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2009年05月

嵐山町が東松山都市計画区域に編入される 1967年12月

   嵐山町都市計画区域に編入さる
 かねてより建設大臣宛申請中であった都市計画法適用の件は、去る十二月十二日付で、次の如く建設省告示第四五五五号で公表となった。

  建設省告示 第四五五五号
 都市計画法第二条第二項の規定により、埼玉県東松山都市計画区域を昭和四十二年十二月十二日における東松山市、比企郡嵐山町及び滑川村の区域に変更する。
 昭和四十二年十二月十二日
                     建設大臣 保科茂
     『嵐山町報道』179号 1968年(昭和43)1月20日


   嵐山町都市計画審議会が開催される 1968年3月

 嵐山町都市計画審議会条例は、昨四十二年(1967)九月の定例会において条例化されたもので、都市計画上必要な事項を調査審議する機関である。
 既報のとおり同年十二月十二日付で、当町が都市計画法の適用を受け、東松山都市計画区域に指定されたことにより、このたび条例に基づき委員十九名を委嘱して、去る三月一日第一回の審議会を開催した次第である。
 会長には条例第三条の規定により関根町長が就任、審議会設置の趣旨、委員会の構成員等についてあいさつされた。
 次に委員の議席を抽せんにより決め、都市計画の進め方について講師県都市計画課石原技師の詳細にわたる説明を聴取し、種々質疑を重ねて午後四時過ぎ閉会した。
 審議会の構成メンバー次のとおり。
一、会長       関根茂章
一、委員
 ○議会(五)
   議長      高橋行雄
   副議長     権田和重
   総務委員長   中島元次郎
   土木産経委員長 鯨井正作
   民生文教委員長 新藤武治
 ○学識経験者(一一)
   米山永助 市川武市 木村平六 瀬山芳治
   山岸宗朋 山田巌 松本晴次 森田與資
   島本圭三 奥平美太郎 中村昇
 ○役場職員(三)
   助役      安藤専一
   教育長     奥住清
   総務課長    中島立男
一、事務局
 長 建設課長    内田房男
 係 住民課長    新井一平
 〃 産業課長    大野優弘
 〃 都市計画係長  高崎行允
     『嵐山町報道』182号 1968年(昭和43)3月25日

関根茂章氏が菅谷村長に当選する 1964年

   村長選挙は9月6日に決定
 自民党総裁選挙、埼玉県知事選挙に続く注目の本村村長選挙は9月6日と決定した。選挙管理委員会(会長岡村定吉氏)は7月12日に会議を開き村長選挙について協議した結果、8月30日告示、9月6日(日曜日)投票日とし即日開票することに決定した。従って誰が新しい村長に選ばれるかは同夜10時頃には判明するものと思はれる。
     『菅谷村報道』154号 1964年(昭和39)8月1日


   関根新村長出現
     三八一五票で圧倒的勝利
 青木村長の任期満了による村長選挙は九月六日行なわれたが即日開票の結果、関根茂章氏が三八一五票で青木高氏を約二千九百票引き離して圧倒的勝利を収め合併後三代目の村長に選ばれた。新人関根氏がこのような大差をもって前議長の青木氏を破った原因は私心を去って村政に当るという誠意が村民に共感を呼んだことと青年としての誠実さが買われたものである。関根氏は三十九才という若さであり今後の菅谷村の発展に如何なる政治的手腕を発揮するか各方面から非常な期待と注目を寄せられている。

  各候補者の得票数
 関根茂章 三八一五票
 青木高   九三六票
   無効   四五票

 今度の村長選挙は新人関根茂章氏と政界のベテラン青木高氏の一騎打となった。関根候補は新人とは云いながら教育委員長をつとめてをり、九州帝大を卒業した学歴とその識見、人格はつとに村民の注目するところであり、非常な期待がかけられていた。然し家庭で農業をやっており果して村長に出馬するかどうか全く疑問であった。菅谷地区の議員と区長は数度にわたってかつぎ出しの会議を開いて懇請した結果、関根氏もついに腰を上げ八月五日にその決意を披瀝した。従って関根候補は菅谷地区の絶対の支持の上に選挙戦を進めることができ七郷地区に対してのみ運動の主力をそそぐことになった。
 青木候補は七郷農協組合長の市川武市氏が七郷地区から押されたにもかかわらず立候補しないことになったのに乗じて市川氏を支持した勢力をそのまま青木支持に振り替へたような態勢をつくりあげた。従って青木候補は事務所を七郷農協の隣りに置くと共に責任者に井上清氏(青木氏議長の時、副議長をつとめた)をすえ、推薦者に市川武市、田畑周一、坂本幸三郎、藤田正作、島田忠治、小林辰見氏らの村議経験者から各区長、納経し部長、養蚕支部長らに至る七郷地区全有力者を網羅したような陣容となった。
 八月三十日告示と同時に関根候補は関根昭二氏宅事務所を開き責任者瀬山修治氏の指揮の下に議員、区長、七郷地区の協力者らを混えて一せいに選挙運動を展開したが青木候補は供託書類が整はないために八月三十日には選挙運動ができなかった。関根候補は七郷地区に顔が売れていないため全勢力を傾注して七郷地区民への浸透作戦を行いあらゆる会合に出てその所信を訴えた。関根候補はその政策として愛と道義の行政、生産を高める行政、これらを実践するための人づくりの行政を展開することを主軸として若さと体力にものを云はせ朝早くから夜遅くまでくまなく走り廻った。
 青木候補は立候補の当初から暴力議会、暴力署名を旗じるしに関根候補を決定するまでの議会のとった立場を非難すると共に関根候補に対する署名運動が非民主的であるとして激しく攻撃した。
 このため今度の選挙は政策なき争いとなり、関根候補だけが村政担当には私心を去って当りたいという決意を持って村民に呼びかけると共に青年には希望を壮年には働くよろこびを老人には心の安らぎをという理想郷の実現に努力することを訴えたため、七郷地区においても青年、婦人を主力として次第に関根候補は支持を得、最終段階には七郷地区にも関根支持ムードが圧倒的となるに至った。政界のベテランと云はれ議員経験も長く議長もつとめた青木候補が次第に先細りに人気がしぼんで行ったのは何と云ってもその人柄にあると云えよう。関根候補の人気上昇は新人としての魅力と人格の高さによるものであろう。

  略歴
 関根村長の略歴は次の通り
 熊谷農学校を卒業後、三重高等農林(現三重大学)を経て九州の帝国大学に入学、農業土木科を専攻して卒業、直ちに帰郷して自家の農業経営に従事し今日にいたる。
 昭和二十七年より二十八年にかけてアメリカに渡り、農業実習生(第一回)として農業実習、農業経営、農村調査などを行う。この間アメリカの開拓魂に触れて共感を覚える。
 二十九年、シンガポールで開かれた世界の青年会議に出席し、世界の青年代表と教育、文化、経済等の振興と発展について研究と討論をかさねた。なお、東南アジア諸国を遍歴し、燃え上る民族運動の息吹を体感した。
 三十年、東京で開かれたアジア農村再建会議に出席しアジア農村の再建の方途を研究した。
 三十一年より三十八年まで県農村振興顧問として県内農村の振興計画の作成の助言と指導に当った。
 三十四年より県社会教育委員、三十七年より県農政審議会委員、三十三年より村教育委員、三十六年より教育委員長として村教育行政にあたり、七中技術科教室と七小給食室の建設委員長となり菅中体育館建設委員長であった。
 他に県立興農研修所及び菅谷農高講師として農村青年の教育にあたった。
 家庭は乳牛十頭、田畑二町を経営し、造林事業にも注力している。

   村長選挙投票率
 投票所 有権者数 投票者 投票率(%) (前回)
 第一  1579   1369  86.70   90.45(菅・川・平)
 第二   497    455  91.54   91.91(志賀)
 第三   294    285  96.93   86.85(千・遠)
 第四   634    546  86.11   82.19(鎌形)
 第五   527    479  91.58   92.80(大・根・将)
 第六   633    531  83.88   90.93(太・杉・広・勝)
 第七   782    621  79.41   88.00(吉・越・勝)
 第八   601    510  84.85   89.04(古・吉)
  計   5543   4796  86.52   89.12
   註、前回とは31年(1956)9月9日の選挙をいう。

     『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日

参照:中村常男「村長選挙に際し村民及び村議会に望む
   関根茂章「村長就任に際して
   青木義夫「村長退任の挨拶

嵐山町公災害防止条例が制定される 1968年4月

   嵐山町公災害防止条例
(目的)
第一条 この条例は、他の法令に特別の定めのないものについて、公災害防止に関する認識を深め、公衆衛生、住宅並びに農業環境の保全を図るため、事業または荒蕪地から生ずる公災害を防止し、もって町民福祉の増進に資することを目的とする。
(定義)
第二条 この条例において「事業」とは次のものをいう。
 一、農地法又は住宅地造成事業に関する法律の適用を受けない土地にかかわる建造物、宅地造成地、地下資源の採掘その他地形を変更する事業
 二、物の製造、加工、修理その他の事業
2. 「荒蕪地」とは、市街地区域において、放置され、雑草雑木等が密生して火災発生の虞(おそ)れある土地をいう
3. 「公災害」とは次のものをいう
 一、地形の変更に起因する溜池流入量の減少
 二、地表面の浸蝕、流亡及びその堆積による溜池貯水量、水路通水能力の減少
 三、斜面の崩壊、道路、堤塘等の破壊
 四、「事業」から生ずる汚水、廃液又は煤煙により生物に与える害
 五、「荒蕪地」より生ずる火災の害
(公災害防止の義務)
第三条 「事業」の実施者(以下「事業主」という)及び「荒蕪地」の所有者(以下「所有者」という)は、当該事業及び土地から発生する公災害を未然に防止するよう努めねばならない。
(事業主の届出義務)
第四条 事業主は第二条の事業を行なおうとする場合は、あらかじめ事業計画書と共に公災害防止の方法並びに計画を町長に届け出なければならない。
(立入調査)
第五条 町長は、第四条で届け出を受けた計画の土地並びに施設及び第二条で規定した荒蕪地について立入調査をすることが出来る。
(事業主並びに所有者への勧告)
第六条 町長は事業主及び所有者若しくはその管理を委託された者に対し、公災害を未然に防止する措置をするよう勧告することができる。
(委員会への諮問、協議)
第七条 町長は第四条の規定により届け出があった場合、次の各号に該当する委員会又は機関に諮問し、その対策について協議することができる。
 一、工場誘致委員会
 二、農業委員会
 三、消防団その他公災害防止に必要と認めた機関
(協議書の作成と指導)
第八条 町長は必要と認めた場合は、当該事業主並びに所有者との間に公災害防止に関する協議書を作成し、その内容の実施について、完全な履行をなすよう指導又は勧告することができる。
(規則への委任)
第九条 この条例の実施に関し必要な事項は町長が規則で別に定める。
 附則
この条例の施行は公布の日から施行する。
     『嵐山町報道』182号 1968年(昭和43)3月25日

