GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2009年07月

空から見たときがわ町 10 2009年6月

ときがわ町・五明地区
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2009年6月14日 内田泰永さん撮影
五明(ごみょう)

空から見たときがわ町 9 2009年6月

ときがわ町・五明地区
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2009年6月14日 内田泰永さん撮影
五明(ごみょう)

空から見たときがわ町 8 2009年6月

ときがわ町・田中地区
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2009年6月14日 内田泰永さん撮影

空から見たときがわ町 7 2009年6月

ときがわ町・別所地区
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2009年6月14日 高度450m 内田泰永さん撮影
月窓寺は嵐山町越畑・金泉寺の祖舟和尚が
住職となった。「金泉寺祖舟和尚と筆子塚

空から見たときがわ町 6 2009年6月

ときがわ町・西平地区
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2009年6月14日 高度450m 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 3 鎌形・植木山地区 2008年10月

左:鎌形・植木山地区、右:嵐山カントリー倶楽部
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2008年10月18日 内田泰永さん撮影

参照:「鎌形村内郷と植木山の合併許可 1874年6月

空から見たときがわ町 4 2009年7月

ときがわ町玉川・根際(ねぎわ)地区
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2009年7月 高度500m 内田泰永さん撮影

空から見たときがわ町 3 2009年7月

玉川カントリークラブ、湯郷玉川
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2009年7月 高度500m 内田泰永さん撮影

空から見たときがわ町 2 2009年7月

中央・県道173号線(玉熊線)、畑に点在するのは「牧草ロール」
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2009年7月 高度500m 内田泰永さん撮影

空から見たときがわ町 1 2009年7月

中央・ときがわ町玉川トレーニングセンター、ときがわ町役場
中央右・玉川小学校 中央左・玉川中学校

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2009年7月 高度500m 内田泰永さん撮影

嵐山町の母子愛育会活動 1960年代

   嵐山町の母子愛育班の活動
         母子と家族の健康を守る
 家族の人たちが健康であることは誰しも願うことである。嵐山町大字古里馬内(もうち)地区の区有文書のなかに母子を中心に家族の健康に取り組んだ貴重な記録が残されている。それは母子愛育会の活動資料である。

  七郷地区母子愛育班の活動
 菅谷村七郷地区母子愛育会々則がつくられたのは1962年(昭和37)4月1日である。会則第2条に「この会は母子保健衛生問題の解決を主として私たちの健康は私達の手で協力して守ることを目的として地区住民の健康と福祉の増進をはかる」と述べられている。会の構成員は第3条によると、「会の目的に賛同する世帯を会員として入退会は自由」となっている。第5条では「会の円滑なる運営を期するため医師、保健婦、助産婦、村役場、保健所等の専門的科学的技術の提供援助を受けて活動を促進する」と述べられている。組織は第6条によると、会長1名、副会長2名、支部長22名、班長57名、その他監事、会計書記、顧問で構成されている。この第5条と6条の規定を見ると、医療関係の専門家と行政の協力も受けて、組織的には七郷地域全域にわたる取組みであることがうかがわれる。運営に要する経費は第10条によると会費と助成金によるとされている。
 1965年(昭和40)度の事業計画を見ると、「更年期障害」「家族計画」「成人病料理講習」「乳幼児健診」「癌について」「子どものしつけと救急処置について」「血圧測定」などの他に、役場への協力で「乳幼児健診」「妊婦検診」「住民検診」が計画されている。
 なお、菅谷村は1967年(昭和42)4月15日に町制施行で嵐山町になったので4月24日に会則の変更が行われ、名称は嵐山町菅谷・七郷地区母子愛育会々則とかわり、会の事務所が七郷公民館から役場内にかわったが、それ以外多少の表現の違いはあるが活動や組織の基本はほぼ同じである。

