GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2009年09月

七郷地区の繭乾燥場

 日露戦争前後から生糸の生産が伸び、輸出も急速に増大していったが、埼玉では県北の児玉郡や大里郡、県西部の秩父郡、比企郡、入間郡などで養蚕が盛んになった。こうした状況の中で1906年(明治39)に旧菅谷村では養蚕に携わる農家の人たちが菅谷組合生繭乾燥場を建設した。この乾燥場を旧菅谷村の菅谷、平沢、志賀の人たちを中心に、上唐子、広野、杉山、千手堂、月輪、川島、鎌形の人たちも利用するようになった。これと並んで七郷村地域でも乾燥場の建設が始まっていた。

  吉田の生繭乾燥場の建設
 越畑の久保寅太郎家に次のような株払込通知書が残されている。

   株払込通知書
 一 弐株金五円也
    内訳 金弐円也   明治四拾年一月五日払込
       金弐円也   仝   年二月一日払込
       金壱円也   仝   年四月一日払込
   右之通リニ候也
    明治四拾年一月一日
   比企郡七郷村大字吉田組合生繭乾燥場
           建設委員長 藤野文八
                代 川口勇蔵 印
    久保三源次 殿

 この文書から、藤野文八が委員長になって吉田に生繭の乾燥場建設をめざし、資金は株金で集めるため、その一環として1907年(明治40年)に2株5円の払い込みを3回分割で納めるよう久保三源次に通知したことがわかる。旧菅谷村の場合は、1906年(明治39)に1口5円で100口、つまり500円を資本金として生繭乾燥場を建設し、その年の6月から春蚕にあわせて乾燥を始めたが、七郷村では吉田で乾燥場組合をつくって1907年(明治40)6月から春蚕に間に合うように操業を開始したと思われる。

  越畑の繭乾燥場 改良伝熱式乾燥機器を導入して
 越畑の生繭乾燥場が何年に建設されたか今のところ分からないが、「大正十二年度生繭乾燥受附帳 六月十三日開所 大字越畑繭乾燥場」、「大正十二年度 管理者火夫夜番控帳 越畑乾燥場」、「大正十三年度生繭乾燥受附帳 六月十一日開場 大字越畑上郷乾燥場」「大正十三年度 夜番帳 六月十日ヨリ 越畑乾燥場」、「改良伝熱式乾繭器使用心得」、チラシ「大正十四年 事業案内 九月号 松山繭種冷蔵庫」などが残されている。
「改良伝熱式乾繭器使用心得」は手書きで、一から九まで箇条書きで心得が書かれている。いくらか紹介すると、「一 本乾繭器ハ生繭ヲ乾燥シ糸質ノ改善ヲ図ヲ目的トス」 ニ 以後で釜の焚はじめや温度管理のことなどを述べ、「七 常務者夜間ハ三間交代トシ復(服)務中ハ能ク室ノ内外ニ注意シ始終巡視スル事 但シ入替有場合ハ此限ニアラス 八 火夫ハ温度百七八拾度保有セシムル要又監視口ヨリ室内ニ注意シ伝熱管ノ正否ヲ看守シ若シ同管其他ニ異條【異常】ヲ生ジタル時ハ管理者ニ急報スル者トス」 最後に「右之條々確ク守ラレ度シ 乾繭器製作人 大正十弐年六月 吉田徳三郎敬白」と書かれている。これは
おそらく好景気の中で、糸質の改善のために改良伝熱式乾燥機を導入したので、1923年(大正12)6月の乾燥場開始に当たって伝熱式乾繭器の製作者が使用心得の徹底のために書いたものと思われる。
 当時の繭と生糸の状況についてチラシ「大正十四年 事業案内 九月号 松山繭種冷蔵庫」には、「晩々秋繭萬々歳」の見出しで次のように書かれている。
 「世界の大戦が片付いてから亜米利加の機織器械が残らず運転するのは今年が始めてであります。随て生糸は盛んに売れる、加之、今年の春繭は非常に解じょ【繭から糸をたぐりとるときの繭糸のほぐれ具合】が良く製糸家は既に予定以上の繭を消化して皆原料不足を恐れて居ります。初秋繭は豊作したが中秋繭は不作しました。晩秋蚕の繭は糸量も多く解じょも良き故一層高値に売れる。桑葉も亦天恵厚く今秋位繁茂した事は無い。元より掃立るものは蚕種の選択に注意し、既に掃立たるものは飼育に努め、晩々秋繭の萬々歳を唱へ給へ。」
 このチラシで述べられているように、第一次世界大戦後のアメリカへの生糸輸出の好景気に支えられて、埼玉の製糸業は1923年(大正12)、24年に急激に伸びていき、そのもとで村々が生繭の乾燥場づくりと運営に精を出したのである。

参照:「菅谷に生繭乾燥場が建設される 1906年

日露戦争と七郷村

  旅順の攻略戦で
 日清戦争に勝って朝鮮半島への進出をめざした日本は、北から満州に勢力をのばしてくるロシアを警戒するようになった。1904年(明治37)2月8日、旅順にいるロシア艦隊に対する日本の奇襲攻撃、同月10日の日本の宣戦布告で日露戦争が始まった。戦いの山場の一つは、ロシア軍の支配する軍港旅順を巡る攻防戦であった。乃木希典(のぎまれすけ)の率いる日本軍はその年の8月19日から第1回の旅順総攻撃を行なったが失敗に終わった。日本軍の死傷者1万5860人といわれている。10月26日から第2回、11月26日から第3回の総攻撃を行なって旅順攻略に成功し、1905年1月1日に旅順のロシア軍は降伏を申し出た。この旅順の攻略だけで日本軍は3万6千人を超える死傷者を出した。それほどの激戦であった。この攻防戦で七郷村の兵士も犠牲になっている。それを示す次のような文書が残されている。

   上申書
      比企郡七郷村大字吉田五十五番地
      予備役 陸軍砲兵一等卒 小林正治
 右ノ者去九月弐拾日清国旅順口ニ於テ戦死致候ニ付本月
 弐拾日午後一時村内大字吉田宗心寺ニ於テ共同葬儀執行
 致候間御臨場被成ラ度此段上申候也
   明治三拾七年十月十一日
         比企郡七郷村長 久保三源次
  埼玉県知事 木下周一殿

 この上申書は、大字吉田の陸軍砲兵一等卒小林正治が旅順攻略戦に参加し、9月20日に戦死した。10月20日に吉田の宗心寺で戦死者の合同葬儀を行なうので式に臨席願いたいと、七郷村長久保三源次が県知事木下周一に出したものである。これによると戦死したのは、日本軍が第1回の旅順攻略に失敗し第2回目の総攻撃を準備していたときの戦死であったと思われる。同じ文面の上申書が比企郡長坂本與惣次郎にも出されている。文中の合同葬儀という表現から見ると、この葬儀は七郷村から出兵した何人もの戦死者の合同葬儀であった。
 しかし、小林正治の葬儀については「戦死ノ件ニ付テハ所属中隊長ヨリノ通知迄ニ止リ未ダ連隊区ヨリ死亡通報無之ニ付テハ同人葬儀執行ノ儀ハ事控サセル様御取計相成度右ハ其筋ヨリ内示ノ次第モ有之」という通知が、比企郡長から村長久保三源次に来て、小林正治の葬儀はその日は行なわれなかった。
 その後の七郷村の戦没者名簿には、小林正治の所属部隊は東京湾要塞砲兵部隊、明治37年9月20日満州国旅順付近で戦死と記されている。