嵐山町区長設置条例が施行される 1968年4月

   嵐山町区長設置条例
(目的)
第一条 嵐山町は、町執行機関と住民との間の連絡、流通を円満ならしめ、町勢の進展と住民福祉の増進をはかる機関として区長を置く。
(設置基準)
第二条 区長の設置基準は次のとおりとする。
 1. 大字を単位とし、一名の区長を置くことを基本とする。
 2. 前号の場合において、大字内の世帯数が八十世帯を超える場合にあっては、八十世帯を基準として全世帯数を八十で除して得た数(ただし、一以下の端数を生じた場合は、一に繰り上げる。)の範囲内で区長を増加設置することができる。
(職務及び担当区域)
第三条 区長は、当該区域住民を代表し、第一条の目的達成を計るものとする。
(委嘱)
第四条 区長は、第二条の規定に基づく設置の地域住民の選出した者につき、町長がこれを委嘱する。
(任期)
第五条 区長の任期は二ヶ年とする。ただし選出区の事情その他の理由により任期途中において退職した場合における後任者の任期は、前任者の残任期とする。
(実施規定)
第六条 この条例実施に関し必要な事項は、町長と区長が協議して別に定める。
 附則
(施行期日)
 この条例は、昭和四十三年四月一日から施行する。
     『嵐山町報道』182号 1968年(昭和43)3月25日

村にも戦争の足音が

  軍用物資の供出や愛国貯金
 馬内地区に残されている区有文書には、七郷村農会長栗原侃一から各農事実行組合長に宛てた「軍用藁納入ニ関スル件」という文書がある。これは県農務課長からの通知で、納入先は陸軍糧秣本廠となっている。日付は1937年(昭和12)9月16日である。当時日本はこの年の7月7日の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに日中戦争に突入している。こうした背景の中で軍への供出が次第に増えてくる。翌38年(昭和13)には軍用馬鈴薯の供出が行われている。
 1939年(昭和14)1月25日の組合長会議では、「昭和14年度軍部供出ニ関スル件」という議題で相談が行われている。内容は次のような要請に対しての供出計画を立てることであった。

  干甘藷一戸当タリ三俵  生甘藷ニテ一戸当タリ約十五俵
  外ニ、大麦、馬鈴薯、白菜、小松菜、梅干、ホーレン草
  以上、供出計画ヲ樹テル事
  綿メリヤスシャツ(大)一枚、(小)一枚、股引(中)一枚以上割当ヲサレル

 干甘藷と生甘藷の割り当て数は一戸当たりの数であるから、馬内全体ではかなりの数になる。大麦以下のものは数が書かれていないがかなりの負担になったものと思われる。
 1939年(昭和14)2月10日の組合長会議では「兎供出ノ件」が話し合われている。兎の毛皮は大陸に出兵している兵士の防寒用に必要になったものであろう。
 同年4月20日の臨時総会では、協議事項として「愛国貯金最低一戸一円以上積立ツル事 四月三〇日迄」について、話し合われている。「一戸一円以上」という金額は、戦時下のぎりぎりの生活のなかでの貯金であることを示している。
 1941年(昭和16)3月には軍用藁の供出が全農家に課され、9月には軍用梅干の供出が、一戸80匁の割り当てで行われている。1匁は3.75グラムであるから、一戸300グラムの供出ということになる。

  忠霊塔建設基金の積立
 日本は1941年(昭和16)12月8日にアジア太平洋戦争に突入し、戦線が中国だけでなくアメリカとの全面戦争になった。しかし日本軍が優勢であったのは約半年間だけで、1942年6月のミッドウエー海戦では主力の航空母艦を失い、以後アメリカ軍の反撃が始まった。日本軍の戦死者・傷病者が急速に増えていった。厳しい戦況に入った1942年度の馬内区有文書の記録を見ると、「忠霊塔建設基金積立帳 馬内部落」という文書が残されている。これは戦死者の霊を祀る塔を建てるための積立金の台帳である。馬内の全戸から毎月お金を集めて積み立てるもので、第1回目は1942年(昭和17)の5月から始まっている。金額は一戸何銭というもので、これを毎月集めて馬内地区として役場に持参したが、お金の領収印には七郷村収入役の印が捺されている。忠霊塔は七郷村として建てるためであった。この積み立ては43、44年(昭和18、19)と続けられている。

  軍用機献納運動
 1945年(昭和20)には、7月20日付けの軍用機献納金領収書が残されている。「金四拾円也 但シ軍用機献納金」と書かれている。埼玉県史によると、これは大津敏男知事の名で呼びかけられた軍用機献納運動で、1942年12月太平洋戦争一周年を記念して始められた。県下の町内会・隣組が組織をあげて取り組んだ。この軍用機「埼玉隣組号」献納運動は陸海軍両省への二機分の代金16万円を目標に運動が展開された。馬内区有文書に残る領収書はそのときのものと思われる。苦しい生活のなかで金を集めて軍用機献納金をやっと7月20日に納めたが、日本は8月14日にはボツダム宣言の受諾を決定し、翌15日の放送で国民に戦争の終結が知らされた。戦争は日本の無条件降伏で終わったのである。
 これは1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年のアジア太平洋戦争と続いた長い戦争の時代、15年戦争ともいわれる時代の終わりであった。

戦時下の馬内部落会生活刷新申合規約 1941年

  大政翼賛会のもとで
 日本は、1931年に満州事変、1937年に日中戦争へと突入して中国全土に侵略戦争を拡大していったが、ヨーロッパでは1939年にドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が始まった。日本政府はこの戦争には介入しないと声明を出したが、日本の始めた日中戦争は泥沼化して、国民生活は窮乏し、米・木炭・マッチさえも不足する状況であった。日本は日中戦争の打開のために資源の豊な米英仏蘭の植民地のある東南アジア進出をめざすようになった。1940年に入ってドイツ軍がヨーロッパ各地を征服すると、日本は外交方針を変更して日独伊三国同盟を締結し、やがてアメリカと対立を深めるようになった。
 こうした状況のなかで、国内的には新体制運動が提唱され、10月に大政翼賛会が発足した。この会は近衛首相を総裁に、各県知事が地方支部長をつとめ、郡市町村に各支部が置かれ、支部の事実上の末端組織は町内会・部落会であった。大日本産業報国会・大日本婦人会なども傘下におさめた。他方それまでの既成政党はすべて解散になっていて、一元的な戦争指導体制のもとで国民を總動員する態勢がつくり上げられていった。
 ここで紹介する「馬内部落会生活刷新申合規約」はこうした新体制運動・大政翼賛会運動の展開される状況のなかで、1941年(昭和16)1月につくられたものである。
 規約は、
 第一章 時間厳守 第二章 結婚 第三章 出産 第四章 葬儀 第五章 法要 第六章 入営 応召 除隊 帰還 第七章 年末年始 第八章 其ノ他
からなりたっている。第一章の時間厳守以外は、地域における社会儀礼にかかわることすべてにわたって徹底して簡素に行なうべきことを規定している。戦時体制下の統制された厳しい国民生活の実態を知る手がかりになる貴重な資料として全文を収録した。

