GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2011年03月

古い写真 東松山駅−武蔵嵐山駅−武蔵嵐山定期バスが開通する(更新) 1961年9月

東松山駅−唐子−武蔵嵐山駅−武蔵嵐山定期バスが開通

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武蔵嵐山駅前

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武蔵嵐山駅前バス停車場

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私設武蔵嵐山バス停車場

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私設武蔵嵐山バス停車場

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私設武蔵嵐山バス停車場

   武蔵嵐山へ定期バス 観光道路も完成
 東武鉄道では、駅−嵐山、東松山−嵐山に定期バスを運行することになり、四月七日、東京陸運局に免許申請を出し、近く許可、開通の見込みである。
 運行時間割は、

駅発が、
 午前 八時三〇分
 〃  九時三〇分
 〃 一一時四〇分の三回
 午後 一時〇〇分
 〃  二時〇〇分
 〃  三時〇〇分
 〃  四時〇〇分の四回

嵐山発は、
 午前 七時三五分
 〃  八時四五分
 〃  九時四五分
   一一時〇〇分の四回
 午後 一時一五分
 〃  二時一五分
 〃  四時一五分の三回

料金は全線十円

 又、東松山−嵐山は午前が東松山七時、嵐山駅七時二五分、武蔵嵐山七時三五分。午後が武蔵嵐山四時三五分、駅五時〇三分、東松山五時三〇分の一回宛となっている。
 この料金は四〇円。
 尚、千手堂の登山口から、山の入口までの村道、及びここから六角堂上の駐車場に至る観光道路七百米は、巾員を四米−五米にひろげ、改良工事が完成した。この工事は、地元、千手堂、遠山地区の地主、区民が、全面的協力と奉仕をして、完成したものである。

     『菅谷村報道』110号 1960年(昭和35)5月15日

   嵐山駅定期バス
 昨年から話題に上っていた嵐山駅から、嵐山六角堂までのバス運行は、この程、運輸省の許可が出て、十月から開始出来る情勢になった。これについて東武では、村及び、一平荘の協力態勢如何により実施か否かに踏み切る腹をきめ、六月三十日、東上業務局の斉藤課長等が来村し、このことについて、村長と協議した。
 尚、一平荘の協力関係については、村長、議長が庄田氏と面接して協議を進めている。

     『菅谷村報道』124号 1961年(昭和36)7月20日

   東武バス開通
 かねて計画中の、武蔵嵐山駅、武蔵嵐山六角堂上までの東武定期バスは、九月十六日開通と決定、会社から役場に通知があった。
 停留所は、役場前、平沢、公会堂前の三ヶ所、運賃は全線十円の見込み。

     『菅谷村報道』125号 1961年(昭和36)8月15日

   東武バス開通祝
 別項のとおり、東松山−嵐山駅−武蔵嵐山間東武定期バスは、九月十六日から開通したが、地元、村、村観光協会、商工会ではこれを記念して、午前十時からその祝賀式を行った。折悪しく、十八、九台風の襲来で万国旗の飾りつけや、花火打上げ等の計画は不可能だったが、十時二十分先づ運転手、車掌さんに花束を送り、村長がテープを切って、新村建設以来最初のバスが動き出した。当日の参会者は主催者側、青木村長、小林助役、青木議長、市川副議長、福島商工会長、関根、内田副会長。来賓は、東武自動車局埼玉事務所長、東武の東上業務局長代理、嵐山駅長、関根茂良氏、一平荘川崎支配人等で一同は、嵐山まで便乗して、運行状況を視察、十一時から内田屋を会場とする祝賀の宴に臨んだ。

     『菅谷村報道』126号 1961年(昭和36)9月20日

   東武バス開通式
 嵐山駅と明覚駅間にバスが動いたのは昭和十二、三年頃(1937〜1938)、戦争中はこれがと絶えて以後十数年、槻川をはさむこの地区は、依然明治・大正時代の姿で映っていた。
 景勝地武蔵嵐山の開発も、今の処まだはかばかしくないが、村の要請が通って、九月十六日から、駅と嵐山の間に定期バスが開通した。村では県道の改修と伴って、これを南は玉川、北は古里まで延長する計画。バス開通は村民の眠りをさます黎明(れいめい)という訳か。写真はテープを切る青木村長。

