GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2009年06月

日露戦争と菅谷 1904年・1905年

 19世紀末になると欧米諸国は世界各地の分割をめざす帝国主義の時代に入り、日本もその仲間入りをめざした。
 当時、日清戦争でアジアの大国清国(中国)が日本に敗れたことによって、清国の弱体ぶりを知ったヨーロッパ列強は、あいついで清国を侵略して自国の勢力範囲を設定していった(中国分割)。ロシアは日本が日清戦争で獲得した遼東半島を、フランスとドイツを誘って中国への返還を日本に要求して返還させ(三国干渉)、その後遼東半島の先端にある旅順(りょじゅん)と大連を中国から租借(そしゃく)した。これに対して日本の不満が高まっていった。
 1900年(明治33)、清国で「扶清滅洋」(ふしんめつよう)をめざす義和団事件が起こると、日本など8カ国が連合軍を組織して義和団を鎮圧して北京を占領した。このときロシアは満州に軍隊を常駐させて事実上占領した。こうした列強の争いのなかで朝鮮半島の独占的支配をめざす日本と、満州を支配して、さらに勢力拡大をめざしてくるロシアは鋭い対立関係に入って行った。
 1904年(明治37)2月8日、旅順のロシア艦隊に対する日本の奇襲攻撃、同月10日の日本からの宣戦布告で日露戦争がはじまった。埼玉県下からは2万2254名が召集された。日清戦争をはるかに超える大規模の戦争になった。そのため政府は、各県知事に国民の戦争への協力態勢づくりを訴えた。県は郡長を召集して、国債応募、軍需品の供給、出征軍人の家族救護、兵士への慰問などを要請した。県も町村も平常の歳出を削減して、戦費優先の態勢をとった。
 こうした状況下で菅谷村の戦時下の取組みの一端を示す資料を紹介したい。

  帝国義勇艦隊建設費の献金
 菅谷村には、根岸與兵衛以下19名が金四拾六円弐拾五銭を集めて帝国義勇艦隊建設費寄付金として菅谷村役場に納め、役場の収入役が出したその受取書がある。この受取書の日付は「明治三十八年(1905)九月九日」である。これに「明治三十八年三月」付けの「帝国義勇艦隊建設ニ付義金連名」が添えられている。それには19名の氏名と寄附金額が書かれている。金額は金五拾銭から最高金拾円である。ところで、この連名簿に書かれている「明治三拾八年三月」は寄付金を集め始めた月と思われるが、それは日露戦争のどんな段階だっただろうか。
 1904年(明治37)2月10日に日本が宣戦布告して日露戦争が始まったが、戦いの山場の一つは、ロシア軍の支配する軍港旅順を巡る攻防戦であった。その年の秋から乃木希典(のぎまれすけ)率いる日本軍は多くの犠牲者を出しながらも難攻不落といわれていた旅順攻略に成功し、ロシア軍は38年1月1日に降伏を申し出た。この頃、ロシアはバルト海に拠点を持つ精鋭のバルチック艦隊を大西洋・インド洋・太平洋をへて、半年ほどかけて日本海に面するウラジオストック港をめざして航海を続けていた。このロシア艦隊を東郷平八郎率いる日本艦隊が、5月27日から28日にかけて対馬海峡で打ち破った。これが世に言う日本海海戦である。実は「帝国義勇艦隊建設」の義金集めが行われていた3月は、ロシアにとっては旅順が陥落し、バルチック艦隊をアジアに急行させており、日本海軍はそれを迎え撃つために全力をあげて準備をしていたときであった。おそらくそういう戦況の中で、非常な熱意で艦隊建設の義金集めに取り組んだものと思われる。

  明治三十八年度臨時徴兵慰労義金
 日露戦争に徴兵されて家庭では、家の働き手がいなくなるため、残された家族の生活が大変になる。その家族の救護は戦争遂行のためにも緊急の課題であった。埼玉県では「応召下士兵卒家族救助内規」(1905年7月)を定め、郡長に管轄する町村に「応召下士兵卒家族救護団体」をつくらせて救護活動に当らせた。これは応召されたすべての家庭ではなく、そのため生活困難な者の救護であった。救護団体の生計救護費は1年1戸30銭で、それで不足する家族には、国庫から1ヶ月1円10銭から最高3円30銭を与える。しかし救助する家族の
数は郡の応召下士兵卒の十分の一以内と規定されていた。
 ここで紹介する資料は、「三十八年度臨時徴兵慰労義金 金五円八銭」の受取書である。これは大字菅谷の住民60名が臨時徴兵慰労義金を拠出して合計5円8銭を菅谷村役場に納めたとき、収入役がだした受取書である。そのときの義金徴収簿を見ると1銭、2銭から49銭までの多様な額で、平均すると1人8銭5厘になる。義勇艦隊の献金に比べると各家の金額は少ないが、わずかずつでもより多くの家が義金を出していることがわかる。この徴兵慰労義会が県内各郡に創設されたのは1887年(明治20)頃という。兵役義務者にたいする慰労をおこなうことを目的とした。日露戦争では出征兵士の見送り、軍人家族と戦死への慰問、戦死・病死者には葬祭を補助し弔祭(ちょうさい)するなどの事業を行なった。大国ロシアとの戦いに総力をあげていたことがうかがわれる。

  悲しい知らせ 旅順口方面の戦闘ニ於テ戦死
 日露戦争に召集された兵士の戦死の知らせが残っている。

   死亡通報
 明治参拾七年十一月二十八日清国盛京省旅順口方面ノ戦闘ニ於テ戦死
            埼玉県比企郡菅谷村菅谷九番地平民
            第七師団歩兵第二十六聯隊第三中隊
                  陸軍歩兵一等卒  高野満五郎
  明治参拾八年弐月拾六日
               歩兵第二十六聯隊補充大隊長 坪井助太 印

