軍需施設建設に従事した朝鮮人の帰国と残留

   戦時下の軍需施設建設に従事した朝鮮人の帰国と残留

  戦争直後の朝鮮人の帰国
 1945年(昭和20)8月15日に日本が敗戦を迎えると、旧菅谷村の志賀、平沢、千手堂などで半地下工場の建設に従事していた朝鮮人労働者は、役場に転出届を出して次々と村を出て行った。役場に残る「諸証明簿」(昭和二十年・昭和二十一年)の転出先には日本の地名や「帰鮮」などと書かれていた。その頃各地で、朝鮮人の帰国への大きな動きが起こっていた。
 戦後の日本政府は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令・勧告のもとで政治を行なっていた。GHQは、日本の降伏後間もなく、日本の朝鮮植民地支配の下で日本に渡って来ていた朝鮮人約200万人を全員帰国させるために「在日朝鮮人帰国船事業」を開始していたのである。
 翌46年(昭和21)2月4日付けで県教育民生部長・県警察部長から地方事務所長、警察署長、市町村長宛に、「朝鮮人の送還促進に関する件」(以下,「昭和二十一年 庶務 菅谷村役場」文書による)という通牒が来ている。そこには「朝鮮人の帰還希望者は規定の枠の外に余席ある場合は、送還促進のために2月1日より当分の間随時帰鮮しうると厚生省社会局長から通牒があった。周知徹底を。」と指示して、次のように記されている。

 1 帰鮮希望者には市町村長は、転出証明書のほかに帰還証明書2通を発行。
   (内1通は、運賃後払いのため乗車駅で回収 厚生省負担)
 2 右証明書により各駅で乗車日と乗車列車の指定を受け、各自乗船地に集合。
 3 帰還者出発の際、市町村役場で旅程に応じて相当日数の食糧、乳幼児用食品調味料その他を携行させる。乗船地(博多)到着後の食糧は地方援護局が無料給付する。

 この文書によって、朝鮮人の帰国に当たっての町村役場、厚生省、地方援護局などの果たす役割を示し、周知徹底させて帰国を促進させようとしていることがうかがわれる。

  1946年3月18日の朝鮮人一斉登録と帰国の意思確認調査
 翌3月18日には、全国で午前零時の時点での在日朝鮮人の一斉登録を行なっている。この登録のときに帰国の意思の確認が行われた。この確認内容の資料は残っていないが、後で述べる5月7日付けの残留希望者についての諸調査依頼と、7月1日付けの帰還希望者の職業調査依頼によると、3月18日調査のとき旧菅谷村にいた朝鮮人の帰還希望者は91人、残留希望者が50人で、合計141人が調査日の時点で菅谷村にいたことが分かる。それに対して、日本の敗戦の翌日8月16日から翌年3月17日(3月18日の朝鮮人一斉調査の前日)までに菅谷村から出て行った朝鮮人の数は、「昭和二十年・二十一年 諸証明簿 菅谷村」によると1596人であるから、それを加えた合計1737人が戦争終結時に菅谷村にいた朝鮮人労働者の数を考える基礎になるものといえよう。

  帰国手続きの具体化
 46年(昭和21)4月27日には、帰国希望者に対する手続き等について指示する「朝鮮人等の帰還に関する市町村の手続き並に注意すべき事項」が比企地方事務所長から市町村長に送られてきた。これは2月4日付けの文書よりも、非常に具体的なものになっている。

 1 帰還者の指定
  イ 県が朝鮮人送還の月日、人員、区域指定を行い、市町村が管内関係者に伝える。
  ロ 朝鮮人聯盟支部長と密接な連絡をはかる。
  ハ 帰還者指定にあたり、朝鮮人聯盟の要求する役員は除く。
  ホ 警察署または駐在所に連絡して行なう。
 2 帰国証明書関係の事項
  イ 証明書一通交付   ロ 証明書の呈示により預金払戻、荷物の託送をなしうる。
  ハ 米穀通帳その他の物資の通帳を差し出させる。
 3 携行品および託送荷物
  イ 預金 1人につき1000円  ロ 預金通帳、保険証券、小切手は持参しうる。
  ハ 荷物は50キロまでのものを1人2個。
 4 乗車団体券の入手
   市町村は証明書をまとめて最寄り駅に行き、団体券を入手して帰還代表者に渡す。
 5 食糧の配給  5〜7日程度配給する。
 6 梱包用資材は斡旋する。
 7 種痘証明書の所持。
 8 出発時の人員点呼  市町村係員は出発時乗車駅に赴き人員点呼をなすこと。
 9 帰還拒否者の名簿作成。

 なお、「帰還通知書様式」には、次のようなことが書かれている。

  (昭和21年)3月18日の帰還希望調査で帰還希望を登録した貴殿は、県庁から何月何日帰還と指令がありましたから、至急準備をして右期日に間違いなく帰国してください。万一その期日に帰還しなかった方は、帰還に関する特権を失って帰ることが出来ません。