     『菅谷村報道』127号 1961年(昭和36)11月30日

古い写真 給食風景 1965年

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   七小給食室完成
     小中学校同時に給食
 七郷小学校の給食室は一月いっぱいっで完成、二月三日に完工検査を終り、小学校、中学校とも十日から給食を開始した。落成式は二月二十日、小学校の礼法室で行われ、金子教育長の開式の辞、関根施設整備委員長の挨拶と経過報告、青木村長の挨拶、感謝状の贈呈が設計監督者林金吾氏と工事施工者中島賛吉氏にあり、林氏が受彰者を代表して挨拶、来賓として、出席した飯塚県保健課長補佐、瀬戸教育事務所長、山下議長の祝辞があり、小高小学校長の謝辞があって閉会した。
 この七小給食室は八月、二百八十六万円で関中組が落札し、九月四日に起工式をあげ、約四ヶ月で完成したもので、備品費は五十一万、附帯工事として、廊下六十二万、給水タンク二十万で、総計四百十九万円かかったことになる。このうち国からの補助金は施設費に四十一万四千七百円、設備費に九万六千二百円で計五十一万九百円であった。
 この給食室の完成により、村内小中学校の給食は完全に実施されることになったものであり、比企郡下では玉川、都幾川に次いで三番目の完全給食実施の村となったわけである。
     『菅谷村報道』151号 1964年(昭和39)3月10日

古い写真 小川警察署菅谷第二駐在所落成 1964年12月

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   第二駐在所落成
 鎌形の第二駐在所は長島一平氏の土地百坪の無料提供により、同氏宅前に米山木材店の請負で工事を進めていたが、十二月二十五日完成、一月から駐在することになった。

     『菅谷村報道』157号 1965年(昭和40)2月10日

※治安消防(『嵐山町勢要覧』1968年39頁)
  菅谷第1駐在所:大字菅谷、川島、志賀、平沢、遠山、千手堂
  菅谷第2駐在所:大字鎌形、大蔵、根岸、将軍沢
  七郷駐在所:大字古里、吉田、越畑、勝田、広野、杉山、太郎丸

※菅谷第1駐在所は2005年3月廃止され、「嵐山パトロールセンター」となっている。(全国読売防犯協力会事務局『ぼうはん日本』の「防犯活動の成功事例 嵐山町防犯ボランティア会(埼玉県嵐山町)」)

古い写真 明星食品嵐山工場が操業開始 1961年9月

1961年9月17日操業を開始した明星食品嵐山工場
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1963年(昭和38)頃撮影?

→「空から見た嵐山町226 明星食品嵐山工場 2010年6月

明星食品(HP)の「沿革

※ウィキペディア「明星食品」より引用
1949年 奥井清澄ら有志が準備会社「協和商会」を設立。
1950年3月28日 明星食品として創業。食糧庁委託の乾麺製造を開始。
1959年 即席麺の製造を開始。
1960年 「明星味付ラーメン」発売。
1961年 鎌倉・由比ヶ浜の海の家で「明星チャーシューメン」という名のカップ麺を試験販売する。インスタント袋麺が30円台だった当時、50円で売られた。アイスクリーム容器状の容量470cc程の紙製カップに麺と粉末スープと乾燥具が入っていたが、この試験販売で容器の耐油性に問題が有る事が判明。結局特許も実用新案権も取得せずに市販化を断念せざるを得なくなり、日清食品のカップヌードルに市販カップ麺の第一号商品の道を譲る事になる。
1962年 スープを粉末化して小袋包装する技術、いわゆる「スープ別添方式」を開発し「明星ラーメン」を商品化する。この技術を各社が模倣し、即席麺の標準型となり現在まで引き継がれている。それまでの即席麺は麺に味付けして油で揚げていたため日清食品のチキンラーメンと同じようなワンパターンの味しか出来なかったが、この技術により味のバリエーションを作ることが出来るようになり、ラーメンのみならず焼そば・和風麺が商品化され市場が急激に拡大した。
1963年 韓国の「三養食品」と合弁で韓国に即席麺の工場を開設(日本国外での即席麺工場開設の起源)
1966年 「明星チャルメラ」発売。同社を代表する基幹商品。
【中略】
2006年10月27日 当時、明星食品の筆頭株主(2006年3月末時点で23.1%保有)であったアメリカ合衆国の投資ファンドのスティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンド(以下、スティール)が、明星食品に対する TOB を実施することを発表した。10月31日には明星食品の経営陣がスティールへの TOB の応募見送りを株主に要請、いわゆる敵対的TOB となった。これ以降、水面下で明星に国内の即席めん業界数社が資本提携を持ちかけ、いわゆる“白馬の騎士(ホワイトナイト)”となろうとする動きが活発化。
2006年11月15日 即席めん業界トップの日清食品が明星食品に対する友好的TOBを発表。明星食品もこれに賛同し、資本提携する方向で事態は一応の落ち着きを見せた。
2006年11月27日 スティールのTOBが期限を迎えたが、応募がなく不成立。その後、スティールは、日清食品の明星食品に対するTOBを支持すると発表した。(スティールは日清のTOBに賛同してTOBに応募)
2006年12月15日 日清食品が明星へのTOBが成功したと発表。筆頭株主となる。
2006年12月22日 明星が法的に日清の連結子会社となる。
2007年3月31日 株式交換により日清の完全子会社となる。【引用おわり】