 日露戦争のなかで難攻不落を誇ったロシア太平洋艦隊の軍港旅順の攻略は大変であった。1904年(明治37)8月19日からの第1回総攻撃、10月26日からの第2回の総攻撃、第3回の総攻撃は11月26日から行われた。12月5日に旅順を眼下に見下ろす二〇三高地を多くの犠牲を払いながら占領した。ようやくロシア軍は翌1月1日に降伏した。この死亡通知によると菅谷から出兵していた高野満五郎は、この第3回総攻撃の三日目に戦死したことになる。
 日露戦争に埼玉県下から召集された兵たちは、近衛師団と第1師団に配属され、その第1師団の一部は北海道を管区とする第7師団その他に配属された。戦死した高野満五郎は、この第7師団歩兵第26聯隊第3中隊に属して参戦していた。乃木将軍率いる旅順攻略戦いという最も激しい戦いでの壮絶な戦死であった。
 1905年(明治38)9月5日に日本はロシアと講和条約(ポーツマス条約)を結び、戦争は終わった。翌1906年(明治39)4月20日に第7師団旭川衛戍地(えいじゅち)【駐屯地】で、日露戦争に参戦し戦病死した兵士の臨時招魂祭が開かれることになり、第7師団長男爵大迫尚敏(おおさこなおはる)【乃木将軍率いる旅順攻略戦に第7師団の兵士を率いて参戦、二○三高地攻略にあたる。この功績により陸軍大将に昇進。後に乃木将軍の殉死により後を継いで学習院長に就任】から「故・高野満五郎殿遺族御中」宛てに招魂祭への案内状が来ている。さらに高野山本山においては、「国家ノ為ニ戦没セラレ誠ニ哀悼ノ至ニ堪ヘズ茲ニ今回当本山ニ於テ聊カ忠魂ヲ慰メン為」、1906年(明治39)5月8、9、10の三日間大追吊法会(だいついちょうほうえ)を行なうので参詣願いたいとの案内が「故・高野満五郎殿遺族御中」宛来ている。
 次に日露戦争従軍兵士の郡別の戦病死者数をあげておく。

         戦死         病死
      将校 下士卒  計  将校 下士卒  計  合計
  北足立  6  200  206   1  120  121   327 
  入間   3  263  266   2  128  130   396
  比企   2  116  118   1   50   51   169
  秩父   -   97   97   -   57   57   154
  児 玉  -   79   79   -   27   27   106
  大 里  4  181  185   -   83   83   268
  北埼玉  5  163  168   -   86   86   254
  南埼玉  1  122  123   1  100  101   224
  北葛飾  3  101  104   -   51   51   155
    計  24  1322  1346   5  702  707  2053
               (『新編埼玉県史資料編19』より)

 日露戦争は明治時代に日本が行なった最大の戦争で、大国ロシアを破ったと評判になったが、多くの戦死者・病死者・負傷者が出た。そして銃後を支えた人びとも戦費の負担で苦しい生活をしいられた。また朝鮮はポーツマス条約で自国の事実上の支配権を日本に握られ、1910年(明治43)には日本の韓国併合で国の独立を失い、35年にわたる植民地支配を受けることになった。

嵐山町国民年金委員を委嘱 保険料の口座振替をPR 1977年

 ルポ 保険料は「口座振替」を
       加入者に呼びかける嵐山町
 手数もはぶけ、納め忘れがないのがうけて、いまではすっかり一般家庭に浸透している、電話、テレビ、水道料などの「自動口座振替制度」。
 そこに目をつけて「国民年金の保険料は口座振替を」と、PR作戦を展開しているのは嵐山町である。
 現在の普及率二十五%を、一気に八十%まで引き上げようと大きな目標をかかげて奮闘する職員の表情は……。

  比企丘陵の自然が生きている
 鎌倉時代の史跡や文化財など、今から数千年前の縄文土器などが発見され、先人の歴史のあとをしのばせる嵐山町。
 最近では、県立「嵐山郷」についで「国立婦人教育会館」なども建設中であり、これらの公共施設は社会福祉、婦人の地位向上に役立つであろう。
 農業を中心に栄えたこの町に、工場誘致条例ができたのは、昭和三十二年(1957)。これを契機として急速に工業や商業が発展し、比企丘陵の自然を生かした町のビジョン「自然と調和した文化的田園都市づくり」が着々と進められている。

  口座振替の収納窓口を拡大
     農協も取扱う
 国民年金の保険料は、だれでも納められるように比較的安い保険料となっているものの、昨年九月からは、老齢年金など年金額の大幅引き上げもあって、この四月分から一か月二千二百円に改められる。
 「この前の改定でも納付の遅れがあった。このままでは年金受給権にもひびいてくる。」……腹にすえかねた小沢勝係長は、この深刻な実態を踏まえて、従来の「納め方」の「練り直し」が急務と踏んだ。
 三か月検認を二か月検認に切り替える方法も考えたが、基準月の問題がからんでスッキリしない。
 そこで、脳裡をかすめたのが、電話、テレビ、水道なみの「国民年金保険料自動口座振替制度」の導入だったという。
 現在も、口座振替制度を実施しているが、利用者は少なく、加入者の二十五%程度。そこで、加入者に利用しやすくするため、収納窓口を銀行だけではなく、農協でも取扱っていただくよう、各農協をかけ回り、説明会もやってのけた。
 「実施要綱づくりから、チラシ、金融機関との契約まで、原案は何回となく手を加え、修正し、なんとか格好がつきました」……苦難のあとを振りかえる小沢係長である。

  嵐山町がお気に入り
 「わたしは、嵐山町で年金を受けるため、嵐山町へ転入した。」
 ある日のこと、窓口を訪れたK町に住むTさんは、応対に出た小黒準三係員にそっと打ち明けた。
 「口座振替もあるし、紛失した納付書は作ってくれるし、納め忘れると来訪して、掛け金を預ってくれると聞いて……。」
 「納め忘れの掛け金」といえば、国民年金制度発足以来、徴収業務一筋に努力されているこの道十七年の大ベテラン、小実文雄(こじつふみお)専任徴収員の活躍が光っている。
 未納者リストを片手に、納め忘れの加入者宅を、片っぱしからコツコツと訪問を繰り返す。
 「つらいこともあるでしょう?。」
 「もともと、にくまれ役を買って出ていますから、どんなにつらいことがあっても別に感じません。」
 小実流?の返事がハネ返ってきた。それよりも「おかげさまで年金が受けられるようになった」こんな受給者の言葉が心のささえとなっているようだ。

  期待される年金委員の活躍
 年金委員は区長が兼務していたが、口座振替のPR作戦展開中の一月一日付で、町長から正式に委嘱状が伝達され、念願の年金委員の独立が日の目をみた。
 団地も増えていることから、異動状況のは握など、加入者と役場を直結させるパイプ役として、その活躍が期待されている。
 金融機関の口座振替から、戸別徴収は専任徴収員、加入や異動状況は年金委員から役場へ……。筋金入りの年金行政に暖かくつつまれた嵐山町の加入者が、この日も入れ替わり立ち替わり、窓口を訪れていたが、小黒係員の親切な応対を受けて、みな満足そうな笑顔を見せていた。
     『さいたま年金だより』52号 1977年(昭和52)3月15日