  旅順口建設忠魂寄付金と徴兵慰労醵金
 1906年(明治39)9月22日日付の二つの領収書が久保家に残されている。一つは「金五拾銭 旅順口建設忠魂寄付金」、他は「金八拾五銭 徴兵慰労醵金(きょきん)」の領収書である。領収書に記された取扱人は七郷村収入役川口勇蔵である。この金を出しているのはどちらも村長ではなく個人としての久保三源次である。
 1年前の1905年(明治38)9月5日に日本はロシアとの間でポーツマス条約(日露講和条約)を結んで戦争を終結させた。日本はこれによって朝鮮に対する事実上の支配権を獲得し、ロシアから旅順・大連の租借権や南満州の鉄道の権利を獲得、領地として北緯50度以南のサファリン(樺太)を獲得した。しかし日露戦争の損害は大きかった。『近代日本総合年表』第二版(岩波書店発行)によると、日露戦争による日本の死者・廃疾者(はいしつしゃ)11万8000人、失った艦船91隻、軍費15億2321万円という膨大(ぼうだい)なものであった。
 村から兵士を送り出し、戦死者も出る状況の中で、戦死者を弔い徴兵された兵士を慰労するために、旅順口建設忠魂寄付金の取組みと徴兵慰労醵金の取り組が七郷村として村をあげて行なわれたのである。

帝国在郷軍人会福田村分会ができる 1911年

明治三十五年(1902)十二月五日始て福田村軍友会を組織し、会則三十五カ条を定め郡長に上申し役員には、会長に井上慶緒、副会長に服部輝義、幹事に神山瀧松以下小久保、小山、杉田、市川の四氏を推薦せり。其後、会長に栗原嘉範を推薦せしも同氏辞任後、服部輝義会長となり神山瀧松副会長となる。
明治四十二年(1909)一月二十四日、軍友会発会式を福田学校内に挙行す。此日、熊谷聯隊区司令官陸軍歩兵少佐粟野陽二郎氏臨場し懇篤なる訓示をなす。
明治四十四年(1911)一月十七日組織を変更して帝国在郷軍人会福田村分会と称し、仝日、成安寺に於て発会式を挙行し、併せて日清日露両役戦病死者の追吊法会を行ふ。熊谷支部長、比企郡長、松山警察署長、郡会議員、村長、校長、村吏員、職員等参列し、遺族を招待し荘厳なる式を挙ぐ。会するもの学校生徒、有志無慮五百名。目下役員には分会長神山瀧松、分会副長田幡喜平、理事に小山、鈴木、高柳、堀口、下沢の五氏、監事に吉田、高柳二氏あり。会員数百三十五人。内軍曹三、伍長一、上等兵七、一等卒三八、二等卒五、輸卒八〇、助卒一人なり。
   『福田村郷土誌』 1913年(大正2)9月

※栗原嘉範福田村長と神山熊蔵福田小学校長編『福田村郷土誌』第二編人文界第二章教化第七節帝国在郷軍人会福田村分会の沿革の全文である。福田村では、日露戦争前の1902年に軍友会が組織されたが、正式の発会式をしたのは日露戦争後の1909年だった。1911年に改組され在郷軍人会福田村分会となった。
 会員の階級で、二等卒の次に「輸卒」(ゆそつ)とある。これは「輜重輸卒」(しちょうゆそつ)である。「輜重」(しちょう)は軍需品の輸送、補給を担当する重要な兵科であったが、日本では軽視されていた。伊藤隆監修・百瀬孝著『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(1990年2月、吉川弘文館)の「輜重兵と輜重部隊」の注に次の記述がある(309頁)。

 輜重輸卒の立場からすると、輜重兵と輜重輸卒の関係は、武士と足軽ぐらいの差があり、指揮する者とされる者の違いがあった。前者は長靴に長剣で馬に乗り、後者はゲートルにゴボウ剣で馬の口をとった(斎藤芳樹「陣中ヒゲの功罪」『帝国軍隊従軍記』昭和五〇年、汐文社、二九頁)。輜重兵の二等兵が一個班一五人の輸卒を、馬に乗って指揮するのであり、歩兵の軍曹なみの指揮力を必要とした(「輜重兵かく戦えり」『増刊歴史と人物 証言太平洋戦争』昭和五九年)。輜重輸卒を軽んじた戯れ歌があったのは周知のとおりであるが、これは日露戦争当時補助輸卒隊に属する第二補充兵役から召集された武器を持たない輜重輸卒のことを指し、一般の輜重輸卒を指したのではないという(大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』昭和六二年、立風書房、九三頁)。

 この注の戯れ歌(ざれうた)とは、本文に引用されている「携帯口糧アルナレバ輜重ハ要ラズ三日四日」であるが、「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」もよく知られている。
 本書は書名にもあるように昭和戦前期を対象としたものであるが、在郷軍人分会が結成された明治末期の輜重輸卒の評価はどのようなものであっただろうか。

 1954年(昭和29)11月3日、埼玉県比企郡福田村(ふくだむら)は宮前村(みやまえむら)と合併した。現在は滑川町(なめがわまち)である。

参照:「菅谷村郷土誌21 帝国在郷軍人会菅谷村分会
   「七郷村軍友会の設立 1903年10月
   「宮前村軍友会、帝国在郷軍人会宮前村分会」」

宮前村軍友会、帝国在郷軍人会宮前村分会

帝国在郷軍人分会ノ前身ハ宮前村軍友会ナリキ。宮前村軍友会当時ニアリテハ一村挙(こぞ)リテ其ノ会員トナリ指定寄付ナル者ニ因(よ)リテ各戸ヨリ寄付金ヲ集メ該寄付金ハ軍人分会ニ引継ギ同会ノ基金トセリ。現会長ハ航空工上等兵内田利宗氏ニシテ目下会ノ事業トシテハ出兵者ノ教育、戦病死者追吊会(ついちょうかい)及軍人ニ賜ハリタル 勅語精神ノ普及等ニ務メラレツヽアリ
   宮前尋常高等小学校『宮前村郷土誌』 1926年(大正15)

※『宮前村郷土誌』第二章教化第八節帝国在郷軍人会の全文である。結成年の記述はない。第二章教化は、神社仏閣、小学校の沿革、公民学校、宮前村立青年訓練所、図書館、村教育会、社会的教化の機関とこの帝国在郷軍人分会の八節からなり、この構成からも「教化機関」としての在郷軍人会への期待がみてとれる。1954年(昭和29)11月3日、埼玉県比企郡宮前村(みやまえむら)は福田村(ふくだむら)と合併した。現在は滑川町(なめがわまち)である。

参照:「菅谷村郷土誌21 帝国在郷軍人会菅谷村分会
   「七郷村軍友会の設立 1903年10月
   「帝国在郷軍人会福田村分会ができる 1911年

七郷村軍友会の設立 1903年10月

  帝国在郷軍人会
 1910年(明治43)11月3日に、帝国在郷軍人会が陸軍省の指導の下に創立された。この会は、現役として服役していない軍人の団体としてつくられたもので、その目的の一つは、現役以外の軍人を組織化して戦時の動員に備えること、さらに軍事知識の普及や国家観念の養成にあたらせることにあった。明治政府は、1873年(明治6)1月に国民皆兵をめざす徴兵制度を太政官布告で定めたが、当時は徴兵令反対一揆(血税一揆とも言われた)が各地で起っていた。その後の日清戦争・日露戦争の経験をもとつくられた帝国在郷軍人会は、軍事知識や国防意識を社会に広める重要な役割を持っていたのである。

