GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2010年11月

空から見た嵐山町 273 上吉田

上吉田
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2010年11月11日 内田泰永さん撮影

私の50話 36 たなぐさとり 大塚基氏 2010年

   36 たなぐさとり
 水田除草剤が開発される昭和30年代頃までは、水田に植えられた早苗が根づき、水田の雑草が生え始める7月中旬頃より、稲の株間が塞がって雑草が生えなくなる8月中旬頃まで、水田の雑草防除のためのたなぐさとりが行なわれました。
 たなぐさとりは、手指で引っかくような方法で稲の株間の雑草を取って手の中に溜まったら土の中に突っ込んで除草する作業のことを言いますが、雑草繁茂を防除し水稲の生育を促進させるためにやらなくてはならない重要な仕事でした。
 この仕事は、子供から大人まで家族が横に並び、それぞれの力量に応じて、稲株の3列から6列ぐらいを受け持って行なうのですが、早いものが遅い者の手助けをしながらも、だんだんと離れてしまいます。それに、稲株が小さい時のたなぐさとりは良いのですが、2番ご(2回目)、3番ご(3回目)になってくると、稲が大きくなってきて、稲株の中に顔を突っ込んでたなぐさとりをするような格好になるので、稲の葉がやたらと顔にあたったり手にあたったりして、切り傷ができたり擦れたりして痛かったりヒリヒリしてたまりませんでした。
 子供の頃の田植えの時には決して、「早苗を結わえた藁の中に稲が植えられるとその稲の葉でたなぐさとりの時に目を突くから結わえた藁は前に投げるように」との言い伝えをうるさいほどに言われましたが、葉の先で目を突いたり、顔を突いたりの危険も伴う作業ですので、長い稲つくりの歴史の中には、目を突いて失明した人がいた事も頷けます。
 今は、水田の除草剤が開発されて、昔のようなたなぐさとりは無くなり、腰を曲げながらのたなぐさとりの苦労が偲ばれますが、腰を伸ばしたときに涼しい風が頬をなぜて通り過ぎると、その感触と香りに、何とも言いがたいほどの心地よさと、宝くじを引き当てたほどの儲かったような気分になったことも思い出します。

私の50話 35 おまいり 大塚基氏 2010年

   35 おまいり
 私が小学4〜5年生頃だったでしょうか。私の祖母から、お参りに行けないので行ってくれと頼まれて、毎月1日、15日の朝にお参りに行くようになり、それが習慣となりました。
 朝5時頃に起きて、半紙を半分に折った中におさご(白米)を包んで、始めに氏神様にお参りして、次に自転車で兵執神社に行って、おさごをチョンチョンと横に3箇所並べてお供えして、本殿にお参りしたあと、同じようにおさごをお供えして三峰神社、鎌倉稲荷神社をお参りし、階段を下りてだんだんと下の方へ向かって鎮座している神々にお参りしました。最後の社が天満宮でしたが、龍泉寺にも手を合わせました。そして次に、御嶽様の参道の入り口に自転車を置いて、185段の階段を昇って御嶽様にお参りしました。最後に飯嶋稲荷様に行ってお参りしました。家内安全で家族が健やかに幸せに過ごせるように、それぞれの神様に手を合わせました。忙しい時には、兵執神社の御嶽様が見えるところから、御嶽様を望んで手を合わせたこともありました。飯嶋稲荷様に向かって手を合わせたこともありました。泊りなどで家を離れたときは、前日か、翌日に行ったこともありました。
 神様に手を合わせると、神様を信じる信じないの時限を越えて、何故か清々しさを掻き立てるものがありました。心に清々しさを感じさせるものがありました。
 ですから、お参りに行かないと何か忘れごとをしたようで、悪いことをしたようで落ち着かなかったのです。
 高校を卒業し、家を離れて習慣が途切れてからも、出来るだけお参りに行きました。
 そしてまた、息子が生まれ物心つくようになった頃から、息子にもその清々しさを感じて欲しいと、「嵐山町の圃場整備事業が一日でも早く完了しますように」との願掛けとともにお参りを習慣づけるようになりました。
 なお、お参り場所について追記しますと、