  いくつかの調査結果の紹介
 活動のなかで貴重な調査結果が報告されているので、いくつか紹介したい。

 1966年(昭和41)度、1967年(昭和42)度の菅谷地区と七郷地区の病気因別死亡状況
菅谷地区
  年別  脳卒中 悪性腫瘍  心臓病 肺炎  事故 死亡総数
 1966年 31.7%  7.3%  24.4% 4.8% 12.2%  41人
 1967年 30.3% 24.2%   9.1% 3.0%  9.1%  33人
七郷地区
  年別  脳卒中 悪性腫瘍  心臓病 肺炎  事故 死亡総数
 1966年 29.7%  3.7%  18.5% 7.4% 18.5%  27人
 1967年 38.4% 11.5%  30.8% 3.8%  3.8%  26人

 この調査結果について次のようなことが記されている。
 菅谷地区では、死亡割合は減っているのに、悪性腫瘍(あくせいしゅよう)のみが急激に増え、七郷地区では、肺炎・事故を除きその他の割合が高くなっている。何故なのだろうか。両地区の1967年の状況では、心臓病・脳卒中・肺炎が七郷地区の方が多く、悪性腫瘍と事故による死亡は菅谷地区に多い。両地区の住民の家族構成、年齢構成、職業構成、就業の形態など、生活の様相や環境に即して原因を明らかにし、対策をたてることが望ましい。過去からの踏襲だけの対策だけではなく、いろいろな活動を寄り合わせ、その上で総合的な成果を得るようにする。
 当時のこうした調査と問題提起は、住民の健康への関心を高めるのに非常に役立ったと思われる。

 嵐山町の鉤虫状況  鉤虫対策地区検便成績
                 被検査者数    鉤虫卵保有者数
 年度   地区          該当者数  実数  % 実数  %
1960年 広野・越畑          937    930 99.2 219 23.4
1961年 広野・越畑・鎌形       1805   1685 93.3 592 35.2
1962年 大蔵・根岸・将軍沢      879    732 83.2 258 35.2
1963年 志賀・吉田          1096    921 71.5 343 37.2
1964年 川島・平沢・千手堂・遠山   1005    619 61.6 162 26.2
1965年 古里・勝田・杉山・太郎丸   958    657 68.5 266 40.4

 この調査結果については、「卵の保有者数が多い。駆虫は冬場を狙い、地域住民に具体的な資料を出し、理解と協力を得、地域ぐるみで行なう必要がある。単に投薬だけでなく、生活改善の問題ともからめて、駆除対策を考えていく」と。単に報告だけでなく、続いて具体的な駆除の取組みがなされている。

  地域住民の期待に応える活動をめざして
 二つほど具体的な資料を紹介したが、母子の健康を中心にこれ以外にさまざまな調査や対策がなされている。嵐山町における国保の加入状況、結核患者の現状と結核検診、妊婦検診とその結果、乳幼児健診、三歳児の発育状況調べ、成人病検査の状況調べなども行なっている。嵐山地域は1966年(昭和41)度に「保健福祉活動推進地区」に指定されたが、母子愛育班がその推進組織になっていた。
 愛育班の会員自身の研究活動では、自分たちの農作業時間の調査、農家の過重労働と妊産婦の問題、共働き世帯における育児・保育の問題など、母親たちの当面する切実な課題と活動も明らかにしていった。そしてこれらの課題は母子愛育班の努力だけでは解決しない。多くの町民の理解と協力を得ることが絶対必要で、地域組織の活動の大切さが訴えられていた。
 1968年(昭和43)度は菅谷・七郷地区の役員が合同で協議し、その結果次のような活動目標をまとめた。

・料理講習   離乳食、幼児食、成人病中心の講習 
・乳児相談   若夫婦だけの世帯で希望
・血圧測定   部落毎に実施希望
・育児教室   平沢団地で3ヵ月に1回実施
・虫歯予防   予防の知識について講習
・鉤虫対策   集団的に駆虫まで行なう
・環境衛生   環境衛生とは何かの知識を学ぶ
・レクリェーション  地域住民の親睦、年寄りと若い人の交流
・地区座談会  会員全般に組織活動を理解、徹底
・ごみの処理  ハエ等の駆除、危険物の処理