  七郷村軍友会の結成
 この帝国在郷軍人会という全国組織は突然誕生したのではなく、日露戦争前後から各地で在郷軍人の団体がつくられ始めていた。七郷村では1903年(明治36)10月に七郷村軍友会が設立された。つくられた経緯は資料がなくて分からないが「七郷村軍友会規則」だけが残されている。当時日本は、日清戦争に勝利し、さらに大国ロシアとの対立を深めていた。やがて起る日露戦争の前年に七郷村軍友会がつくられたのである。
 規則の前文には、「万世一系」の皇室を奉じ、国は富み兵は強いが、今戦争(日清戦争)の勝利の機運にひたっている。油断してはいられない。益々武威を発揚し国権の伸張をはかることは、国家の急務、国民の大義であり、我々軍籍にある者は片時も怠ってはならない最大の要務である。ここに一団をつくり、七郷軍友会と名づけた。「軍人ノ価値品位ヲ増進スル事ヲ力(つと)メ帝国軍人タルノ本分ニ背カザラン事ヲ期シ以テ他日ノ大動機ニ応セントス」と述べている。
 そこには日清戦争に勝っても油断することなくロシアとの戦争に備えようという心構えがのべられている。「軍人ノ価値品位ヲ増進スル事ヲ力メ帝国軍人タルノ本分ニ背カザラン事」という言葉の裏には、一般的に日清戦争で戦争体験をして帰還した兵士の品位保持が課題になっていたという現実もあった。
 会則は長文のものであるが、貴重なものなので資料として全文を収録した。
 ここではいくつかの条文にふれておきたい。
 会則の第2条では「在郷軍人ノ品位ヲ保チ相互ニ友情ヲ温メ協同一致軍事思想ノ発達ヲ図ルヲ以テ目的トス」と会の目的を述べている。
 第3条はその目的を達するための活動内容を述べている。
 1 勅諭の聖旨を遵守。
 2 現役中に教育された軍事志操の保持と軍人精神の発達。
 3 一般法律と陸軍の法令厳守。
 4 郷党を導き尚武の気性を養う。
 5 補充兵を導き、一般壮年子弟の模範となる。
 6 品位を修め家の務めに精励する。
 7 業務の余暇に互いに軍事上の新古のことを研究し教材の復習。
 8 戦時や事変の際は勿論勤務演習簡閲点呼(かんえつてんこ)【軍が予備役の下士官や補充兵を集め点検すること】等の命令のあるときは速に召集に応ずる準備を整えておく。
 9 地方の軍事教育の発達をはかり、兵役応召者の入営を奨励すること。
 10 新な入営者に普通学復習させること。
 この第2条、第3条に軍人会のめざすことが集約されている。このような各地に成立してきた在郷軍人会は、やがて陸軍省の指導する帝国在郷軍人会に統合されていった。
 帝国在郷軍人会は陸軍だけの組織であったが、1914年(大正3)に海軍をもふくめて軍部の外郭団体と位置づけられた。社会運動の発展に対抗して国民の思想統制の役割も演じた。やがて戦争時代に入ると戦時体制に国民を統合し動員する役割を担っていった。敗戦に伴い1945年(昭和20)8月31日に解体された。

資料 七郷村軍友会規則          明治36年10月設立
                     七郷村軍友会
  七郷村軍友会設立趣意書
我大日本帝国ハ厳然トシテ東洋ノ表ニ吃立(きつりつ)シ建国以来茲(ここ)ニ弐千五百有余年上ニ万世一系ノ尊栄ナル皇室ヲ奉戴シ皇威赫々(かっかく)トシテ国常ニ富ミ兵常ニ強ク四夷(しい)【外国人をさげすんで使う言葉】モ尚ホ萎蹙(いしゅく)シテ敢テ我尊厳ヲ犯スナシ是レ元ヨリ聖徳ノ然ラシムル所ナリト雖(いえど)モ畢竟(ひっきょう)民ニ報公ノ念熾(さかん)ニシテ忠勇義烈一片ノ大和魂ノ存スルアリテ此カ心骨タルニ職由(しょくゆう)【専らそれに基づくこと】セスンバアラサルナリ
今ヤ我帝国ハ戦捷(せんしょう)【戦争に勝つこと】ノ大機運ニ乗シ四海ヲ■■(いよう)【光り輝く】シテ威風千載(せんざい)【長い年月】ニ赫灼(かくしゃく)【光り輝く】タリト雖(いえど)モ翻(ひるがえっ)テ宇内ノ形勢ヲ鑑(かんがみ)ルニ邦家ノ前提ハ猶ホ遼遠ナリ苟モ高枕安臥(たかまくらあんが)従(ほしいまま)ニ泰平ノ夢ヲ貪リ敢テ自ヲ奮起セスシテ鴻図(こうと)【広い領土】ノ大成何レノ日ニカ遂ル事ヲ得ンヤ国民ニシテ果シテ斯ノ如クンバ何ヲ以テ宇内ノ列強ト雄ヲ争フ事ヲ得ン然リ今ノ時ニ於テ益々武威ヲ発揚シ国権ノ伸張ヲ図ルハ是レ是レ国家ノ急務国民ノ大義ニシテ苟モ身軍籍(ぐんせき)ニ列スルモノハ須臾(しゅゆ)【しばしの間】モ怠ル可ラサル最大至要ノ要務ナリトス
軍人ハ国家ノ干城(かんじょう)【楯と城の意味】ナリ畏クモ上ニ大元帥陛下ヲ仰キ陛下ノ股肱(ここう)【手足】トナリテ国家ヲ藩屏(はんぺい)【垣根】シ国民ヲ保護スルノ栄職ニ位スルモノ其志操高遠気節稜々タルニ非レバ以テ能ク品位声望ヲ維持シ優ニ大日本帝国軍人タルノ真価アリト謂フ事ヲ得可ラス況(いわ)ンヤ国家保護ノ大任ヲ尽ス事豈(あに)得テ望ム可ンヤ軍人タル者其念ス可キナリ矣
今ヤ将(まさ)ニ帝国ノ軍備拡張セラレ各地軍人各種ノ団体ヲ設鍛錬(たんれん)訓育以って本分ニ違ハサラン事ヲ期シ後進ノ誘導ニ率先尽力シ以テ盛ニ強兵ノ策ヲ講スルニ至ル豈悦フベキノ事ナラズヤ此時ニ当リ我儕(わがともがら)【わが仲間】職ヲ軍籍ニ奉スルモノ赤々当(ま)サニ地方ニ率先シテ宜シク軍事思想ノ導火トナリ善良ナル国民トシテ富国強兵ノ基ヲ開クハ将ニ然ルベキ処ナリトス
我儕感アリ茲(ここ)ニ一団ヲ設ケテ七郷軍友会ト名ケ嘗(かつ)テ受ケタル志操ヲ涵養(かんよう)シ相扶液(あいふえき)【助け合い】シ相提携シテ軍人ノ価値品位ヲ増進スル事ヲ力(つと)メ帝国軍人タルノ本分ニ背(そむ)カザラン事ヲ期シ以テ他日ノ大動機ニ応セントス我儕ノ志望豈徒爾(とじ)【むだ】ナリトセンヤ