○兵執神社(へとりじんじゃ)
 兵執神社は、格式が県から幣帛(へいはく)を賜っていた郷社でしたので、私が子供の頃にお参りに行っていたときの鎮守の森は、ふた抱え、み抱えするほどの大きな杉の木や籾(樅?)の木などで覆われ、昼間も薄暗く威厳に満ち ていました。
 しかし、昭和41年(1966)9月25日に関東地方を襲った台風26号により、鎮守の森の大半の木が倒伏して大きな木がほとんどなくなってしまい、その頃の面影はなくなりました。また、倒れた木によって本殿の屋根は破損、神社の社務所としていた龍泉寺は破壊され、それぞれに修復、新築となりました。そして、大きな木がなくなり明るい神社となったために、時間があるとお参りの時に眺めていた、本殿の西側に掲げられていた中村清介先生の剣豪奉納額、愛宕神社の正面に掲げられていた、梅などの色彩豊かな絵で縁取られた俳句の奉納額の絵や文字がほとんど消えてしまったことが残念です。

○御嶽様(おんたけさま)
 御嶽様は前の御嶽、後の御嶽(馬内地内)とありますが、私がお参りに行ったのは前の御嶽様で、標高が90mほどの高さにあります。私が子供の頃は、185段の石段を登る周りの山も綺麗でしたし、御嶽様のまわりには修験場としての威厳が感じられ、お参りを済ました後には清々しさが残りました。しかし何時ごろか、石段の側にあるなあと思っていた何本かの竹が御嶽様のまわりを埋め尽くし、今は竹林に囲まれた御嶽様に閉塞感と堅苦しさを感じるようになりました。

私の50話 34 飯島稲荷 大塚基氏 2010年

   34 飯島稲荷
 飯島稲荷は、駒込共同墓地の東側にありました。ちょうど古墳を開墾したような感じの円形の敷地が1mほどこんもりと高くなっており、4〜5段の石段を昇ると、両側には旗さし棒の土台があり、その次にさ2〜3柱の丸太で出来た赤い鳥居があり、その奥に社がありました。
 そして、敷地全体に斑入りの笹が覆い茂っていて、なんとも稲荷様という趣がありました。私が小さい頃には、春の暖かな風が吹きはじめる3月25日がこの稲荷様の縁日で、稲荷様の西側に舞台が組まれて福引が行なわれてとても賑いました。籤がいくらで買えたのか忘れましたが、箒や箕などの家庭用品がいろいろ当たって、はずれ籤がマッチがつけ木であったような気がします。
 いずれにしても、飯島稲荷の縁日での籤引きを毎年楽しみにしていました。
 その縁日が、いつまで続いたのか知りませんが、今では飯島稲荷も舟窪沼の南側に移転され、古い稲荷様の社がそのまま残り、朽ち果て始めているのを寂しく感じておりました。
 しかし今は、立ち木等に昔の面影が残るものの笹もなくなり、社も取り壊されて小さな祠があるだけとなりました。

私の50話 33 きのこ 大塚基氏 2010年

   33 きのこ
 私の子供の頃には、山は綺麗に手入れされていて、山にはきのこがいっぱいありました。
 初茸は尾根台から長嶺沢の畑に通じる山道の側の山の中に生えました。ですから、きのこの季節がやってくると、畑の帰り道に山道の法面に生えているのを採ったり、ちょっと山に入って一掴みほどの初茸を採って家に持ち帰り、その晩の煮込みうどんに入れて楽しみました。
 ち茸は、山道の側にも生えましたが、岩根沢の今の大久保キリスト教会の入り口あたりが松山で平らな山でしたので其処に良く生えました。
 また、字清水の我家の畑の隣の山(今の嵐山郷の食堂あたり)の大松の根元に、千本しめじが毎年のように生えましたので、きのこの季節になると楽しみでした。
 そしてある年の秋も、山に行くと千本しめじが生え始まっていました。でも、まだ小さかったので、大きくしてから採ろうと思って木の葉などで覆い隠そうとしていると、どこかのおじさんがやって来て、「知っているんだから駄目だよ」と言いました。そのおじさんも、楽しみにしていた一人だったのでしょう。
 また、きのこ採りの好きな人は一本しめじの生える場所を知っていて、大きな一本しめじを採ってくるとみんなに見せびらかしました。
 でも、そのように毒キノコも含めて豊富に生えていたきのこも、今では、見つける機会がなくなりました。もちろん、千本しめじも一本しめじも見つけたという話を聞かなくなりました。
 自然のきのこが生えなくなったのは、山が荒れただけでなく、大気汚染による酸性雨が原因であるという人もおります。しかし、原因はいずれにしても、数十年前までは豊富に生えていたきのこは、本当にどこへ行ってしまったのでしょう。
 栽培されたきのこではなく、古里でとれた自然のきのこをもう一度食べたいものです。