 この帰還手続事項「1 帰還者の指定」のロに「朝鮮人聯盟支部長と密接な連絡をはかる」と述べられているが、在日朝鮮人聯盟は日本の敗戦によって1945年10月15日に結成された在日朝鮮人最初の団体である。埼玉では、45年11月15日にその朝鮮人聯盟埼玉県本部委員長鄭淳悌から県知事・各警察署長・各町村長に対して、帰国に関する輸送の件、失業対策、食糧対策などについて交渉の申し込みがなされている。ロの規定は、その交渉
に沿ったものと思われる。ハの帰還者指定から「朝鮮人聯盟の要求する役員は除く」となっているのは、朝鮮人をまとめる役員として除かれたものであろう。
 最後の「帰還通知書様式」のところに述べてある「万一その期日に帰還しなかった方は帰還に関する特権を失って帰ることが出来ません」の文中の特権というのは、4月27日付けの帰還に関する文書に規定されているすべての事項の適用を受ける権利を失うということを意味していた。

  残留希望者の理由
 同年5月7日には、厚生省社会局長からの照会として、3月18日の在日朝鮮人登録時の残留希望者については、残留理由を5月20日までに地方事務所に報告するようにとの通知が来ている。残留希望者の男女別と在留希望理由は次のようになっている。

 菅谷村残留希望者の年齢別・男女別
  年齢   男   女   計
 1〜5歳   2    0    2
 6〜10    2    1    3
 11〜15    0    0    0
 16〜20    2    2    4
 21〜25   16    2   18
 26〜30    7    1    8
 31〜35    7    0    7
 36〜40    2    0    2
 41〜45    3    0    3
 46〜50    0    1    1
 51〜55    2    0    2
  計     43    7   50

 残留希望者の理由(44人分)
帰国後の生活不安         5人
入獄中                2
朝鮮建国促進青年同盟      4
学校入学               2
日本人妻のもとに入籍       2
日本人妻 結婚11年 子ども5人  5
帰還希望をしない          2
朝鮮に父母・兄弟・親戚なし    6
帰国しても家財,田畑なく生活難  10
本籍は南朝鮮、居住は北朝鮮のため 6

 この残留希望者の内訳を見ると、男性が50人のうち43人と圧倒的に多いが、これは菅谷村に来た朝鮮人が半地下工場建設という仕事の性質上男性中心であったことによるものといえよう。また残留希望の理由を見ると、約半分近くの人が、帰国後の不安、朝鮮に父母・兄弟・親戚なし、帰国しても家財や田畑がなく生活難という理由をあげている。これは日本に来ている間に故郷での生活基盤が失われていることから、日本での残留を選んでいるといえよう。それから日本人妻との結婚関係や日本での学校入学などから残留を希望しているケースである。これらの残留した人たちが、戦後の在日朝鮮人のもとをなしていくのである。

  GHQへの送還経過報告
 46年(昭和21)11月27日付けで、埼玉県民生部長から菅谷村長宛に「朝鮮人(北鮮を除く)の計画送還に関する経過報告について」が来ている。それによると朝鮮人の全国的な送還計画は完了になるので、「当初からの送還経過を聯合国最高司令部に報告せねばならないので」12月8日までに地方事務所に提出するようにと書かれている。その報告書の控によると、

(一) 三月十八日登録に依る帰還希望者数 九一
(二) 登録後十一月末迄増加数
  (1)他府県よりの転入 一 
(三) 登録後十一月末迄減少数
  (1)他府県へ転出  四九
  (2)その他 一
(四) 輸送対象数    四二
(五) 登録後十一月末迄送還者数
  (1)計画輸送による送還者数 二〇
  (2)自由帰還者数      なし
(六)特権喪失者     二二

 このGHQの報告した文書によると、3月18日に91人いた帰還希望者は、その後他府県から1人転入で92人になったが、その後他府県への転出などで50人減少し、差し引き42人が帰還対象者になったが、実際に11月末までの帰還したのは20人であった。最初は帰還を希望していたが帰還しないで残った人が22人となった。この人たちが特権喪失者と記されているのである。

  写真 「昭和二十年 庶務 菅谷村役場」 
     「昭和二十一年 庶務 菅谷村役場」
     「昭和二十年 諸証名簿」
     「昭和 二十一年 諸証明簿」
     「報告書控綴 菅谷村役場援護係」

参照:戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(1)平沢と志賀地区
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(2)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(3)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(4)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(5)目撃者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(6)労働者の証言
   戦時下の半地下工場建設と朝鮮人労働者(7)目撃者の証言