 1959年(昭和34)4月16日、国民年金法が制定され1961年(昭和36)4月から施行、保険料徴収がはじまった。国民年金委員は、1960年(昭和35)3月25日付厚生事務次官通知をもとに、市町村長又は地方社会保険事務局長が国民年金委員を設置してきた制度である。埼玉県内市町村では1979年(昭和54)11月現在、「国民年金委員」3967名がおかれ、知事委嘱の「国民年金指導委員」300名とともに国民年金事業の推進、保険料納付促進活動に協力していた。2002年4月、国民年金保険料の納付先が市区町村から国へ変更され、翌2003年(平成15)、社会保険庁長官が委嘱する新たな国民年金委員制度が創設された。
 年金制度開始以来1970年代まで年金保険料を納税組合、婦人会、青年団、自治会等の組織や区長、民生委員、年金委員等個人を利用して集金した地域もあるらしいが、嵐山町では国民年金保険料は口座振替、役場住民課、郵便局、小川信用金庫、農協の窓口での納付のほかは、国民年金制度創設以来、嘱託の専任徴収員1名が戸別訪問して保険料を徴収していた。


   嵐山町国民年金委員設置要綱 1977年1月
(目的)
第一条 国民年金制度の普及徹底と本制度の運営の円滑を図るため、嵐山町国民年金委員(以下年金委員という)を置く。
(職務)
第二条 年金委員の職務は次のとおりとする。
 一 国民年金事務協力組織の育成強化
 二 国民年金協力組織の行う業務全般についての指導相談協力
 三 国民年金制度の普及の促進
(設置基準)
第三条 年金委員は、嵐山町区長設置条例による区域を単位として一人を置く。ただし、これにより難い事情がある場合はこの限りではない。
(委嘱)
第四条 年金委員は被保険者で、地域に居住する知識経験を有する者のなかから町長が委嘱する。
(任期)
第五条 年金委員の任期は一年とする。ただし、再任は妨げない。委員が欠けた場合における補欠委員の任期は、前任者の残任期間とする。
(委任)
第六条 この要綱に定めるもののほか、必要な事項は町長が別に定める。
  附則
 この要項は、昭和五十二年一月四日から施行する。

 国民年金委員設置要綱とともに、「国民年金制度の発展とその円滑な運営をはかるため、国民年金委員相互の連携を強化し、もって住民の福祉増進に寄与することを目的」とする国民年金委員協議会が設置され、嵐山町役場住民課に事務所が置かれた。その事業として、「国民年金保険料納付組織の育成及び指導に関すること、国民年金保険料事務の促進に関すること、国民年金適用事務の促進に関すること、国民年金制度の啓発宣伝に関すること、国民年金委員相互の連絡調整に関すること、その他目的達成に必要な事項に関すること」を事業とすることが定められた(「嵐山町国民年金委員協議会規約」2月2日施行)。嵐山町では、1997年(平成9)度まで年金委員の委嘱は実施されていたようである。

菅谷地区婦人会の活動によせて 1958年

   三十三年度によせて
               会長 水野ふさ子
 菅谷地区婦人会も誕生致しましてから七年余り、起因皆々様はもとよりのこと関係各方面の方々の御協力により順調に成長してまゐりまして、子供なら小学二年生、会もどうにかその性質やらあり方など、皆様方に御理解して頂ける様になり、会員の方々も自ら機会を求めて勉強してゆこうという意欲が高まってまゐりましたことは会の発展の為に喜ばしいことでございます。この様な時に会の責任者として微力を尽すことになりましてその責任の重大さを痛感してゐる次第でございます。
 もともと民主団体としての婦人会は会長や役員だけが会を運営して行くものではなく、会の推進力となるものは会員一人一人の力なのだという様に考へました時、ここ一年皆様と共々一歩なりとも前進出来ます様努力してまゐりたいと存じます。
 婦人会も多忙な主婦達の集りです故、その役員組織や運営などについてもまだまだ沢山の課題が残されてゐると思います。会の運営のためには役員の任期は長い方がよく、さりとて選出の場合は短い方が容易である。この様な矛盾の中に会を一歩一歩前進させて行くと云うことは非常に難しいことと思います。本部支部とも会長支部長をつとめた方の幾人かは何時も何れかの形で役員組織の中に留まり、時には水先案内になり、時には後援者となって暖かい気持で運営を見守って頂ける様な和(なご)やかな役員間の人間関係があってこそ、会の発展を期することが出来るのだと思います。まして当地区の様に役員が一年交替ということでは尚更のこと、新旧役員は仲のよい姉妹の様な気持で不馴れな為多少の不手際はあったとしても総て善意に解釈して、会員相互の親睦を計りつつ共に自分を磨き地域の発展に役立って行く、という本会の趣旨に沿う様心掛けて行きたいと思います。
 先日菅谷青年団の役員名簿を見せて頂いて感じましたのですが、婦人会員より家庭的に自由な立場にある青年団でさへ団の主要な事業を各部門に分けて、正副団長、部長という様な本部の役員組織になって居りますが、婦人会もこの様な点について大いに学ぶところがあるように思われます。
 次期会長の選出が会の事業より難かしいとさえ云はれるのは、主婦の立場としてあまりにも会長の任務が重荷に考へられるのではないでしょうか。会の活動が活潑になればなるほど役員の組織も検討して見る必要があると思います。会の各部の責任をそれぞれに役員が分担することによって会長選出の問題も幾分か解決されて行くのではないかと思います。このほど会も縦の関係横のつながりと各方面との会合の機会も多くなりましたが会として社会的視野を広めるためにも責任者として出席させて頂く様心掛けたいと存じますが、その為にも役員の在り方など一考を要する問題だと思われます。本年度はその第一段階と致しまして会の重要事業についての係を選出して頂きまして、それぞれお骨折頂くことにしました。
 卅三年度も暦の上では半を過ぎましたものの会の事業はまだその緒についたばかり、農閑期を待って七五三の祝、青年と婦人との座談会、婦人学級等、皆様で企てた計画が山積して居ります。何卒折角の勉強の機会に一人でも多く出席出来ます様に、平常からそのつもりで色々な角度から家庭環境を整えておく様に心掛けてまゐりたいと存じます。会合へ出席し難いということは、家庭や地域社会の無理解などということより、むしろ私達女性の持つ消極性に起因してゐる様に思われてなりません。自分を磨いて行くのに遠慮は無用と思います。みんなで話し合いの中に正しい批判力を身につけて、話せる、書ける、実行力のある女性になりたいと思います。
 めまぐるしい時代の進歩に遅れない様、伸びて行く子供達に一緒について行けなくとも、せめて手の届くところ、後姿の見えるところについて行かなければ、母としての務は果すことは出来ないと思うのです。自分をはじめ家族の幸のために、明るい地域社会を作るために、私達は手をたずさえてべんきょうしてまゐりましょう。一年一年菅谷地区婦人会の前進の足跡が見られます様に。