鎌形・東落合、野銭場 2010年11月24日

武蔵嵐山・大平山の紅葉
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2010年11月24日 嵐山町鎌形・東落合、野銭場から撮影

大平山の紅葉
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槻川橋、平成楼
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嵐山町鎌形の東落合、野銭場からの展望

 
牧草地から離陸するモーターパラグライダー

私の50話 32 馬内 大塚基氏 2010年

   32 馬内
 私は、高校1年生のときに初雁秀男さんの紹介で、郵便局の年賀状の配達アルバイトをしました。その時の馬内(もうち)集落の印象がとても強烈でいまだに忘れられません。
 私も古里の住民ですし、新井慶治さんの家が親戚なので使いもしていましたし、それに行った事もありますので馬内集落の存在を知らないわけではありませんでした。
 しかし、昭和38年(1963)元旦、初めての郵便配達で古里の第一支部に年賀状を配り、第二支部の馬内集落に行ったときのことです。どこもかしこも霜柱が立っていて、庭や通り道などの生活空間には藁や籾殻が敷いてありました。
 そして同じ古里というのに、どこの家かも通り道もぜんぜんわかりません。それで、今のような住宅地図もありませんでしたので、苛々しながらも家を聞き聞き、通り道を聞き聞き年賀状を配っていると、霜柱が溶け出してきて庭も道もべたべたしてきたのでビックリしました。庭や通り道に藁や籾殻が敷いてある意味がそれでわかりました。
 それに、馬内集落は大通りに接していなかったので、部落の人達以外の往来が少なく、他人に気を使う必要がなかったせいなのか、人々の生活と身なりがとても地味に思えました。何故か一昔前に逆戻りをしたような錯覚に陥った感じでした。
 そんな驚きの中で、行ったり来たりとウロウロしているうちに、馬内集落でお昼のサイレンを聞いてしまったことも忘れられない想い出となりました。
 馬内集落が終わると、勝手知ったる私の部落です。それまでの遅れを取り返すように年賀状の配達も順調に進みました。
 そして翌日からは、馬内集落の驚きにもなれ、家も覚えて、すべてが順調に進みました。
 年賀状の配達は中学3年生まで行ないましたが、2年生からは年末から頼まれ、年賀状を配達の順番に組めるようになりました。

私の50話 31 たにあ 大塚基氏 2010年

   31 たにあ
 県道熊谷、小川、秩父線のバス停尾根入り口の西側あたりに、県道が出来るまでは「たにあ」と言われる、直径4〜5mの小さな溜池がありました。
 この溜池は、いつも綺麗な水を蓄えていたので、近辺の農家の風呂水などの生活水に利用したり、池のそばを流れる小川の所まで池の水をくみ出して洗濯などに利用していました。
 子供の頃、どんな申し合わせでこの溜池の浚渫が行なわれたのかは知りませんが、溜池から吉田の長竹に通じる農道の上に重ね上げた形で浚渫した土が帯状にあけられました。
 そして、その土をかっぱくと、泥鰌(どじょう)がいっぱい出てくるので、近所の人と一緒に何回も取りに行った記憶があります。
 また、この溜池は、危険もいっぱい孕んでいました。私も小学1〜2年生の頃に一人で海老蟹(えびがに)釣りに行って足を滑らせてこの池に落ちてしまいました。口の中に水が入ってくるのを感じながら、バチャバチャもがいてやっとのことで池のへりの杭に捕まることが出来ました。小さい子供心にも、たにあに落ちたと言うと家の者に怒られると思って、たにあのそばの堀で転んでしまったので濡れたと嘘をついたことを思い出します。
 また、真中の妹もこの溜池に落ちました。ちょうど祖父が上りはなで盆棚を作るための縄をなっていて、私が勝手の方にいる時でした。近所の子供が母屋の入り口のところに来て、あわてたような顔で祖父に何か叫んだような感じがしたと思ったら、祖父が形相を変えて子供と一緒に外に飛び出しました。その慌て振りに驚き、私は二人の後を追いました。
 そしたら、たにあの中ほどに、おかっぱ頭が見え隠れするような感じでぷっかり、ぷっかりと浮いていました。妹の頭です。
 飛び込もうとする祖父を制して、中学1年生頃になっていた私が溜池に飛び込みました。すると妹がかじりついてきたので、私は自由を奪われてあせりました。
 しかし、小さな池でもありましたので、少しのあがきで池のそばに生えていた木の池の方に垂れ下がっていた枝にどうにか捕まることが出来たので、池の端に寄って妹を池から引き上げることが出来ました。
 そして祖父が、池の堤で妹を逆さ吊りにして水を吐かせて妹は助かりました。
 私の兄妹のように、この池で危ない目にあった人が沢山いたのではないかと思われます。
 しかしこの池には、優しい河童が住んでいて、池の外に押し出してくれるのか、この池で人が亡くなったとの話は聞きませんでした。
 しかし、昭和30年代に入ると、地域の生活を支え続けた「たにあ」も、生活の近代化に伴う多様化した生活排水や、酪農家の汚水などが側を流れる小川を流れるようになり、小川から自然と溜池に差し込むようになって、生活水としての利用ができなくなりました。
 そして、昭和40年代初頭に計画された、県道熊谷小川秩父線の新設道路敷地となって、地元との深い結びつきをもっていた小さな溜池「たにあ」は寂しくも姿を消しました。