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 遠山志 ルビ・注

   遠山志
遠山ハ宿部菅谷ヨリ平沢千手堂ヲ間ニ置キ、一小隧道(ずいどう)【地中をくりぬいて造った道】ヲ貫キ、超エテ本村ノ西偏(せいへん)【西にかたよる】ニ懸在(けんざい)【はるかに遠く存在する】シ、其右ヨリ後ニ折廻ハシ立テル屏風的連峯、頂(いただき)【山頂】ニ據リテ乾(いぬい)方【北西の方角】小川町ノ下里區ニ境シ、東顧セバ則(すなわ)チ上記ノ隧道穹巓(きゅうてん)【おおぞら】ニ離、坎(かん)【正北の方角】線ニ長ク横臥セル馬背状ノ一弧山脈ニ限ラレ、幹區トノ距程(きょてい)【隔たりの程度】殆ンド一里ニ亘ル、而シテ秩嶺(ちつれい)【秩父の山々】ヲ出デ下里ヲ過ギ、西ヨリ東ニ涒下(とんげ)【はきだしくだる】セル槻川ノ清流ヲ前面ノ泉水トモ看做(みな)ス、平崖脩路(しゅうろ)【長い道筋】ノ幾(ほと)ント半里許(ばかり)ニモナンくトシテ、左右ニ廣リ、後辺ニ狹ク点在逸居(いっきょ)【わがままにくらす】セルノ當部落ハ、斯(この)川下流ノ「小野馬渓」【大分県の景勝地「耶馬溪」になぞらえて命名したものか】ノ峽近ヲ徒渉(としょう)【徒歩で川をわたる】シテ、直チニ吾部落ト同観ノ情態(じょうたい)【ようす】ナル玉川村田黒區ノ小倉部落ニ通ジ、通径ノ西嶺ニシテ、該川ノ南巓ニ一處天嶮(てんけん)【自然の要害】ノ城蹟(じょうせき)【しろあと】在リ、現時ハ川南タル玉川村區ニ隷ストイヘドモ、往古足利幕末戦國時代ニハ廣ク此地方ヲ領有シ、而(しか)モ当地ヲ冠称(かんしょう)【頭につけてなのる】セル遠山右衛門大夫藤原光景ノ在城タリ、旦尚當區ノ旧村名ヲ稱號トセル遠山寺ハ今現ニ區内ニ存在シテ、遠山氏ノ過去帳ナルモノ文政天保ノ交(まじわり)【であい】マデハ正ニ蔵安(ぞうあん)シタリトイフ、夫(それ)ニ據(よ)レバ「當寺開基無外宗関居士」天正八年(てんしょう)(1580)三月廿三日光景父政景也」及ビ「開基桃雲宗見大居士」天正十五年(てんしょう)(1587)五月廿九日遠山右衛門大夫藤原光景云々、方今(ほうこん)【ただ今】モ此写置ハアリトゾ、當山ハ上州元緑野郡御嶽村曹洞宗永源寺末院ニテ長谷山ト號シ慶安二年(1649)御朱印地十石ヲ賜ヘリ開山漱怒全芳永正十五年(えいしょう)(1518)十二月十五日宣寂又梵鐘ハ當山十一世崕【山偏に圭】峻和尚ガ永禄十一年(えいろく)(1568)中再鋳セシモ其前鐘ハ遠山光景家臣杉田吉兼(該區杉田ヲ氏トセル旧家アリ其祖先ナルベシ)トイヒシ人大檀那トシテ造献セシモノナルガ後年廢壊ニ至リシヨリ右和尚再造シタル由後鐘銘ニ彫載シ在ルモノナリ云々当區ハ戸数二十九ナリ