 この目標のもとで1968年(昭和43)度の七郷地区愛育班事業計画がたてられて取り組みが行われたが、地区ごとの座談会の動きが注目される。「子どもの遊び場が必要」「保育所が欲しい」「側溝にふたをし、道路の幅を拡げてほしい」と、そこには自分たちの生活にそくした新しい問題や要望が出されている。
 この資料のまとめには次のようなことが書かれている。

 世の中全体が変化しているように、嵐山町も変わり地区組織活動にも変化のあらわれがある。
  ,澆鵑並針擦砲覆蝓¬魄のなり手がない。人が集まらないので会合が開けない。
  ∋劼匹發魄蕕討△欧燭劼箸蓮愛育班に関心をもたない。
 今後、嵐山町の地区組織活動、保健と福祉の諸施策を一層着実にすすめる必要がある。このために、母親自身、父親、町民の多くに魅力を感じさせる活動や諸施策を打ち出す。 この内容にみんなの生活が求めるものを盛りこむ努力が必要である。

 このような問題提起が出される背景に、嵐山町域での新しい動きがあった。
 菅谷村から嵐山町への動き、1960年代(昭和30年代後半)から始まる嵐山ゴルフ場建設や明星食品株式会社、根岸電材埼玉工場などを皮切りに始まる工場誘致の動き、バス路線の開通など、高度経済成長期の新しい動きが始まってきていた。「みんな多忙になり、役員のなり手がない。人が集まらないので会合が開けない」という事態の背景に時代の動きがあったのである。その中で住民の求めるものにどう応えていくのかと提起しているのである。

※母子愛育会については、社会福祉法人恩賜財団母子愛育会のHPから「母子愛育会の概要」等を参照。嵐山町の母子愛育班の活動は1998年(平成10)度で終り、現在は育児グループ「くれよんキッズ」等が活動している。
※嵐山町の愛育班は、1959年(昭和34)に設立され、翌年から本格的な活動を始めたようである。「愛育班を育てましょう 1960年」、「嵐山町母子愛育会合同研究会『嵐山町における保健福祉問題』 1968年」。

東昌寺観音堂物語

 菅谷の東昌寺の山門を入ると、すぐ左側に観音堂がある。本尊は千手観音(せんじゅかんのん)である。この千手観音には、江戸幕府の二代将軍秀忠の乳母(うば)にかかわる長い歴史が秘められている。

 将軍秀忠の乳母と千手観音
 菅谷の地は江戸時代の前半期は旗本岡部氏の領地であった。岡部氏の県内の知行地は、菅谷以外に志賀、太郎丸、勝田(かちだ)、滑川町の中尾、水房、大宮市の宮ヶ谷塔(みやがやと)などである。
 岡部氏の先祖は岡部主水(もんど)といわれている。主水の父は今川義元の家臣川村善右衛門、母は岡部與惣兵衛(よそうべえ)の娘である。善右衛門が若くして亡くなり、主水の母は小田原で徳川家康に召しだされ、秀忠(後の二代将軍)の乳母を務めることになった。やがて江戸城に住み岡部局(おかべのつぼね)といわれた。この岡部局が持仏(じぶつ)として信仰していた千手観音を、後に菅谷の地で祀ることになったのである。
 息子の主水もやがて家康に召しだされ、そばに仕えることになった。そのとき家康から母方の岡部姓を名乗るようにいわれ、以後岡部主水と名乗ったという。岡部局は1608年(慶長13)に将軍秀忠の病気平癒(へいゆ)と武運長久を祈願して、江戸の池上本門寺(日蓮宗本山)に五重塔を寄進した。岡部局はその二年後に江戸城で病死した。塔は国の重要文化財に指定されている。滑川町中尾の慶徳寺(けいとくじ)(曹洞宗)の過去帳には、岡部局と歴代岡部氏の戒名が記されている。

