GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2011年11月

空から見た滑川町 107 月輪・水房 2011年10月

滑川町月輪・水房(みずふさ)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:林化学工業滑川工場、B:高根沼、C:月輪西新井矢尻集会所、D:西新井沼(セド沼)(滑川町月輪)(つきのわ)
E:滑川町立月の輪小学校(滑川町月の輪6)
F:林化学工業第二工場、G:アサヒロジスティクス滑川営業所(滑川町月の輪7)
H:愛宕山、I:笠沼(滑川町羽尾)(はねお)
J:水房集会所、K:炭ガマ沼、L:細沼、M:上沼、N:下沼、O:阿和須神社、P:放光寺(天台宗)(滑川町水房)(みずふさ)
Q:馬喰沼(ばくろうぬま)、R:三ツ沼、S:御堂山(みどうやま)、T:淡洲神社、U:武蔵嵐山病院(嵐山町太郎丸)(たろうまる)
V:関越自動車道嵐山小川インターチェンジ、W:杉山城趾・嵐山町立玉ノ岡中学校、X:嵐山町役場(嵐山町杉山)(すぎやま)
Y:嵐山町立志賀小学校(嵐山町志賀)(しか)
Z:東武東上線武蔵嵐山駅(嵐山町菅谷)(すがや)
a:上市野川橋、b:矢崎橋、c:精進橋、d:川袋橋、e:新市野川橋(市野川)
f:粕川橋、g:入会橋、h:新粕川橋、i:荒井橋、j:太田坊橋(粕川)
k:水房橋、l:下郷橋、m:広野中郷橋(関越自動車道)

私の100話 72 屋根の葺き替え 大塚基氏 2011年

 昭和30年代後半頃からボチボチと麦わら屋根の家屋の建て替えが始まり、かわら屋根などに変わってゆきました。しかし昭和40年代頃までは何処の家も麦わら屋根で、我が古里集落も麦わら家屋が軒をならべておりました。
 私の家は、母屋がだいぶ傷んでしまったので昭和38年(1963)に建て替えて瓦葺にしました。しかし、それまでは母屋も蚕屋も牛小屋もみーんな麦わら屋根でした。
 ですから、どこの家でも麦を作り、麦わらを家の周りで天日干しして納屋などに保管しておきました。そして麦わらの量のことや手伝いの手間のことなどもあって、いっぺんに屋根の葺き替えができずに毎年少しずつ屋根の葺(ふ)き替えを行なっていました。
 私の家でも、田植えが終わり麦の脱穀が終わって梅雨が明けると、麦わらを我家の母屋と蚕屋の間を走る県道(旧県道)に、家から消防小屋(旧)までの100mぐらいの両脇に干して乾燥させて牛小屋の屋根裏などに保管しておきました。
 旧県道は乗り合いバスも走っている主要県道でしたが、まだまだ一般的には馬車、牛車が幅を利かす時代でした。自動車が走るのは稀で、道路は牛車の轍(わだち)で砂利を砕いて舗装道路のように踏み固めるので埃(ほこり)もたたなかったので、県道の両側には麦わらだけでなく安心して稲籾も麦も干せました。
 屋根の葺き替えは、屋根屋さんも農家の副業にやっていましたし、農家も忙しい時に来てもらっても困るので、農作業のなくなる冬場の仕事でした。
 そして、私の家に来てくれるのは、西古里の親戚のおじいさんで、来てくれる時期は決まって5月下旬から6月上旬ころの春蚕が忙しくなる頃でした。
 親達はその理由として、「頼まれた家に行くのに農家が忙しくなってからでは悪いから、濃い親戚が最後になるんだよ」と言っていました。その話を子供心にも納得していました。
 しかし、農作業が忙しくなってからの屋根屋さんの手伝いは、子供が頼りになります。
 屋根屋さんは、いつも親戚のおじいさんが親方で子分の屋根屋さんを1〜2名連れてやってきました。そして屋根屋さんが来ると、いつも私が頼りにされました。
 屋根屋さんは、初めに稲株を吊るすはんでい棒で足場を組んでから始めます。足場を組み終わると、屋根の古い麦わらを剥ぎ取る作業と合わせて麦わらを屋根の上に上げる手伝いがあります。そこに私の出番があり、一生懸命に手伝いました。
 そして、麦わらの取替えが始まると屋根裏に陣取ります。麦わらを屋根にしっかりと固定させるために、屋根裏の垂木棒に巻きつけ縛り付けるための作業の手伝いです。
 先のほうの穴に縄を差し込んだ槍ん棒を、屋根屋さんは屋根の表から屋根裏に差し込みます。屋根裏にいる私は、その槍ん棒に差し込まれている縄を抜き取り、ハイとかイイデスとかの縄を取り外した合図を屋根屋さんにおくります。すると屋根屋さんは、槍ん棒を抜き取って、次の屋根裏の垂木棒の間を目がけて槍ん棒を差し込んできます。その槍ん棒がちょうど良いところに来たときには、OKの合図を送って外してあった縄を槍ん棒の穴にいれてやります。
 駄目なときは上とか下とか右とか左とかと、屋根裏の者が、屋根裏の垂木棒に槍ん棒の縄がよく巻きつかるような場所に誘導してやらなくてはなりません。
 それが私の手伝った屋根裏の仕事でした。一生懸命に手伝って、屋根屋さんに褒められるのも嬉しいことでした。それに、屋根の上にもはんてい棒で横に平行して何本も足場が組まれます。その足場に上っていって外を眺めるのも、煙突に登ってみるのとは気分の違う気持ちの良いものでした。
 また、「屋根の古い麦わらを抜いていたら冬眠している蛇を掴んでしまった」との屋根屋さんの話もいまだに忘れられずにいます。