古い写真 鯉のぼり 1963年5月

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   鯉のぼり
 五月の風はキラキラ光っている。この風を見事にとらえたのがコイノボリだ。吹流しを、空にほとばしる五彩の滝と見立てて、大空の風のうねりを魚体に描かせ、声なき薫風の音楽を矢車に奏(かな)でさせる。水中のコイを大空に放って、鳥のように風のなかを泳がせる。われらの祖先は童心ゆたかな天才的空想家だった。(朝日新聞・天声人語)
     『菅谷村報道』143号 1963年(昭和38)5月20日

古い写真 菅谷中学校体育館が落成する 1965年4月

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   体育館の工事始まる
 本村においては、教育関係者は勿論、一般村民からも久しくその建設を要望されていた菅谷中学校体育館の建築がこの程本格的に決定した。村ではこれまで諮問機関として体育館建築委員会を設け、場所、様式、構造、規模、運営上使用上の便否等細部に至る精密な調査研究を重ねて来たが、ようやくその結論が得たので、東松山市井部建築士に設計を依頼。県の指導もあって、この程設計書が完成し、九月二十五日には建築業四社の競争入札が行なわれ、その結果、大宮市の松栄建設株式会社に落札した。
 又、九月二十九日から開かれた定例村議会において、その建築契約の承認及び建築費に関する予算も議定されたので、建築もいよいよ本格化したのである。
 この体育館は、学校生徒の体育だけではなく、成人式、敬老会等全村の公的な会合、儀式等の場所として、広く使用する講堂としての目的も兼ねているので、設計上その点も配慮してある。
 体育館の大きさは、建坪数三一九坪、構造は鉄骨、一部鉄筋コンクリート造。屋根は、長尺の亜鉛引鉄板瓦棒葺の切妻形、場所は、菅中西側の敷地である。
 尚、この請負金額は、二千五百七十万円である。

     『菅谷村報道』155号 1964年(昭和39)10月10日
   体育館上棟
 菅中体育館は四十二メートルの大トラスが七基上り、鋲打ちの段階になったので、一月十四日、現地で上棟式を行った。現在までの進捗状況は大体六〇パーセント程度であるが、基礎の設計変更により約三十日間工期は遅れている。従って体育館が完全に使用できるようになるのは、四月の新学期からではないかと見られるが、、建築委員会では三月の卒業式には何とか使用できるように強く要請している。

     『菅谷村報道』157号 1965年(昭和40)2月10日
   菅中体育館整備委員会
 村では体育館の完成と同時に内部施設の充実を期すべく体育館整備委員会を発足させた。
 会長は奥平武治氏(議長)、副会長は関根昭二(建築委員長)、米山永助(商工会長)の両氏、委員には市川紀元、島本圭三、木村平六、山下伝次郎、吉野松蔵、新藤武治、鯨井正作、宮本一郎、小林久、藤野定良、簾藤庄治、栗原弥之助、根岸寅次の各氏である。
 なお、この委員会は本年度三百五十万円を目標に会社、工場などの事業所、団体などからの寄附をいただくことにしているが、個人でも寄附を希望する人からは受け入れることになっている。