私の50話 30 八坂神社 大塚基氏 2010年

   30 八坂神社
 今の古里2区の遊園地のところは、国策として発令された神社は合併すべきとの布告によって、大正2年(1913)9月23日に兵執神社へ合併するまでは、八坂神社、愛宕神社が鎮座していて、尾根郭の鎮守として崇められていたところです。その鎮守の森は、うっそうとした大きな木に覆われていたそうです。私の祖母からも子供の時に来たときには、大きな森があったのだと聞いたことがありますが、安藤昌夫さんの家が森下という屋号で呼ばれるように、それだけ大きな森があったのだと思われます。
 私の家には、大きな木の幹の表面を残した板が何枚もあります。父が言うには、これは、私の曾祖母がとうじゅうから嫁にきましたが、曾祖母の弟がもとじめを手広くはじめていて、八坂神社の鎮守の森の木も切ったのだそうです。そして、その木を板などにして売ったのですが、商品価値のない外側の不整形の板を、何かに使えるだろうと義兄である曾祖父にくれたので、家にあるのだとのことです。
 大正9年(1920)生れの父が子供の頃には、森下の東側の道路に沿って大きな木を切った根株が並んでいて、その上で遊んだ記憶があるそうです。すぐに伐採とのことは考えられませんが、神社が合併された大正2年(1913)に伐採されたとしても、大きな根株が残っていたことは充分納得のいく話です。しかし、大塚右吉さんに聞くと、知らないと言いますので、年齢4歳の差の中で根が朽ち果てて土の中に埋まってしまったとのことが考えられます。そして、境内地を取り巻く鎮守の森は、開墾され畑地での利用が進んだのだと思われます。
 そして、私の知っている境内地の回りは、畑になっておりましたが、遊園地になるまでは、神社の形状を整えていました。旧県道から参道が図1のようにつながっていて、参道は図2のように坂を上がって、それから気持ち少しずつ上り坂が続いて社のあった場所に少し急な坂を上るような形態でした。
 そして毎年、夏祭りには境内地にお仮屋を建てて、兵執神社から天王様が迎えられ、盛大に夏祭りが挙行されてきました。
 しかし、昭和54年(1979)から始まった老人会のゲートボール大会にあわせて、ゲートボールの練習場として利用するために八坂社跡地が遊園地となることになり、工事が行なわれたときに、大きな木の根がいっぱい掘り出されました。
 飯島良作叔父がちょうど神社総代であったのか、遊園地の工事には携わっていて、大きな木の根っこを私に何処かに飾っておくかと言ってくれましたが、まだ蚕が盛んな時で、畑にも置いておく場所も無いときでしたから、ちょっぴり欲しいと思いましたがことわりました。しかし、叔父とのやり取りは、昨日のように思い出されます。