   本年度会員の年令調査を実施して

  20代  9.4%
  30代 38.1%
  40代 32.2%
  50代 16.4%
  60代  3.9%

 年度始めに会員名簿を作製の折、年令を調査致しましたので、パーセンテージを出してみましたら上記の様になりました。他の地区に比べて五十代の方が少ない様に思はれますが、女性も五十代が一番家庭的にも安定し社会人としても働ける年代ではないかと思います。
 お嫁さんを貰ったからとて直ぐに引込んでしまわないで、今迄の生活体験を生かして会の為に御骨折頂き度いと思います。六十過ぎてもその時の都合により又会の内容により、若い方と交替で時々出席して頂き、お祖母さんもお母さんも一緒に勉強して行ける様な婦人会の姿を切望して止みません。
     菅谷地区婦人会『つどい』創刊号 1958年(昭和33)11月

七郷女子青年学級1958年度の活動報告 1959年

   わたくしたちの女子学級では、
     年間を通して家庭科の学習をこのようにして進めてきた
                         比企郡菅谷村七郷青年学級

   一、地域環境の概要(地域とは旧七郷村を指す)
  (一)地域の自然
 比企郡の最北端に位し、北は大里郡江南村【現・熊谷市】と川本村【現・深谷市】に接し、南北に細長く、耕地と山林の割合はほぼ半ばするといった起伏の多い谷間の小地域である。東西四粁南北八粁面積一四平方粁、人口三七〇〇人、戸数五九〇戸その大部分は農家で、一戸当り平均耕地は八アールといった小規模経営をよぎなくされている。

  (二)地域の経済
 農業中心とはいえ小規模経営で、農業の所得のみで自立できる専業農家は比較的少く、昔から現金収入の源泉と考えられていた養蚕も国の保償によってようやく最低限が支えられている現状で、今迄の桑園を如何に転換するかに迷っている有様である。一方家畜についても、酪農に力こぶを入れているが、仲々伸び得ない状況である。経済のシワ寄せが農村に押しつけられた現今、この窮状から脱出すべく、その経営にも様々な営農技術を導入し、多角経営的な方向へと考えているものの、隘路に突き当っては行き悩んでいる実情である。最近菅谷村自体としても新農村建設目標のもとに生産対策に重点をおき、農地改良に農道の整備に特産物の研究に有線放送施設等の事が考えられ、新しい村への脱皮が考究されつつあることは誠に喜びに堪えない。

  (三)地域の行政
 旧七郷村は、昭和三十年(1955)四月十五日旧菅谷村と合併して菅谷村と称し、新興の意気に燃えている。

  (四)地域の教育
 学校は地域の中央に小学校一、中学校一とくに中学校は昭和三十一年(1956)二月小高い岡の上に、近代建築の粋を集めて建設されたモダン校舎で、村の誇りの一である。学校から程遠からぬ県道にそって公民館があり、地域の社会教育の中核となって活動している。

   二、青年学級の沿革
 終戦後数年間は国民全体が虚脱状態から脱することができなかったが、世の中が安定するにつれ青年たちも漸く安定をとりもどし、夜学会という形式で、学習の集いが各地に誕生した。本地域においてもその例にもれず補習学校の形態で、先ず女子が立ち上り学校に集った。村当局の配慮で和裁の指導者も得られ学習環境も整えられて、軌道に乗った学習が繰り広げられた。やがて昭和二十八年(1953)八月青年学級振興法の実施と同時に男子も負けじと非常な熱意と盛り上りをみせ、やがては本物となるかと見えたが、年を経る毎に一人減り二人減りして遂に跡形もなく消え失せてしまった。このような悪条件の中にあっても、女子は和裁中心の学習を継続した。その間、村当局を始め関係者各位の努力と苦心には敬意を表せざるを得ない。それかあらぬか昭和三十三年度(1958-1959)には、県の認める所となり、光栄ある実験青年学級の指定並びに文部省準指定を受けることになったわけである。

   三、実施機関名
 比企郡菅谷村七郷公民館

   四、主たる開設場所及び開設期間
 主なる開設場所 比企郡菅谷村立七郷小学校
 開設期間 自昭和三十三年(1958)四月〜至昭和三十四年(1959)三月

   五、対象の分析概要
 年齢別
  18才未満     2
  18才〜20才未満 10
  20才以上    20
   計      32
 学歴別
  中卒   25
  高卒    7
   計    32
 職業別
  農業   32
   計    32
 続柄
  長女   10
  二、三女 22
   計    32

   六、運営組織の概要
 菅谷村教育委員会
  菅谷公民館
  七郷公民館
   公民館運営審議委員会―主事―
    青年学級運営委員会
     公民館長
     青年学級主事
     社会教育委員代表
     公民館運営委員代表
     講師代表
     中学校代表
     小学校代表
     青年団長・副団長
     各大字生徒代表

   七、職員組織について
 職名     氏名  性別 主なる担任教科        現職名  備考
 主事    権田正雄  男                中学校長
 講師(専任) 島田のり  女   和裁
 講師    横瀬みどり 女   ホームプロジェクト・洋裁 小学校教諭
 講師    吉田ユキ子 女   料理           中学校教諭
 講師輔佐  青木幸子  女                    青年団副団長

   八、予算について
 収入の部
  市町村費  140500
  県費補助金  15000
  国庫補助金  50000
  寄付金    ―
  その他    ―
    計   205500
  備考
 支出の部
  職員費    33500
  消耗品費   5000
  光熱水費   1500
  食糧費    5500
  旅費     4500
  報償費    12500
  燃料費    10500
  印刷製本費   700
  備品費   131400
  通信運搬費   400
    計   205500
  備考    報償費には社会見学、旅費補助金を含む