 七郷村大字古里 馬内部落会生活刷新申合規約
   第一章 時間尊重
第1条 各自時報(サイレン・ラジオ)ニヨリ時計ヲ常ニ正確ニスルコト
第2条 公会ハ勿論一般会合ニハ指定時間ヲ確守シ他人ニ迷惑ヲ掛ケザルコト
第3条 総テ会合ニハ集会ノ種別及開会ノ予定時間ヲ通知スルコト
第4条 各自ハ指定時間前十分乃至五分ノ余有ヲ見計ヒ出発ヲ心掛ルコト
第5条 司会者ハ遅刻者ノ有無ニ拘ハラズ指定時間ニ開会シ閉会ノ定メアル時ハ之ヲ厳守スルコト
第6条 遅刻欠席ノ場合ハ其ノ理由如何ニ係ラズ開会前司会者ニ口頭又ハ文書ヲ以テ届出ヅルコト
   第二章 結婚
第7条 見合ハ質実簡素ヲ旨トシ高価ナル服装饗応(きょうおう)ハ絶対ニ為サズ御茶菓子程度タルコト
第8条 結納(ゆいのう)ハ儀礼ノ程度ニ止ムルコト 即チ袴帯小袖等ヲ廃シ料金トシテ百円以内トシ昆布(こんぶ)鰹節(かつをぶし)塩物(しおもの)友白髪(ともしらが)末広(すえひろ)慰斗(のし)等ノ内一種又ハ数種ヲ取合セ贈ルコト
第9条 衣服調度品ハ双方合意ノ上簡素ニシテ新調ヲ見合セ箪笥一棹夜具一組以下トシ其他止ヲ得ザル場合ハ実用品ヲ旨トスルコト余裕アル者ハ貯金通帳国債証書ヲ持参セシムルコト
第10条 式服ハ新調ヲ見合セ新郎ハ可成国民服又ハ団服トナシ新婦ハ留袖以下トシ振袖胸模様ハ絶対ニ廃止シ着替色直シ(いろなおし)【結婚の披露宴で新婦が式服を別の衣服に着替えること】等ハ為サザルコト
第11条 挙式ハ神聖厳粛ニ行ヒ左ノ規定ニ依ルコト
1 国家【国歌】奉唱 2 宮城遥拝 3 祖先ノ霊ニ夫婦ノ宣誓ヲ為サシム 4 一同拍手(手〆)ヲ行フ 5 媒酌人又ハ親ヨリ答辞ヲ述ブ 但シ宣誓文ハ適宜選文ス
第12条 披露宴ハ近親者特別縁故者隣組班トシ隣組班ノ御祝儀ハ金五拾銭トス
第13条 饗応ハ其ノ席ニテ喫食シ得ラルル程度トシ酒ハ一人当リ二合以内トス 引物御祝儀御返シ等一切行ハズ衣服調度品ノ披露ハ絶対ナサザルコト
第14条 婿嫁ノ披露ハ其ノ隣保班ニ限リ他ハ婦人会部落等ニ於テ便宜紹介スルコト
第15条  迎ヒ一元客ハ廃止シ膝直シ【嫁のはじめての里帰り、またその日に新郎が新婦側の人たちと杯を交わす宴】等ノ土産物ハ為サザルコト
   第三章 出産
第16条 出産祝誕生祝節句帯解(おびとき)孫ノ祝等ハ精神ヲ主トシ親族以外ノ御祝ハ長男長女限リトシ羽子板弓濱(ゆみはま)鯉幟(こいのぼり)雛人形等ノ物品贈物ハ廃止シ御祝金五拾銭以下トシ隣保班ニテ取纏メ贈ルコト
第17条 御宮参帯解等ニテ晴着ヲ新調セザルコト
第18条 種痘(しゅとう)見舞等全廃シ一切ノ配リ物ヲ廃スルコト
   第四章 葬儀
第19条 死亡通知ハ近親者及故人ト親交厚キ者タルコト
第20条 隣保班ハ葬儀ノ時刻ヲ部落会長ニ通告シ会長ハ部内ニ急報シ必ズ一戸一名以上会葬セシムルコト 但シ学齢未満者ハ之ヲ略ス
第21条 喪服ハ団服若シクハ国民服又ハ禮ヲ失セザル服装タルコト
第22条 出棺時刻ヲ厳守シ日暮レニ迫ラザル様心掛クベキコト
第23条 撒銭與銭等ハ廃止スルコト
第24条 食事ハ立働人以外ニ出サザルコト 但シ親戚特別縁故者ニハ簡素ナル食事ヲ出スモ差支ナシ
第25条 香典ハ親族及特別縁故者以外ハ廃止スルコト
隣保班ニ於テハ米壱升ヲ以テ香典ニ代フルコト
第26条 香典返シ及弔問者ニ対シ礼状ヲ廃止スルコト
第27条 供物花輪生花弔旗ノ贈答ハ全廃スルコト 但シ場合ニ依リ花壱対ヲ贈クルコトヲ得
第28条 忌中ハ簡素ヲ旨トシ親族隣組範囲ニ止メ酒ヲ全廃シ料理ハ凡テ其ノ席ニ於テ喫食シ得ラルル程度トシ引物等ヲ全廃スルコト
   第五章 法要
第29条 法要(一周年忌、三周年忌)ニ於ケル参列者ハ親族特別縁故者隣保班ニテ小範囲トシ饗応ハ第28条ニ準ズルコト
第30条 香典ハ第25条ニ準ズルコト
第31条 一七日(初七日)四十九日命日彼岸于蘭盆(盂蘭盆)等ノ墓参ハ祖先崇拝ノ美風ナルガ為メ之ガ励行ニ努ムルモ親族縁故者以外ハ金品ノ授受ヲ行ハザルコト
   第六章入営 応召 除隊 帰還
第32条 祝宴ハ簡素ヲ旨トシ近親者及隣保班特別関係者トナシ出発前鎮守社頭ニ挙式ヲ行ヒ部落会員ハ一戸一名以上各種団体員合同ニ参列スルコト
第33条 鎮守社頭ノ祝酒ハ壱升トシ字内持チタルコト
第34条 入隊応召ニ於ケル祝宴ハ可成出発前時トシ酒一人当リ一合引物等為サザルコト
第35条 祝旗ハ国旗一本トシ歓送迎ニハ可成手旗一本ヲ持参シ所定ノ場所マデ行動スルコト
第36条 入営応召ノ際襷ヲ廃止シ胸部ニ日ノ丸記章ヲ付スコト
第37条 除隊帰還ニ付イテ手土産記念品等ヲ廃止スルコト
   第七章 年末年始
第38条 四方拝ハ小学校ニ於テ拝賀式ヲ行フ者ノ外各鎮守ノ社頭ニ於テ年賀ノ挨拶ヲナスコト
第39条 年賀回禮ハ廃止(当分ノ内)スルコト 但シ新婚当時三ヶ年位ハ此ノ限リニ非ラズ
第40条 門松ハ芯松ヲ廃シ枝松(三尺以内)トシ棚木等モ新調セヌコト
第41条 中元歳暮贈答及手土産等形式的ナモノハ全廃スルコト
第42条 吉凶等ノ贈物ハ部落会議或ハ隣保ニ於テ統括シテ贈ルコト
第43条 神参旅行湯治等ノ留守見舞及餞別贈答手土産贈答ヲ廃止スルコト
第44条 上棟祝負普【普請】請見舞等廃止シ上棟祝等飲食ヲ簡素ニシ棟梁送リハ廃止スルコト
第45条 神社祭典縁日日待等ノ飲食物ノ贈答ハ全廃スルコト
第46条 病気見舞ハ慰安ヲ旨トシ形式的ノ飲食物ノ饗応ヲ止メルコト
   第八章 其ノ他
第47条 毎朝洗面後神社ニ禮拝スルコト
第48条 祝祭日ノ国旗掲揚ヲ励行スルコト
第49条 一切ノ酒宴ニ於ケル酒ハ一人当リ二合以下トシ盃ノ献収【献酬 杯をやりとりすること】ヲ行ハザルコト
第50条 吾ガ家ノ日記ヲ記載スルコト
第51条 各章中実行ニ入ル当事者ハ部落会長ノ意見ヲ承リ執行スルコト
第52条 部落会長班長ノ訂正ヲ求メラレタル時ハ其ノ指示ニ従フモノトス
第53条 部落会長ハ挙式其ノ他実行ニ関シ遠慮ナキ指導ヲ行フコト
   附記
 1 当分ノ内 祝事ニテモ半紙ヲ付ケルコトヲ中止スルコト
 2 当分ノ内 夜番ノ夜食米ヲ止ムルコト
 3 生活改善実行ノ上、祝儀葬儀、出兵、帰還、長男長女御誕生ニ於テ部落会ノ基本財産デ応分ノ寄付金ヲ為スコト
 4 本規約ヲ実行スル事ニ於テ承諾印ヲ取リ置コト
  昭和十六年一月
   毎月部落定会ハ七月ノコト(午後一時ヨリ三時)
   但シ五、六月ハ止ムルコトアリ

昭和恐慌で疲弊した農村の経済更生運動 七郷村と古里・馬内地区

  七郷村の経済更生運動
 1929年、アメリカにおける株の暴落を発端として世界恐慌が始まった。日本にとっては昭和4年のことで、昭和恐慌ともいわれている。そのなかで農村の恐慌は激しかった。米や繭をはじめ農産物の価格が急落した。その上副業の労賃も低落し、失業して農村に帰る人も増え、農村の窮乏が深刻になった。各地で小作争議が盛んに起こってきた。政府は国内の危機の打開をめざして、対外的には1931年(昭和6)柳条湖事件を起こして満州事変に突入し、翌年には満州国を建設した。そして農村救済の名の下に満州移民政策を推進し始めたのもこの頃からである。
 こうした状況の中で政府は、国内的には1932年(昭和7)に疲弊した農村の救済をめざして経済更生運動に取り組むことになった。埼玉県ではこれを受けて農山村経済更生委員会(会長 県知事広瀬久忠)を発足させて、同年度経済更生計画樹立町村として30か村を指定し、1933年(昭和8)年度には35か村、34年度に31か村、35 年度24か村、36年度32か村、指定は計152か村におよんだ。
 七郷村は1933年に経済更生村に指定された。七郷村経済更生委員会の委員長は栗原侃一村長であった。青年団長田畑周一が技術員に採用され、彼に阿部豊作、市川武一、藤野菊次郎が協力して運動の推進にあたった。彼らは熊谷農学校出身で、経済更生運動を中心になって担った。翌年34 年には「比企郡七郷村経済更生計画」がつくられ、5月1日が更生記念日に定められた。この計画に沿って、生活改善とともに農産物の増産とその統制が打ち出された。増産については自給経済を目標として灌漑用水の確保(特に溜池)、農作物の品種改良などによる増収、養蚕の充実、肥料の自給などが計画された。共同作業所、採種圃、指導圃などもつくられた。統制については米・小麦・蚕繭などの共同販売。生産用品・家庭用品などの共同購入が行われた。
 農家小組合は農事実行委員会として再編された。第一農事実行組合、第二と番号をつけ、七郷村に22の農事実行組合が成立した。
 七郷村の経済更生運動は1935年(昭和10)に富民協会から、36年には帝国農会から表彰された。
 七郷村は1936年(昭和11)に経済更生特別助成町村に指定された。この助成金によって運動は財政的な裏付けを持つことになった。農村更生協会の資料によると、1000円以上が投じられる計画になっていたのは、農道の改修、簡易診療所設置、貨物自動車(オート三輪車)設置、共同作業場設置、電話架設、溜池の新設及び改修,用排水路の新設、共同収益地設置、共同集荷処理場新設,堰の改造、堆厩肥舎新設、灰置場新設、暗渠排水設備、堆肥盤の設置など。役場前に時報(サイレン)の設置。
 しかし計画は出来たが、翌1937年(昭和12)に始まる日中戦争で日本が中国との全面戦争に突入すると、国民の物心両面における総動員体制が必要と叫ばれるようになり、経済更生運動は戦時体制のなかに組み込まれ、計画は縮小されていった。