 多田堂の建立
 岡部氏五代目の岡部藤十郎の時代に、志賀の多田家初代多田七左衛門は菅谷村に住んでいて、1702年(元禄15)に菅谷の領地支配を命じられた。二代目多田平馬重勝(へいましげかつ)も領地支配を引き継ぎ、藤十郎から十石五人扶持を与えられている。この頃から多田家は「陣屋(じんや)」といわれるようになったと思われる。この多田平馬重勝のときに観音堂の基になる多田堂が建てられた。菅谷自治会館の脇にある多田家の墓地の一角に、多田堂の由来を漢文で記した石碑【高さ約2メートル】がある。碑文によると、畠山重忠が菅谷館(すがややかた)のかたわらに寺を建て長慶寺(ちょうけいじ)と名づけた。後に寺は菅谷の地【菅谷自治会館の所】に移された。江戸時代の寛永年間になって菅谷の地を領有するようになった岡部氏はこの寺を廃寺(はいじ)にし、1706年(宝永3)にその跡地を多田平馬重勝に賜り、そこを墓地とすることを命じた。重勝はそこにお堂を建て、千手大士【千手観音】を安置し、多田堂と名づけたと記されている。千手観音は岡部局の尊崇した観音様であった。石碑は1797年(寛政9)に三代目多田一角英貞(いっかくひでさだ)が立てたものである。以後多田家が多田堂を守り、その祭りも盛大に行なってきた。
 1723年(享保8)に、松山宿の吉田七兵衛は比企郡内の観音を回る巡礼札所を定めたとき、多田堂を26番目の札所にした。「享保八年 比企西国御詠歌(ごえいか) 道法附(みちのりつき)」には、「二十六 すがやただのどう二十七番へ十八丁 たのめただ すかやこかげのあまやどり ちかひもらさじ はさくらのかさ」【頼め多田 菅谷木陰の雨宿り 誓いもらさじ 葉桜の傘】と歌われていた。そして多田堂の祭りの盛んな時代を物語るかのような立派な太鼓が、今も多田家に残されている。太鼓の胴回りの直径が63センチの立派なもので、側面に「菅谷多田堂 本竹(もとたけ)稲荷宮 祭禮器」と刻まれている。しかし岡部家が廃絶(はいぜつ)にされ、幕末の激動期には維持が困難になり、しだいに地元の菅谷村の人たちがお堂を維持するようになったと思われる。

 多田山千日堂へ
 明治の新政府は、財政の基礎を固めるために土地の所有者に地券(ちけん)を交付して土地の所有権を認め、地租(ちそ)として税を納めさせることにした。この地券交付にあたり問題が起こった。多田堂境内の土地の地券が菅谷村に交付されたが、その多田堂境内の土地は大部分を多田家が寄進し、地租(ちそ)は多田家が納めてきたからである。多田家は地券の名義を多田家に書き換えることを県に願い出て、さらに熊谷裁判所に訴えた。1874年(明治7)5月17日に多田家・志賀村側と菅谷村との間で示談が成立した。
 それには、
 1、多田家側では多田堂と称していたが、堂のある菅谷村では千日堂と称していた。いずれとも決めかねるので以後は観音堂と称する。
 2、地券の持ち主は観音堂とする、
と記されていた。しかし、その2日後に両者連名で熊谷裁判所に提出した和解書によると、堂の敷地は多田家の先祖が寄進したものに相違ないが、地券の持ち主は多田山千日堂とすると記されている。これにより以後は多田山千日堂といわれてきた。なお1916年(大正5)に菅谷区長関根濱吉が比企郡長に提出した「多田山千日堂調」には、多田堂の境内地18坪、堂宇の間口2間4尺、奥行3間4尺、向拝(こうはい)間口6尺、奥行2尺5寸、瓦葺(かわらぶき)と記されている。

