GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

2012年08月

出水と窮民救済

 1870年(明治3)年7月14日(新暦8月10日)から降り出した雨は激しく、市之川、野原川、滑川、都幾川、加須川等は水嵩(みずかさ)が増し、20日より23日に至って、遂に荒川が決壊、田畑は水冠することとなった。越畑・土塩・菅田・菅谷・広野五ヶ村役人惣代広野村名主竹次郎は韮山県役所へ「田方出穂前畑方者草育肝要之節一円水冠ニ合成 −(中略)− 可立直様子も無御座候」(藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」)と届出ている。志賀の1870年(明治3)の御用留にも「当年出水等ニ而亡所出来 −(中略)− 破損流出等致候分巨細取調可申出候」(志賀一区有文書121「明治三年御用留」)との被害調査を通達している。

 出水騒動は治水の悪かった時代には頻発したことだろうが、1870年(明治3)のこの地域の出水は広範にわたり、その被害は時期が出穂前で根こそぎ流されたため、一粒の米も収穫出来ず、立直ることの出来ない状況であったと思われる。その結果多くの困窮した農民が現出されることとなった。

 維新による混乱は農民生活を圧迫し、吉田村においては 1870年(明治3)身元の良い者が出穀して困窮者へ割渡した書付が韮山県役所に出されている。名主彦右衛門他三名が銭拾貫文づつ計四拾貫文出し、これを和三郎他四名に一人壱貫八百拾七文ツヽ、家族の人員に応じて与えた様子が「融通書上帳」(藤野治彦家文書157)に記録されている。

 この様な状況のところへ取水による被害が追打をかけることになった。彦右衛門はその対策として、10月に三百拾六貫八百文を五ヶ年にわたって積立、貧民救方手当とすることを役所に届出、「窮民救助遣候」と裁可になった。どの様に配分されたか不明だが、五ヶ年で金にして百四拾四両が積立てられ窮民救済に当てられた。韮山県は彦右衛門他三名に対し「村方去秋稀成凶耗ニ而貧民夫食(日々の食糧)にさし支窮迫見聞ニ忍ひす飢民救助いたす段奇特之事」として褒状を与えている。こうした例は古里村の名主常三郎に対しても出されているので、窮民救済は随所におこなわれ、それ程出水の被害も大きかったのだろう。

  『参考史料』 藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」

           志賀一区有文書121「明治三年御用留」

           藤野治彦家文書157「融通書上帳」

           藤野治彦家文書168

           中島立男家文書541

古里に火力飼育による「養蚕伝習所」が生まれる

 明治期に入って、生糸の輸出に占める比率が高まるとともに養蚕、製糸業が盛んになってゆきました。勢い養蚕業においては良質の繭の量産を目論見、各地でその研究・改良が進められました。
 古里では1887年(明治20)養蚕飼育改良のため、中村武八郎・中村清介等が発起人となり、青森県人松木定吉を教授として迎え、「古里蚕業伝習所」が設立されました。松木定吉は福島県梁川の田口平兵衛の塾生で、従来の自然育を改良して、火力による温暖育を鼓吹、指導しました。
 この考えに賛同した有志は十一ヶ村五十七名、三名の伝習生を加えて研鑽、実践成果を挙げていきました。翌年4月の二週間に比企・男衾・大里・榛沢・入間・山梨に及ぶ地域から八十一名の参観人が訪れ大そうな広がりを示しました。
 1894年(明治27)6月の「県報」第85号には蚕の発生から上蔟まで「日数二十四日間ニシテ絶佳至良ノ繭ヲ収メ隣里郷党ノ者温育ノ勝レタルヲ感覚セリ」と報告するまでになりました。この伝習所は1884年(明治17)児玉に創立された競進館とともにこの地域の養蚕業発展の一助となったもので、近代養蚕の先駆的役割を果たしたものと云うことが出来るでしょう。
  《資料》中村常男家文書703「養蚕火力飼絵入実験表」
        〃            708「埼玉比企郡古里共有養蚕組規約書」
        〃            710「養蚕改良飼育法伝習所建設有志嘆願書」
        〃            715「養蚕参観人名控帳」
        〃            586「日記費用留」
       明治27年(1894)6月3日付『県報』第85号

偉大なる村夫子 大澤晩斎先生

 嵐山町大蔵安養寺に大澤晩斎(ばんさい)の墓碑がある。その碑文によって彼の足跡を辿(たど)ってみよう。

 晩斎は1831年(天保2)9月9日に生まれた。通称国三郎、長じて八右衛門と称したが、明治維新後は国十郎と名乗った。晩斎・澤大器(たくたいき)はその号である。

 先ず「小にして学を好み寛山(かんざん)師に就いて経典詩書を学ぶ」とある。彼は11歳で寛山和尚【1814年(文化11)生まれ。菅谷東昌寺、後に広野広正寺住職。筆弟一千有余人】の門に入り、学兄関口東明(現東松山市神戸(ごうど)で私塾を開く、明治になり神戸村戸長を勤める)と共に切磋琢磨して経典・詩文・言語音韻に就いて本格的に学んだ。14歳の時書き写した『聚文韻畧(しゅうぶんいんりゃく)』『両韻辧疑(りょういんべんぎ)』等は音韻に関する辞書で、高等な学識なくしては読むことすら出来ない書冊であるが、彼はそれを現在の中学生位の年齢で筆写解読していた。正に想像を遙かに越した神童的存在であった。