  古里・馬内地区での経済更生特別助成事業
 七郷村大字古里(ふるさと)の馬内(もうち)地区について、区有文書を1936年(昭和11)の経済更生の取組みを見ると、国、県、農会などの補助と自己資金によって地域の共同集荷場・共同収益地・種畜場の設置や、個人の堆肥場や豚舎の建設・改造などが行われている。

 共同集荷処理場設置   
 共同収益地設置   1反 開墾 奉仕人夫 70人 国庫助成金 40円
 簡易堆厩肥舎建設  県費補助 7円 自己負担63円20銭
 堆肥舎改造     村農会補助1円 自己負担 5円
 豚舎改造      自己負担 5円
 共同利用種畜場設置 国庫補助 15円 組合負担69円40銭
 豚舎改造      自己負担 21円20銭

 これらの事業は日中戦争の前年の昭和11年度に行われた事業だったので、予定通りに取り組まれ完了届けが出されている。

  個人計画書の提出
この他に、1936年(昭和11)に農事実行組合員各個人に対して、経済更生のために作成させた「個人計画書」が残されている。
 その主な項目を挙げてみる。

 一 我家ノ更生目標   一 改善ノ要点(生産 消費 販売 金融等)
 1 家族及農業従事者 2 土地 3 土地利用 4 生産計画 5 自給計画 6 現金収支目標 7 貯蓄計画 8 負債整理計画

 最初の「我家ノ更生目標」を見ると、「負債整理」を上げている家が5戸、その家の「改善ノ要点」を見ると2戸が「消費節約シテ貯蓄ヲ実行」、2戸が「多収穫ヲ得ル事、支出ヲ減ズル事」、一戸が「消費節減、勤労増進」と記している。他の14戸は無記入。
 算用数字の項目は、それぞれについて現在(昭和12年)と5年後の更生目標(昭和17年)の欄に数値で記入するようになっている。(全部で12ページ)
 これを見ると、各家の家族構成、自作小作の状況、生産計画(田畑、養蚕、畜産、林業その他)、現金収支(農業収入、農事外収入、家計費など)、貯蓄計画、負債整理計画などが分かる。12ページにわたる各項目を記入するのは大変なことであったと思われる。そのためか昭和12年の現在欄はどうにか記入しても、5年後の昭和17年の更生目標の欄は空欄が多い。厳しい状況の中で5年後の目標までは手が回らなかったのではなかろうか。

  不況下の農家の窮状
 19戸の農家分の資料があるので、ここでは1937年(昭和12)の現在欄を通して見えてくることをいくらか紹介したい。
 19戸のうち、自作が2戸、自小作が12戸、小作5戸。田畑桑園を合わせた各家の農地の状況(自作、小作を含めて)は、1町以上が9戸、1町未満で5反以上が8戸,5反未満が2戸。全体の平均が9反1畝になる。現金収入の内訳は、田畑、繭、畜産、林業、農業外収入などから成り立っているが、養蚕の占める割合が非常に多く、それ以外に小作の家では他の俸給や労働賃金にかなり依存していることが分かる。農村経済が窮乏していても田畑での増産は簡単には出来ないので、繭の増産や畜産にも精を出したり、賃労働に依存する農家が多かったためと思われる。
 最後の「負債整理計画」を見ると、16戸が銀行その他に負債を負っている。借入先を見ると、自作農資金国庫、日本勧業銀行、忍銀行、七郷信用組合、産業組合、簡易保険、親戚、その他などとなっている。利息は1割が多く、最高が1割5分、1割2分、1割1分、1割以下では9分、8分、6分、5分などがある。各家の負債額は、4400円を最高にして、3000円代、2000円代、1000円以下は最小50円まで多様である。負債のある16戸の負債額を合計すると18,229円になる。これに1割程度の利息がついている。銀行から1割の利息で100円を借りているケースもある。現在とはお金の価値が全く違っている。この負債が当時の農家に重くのしかかっていたのである。「個人計画書」第1頁の「我家ノ更生目標」に「負債の整理」と書いたのは先に述べたように5戸に過ぎなかったが、この最後の項目の負債状況を見ると、19戸中16戸が額の多少はあっても負債を抱えていたことが分かる。肥料の購入のために資金を借りているケースも見られる。政府が経済更生運動を起こさざるを得ない農村の窮状が浮かび上がってくる。

昭和恐慌下の小作争議 1930〜1932

 1929年(昭和4)にアメリカで起こった恐慌は世界恐慌にまで発展し、日本も深刻な恐慌状態におちいった。この昭和恐慌のもとで、輸出が大きく減少し、企業の操業短縮・倒産があいつぎ、賃金引下げ・人員整理が行われて失業者が増大した。農産物価は下落し、農村の窮乏が厳しくなった。当時、小作料の引き下げと小作地取上反対が小作人の差し迫った課題であった。1930年(昭和5)に全農埼玉県連合会の結成総会が箕田(みのだ)(現鴻巣市)で開かれた。この全農指導のもとで1931年(昭和6)に田桑争議(児玉郡共和村)八和田争議(小川町)、吉見争議(吉見町)、寄居争議(寄居町)などがあいついで起こった。
 八和田村では満州事変の起こった1931年(昭和6)の暮もおしつまった12月の末に小作争議が起こった。八和田村では一反三俵という高い小作料を三割負けろということで全農支部結成の動きが出ていた。そのとき二軒の農家が小作料を払えないために地主から土地を取上げられそうになり、それを阻止しようと近隣の村からも応援がかけつけて皆で共同耕作をして土地を守った。その団結した力で1932年(昭和7)1月に全農八和田支部の結成総会が上横田の輪禅寺で開かれた。上横田の小作人約30人が集まった。「土地は働く農民へ」、「借金はなせるまでまて」等のスローガンが掲げられ、地主の土地取上げに抗議するとともに、小作料減免を訴えたという。
 この集会は、警察に届け出ることで検束はしないという約束をとってあったが、布施辰治弁護士と渋谷定輔全農書記長の応援演説に入ったとき、渋谷の発言に対して臨席警官から二回も「注意!」の声が飛び、それに反対した渋谷は「検束」ということになった。約束が違うということで、参会者が警官に詰め寄り、乱闘になった。七郷村吉田から応援に来ていた坂本幸三郎は、そのときの様子を次のように語っている。

 「検束しないという約束なのに、検束ということになったので、みんなで電気を消してしまい、警官に襲いかかって帽子をふんだくったり、サーベルを曲げてしまったりしました。外套を破られてしまった警官もいました。かなりの乱闘になりました。しかし電気を消してありましたので、そのままみんな逃げてしまい、誰も検束されませんでした。」

 この争議は、その後半月ほどかけて地主と交渉し、ほとんど要求を勝ち取ったという。
 次の資料は古里村に残されていた当時の資料である。小作争議の動きは近隣の村や子どもたちにも影響を与えはじめていたのである。

 発会記念大演説会に集まれ  昭和七年一月一七日
   小作人『バンザイ、バンザイ、バンザイ 早クキキニユコーゼ!』
   地主・コーリカシ
      『ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ
       クワバラクワバラ、クワバラクワバラ、オタオタ』
          ※日時 一月一七日 午後八時
          ※場所 上横田 輪禅寺
          ※入場料ハイラナイ
                  主催 全農八和田支部

   小学校のミナサンヘ
    ミナサンノオトウサンヤオカアサンハ
    フケイキデコマッテイマス
    ソレデベンゴシノ布施辰治ト言フ人ヤ
    ソノ外貧乏人ノ味方ヲシテクレルタクサンノ人ガ
    タメニナル話ヲ十七日ノ午後六時カラ
    上横田ノオ寺デヤッテクレマス
    オトウサンヤ兄サンヲススメテ
    ヨコシテクダサイ
                  ※全農八和田支部

 このような全国農民組合の成立と小作争議の広がりは、当時の農村がいかに疲弊していたかを示すものであった。これを無視できなくなった政府は1932年(昭和7)に農村の疲弊状態を打開するために、農山漁村経済更生運動に取り組むことになるのである。

嵐山町の農業 いま・むかし 1987年

   実りの秋にみる 農業いま・むかし
 くり・なしの季節も終わり、嵐山町の実りの秋は、さつま芋・かきへと彩りを変えています。
 今年、嵐山町は町制施行二十周年を迎えましたが、この間に町の農業もずいぶんと様変わりしました。昭和四十五年(1970)には、総世帯数二千二百九十三戸のうち、ほぼ半数に近い千百二十戸が農業を営んでいました。しかし昭和六十年(1985)になると、総世帯数四千三百八十四戸のうち、農家数は九百四十三戸と全体の四分の一以下まで減少しました。
 農業というと、米麦・農蚕・酪農・養豚養鶏・果樹・施設園芸などいろいろありますが、日本が輸入に頼り自給自足を忘れ、農地はどんどん宅地化しているなか、生活様式の変化と共に規模を縮小したり、転業する農家が多くなっています。しかし、なにもかも自給自足のできなくなった状態が健全といえるでしょうか。
 ほんの少しの感傷を含め、厳しいなかで、今なおがんばって農業を続けているお宅を訪ねてみました。