 菅谷の大火と奉安殿
 1935年(昭和10)の菅谷の大火で、多田山千日堂はお堂も千手観音像も全焼してしまった。その後、1940年【昭和15】に制定された宗教法人法の規定により、独立した仏堂はいずれかの寺院に所属することになったため、すでに東昌寺が管理していたので、以後正式に東昌寺に属することになった。
 やがて日本が戦争に負けて、菅谷小学校の奉安殿【天皇の「御真影(ごしんえい)」を安置していた】が廃止になったとき、その奉安殿を多田山千日堂の跡地に移してきて仮堂とし、新しい千手観音を安置した。

 東昌寺観音堂の時代へ
 この元奉安殿もいいたみが激しくなったので、東昌寺境内に新しく観音堂が建てられた。しかし仮建築であったため、1987年(昭和62)に本格的なお堂建築として建てられたのが現在の観音堂である。お堂には千手観音と岡部局の正心院殿日幸大姉の位牌(いはい)が安置されている。

 写真  東昌寺の観音堂
     多田家墓地の石碑(多田堂の由来)
本竹稲荷太鼓
     菅谷多田堂 本竹稲荷宮 祭禮器【太鼓】
本竹稲荷幟旗(略図)

  本竹稲荷幟旗(略図)

空から見た嵐山町 1 嵐山町役場 2009年7月

   中央・嵐山町役場、左・地産団地
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2009年7月15日 高度500m 内田泰永さん撮影
『渋谷とみこのホームページ』の「嵐山町を空から見ると」に
嵐山町内の空中写真が掲載されています。
HP『KLB嵐山』のtop写真は、将軍沢を中心に都幾川右岸の空中写真
国土地理院の地図閲覧サービス
国交省の国土情報ウェブマッピングシステム(カラー空中写真閲覧)』

菅谷に生繭乾燥場が建設される 1906年

  日露戦争前後から養蚕が伸びてきた
 幕末の開国によって外国貿易が始まると、生糸と蚕種(さんしゅ)【蚕の卵】が輸出品の中心になっていった。しかし輸出の増加につれて粗悪品も増え、外国商人の不信をかうようになった。明治政府は生糸の改良をめざして群馬県に官営模範工場として富岡製糸工場を開業させ、埼玉では県の奨励もあって民間の製糸会社も出来て生糸の改良に乗り出した。しかし1881年(明治14)からの松方正義の財政引き締めによって非常な不景気になり、生糸の価額が大暴落した。秩父では農民が秩父事件に立ち上がった。
 その後も養蚕の改良発展の努力がなされ、県内に養蚕の伝習所や専業の大養蚕家も出てきて、日露戦争前後から生糸の生産も伸び、輸出が急速に伸びていった。埼玉では県北の児玉郡や大里郡、県西部の秩父郡、比企郡、入間郡などで養蚕が盛んになった。こうした状況のなかで菅谷村【現・嵐山町】では養蚕に携わる農家の人たちが協力して生繭(せいけん、なままゆ)の乾燥場(かんそうば)を建設した。
 そのときの乾燥場設置の規約、運営や利用状況の資料が残されているので、いくらか紹介したい。

  菅谷組合生繭乾燥場設置規約
第一条 本組合ハ生繭乾燥ヲ以テ目的トス
第二条 本組合ハ菅谷生繭乾燥場ト称ス
第三条 本組合事務所ハ仮リニ大字菅谷十四番地ニ置ク
第四条 位置ハ大字菅谷トス
第五条 本組合員ハ本村内在住ノ者トス
第六条 本組合存立年限ハ十ヵ年トス
第七条 組合員ハ其払込済出資額ニ応ジ組合財産ニ対スル権利ヲ有ス
第八条 本組合ハ資本金(設置費総額)五百円トシ總口数壱百口トシ一口金五円トス
第九条 資本金(設置費)出資期日ハ左ノ如シ
 第一回 【字が薄れていて読めない】
 第二回 壱口金弐円五十銭 四月三十日限り
 第三回 壱口金弐円五十銭 五月二十日限り
第十条 組合員其出資ヲ怠リタルトキハ期日后金百円ニ対シ一日金五銭トス
第十一条 本組合ニ組長壱人理事四人ヲ置ク 但組長ハ理事ノ互選トス
第十二条 理事任期ハ一ヵ年トス