     『菅谷村報道』157号 1965年(昭和40)2月10日

   村長報告
 関根村長は三月十日に開かれた定例村議会において、諸報告を行ったが、その要旨は次の通り。【中略】

一、菅中体育館寄附金の申込は順調である。予定の95パーセントまでになっている。
一、体育館工事は順調に進捗しており、二五日までには完了の予定である。【後略】

     『菅谷村報道』158号 1965年(昭和40)4月10日
   謝辞 教育文化の振興に努力 菅中校長 権田正雄
 待望の体育館の落成祝賀式が、合併十周年という本村として極めて意義深い記念式典の好き日に、県知事殿始め多数の来賓並びに村民各位の御臨席のもとに、斯も盛大に挙行されますことは、菅谷村教育史上特筆すべき事蹟であって、本当におめでたい限りであります。
 この輝かしい式典に当り、皆様方の御前でお礼の言葉を申し述べます機会を得ましたことは、私の無上の光栄とするところであります。
 由来本村は教育村として常に他をリードし、他村の追随を許さなかったのでありますが、こと体育館のことに関しては、常に必要な事は痛感しておりましたが、色々の関係からその機熟さず不便を忍ばねばならない状況にあったのであります。
 処が昨年今頃から体育館建設の機運は、ほうはいとして燃え上って参りました。たまたま菅谷小中PTAが体育館建設の陳情運動を起すや、村議会といたしましてもあたかもこれと呼応するように、体育館建設を決議し、時を移さず世紀の事業はその緒に着いたのであります。
 以来村長殿始め村当局のご苦心、建設委員、内部施設整備委員各位の並々ならぬお骨折りとご配慮、井部設計士の斬新味豊かな設計と近代建築技術を最高度に活用しての松栄建設の堅実な施工と、更には教育委員会、村議会、PTA、在村各種工場等、村を挙げての陰に陽にのご支援ご協力がみごと実を結んだことに思いを致し、唯々有難く感謝と感激で一ぱいです。
 ご覧なさい、この外観を、調和の美しさを、この明るさと内部施設を、そしてその規模の広大さを、実に堂々たるもので、県下に誇り得るに充分のものがあると申しても決して過言ではないと信じます。
 こんな立派な体育館を着くっていただいた職員、生徒の感激もまた一入(ひとしお)のものがあろうかと思います。この上はこの体育館を本校教育の向上に役立てるのはもちろん、広く本村文化向上の面でも最高度に役立てると共に、管理の適正を期し、いやが上にも本村教育文化の振興するよう努力いたし、皆様方のご努力、ご苦労に報いたい所存であります。どうぞ今後層一層のご援助とごべんたつをこの上ともお願いいたします。
 いささか覚悟の一端を申し述べて感謝の詞といたします。
   昭和四十五年四月十五日

     『菅谷村報道』159号 1965年(昭和40)5月10日

古い写真 岩殿山で青年の野外研修会 1961年4月

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岩殿キャンプ場

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将軍沢の八反田あたりか?

   岩殿山で青年の野外研修会
 三十四年度に新設された移動キャンプ施設を利用して、青年の野外研修会が四月三■■日岩殿山で開かれる。
 実施計画は次の通り。
 午前八時役場に集合し八時三十分出発、笛吹峠(将軍沢地内)を経て岩殿山へ。
 十時三十分よりテント設営、次いで飯ごうすいさん。
 午後はレク、講義、座談会等が計画されており、午後五時三十分日程を終了、役場で解散の予定。
 指導者は青木村長、小林助役、市川紀元、関根茂章、関根昭二の各氏、研修青年三十名。
     『菅谷村報道』121号 1961年(昭和36)4月25日

古い写真 嵐山カントリー倶楽部クラブハウス竣功 1961年11月

竣功したクラブハウス
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   嵐山ゴルフ場竣功祝
 東洋随一と評判高い、嵐山カントリークラブ・ゴルフ場は、当初計画通りの、コース十八ホールを完成、更に、三月九日起工のクラブハウスも落成したので、この竣工祝が、十一月二十五日午前九時半から開催された。
 参列者は、地主の外、地元村長、村議、農委、東京報道関係者等二八〇名。
 天野社長の挨拶、請負業者白石組社長の挨拶、感謝状贈呈の後、祝宴に移り盛会裡に閉会となった。

     『菅谷村報道』128号 1961年(昭和36)11月30日

※嵐山カントリークラブは、1960年(昭和35)4月30日に設立された株式会社 嵐山カントリー倶楽部(嵐山町鎌形1146)が経営するゴルフ場。1962年(昭和37)10月21日開場した。クラブハウスは、旧帝国ホテルの設計者として有名な建築家Frank Lloyd Wrightに師事した天野太郎氏により設計された。(参照:『嵐山カントリークラブ』HPの「History」)

古い写真 菅谷村旧役場庁舎は公民館に 1961年4月

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   旧庁舎は公民館に
 村では旧庁舎の管理について、三月三日、文教委員会を開いて協議の結果、これを菅谷公民館として利用し、諸集会の会場に当てることになった。そして管理規定を作って、これを運営することとしたが、建物の一部は事務室としてこれを村の農業共済・森林組合・商工会等に貸し、又宿直室等は希望者に無料で貸すことにし、これに夜間の管理や、清掃等を依頼することにして、希望者を募った……【後略】