私の50話 29 古里駒込墓地の話 大塚基氏 2010年

   29 古里駒込墓地の話
 飯嶋昇氏宅の東にある安藤家の墓地は、今から200年前頃までは内出から尾根にかけての共同墓地で、いろいろな苗字の墓地があったとのことです。
 しかし、少しずつ関係者の分家等により戸数が増えて墓地が狭くなると、墓地の利用権利をめぐって、内出地区を拠点とする安藤家と尾根地区を拠点とする人達との墓争いが起きて裁判沙汰になったのだそうです。
 その内容がどのようなものであったか知りたいところですが、今のところ知る由もありません。しかし、今は面影があまりありませんが、その昔は、安藤家の墓地から駒込基地にかけて古墳が犇めき合うように並んでいて、古代の大きな墓地地帯を形成していたようです。ですから、安藤家の墓地から駒込基地にかけて、その昔は無造作に墓地が作られ点在していたとも思われます。でも、時代も戦国時代を経て平穏な豊臣、徳川の時代になると、治世は日本の隅々まで行き届くようになりました。そして、土地に対する所有権、利用権も確立されるようになり、安藤家の墓地となっている区域は地域に住居を構えている人達の共同墓地として確立されていったのだと思われます。
 しかし当初は、地域の墓地として仲良く共同利用がなされていたのだと思われますが、分家等の墓地の増加に伴って狭くなってくると、自分の家系の者に優先して墓地を与えたいとの思いから墓地の権利をめぐって家系間での勢力争いが生じてきて、墓地の使用について奉行所に訴訟がなされたとのことです。
 伝え聞いた話として訴訟の結果は、本当の内容は定かではありませんが、奉行所への気遣いで安藤家に傾き安藤家の勝訴となったとのことです。そこで、墓地を守るために苗字を安藤に変えた家もあるとのことです。
 そして、安藤家との裁判に負けた大塚家等の家系は敗訴となり、新しい墓地を入手せざるを得なくなりました。そこで埋葬も安易な今の所が検討され、駒込共同墓地を作ったのだそうです。この共同墓地は約4000㎡と言うほどに広い面積です。
 これは、安藤家との墓地争いという苦い経験から、後世において子孫の間で墓地争いが起こらぬように考えた判断によるもので、まさに先見の明のあった決断だったと思われます。
 しかしそれには、当然土地所有者もあったでしょうし、土地の取得問題から共同墓地を確保するという奉行所への申請、許可等など大変なことだったとの言い伝えも聞いています。ですから土地所有者も含め当時の関係者の後世に残した贈り物としての墓地の確保であり、そこに携わった多くの人々の努力の賜物だと思います。
 ですからその後、墓地の世話人は、殆んど固定されて運営されていたとのことですが、役員の持ち回りになった後も墓地の増加はほとんど尾根所有者の分家に留まっておりました。
 ところが、昭和57年(1982)に安藤宗吉氏、本田清作氏よりの墓地使用願いをきっかけにして、当時の役員であった飯島文八氏、飯島良作氏が中心となって古里尾根に根を下ろした人も受け入れる規則を定め、今に至っております。

私の50話 28 こどもの使い 大塚基氏 2010年

   28 こどもの使い
 昔は、電話や宅急便などありませんでしたので、物日などに作った御馳走やちょっとした贈り物、伝言などの親戚などへの使いは子供の役目でした。
 昭和30年代後半までの乗り物は、バイクが流行始めたものの自転車か歩きでした。ですから大人は、忙しい生活の中でちょっとした親戚などへの使いをしている余裕はありませんでした。それに、子供が使いならば使いを出した方も使い先においても、忙しい生活の中で接待することに気を使わなくても済むと言う、今から考えると生活の知恵もあったのだと思われます。
 初めての親戚などへ使いに行った時は、行く道をどう知ったのか覚えておりませんが、子供の頃から使いに行っていました。
 ですから、山にそった木の葉の積もった細い道を通って、一の入りのおばさんの家(昭和30年代までランプ生活)に行ってランプの光の中でお汁粉をご馳走になった時に暗くておわんの中が見えなかったので食べた思いがしなかったこと、大塚洋一さんの家に行った時に、まだ中学生ぐらいだった洋一さんの姉さんが手をついて挨拶してくれるので、小さな私はどのように挨拶したらよいかと戸惑ったこと、中尾のおばあさんのしっかりとした目での挨拶、などなど、いろいろなことの思いでがいっぱいあります。
 それに私は、大塚こんにゃく屋での運び手伝いもしていました。秋から春にかけて、隣のこんにゃく屋の光一おじさんが、注文があったので蒟蒻やところてんを運んでくれと時々頼みに来ました。行く場所は、ほとんど熊谷市(旧江南町)の大沼公園にあるお店か、県立農業教育センター前の大阪を熊谷方面に下った所にあった店でしたが、自転車の後ろに、こんにゃくやところてんを入れる特別製の箱を積んで、光一おじさんに頼まれるままに運びました。
 しかし、お店に行ったらお店の容器に箱から出して移し変えてくるのですが、間違って落としてしまったら大変です。蒟蒻はぐにゃぐにゃしていて壊れないので安心なのですが、ところてんを落としてしまったら、ばらばらになって商品にならないので大変です。
 ところてんは、持って行ったところてんの一丁を12個ぐらいにする道具で、お店の容器に入れてくるのですが、容器に入れるのをお店の人は良く見ています。どんなに丁寧にお店の容器に入れようと思ってもこばが少し欠けるので、見られながらの作業は非常に子供ながら嫌なものでした。
 そんな思いもしながらも、子供の頃、おじさんに頼まれるとお使いをしていました。でも、5つ違いの私の弟に聞くと、そんな想い出はないと言いますが、それは、長男と次男の家族の感覚の違いとともに、5年の間の大きな時代の変化の大きさかとも思います。