   九、研究活動の経過
  (一)実験青年学級県指定、文部省準指定を受く
 昭和三十三年(1958)六月実験青年学級県指定並びに文部省準指定を受けた。
 私は、今迄青年学級について余り経験もないし、着任後日も浅いので、地域の事情もよくわからず困惑していた矢先、突然青年学級主事に任命され、かててくわえて実験青年学級の県指定並びに文部省準指定という光栄ある大任を担うこととなったものの、何等の足掛りとてなく、如何にしてこの責を果すべきか悩んでおりました処、県社会教育課の御配慮により実験青年学級同志の意見交換、相互研究、併せて指導の機会を企画して頂き本当にホッとした思いがいたしました。
第一回は七月三日県社会教育課分室で、
 1 研究指定までの経過及び指定の趣旨、主題、条件、報告書、その他説明
 2 質疑応答及び意見交換、問題点の提起と、話し合い
が行われたが、不幸にして参加の機会を得なかった。やがて第二回の研究会が七月二十五日熊谷市役所で開催された。研究課題は、
 3 学習過程の編成、実験青年学級の今後の取り組み方について意見交換指導を受けた。
 研修の仕上げという格好で、九月十六日から九月十八日まで二泊三日間の青年学級主事講習会が開かれ、この道の権威者の意見を聴き、ねんごろな御指導によって漸く或る程度の自信がもて足掛りも得られたので、駄馬に鞭打ち勇気をふるい起しながら次のような歩みを続けた。

  (二)青年団幹部との懇談会
 昭和三十三年(1958)七月十八日中学校家庭科室において、青年団幹部と懇談会を開き次の事項について話し合った。
 1 どんな人に準備委員(運営委員)になってもらうのがよいか。
  理論的にはほんとに親身になって考えてくれる人、骨惜しみせずに活動してくれる熱心な人、ということになるが、さて誰にということになると仲々むずかしい問題であったが、色々話し合った結果次の方々を委嘱することになった。
 (1)主催者の立場の人
   公民館長 社会教育委員代表
 (2)指導者の立場の人
   中学校長(主事) 教頭 女子代表
   小学校長 教頭 女子代表 専任
 (3)協力者の立場の人
   青年団長 副団長
 (4)参加者の代表の人
   青年団幹部大字代表の人
 2 生徒への呼びかけをどうするか
  地区内の青年に呼びかけ八月二十日までに、入級届と履歴の大要、学習内容についての希望を主事宛提出すること
 3 第一回運営委員会の日時、場所、協議事項をどうするか
 (1)日時場所 八月二十五日午後一時半、中学校家庭科室において
 (2)協議事項
  イ、開講式をどのようにするか
  ロ、運営方針について
  ハ、学習目標について
  ニ、学習教科と時間数
  ホ、実行予算について
 尚一日も早く委員を委嘱し、協議事項を前もって流し、研究のうえ参会することを約し終了した。

  (三)第一回運営委員会
 1 日時場所 八月二十五日午後一時中学校
 2 協議事項
 (1)何時何処で開校式を行うか
  昭和三十三年(1958)九月四日午後一時半から小学校裁縫室で行う。
  当日の来賓としては、村長、教育長、社会教育委員長、議会議長、村内主事、公民館運営審議委員、講師とする。
 (2)運営方針をどのようにするか
  イ、青年の自主性を尊重する
  ロ、青年の生活実態及び地域の実情に即応する
  ハ、実際生活に必要な職業または家事に関する技能の習得と一般教養の向上を期する
 (3)学習目標をどうするか
  イ、自分達の生活課題解決の糸口をつかむ
  ロ、自分達の文化的欲求をみたし、明るい家庭、明るい社会を建設する
 (4)学習教科と時間数をどうするか
  イ、家庭科
   和裁、料理、育児衛生、お花、着付美容、礼法、ホームプロジェクト、洋裁
  ロ、一般教養
   珠算、時事問題、音楽、教養講座、文化祭研究発表、公民館定期講座
  ハ、その他
   視察、社会見学、レクリエーション
  全時間を五〇〇時間位として、各教科目の時間配当は後日行うこととした。
 (5)実行予算案の編成

  (四)開講式
 予定通り九月四日一時半から小学校裁縫室で、多数の来賓を迎え盛大に開講式をあげ第一歩を踏み出した。式後約二時間自主的にレクリエーションを実施した。

  (五)視察
 十月三日行田市星宮皿尾部落営農の実際と台所改善の実情を視察非常に得るところが多かった。

  (六)第二回青年学級運営委員会
 1 日時場所 十二月二十三日中学校において
 2 協議事項
 (1)学習計画の再検討
  学習計画を再検討して、各教科目の回数と配当時間を決定し、一月八日から始まる女子青年学級に備えた。
 (2)実行予算の再検討
  県からの補助金通知に接したので実行予算の再検討をした。

  (七)公民館定期講座
 昭和三十三年(1958)九月から翌年の一月七日までの間は公民館定期講座の計画に基づいて学習を実施、召集回数六日。

  (八)本格的学習の開始
 一月八日午前九時より女子部の本格的学習を開始した。

  (九)第一回訪問指導
 一月二十日午前十時より野中県社会教育主事、瀬戸比企教育事務所指導主事、秩父、川口の専任主事、村内関係者、菅谷青年学級専任主事並びに生徒六名を迎え、第一時限料理、指導者吉田教諭、第二時限、和裁、島田講師の実地授業参観。午後研究会開催諸先生方の御指導を受け、次回の計画について話合い午後三時半終了した。

  (十)第二回訪問指導
 二月十四日午後一時から野中県社会教育主事、山川比企教育事務所長、瀬戸主事、村内関係者青年学級運営委員と話し合いの会をもった。中心話題を次の三項目にしぼり、午後五時半まで続けた。
 1 青年学級の対象である生徒の実態について
 2 教科目と講師の問題
 3 設備予算等について

  (十一)昭和三十三年度青年学級研究協議会
 1 日時 昭和三十四年(1959)二月二十五日九時より
 2 場所 比企郡滑川村青年婦人研修所
 3 本青年学級としての参加者
   主事 権田正雄(第一分科会)
   講師代表 島田のり(同)
   生徒代表 小屋野富子(第二分科会)
        小林八重子(第三分科会)
        島田敏夫(第二分科会)
        安藤貞良(第三分科会)
 4 実践発表者並びに発表題目
  「七郷青年学級運営の実際」 小屋野富子
 野中県社会教育主事の講演講評、杉山孝行先生の指導があって盛会のうちに午後三時半終了した。

  (十二)第三回運営委員会
 1 日時場所 三月四日 中学校家庭科室に於て
 2 協議事項
 (1)社会見学実施の日と見学場所
  イ、日時 三月十日午前六時出発
  ロ、見学場所
   (イ)淀橋青果市場
   (ロ)国会(参議院)見学
   (ハ)東京タワー見学
   (ニ)日本テレビ
   (ホ)デパート、浅草観音参拝
 (2)修了式に関すること
  イ、修了証書をどうするか
   総授業日数の半分以上の出席者に出す
  ロ、皆勤賞その他賞品のことについて
   皆勤賞は勿論努力賞を出すこと
  ハ、修了式の日時について
   三月二十五日午後一時半ホームプロジェクト発表後、中学校音楽室において行う