     『菅谷村報道』121号 1961年(昭和36)4月25日

   公民館使用規定
村教委では、村立公民館の使用規定を次のように定めた。使用団体はこのきまりに基いて、施設・設備を利用するように求めている。
一、公民館主催以外の行事でも、公共的性質のもの、社会教育上有意義のものは、私人の行事にも使用を許可する。
二、次のものは使用禁止
 営利を目的とするもの、及びこれを援助するもの、政党支持、選挙等に関する行事。特定宗教に関する行事。
三、使用期間は連続三日以上にならぬこと。
四、使用時間は、
 一月−三月 前九時〜後九時
 四月−九月 前七時〜後十時
 十月−十二月 前八時〜後九時
五、使用者は前日までに所定の様式により許可を求めること。
尚、教委事務局できけば分るようになっている。

     『菅谷村報道』122号 1961年(昭和36)5月20日

古い写真 酪農振興に乳牛貸付が始まる 2 1958年

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   貸付乳牛現地指導
 一月二十八日、村再酪農の井上獣医が主任となり、乳牛貸付審査会委員が加って、貸付乳牛の現地指導を行った。井上氏によれば、いづれも良好な成績で、生育しているという。尚、同日、委員会を開いて、貸付牛舎に標識をつけることなど協議した。

     『菅谷村報道』97号 1959年(昭和34)2月15日

※村有乳牛(『菅谷村村勢要覧』1964年41頁)
 村有乳牛貸付制度は、本村酪農業振興の一施策として、昭和33年(1958)埼玉県下初の制度として開始された。酪農精通者により貸付委員会を組織し、酪農経営を希望する農家に仔牛を無償で貸付け、育成した後、めす牛を分娩した際その仔牛を返却する。4年間にめす牛が生まれなかった場合には、現金でその金額を返すと云う制度である。貸付状況は下のとおり。

 昭和33年(1958) 12頭
 昭和34年(1959) 11頭
 昭和35年(1960) 3頭
 昭和36年(1961) 9頭
 昭和37年(1962) 10頭
 昭和38年(1963) 3頭

古い写真 酪農振興に乳牛貸付が始まる 1 1958年

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   酪農振興に乳牛を貸付ける
 村では酪農振興策の一つとして、三十三年度予算に三十万円の資金をあげて、乳牛の貸付制度をはじめることになった。
 その要領は次の通り。

一、貸付対象者
 酪農を始めようとする者、現に酪農を営むもの。
二、貸付期間
 貸付乳牛が雌仔牛を産んでこれを返すまで。
三、貸付申請
 毎年四月末日までに村長に申請書を出す。
四、貸付の変更
 期間中返納しようとするときに事由を具して申出る。
五、借受人は転貸出来ない。
六、飼養管理、返納に要する経費は借受人負担。
七、借受人は家畜共済に加入する。
八、雌仔牛の返納は生後四ヶ月以上。
九、乳牛の妊娠、分娩は村長に報告する。
一〇、貸付乳牛に事故があったときは村長に届ける
 貸付期間中に乳牛として使用出来なくなった場合は所定の金額で賠償する。
一一、貸付乳牛の払下げ
 納付義務を完了したときは無償。
 雌仔牛を産まないものは時価。
尚、この規定により借受申請書を提出したものは現在五一名となっている。