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 千手堂志 ルビ・注

   千手堂志
千手堂ハ東平坦ニ宿部菅谷ニ連リ、西嶺越ニ壷峡遠山ニ續キ、南槻川ヲ涯(かぎ)リテ鎌形ニ面シ、北阪谿(はんけい)【坂を成した渓谷】ヲ逢フテ平沢ニ會シ、幅員大約(だいやく)【おおざっぱに】五町四方陸田(りくでん)【はたけ】饒々(じょうじょう)【豊かなさま】叢林(そうりん)【木の群がっている林】富之、比較的小安營ノ閑境タリ、若シ夫レ地先(じさき)【居住地または耕作地と地続きの野山や水面をいう語】槻川橋梁ノ固定架設ヲ視(み)ル日アラバ是亦菅谷區ニ拮据(けっきょ)【せまる】ヲ宣スルモ遜色(そんしょく)【みおとり】ナキ向上ノ時ナラン、昔宝暦(ほうれき)(1751-1764)以前ハ大岡越前守世禄(せろく)【世襲の扶持】ノ領地タリシ最モ好歳月ノ下ニ勤行(ごんぎょう)シタル後、清水領ヲ經テ直轄領ノ高序(こうじょ)【高い順番】ニ達セルノ末維新ノ昭代(しょうだい)【太平の世】ニ入リタルニテ、該區将来ノ樂望ヤ其日記ヲ繰(く)リテ期待セラルルモノアラン、此地ヤ遠通ニ聞エタル千手観世音アリ、其ガ堂塔ノ因リテ古村名ノ起リタリシヲ傳フ、中古当観音堂ニ鰐口(わにくち)【社殿・仏堂の正面軒下に吊るす金属製の音響具】アリ銘曰「奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本寛正二年(かんしょう)辛巳(かのとみ)(1461)十月十七日」願主釜形四郎五郎ト鋳刻シタルモノ是也、然(しか)ルニ其後間モ無ク奈何(いか)ニシテ轉遷(てんせん)【めぐり移る】セシカ、斯(この)古什宝(こじゅうほう)【古い宝物】ハ本州入間郡黒須村(現今豊岡町)蓮華院(れんげいん)内観音堂ニ在リト云フ、又此方千手堂ハ猶(なお)下リテ後幻室伊芳(げんしついほう)ナル一僧力ヲ盡シ一格ノ寺トナシ、普門山千手院(ふもんざんせんじゅいん)ト號ヲ進メタルヨリ當寺開山ト仰(あお)ガレ、天文十五年(てんぶん)(1546)二月朔日(ついたち)遷化(せんげ)【高僧の死去】セリ、教旨ハ曹洞宗ニシテ隣區遠山遠山寺末(まつ)【末寺(まつじ)のこと】タリ、以上ニ據(よ)レバ此処モ亦数百歳往古ヨリノ人寰(じんかん)【人の住むべき世】ナリ、銘中ノ大工「越(えつ)【越州・越後のこと】松本」ハ北人ニシテ苗名ノミ識(しる)シ、願主釜形ハ鎌形人ニシテ、旧慣(きゅうかん)【昔からのしきたり】苗字ヲ省(はぶ)キ村ト名ノミ署セシモノナルベシ、千手堂戸数三十六有リ、百年以前ノ四十餘戸ニ照考(しょうこう)【つきあわせて考える】セバ彼ノ碓嶺西外東信人中先衰後盛ヲ經過シタル的伏綿ノ主張ノ存セルニヤ

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 根岸志 ルビ・注

   根岸志
根岸ハ本村ノ東裔(えい)【すえ】ニシテ、西ハ大蔵ニ隣リ、東ハ唐子村河外ノ神戸(ごうど)區ニ續キ、北ハ都幾川ヲ隔テヽ同村河内ノ上唐子(からこ)區ニ対シ、南ハ将軍沢ニ接シ、東西一町半南北二町戸数十四以(もっ)テ一大字ヲ成セリ、斯(この)地々盤【地盤(じばん)=勢力の範囲】ノ世説(せせつ)【世上の風説】ニ曰ク、北方河原ノ幅廣キコト二百間餘リ有ルガ、上(のぼる)ニ南方山根ノ流狹キコト二間ダモ無キニ似(に)ズ、其ガ沿流(えんりゅう)【流れに沿ったところ】処々ニハ皿淵(さらぶち)・女淵(おんなぶち)・袈裟王淵(けさおうぶち)ナドイヘル名稱往々(おうおう)【あちこち】ニ存セリ、是此(これこの)狹流ガ前古(ぜんこ)【むかし】都幾川筋ニシテ如上(じょじょう)【前に言った通り】ノ地盤ガ川北ナリシヲ、中昔(ちゅうせき)【疇昔か、さきごろ】水瀬渝(かわ)【変】リテ、後世地盤ハ川南タリト、武蔵風土記或書ヲ援(ひき)テ「熊谷次郎直實ガ末孫佐渡守實勝六代ノ孫熊谷佐渡俊直武蔵國比企郡根岸村ニ住シ、同國松山ノ城主上田能登守ニ属シ、根岸村及ビ和泉村ヲ知行(ちぎょう)【土地を支配すること】ス」トアリト載(の)セタリ、蓋(けだ)シ【たしかに】小領主小部落ニ住セシ便宜(べんぎ)ヨリ揣摩(しま)【あて推量】スレバ、同方面ノ和泉ナルベシト認案(にんあん)【みとめる】スルヲ然(しか)リトス【その通りである】、乃(すなわ)チ世説桑滄ノ変(そうそうのへん)【桑田変じて滄海となるような大変化、世の変遷のはげしいことをいう】亦所以(ゆえん)【理由】ナキニ非ラザルナリ、且(かつ)文政天保ノ交(まじり)タル百年ノ往代ニ在リテ、十六戸等ニモ註(ちゅう)【かきしるす】セラレシ家数ノ、サマデニ増減ヲ覺エザル如キハ、其里習(りしゅう)【村のならわし】質實静淡自ラ綽々(しゃくしゃく)【ゆったりとしたさま】タル興趣(きょうしゅ)【おもむき】アルベシ