   現在の農業を考える時 
  酪農の場合
 嵐山町の酪農は、昭和四十年(1965)に二百三十四戸、乳用牛数三百七十四頭で営まれていたのが、昭和六十年(1985)には十六戸、三百七十六頭と頭数がほぼ同じなのに戸数の大幅な減少が目立ちます。
 この現象は、乳価の低迷により、一つの家が頭数でこなさないと採算がとれなくなってきている、つまり経営のシステマ化についていけないと成り立っていかないことを意味しているのでしょう。
 しかし、そんな中で後継者のかたがたも一生懸命がんばり、生産コストを下げるために、転作田や遊休農地を利用して飼料用作物の開発などに取り組んでいます。そして嵐山町の年間乳量もやく千三百トン(昭和四十年は約千五百トン)と、長い間生産量も安定しています。
 現在、牛乳の一人当たりの消費量は、一日約百二十五グラム。そして今年の小売り牛乳は、乳脂肪分を三・五パーセントに上げたことと、それに合わせて消費宣伝をしたこともあって、七月の牛乳消費量が前年同月よりも六・二パーセント増加しましました。
 酪農に限らず、農業全体で思うことは、その農産物をどう消費者に選んでもらうか考えることと、消費宣伝活動を重要視し積極的に行うことが必要だと思います。
 牛乳に関して言えば

  牛乳にはカルシュームのほか、ビタミンA、B2が多く含まれていて、若さを保つ健康食品です。
 美人は牛乳によってつくられます。

 こんなことを、みんなで工夫を凝らして宣伝していけば、少しは牛乳を多く飲もうか、という気になるかもしれません。(全国牛乳普及協会編「牛乳と保健の科学」参考)

   嵐山町の農家数の推移
     飼養農家数 飼養頭数 養蚕農家数 収繭量 総農家数
昭和40年  234戸    374頭   834戸  281t  1169戸
  45   118戸    598頭   778戸  370t  1120戸
  50    28戸    341頭   629戸  334t  1033戸
  55    22戸    332頭   506戸  288t   996戸
  60    16戸    376頭   341戸  160t   943戸
        (資料・農業センサス、埼玉農林水産統計年表)

  いまだ健在、炭焼き 
 炭の需要も現在は少なくなりましたが、昔は家庭の必需品でした。今でも町内で三軒の農家が焼き続けています。その一人遠山の栗原弥之助さんを訪ねてみました。
 栗原さんは、炭を焼き始めて六十年、「親が焼いていたから続けているんですよ」と話してくれましたが、現在七十七歳、毎日朝三時に起きて仕事をするという元気な方です。
 焼く炭は白炭、黒炭二種類で、白炭は表面は灰色で火が高温になり、特別な和室の暖房や、アユ焼き用などに、黒炭はヤキトリ用に多く使われており、価格は白炭が黒炭の約二倍と高値、出荷は町内がほとんどだそうです。
 炭を焼くには、土で築いた窯の中で、白炭は生の木を二十四時間から二十八時間、原木の大きさにより四十八時間まで、黒炭は枯れた木を七十二時間焼く。どちらも、窯の温度にコツがあるそうです。仕事の関係で、焼くのは十一月から翌年六月まで。材料の原木は、冬の間山から切り出し、クヌギ、カシ、ナラが炭材に適している。約八十センチに切り詰めた原木を、金矢というノミ形の大きいのでカケヤを使い一本ずつ切りさいていく。太いのは三十六本にも割く、芸術ともいえる作業には驚きました。窯は三十年位使え、今年一基新しく造り替える計画とのことです。
 炭のほかに、養鶏、しいたけなど複合経営を営んでいる。「人間はこのごろわがままになりすぎましたよ。自然の恵みに感謝して毎日を楽しく暮らさなくては」との言葉に、私たちのわすれかけていたものを教えてくれた気がします。いつまでも、貴重な炭焼きを守ってほしいと思います。

  厳しい養蚕家
 養蚕は嵐山町の主要農産物の一つであり、長い歴史があります。しかしここ数年、さまざまな要因により岐路にたっています。
 昭和四十五年(1970)から五十五年(1980)まで、価格、生産量とも高水準を保ち安定していましたが、昭和五十六年(1981)以降徐々に下がり始め、現在は戸数でピーク時の半分以下(二百戸)、生産量で二分の一(十万三千五百キログラム)まで減っています。
 これは以前から心配されていた養蚕家の高齢化、後継者不足、外国からの糸の輸入増加、また、糸値の低迷に伴う生産意欲の低下など、さまざまな要因が考えられます。
 数軒の養蚕農家に聞いてみましたが、マユの価格の低迷はきびしいと言っていました。昭和五十四年(1979)が一番値段がよくキログラム当たり二千百円、現在は千三百円だそうです。
 経営者が高齢なお宅では、「来年は、年間四回掃き立てをしているのを二回にするか、都合によってはやめたい。」若い養蚕家は機械を導入しがんばっていますが、「このごろは大変厳しい、これから先どうなるかわからないね」と話していました。
 外国からの輸入も減少しつつあり、今後、マユの値段も上るだろうと予測もされていますが、やはり着物は高価なものだという理由などで、今が一番厳しい時期でしょう。
 そして養蚕業を縮小したり、やめる方が多くなってきており、大切な農地の荒廃も心配されます。
 長い歴史があり、わが地域に合ったたいせつな農産業の一つでもある養蚕を、ぜひがんばって守ってもらいたいものです。
     『嵐山町報道』358号 1987年(昭和62)11月10日

嵐山町の水事情 1987年

   異常渇水にメゲませんでした!
           −わが町の水事情−
 この夏、異常渇水にみまわれた関東地方。比企地方も例外にもれず、嵐山町を除く近隣市町村は一時かなり深刻な水不足に悩まされました。
 嵐山町でも槻川、都幾川の合流点で川底が見えてしまうほど渇水しました。しかし、なぜ嵐山町は断水などの問題もなく、だいじょうぶだったのでしょうか。また、未来永劫(えいごう)的に猯个叛粁の町嵐山瓩任い蕕譴襪燭瓩陵祝描蔀屬呂箸蕕譴討い襪里任靴腓Δ。
 工業団地の建設も決定され、人口の増加、工場排水、いずれ建設されるであろう公共下水道に伴う水使用量の増加など、一番身近な問題でありながら、いざとならないと関心がもたれない水まわりについて、町長をはじめ、町当局の関係者にお話を伺ってみました。

 今年の渇水は異常でしたが、嵐山町は大丈夫でしたね。水道水供給の現状について、また今後の計画などについてお聞かせください。
水道課長 現在供給量は一日あたり一万二千トンであり、今夏の最高使用量は七月六日の七千六百六十トンでした。いずれ工業団地ができますが、同団地の使用計画量は一日あたり二千六百トンであり、数字の上では現施設でまかなえる予定です。しかし、人口の増加、将来の下水道計画に伴う使用等を考え、あたらしい水源の開発、県水の導入が計画されています。しかし、県水はかなり高く、町水との調整が必要であり検討中です。いちおう昭和六十七年に五百トン導入を計画しています。
 現在の水源はどうなっていますか。
水道課長 現在、三カ所の水源(井戸)があります。井戸の水質が大変良質のため、観測ろ過池、その他の薬品沈殿所等の特別余計な施設が不要であり、井戸から汲み上げた水を直接タンクへ上げて塩素滅菌をし、給水しているだけなので費用がかからない。また、山があるため、タンクに上げればあとは自然流下で供給でき余分な動力を必要としないことも料金を安く抑えられる要件となっています。
 地下水のくみ上げ過ぎによる地盤沈下の問題をよく耳にしますが、嵐山町はいかがですか。
水道課長 水源の水量は豊富であり,嵐山町の地盤沈下は、広野で一、二ミリあったがそれ以外はありません。しかしいくら豊富だといっても、水は大切に使うにこしたことはありません。井戸は狎犬物瓩任后いくら良い井戸でも、適切規模の取水でなければ枯れるのも早くなります。水は大切に使っていただきたい。
町長 町としても、水問題についてはできる限り先取り政策を行っていくつもりでいますが、環境を良くするためには住民一人ひとりの努力もたいせつと思う。ご協力をお願いしたい。
 自然の恵みを受けているわけですから私たちの努力も必要ですね。しかし、そんなに良い水質も水源の清流が汚されるようなことがあっては困ります。公共下水道等の計画はありますか。
町長 あります。水を使うのは簡単、汚すのも簡単、使用後の処理がたいせつです。下水は文化のバロメーターといわれますから。
 ただし、下水にはばく大な金が必要です。嵐山一町では不可能なので、滑川町と合同で計画しています。
都市計画課下水道係長 現在の計画では、昭和六十九年(1994)から一部供用開始となる予定です。公共下水道および流域下水道を併せ、約百六十億の費用が見込まれています。流域下水道とは、終末処理場の関係および各町への流域幹線をいい、公共下水道とは、各家庭と直結される下水道をいいます。
 昭和六十三年(1988)に建設省の事業採択がなされれば、昭和百年(2025)をメドに事業実施となる予定です。現在、計画全体を見直し中ですが、かなり長期的な計画となります。
 そのほか、都市下水道として駅東区画整理区域の中に、沈殿の都市下水道を実施中です。集水区域は四十九ヘクタール、いずれ公共下水道につながることになります。
町長 工業団地の廃水による汚染には、下水道ができるまでは厳しい検査体制をとって監視し、川の水質を保っていきたいと思っています。
水道課長 きれいで豊富な水に目をつけ、ここに住みついた先住民の人たちに先見の明があったわけですが、町営水道の前身である簡易水道組合を設立されたかたがたの先取り感覚、苦労の末の完成という努力があったことを忘れてはならないと思います。当時は村だったのですが、周囲の反対にあったりして大変な苦労の末軌道にのせたわけでして、村は軌道にのった時点で引き受けたのですから楽だったと思いますよ。
 嵐山町の発展は、水のおかげであるといってもいいのではないでしょうか。私たちもたいせつな水ですから地道に漏水調査を実施しています。今日までに八カ所で二百五十トンもの漏水をみつけることができました。  (八月二十八日町長室で)