  七郷村軍友会々則
第1章 総則
第1条 本会ハ七郷村在郷軍人ヲ以テ組織シ七郷村軍友会ト称ス
第2条 本会ハ在郷軍人ノ品位ヲ保チ相互ニ友情ヲ温メ協同一致軍事思想ノ発達ヲ図ルヲ以テ目的トス
第3条 本会ノ目的ヲ達スル為メ左ノ事項ヲ監ク躬行(きゅうこう)【自ら行なう】スベシ
  1 勅諭ノ聖旨ヲ奉戴シ読法ノ主旨ヲ遵守スル
  2 現役中教育セラレタル軍事志操【堅い志】ヲ保持シ特ニ軍人精神ノ発達ヲ図ル事
  3 一般法律ハ勿論陸軍ノ法令ヲ厳守スル事
  4 郷党ヲ誘導シ尚武ノ気象【性】ヲ養成振起スル事
  5 補充兵ノ教導トナリ一般壮年子弟ノ儀表(ぎひょう)【模範】トナル事
  6 厳ニ品行ヲ修メ家務ヲ精励シ■■ノ愛敬ヲ得ン事ヲ心掛ル事
  7 業務ノ余暇ヲ以テ互ニ軍事上新古ノ研究ト簡単ナル教科ノ復習ヲナシ同心一致他日ノ報効(ほうこう)【国のために尽くすこと】ヲ期ス事
  8 戦時若シクハ事変ノ際ハ勿論勤務演習簡閲点呼(かんえつてんこ)【軍が予備役の下士官や補充兵を集め点検すること】等令アルトキハ速ニ召集ニ応スル準備ヲ常ニ整ヘ置ク事
  9 地方軍事教育ノ発達ヲ図リ且兵役応召者ノ入営ヲ奨励スル事
  10 新ニ入営スルモノニ普通学ヲ温習(おんしゅう)【繰り返し復習】セシムル事
第2章 会員及会友
第4条 本村在郷ノ帰休兵豫後備役【予備役・後備役】軍人及第一第二補充兵役ニ服役中にアルモノハ総テ本会々員タルノ義務ヲ有スルモノトス
第5条 本村在郷軍人ニシテ第一国民兵役ニ服スル者ヲ特別会員トス
第6条 軍人以外ノ士ニシテ左ノ諸項ニ該スル者ハ本会ノ決議ニ依リ名誉会員ニ推挙スル者トス
  但シ会員証書ハ別ニ定ムル所に依ル
  1 軍事上ニ関シ功蹟【績】アル者及熱心尽力スル者
  2 特ニ本会ニ対シテ裨益(ひえき)【役に立つ】ノ行動アル者
  3 本会ノ趣旨ヲ翼賛シ特ニ金品ヲ寄贈スル者
第7条 名誉会員ハ総会ニ参列シ会員ト同一ノ権能ヲ有スルモノトス
第8条 会員ハ本会々費トシテ毎月金5銭ヲ納付スルモノトス
第9条 会員ハ他ヘ転籍寄留若シクハ其他正当ノ事由ナクシテ退会スル事ヲ得ス
 但 不得止事故アル者ハ其理由ヲ会長ニ届出テ承認ヲ受ケ可シ
第10条 会員ニシテ会則ニ違背シ軍人タルノ本分ヲ失墜シ会員タルノ対面ノ毀損(きそん)スル等ノ所為アル者ハ本会ノ決議ニ拠リ除名ス
    特別会員ニシテ素行修ラズ軍人ノ態度ヲ失シ対面ヲ汚ス者アル時ハ前項所定ヲ適用ス
    名誉会員ニシテ会則ヲ無視シ若シクハ之ヲ誹謗(ひぼう)スル者アル時ハ本会ハ決議ノ上其名籍ヲ削除シ待遇ヲ謝断ス
第3章 役員
第11条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
  会長 1名  本会ヲ代表シ会務ヲ総理ス
  副会長1名  会長ヲ補佐シ又ハ代理ス
  評議員拾名  会長ノ旨ヲ承ケ会務ヲ評議ス
  書記 2名  会長ノ旨ヲ承ケ庶務会計ニ従事ス
第12条 本会役員ハ会員中ヨリ之ヲ互選ス
  但任期ハ各1ヵ年トシ満期再選スル事ヲ得
第4章 開会
第13条 本会ハ毎年1月4日(新年宴会)及簡閲点呼会状受領期日ヲ以テ総会ヲ開ク
  但会長ハ総会ニ於テ諸般事項ヲ報告ス
第14条 必要ニ応シ会長ハ評議員会又ハ臨時総会ヲ開ク事ヲ得
第15条 本会ハ総会ニ於テ会長勅諭奉読式ヲ行フ
第16条 本会ハ学術練習ノ目的ヲ以テ便宜開会シ軍事学ノ研究ヲナシ又ハ陸軍将校ノ来臨ヲ仰キ軍事上ノ講話ヲ求ムル事アルベシ
  但訓練監督ハ会員中高級古参ノ者ヲ以テ之ニ充ツ
第17条 会員ハ総会毎ニ出席スル義務ヲ有ス其出席シ能ハザル場合ニ在テハ開会前評議員ニ届出ベシ
第18条 本会々場ヲ当分七郷村役場内ニ置ク
  但臨時変更スル時ハ開会前会長ヨリ之ヲ通報スルモノトス
第19条 本会々議ハ出席員過半数以上ノ同意ニ依リ決定スルモノトス
第5章 会計
第20条 会員ハ会費トシテ1ヶ月分ヲ拠出スルモノトス
  但1カ年半年若シクハ数月分ヲ1時前納スルモ妨ナシ
第21条 本会ノ経費ハ醵金(きょきん)及寄付金ヲ以テ之ニ充ツ
  但臨時費ニシテ醵金寄付金中不足ヲ生スル時ハ評議員会ノ決議ヲ以テ臨時募集補充スル事アルベシ
  但定額ハ別ニ之ヲ定ム
第22条 醵金及寄付金ハ成ル可ク蓄積シ定額ニ達シタル時ハ演武ノ具【武芸の用具】ヲ購入スベシ
  但定額ハ別ニ之ヲ定ム
第23条 本会ノ趣旨ヲ賛同シ金品ヲ寄附スル者アル時ハ本会ノ名義ヲ以テ謝状ヲ呈シ其氏名並ニ金額品数ヲ簿所【帳簿】ニ録シ篤志ヲ表謝ス
第24条 会計ハ会長之ヲ監督シ其出納ヲ明ニシ毎年第1期総会ニ於テ決算ノ報告ヲナサシム
第6章 雑則
第25条 本会々員及兵役義務者ノ召集ニ関シテハ応召員ニ対シ本会ハ可及的ノ便宜ヲ与フ
第26条 年々新入営者ヲ本会ニ招待し供ニ談話ヲ交換シ■■軍隊ノ情況ヲ識ラシムルモノトス
第27条 軍務奨励ノ為メ会長ハ本会ヲ代表シ本村出身現役兵ニ対シ時々慰問状ヲ発送スルモノトス
第28条 本村軍人中軍務ノ為メ負傷戦死又ハ病死スル者アル時ハ若干ノ弔慰金(ちょういきん)ヲ寄贈シ同情ヲ表スモノトス
第29条 本村新入営者若シクハ軍隊帰郷者アルトキハ会員ハ其都度熊谷及松山ニ之ヲ送迎スルモノトス
第30条 本会ハ会標トシテ章旗二旒(りゅう)ヲ制定ス
  但入営退営者送迎ノ際ハ之ヲ携行スルモノトス
第31条 会員中不慮ノ災厄ニ罹リ困難ノ状アル者アルカ又ハ入営中家事ノ担当者ナク其事業ヲ継続シ能サモノハ若干ノ金品ヲ贈リ若シクハ特別ノ方法ニ依リ慰撫(いぶ)哀悼ノ意ヲ表シ若クハ補助スルモノトス
第32条 会員会友中死亡者アル時ハ本会々員中臨時委員ヲ選ミ会葬スル者トス
第33条 会員会友中異動アル時ハ其大字評議員ハ直ニ之ヲ会長ニ申告ス可シ
第34条 他郷軍人団体ト交意ヲ厚クスル為メ毎年々賀状ヲ発スルモノトス
第35条 本会則ハ総会ノ決議ニ依ルニ非レハ変更改正スルコトヲ得ス

参照:「菅谷村郷土誌21 帝国在郷軍人会菅谷村分会
   「宮前村軍友会、帝国在郷軍人会宮前村分会
   「帝国在郷軍人会福田村分会ができる 1911年

七郷村役場事務報告 1922年(大正11)