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 将軍澤志 ルビ・注

将軍澤ハ唐子村河外ノ大字神戸(ごうど)區ヲ東ニ受ケ、村中鎌形區ヲ西ニ控(ひか)エ、南面亀井村須江・奥田ノ二大字ニ笛吹峠外ニ相接シ、北背(ほくはい)ハ則(すなわ)チ大蔵・根岸ノ隣保(りんぽ)【隣近所の人々】両區ナリ、當地草昧(そうまい)【世の中が未開で人知の発達していないこと】ノ昔、利仁将軍藤原魚名卿東下ノ途次(とじ)【途中】此辺ノ山澤(さんたく)【やまとさわ】ヲ観察シテ暫時(ざんじ)休留(きうる)【とどまりやすむこと】セシコトアリ幾何(いくばくか)【いくつか】点在ノ民家部落ヲ成(な)スニ及ンデ、将軍澤ヲ里稱(りしょう)【村の名前】ト為シ、復々(またまた)【その上】其処ニ同将軍ヲ景慕(けいぼ)【仰ぎ慕うこと】スルノ紀念祠(きねんし)【記念のやしろ】ヲ齋祀(さいし)【祭祀カ 先祖を祭ること】シ大宮権現社ト崇仰(すうぎょう)【仰ぎ尊ぶこと】シ来レルモノ、乃(すなわ)チ古村名ノ濫觴(らんしょう)【おこり】シタル所以(ゆえん)【理由】ニシテ今尚其先蹤(せんしょう)【先人の事跡】在リ、蓋(けだ)シ【まさしく】當所ハ僻在(へきざい)【偏って存在すること】ニシテ敞邑(しょういう)【土地が高くて見晴らしの良い村】偉郷(いきょう)【大きくて立派な村】ニ隔(へだ)ツト雖(いえ)ドモ、眼前籥嶺ノ如キ天嶮(てんけん)【自然の要害】ノ要(かなめ)ヲ司(つかさど)ル【支配する】ノ名門ハ夙(つと)ニ【早くから】先智(せんち)【先人のちえ】ヲ沃(そそ)グ【人の心につぎ込んで教えること】ニ伴(ともな)ヒ草創(そうそう)【草分け】ノ他所ニ比シ速(すみや)カナルモノ是茲(これここ)ニ因(よ)ラズンバアラズ、斯(か)ク既ニ千年ニモナリナントセルニ拘(かか)ハラズ人烟(じんえん)【人家】ノ強(しい)テ多キヲ加ヘザルコト亦是ニ之縁(よ)ル、然ル故ニカ降リテ正安(しょうあん)(1299-1302)元徳(げんとく)(1329-1331)アタリナル徳川家中古祖代ニモ此地ヲ領有セシ事跡ヲ傳フ、即チ上毛(じょうもう)【上野の国、現群馬県】世良田長樂寺蔵什文書ニ

  世良田長樂寺為ニ修理用途一奉ニ永代寄進一、武蔵國比企郡南方将軍沢郷内二子塚(茶臼塚)入道跡在家【民家】壱宇(う)【軒】、並田三段毎年所當(しょとう)【官に納めたもの】八貫文ノ事
  右依為ニ氏寺(うじてら)【諸名家が一族の冥福と現世の利益とを祈願するために建立した寺】一為ニ末代修理一永代奉ニ寄進一者也、然者(しからば)及ニ子孫一不レ可レ被ニ違乱(いらん)【法にたがい秩序を乱すこと】一背(そむく)ニ此之旨一輩(やから)者永可レ為ニ不孝仁一仍自筆之状如件(くだんのごとし)
   元徳二年(げんとく)(1330)八月二日   源満義

這(これ)ハ徳川家中古ノ祖世良田参河守ノ子沙彌(しゃみ)【出家しても未だ正式の僧になっていない男子】二郎教氏入道静真ガ隠栖(いんせい)【世俗をのがれて閑居すること】ヲ名トシ入道ノ後、二子塚ニ別館を營ミ居リ、生前ハ遥(はるか)ニ香華院長樂寺心力(しんりょく)【心のはたらき】ヲ盡シ在リシヲ、没後其孫ナル彌次郎満義祖父追孝(ついこう)【菩提をとむらうこと】ノ為、彼舘宅・免田(めんでん)【年貢課役免除の田地】ヲ寄附シ子孫ヘモ智(し)【知の通用字】ラセル也、當區ハ戸数三十戸ナリ