  規定
乾燥場ニ於テ茶ヲ呑ミ其他飲食ハ各自ノ負担タル事
○印ハ本乾燥 △印ハ半乾燥
乾燥料受取人ハ各自認印ヲ押ス事
乾燥料ハ壱昼夜限リニ収入掛ヘ渡ス事

 この設置規約によると、菅谷村の在住者ヲ組合員として、生繭の乾燥ヲ目的として乾燥場を建設する。その資本金(設置費)は500円、1口5円で、100口を集める。役員は組長と理事4人、任期1年。組合の存立期限は10年となっている。
 繭の乾燥場の建設は、1906年(明治39)4月から始められた。「乾燥場設置支払明細帳」によると、支出総額は金530円45銭3厘で締めくくられている。この金額は、先に紹介した「菅谷組合生繭乾燥場設置規約」の第八条の資本金(設置費総額)500円に見合う金額である。自分たちで資金を出し合って乾燥場の建設を始めたことが分かる。

  乾燥場利用記録から見えてくること
 この施設の利用記録の帳簿によると、利用の開始は1906年(明治39)6月18日から始まっている。明治初期の養蚕は春蚕(はるご)だけであったが、やがて秋蚕(あきご)も始まってきた。乾燥場の利用が6月18日からというのは、春蚕の乾燥から始まったといえる。6月からがその年の第1期、9月からが第2期である。
 まず利用状況を見てみる。

 1906年(明治39)第1期(6月18日〜6月21日)
  乾燥量 183石1斗7升5合  乾燥賃 84円41銭7厘
 1906年(明治39)第2期秋蚕(9月4日〜9月7日)
  乾燥量 17石6斗9升  乾燥賃 13円43銭
 1907年(明治40)第1期(6月16日〜6月26日)
  乾燥量 1969貫500匁  乾燥賃 155円89銭
 1908年(明治41)第1期(6月14日〜6月25日)
  乾燥量 1815貫400匁     乾燥賃 197円64銭
 1909年(明治42)第1期(6月11日〜6月20日)
  乾燥量 1267貫300匁  乾燥賃 136円74銭
 1910年(明治43)第1期(6月11日〜6月21日)
  乾燥量 1221貫62匁  乾燥賃 132円95銭
   *1906年度は乾燥量が石で、翌年からは貫で表わされている。

 この5年間の利用状況を見て特徴的なことをあげてみる。
1.秋蚕時の乾燥記録は1906年の第2期にあるだけで、それもわずかな量であること。それ以後の年は第1期つまり春蚕だけである。秋蚕の飼育が当時始まっていたはずだけれども、春蚕と違って飼育が難しいといわれていたのでまだこの地域ではそれほど普及しなかったのであろうか。理由ははっきりしない。
2.乾燥場の運営状況は順調であったようである。乾燥場の建設運営に必要な資本金(設置費)は規約によると500円であった。実際の資本金の集まり状況は1口5円100口で500円、それに補助金30円。合計530円。乾燥場設置支払明細帳によると、支出は建設運営費が536円45銭3厘。乾燥賃の収入は初年度では少ないが2年目からは増えてきて、設置から5年間の乾燥料収入の合計は721円6銭7厘である。燃料費などの記録がないので細かいことは分からないが、この500円の資本金で始めた乾燥場が順調に運営されていることを示している。
3.乾燥場の利用者が菅谷村の範囲を超えて広がり、地域に根ざした活動になっている。規約では乾燥場の組合員は菅谷村在住者となっているが、実際の利用者は菅谷村以外に広野、杉山、太郎丸などの七郷村(現・嵐山町)の人たち、さらには福田(福田村、現・滑川町)月輪(つきのわ)、伊古、水房(宮前村、現・滑川町)、上唐子、神戸(ごうど)(唐子村、現・東松山市)、下里(小川町)、中爪(なかつめ)(八和田村、現・小川町)、田黒(玉川村、現・ときがわ町)、そして熊谷町(現・熊谷市)、桜沢村(現・寄居町)からも来ている。簡単に言えば後の嵐山町とそれに隣接する地区の人たちに利用されるようになっている。
4.乾燥場の利用頻度の多い地区は菅谷、平沢、志賀の3地区で、それについで上唐子、広野、杉山、千手堂、月輪、川島、鎌形が多い。