町村制第百壱拾参條第貮項ニ依ル十一年一月一日ヨリ同年十二月三十一日ニ至ル一ヶ年間ノ役場事務ノ概要左ノ如シ

一、一般事務
 本年中ニ受理シタル文書件数ハ千六百七十件。口頭申請ニ係ルモノハ百四拾五件、発送文書件数ハ千五百六十三件ニテ、前年ニ比シ百〇七件ノ差ヲ見タリ。凡テ事務ノ敏捷ヲ主トシ往復文ニ対シテハ不備ノタメ訂正ヲ要セル事無故前年ニ比シ前述ノ差ヲ生セシ所以ナリ

二、村会
 本年中ニ村会ヲ開クコト八回。会議ハ最モ平穏ニシテ諸提出案件ハ毎回異議ナク満場一致ヲ以テ通過セリ

三、納税
 納税者ハ納税義務ヲ重ンジ指定ノ納期内ニハ大体納入ヲ見ルニ至レリ。滞納者ハ極メテ僅少ニシテ漸次厳重ナル督促納入完了ス

四、衛生状況
 伝染病予防ニ充分意ヲ盡シタル為メ、二、三ノヂフテリヤ発生致セシノミニテ、其ノ他ノ伝染病ハ一人トシテ其ノ罹患者ヲ出サザルハ衛生方面ニ意ヲ注ギ、春秋二季ノ清潔法ヲ始メ種痘等ヲ施行シ、極力之レガ発生ヲ未然ニ防キシタメナリ

五、勧業状況
 堆積肥料ノ督励ニ勉メ各農事組合ヲシテ励行致サセ、耕作地ノ深耕ヲ奨励シ、其他作物ノ病虫害ノ駆除及尺取虫等ノ買上等ニ意ヲ盡シ、且ツ種子ノ精撰等農業上ニ充分ノ注意ヲ払ヘリ

六、兵事状況
 普通検査合格者十九人、海軍志願兵一人。何レモ入営入団等事務ノ進捗ヲ計レリ

七、社寺戸口状況
 指定村社三社ニシテ三大祭ヲ執行シ、一般人民ヲシテ崇敬ノ念ヲシテ向上セシメタリ。戸数ハ五百三十七戸ニシテ三千四百五十人ナリ

八、土木状況
 大字広野ヨリ杉山ニ通ズル大橋ノ改築工事。其他大字吉田ヲ通ズル乙線道路、蟹澤頂上切下修理等ナリ

【以下略】

※1924年(大正13)2月27日、七郷村会提出。
※七郷村(ななさとむら)は1955年(昭和30)4月、菅谷村(すがやむら)と合併し、現在は埼玉県比企郡嵐山町(らんざんまち)。

空から見た東松山市 8 唐子 2009年8月

東松山市唐子(からこ)上唐子(かみからこ)地区
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2009年8月17日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 38 越畑 2009年8月

嵐山町越畑(おっぱた)の小字
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2009年8月17日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 36 杉山 2009年8月

嵐山町杉山、市野川にかかる橋
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2009年8月17日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 35 遠山 2009年8月

嵐山町遠山の小字
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2009年8月17日 内田泰永さん撮影

七郷村役場事務報告 1921年(大正10)

 町村制第百拾参條第二項ニ依リ大正十年*一月一日ヨリ同年十二月三十一日ニ至ル一ヶ年間ノ役場事務ノ概要左ノ如シ

一、一般事務
 本年中ニ受理シタル文書件数ハ千六百七十七件、口頭申請ニ係ルモノハ壱百四件、発送文書件数ハ千五百八十五件ニテ前年ニ比シ二百七拾壱件ノ差ヲ見タリ。凡テ事務ノ敏捷ヲ主トシ往復文ニ対シテハ不備ノタメ訂正ヲ要セル事無キ故ハ前年ニ比シ前記ノ差ヲ生ゼシ所以ナリ

二、村会
 本年中ニ村会ヲ開クコト九回。会議ハ最モ平穏ニシテ諸提案件ハ毎回異議ナク満場一致ヲ以テ通過セリ

三、納税
 納税者ハ納税義務ヲ重ンジ指定ノ納期日ニハ大体ノ納入ヲ見ルニ至レリ。滞納者ハ極メテ僅少ニシテ漸次厳重ナル督促ノ上納入完了ス

四、衛生状況
 伝染病予防ニ充分意ヲ盡シタル為、二、三ノヂフテリヤ発生致セシノミニテ、其ノ他ノ伝染病ハ一人モナキハ大正九年(1920)度ニ於テ多大費用ヲ要シ甚ダ遺憾ニテ極力之レガ発生ヲ未然ニ防ギシタメナリ。春秋二季ノ清潔法ヲ始メ種痘等ヲ施行シ充分衛生ニ力ヲ盡セリ

五、学事報告
 本日茲ニ本村々会ヲ開会スルニ当リ本村学事ノ近況ヲ報告スルノ機会ヲ得タルハ小職ノ欣幸トスルトコロナリ。惟フニ文明国ノ情況ハ軍備ヲ制限シテ文化施設ノ徹底ヲ要望スルトキニアタリ、我ガ国亦教育ノ普及徹底ニ国民一層ノ努力ヲ輸サントシツツアルハ国家将来ノ為、洵ニ慶賀ニ堪ヘザルナリ
飜テ学事ノ大要ヲ通観スルニ、未タ理想ノ域ニ達スルヲ得スト雖モ、漸次向上発展ノ気運ニアルハ信ジテ疑ハザルトコロニシテ、各位ト共ニ意ヲ強クスルトコロナリトス

 1、学齢児童
 本村学齢児童ハ男三一六人、女二七八人ニシテ不就者一人モナキニ至リテハ洵ニ快事トスルトコロナリ。就中高等科入学児童年々増加スルハ保護者ノ教育ニ対スル理解ノ向上セルモノニシテ本村教育ノタメ喜ブベキ現象ナリトス

 2、学校衛生
 学校衛生ハ校医ハ勿論、職員協同一致目的ノ達成ニ勉ムルヲ以テ、校舎内外ノ清潔整頓ハ勿論、児童身体ノ衛生状態ノ佳良ニ向ヒツツアルハ統計ノ示ストコロニシテ愉快トスルトコロナリ

 3、学齢児童保護会ノ状況
 貧困児童学用品給与ニ関シテハ前年来続行セルトコロニシテ本年ニ至リテモ児童家庭ノ生活状態ヲ調査シ其ノ貧窮ノ程度ニ応ジ之レガ補給ヲ実行シツアリ

 4、職員修養
 職員修養ニ関シテモ常ニ意ヲ用ヒ、平素書籍雑誌ヲ講読スルハ勿論、長期休暇ニハ各種購読ニ出席シテ学力ノ向上品性ノ向上ニ勉メツゝアリ。左記ハ職員ノ長期休暇中出席セル受講要覧ナリ

  期間    学科    場所        氏名
夏季一週間   教育    東京       千野幸三郎
  〃     国語    東京       初雁利一
  四週間  教育其ノ他  本県師範学校   金子慶助
  一週間   理科    東京       吉田久平
   〃    国語    〃        馬場覚治
   〃    公民科   熊谷中学校    井上丑治
   〃    音楽    浦和女子師範学校 千野トヨ
  二週間   音楽図画   〃       舩戸松枝
  一週間   国語    東京       田島竜吉
  二週間   理科    松山小学校    安藤義雄

 5、児童数増加ノ状況
             生徒数
  年度次  学級数  男  女  計  日々出席平均 入学児童数 卒業生数
 大正七年度  10  232 230 462    450.09    134    87
 大正八年度  10  267 234 500    472.48    122    90
 大正九年度  11  256 253 509    482.64    132    88
 大正十年度  11  309 242 551    489.58    138    89
 大正十一年度 11  305 248 553           130*