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 平沢志 ルビ・注

    平澤志
平澤ハ菅谷宿西数町ニ在(あ)リテ西南ハ村中ノ遠山區、西北ハ小川町ノ下里區ニ連(つらな)リ、南ハ隣保(りんぽ)千手堂區、北ハ同志賀第二區ニ續キ戸数四十七ヲ註(ちゅう)【書き記す事】セル。中部ニ居ルモ土地ヲ詮(せん)スル平澤寺名閣ノ由来ガ語ル所ニ想到(そうとう)【思い至る】セバ、往時(おうじ)ハ少ナクトモ一隆(りゅう)【さかんなさま】邑城(ゆうじょう)タリシヲ懐(おもは)ハズンバアラズ。當國風土記稿或ハ宗長(そうちょう)【「東路の津登」の著者】萬里(ばんり)【「梅花無尽蔵」の著者】等各長袖者(ながそでもの)【長い袖の衣服を着ていたことから、武士にたいし公家医師神官僧侶学者などを称した】流ノ傳ヘルモノニモ照ラシ自餘(じよ)【このほか】諸般ノ徴什(びじゅう)【わずかな詩篇】ニ獲(う)ルコトモ尚然リ。先ヅ寺ハ元本州川越仙波中院ノ門葉(もんよう)【一門】成覺山實相院平沢寺トテ上古大浮圖(ふと)【仏陀に同じ、転じて仏寺僧侶の意】タリシモノ。土地ハ寺領ニシテ里称(りしょう)【村里の名前】亦之ニ因(よ)リ著(あら)ハレシナリ。東鑑(あずまかがみ)【吾妻鏡・鎌倉幕府の事跡を変体漢文で日記風に編述した史書五十二巻】「文治(ぶんじ)四年(1188)七月十三日丁未(ひのとひつじ)武蔵國平澤寺院主被付僧求寛訖(おわんぬ)」ト載(の)セ在(あ)リ。是明(あきら)カニ鎌倉政府ノ當院ヲ上格ニ執達(しったつ)【上意を受けて下に通達すること】シタルニテ、爾来(じらい)【それより後】星霜(せいそう)【歳月】ト倶(とも)ニ体裁(ていさい)流移シ、一旦衰頽(すいたい)セシヲ戦國ノ末頃本宗【天台宗】関東名山ノ智識(ちしき)【高僧】慈光寺ノ貫主(かんす)【天台宗の座主】重永ニ頼(よ)リテ中興シ之ヲ中興開山ト仰ゲリ。斯師ヤ寛永(かんえい)九年(1632)十二月二十九日遷化(せんげ)【高僧の死去】セリトゾ。尚此地ノ不動尊モ昔該院(がいいん)ノ本尊ニシテ、白山社モ同院ノ鎮守タリシト傳フ。其不動堂ノミニテモ慶安(けいあん)二年(1649)先規ニ據(よ)リ御朱印(しゅいん)【官許のしるし】六石五斗ヲ賜ハリシ程ナレバ、カタガタ維新以前ニ於ケル當山ハ仮令(たとい)大初中興ノ隆年間ニハ似(に)モ附(つ)カザリシニセヨ、要スルニ此里ハ如上(じょじょう)【今述べた通り】ニ浄域ト相應ジテ中興或ルコロホヒノ幾久方(いくひさかた)【いついつまでも】ハ頗(すこぶ)ル著名ナリシ一廉(ひとかど)【ひときはすぐれた】ノ閭閻(ろえん)【里の門】視セラレタルヲ。

嵐山町の桜 1965年・1966年・1981年・1986年

『菅谷村報道』159号(1965)と167号(1966)に掲載された関根昭二「花だより」と、『嵐山町報道』298号(1981)に掲載された関根昭二「桜の花を訪ねて」を地区別に並べてみました。

・菅谷
    花だより11 菅谷小学校の桜
    花だより12 嵐山ロッジの桜
    花だより13 菅谷中学校の桜
    花だより14 農業研修センターの桜
    花だより15 嵐山駅の桜
    花だより16 重忠館跡の桜
    花だより18 菅谷神社の桜
    桜の花を訪ねて2 菅谷小学校のさくら
    桜の花を訪ねて3 大妻嵐山女子校のさくら
    桜の花を訪ねて4 菅谷館跡のさくら

・むさし台

・川島
    花だより22 薬師堂の桜

・志賀
    花だより19 宝城寺の桜

・志賀二区
    桜の花を訪ねて6 チサン団地のさくら

・平沢
    桜の花を訪ねて5 平沢寺のさくら

・平沢二区

・遠山
    桜の花を訪ねて9 遠山道のさくら

・千手堂
    桜の花を訪ねて8 千手院のさくら

・千手堂二区

・武蔵嵐山
    花だより23 武蔵嵐山の桜

・鎌形
    花だより17 鎌形小学校の桜

・都幾川桜堤
    都幾川右岸を桜並木に(1986)
    嵐山さくらまつり 桜の開花情報

・大蔵
    花だより20 安養寺の桜

・根岸

・将軍沢
    花だより21 明光寺の桜
    桜の花を訪ねて7 将軍沢のさくら

・古里
    花だより5 兵執神社の桜

・吉田
    花だより2 七郷小学校の桜
    花だより3 七郷中学校の桜
    花だより4 お手白神社の桜
    桜の花を訪ねて13 手白神社のさくら
    桜の花を訪ねて10 七郷小学校のさくら