私の100話 71 蚕屋の煙突と屋根裏 大塚基氏 2011年

 我家の大きな麦わら屋根の蚕屋には6尺×4尺よりも大きいと思われる煙突がありました。
 その煙突にたどり着くには階段で2階に上り、2階からはしごで3階に上がって、3階から籠などを足場にして、屋根裏の枠組みの横棒によじ登り、その上の横棒によじ登りしながら行かなければなりませんでした。
 ちょうど煙突の下に棟木があって、そこに腰をかけて、煙突の扉を押し倒すように開くと、古里の耕地が小川町の西古里から江南町の塩の方まで一望に見渡すことができました。私が何時頃から蚕屋の煙突に行くようになったのかは思い出せませんが、屋根裏の枠組みの横棒を一つ一つクリヤーして上に登って行って、煙突にたどり着こうとする冒険心と体力が一致した小学3〜4年生頃からではないかと思っています。
 蚕屋の煙突まで登って棟木に腰掛けて外を見渡すと、新しい世界が其処にあるように思えました。そこでちょっと間が出来たときなどに登って、新しい世界を見渡すような面持ちで、屋根裏の煙突の下の棟木に腰掛けては外を眺めました。
 そこから宿題の絵を書いたこともありました。
 それに屋根裏には、ぼろぼろになった茣蓙に包まれた鞘も痛み刀身も錆付いている2本の日本刀が差し込んでありました。初めて刀を見たときはビックリ魂消ましたが、興味しんしんで、時々刀を鞘から抜いてみて刀の重さを確かめていました。
 大人になってから父から聞いた話では、2本の刀は先の大戦の敗戦処理として、米軍の刀狩が始った時に、「どんなに隠しても金属探知機で探し出し、違反したものは大変な罰を受ける」と言うデマが流言したので、見つからないように蚕屋の裏の樫の木の根元に何年も埋めておいたので錆びてしまったのだそうです。火縄銃もあったそうですが、それは命令に沿って供出してしまったのだとのことです。
 他にも屋根裏にさしてあった物があったような気がしますが、思い出せません。
 いずれにしても、蚕屋の屋根裏と煙突は、子供の頃の遊び場でした。

空から見た滑川町 106 月輪・月の輪 2011年10月

滑川町月輪・月の輪(つきのわ)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:嫁子稲荷、B:林化学工業滑川工場、C:高根沼、D:月輪西新井矢尻集会所、E:ボッシュオートモーティブシステムむさし工場、F:ユニオン精工、G:大沢運送新埼玉物流センター(滑川町月輪)
H:ケーヨーデイツー、I:ヤオコー、J:しまむら、K:つきのわ駅(東武東上線)(滑川町月の輪1)
L:熊野神社(滑川町月の輪2)
M:中沼(中丸沼)(滑川町月の輪3)
N:埼玉県立滑川総合高等学校(滑川町月の輪4)
O:六軒集会所(滑川町月の輪5)
P:滑川町立月の輪小学校、Q:月輪中丸集会所(滑川町月の輪6)
R:林化学工業第二工場、S:アサヒロジスティクス滑川営業所(滑川町月の輪7)
T:天沼、U:鬼鎮神社、V:サトーラシ嵐山工場、W:ユニ・スター、X:明星食品嵐山工場、Y:根岸電材埼玉工場(嵐山町川島)(かわしま)
Z:嵐山町立図書館、a:ヤオコー(嵐山町むさし台3)
b:武蔵嵐山駅(東武東上線)、c:嵐山町立菅谷小学校、d:嵐山町立菅谷中学校、e:大妻嵐山高等学校、f:国立女性教育会館(嵐山町菅谷)(すがや)
g:嵐山町総合運動公園(嵐山町鎌形)(かまがた)
h:島野精機(東松山市上唐子)(かみからこ)
i:月田橋、j:学校橋、k:二瀬橋(都幾川)