 水、それは狎弧燭虜源瓩箸い錣譴泙后蛇口を開くだけで簡単に得られる水、その恩恵を忘れることなく、私たち一人ひとりが大切に水を使い、汚さない努力をするこたが人間としてのエチケットであり、マナーではないでしょうか。
 
  緑と清流を楽しんでマス!
 自然に恵まれた嵐山町を、最近はたくさんの人が訪れます。槻川で遊ぶ人たちにわが町の印象を聞いてみました。
・川で泳げる楽しい所です(東松山大岡サッカー少年団の少年たち)
・知り合いが嵐山にいて毎夏来ますが、緑があって空気がきれいでとても良い所ですね(朝霞から家族キャンプの人)
・子どもたちが、小さいとき遠足に来たのを覚えていてね。水がきれいだし危険も少なく子供に最適ですよ(岩槻からのお孫さん連れの老婦人)
・友人にいい所だと聞いてきました。バーベキューもできて楽しいわ(和光市からの若い女性グループ)
 ほとんどが町外の人たちだったのか、インタビューした中には町内の人はいませんでした。嵐山町以外の人たちにも喜ばれ楽しまれているわが町の猯个叛粁瓠△海里垢个蕕靴ご超を維持していくためには、利用者にゴミの持ち帰りの徹底をお願いしていくことも、環境汚染を防ぐ意味で重要なことでしょう。
     『嵐山町報道』357号 1987年(昭和62)9月25日

第1回嵐山音楽祭が開かれる 1986年

   第一回嵐山音楽祭のお知らせ
 秋です。気ぜわしい蝉の鳴き声も遠のき、落ち着いた色の季節がやってきました。じっくりとクラシック音楽に耳を傾けてみませんか。
 文化的な町づくりの一環として今年から嵐山音楽祭が開催されます。その第一回が次のように計画されました。

●日時 10月26日(日)午後1時開演
●場所 国立婦人教育会館
●演奏者とそのプロフィール
 ◎河内治と芸術の家合奏団 河内氏は十九歳で、旧ABC交響楽団にコンサートマスター・ソリスト候補生として入団し、以後プロのオーケストラマンとして二十四才まで活躍しました。その後独奏ヴァイオリニストを目指し研鑽を積みながら、日本各地でリサイタル活動をつづけました。一九七三年、日本の音楽文化向上、地域社会でのクラシック音楽の土着を目指し、芸術の家を設立、年間二百回以上のステージをこなしています。
 ◎東京サキソフォンアンサンブル  一九八〇年七月に結成され、翌年十月デビュー、各方面の絶賛を博しました。
 メンバー四人は、ほぼ同時期にフランスに留学し、国立ボルドー音楽院において、サキソフォンで世界的に有名なJMロンデックス氏、室内楽を同氏及びRペレ氏に師事し、同音楽院でサキソフォンと室内楽で一等賞を得、ボルドー市栄誉賞を受賞しています。
 レパートリーも幅広く、サキソフォン四重奏の新しい分野を広げつつあります。
●整理券 一枚五百円
 教育委員会、農協各本支店、その他で扱っています。(詳しくはポスター、ちらしで)

 音楽祭実行委員会では、皆様に親しまれ、楽しみにして待っていただけるような音楽祭を続けていきたい、いい音楽を気軽に聴ける機会を作っていきたいと考えています。
 今後への期待も含めて、どうか第一回嵐山音楽祭にとにかくお出かけください。
     『嵐山町報道』346号 1986年(昭和61)9月25日

   魅力のエンターティナー
    嵐山町音楽祭 '86

  一日だけのカーネギー・ホール
 十月二十六日、第一回嵐山音楽祭が国立婦人教育会館で開催された。
 この音楽祭は、文化的なまちづくりの一環として計画されたもので、会場には初めての催しということもあって、およそ五〇〇人の聴衆が集まり、優雅な調べと熱気のなかで楽しいひとときを過ごした。
 内容は次のとおり。
  ・第一部 河内治と芸術の家合奏団(フルート・歌・合奏)
  ・第二部 東京サクソフォンアンサンブル
     『嵐山町報道』348号 1986年(昭和61)11月25日

※参照:嵐山音楽祭実行委員三井幸子「舞台裏から」。

都幾の風フェスティバルが開催される 1984年

   〈都幾の風フェスティバル〉開催
 このたび「自然と調和した文化的田園都市」の実現に向け、里づくりのひとつとして狹坿の風フェスティバル瓩魍催することになりました。この催しが、ほんの少しでも人と人とのふれあいの場に、そして豊かなふるさとづくりのワンステップになればと考え企画しました。
 老いも若きも男も女もお気軽においで下さい。
  ◆日時 5月20日(日)午後1時から
  ◆場所 菅谷中学校体育館
  ◆内容 手話落語 福石先生(芸名 福々亭せんしょう)
      ミニコンサート 高橋べん(フォーク歌手)
  ◆主催 都幾の風フェスティバル実行委員会
      実行委員長 武谷敏子
  ◆協力 嵐山町PTA連絡協議会 その他各団体予定
     『嵐山町報道』321号 1984年(昭和59)4月25日

   都幾の風フェスティバルを終えて 実行委員 小林一夫
 朝に不安感を与えた天候も、私たちの意を感じてか、心地よい時を与えてくれました。
 都幾の風に乗って、あれだけたくさんの皆さまにお会い出来たことは、私たち一同、初めての企画でしたが、充実感で会場は酔いしれて、今も、あおの感激の時は日一日と増してゆくばかりです。
 会場の誰もが燃え、何かを感じそしていま、ここにピリオドを打とうという時、「またいつの日かお会いしましょう。」の合言葉が、再びあの盛況を思い出させます。
 最後になりましたが、都幾の風フェスティバルの企画に賛同をいただき、後援いただきました嵐山町教育委員会のみなさま、並びに社会福祉協議会のみなさま方に深く感謝するとともに、厚く御礼申し上げます。
     『嵐山町報道』323号 1984年(昭和59)7月15日

   第2回都幾の風フェスティバル
 昨年五月「自然と調和した文化的田園都市」の実現に向け、地域づくりの一環として、開催された「第一回都幾の風フェスティバル」が五〇〇人を超す町民のみなさんの参加で大成功を収めました。
 多くの方々の好評の声にこたえて「町づくりの一環として、文化的な行動をみんなの手でやろう、子供も大人も、ふれあいの中で嵐山町を考えていこう。」という主旨に基づき、第2回都幾の風フェスティバルを十一月十七日開催します。
 今年は「財源確保もみんなの力でやっていこう」と資金確保のために、都幾の風フェスティバルの前企画としてバザーを実施することになりました。
 私達の活動に御理解をいただき、御家庭内の不用品、手作りのもの・古本などなんでも結構ですからお願い致します。
  バザー会場 農協資材置場 ヤオコー隣
  とき 九月八日(日)
  主催 第2回都幾の風フェスティバル実行委員会
  後援 嵐山町・町教育委員会・町社会福祉協議会
  連絡先 岡野璃恵子 【電話番号略】
     『嵐山町報道』333号 1985年(昭和60)8月20日

   第3回都幾の風フェスティバル
 地域づくりの一環として、「文化的な行事を町民の手でつくろう」・「子どもも大人もふれあいの中で嵐山町を考えていこう」という主旨で、一九八四年五月に第1回都幾の風フェスティバルは開催されました。昨年の第2回目では、九月に「都幾の風バザー」。十一月の本企画ではその収益をもとに狠疉祺安罎个笋鍬瓩鉢爐燭はしべん瓩気鵑鮨小に招くことができました。
 今年はコンサート、模擬店、バザー、人形劇などフェスティバルの名にふさわしい企画を準備しています。
 みなさんこの楽しいふれあいの場に一緒に参加しましょう。
 なお、私たちの活動にご理解をいただき、家庭内の不用品、手づくりのもの、古本などなんでも結構ですから、バザー用品の提供にご協力お願いします。(バザー等の収益は催事の諸費に充てる予定です)

  会場 農協資料置場(ヤオコー隣)
  とき 11月16日(日)午前10時〜午後3時
  主催 第3回都幾の風フェスティバル実行委員会
  後援 嵐山町・嵐山町教育委員会・嵐山町社会福祉協議会・嵐山町農業協同組合
  連絡先 岡野璃恵子 【電話番号略】
      内藤幸江
      新井徹郎
     『嵐山町報道』346号 1986年(昭和61)9月25日

町制施行後初の嵐山町会議員選挙実施 1967年10月

   町政施行後初の議員選挙終わる
       新10 現7 前3 元2 が当選
               議席大きく変わる
 十月八日執行の当嵐山町議員選挙は、定員二十二議席を目指して立候補者二十四名で競うものと思われたが、締切り直前更に一名の辞退があったために、結局二十三候補のせり合いとなった。八日投票後午後八時より開票が行われ、その結果別表の得票数でそれぞれ当落が定まった。
 内、現七名・前三名・元二名・新一〇名で、議席の約三分の二が入り替わり議会の構成が大きく変化した。