・越畑
    花だより8 八宮神社の桜
    桜の花を訪ねて11 越畑のさくら
    桜の花を訪ねて12 金泉寺のさくら

・花見台

・勝田
    桜の花を訪ねて14 勝田のさくら

・広野
    花だより9 広正寺の桜

・広野二区

・杉山

・太郎丸

武蔵比企郡の諸算者34 概括 三上義夫 1941年

 三十四、比企郡の数学に就いて、調査した所は右の如きものであるが。松山には川越藩の源屋もあった事だし、数学に就いても事蹟があらうと思はれる。吉見地方、元の横見郡に於ても江和井の田邊倉治郎一人は知り得られたが、他に人名をだも確かめ得ないのも、物足りない。大串の毘沙門堂に算額があったと聞いた事もあり、参拝したけれども、見出す事は出来なかったが、既に失はれたのか、場所の違ひか、あの地方にも算者の若干人はあっても宜いやうに思はれる。其他の地方にも見聞に觸なかったのが、幾らもあらう。
 古い時代に就いて知る事が出来ないのは、何れの地でも同様ではあるが、此れも残念である。上述の記事からでも、如何に過去の算者が忘れられて居るかを思ふとき、時代のやや古いものは凡て忘却の中に落入って、知り得られないのであらう。
 明治初年の地租改正の時に、地方の諸算者が丈量などに活躍したのは、全国一般の事情であったが、比企郡に於ても同じく其事情を見る。一般に実用の方面に関係の多かった事も、相当に認められる。諸算者の教授は大部分が其であった。実用以上のものになると、教授を受けるものが、殆んど稀なのが常である。而も其実用的と云はれる教授もずっと古い時代からの事情を継承したのが多く、比企郡でも同様であったやうである。
 算額奉納の風も亦た比企郡でも見られるのであり、知られて居って既に亡失して、存在した事の有無すらも再び世に知られる事の無いものも、幾らもあったであらう。
 現在の算額では、平村【現・ときがわ町】慈光寺のものが最も内容の優れたものであるが、其れは師匠たる市川行英が有力者であった賜ものである。之れに名を署した三人の門弟が、殆んど事蹟の知られないのは惜しい。行英は武州に於て川越、忍の両藩に関係があり、入間郡原市場【現・飯能市】の山間にも門人があったが、竹澤の松本寅右衛門が武州での其門下の最も優れたものと云ふ事が出来やう。諸算額の現存のものの中では、武州各地で見受けた約三十面の中に就き、慈光寺のものが最も優なるものだと謂はねばならぬ。
 比企郡の諸算家は、此市川系統と、江戸の古河氏清の系と熊谷の戸根木並に二州劍持に師事したものと、此三者を除けば、他は単に関流と称したものはあるが、如何なる師傅に基づいて居るかを知られないもの計りである。
 比企郡の諸算者中には、他へ出掛けて巡廻教授したものもあるが、余り遠く出掛けたやうでもなし、又一人の市川行英を除いては、他から来て遊歴教授したものも、知られて居らぬ。松枝誠齋の如きは、大里郡吉見村小八林【現・熊谷市】に寓して、其門人は今の北埼玉地方に多かったが、元との横見郡地方は直ちに隣接しながら、此人の関係も未だ見聞に触れない。
 此の如き事情で、凡て地方的に局限されては居るが、此一郡に於て三十余人の算者の事蹟が曲がりなりにも見出されたのは多とすべきであらう。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)23頁〜24頁、28頁 目次

武蔵比企郡の諸算者33 大河村増尾 宮澤彦太郎 三上義夫 1941年

 三十三、宮澤彦太郎翁は大河村【現・小川町】疊の人で、昭和十二年(1937)二月に年七十餘、前記杉田久右衛門家の分家杉田槌氏の向いに住み、足袋屋あして居る。竹沢村勝呂の吉田源兵衛に算法を学び、源兵衛から授けられた書類をも蔵する。翁の談に拠れば、源兵衛は教えに来たもので、寝泊りして教えたのである。源兵衛から伝えられた書類には

   算法序曰……      吉田勝品謹白
   ……
   九章……
   明治十三年辰第八月廿七日
             關孝知先生九傳
           武陽男衾郡勝呂村
             吉田源兵衞平勝品
             七秩有三才頓首敬白
   右和歌二首
   右諸術勉強中八算見一等迄に 吉田勝品識之
     凡三百四十二術
   明治十三年辰九月大吉日、
      八算見一相除諸術合三百五十五術
   算法指南實誌大尾。   宮澤彦太良。
  算法秘術諸約翦管術五十問。
  ……
  明治十四年巳十二月三日終、……
  右秘傳不殘致傳授候也。
   秘術不レ可レ致二他見一候事。
       比企郡疊村 宮澤彦太郎

 此伝授書は吉田氏の遺品中のものと略々同じである。源兵衛が諸門人へ授けた事も、此れから知られる。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)23頁 目次

武蔵比企郡の諸算者32 秩父郡大河原村安戸 豊田喜太郎 三上義夫 1941年

 三十二、豊田喜太郎は秩父郡大河原村【現・東秩父村】安戸の人で、松本寅右衛門の門人であった。秩父郡ではあるけれども、小川町から大河村を経て隣接し、地理的には比企郡への関係が多い土地である。松本の居村竹沢村木呂子へは山越しに隣って居る。安戸から十町餘の同村御堂の淨蓮寺に、豊田の算額がある。