     『菅谷村報道』89号 1958年(昭和33)5月30日

論壇 喜ぶには早い 乳牛貸付制度
 前号で報道されたように、村の酪農振興のため、乳牛貸付制度が定められたが、五月十五日の締切りまでに、希望者五一名、押すな押すなの盛況で、先ず先ずお目出度い次第である。
 然し果してこの借受人の殺到が、すぐその儘、本村の酪農振興につながるかどうか、これで酪農の前途は明るいと、手放しで喜べるかどうか。
 遺憾ながら喜ぶにはまだ早い。
 乳牛を飼えばそれが酪農だと考へる人がいくら牛を飼っても酪農は振興しない。いままでの経営はそっくりその儘で、それに乳牛の飼養、つまり搾乳業という副業を一つとりつけても、これは酪農業にはならない。
 識者によれば、日本の酪農は十中の九分九厘までは名は酪農と呼ばれ乍実は酪農でも何でもない。ニセ酪農だと口を極めて警告している。本格的な酪農態勢を整えないニセ酪農の数がいくらふえても酪農は振興しない。
 これ等の人は飼料高と乳価の下落で採算が立たぬと忽ち離脱したり、第一、飼牛技術そのものに無知であるから、肝腎の牛をつぶしてしまったりして、振興どころか却って酪農を呪詛するようになる。
 現今酪農の危機を叫ぶ声は高い。(註:埼玉新聞六月七日・九日所載「危機に立つ埼玉の農業」参照)
 然しどんな危機に見舞はれても、不況に喘(あえ)いでも乳牛の飼養は止められない。この一筋という酪農家、熱意と共に止められない態勢、経営形態を確立した酪農家が増えなければ酪農振興にはならない。
 乳牛をとり入れたことで従来の経営が大きく変化して、従来の経営とあたし加った乳牛飼養という仕事と、この二つの間に切っても切れない関係が出来て、ここに初めて酪農という経営の形が生れる。飼料作物の栽培で生産が縮小され、搾乳、給餌(きゅうじ)の仕事で労働は年間に均分され、女子でも出来るようになると、女子の手間を生み出すために、台所や風呂場を改善して、いはゆる生活の合理化が必要になる。生産乳の一部を自家用として飲めば、米が浮いて金にかわる。まゆと麦と米がとれたときだけしか入って来なかった現金が、毎月乳代として規則的に入ってくる。経営が変って、生活が変って、いやでも考え方が変ってくる。ここに本当の酪農家が生れ出て、かうなると鬼が出ても蛇が出ても酪農は止められない態勢が出来る。
 村では本年度三十万円の予算を投じて酪農振興にのり出した。然し借りる側にも酪農に対する認識の不足がある。貸す側も、本当の酪農振興の配慮に不充分である。
 村が乳牛貸付のため三十万円の予算を投じたことは、本村が将来真の酪農村として立っていこう、酪農をもとにして新しい村作りをしようと決意したことを示すとすれば、漫然と乳牛を貸付けて、これで酪農振興とすましている訳にはいかない。
 ではどうするか。やることは沢山ある。然し差し当りこれだけはのがせない。先ず借受者に真の酪農の意味を充分に知らせること。
 充分に知れば、よしやろうという決意が生れ、決意が出来れば、如何にして乳牛を飼うか、その方法、飼養技術の知識を欲してくるだろうから、村はこれに対する指導機関を作って、彼等の要求にこたえる。これが何を措いてもせねばならぬ最初の仕事である。単なる増頭政策では酪農の振興にならない。貸付後の施策が重大である。手放しで喜んでいられないという理由はここにある。(貸付審査会委員小林博治)

     『菅谷村報道』90号 1958年(昭和33)6月30日

   乳牛貸付審査会で貸付適格者を審査
 既報の通り、乳牛貸付の制度が出来、申請者を審査するため、貸付審査委員会がおかれ、委員として次の諸氏を委嘱を受け、六月十日第一回の委員会が開かれた。
一、村議代表
 山下欽治 島田忠治 坂本幸三郎 米山永助
一、酪農協会役員
 奥平武治 鯨井正作 根岸卯平 小林英助
 杉田善作 権田三次
一、学識経験者
 山田巌 田村孝一 藤田利雄
一、役場
 小林博治

尚、会長は小林博治、副会長は山田巌の両氏が選ばれた。委員会は本年度の申込者五十名について適格者を検討、本年度の貸付頭数約十頭と見て、候補者十名を選定し、七月上旬にこれ等の人達と懇談して酪農業の実態を説明し、将来、永続して酪農をやる意志が有かどうかをただした上、適格者として村長に答申することになった。

     『菅谷村報道』90号 1958年(昭和33)6月30日

   乳牛貸付審査委員会 本年度貸付者を決定
 本年度の乳牛貸付対象者を決定する審査委員会は、七月二十四日の午後開催。前回の内定者十名を招いて先づ明治乳業の田村技師から、酪農経営の心構えと、乳牛の生理、とくに仔牛の飼養管理について解説した後、次の十名を正式に決定した。

1、中村武一(勝田) 2、金井東輔(大蔵) 3、内田与平(平沢) 4、長島茂(鎌形) 5、中村文雄(越畑) 6、福島義治(将軍沢) 7、小林辰見(吉田) 8、山下茂治(大蔵) 9、川口忠治(吉田) 10、山下彌一(大蔵)(番号は貸付の順序を示す)

尚、仔牛の買付は酪農協会に一任することとし、八月よりはじめて、十月末日mでに貸付を完了する予定とした。貸付後は、審査会と酪農協会が協力して飼養管理について指導、助言をすることとなった。

