GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2010年03月

空から見た小川町 1(更新) 東小川地区 2010年3月

動画:高度700mから撮影

東小川、嵐山小川IC、花見台工業団地
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武蔵メモリアルパーク

2010年3月27日内田泰永さん撮影


小川町東小川地区

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2009年7月15日 内田泰永さん撮影

无邪志同盟会の発足

 明治時代の半ばを過ぎた頃、菅谷の地域を中心に无邪志同盟会(むさしどうめいかい)という教育や実業の発達をめざす団体がつくられて活発な活動を展開した。嵐山町の『報道』459号(1996年9月)の「博物誌だより26」で、誕生の様子が次のように記されている。

  『同盟雑誌』の発刊
 今年(1996)はO157による病原性大腸炎が流行し、生ものに気をつかう夏でした。
 ところで、ペリー来航以後、外国との交流が活発化した我が国では、港から入ってくる病原菌にはことのほか悩まされました。なかでも、コロリ(虎狼痢)と呼ばれて恐れられたコレラ(虎烈刺)は明治維新から日清戦争までの30年ほどの間に8回も流行し、政府は1897(明治30)年に伝染病予防法を公布して、コレラ・赤痢など8種類の病気を法定伝染病としました。日清戦争では、戦死者1400人に対して、病死者は12,000人弱で、全体の90%にも達していたのです。そのうちの大半が伝染病であったといわれています。
 そのころ、嵐山町域を中心として、无邪志同盟会(むさしどうめいかい)という「教育ノ上進」と「実業ノ発達」を目的とする結社がありました。城山学校(菅谷小学校の前身)に本部が置かれ、会員は150名ほどで、『同盟雑誌』という機関紙を発行していました。城山学校の校長は七郷村の井上久五郎で、現大字広野の井上清さんのおじいさんにあたります。同盟会は日清戦争開戦の半年前に、菅谷同盟会として発足したものでした。
 『同盟雑誌』は現在3号までが、東京大学法学部の明治新聞雑誌文庫に保管されています。1895(明治28)年4月2日発刊の創刊号の編集人は唐子村の新井歌吉、印刷人は菅谷村大字大蔵の大澤八三朗、発行人は菅谷村の村長であった関根美太郎でした。前年11月に開かれた七郷村の送兵会での井上久五郎の演説や、種籾(たねもみ)の選択法などが載っています。
 2号には、戦後の教育と実業のあり方が論じられる一方、小川町の医師でクリスチャンであった関根温が「衛生十ケ条」を寄せています。そこでは,「伝染病ノ最良ナル予防法」は、空気・食物・水・皮膚・下着・衣服・住居・便所・土地・習慣・徳義のすべてを清潔にすることだと書かれています。
 3号には、青年論とともに培養法や蚕種(さんしゅ)選別法などが寄せられています。
 また、各号とも地域の人々の和歌や俳句も紹介していて興味をひきます。
 日清戦争当時に、嵐山町域を中心にこうした教育と農業改良をめざした雑誌が発行されていたことは、大変注目されますので、今後の調査が待たれます。
 
  同盟員の拡大
 この『同盟雑誌』を発刊した当時の菅谷同盟の会員数を見ると、1894年(明治27)2月は104名、1895年4月335名、1896年7月430名と確実に会員が拡大している。それにともない『同盟雑誌』は翌年から第1号と第2号、1896年(明治29)に第3号が発行されている。第2号に記された会計報告には「金三十円 同盟雑誌二号千部印刷代」と記されている。この同盟雑誌を使って急速に会員拡大をはかったのであろう。
 最初の会員104名の分布状態を見ると次のようになる。

 地域別会員数  104名(2名重複 実質102名)
  菅谷村88(鎌形15 菅谷10 遠山2 大蔵13 根岸4 平沢9 川島10 千手堂6 志賀19)
  七郷村3(広野2 勝田1)
  比企郡唐子村6(現・東松山市)
  比企郡宮前村6(宮前2 水房3 月輪1)(現・滑川町)
  大里郡市田村1(旧・大里町、現・熊谷市)
   2名の重複は唐子村で名誉会員と通常会員のダブル登録による。