   關流松本寅右衛門門人
          豊田喜太郎
   明治三十四年(1901)一月吉辰

とありて、三問題を記るす。墓に

得應量仙信士、明治三十七年(1904)九月十九日死、俗名豊田喜太郎、享年六十三

と刻する。屋号を小松屋と称し、当主英輔氏は曾孫であるが、算木はあったが今は無く、十露盤をしたと云ふ話しも餘り出ないし、誰から習ったかも家には伝えがない。弟子には宮崎大九、宮崎與十郎などあったと云ふ丈けが記憶に残る。
 宮崎大九氏は医師にして娯山堂医院主であり、他の門人松澤義海了匚三郎氏は昭和十年(1935)に同村々長であった。私は両人の談話を聞く。
 地租改正の時には十露盤が必要であった。義海村長の時に喜太郎は役場へ出て居った。喜太郎の弟子は百人もあったろう。宮崎氏は一の弟子であった。十露盤の秘法を授けると言われて居た。十露盤は嫌いだけれども、一生懸命に海┐童發譴拭I算では真の法ではない。宜しくない。自分の方から頼んで、覚えて置いて貰わなければならぬと言って弟子に引入れられたのである。先づ天元の一を定めると言った。其訳はと聞くと、師匠から教わった通りにするのだと答える。何だか知らないが、本があった。四五寸厚さのものであった。それを寄こす訳であったが、貰わなかった。喜太郎は十露盤で倉の錠をあけたとか、乗馬の人をはぢき落したとか云ふ話しがあった。十露盤は甚だ達者であった。とても調宝がられて居た。地租改正の時には、宮崎氏父元育が安戸の戸長であり、自宅を役場にして居たが、喜太郎は筆生で来て居た。其時の測量などは喜太郎がやった。地図なども作る。宮崎氏は十代も医者をした家柄であり、祖父通泰は長崎に遊学して、和蘭語の辞典をも作って居る。其碑文も写してあるが、今は関係がないから省いて置く。元育は医者で戸長をするのは出来ないが、喜太郎が居るから、戸長も勤まったのである。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)22頁〜23頁 目次

武蔵比企郡の諸算者31 大河村赤木 田端徳次郎 三上義夫 1941年

 三十一、田端次郎、同じく大河村赤木の人、友さんの弟子である。友さんは文学もあったが、此人は十露盤だけであった。教えもしたが、近所のものが習いに来ると云ふ程度に過ぎなかった。明治三十年(1897)二月三日、五十歳で没し、戒名を潤叟自禪定門と云ふ。昭和四年(1929)正月「算法子弟」が其墓を建てた。隣の谷合で炭焼をして居た双生の兄弟などが、晝には働いて、夜分に習いに来たものもある。(遺族及び其他の談、墓誌に拠る)
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)21頁〜22頁 目次

武蔵比企郡の諸算者30 大河村赤木 山口三四郎(赤木の友さん) 三上義夫 1941年

 三十、山口三四郎は大河村赤木の人で、其家は山間に分け入って、高い所にある。墓地に碑が立って居り、正面には順挙義山居士とあり、碑文がある。長文であるから、抄出して置く。

山口順山、幼ノ名ハ友三郎、字ハ和重、通稱ハ三四郎、……文化十癸酉年七月三日生、……八歳字ヲ喜三、丹下常次ニ草隷算ヲ習フコト三年、常次ハ入間郡上野ノ人也、次テ久永山ニ往テ釋天榮ニ師事シ、國史漢典ヲ學ブ七年而シテ家ニ在リ、父ノ業ヲ受ケ、稼織ヲ勵ム。天保元年歳十八、奮然トシテ……是ヨリ山川ヲ跋渉シ、……卒ニ名四方ニ聞ユ、既ニシテ歸省シ、弟子益々進ム、私學舎ヲ設ケ郷黨ヲ訓誨シ、傍ラ商事ヲ盛ンニス、嘉永年間望尤高シ、部内ノ擢用スル所トナル。地頭細井氏ノ組頭タリ、遂ニ意ヲ果タサス、退隱シ、唯タ歌詠ヲ以テ樂ミトナス、諸子詞壇ニ陪遊ス、弟子蓋シ三百人焉、一科或ハ數科ニ通ズル者一百有五十餘、一日嗣子ヲ召テ曰、……吾レ一週間後他界ノ客トナル可シ、汝ニ家書數百編ヲ授ク、……將來謹テ放逸スルコト勿レ、果シテ言ノ如ク七十七ニシテ終ル、實ニ明治二十二丁丑ノ四月廿二日也。……

 箕法の教授用に作った二寸厚さの本があると云ふ事であるが、探りても一寸出て来なかった。非常に覚えが良く食事中でも書見して居ると云ふ風であった。普通には赤木の友さんの名で知られて居た。十露盤では倉の錠前でも開けると言われたとの話しもある。此人に就いても算法の師伝は判らぬ。
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)21頁 目次

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