私の50話 27 我が家の母屋 大塚基氏 2010年

   27 我が家の母屋
 我が家は、明治時代の初め頃に貧乏して母屋まで売り払ってしまったとのことです。
 そしてその母屋は、飯島孝司さんの先祖様が、飯島武雄さんの家から分家するときに買い取って分家住宅にしたのだそうです。
 私の母方の曾祖母(そうそぼ)、いわゆる私の母の祖母は、飯島武雄さんの家に生まれ、小林英助さんのところに嫁に行きましたが、その祖祖母が16歳の時に、尾根台の坂を、私の家を解体した材料を積んだ荷車が引き上げられるのを見たことを、その孫であった私の母によく言っていたそうです。
 父が言うことには、飯島昇さんの家のような形の家であったけれども、大きな家すぎたので故意にしたとも考えられますが、大工さんが主柱を切り間違えてしまったので、全部の柱を同じように短くしたので、丈の低い家に成ってしまったのだとのことでした。そして、その柱はもったいないから縁の下にほうり込んで置いたらしいと何時も言っていました。
 何年か前の新年会の時に飯島孝司さんの話がほぼ一致するので、この話は、故意か間違いであったのかはいずれにしても、本当なんだなあと改めて思いました。
 そして、その時に我が家の門が飯島家に引き取られ、重輪寺の門を飯島家で寄進したのだそうです。
 私の母の言うことには、しんごやのおばさん(私の家の生まれで安藤貞良さんのところに養女に行き、そのあと大塚浩介さんの祖父の妻となった)が、昔の家は長屋門だったといったという話も聞いています。
 書き物でもあれば、今の重輪寺の門は、私の家の門をそのまま飯島家が引き取り寄進したのか、長屋門であったので改装して寄進したのか、新たに門を作って扉だけを使って寄進したのか判るのですが、無いことが本当に残念です。
 私の育った母屋は、昔の蔵や物置などを解体して作られたとのことで、柱は四方から板が張ってある柱が沢山あって、板をはがしたら臍穴いっぱいある柱でした。また、あっちこっちにほぞ穴がいっぱいある材料が使われていました。まさに我が家の栄枯盛衰に揉まれた材料で組み合わされて建てられた家だったのだと思われます。
 そして今は、昭和37年(1962)に建てかえられた母屋に住んでいます。大分ガタガタしてきたり、今風でもなくなってきましたが、「父ちゃんのためならえいらこっさ」の土突きによる基礎固めの最後の年代に建てられたものの、その頃の農家では珍しい玄関があり、小江川の電気屋叔父が腕を振るって配線した電灯が煌々と輝く近代的な家でした。