     『菅谷村報道』91号 1958年(昭和33)7月30日

   乳牛貸付 八月中に五頭
 乳牛貸付者の選定は、既報のように、七月の審査会で決定したので、村では、貸付事務を酪農協会側の審査委員に委託し、買付と貸付の仕事を開始した。
 委任をうけた委員は、村内及び近隣の酪農家中、仔牛売却希望者を調査し、八月九日、村内及び滑川、東松山市を巡廻して、この日三頭、更に二十日には小川町能増(のうます)に出かけて二頭買入れ、これを次のように貸付た。
 1貸付者、2生後日数、3体高、 4購入先は次の通り。

 1中村武一(勝田) 2一四四日 3二・九五尺 4横田初太郎(滑川)
 1金井東輔(大蔵) 2一二〇日 3二・九五尺 4木村朝光(菅谷)
 1内田与平(平沢) 2九三日 3三尺 4吉野次郎(鎌形)
 1長島茂(鎌形) 2一一五日 3三・二〇尺 4根岸(能増)
 1中村文雄(越畑) 2二〇三日 3三・四〇尺 4根岸(能増)

     『菅谷村報道』92号 1958年(昭和33)9月10日

   貸付乳牛買入
 乳牛貸付審査委員会では、九月二十九日に更に三頭買入れ、次のように貸付た。

 貸付者  生産者
 福島義治 小原(滑川)
 山下茂治 森田(滑川)
 小林辰見 森田(滑川)
     『菅谷村報道』93号 1958年(昭和33)10月1日
   乳牛買付
 乳牛貸付審査委員会では、十一月二十日、午後更に次の二頭を買付け、二十二日貸付を終った。
 貸付者     生産者
 吉田又一(遠山) 内田清(中爪)
 小沢猪助(根岸) 萩野音吉(上唐子)

 現在までの貸付状況は次のとおり。
▽八月貸付
 中村武一(勝田)
 金井東輔(大蔵)
 内田与平(平沢)
 長島茂(鎌形)
 中村文雄(越畑)
▽九月貸付
 福島義治(将軍沢)
 山下茂治(大蔵)
 小林辰見(吉田)
▽十一月
 吉田又一(遠山)
 小沢猪助(根岸)

     『菅谷村報道』93号 1958年(昭和33)10月1日

古い写真 菅谷小学校 1963年

菅谷村立菅谷小学校
アルバムA184
現・嵐山町立菅谷小学校の旧校舎

学校教育(『菅谷村村勢要覧』1964年30頁〜31頁より抜萃)

   学校所在地
菅谷小学校:大字菅谷577、藤野秀谷校長
七郷小学校:大字吉田1913、小高正文校長
鎌形小学校:大字鎌形2230の1、岩田俊雄校長
菅谷中学校:大字菅谷649、権田正雄校長
七郷中学校:大字吉田1951、安藤専一校長

 小・中学校合せた児童、生徒2012人が、70人の教職員によって教育を受けている。
 合併以来村では、教育施設の充実を主眼に力を注ぎ昭和30年(1955)、32年(1957)に菅中本校舎新築、31年(1956)、32年(1957)には七中本校舎新築、35年(1960)鎌小給食開始、35年(1960)菅小給食開始、38年(1963)七中技術家庭科教室建築、更に39年(1964)1月菅中給食開始、2月七小・中開始予定と着々とその成果を上げている。
 現在、児童、生徒数は1世帯1.1人で村人口の20.7パーセントに当り、教育費は村予算の約20パーセントに及んでいる。

   教育委員
委員長 関根茂章 大字千手堂 農業
同職務代理者 関根昭二 大字菅谷 商業
委員 藤野貞良 大字吉田 農業
委員 簾藤庄治 大字鎌形 農業
教育長 金子慶助 大字杉山

   学校別児童(生徒)数、職員、学級数
菅谷小学校 児童627人(男322、女305)、職員19人(男10、女9)、15学級
七郷小学校 児童476人(男235、女241)、職員15人(男9、女6)、12学級
鎌形小学校 児童136人(男65、女71)、職員8人(男5、女3)、6学級
菅谷中学校 生徒483人(男231、女252)、職員17人(男14、女3)、11学級
七郷中学校 生徒290人(男157、女133)、職員11人(男10、女1)、7学級