私の100話 70 相生の松 大塚基氏 2011年

 相生の松(あいおいのまつ)は、古里の上土橋の私の家の畑の側の安藤貞良さんの山にありました。夫婦松とも言われ、男松と女松が抱擁しているかのごとくに絡み合っている姿は、夫婦和合の象徴として素晴らしい景観を醸(かも)しだしていました。
 それは、古里の鎌倉稲荷神社への参拝に行きかう人々の目にもとまり、夫婦円満、子宝を願う人達が近郷近在だけでなく遠方からも御願いにやってきたそうです。
 私の子供の頃は、相生の松も老齢による衰弱により先端からの木枯れも進んでいて、往年の元気な姿の面影を失いつつありました。しかし、我家の畑の隣の山にあったこともあって、相生の松に登ったりして松の周りでよく遊びました。
 ですから、相生の松が昭和33年に300余年の一生を終えて切られたことも知っています。松が切られた時に、松が絡み合っていた辺りに洞があって、その中に蛇が巣食っていたとの話も聞きました。
 その後、山林の所有者であった安藤源蔵さん(貞良さんの父)が、夫婦松2世の誕生を夢見て男松と女松を組にして相生の松の切り株の周りに何箇所か植えたようですが、育たずに枯れてしまったようです。
 しかし相生の松の勇姿は、飯嶋四郎次さんの写生絵として残っています。
 いずれにしても、古里の相生の松の容姿は江戸時代から昭和の時代まで、長きにわたって夫婦和合の象徴として、人々の信仰の対象として存在していました。
 そして、その松がなくなった今、相生の松の下で遊べたことを幸せに思っております。

      飯島四郎次画「古里相生の松」

空から見た滑川町 105 月輪・月の輪 2011年10月

滑川町月輪・月の輪(つきのわ)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:月輪球場、B:法幢寺(浄土真宗本願寺派)、C:嫁子稲荷、D:フジミ工研滑川工場、E:前田建設工業東京機材センター、F:ボッシュオートモーティブシステムむさし工場、G:ユニオン精工、H:大沢運送新埼玉物流センター(滑川町月輪)
I:熊野神社(滑川町月の輪2)
J:つきのわ駅(東武東上線)、K:しまむら、L:ヤオコー、M:ケーヨーデイツー(滑川町月の輪1)
N:中沼(中丸沼)(滑川町月の輪3)
O:埼玉県立滑川総合高等学校(滑川町月の輪4)
P:大沢運送埼玉倉庫、Q:ジェービーエス東松山センター(東松山市新郷)(しんごう)
R:丸木美術館(東松山市下唐子)(しもからこ)
S:ユニオン精工・島野精機(東松山市上唐子)(かみからこ)
T:国立女性教育会館研修棟(嵐山町菅谷)(すがや)
U:嵐山町総合運動公園、V:嵐山カントリークラブ(嵐山町鎌形)(かまがた)
W:武藏松山カントリークラブ(東松山市神戸)(ごうど)
X:清澄ゴルフ倶楽部(東松山市神戸・岩殿)(いわどの)
Y:鳩山ニュータウン(鳩山町松ヶ岡・楓ケ丘・鳩ケ丘)(まつがおか・かえでがおか・はとがおか)
Z:大東文化大学東松山キャンパス(東松山市岩殿)(いわどの)
a:神戸大橋、b:鞍掛橋、c:月田橋、d:学校橋(都幾川)