 6、特別視察
 本年度本県特別視察規定ニヨリ本郡一校、本村小学校選抜セラレ、大正十一年(1922)十一月廿六日*、本県視学官男女師範学校長、郡内各小学校長其ノ他約八十名本村小学校ヲ視察セラレ教育内容振作ニ関スル研究ヲナサレタルハ、本村ノ名誉トスルトコロナリ

 7.全国展覧会出品
 大正十二年徳島県主催全国小学校施設経営並ニ生徒成績品展覧会開催セラレ本県九点出品スル趣ニテ本郡ニテハ本村小学校一校選抜セラレタリ

 8.青年団
 一.運動会 青年体育ヲ振作シ体位ノ向上ヲ期スベキハ本県青年教育方針ナルヲ以テ各年十月小学校ト連絡シテ運動会ヲ開催セリ
 二.農事懇談会開催 各支部ニ農閑期補修学校ト連合シテ実業上ノ懇談会ヲ開催シ実業ノ改善発達ヲ期シ居レリ
 三.修養講演会 青年トシテ日夕修養ノ必要アルハ言ヲ俟タザルトコロニシテ本年度熊谷農学校ヨリ講師ヲ招聘シ講演会ヲ開催セリ

9.処女会
 一.講話会 毎年女子教育ニ造詣アル講師ヲ招キ処女ニ必要ナル講話会ヲ開催セリ
 二.敬老ノ美風宣伝 総会臨時会等ノ際一家和楽ノ根底ハ敬老ノ精神ニアルコトヲ諭シ、相誓イテ其ノ美風ヲ訓致スル様勉メ居レリ

六、勧業状況
 堆積肥料ノ督励ニ勉メ各農事組合ヲシテ励行致サセ、耕作地ノ深堀ヲ奨励シ、其ノ他作物等ノ病虫害ノ駆除及尺取虫等ノ買上等ニ意ヲ盡シ、且ツ種子ノ精選等農業上ニ充分ノ注意ヲ払ヘリ

七、兵事状況
 普通検査合格者【空欄】人、一年志願兵一人、海軍志願兵一人。各レモ入営、入団等事務進捗ヲ計レリ

八、社寺戸口状況
 指定村社三社ニシテ三大祭ヲ執行シ、一般人民ヲシテ崇敬ノ念ヲ高メシメタリ。戸数ハ五百三十七戸ニシテ三千四百十九人ナリ

九、土木状況
 大字吉田ヨリ古里ニ通ズル暗橋ノ新設。其甲乙丙三線ノ破損場所ノ修理等ヲ行ヘタリ

【以下、七郷有財産明細表等省略】

*:冒頭に「大正十年(1921)一月一日より同年十二月三十一日に至る一ヶ年間」とあるが、1922年(大正11)の記述がある。1923年(大正12)2月26日に村会に提出とあるので、22年の記述があると考えて『大正十年 事務報告』とする。
※七郷村(ななさとむら)は1955年(昭和30)4月、菅谷村(すがやむら)と合併し、現在は埼玉県比企郡嵐山町(らんざんまち)。

空から見た嵐山町 34 吉田 2009年8月

嵐山町吉田(よしだ)の小字
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2009年8月17日 内田泰永さん撮影

七郷村役場事務報告 1920年(大正9)

町村制第百十三條第二項に依り大正九年一月一日より仝年十二月三十一日に至る一ヶ年間の役場事務の概要左の如し

一、一般事務
 本年中に受理したる文書件数は二千百件、口頭申請に係るものは八十七件、発送文書件数は千七百五件、前年に比し二百九十九件の増加を見たり而も事務繁捷を主とし印刷処理して停滞せざる様勤めたり

二、村会
 本年中村会を開くこと七回会議は最も平穏にして提案諸件は満場一致通過決定せり

三、納税状況
 納税者は納税の義務を重んじ指定期日には大体の納入を見るに至れり

四、学務状況
 本日茲に本村村会を開会するに当り本村学事に関する一般を報告するの機会を得たるは小職の欣幸とするところなり惟ふに世運の進歩は教育の普及徹底を要望し小学校の内容の改善に実業補修の革新に社会教育の施設の拡充に国民一層の努力を輸し国力の根底を教育によりて啓沃せんとしつゝあるは国家将来のため寔に慶び堪へざるなり
 飜(ひるがえっ)て本村学事の大要を通観するに未だ以て理想域に達せりと云ふを待ずと雖も漸次向上発展の気運に向ひつゝあるは信じて疑はざるところにして小職の意を強くする所以となり希(ねがわ)くは今後各位の努力に因りて清新溌剌なる本村教育の振興を策励し以て国家の期待に添はんことを期す

 一、学齢児童
 本村学齢児童は男二九五人、女二七四人にして一人の不就学児童なきは洵に愉快とするところなり。就中高等科入学児童大正八年(1919)度に比して八五人増加を見るに至りしは保護者の教育に対する理解の向上せるものにして意を強くする所以なり然りと雖も出席歩合郡中未だ優位に達せざるは遺憾とするところなり

 二、学校衛生
 学校衛生に就ては職員日常注意を払い採光通風朝夕怠らざるの結果年々トラホーム患者数減少しつゝあるは数字の示すところなり。客年十一月十二指腸蟲検診も実行したるが検診児童二二二人に対し七六人の有卵者数なるが県下の状況に比し甚だしく有卵者僅少なるは児童家庭の衛生上注意せる結果に依るか■■校地の乾燥にして日光空気の流通宜ろしきに適ひたる結果に依るか喜ぶべきの現象なりとす

 三、学齢児童保護会状況
 貧困児童として学用品を給与したるものは大正八年(1919)度に於て【氏名略】外五十六人なりしが大正九年度は実際児童の家庭の生活状態を調査し真に窮貧児童と認むるもの【氏名略】外二十四人とし補給の効果を徹底せしむことゝなせり
  保護者収支要覧
   収入部
種目       金額
前年度繰越金   23円94銭
本年度対策補助  30円
県交付金     25円
計        78円94銭

支出部
種目           金額
教科書購入費       9円54銭
筆、墨、石盤、硯、其ノ他 5円37銭
計            14円91銭

 四、職員の修養
 学術の進歩は段々乎として底止するところなきを以て之れが研鑚を怠らん哉。日進の大勢に順応すること能はざるべし。本村小学校職員茲に考ふるに日常書類雑誌を講読するは勿論機会ある毎に私費を投じて購読会に出席して学術品性の向上を図り居れり左記は職員の夏冬季に出張せる講習一覧なり

  期間   学科  場所      氏名
夏期一週日  理科  東北大学内   千野幸三郎
  〃    〃   東京大学内   初雁利一
十日間    体操  埼玉師範校内  金子慶助
  〃    〃   東京高等師範内 森田興喜
  〃    〃     〃     千野久良
  〃    理科  松山小学校内  安藤義雄
  〃    体操  ■■学校内   馬場覚治
 二十日間  農業  熊谷農学校内  大塚禎助
 十日間   理科  東京大学校内  田島竜吉
 七日間   音楽  埼玉師範内   千野幸三郎
  〃    〃     〃     金子慶助
○視察旅行
  一、島根、鳥取、京都、大坂、石川、富山地方  千野幸三郎
  二、静岡、神奈川地方  井上丑治

 五、加設科目の成績
熊谷農学校■仲教諭本村小学校を視察せられ知事に復命書を呈出せしが左記■■の一節なり
視察せる学校は唐子、八和田、七郷、明覚、伊草、中山、北吉見の七校にして之れを総評すれば設備、学科、教授実習、主に努力の状況等一般に良好にして特に、唐子、七郷の二校は模範的と云ふを得■■、北吉見、中山、八和田の三校之れに次ぐ。伊草、明覚の二校にありても又特異の長所なきにあらざりしも改善の余地あるものと思惟せられたり