 次いで「壮年にして幾多の児童を訓陶(くんとう)す」とある。則ち晩斎は1852年(嘉永5)、22歳の時、自宅に寺子屋を開設した。1872年(明治5)に閉塾されるまでの21年間に大蔵・鎌形・根岸・将軍沢の村々から88人の弟子が入学し、読み・書き・算盤(そろばん)の初学を学んだ。「学びて厭(いと)わず教えて倦(う)まず」を座右に教導の業に携わった功は注目に値するものと思う。彼は閉塾後も1878年(明治11)には大蔵学校の設立議員となり、1881年(明治13)には、郡立中学校設立議員に、また1882年(明治15)から1885年(明治18)までは比企郡第九学区(菅谷学校・鎌形学校・大蔵学校)の学務委員として学校の設立、運営に尽瘁(じんすい)した。

 続いて「翁また内に家産を整え外に村治に力(つと)む」と記(しる)されている。彼は『論語』学而(がくじ)篇の「行(おこ)ないて余力(よりょく)有(あ)らば、則(すなわ)ち以(もっ)て文(ぶん)を学(まな)べ」*、それは「書物を読むだけが学問ではない。学問とはまず正しい生活態度の実践から」という気構えだったから、学問に耽溺(たんでき)することはなかった。営々として一町歩余の田畑を耕作し、1890年(明治23)の内国(ないこく)勧業博覧会には「糯(もちごめ)」を出品し第三位に入賞した程の力田の人で、農耕に出精する篤農家(とくのうか)でもあった。

 また家人に対する教導も怠(おこた)らなかった。1872年(明治5)、焼失した家屋再建のため十五年の歳月を費やした時、その詳細を『居宅造営簿』に記し、「是則ち家業を勉強せしめん事を欲れは也」と諭(さと)している。又1900年(明治33)、77歳の喜寿の祝の席で、十ヶ条の家訓を書き与えている。その終りに「躬(みづ)から不直にして其子弟を矯(ため)んと欲とも得べからず」とある。親の背を見て子の育つことを喝破した金言である。

 彼はいづれの時にも家を斉(ととの)えるために意を用い、又村政にも力を尽くした。1854年(安政元)、22歳の若さで年番名主となって以来、明治に入っても大蔵村副戸長に任ぜられ、1877年(明治10)の地租改正においては地位等級模範村議員に選任され、近隣14ヶ町村を巡回指導しその査定に当たった。

 1914年(大正3)、「賤を愁(うれ)えず更に福を需(もと)めず。水を楽しみ山を楽しんで等倫(友人)を慕(した)う」と詠い、「心従の躬(からだ)となりぬ花と月」と心のおもむくままに行動しても世の法則からはずれることはなくなったという『論語』為政(いせい)篇にあるような心境に達し、84歳の長寿を全うして4月16日寂滅(じゃくめつ)した。思えば大澤晩斎は教育と行政の黎明(れいめい)期における偉大な指導者であり功労者であったというべきだろう。

 『博物誌調査報告』第7集には大澤晩斎の主著『餘力集(よりょくしゅう)』(大澤知助家文書)の解読・解題と「大澤晩斎略記」、「大蔵の寺子屋」が所載されている。詳細についてはそれらをご覧いただきたい。

*子曰(しいわく)、弟子入則孝(ていしいりてはすなわちこう)、出則悌(いでてはすなわちていたれ)。謹而信(つつしみてしん)、汎愛衆而親仁(ひろくしゅうをあいしてじんにちかづけ)。行有余力(おこないてよりょくあらば)、則以学文(すなわちもってぶんをまなべ)。(現代語訳:老先生の教え。青少年は家庭生活にあっては孝を行ない、社会生活にあっては目上の人に従え。常に行動を謹み、言行を一致させ、世人を愛することに努め、他者を愛するありかたに近づけ。それらを行なって、なおまだ余裕があるならば、古典を学ぶことだ。【加地伸行『論語全訳注』(講談社学術文庫1640、2004年)22頁】)