私の100話 69 我が家のねずみ 大塚基氏 2011年

 私の家では未だに我が家の家ねずみと同居していて、いろいろな物を食べられたり齧(かじ)られたりすることもありますが、本体を見かけることはほとんどなくなりました。
 しかし昔は、ねずみと共生している実感がありました。暗くなり静かになると、屋根裏から家の梁(はり)づたいにそろそろと現れました。まだ家族が起きているのに右や左や上や下をキョロキョロと首を振るような仕草で何かないだろうかと探しはじめました。
 裸電球の下で宿題などやっている時などに、大神官様の棚に大きなねずみがぞろぞろと並んだこともありました。
 そして蚕屋(かいこや)にもねずみがいっぱいいました。季節ごとに収穫され山積みされた脱粒前の米麦、豆類などを失敬したり、厳重に保管されている米麦、豆類などをねずみ小僧に負けじと狙います。
 ですから、そのねずみを狙う青大将蛇も蚕屋の屋根裏には巣食っていました。時として蚕屋の屋根裏の梁をゆっくりと移動して居ることがありました。蚕家のひさしに積み上げられた燃料用の条桑束の上に赤みを帯びた大きな青大将がたぐろを巻いて動かないので、父が壁の隔てた家の中に、線香を立ててその臭いで追い立てたことも思い出にあります。なんとも、私の子供の頃は、人とねずみと蛇が共生している生活がありました。
 そして、そんな生活の中に、私の妹の武勇伝が生まれました。
 春になっていよいよ蚕の季節になるので、蚕の掃きたての準備のために蚕屋の中を片付けていたときのことです。私も一緒になって片付けていたのですが、父が土間にあった米俵等を片付けていたところが、行き場を失ったねずみが飛び出したのです。
 その時、土間で遊んでいた幼い妹がとっさに手を出して、無意識にねずみの首元と背中をしっかり5本の指で掴んでねずみを捕らえたのです。
 ねずみを掴んで呆然とたたずむ妹の手の中で、ねずみが足をバタバタとして首を振っていやいやをしていました。
 そして妹は、ねずみを取った手の指がねずみに食い込んだまま、驚きで手がぎこってしまってねずみを放すことが出来ずに、「とっちゃった」と言って今にも泣き出しそうな顔になっていました。
 そのあと、どうしたのか思い出せませんが、父が妹の手からねずみを外し取り上げて処分したのだろうと思います。
 しかし、ねずみの話になると妹のネズミ捕りのことが思い出され話題になります。

私の100話 68 花祭り(潅仏会) 大塚基氏 2011年

 お釈迦様の誕生日は陰暦で4月8日です。
 しかし、花祭りの頃は若葉あふれてつつじが咲きそろっていましたので新暦で1ヶ月遅れの5月8日だったと思います。
 小学校が半日で終わり、お寺に行くとお寺の本堂に誕生仏の像が飾られ、その像を入れた小屋の屋根はつつじの花できれいに飾られていました。
 そこで甘茶を誕生仏の像に頭から注いで手を合わせて供養しました。
 本堂の中の東側にちょっとした舞台があって、その上で学年ごとだったような気がしますが、みんなで学校で習った童謡を歌いました。
 誰がどのように主催したのか、また観客を呼びかけてくれたのか分りませんが、舞台の前にはおじいさん、おばあさん達がいっぱい座っていて拍手をしてくれました。
 そして、お寺の前の庭には、つつじがきれいに咲いていました。
 それはおぼろげながらの思い出ですが、昔は子供の頃から菩提寺と檀家の関係が強く結ばれていて、お寺に親しみを持っていました。
 今でもお釈迦様の誕生を祝う花祭りが毎年5月8日にお寺の本堂で行なわれております。しかし、お寺の関係者の努力にも関わらず、お寺の総代さんとお寺の近所の人が少しきただけの、その頃と比較すると何とも寂しい花祭りに思えました。

空から見た滑川町 104 月輪 2011年10月

滑川町月輪(つきのわ)
P1080960webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:ハルム保育園、B:羽尾平集会所(滑川町羽尾)
C:学校橋、D:平堰、E:上市野川橋(市野川)
F:滑川月輪簡易郵便局、G:月輪中央集会所、H:月輪神社、I:福正寺(天台宗)、J:勢至堂、K:嫁子稲荷、L:天神沼、M:市野川水循環センター、N:林化学工業滑川工場、O:高根沼、P:月輪西新井矢尻集会所、Q:西新井沼(セド沼)(滑川町月輪)
R:関越自動車道
S:つきのわ駅(東武東上線)
T:中沼(中丸沼)(滑川町月の輪3)
U:、ヤオコー、V:ケーヨーデイツー(滑川町月の輪1)
W:埼玉県立滑川総合高等学校(滑川町月の輪4)
X:滑川町立月の輪小学校(滑川町月の輪6)
Y:林化学工業第二工場、Z:アサヒロジスティクス滑川営業所(滑川町月の輪7)