 このように菅谷同盟が、名前のように菅谷村を中心にして隣接する近村に広がっていることが分かる。しかし、市田村だけは大里郡にありやや離れている。

  特別名誉会員福島儀平と斎藤武次のこと
 この離れた市田村に会員のいることが、菅谷同盟の活動の一端を示しているといえよう。この同盟が発足したときの会員を見ると、特別名誉会員が2名、名誉会員が16名、通常会員86名であるが、その特別名誉会員の筆頭に書かれている福島儀平の村が市田村なのである。実は福島儀平は市田村大字手島にある精業舎【1889年(明治13)設立】の舎長である。『同盟雑誌』第1号に、精業舎が「蚕種販売及豫約廣告」と題する大きな広告を載(の)せている。そこには蚕種製造人として精業舎員5名の名前が挙げられ、「小生等年々精業舎流の清温育ニテ蚕児ヲ飼育セシモノナリ即清温育トハ温暖育清冷育ノ一方ニ偏セズ温暖清冷ヲ折衷(せっちゅう)シテ蚕児ニ桑葉ヲ與ヘ七十度以上ノ温気ニ為シ置キ、一時間或ハ二時間ヲ経テ例(仮)令温度降ルト雖(いえど)モ多分ノ注意ヲ要セズ天然ノ気候ニ一任シ又蚕室モ目張(めばり)ヲ為サズシテ毎日新鮮ナル空気ヲ流通セシメ蚕児ノ活動ヲ自由ナラシムルヲ以テ目的トス」と記して、「第一條 蚕種壱枚(百蛾附)金壱円トス」、以下六條まで予約、配布その他が記されている。この蚕種製造の精業舎代表の福島儀平を特別名誉会員に迎え、『同盟雑誌』第1号に精業舎の広告を載せていることは、菅谷同盟が目的の一つに挙げる「実業ノ発達」の実業の中心が養蚕業の発展をめざしていたことを示していた。福島儀平は菅谷同盟発足にあたり「春蚕飼育日誌百部」を寄付している。もう一人の特別名誉会員が鎌形小学校の校長斎藤武次であることは「教育ノ上進」という会の目的からきているといえよう。同じように同盟の本部が城山小学校(菅谷小学校の前身)に置かれていることは、教育を重視していることの表れであろう。

  菅谷同盟の活動
 「教育ノ上進」と「実業ノ発達」を柱にしながら具体的にはどのような活動をしていたのか。同盟雑誌第2号、第3号に記されている会計報告を見ると、同盟雑誌の発行、講師への謝金、縦覧雑誌購読代、凱旋歓迎費、総会での撃剣挙行費、俳諧開催費,幻燈会費、蚕種審査員待遇費、精業舎繭共進会への寄付、名誉戦死者への香花料、凱旋会員への祝杯、本会功労者への感謝状と記念杯などが記されている。撃剣会は剣道の試合、幻灯は別の「村人との楽しみ」の項で紹介したように、家庭教育、女子や子どもの教育、時代物語、社会教育、歴史、戦争など幅広いもので、映画登場以前の娯楽の一つであった。
 ここから見えてくるのは、養蚕関係のものを中心にして、俳諧開催、幻灯会、撃剣会などの文化娯楽関係のもの、日清戦争関係の凱旋行事や戦死者への香花料贈呈などと幅広い活動を展開していたことである。その個々についてのもっと掘り下げた活動内容については、資料発掘に基づく分析が必要である。

自転車の普及と生活圏の広がり

 近代化にともなう西洋文明の流入は、地域の人びとの生活だけでなく、意識や感覚までも変化させていった。たとえば、鉄道の導入は陸蒸気(おかじょうき)【明治初期の汽車の通称。蒸気船に対して陸を行くことから使われた。】が煙をはきながら走る光景だけでなく、世界の広がりや時刻表による時間の意識や切符による乗車、身分の違いを超えての整列や同席など、移動という行動を通して人間関係の変化をもたらした。