 当 403   関根昭二  新  菅谷
 当 334   中村常男  新  古里
 当 329   高橋行雄  現  志賀
 当 277   吉場雅美  新  古里
 当 276   松本晴次  新  菅谷
 当 271   山田巌   現  平沢
 当 268   瀬山芳治  新  千手堂
 当 249   岩沢茂雄  新  鎌形
 当 244.592 鯨井正作  現  将軍沢
 当 240   小林嘉重  元  鎌形
 当 238   権田和重  現  川島
 当 235   早川長助  新  杉山
 当 231.878 市川武市  元  越畑
 当 228   舩戸武彦  新  吉田
 当 220   田中隆次  新  勝田
 当 210.571 中島元次郎 現  菅谷
 当 191.429 中島源之  新  菅谷
 当 186   山岸宗朋  現  菅谷
 当 180   新藤武治  現  大蔵
 当 168.408 藤田正作  前  吉田
 当 133   青木高   前  菅谷
 当 127   杉田喜平  前  鎌形
 次  67.122 市川万吉  新  越畑

     『嵐山町報道』177号 1967年(昭和42)10月15日

七郷村誌原稿 古里村(地籍帳)(現・嵐山町) ルビ・注

地籍帳
  比企郡古里村
         戸長役場(こちょうやくば)
  書上候扣(ひかえ)  

 官有地
  第二種
   一神地
     此反別三反九畝壱歩
        内
      村社
       此反別八畝拾七歩
      社地
       此反別貳反七畝廿九歩 六ヶ所
  第三種
   一薪炭材山(しんたんざいやま)反別壹町四反五畝九歩
   一芝地反別壹町六反三畝八歩
   一溜池反別貳町八反六畝廿六歩
   一用悪水路反別壱町壱反三畝八歩
   一土手敷反別五反四歩
   一道路反別拾町四反七畝拾六歩
        内
     村道反別壹町六反五畝拾五歩
     耕作道反別八町八反貳畝壱歩
  第四種
   一寺院境内反別(けいだいたんべつ)六反六畝拾七歩
 民有地
  第一種
   一田反別四拾五町三反拾九歩
    外反別壱町五反壱畝歩 畦畔敷(けいはんしき)*
       *あぜ・くろの面積。
  一畑反別五拾町六反弐拾歩
    外反別八反四畝歩 畦畔敷
      揆上地(かきあげち) 但壱反五歩割
   一郡村宅地反別八町六畝廿八歩
   一山林反別九拾八町九反五歩
        内
     用材山反別五町歩
     薪炭材山反別九拾三町九反五歩
   一芝地反別壹反壱畝廿四歩
 第二種
  一溜池反別四反三畝拾九歩
  一井戸敷反別九歩
  一墓地反別八反四畝八歩
  一斃馬捨場反別九畝貳拾五歩
合 反別貳百貳拾五町八反五畝六歩
   此譯
 官有地
  此反別拾九町壱反壱畝廿九歩
 民有地
  此反別貳百六町七反三畝七歩
 明治十四年(1881)五月
右者地籍編纂之儀本年本縣乙第六号ヲ以テ御達之趣ニ依リ私共立會之上取調候処書面之通相違無之者也
          比企郡古里村
           小前惣代
            安藤照武
            中村森吉
           戸長
            安藤貞良
  明治十五年(1882)五月廿六日
 埼玉縣吉田清英殿

七郷村誌原稿 古里村(村誌)(現・嵐山町) ルビ・注

 村誌
   比企郡古里村(ふるさとむら)戸長(こちょう)*1役場
     *1:村の行政事務をつかさどった者。江戸時代の名主が1872年4月改称。

武藏國比企郡古里村 【現・埼玉県比企郡嵐山町大字古里】
 本村古時ヨリ本郡*1水房庄*2、伊子郷*3、松山領*4ニ屬ス村名改称及ヒ分郷等ノ事ナシ。
  *1:比企郡。
  *2:『新編武蔵風土記稿』では、水房庄は「合村七」とある。『武蔵国郡村誌』では、「水房(みつふさ)庄は十五村(水房、中尾、太郎丸、広野、野田、岡郷、福田、伊古、羽尾、勝田、菅田、吉田、野田、山田、和泉、今村誌に拠る風土記には羽尾以下七村を載せず)。」とあり、古里村は挙げられていない。
  *3:『武蔵国郡村誌』には「渭後(ぬのしり)(沼乃之利(ぬまのしり))と註す今其地を伝えず恐らくは郡の東辺荒川水涯【水のほとり】の地をさすか)。」とあり、郷域には諸説がある。
  *4:『武蔵国郡村誌』には「松山領五十五(松山町、柏崎、市ノ川、長楽、岩殿、毛塚、葛袋、今宿、赤沼、熊井、早俣、石坂、正代、上押垂、下押垂、青鳥、古凍、今泉、上野本、下野本、石橋、羽尾、水房、伊古、中尾、奥田、須江、大橋、竹本、鎌形、千手堂、上唐子、下唐子、神戸、高見、能増、奈良梨、高谷、上横田、下横田、勝田、中爪、太郎丸、広野、越畑、吉田、平、野田、山田、岡郷、大谷、福田、和泉、土塩、泉井・按月ノ輪、菅田、古里の村誌に此名を記すれども風土記には載せず、是非判然せず、又長楽村方今川島領と称すと云、今風土記及村誌に拠る)。」とある。

疆域(きょういき)*1
 東ハ男衾郡(おぶすまぐん)*2塩村ヲ境トシ、北ハ同郡板井村本田村、西ハ同郡西古里村ニ接ス。南ハ亦比企郡吉田村ニ接ス。何レモ高低四隣ノ境界ヲナセリ。
  *1:境界。
  *2:1896年(明治29)大里郡に合併した。

幅員
 東西拾七町五拾間。南北拾五甼五拾間。

管轄沿革
 當村御繩入(なわいれ)*1ハ元和元年(げんな)(1615)ノ古帳面アリ。正保ノ頃(しょうほう)(1644-1648)ニハ高室喜三郎*2御代官所及ヒ酒井紀伊守*3有賀半左衛門*4市川太左衛門*5内藤權右衛門*6松崎權左衛門*7長井七郎右衛門*8カ知行*9トアリ。後、宝暦年中(ほうれき)(1751-1764)ニ至リ御料所(ごりょうしょ)*10ノ分ヲ清水殿*11ノ領知ニ賜リシニ、寛政年中(1789-1801)上リテ亦御料所トナレリ*12。松崎權左衛門ノ知行ハ子孫權左衛門忠延ノ時、延享二年(1745)七月二男松崎伊織幸喜(ゆきよし)*13ニ分テリ。酒井紀井守ノ知行ハ子孫兵部*14ノ時上リ、元禄十壱年(1698)林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛カ家ニ賜リ*15、猶此等ノ子孫、長井五左衛門、市川瀬兵衛、内藤熊太郎、有賀滋之丞、松崎藤十郎、仝弥兵衛、林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛ノ知行所ナリ。又御料所ハ清水殿領知トナリ、亦安政二卯年(1855)上リテ御料所トナリ、次ニ徳川氏政権奉還ノ後、明治元年辰(1868)十月御料、品川知縣事古賀一平支配トナル。又明治二年(1869)韮山縣管轄所ト換ル。仝四年(1871)入間縣管轄ト移リ、仝六年(1873)ニ至リテ熊谷縣權令楫取素彦支配ナリ。仝九年(1876)九月ニ至リシヨリ当令埼玉縣令白根夛助殿ト遷替タリ。
  *1:検地を行うこと。田畑を一筆ごとに間竿・縄などを用いて測量し、税別・品位・反高を定めること。
  *2:高室喜三郎昌成。『川本町史通史編』267頁参照。
  *3:酒井紀伊守忠吉。『川本町史通史編』279頁参照。
  *4:有賀半左衛門種親。『川本町史通史編』275頁参照。
  *5:市川太左衛門友昌。
  *6:内藤權右衛門種清。『川本町史通史編』274頁参照。
  *7:松崎權左衛門吉次。
  *8:長井七郎右衛門吉勝。『川本町史通史編』273頁参照。
  *9:領知。
  *10:幕府の直轄領。天領。
  *11:徳川将軍家の親族である御三卿の一つ。田安、一橋、・清水の三家。『川本町史通史編』278頁参照。
  *12:1795年(寛政7)7月。
  *13:松崎権三衛門忠延の弟。『滑川村史通史編』433頁では松崎忠富の弟としている
  *14:酒井兵部忠経。
  *15:林昭信と横田奉松も加える。

里程(りてい)*1
 熊谷縣廰(けんちょう)ヨリ西方二里廿甼。本郡吉田村元標ヘ[ 不明*2 ]。男衾郡西古里村元標ヘ拾六町。同郡本田村元標ヘ壹里。同郡板井村元標ヘ拾六町三拾間。仝郡塩村元標ヘ拾五町。本郡松山郡役所ヘ三里拾町。本郡小川村ヘ壱里廿町。榛澤郡寄居町ヘ三里五町。男衾郡今市分署*3ヘ卅町ナリ。
  *1:みちのり、里数。
  *2:「吉田村誌原稿」によれば吉田ー古里は15町。『武蔵国郡村誌』では10町。
  *3:1876年に設置された今市屯所(とんしょ)が翌年新築されて今市分署となる。1882年には松山警察署小川分署今市交番所、1876年には寄居警察署今市分署となる。