私の100話 67 野良弁当 大塚基氏 2011年

 私の子供の頃の農作業の運搬用具は主に牛車でしたので、牛の歩みに合わせての野良通いは、近い長峰沢の畑でも片道20分ぐらいかかっていました。
 ですから、岩根沢と上土橋の畑の中に麦とサツマイモを交互に栽培する20〜30アールの畑がありましたが、其処の麦の刈り取り、サツマイモの掘りあげ、そして麦蒔きの時の時間のかかる仕事の時には必ず弁当を持参していきました。
 それは、仕事の時間を多く確保して仕事の能率をあげようとすることだけでなく、往復の時間を休憩時間に当てて体を休めようとの生活の知恵でもあったのだと思います。
 やましの時も山弁当をしていましたが、真冬の弁当と違って初夏の香りいっぱいの青空の下での家族総出の麦刈り、また寒さ深まりわびしさが漂い始めた晩秋の中でのサツマイモ掘り、麦まき時の野良弁当、母が早起きして作ってくれた弁当を山から取ってきた木の枝などを箸にして食べる野良弁当は、またまた格別な味がしました。
 なお、野良弁当を食べて作業して収穫した麦は、家で脱穀、精麦し俵詰にして、自家用分を残して出荷しました。食用のサツマイモは、納屋の中の保存用の竪穴に入れて保存しておき、その中から出しては食べました。
 そして、「おきなわ」と言うでんぷん精製用のサツマイモは俵に入れて農協に出荷しました。
 また農協を通じてだったような気がしますが、食用サツマイモとりんご「紅玉」一箱と交換しました。何年続いたのか分りませんが、子供にとってはとても楽しみのりんごでした。

空から見た滑川町 103 月輪 2011年10月

滑川町月輪(つきのわ)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:学校橋、B:羽平橋(市野川)
C:関越高速自動車道
D:東武東上線
E:つきのわ保育園、F:月輪球場、G:法幢寺(浄土真宗本願寺派)、H:武井稲荷、I:大塚稲荷、J:月輪簡易郵便局
K:月輪中央集会所
L:月輪神社
M:福正寺(天台宗)、N:勢至堂

私の100話 66 熊谷の花火 大塚基氏 2011年

 松と松の間から丸いものが出てきたと思うとパンとはねる。みんなが「今のはきれいだった」と「わあ」とかんせいをあげる。ちちばしのほうからも「わあ」というかんせいがこっちのほうまできこえる。
 これは、私が偶然に昭和34年の中学一年生の夏休みの作文集を見つけて、平成6年に編集発行した「ある夏休みのことです」の中の私の近所の女の子が書いた作文の一部分です。
 私の子供の頃は、車もなくテレビもなくお金もなくて娯楽の少ない時代、熊谷の花火大会と言うと大人も子供も楽しみの一つでした。ですから、花火大会の見える高台などにみんなで集まって花火大会を一緒に見て楽しみました。
 この作文の中のちちばし(上土橋)と言うのが、尾根台より400mばかり北東にある江南地区板井が望める私の家の畑沿いの農道のことで、熊谷の花火には毎年たくさんの部落の人がうちわを持って集まりました。
 その頃は、山の中もきれいに管理されておりましたので、子供たちは花火の観賞とともに山の中を駆け回ったりガシャガシャ取りをしたりもしました。きれいな花火が上がると「わいわい」しながらみんなで喜び合いました。
 私も、熊谷の花火の時には、家の前の耕地を隔てた高台ののうてん坂にも行ったことがありますが、もっぱら上土橋に行っての花火見学でした。
 上土橋の花火見学のところの畑に一度だけスイカを作りました。スイカが大きく生ったので、そろそろ食べごろだと思ってとりに行ったらなくなっていました。これがちょうど花火大会の頃と重なっていた時期だったので花火大会で見つかってしまって、戯れに盗まれたのかなとの思いが、未だに頭の中に残っています。
 ともあれこの頃は、自家用車なんて考えもつかない時代、行動範囲も限定されていて娯楽も少ない時代でしたから、熊谷の花火大会は大人も子供も楽しみだったのです。
 今から考えると、その頃は近所の交わりも深く、近所の人達はみんな根っこまで知り合う仲でしたので、何の気兼ねもなく付き合い助け合っていた時代だったのかと思われます。