  (十三)社会見学
 予定通り三月十日実施、修養団本部の菅野先生の案内により予定の場所を見学、恰も移動青年学級の様相を呈し、極めて有意義の見学であった。ただ残念だったのは、一日中雨にみまわれたことだが、考えようによればむしろ強く印象に残ることかもしれない。

  (十四)ホームプロ発表会、修了式
 1 日時 三月二十五日午後一時半
 2 発表者と題目
  イ、私達の考えた結婚の条件    小林八重子
  ロ、嫁と姑            小屋野富子
 3 修了式
  多数の来賓臨席のもとで意義ある修了式を行った。

   十、学習内容と計画表
 職業科
  農業 5回 10時間 小菅
  農業簿記 7回 7時間 飯島
   計 12回 17時間7
 家庭科
  和裁   260時間 島田のり
  料理 9回 18時間 吉田ユキ子
  育児 2回 4時間 大塚満津
  衛生 2回 4時間 早川
  美容着付 2回 6時間 菅野
  お花 8回 18時間 塚本智導
  礼法 2回 4時間 竹内信子
  ホームプロ 5回 10時間 50時間 横瀬みどり
  洋裁  5回 10時間 横瀬みどり
  定期講座・和裁 1回 8時間 戸田
   計    372時間
 一般教養
  珠算 4回 4時間 藤野豊吉
     4回 4時間 初雁不二彦
  時事問題 3回 3時間 小高正文
  音楽 4回 4時間 清水栄一
  教養座談会 1回 2時間 (村長)青木義夫
    〃   1回 2時間 (教育長)金子慶助
    〃   1回 2時間 (公民館長)井上文雄
    〃   1回 2時間 (農協長)市川武一
    〃   1回 2時間 (婦人会長)塚本満子
  定期講座その他 29時間
    計     51時間
 其の他
  視察 1回 9時間 行田皿尾部落 十月の予定
  社会見学 1回 9時間 国会見学 三月の予定
  レクリェーション 3回 8時間
   計    26時間

   十一、研究の成果
 こと教育に関する限り、一年位実施したからといってその成果をうんぬんすることは到底不可能なことと考えるが、強いて気付いた点をあげてみると次のようなことがいえると思う。
 一 今迄は徒手空拳と申しましょうか、教室と裁ち板、アイロン、こて位で、これといった設備もなくて実施してきたが、本年度は予算的に恵まれたため、設備面である程度整えられた点は特筆大書すべき第一の成果である。
 二 青年学級に対する生徒や一般村民の考え方が違ってきたように思う。
 即ち学校の延長という考え方から、自分達の生活課題なり悩みなりを解決する糸口を見つけながら、ともどもに磨く場で、自分達にとっては極めて重要な場所である。何とかこの芽生えを、すこやかに伸して行きたいという気持をもった青年が多くなったように思われる。
 又村民一般の理解も深まったようである。
 三 学校と青年の接触が多くなるにつれ親しみがひとしお加わった。

   十二、研究過程で障害となった点(今后残された問題点)
 一 学習課目が多すぎレクリエーションの時間が少なすぎると思うので、今後は学習課目を精選し、娯楽面を多くとり入れるように工夫する必要がある。
 二 どのような学習形態をとり、それにふさわしい組織をどのように作ったらよいか。
 三 学級運営により魅力をもたせ、特に中学校を卒業したばかりの青年が、喜んで飛び込んでくるような青年学級にするためにはどうしなければならないか。
 四 青年活動と学習活動を別個のものにしないで、同身一体的な活動ができるよう工夫する必要がある。
 五 野放し状態にある青少年の道徳教育を如何にすべきか。
 六 昭和三十三年度は可能な範囲で、共学の方法をとったが昼間実施したため、男子学級は極めて不振であった。このことについても充分考慮する必要がある。
 これを要するに青年の実態をよくつかんで、魅力ある青年学級にするためにはどうしなければならないかという問題に要約できるように思われる。

 参考資料
   一、私達の考えた結婚の条件
        発表者 小屋野富子(二十才)
        (34・3・25 ホームプロ発表会資料)
 一 あなたの望んでいる結婚の塲については
    農村14  都会17
 二 婚家の職業については
    配偶者が勤人12 百姓1 勤めをしているが百姓もしている12
    勤人ではないが大工、左官等の職人2 酪農をしている3
 三 家族の人数は何人位がよいかについて
    一人8、三人8、四人6、五人5、六人4
 四 どんな家庭状況のところをのぞむか
    封建的な家庭1
    民主的で上下の区別なく皆平等に扱う。従って少しのものでも子供も大人も同じに分ける22
    経済的には大して恵まれていないがきわめて明朗な家8
 五 暮し向きについてはどういうところを望むかについて
    普通でよい20 良い方を望む7 特によい3 普通より悪いが暮しには差支えない1
 六 住居についてはどう考えますか
    小さいが間に合う(二間〜三間)14 中位の大きさ(四〜五間)17
 七 作業場については
    割合に大きいのが別に作られている15
    小さいが別にある14
    別に何もなくてよい1
    母屋が大きいので間に合わせる1
 八 飲料水については
    水道がよい16 ポンプだが近くにある2
    ポンプだがホースを利用して水くみには苦労しない8
    家の中にポンプをつけ、流しでつかう5
 九 配偶者の人権について
    学問も高く温和な人がよい5
    学校は普通程度だが努力家がよい16
    高校程度の学力で苦労して育った人10
 十 配偶者の結婚の知識
    幾分勉強している24 特に研究ずきで細い点も知っている7
 十一 配偶者の兄弟関係について
    男兄弟のみがよい6 男女半々ぐらいがよい16
    兄弟はない方がよい9
 十二 姑についてはどう考えるかについて
    父母そろっているのがよい17 母一人だけ5
    父母はいない方がよい7 父母、としよりもいるのがよい2
 十三 子供はいく人くらいがよいかについて
    二人14 三人15 四人2
 十四 姑の役職の経験については
    婦人会等の役員の経験のある人31
 十五 子供の育て方について
    小さい時はしからないで育てたい3
    小さい時からきびしくして大きくなったら余りいわないように育てる25
    学校へ上ったらきびしく他は普通3
 調査人員31 年令17才〜21才迄