参照:「七郷地区の繭乾燥場

※乾燥・乾繭(かんけん):繭はそのまま放っておくと中のサナギが成虫(ガ)となって繭に穴をあけたり汚したりしてしまうので、そのようになる前に熱処理してサナギを殺し、生糸にするまでの間にカビが出たり腐敗したりすることがないように乾燥して水分を少なくしてから貯蔵する。この工程を乾燥または乾繭といい、乾燥された繭も乾繭と呼ぶ。
※参照:埼玉県HP「
埼玉県の養蚕・絹文化の継承について」に「埼玉県の養蚕の歴史」略年表がある。

七郷村十一婦人会をみて 1940年

 三月二十五日本県でも珍しい婦人常会が比企郡七郷村【現・嵐山町】に開かれるといふので午後二時頃目的地越畑部落婦人常会の開かれる田島家を訪問、集る者部落の全主婦二十二名、農事実行組合幹部、農会技術員、小学校助教員等合計四十名程度、案内されて先づ部屋に入る。そして感じたことは常会はこれでなければ駄目だと、それは目に入って来る感じが実に和やかだ。乳を含ませて居る若い母、茶菓を喰(た)べながら話し合って居る主婦、これ等からかもし出す空気がほんとに明朗そのものである。農事実行組合長、農会技術員、小学校教員、各々の立場より夫々農産物の供出につき主人に積極的協力をして欲しいとか、農民は農民としてあくまで農の為につくすのが国家に報ずる道であるとか、生活をより一層改善しなければならないといふやうなことを例をあげつつ話し合ひ、主婦等もこれに対して種々質問を発するなどこれが和気藹々(わきあいあい)たる談笑裡(り)に運ばれてゆく。全く愉快の限りである。これであるから昭和五、六年頃(1930〜1931)村全体が衰亡の危機にあったその難局を今日の模範村にまで仕上げて行ったのだといふことをしみじみと感じた。それと同時に村の人たちがいふやう常会がこんなにまで部落振興に効果あるものなのかと更に認識を強めた。常会が部落振興に及ぼす効果と婦人常会の緊要性を如実に示されて居(お)った。此の点深く敬意を表して辞した。各町村共是非婦人常会を開いてもらひたいものである。
   埼玉県国民精神総動員資料第五輯『埼玉の常会』 1940年(昭和15)3月 21頁〜22頁

※ 国民精神総動員運動は、1937年(昭和12)7月、日中戦争勃発後、第一次近衛内閣によって始められた国民運動。挙国一致(きょこくいっち)、尽忠報国(じんちゅうほうこく)、堅忍持久(けんにんじきゅう)のスローガンを掲げて国家総動員体制確立を目指した。運動の重点は当初の戦時意識高揚のための啓発運動から、日中戦争の長期化とともに戦時生活の推進、戦時態勢の強化へと変り、1940年(昭和15)の大政翼賛会の翼賛運動へと引き継がれた。1940年(昭和15)は建国神話にもとづく「紀元二千六百年」の年で、新年を迎えるに当たり、土岐銀次郎埼玉県知事は、「我国始って以来の難局を乗り切るには何を措(お)いても、公私生活を刷新し、強度に戦時化して奉公精神に徹した剛健で然(しか)も素朴な国民生活を実践して行くことが極めて大切である。即ち先づ簡素生活を実践することが最も必要である。早起励行、報恩感謝、大和(たいわ)協力、勤労奉公、節約貯蓄、心身鍛練等を徹底的に実践するのは勿論、日常生活の非合理性を清算して合理化し科学化し出来得る限り生活費を切り詰め、物資の節約、死蔵品の活用、廃品の利用更生等を考へ、更に進んで積極的に虚礼的な社交儀礼を撤廃し、家庭生活、消費生活の共同化の方法を研究すると共に戦時経済道徳を確立し戦時生活を極力推進しなければならぬ」とその決意を述べている。