地勢
 東西山巒(さんらん)相連リ*1、地凸凹運輸便ナラズ。南北僅カニ水田ニ接ス。只薪炭(しんたん)贏餘(えいよ)*2アルノミ。
  *1:山がめぐりつならること。
  *2:余り。

地味(ちみ)*1
 其色赤黒土ニシテ真土(まつち)少ナシ。尤全村山林多クシテ、又北田ノ方水理不宜。時々旱損(かんそん)*3ノ患アリ。
  *1:地質の良否の状態。
  *2:耕作に適した良質の土地。
  *3:日照り、干害。

税地
 田 旧反別 三拾二甼(ちょう)七反七畝歩
   新反別 四十五甼三反十九歩
 畑 旧反別 三拾甼二反五畝廿七歩
   新反別 五拾甼六反二十歩
 宅地 旧反別 壱町九反壱畝貳拾八歩
    新反別 七町九反九畝歩
 山林 旧反別 九町壱反廿壱歩
    新反別 九十八町九反八畝三歩

飛地
 無之。

字地
 前田(まえだ)  明時(みょうとき)  下耕地(しもこうち)
 駒込(こまごめ)  岩根沢(いわねざわ)  尾根(おね)
 長峰澤(ながみねざわ)  向井(むかい)  薮谷(やぶやつ)
 内出(うちで)  中内出(なかうちで)  神傳田(じんでんだ)
 上耕地(かみこうち)  柏木(かしわぎ)  道三山(どうさんやま)
 神山(かみやま)  御領臺(ごりょうだい)  藤塚(ふじづか)
 馬内(もうち)  原後(はらご)  林合(はやしあい)
 中ノ下(なかのした)  新林(しんばやし)  蟹沢(がんざわ)
 二塚(ふたつか)  茨原(いばら)  保井(ぼい)
 元全町(がんぜんちょう)  清水(しみず)  善久(ぜんきゅう)
 上土橋(かみどばし)  下土橋(しもどばし)

溜池
 当村溜池十ヶ所アリ。
 字駒込沼(こまごめぬま) 東西十五間、南北四拾間。元標ヨリ寅ノ方*1ニアリ。
 字岩根沢沼(いわねざわぬま) 東西拾二間、南北四十間。元標ヨリ寅ノ方ニアリ。
 字尾根沼(おねぬま) 東西拾五間、南北拾間。仝寅ノ方ニアリ。
 字藪谷沼(やぶやつぬま) 東西廿五間、南北五拾間。元標ヨリ子ノ方*2ニアリ。
 仝所沼 東西拾二間、南北三十五間。仝子ノ方ニアリ。
 字神山沼(かみやまぬま) 東西三拾間、南北拾五間。元標ヨリ戌ノ方*3ニアリ。
 字馬内沼(もうちぬま) 東西三間、南北百五十間。元標ヨリ亥ノ方*4ニアリ。
 字原後沼(はらごぬま) 東西拾間、南北廿間。仝亥ノ方ニアリ。
 字林合沼(はやしあいぬま) 東西二拾五間、南北拾五間。元標ヨリ仝亥ノ方ニアリ。
 字蟹沢沼(がんざわぬま) 東西二拾五間、南北百二拾間。元標ヨリ子ノ方ニアリ。
 字茨原沼(いばらぬま) 東西拾貳間、南北廿五間。元標ヨリ子ノ方ニアリ。
 右溜池田方用水ナリ
  *1:東北東。
  *2:北。
  *3:西北西。
  *4:北北西。


貢租(こうそ)*1
 地租(ちそ)*2】 旧
         新
  *1:年貢。租税。
  *2:田・畑・宅地・山林等、土地に課した税。

戸數
 本籍 七拾九戸 平民

人數
 男 二百拾貳人 平民  女 貳百九人 平民
 総計 四百二十二人(ママ)


 牡馬(おすうま) 三拾壱疋(ひき)

舟車
 荷車 中三輌


 和田川(わだがわ)ハ鷹巣村(たかのすむら)、本田村(ほんだむら)ノ境ヨリ来リ、村ノ北境ヲ東流シテ板井村(いたいむら)ニ入ル。川幅八尺餘。

森林
 無之。

牧場
 無之。

礦山
 無之。

湖沼
 無之。

道路
 熊谷駅ヨリ小川村ヘノ通路アリ。東ノ方塩村境ヨリ来リ、西南ノ方西古里村地内ニ至ル。長拾壹町壹間壹尺、道幅二間。

堤塘(ていとう)*1
 無之。
  *1:つつみ。土手。


 無之。

温泉
 無之。

冷泉
 無之。

陵墓


【後に貼付られたもの】
   戰利兵□□  壱個
   奉納記    壱通   兵執神社
    明治四十三年(1910)五月拾参日、陸軍省ヨリ下附 印



 兵執神社(へとりじんじゃ)   本村鎮守。
  社地東西拾間、南北拾五間。本村中央字中内出ニアリ。勧請(かんじょう)*1年月未詳。武甕槌命(たけみかづちのみこと)ヲ祭ル。社内古木頗(すこぶ)ル繁茂セリ。
  祭日毎年九月十九日。
  *1:神仏の分身、分霊を迎えてまつること。

 稲荷神社   平社*2ナリ。
  社地東西拾壹間、南北廿壹間。本村元標ヨリ東北隅字清水ニアリ。勧請年月未詳。稲蒼魂命(うかのみたまのみこと)ヲ祭ル。社内老松等頗(すこぶ)ル繁茂セリ。毎年祭日二月初午。土俗ニ鎌倉稲荷ト称ス。然レドモ古紀書籍ハナケレドモ此辺旧小地名ヲ稲荷ト云ヒ、亦鎌倉稲荷ト云フ。然ルヲ中世誤テ社名ヲ脱シ小地名ヲ改メシカ、今ニ此辺元全町ノ小地名猶存セリ。此地徃古近隣ノ貢租(こうそ)取束ネ、國ノ主助ノ廰ヘ納ムル地ヲ以テ称セシ由、古老ノ口碑ニ傳フルナリ。
  *2:1871年(明治4)の太政官布告で、村社にもならなかった無格社のこと。

 愛宕(あたご)神社   平社ナリ。
  社地東西九間、南北六間。本村元標ヨリ東字尾根ニアリ。勧請年月未詳。火産靈命(ひぶせのかみ)ヲ祭ル。

 八幡神社   平社ナリ。
  社地東西四間、南北拾貳間。本村元標ヨリ西字馬内ニアリ。勧請年月未詳。保武夛別命(ほんだわけのみこと)ヲ祭ル。

 天満神社   平社ナリ。
  社地鎮守社内ニアリ菅原道真公ヲ祭ル。祭日貳月廿五日。

 日枝(ひえ)神社   平社ナリ。
  社地東西八間半、南北拾七間。本村元標ヨリ西字藤塚ニアリ。大山咋命(おおやまくいのみこと)ヲ祭ル。

 小女郎(こじょろう)神社  平社ナリ。
  社地東西九間、南北七間。本村元標ヨリ西字上耕地ニアリ。拷幡千々姫(たくはたちちひめのみこと)ヲ祭。

 山神社
  社地東西九間、南北拾貳間。本村元標ヨリ西北字蟹澤ニアリ。大山祗命(おおやまつみのかみ)ヲ祭。


 瀧泉寺(りゅうせんじ)
  天台宗。勧請年月未詳。江戸山王社別當観理院末金剛山金洲院ト云フ。開山ノ僧ハ貞治三年(1364)十月示寂(じじゃく)*1セシト云フノミ。其名詳ナラス。当寺元ハ光林寺ト号セシヲ、慶安三年(1650)真海ト云フ僧中興セシ時今ノ寺号ニ改メ、又安永六年(1777)光海ト云フ僧本堂再興ス。其後御一新ノ折柄右勧理院復飾(ふくしょく)*2ニ付東京浅草浅草寺末ニ相成。
  *1:高僧が死ぬこと。
  *2:僧が俗人にもどる事。還俗。

 重輪寺
  元ハ重林寺ト書セリ。曹洞宗上野國(こうづけのくに)群馬郡白川村瀧澤寺(りゅうたくじ)末舊里山(きゅうりざん)ト号ス。慶長二年酉年(1596)九月草創ニテ、開山理山銀察ハ寛永十年(1633)十一月廿五日寂ス。本尊地蔵ヲ安セリ。亦明和年中(1764-1772)七世愚友享賢中興ス。

學校
 公立小學一ヶ所。本村及ビ吉田、和泉、菅田、勝田五ヶ村聯合校ニシテ吉田學校ト称ス。本村元標ヨリ巳ノ方*1吉田村神沢安右衛門ノ宅ヲ假用ス。生徒男[ 不明 ]
  *1:南南東。

事務所
 本村中央字内出戸長(こちょう)安藤貞良ノ宅舎ヲ假用シテ事務ヲ扱フ。

病院
 無之。

郵便局
 無之。

器用物
 無之。

製糸場
 無之。

古跡
 無之。

名勝
 無之。

物産
 動物 繭五拾三石 鶏七拾羽 鶏卵二千百個
 植物 米質美百拾石 質悪三拾石
    大麥八拾五石 小麥四拾七石七斗
    大豆拾四石 小豆七石
    粟三石九斗 麥蕎拾石五斗
    實綿三石二拾八斤 製茶九拾七斤
    楮皮千二百斤

民業
 男農桑(のうそう)之暇間、薪炭(しんたん)ヲ業トスル者二十戸。
 女外稼之暇間、縫織(ほうしょく)ヲ業トスル者概畧(がいりゃく)*3
  *1:農耕と養蚕。
  *2:縫うことと機(はた)を織ること。
  *3:おおよそ。

                    比企郡古里村戸長安藤貞良
    明治十三年四月
  比企横見郡長鈴木庸行殿

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