   二、嫁と姑
        発表者 小林八重子(二十才)
        (34・3・25 ホームプロ発表資料)
○こんな嫁になりたい
 一 姑にも、その家庭にも、早く馴れたい
 二 自分勝手にせず何事も話し合って行きたい
 三 真の親兄弟と思い何事も協力して行きたい
 四 時には歌も歌い冗談も云える朗かさを作って行きたい
 五 食物は栄養を考え家族が喜んで食べてくれる料理を作りたい
 六 何事もこまめに働きたい
 七 暇な時には読書もし、自分の知識の向上につとめたい
 八 少し位の事には気をつかわず、腹も立てずに心を大きくもちたい
 九 気どらない嫁になりたい
 十 農業について少しずつ研究して行きたい
 十一 たとえ嫁の意見であっても正しい時は通させてほしい
 十二 姑と嫁で話し合う時間をたくさんもちたい
 十三 師ごとはなるべく分担してやって行きたい
 十四 家庭内の生活改善は少しづつやって行きたい

○こんなお母さんがほしい
 一 嫁と思わず娘と思ってほしい
 二 仕事も洗濯物も相談してやらせてもらいたい
 三 食事時は早めに仕事から上らせてもらいたい
 四 経済の許す範囲で作業着位は買ってもらいたい
 五 病気の時は自分の子供と思って看病してほしい
 六 家族揃って時には映画や旅行に行かせてもらいたい
 七 うわさ話や嫁の悪口は云わないでもらいたい
 八 何事も理解のあるお母さんであってもらいたい
 九 若い人達とも良く話し合えるお母さんであってほしい
 十 時には少し位小遣いを出してもらいたい
 十一 教えていただく事は別として、その他の事については嫁のすることに余り口出しをしないでもらいたい
 十二 「わしが嫁の時代はこれこれだった」と思っても嫁に対してそれを繰りかえさせてもらいたくない
 十三 何年たっても実家から仕着せをしてもらうようなことのないようにしてほしい
 十四 食事も嫁許りが給仕にならず、他の人も協力してやってもらいたい
 十五 洗濯は仕事外と考えないで、家庭の一つの仕事を分担しているのだとみてもらいたい
 十六 嫁の道具の多いのを自慢したり、又その量の多少によって良い嫁、悪い嫁の区別をつけてくれることのないよう、道具をもらうのではなく「人間」をみてもらってほしい
 十七 嫁をもらったからといって、すぐ婦人会等に出されるのはこまる

                         (文責 権田正雄主事)

     埼玉県教育局社会教育課『青年学級のあゆみ』
      昭和33年度 実験青年学級記録1 49頁〜60頁

戦地の兵士に送られた古里・天王様の写真 1939年

古里天王様慰問写真(1939年)
 1939年(昭和14)の古里・八坂神社の会計帳には「一金六円也 慰問用写真代十六枚」とあります。日中戦争はこの頃、勝利の展望もなく泥沼化し、6月にはノモンハン事件が勃発、9月にはドイツのポーランド侵入により第二次世界大戦が始まりました。
 16枚の写真は大字古里から出征した戦地の兵隊に送られました。異境の軍営で慰問袋や慰問状に添えられたこの写真を手にした兵士達の気持はどのようなものであったでしょうか。
 この年の天王様の祭典は、祭の準備、御輿の渡御、後片付け・勘定まで含めて3日間、7月30日、31日、8月1日に行われました。旧暦の6月14日、15日、16日にあたります。


 

古里重輪寺の本寺瀧澤寺

 『新編武蔵風土記稿』は、江戸幕府が編さんした武蔵国(現在の埼玉県と東京都の隅田川より東の地域と島嶼を除く部分、および神奈川県の北東部、現在の川崎市全域と横浜市東部・沿岸部を合わせた地域)の地誌である。1810年(文化7)に編さんに着手し、1828年(文政11)に完成、その後訂正を加えて1830年(天保元)、将軍に献上された。同書の比企郡古里村には、次の記述がある。

  兵執明神社 村ノ鎮守ナリ、社内ニ蔵スル宝永七年(1710)ノ棟札ニハ兵執明神ト書セリ。
  愛宕社
  稲荷社
   以上三社ハ竜泉寺持。
  竜泉寺 天台宗、江戸山王社別当城林寺ノ末、金剛山金州院ト云ヒ、開山ノ僧ハ貞治三年(1364)十月示寂セシト云フノミ其名詳ナラズ。当寺ハモト光林寺ト号セシヲ、慶安三年(1650)真海ト云フ僧中興セシ時今ノ寺号ニ改メタリ。真海ガ寂年詳ナラズ本尊弥陀ヲ安セリ。
  重輪寺 元ハ重林寺ト書セリ。曹洞宗、上野国群馬郡白川村瀧澤寺末、旧里山ト号ス。慶長年中(1596-1615)ノ草創ニテ開山理山銀察ハ寛永十年(1633)十一月廿五日化ス。本尊地蔵ヲ安セリ。

瀧澤寺

 写真は重輪寺の本寺瀧澤寺。箕輪城阯のある群馬県高崎市箕郷町白川1583にある。重輪寺開山の理山銀察和尚は、瀧澤寺十一世であった。

菅谷村婦人会が発足する 1951年

   婦人会を発足して
                  根岸喜

一、婦人の修養(65%) 月一回の常会を望むといふのが多数
 1.講演会     64票 料理編物洋裁染色
 2.講習会     72票
 3.巡回文庫    15票
 4.座談会     61票
 5.生活合理化   72票
 6.見学旅行遠足   9票
 7.家庭教育    41票
 8.保険栄養育児  34票
二、生活改善(21%)
 1.冠婚葬祭簡素化 73票
 2.服装美容    33票
 3.台所改善    11票
 4.時間確守     3票
三、内職斡旋       9票(1.6%)
四、戦没者遺家族慰安  9票(1.6%)
五、託児所図書館設置  6票(1%)
六、映画娯楽       9票(1.6%)
七、よい婦人会に   29票(5%)
八、主人姑の啓蒙    9票(1.6%)
九、その他      37票(2.5%) 内三度に一度は鎌形校で会合を望む1%