  明治になって自転車が登場 
 身近な交通手段では、地域の生活に大きな変化をもたらしたものが自転車であった。それまでの車といえば、大八車や馬車が主流であったが、明治維新後から人力車が普及した。1872年(明治5)の東京都の統計では、自転車1輌(りょう)、日除車1輌、人力車24522輌、小車7563輌、馬車129輌、牛車191輌とある(石井研堂『明治事物起源』)。自転車が日本に伝えられたのは、慶応年間(1865-1868)から明治の初年頃といわれているので、明治5年の東京で自転車1輌というのは当時の伝来直後の状況を反映した数であった。当時、横浜居留地【外国人居留地】で活躍していたフランス人画家ビゴーの漫画に見られるように、自転車は珍しい遊戯具(ゆうぎぐ)として輸入され、やがて明治の後半から20世紀に入って普及していった。
 東京朝日新聞の記者だった山本笑月(やまもとしょうげつ)は、明治30年代に英国製自転車スヰフトが200円、米国製デートンが150円、名も知れぬ安物でも70円〜80円だった記している。数寄屋橋界隈(かいわい)で練習していて、有楽町交番の巡査に追いかけ回されたとある(『明治世相百話』)。民俗学者の柳田国男も、明治30年(1897)頃、嗜輪会(しりんかい)という著名な人たちの団体が出来たが明治初期のゴルフクラブのようなものだったと記している(『明治大正史 世相編』)。明治33年(1900)には「女子嗜輪会」という女性だけの自転車倶楽部(くらぶ)が日本に始めてつくられて、そのメンバーの一人柴田環【後の日本最初のオペラ歌手三浦環(たまき)】が、東京の芝の自宅から上野の音楽学校まで和服の袴姿(はかますがた)で自転車に乗って通学して話題になった。明治30年代には東京の大学の学生や商店の若者、あるいは軍人たちの自転車の倶楽部などがあちこちで誕生してきた。
 それは生活にゆとりのある人たちの道具であったり、モダンな生き方の現われであったりした。しかし大正時代に入ると、自転車はしだいに実用的なものとして普及するようになった。

  嵐山地域でも自転車がはじまる
 嵐山町域で自転車の記録が文書で見られるのは大正期に入ってである。志賀村の教員だった大野角次郎の日記には、1914年(大正3)6月に「借り自転車」77銭5厘とあり、同月に30円で自転車を買っている。角次郎はその年の4月に吉見の小学校に転勤になっている。歩いてでは通えない。最初は自転車を借りたが、毎日の通勤のために自転車を買ったのである。角次郎の月給は24円であった。7年後の1921年には1台50円で買っている。月給53円であった。維持費のために、自転車ポンプ60銭、タイヤ交換5円〜5円75銭、フリーホイル2円55銭、分解掃除1円75銭、サドル4円也(『嵐山町博物誌調査報告 第7集』)と費用はかなりかかった。しかし、自転車は遊びやハイカラの生き方のものの域をこえて実用性のあるものとして、一般的には医者、弁護士、教員、警官、役場などから広く普及していった。
 時代は変わるもので、警官に村人は自転車を寄付することも起ってきた。菅谷村の駐在の場合、1916年(大正5)に大野角次郎は15銭、1918年に90銭、19年に1円を寄付している。『志賀村寄付割合名簿』(志賀区有文書72)によると、額は所得税額によって割り当てられていた。
 千手堂村の大農家高橋金次郎の日記を見ると、1914年(大正3)の正月に荒縄(あらなわ)1駄(いちだ)【馬一頭に積める分量】を1円10銭で買っている。寺への年始が10銭、「盛印」醤油1本(1斗樽)が1円70銭、セメント4升が45銭で、米15俵を101円55銭で売っている。米1俵が6円77銭(10キロ1円13銭)の時代だった。その年の8月14日には「父は光照寺へ施餓鬼(せがき)【死後の世界で飢え苦しんでいる者に食物を供えて弔う法会。施食会(せじきえ)。お盆の施餓鬼では寺から先祖供養のための塔婆を貰って来る。】に行く。他の者は自転車の稽古、夕方桑摘み」、16日には「蚕上簇(かいこじょうぞく)【成熟して繭をつくる直前のカイコを簇(まぶし)に移すこと】、発生より二十二日にて。午後自転車の稽古四、五人」(『嵐山町博物誌調査報告 第1集』)と記されている。暇を見ては自転車の稽古に励む人たちの姿が想像される。「文明」が暇人と若者から広がってゆくのは世の常である。

  大正時代に自転車の保有台数が急激に増大した
 1914年(大正3)、菅谷村の自転車保有台数は46台、全戸数611戸の7.5%だった(大塚基氏家文書4)。1925年(大正14)には441台と10倍となり、690戸の63%が自転車を保有するに至っている(菅谷村役場文書)。
 町域の人びとはどこから自転車を買ったのだろうか。1902年(明治45)1月6日の『埼玉新報』に「自転車用 自転車用 パーマータイヤ」の広告がある。パーマータイヤ埼玉県下特約販売店は12軒の自転車店の名があるが、候補としては、川越町の桜井自転車店、熊谷町の藤井自転車店、松澤自転車店辺りであろうか。
 貴重品の自転車はその後急速に普及し、草競馬の商品とされたり、青年たちによる太田の呑龍様(どんりゅうさま)や榛名山への繰り出しや、七郷地域からの小川高等女学校への通学にも不可欠の日用品になっていった。ちなみに、1925年の男子普通選挙実施まで、国税3円未納者には選挙権もなかったことからすると、年間3円の自転車税が高額であったことが分かる。