私の100話 65 さつまいもほり 大塚基氏 2011年

 私の家でも、私の子供の頃にはさつま芋を畑で栽培して農協へ出荷していました。
 全部で面積は20〜30aぐらいだったと思いますが、岩根沢の畑の東側部分と、上土橋の東部分の一部に作っていました。
 そして、10月下旬の頃になると家族総出で畑に行ってさつまいも掘りをしました。
 品種は、定かではありませんが、食用は「農林?号」と「たいはく」で、でんぷん用のさつまいもは「おきなわ」と言ったような気がします。
 掘り取る前に、まずは芋蔓をまくって、(くるくると後方へつるを巻くように切り取る。)蔓のなくなったさつまいもの畝株をめがけて万能を振り下ろして掘ります。そして、掘り上げたさつまいもの土を払い落として、良いものと悪いもの(傷物や小さいもの)を分けて所々においておき、最後に集めて俵につめて、牛車に積んで所定の場所にもって行って出荷しました。
 食用のさつまいもも出荷したと思いますが、食用のさつまいもは、納屋の中に作った保存用の竪穴に入れて、穴の上に丸太棒を敷き、その上をむしろや藁などで蓋をしました。寒さに弱いさつまいもが悪くならないように保温したのです。
 さつまいもが冬場の主食という訳ではありませんが、仕事休みに食べたり、具の材料にしたり、乾燥芋にして保存したり、今のように何もかもの食べ物が豊富な時代と違って、楽しみの食べ物でした。
 また、食用のさつまいもは、農協の斡旋で東北地方のりんご農家に送られたのだと思いますが、毎年りんご(紅玉)一箱と交換して、お正月のかけがえのない楽しみの果物としました。
 さつま芋はりんご1箱とさつま芋なん俵と交換したのか知りません。
 いずれにしても、さつまいも掘りは、秋も深まり初霜の便りが聞えてくる10月中旬頃に行なわれ、さつまいもが収穫された畑は整地され麦まきが行なわれました。

私の100話 64 つばめ 大塚基氏 2011年

 私の子供の頃には、春になるとつばめが南の国からやってきていっぱいいました。
 麦刈りが始まると、つばめが麦畑の上にいっぱい集まり、麦畑から飛び上がって逃げる虫をめがけて競争で飛び掛ります。
 田植えの頃になり牛で代掻きを始めると、その回りにツバメがいっぱい飛んできます。そして、水田に巣食っていたオケラやクモなどの虫たちが、代掻きで水の中に放り出され水面でバチャバチャと泳いでいる虫たちを狙ってつばめが急降下してきます。キュ、キュ、キュ、キュと鳴きながら何羽ものツバメが代掻きの周りを回りながら、水田の水面でアップアップしている虫をめがけて急降下して無視を奪い合います。
 それはまさに、代掻きのお祭りのようにも思えました。そして五月雨の中で、牛の鼻どりをしながらその様子をいつも楽しんでいました。
 子育て中のつばめにとっては、麦畑も水田も絶好の餌場なのです。
 毎年同じつばめが来るのか、つばめの寿命は幾つなのか知りませんが、5月になると必ず蚕屋の一階の土間の梁のところに一対のつばめがやって来て巣を作りました。2〜3回子育てをして、秋には帰ってゆきました。
 ですから、つばめの来る頃からつばめの子育てが終わるまで、蚕屋の入り口を少し開いておいてやりました。
 土間の真中につばめの雛の糞をいっぱい落とされても、つばめは家族の一員でした。
 ギャーギャーと泣き叫ぶ雛に、親鳥が食事を運んできて、与える仕草を眺めるのも楽しいひとときでした。

空から見た滑川町 102 羽尾 2011年10月

滑川町羽尾(はねお)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:木村養鶏場、B:羽尾表集会所、C:千躰地蔵堂、D:羽尾一区集会所
E:市野川橋、F:両家橋、G:高橋、H:羽平橋(市野川)
I:第二ハルム保育園、J:森林公園駅(東武東上線)、K:森林公園変電所、L:滑川陸橋、M:東武鉄道森林公園検修区(滑川町羽尾)(はねお)
N:パークヒルズ森林(滑川町みなみ野2)
O:つきのわ保育園(滑川町月輪)(つきのわ)
P:滑川都団地、Q:松山開拓都会館、R:滑川町文化スポーツセンター(滑川町都)(みやこ)
S:埼玉成恵会病院、T:老人ホーム東松山ホーム、U:クリスタルゴルフガーデン東松山(東松山市石橋)(いしばし)
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