 本婦人会は去る二月十八日は斑(まだ)ら雪の寒い日に発足すると同時にその方向を定めるため「婦人会に何を望むか」の標題の下に全村に世論調査を行った。其の結果右【上】の表の通りである。「主婦はもうこれ以上何もしたくないと云ひたい程日常の仕事が多い」とこぼされて見れば、それも素直に同感される。しかし「飽くまでも家庭婦人の立場に立脚して、その日常の平凡さの中に楽しみ、潤ひを見出し、真に生甲斐を感じさせる様計画して欲しい」との切なる望はめざめた限りのあらゆる主婦の総意でもあらう。私はわざと項目に依らず漫然と広い質問形式を選んでやってみた結果、百論続出して、お陰で面白く、ずい分参考に資する処があったと喜んでいる。パーセンテージを見ていたゞきたい。
 表が示す通り、先づ、婦人自身の修養、即ちその精神的向上及び日常生活に必要な技術の習得の面が圧倒的に多く、講演会や講習会、或は巡回文庫、見学旅行、座談会の具体案から単に生活の合理化という抽象案に至るまで相含めて65%、これは皆農村一般女性の低調な生活面が描くしつこくの中で、あえぎながらも空を見つめて訴える悲痛な欲求の声に私にはひゞく。他方「主人や姑の啓蒙再教育」1.6%という一項を見た時、前項と表裏をなして、暗にこれら女性の進出向上を阻(はば)む黒い影のあることが肯(うなづ)けよう。どうか御主人や老人の方々の婦人に対する理解の一端として努めて諸会合に女を出席させて下さるやう切望する次第である。それが子女の為、家庭の為、明るい幸福をもたらす所以(ゆえん)である事に思いを致して頂きたい。又どこの何の会合にも出席率の低い事と時間の確守せられぬ事は非文化、非向上の明らかな表示であるやうだ。我が婦人会は率先してこの悪習を打破してゆきつつある。
 次には生活改善の21%である。その内冠婚葬票祭簡素化が13%で、これはどこの婦人会でも取り上げぬ所はないらしいし、現に当郡でも点数制が規約されてゐる様で川島領六ヶ村【現・川島町】はこれに依っていると書いてあったが、点数制は一見不自由なように感じられるが、地域的に個人的に融通性があるから便利だと思う。何れにしてもまちまちに定めたのでは実行され難い。一郡一県とまとめ、その上充分地域的なふくみを持たせた案であって、一旦規約が出来た以上実行しなければ意味がない。
 我が婦人会も再度審議を重ねた原案を持っている。これを更に村一体に移して、男も女も、諸団体協同でこれの実施を期したいと望んでいる。
 婦人会そのものの育成についても5%の関心を持たれている。是非とも大方の希望に副(そ)いたいと念願している。「愛に結ばれた和やかな婦人会にしてゆきませう」の一票は最も私の意を得たうれしい人のうれしい心であって「婦人会がなくも私は結構幸福に暮せます」といった人と比べて何といふ人間の違いであろうとしみじみ思った。服装美容、結髪についても意見が出ている。女である以上尤もな事であるし左にこんな票もあった。
 「婦人会長は女らしくあれと挨拶したが、女らしくとは美しくあれと言うことだと思う。天野貞祐氏がいうように『おしゃれは女性の特権である。おしゃれをした女性ほど美しいものはない』のだ。この女性の特権を放棄しては婦人会は存在の価値なしであると思う。総会の日の会長の髪はボサボサで油もつけてなかったが、こういうのはエチケットを知らないんではないかと思う。モンペをはいた殊更(ことさら)貧しげな服装をすることは、近代女性のなすべきことではない。永遠に美しくある事も人生の願でなければならない云々」
 そして都会に於いて四季の変化を銀座の柳の芽ぶくのを見なくとも婦人の服装で感ずる事で出来たそうである。私はこの票を無条件で受け容れるものではない。天野氏のおしゃれが那辺にあるものか知らぬが、美容というのは実に微妙な人体の表現であって、典型的な美貌がさして映えなかったり、又美人というのでなくても人をひきつけて已(や)まぬ魅力を持つ人がいる。こゝには人から教えらるゝことの出来ぬ精神の表現が加わっているのだと私は解釈したい。
 ある画家が善のモデルにした人と悪のモデルにした人と時代こそちがえ同一人だった話は有名な話である。同一人すら悪行の時代には悪の象徴となり、善行の時代には善の象徴となる。知識人は知識人の美を、農娘は農娘の美を、娼婦は娼婦の美を為さしむる。こゝに「おしゃれは人なり」ということがいえないだろうか。内容の美を内に深く秘めた女性の姿こそ真におしゃれの意に叶った形容であって更に環境や思想による別個の美がそこに交錯する。私の婦人会にはそんな美容を望みたい。女は永遠に美しくあれという言葉に異存はないと同時に精神の御化粧を怠ることはできない。
 今回の世論調査には何故か衛生思想の現はれが少なく、今農村が最も関心を持たねばならぬ産児制限の問題もわずか一票二票より出なかった。日本の人口過剰は農村が温床であるといはれる。土地改革により農村の世帯数は無暗に殖やすことは出来ぬ。二男三男は、然らばどこへゆくか。都市への集中が年を追うて激しくなる。そこにさまざまな様相を持つ悲劇が生れ救われがたい事件が起る。しかし農民自身にとっては直接には何の影響もない。幸い食物は自宅で取るからどうにか食べさせられる。従ってこんな問題は余り関心事ではないらしい。又農村は特に非衛生な所であるのに伝染病など書いたのが一票あったのみ。台所の改善なども能率の上からは勿論であるが、衛生の面にはそれ以上の大切なつながりがある。便所肥溜の設備は皆金との談合ではあろうけれど、是非とも改善せねばならぬ焦眉の問題であると思う。
 婦人会の仕事は雑多であるが少なくとも上層、中層、下層(貧富の差でなく)位には分けねば最末端までのしんとうは覚束かない。私どもの苦心はこの中層から下に多くある。農村に於けるこの層はしかも大多数を占め、読む書くという事から一切自分を敬遠させて婦人会の何たるかさえ知ろうとしない。たゞあるものは祖先伝来の過重労働に疲れて子女の育児さえ放任しておく。とにかくこの層の人々を出来るだけ会合に引き出し、紙芝居や幻燈、映画なら申分なし、半教育娯楽のもの位から啓蒙してゆくより外方法はなさそうである。この層の人達を意のままにすることが出来たら農村婦人会の役目は終わったと云っても過言ではあるまい。今は農繁期である。会合は尚のこと望めない。せめてこの時期を無為に過したくないため、母親教育を目指して半紙四つ切のプリントを月四五回印刷頒布したり、農閑期用の紙芝居の資料しゅう集作製に当ろうとしている。
   埼玉県教育局社会教育課『埼玉社会教育』2号 1951年(昭和26)7月25日

※菅谷村婦人会の創立総会は、1951年(昭和26)2月18日開催された。発会にいたる経過については「菅谷婦人会設立準備委員を委嘱」、総会の様子、役員については「菅谷婦人会が発足」、根岸き会長の「あいさつ」参照。この時期、七郷村には七郷家庭婦人会(初雁冨美会長)があり、菅谷村、七郷村婦人会ともに村役場に事務所がおかれていた(昭和26年5月現在『社会教育関係団体名簿』埼玉県教育局社会教育課)。

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