古い写真 菅谷館跡の忠魂祠の改修工事 1965年8月

忠魂祠の改修工事
76-1276
1965年(昭和40)8月撮影

※帝国在郷軍人会菅谷分会により1927年(昭和2)菅谷館跡に建てられた忠魂祠の改修工事が、戦後20年を経て初めて行われた。1965年(昭和40)9月12日、今村均元陸軍大将、小久保県議、滑川村長、その他来賓、遺族など多数が出席し、高坂奥神官を斎主として合祀祭が行われ、祠前で関根茂章菅谷村長が式辞を述べた。午後には菅谷中学校で仏式の慰霊祭が行われ、今村元大将の講演があった。(参照:『菅谷村報道』163号 1965年9月30日)

 

古い写真 役場事務機構の改正と職員の配置替 1963年4月

菅谷村役場税務課窓口
117-1545

   役場事務機構の改正と職員の配置替
 役場では新年度から事務機構を改め、会計室を廃止し、同時に職員の配置替を行い、事務の能率化を図ることとし、三月三十日之が異動を発表した。
 今回の配置替は合併後、埼大のもので、村長は今回の配置替について次の如く語った。
 人事異動については、一時的に或る程度の事務能率が低下することも覚悟の上で、次の方針のもとに今後の能率増進に大きな期待をかけて実施した。
一、庁内事務の刷新を図ること。
二、会計室を廃止し四課とすること。
三、教育委員会に社会教育主事補を新設すること。
四、昭和三十八年度左記主要事業の円滑実施を図ること。
 1 町制の準備事務
 2 農業構造改善事業の計画樹立
 3 簡易水道事業の実施
 4 土木事業の整理事務の早期完成
 5 社会教育の振興 社会教育主事の新設
 6 県議会議員及び村議会議員の選挙等
 更に人間関係をも考慮し、適材適所に配置替を実施した。
 尚、職員の新配置は次の通りである。
▽総務課 課長・中島立男
  庶務係長・中島立男
  企画係長・田畑俊夫 兼
  戸籍係長・山下清治
  課員・小林峯久、小沢百合子、斉藤圭子、中島運竝、吉野節子(新)、大門栄子、簾藤昭子(税務より)、富岡成恭
▽税務課 課長・権田徳寿(会計より)
  管理係長・権田徳寿
  賦課係長・名畑目栄
  徴税係長・権田徳寿
  課員・富岡秀(産建より)、大野浩、高崎行允、福島孝子、田島康子(新)、五十旗頭由子、馬場治子、大久保六男
▽厚生課 課長・新井一平(税務より)
  福祉係長・田島秀雄
  衛生係長・加藤重太郎
  国民健康保険係長・藤野博
  課員・浅見覚堂(税務より)、山下さい、奥平静枝(税務より)、篠崎満子
▽産業建設課 課長・内田房男
  管理係長・内田房男
  産業係長・小輪瀬恒男
  建設係長・森下隆夫
  課員・千野昇、小林茂夫、金井久子(厚生より)
▽会計係 小沢勝、小林たき子(新)
▽教育委員会 教育長・金子慶助
  書記・長島義正
  社会教育主事補・井上文雄
▽農業委員会
  農地主事・大野優弘
   主事補・安藤叡
▽選挙管理委員会
  書記・小林峯久 兼
▽監査委員事務局
  書記・田畑俊夫 兼
  同・斉藤圭子
▽公平委員会
  書記・助役 兼
▽議会事務局
  局長・中島立男 兼
  書記・田畑俊夫
  同・小林峯久 兼
     『菅谷村報道』141号 1963年(昭和38)4月20日

古い写真 青木村長の役場職員への訓辞 1963年4月

菅谷村役場出納窓口
117-1544

117-1542

117-1543

   昭和三十八年仕事始め
 役場では去る四月一日午前八時三十分より第一会議室に職員全員が参集し、村長から別項のような挨拶があり、一同心を新に新年度の事務を開始した。
   村長挨拶要旨
 昭和三十八年度の仕事は今日から始められる訳であるが、職員は特に次の事項を日常の心構として執務して欲しい。
一、職員は各自分掌事務を確認し、その責務を自覚して、的確且つ敏速に常に村民の立場に立って親切心で事務処理に当ること。
二、職員は互に助け合い人間関係をよりよくすることに努め、日々明朗な気持で執務すること。
三、先づ自己の机の周囲から始め、庁舎内外の整理整頓に努め、明るい健康的な職場環境の建設を推進すること。
◎人と生れて各自の職責を全うしないものは人としての価値もなく、最もはづかしいことである。
 私たちは選ばれて菅谷村の職員になったことは大きな誇りであり、光栄である。
 それ故私たちは各自その責任を自覚し、非難を受けないように注意しよう。
     『菅谷村報道』141号 1963年(昭和38)4月20日

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