  1農場収穫物
  実習地 収穫高       金額   備考
  水田  玄米 一六石三升  70円75銭 水田実習地
  畠地  小麦 一三石一升  26円85銭 畠  〃
      大豆    四斗
  桑園  桑  一八六〆   21円   桑園実習地
  果樹園 梨  一五〇箇   33円   果樹園
  其他  野菜        66円20銭
   計金 128円50銭

  2一蛾養蚕
 熊谷農学校品評会(出品して二等となれり)

 六、学校並に児童数
           生徒数
年度次   学級数 男  女   計 日々出席平均 入学生徒数 卒業生徒数
大正三年度  7   235 227  462  428.000   110     76
大正四年度  8   242 222  464  428.000   117     64
大正五年度  9   244 206  450  411.290    97     65
大正六年度  9   232 218  450  432.030   105     78
大正七年度  10   256 230  486  460.180   134     87
大正八年度 【判読不可】                     90
大正九年度  11   279 253  532         145

 七、参観人来校
 参観人数を以て学校の内容を忖度することが能はずと雖も職員参観人を迎る度に一層緊張味を加ふるは勿論日常熱心授業に当らずば優秀なる児童の成績を挙げ得ずして面目なしとの自覚は各自認知せるものの如く本村教育発展上痛心の快事と云ふべきなり。就中児玉、北足立、入間三郡の郡教育会代表者視察員女子師範校教生一行を迎へたるは本村教育の名誉とするところなり

  本年度主なる参観人
四月二十日  児玉郡共和村長 熊八寺  山田保之助
  〃        秋平小学校長   福田直次郎
五月十九日  北足立郡■■小学校長   馬場■一
  〃      〃  教育会代表者  清水直一郎
         〃          岸 慶治郎
         〃          蓮沼■太郎
       大里郡桜沢小学校     島田佐十
         〃          久保要助
         〃 花園小学校    奈良吉三郎
         〃          神山忠三
六月二十三日 児玉郡教育会代表者    茂木治郎
         〃          塚越廣吉
         〃          田中武夫
         〃          桜井茂一
         〃          清水健治
七月六日   川越中学校教諭      金子道啓
       本郡大河小学校長     高橋輝治
       外に当日郡内参観人七名
九月七日   本郡菅谷小学校長     田中長亮
       外に当日郡内参観人拾壱人
十一月八日  埼玉県女子師範学校訓導  中里勝平
         〃      教生  中原すみ
         〃      〃   七名
十一月十八日 入間郡教育会代表者    矢澤仁兵衛
         〃          新井喜惣次
十一月十九日 埼玉県師範学校教諭    笠原房平
       外に当日参観人六名

 八、国勢調査意義宣伝
 国勢調査宣伝歌、仝浪花節等を作製■は青年会処女会を開催し其の意義の普及と徹底とを期したり

 九、施設
  1、奉安殿
 本年度校庭に壮厳なる建築をなすに至りしは御尊影御警固上且又白室精神涵養上遺憾なきに至りたるは角井と共に意を安ずるを得べきなく然り而して不日落成の運びに至るべきを以て御影奉遷の儀を行はんとす

  2、児童通学道路改修
 校舎門前通路は雨天の際は泥濘の没するの有様にして低学年児童昇校上甚困難なりしを以て本年七月砂利を敷き入れて改修を行へたり

  3、屋根修繕
 本校舎中央の一部屋根瓦破損せるを以て直ちに応急修繕を行ひたるも未だ一部に修復を要する個所あるを以て大正十年度に於て更に修理をなさんとす

  4、渡廊下の修理
 前校舎より裏校舎に至る渡廊下従来土の間なりしを以て高低を生じ児童の通行上不便多かりしを以て改修を行ひコンクリートとなせり

 一〇、青年団
  1、見学旅行
 青年団員の意志鍛錬をなさんとせしがために本年四月妙義山に強行遠足を実行せり

  2、品評会開催
 農村青年として勤労の精神を涵養すること第一要義なるを以て手綯米俵縄品評会を開催せり

  3、奉仕事業
 本年奉安殿建築地築立地土工人夫百五十六人に寄附せられたり

  4、運動会
 青年として体育の必要なることは言を要せざるところにして天長節、祝日をとし盛大なる運動会を開催せり

  5、講話会
 二月十八日精神修養講話会を開催す

 一一、處女会
  1、敬老会
 敬老の美風は一家和楽の根底なるに以て記念品を調製し村内は八十才以上の老人に贈呈せり

  2、講話会
 熊谷高等女学校長高柳悦三郎先生を聘し修身、作法、講話会を開催す

五、衛生状況
 清潔法の励行及種痘励行等注意を払へたり。併し本年は不幸にして伝染病発生し多くの人命と多額の費用を要したり。其の概人員及経費左の如し
人員  十七人 内死亡 四人  全治 十三人
経費 金二千二百五十七円也

六、勧業状況
 諸種の塩水撰、冷水温度浸法等農業上注意を払へたり

七、兵事状況
 普通検査合格者入営等事務進捗を計りたり

八、社寺戸口状況
 指定村社二社をして三大祭を執行し一般崇敬の念を高めたり。戸数は五百三十九戸にして人口三千五百六拾六人なり

九、土木状況
 大字古里の道路修理及大字杉山の暗橋の修理等工事の完成を得たり

※1921年(大正10)2月23日、七郷村会提出。

※七郷村(ななさとむら)は1955年(昭和30)4月、菅谷村(すがやむら)と合併し、現在は埼玉県比企郡嵐山町(らんざんまち)。

七郷村役場事務報告 1919年(大正8)

町村制第百十三条第二項に依り大正八年一月一日より仝年十二月三十一日に至る一ヶ年本村役場事務概要左の如し

一、一般事務
 本年中に受理したる文書件数は千八百壱件口頭申請に係るものは七十六件発送文書件数は千九十五件前年に比し七百六十件減少したり而も繁捷を主とし即時処理して停滞せざる様勤めたり