私の50話 26 氏神様と井戸さらい 大塚基氏 2010年

   26 氏神様と井戸さらい
 昭和27〜28年前後の、私がまだ小学校へ上がったか上がらなかったかの小さかった頃のこと、裏の氏神様の前に筵(むしろ)を敷いて高波宮司に祝詞を上げてもらったのを覚えています。
 家族の者が皆服装を整え、神妙な面持ちでむしろの上に並んですわり、何とも厳かな式典であったことを覚えています。
 昔の氏神様は、安藤光男さんの畑に生えている柿の木の根元にあったのだとの話は常々聞いていましたが、私の覚えている氏神様の式典が、そこから現在地に移すための行事であったとの事を、近年になって父より聞いて、そうであったのかと思いました。
 明治初頭の頃までは、我が家の母屋は裏の畑のところにあって、蔵は裏の井戸の裏の畑のところにあったとのことです。ですから氏神様が昔の母屋の配置からして、柿の木のあたりにあったことは当然のこととして頷けます。井戸の裏の畑には小石がいっぱいあって、その小石を、蔵のあとだからと言われながら子供の頃によく拾わされました。
 それに小さい頃、裏の井戸と、安藤貞良さんの畑の中にあるおくりの井戸の井戸底に溜まった土を浚(さら)って綺麗に掃除したのを覚えています。井戸の浚渫の目的は、隣りのこんにゃく屋で水を多く使うようになったためなのか、井戸の底にあまりにもへどろが溜まってしまったからなのか分りませんが、井戸浚いの人が来て浚ってくれたへどろを、家の者がバケツなどで井戸の底から引っ張りあげていました。その光景と、深い井戸だなあと言うことが、いまだに脳裏に焼きついて残っています。
 また、昔は水を水桶で井戸から汲んできて台所の水瓶に入れておいて、勝手(台所)仕事に使っていましたので、水桶での水汲みは日課でした。学校から帰ると祖父が私を待っていて、裏の井戸はこんにゃく屋でも使っていたので直ぐになくなるので、おくりの井戸まで行って水を汲み、天秤棒で水桶の前後を祖父と二人でよく担いで運びました。
 このおくりの井戸のことですが、子供の頃は安藤貞良さんの畑の中の井戸から水を汲むことは当たり前のこととして何の疑問も感じていませんでした。しかし、疑問を持つ年頃になった時に父に聞いたところ、我が家が貧乏した明治の初め頃に、安藤貞良さんの家では子供が出来ず、祖祖父の姉(大塚浩介さんの祖母)を家とり娘として養女にしたいと申し入れがあったそうです。(その後男の子が生れて大塚浩介さんの祖父に嫁に行きました。)
 この頃は、土地を縁故関係が無ければ自由に動かすことが出来ない時代で、安藤さんの家で井戸のある土地を欲しいと思っていたこともあり、他に持たしてやることも出来なかったので、養女に行く娘が可愛がってもらえるようにと付けてやったのだそうです。しかし、水の少ない地帯にとって井戸は死活問題、それで井戸の権利だけは保留したので利用できるのだとのことでした。そしてこの井戸には、何時の頃に掘ったのか分りませんが、飯島健司さんの先祖様が越後から出て来た時に、この井戸の水を使って、井戸の傍で酒作りを始めたのだとの言い伝えも今にあります。
 祖父との水汲みも、こんにゃく屋の水道管がおくりの井戸まで通じ、我が家にもガッチャンポンプが入るとほとんどなくなりましたが、今では懐かしい思い出です。
 いずれにしても、うらの畑に母屋があって、井戸があって、蔵があって、その周りが大きな杉などの裏山で囲まれていた時代、先祖様たちがどんな生活をして過ごしていたのか、末裔として興味が尽きません。
 そして、我が家400余年の歴史を見守ってきてくだされた我が家の氏神様に、これからも子孫繁栄なることを祈りたいと思います。

空から見た嵐山町 87(更新) 菅谷館跡・蝶の里公園 2009年・10年11月

紅葉の菅谷館跡
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オオムラサキの森、蝶の里公園、ホタルの里

2009年11月30日 内田泰永さん撮影

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2010年11月24日 内田泰永さん撮影

空から見た嵐山町 175(更新) 2010年11月

菅谷館跡、女性教育会館
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2010年11月24日 内田泰永さん撮影

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2010年3月12日 内田泰永さん撮影

A:女性教育会館、B:郷学研修所、C:埼玉県立嵐山史跡の博物館
D:オオムラサキの森活動センター、E:ホタルの里
F:嵐山町上水道第一水源、G:第二水源、H:第三水源
I:菅谷館跡南郭、J:本郭、K:二ノ郭、L:三ノ郭、M:西ノ郭、N:二瀬橋(都幾川)
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