※常会(じょうかい)とは期日を定めて開かれる会合という意味である。国民精神総動員運動ではその必要性が以下のように強調されていた。

  常会講座
 常会の必要 時局は愈々進展して新支那中央政府も樹立され東亜新秩序の建設は着々と進められてゐる。新秩序の建設が進むにつれ支那をめぐる第三国との関係は益々複雑化して来るであらう。寔に日本にとつては空前の重大時局に直面してゐるのであるからお互が今までのやうに自分の事だけ考へて生活して居ったのでは此の難関を乗り切ることは出来ない、挙国一致愈々国民精神を昂揚し政治経済生活、その他公私総ての方面を思ひ切つて刷新改善して徹底した戦時生活を遂行しなければならぬ。
 国民精神総動員運動は従来の国民運動と異りその内容が極めて広く且つ深く単なる精神運動に止るものではなく自治行政、産業経済、教育教化凡ての方面の基調をなすものであるから、今は何を措いても之が徹底に努力しなければならぬ。若し万一にも之を忘れてこの国民運動にひゞが入るやうなことがあつたらそれこそゆゝしい大事である。それには常会を開くことが一番よい方法であらう、結極の所近所の人達同志、隣保相助、向ふ三軒両隣りの精神を基調として部落民村民が一つ気持ちになる。所謂一部落一家族の精神で行くのでなければ本当の国民精神は培れない。県下市町村の優良なものを見るに市町村常会、部落常会等がよく励行されて居る為に市町村内は一円融合せられ何等の対立摩擦抗争なく各種の機関団体が極めて緊密な連絡のもとに、自治産業教育等各種の施設が有機的に一体化して運用せられ、市町村民相互の精神教化と福利増進に甚大の効果を挙げてゐる事実が常会の絶対的必要を雄弁に物語つてゐる。

 常会の意義 市町村民なり部落の人達なりが一場に集り互に膝をつき合せて市町村なり部落の自治を進めることや精神教化のことや産業を興すことや経済更生のことや国民精神総動員運動のこと、殊に最近の事情から言へば物資の配給、各種の供出、更に貯金その他税金或は各種代金の集金等各方面に亘つて相談したり実践したりするため、つまりお互ひの国民としての生活の全面にわたつて真にその源泉を培つて小にしては地方の振興に大にしては国力の充実強化に寄与するために開く会合で毎月一回以上きまつて開くから常会といふので或は月並会、月例会など毎月定期に行はれる寄合と同じ意味である。

 常会の種類 常会には市町村常会、町内常会、部落常会、実践班若くは隣組等がある。その他にも中間的なものに幹部常会又家庭で開けば家庭常会と言つたものもあらう。
 市町村常会とは市町村内の幹部が集つて開かれる常会、町内会又は部落常会とは町内若くは部落の人達が集つて開かれる常会、実践班とか隣組の常会とは、五戸乃至十戸位の組合とか或は伍人組什人組とか言はれてゐる人達からなる常会である。幹部常会といふのは一つの町内若くは大字等で全部の人達が集るとすると多過ぎて却つて困る場合がある際にその幹部の人達だけ集つて開かれる常会をいふのである。(埼玉県国民精神総動員資料第五輯『埼玉の常会』6頁〜7頁)

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