二、村会
 本年中村会開くこと八回会議は最も平穏にして提案諸件は満場一致通過決定せり

三、納税状況
 納税者は納税の義務を重んじ指定期日には大体の納入を見るに至れり

四、学務状況
 教育は累年歩を進め来りしに殊に本年は教授方一掃せられたるにより児童の義務心出席の歩合など大いに向上せり

五、衛生状況
 清潔法の励行及種痘励行など注意を払いたり

六、勧業状況
 諸種の塩水撰冷水温湯浸法等農事上百般に注意を払いたり

七、兵事状況
 普通検査合格者入営及海軍志願者充員応者等ありて事務複雑を極めたり

八、社寺戸口状況
 指定村社二社にして三大祭を執行し一般崇敬の念を高めたり戸数は五百二十九戸にして人口三千五百九十七人、出生百四十人、死亡八十六人なり

九、土木状況
 大字吉田勝田の境橋の修理菅谷通の砂利敷工事等の完成を得たり

※1920年(大正9)2月20日、七郷村会に提出。

※七郷村(ななさとむら)は1955年(昭和30)4月、菅谷村(すがやむら)と合併し、現在は埼玉県比企郡嵐山町(らんざんまち)。

日中全面戦争下の七郷村の銃後施設の組織及び活動状況 1937・38年頃

   村に於ける銃後施設の組織及活動状況等

一、村に於ける銃後施設の組織及活動状

 本村は昭和八年(1933)経済更生指定村となり、県下に稀なる難村、即ち経済上に思想上に殆んど手も足も付けられざる程の行詰りを打開し、全村民一丸となって更生に邁進し、更に昭和十一年度(1936)特別助成村として経済更生上緊要なる諸設備を完成し、一糸乱れぬ統制組織を整備し、着々更生の実を挙げ、昔日の面目を一新せる折柄、今次の事変を見るに当り、応召将兵多数に上り、農業経営に及ぼす影響多大にして、然かも事変の前途遼遠なるに鑑み、経済更生と相俟って、銃後の護りを強化し、応召農家の生活安定と農業経営の確固を計り、以て国民総動戦に対処すべき方針を樹立せり。即ち経済更生委員会を銃後統制委員会とし、新に勤労奉仕部を設け、村内二十二の農事実行組合を中心として勤労奉仕班を編成し、五人組班を一組とせる細胞機関を設け、青年団其の他の諸団体、小学校亦側面より協力し、応召農家の労力不足を援助すると共に、災厄農家の労力を補充し、場合に依り、応召農家の小作地自作地の共同管理を行ひ、全村耕地の生産力減退を防ぎ、隣保共助の実を挙げ、一面共同施設の奨励と共同作業の実施督励に努め、以て一円融合勤労報告の至誠を致し、銃後農業経営の万全を期せり。

 又、出動将兵後援会を組織し、資金の募集に努むると共に、推譲の美風養成を計り、是が資金を以て出動将兵の餞別、遺家族慰問金の贈呈、慰問品の発送をなし、又、春秋二回遺家族慰安会を開催し、万歳、浪曲、講談、奇術等の余興を観覧せしめ、尚、青年団開催の活動映画に招待する等、家族慰安の道を講じつつあり。各神社に於いては、毎月一回日割りを定めて出動将兵の武運長久戦勝祈願祭を執行し、一日・十五日の両日には、各団体員は勿論、一般村民は神社参拝をなし、又毎朝、宮城及神宮遥拝を行はしむ。寺院に於ては住職の有無に拘らず、戦勝祈願、出動将兵の健康祈祷、并に戦病死者の慰霊を行はしめつヽあり。

 尚、国民協同戦線に於て銃後国民の負ふべき経済戦の為め、村民全部、従来の更生貯金の外に愛国貯金として、販売物中、米・小麦は一俵に付五拾銭、繭は一貫目に付二十銭乃至三拾銭とし、天引貯金を励行し、青年団員は毎月三十銭、小学校児童は五銭以上貯金を行はしめ、以て貯金報国の実を挙げることに努力しつつあり。

   【勤労奉仕組織体系図 略】

二、各種団体の活動状況

1 農会

 銃後農業経営の重大なるに鑑み、個人的経営を部落単位経営に改むる方針の下に、農事実行組合を指導し、生産力拡充の為、共同作業を施行せしめ、以て労力の緩和を計ると共に、機械力利用奨励の為、補助金を交付して、各農事実行組合毎に、動力機の購入、協同農具の整備を為さしめ、労力の補給・調整に努めつつあり。

 又、軍部供出に対しては、産業組合と連絡し、農事実行組合単位に割当を為し、之が取扱に当り、大麦・藁・干草・野菜・甘藷・馬鈴薯・兎・真綿等、何れも割当以上の成績を上げつヽあるも、応召農家に対しては、特に之が割当を除き、自由意志に任せたり。

2 産業組合

 本村経済更生計画の根幹を為せる産業組合は、事変発生と同時に、銃後産業統制の最も緊要なるに鑑み、全能力を発揮して、購販売の統制に、貯金の増加に、共同作業場の能力増進に努めつヽあるが、応召農家に対しては出来得る限りの便益を与ふることとし、生産物の販売に当りては無利子にて仮渡金を交付し、出荷・運搬上の便利を計り、資金の融通、其の他可及的便宜を図りつつあり。

 尚、農事実行組合に於ける共同利用、農具購入に対しては、無手数料にて、之が斡旋に当り、銃後農業経営の確立に努力しつつあり。

3 男子青年団及在郷軍人分会

 各支部・各班毎に農事実行組合と連絡し、側面より応召農家の労力奉仕に当り、特に養蚕期等に於ける労力補助を担当す。

 又、青年団支部に於ては、各支部毎に部内応召者に慰問品の発送をなし、特に鎮守神頭に於て遺家族を中心に氏子一同の撮影写真を送り、郷土の一円融合の状を知らしめ、出征将兵をして後顧の憂い無からしむることに努め、部内の新聞を集めて、之を前線将兵に送り、慰問状は団員交互発送して、銃後の安固なるを知らしむることに努めつヽあり。

 又、本団に於ては時折、団報を発行して、村情を知らしむると共に、慰安に努むるの方法を講じつつあり。

4 女子青年団及国防婦人会

 女子青年団及国防婦人会は、毎月、応召兵の留守宅慰問を為し、相協力して家事を手伝い、又、髪毛屑、襤褸、古金具、其の他廃物を集めて之を売却し、慰問品を送り、或は千人針を出征に際し贈呈する等、応召者に感謝の念を与へ、尚、経済更生と相俟って物資節減の為、衣服の新調を見合せ、古衣の手入等に一段の努力を払ひ、且つ軍需生産たる養兎に力を注ぎつヽあり。

5 小学校 青年学校

 小学校、青年学校に於ては、経済更生の為め勤労教育に力を注ぎ来たりたるも、事変勃発以来一層意を用ひ、尋常四年以上の児童には養兎と製縄を実施せしめ、青年学校生徒には家庭実習地に軍部供出の野菜・甘藷等の栽培を為さしめ、草刈の実施を励行しつヽあり。

 尚、応召農家又は災厄農家に対しては、農事実行組合の了解を得、職員指導の下に労力奉仕をなし、又、通学の往復に児童協力して応召家族のために、産業組合共同作業所迄、精米麦製粉等運搬をなし、勤労奉仕の実を挙げつヽあり。尚、前線将兵に送る慰問文の作製等に留意す。

   【中略】

 五、奉仕美談事例

 幾多感激すべき奉仕美談あるも、最も涙ぐましき一例を左に記さん

 事変勃発後、農家の戸主として最初の応召を受けたる本村大字広野永島進一氏は、母と妻及六才を頭に三人の子供を残して、昭和十二年(1937)九月応召、直ちに前線に出征せられたるが、母は六十二才の老齢に加ふるに日頃病弱にて、子供の守を為す程度なるを以て、妻ユウさんが家事は勿論、耕作地田畑八反余を独力経営することになったので、畑は草が茫々たるさまになった。

 之を字内より小学校の高等科一年に通学中の男女児童六名が相談して、日曜を利用し弁当持参で草取りに従事し居るを見て、応召者の家族が涙を流し、「先生が連れて来たのですか」と聞きし処、児童は一斉に「さうではありません。先生は御存知ないのです。家の者も知りません。余り草が生へて作物が可愛想だと思ひ、戦地の兵隊さんも心配なさると思って皆で相談し、今日、日曜を利用して草取りに来たのです」との答。大いに驚き且喜び、その心根を感謝しつつ、午后のオヤツを作って饗応なせし処、児童はそのこころざしを非常に喜び、元気百倍、日の暮るヽまで草取をなし、畑を余さず綺麗に仕上げたのです。

 村では、此の話を聞き及び、早速、銃後後援会を組織し、又、勤労奉仕計画を樹立するに至り、今も尚、時々語り草として村人の感激し居る処であります。

※この時期の七郷村役場から出征兵士への慰問文には次のものがある。いづれも、この時期の村内の状況を知ることの出来る貴重な資料である。
七郷村長栗原侃一、役場吏員から七郷村出身将兵への慰問文 1937年(昭和12)夏
七郷村長栗原侃一と役場吏員から七郷村出身将兵への慰問文2 1937年(昭和12)11月

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