空から見た嵐山町 12(更新・動画) 市街地 2010年3月

動画:高度850mから
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2010年3月27日 内田泰永さん撮影

左:平沢2区、中央:平沢区画整理地、右:千手堂2区
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手前:国道254号線嵐山バイパス
2009年7月15日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 112(更新) 志賀 2010年3月

志賀は道沿いに家並みがある
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2010年3月27日 内田泰永さん撮影

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2010年2月1日 内田泰永さん撮影

A:埼玉県道296号菅谷寄居線
B:志賀小学校
C:堂沼
D:新市野川橋(市野川)
E:志賀第一集会所
F:ふれあい市民農園しかむら
G:寺沼
H:宝城寺(曹洞宗)
I:嵐山町上水道第二浄水場
J:シロックス東京物流
K:武蔵メモリアルパーク
L:相生橋、M:杉山橋(市野川)
N:東武東上線
O:大門ヘラ鮒センター

空から見た嵐山町 195 都幾川桜堤 2010年3月

2010年3月27日(土)の都幾川桜堤
下流の学校橋付近の菜の花はきれいですが、桜はまだ咲いていません
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動画:パラグライダーから内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 194 嵐山渓谷 2010年3月

2010年3月27日(土)の嵐山渓谷
サクラはまだ咲いていません。
動画:上空600mから撮影

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2010年3月27日 内田泰永さん撮影

細原、塩沢冠水橋、女久保
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塩山

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女久保、細原

塩山
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細原の先端の広場

嵐山町名発祥の地の石碑、四阿(あずまや)
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四阿より槻川と塩山を臨む
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空から見た嵐山町 193 越畑 2010年3月

岩鼻、柳原
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日影、後大月

2010年3月18日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 106 50

空から見た嵐山町 192 越畑 2010年3月

川後岩、本田谷
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入山、丸山

2010年3月18日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 106 50

空から見た嵐山町 191 関越自動車道嵐山PA(上り) 2010年3月

関越道嵐山PA(上り)、十三間沼
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幡後谷、松沢、穂切谷

2010年3月18日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 106 50

空から見た嵐山町 8(更新・動画) 嵐山渓谷(大平山・細原)

動画:武蔵嵐山のさくら景色1 2009年4月10日


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   2009年4月10日 内田泰永さん撮影
参照:「花だより23 武蔵嵐山の桜 詩:中島運竝 1966年」 

空から見た嵐山町 107(更新) 金泉寺・宝薬寺 2010年2月

金泉寺(きんせんじ)、宝薬寺
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2010年3月18日 内田泰永さん撮影

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2010年2月1日 内田泰永さん撮影

A:金泉寺(曹洞宗)、B:薬師堂、C:宝薬寺(曹洞宗)
D:越畑第一公民館
E:立山橋(関越自動車道)(越畑)
F:野郎子橋(やろこばし)(市野川)
G:新川地区水循環センター(小川町下横田)
H:新川(しんかわ)、I:埼玉県道296号菅谷寄居線

空から見た嵐山町 190 七郷小学校 2010年3月

七郷小学校
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2010年3月18日 内田泰永さん撮影

A:嵐山町農業構造改善センター
B:活き活きふれあいプラザやすらぎ
C:七郷小学校
D:JA埼玉中央嵐山支店
E:らんざん苑
F:埼玉県道69号深谷嵐山線

空から見た嵐山町 189 吉田 2010年3月

花見台工業団地
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吉田

2010年3月18日 内田泰永さん撮影

A:嵐山町上水道第三配水場
B:吉田集会所、C:東沼
D:七郷小学校(吉田)
E:らんざん苑(越畑)
F:埼玉県道69号深谷嵐山線

空から見た嵐山町 188 上吉田 2010年3月

上吉田
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2010年3月18日 内田泰永さん撮影

A:吉田第一区公民館
B:天満天神宮
C:新川、D:滑川
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