     博物誌だより95(嵐山町広報2002年6月号掲載)から作成

御用留からみた明治初年の民政

 志賀一区区有文書のなかに明治三年(1870)の「御用留(ごようどめ)」が残されている。「御用留」というのは江戸時代、村里において領主・幕府等からの触書(ふれがき)や回状を村役が書き留めて綴っておいた帳簿のことである。当時は大切な通知文書は必ず控えをとって保存した。其の習慣が明治になっても引き継がれてこの「御用留」になったのだろう。この「御用留」は志賀村名主水野僖一郎が明治三年八月より十月までに伝えられた回状・通達の控えを書き残したものである。
 1868年(慶應4)鳥羽伏見の戦に始まった戊辰戦争が1869年(明治2)五稜郭開城をもって終わり、江戸を東京と改めて遷都、ここに新政府が樹立した。新政府は天皇を中心に公家及び薩・長・土・肥等の下級武士によって構成された。彼等は錦御旗(にしきのみはた)を押し立てることで戦いに勝利したが、政権の座から永く遠ざかっていた為に実際の行政においては試行錯誤も多かった。1869年二官六省の制【神祇官・太政官(兵部・民部・大蔵・刑部・宮内・外務各省)】が置かれ、国民(農民層)へ対する行政は主として民部省から出された。別表の発信先をみると民部省或いは民生局・民政裁判所からの通達が多い。その他の発信人は下里村の関根玄友か鎌形村の簾藤万右衛門であり、回状の形をとっている。
回状と言うのは次の様なものであった。

            以回状啓上仕候然牛馬渡世之もの
            共御鑑札相渡相成拙者上御下
     相成候間為請取御出向可被成候尤御受
     書差出申候義付当人印形并村役人
     印形御持参可被成候 以上
       九月七日          簾藤万衛
      根岸村 千手堂村 志賀村 月ノわ村
                    右村々御名主中

上の文書は鎌形の簾藤万右衛門が出した回状で、牛馬売買人の鑑札がきているので当人と村役人の印鑑持参の上受け取りにお出向き下さい。という文面で、根岸・千手堂・志賀・月輪と順達するように村名主に宛てたものである。

 さて、この明治三年七月二十五日から十月八日までの御用留に控えられた三十二件ほどの用件(別紙参照)から当時の新政府が末端の農民に何を望んでいたのか探って行きたい。
 新政府が発足以来最も困っていた問題は経済であった。徳川幕府は八百万石という圧倒的な財力をもって天下を御(ぎょ)して来たが、新政府はほとんど無一文の出発で、除々に版籍が奉還され上知された土地を財源とするより他なかった。特に徳川家を七十万石で静岡に封じ込め、残りの所領(関東一円の旧旗本領)を中心の財源とした。従ってこの地方は恰好の徴税対象地域であった。
 先ず民部省に地理司をおいて各地に地誌の作成を命じた。これが村明細帳(村鑑)である「今般天朝より雛形の通りご布告之有り候」という文章で「村鑑帳」の雛形が伝えられた。明治三年八月二十三日附、天朝即ち天皇からの命令で九月五日までに雛形の通微細取調べ持参せよというのである。天皇のもつ権威をもって僅か十二日間で調査提出させようとした。「村鑑」の内容雛形をみよう。

 一、高何程 一、田何程 一、畑何程 一、石盛 一、何年度御検地
 一、水町(帳)損有無 一、小物成諸運上(うんじょう)有無
 一、家数何軒 一、人数何人 一、牛馬何疋 一、農間女稼
 一、林何ケ石 一、百姓林何ヶ処 一、秣場(まぐさば)何ヶ所
 一、漁猟場何ヶ所 一、御普請所 一、自普請所
 一、米津出(つだし)之場何ヶ所 一、東京迄里数 
 一、村方之内山里并豊窮之仕訳

以上の二十項目であるが、下線のものは田畑その他の収穫量或いは労働力に関係するもので、その他も経済にかかわる調査が目立つ内容である。新政府が如何に焦っていたかが偲ばれる。その他八月五日には畑からの収穫は金納(物で納めるのではなく金銭で納める)として納期をあらためて通達した。また、牛馬渡世の者(牛馬の売り買いを生業にする者・博労(ばくろう))には鑑札を渡し、かわりに冥加金(みょうがきん)(利益の一部を差し出すもの。一鼻綱(はなづな)に附き鑑札一枚冥加金三分)を徴集した。なお九月十五日には今年(午年)の年貢米を定免(過去五年から十年平均の年貢収納高をもって以降検見をおこなわず年貢を賦課すること)で承知し、例年の通り半紙に請書を書いて十八日までに差出すよう仰せ付けられた。その上十月八日、民生局から福田村・志賀村に対し「増米出精致し来る二十三日までに願書差出すべきもの也」と通達している。増米というのは定まっている年貢に上乗せして納める米である。また八月二十五日と九月十八日には出水・大風雨の災害の状況を雛形を示して調査させているが、新政府で破損箇所を修繕し救難しょうというのではない。何のための調査かというと「出水等にて亡所出来租税に相係り候分」即ち洪水で田畑が流され収穫できなくなり年貢(租税)に影響する分について巨細に取り調べよ、というのである。災害が徴税にどの程度影響するかをあらかじめ予測したかった。いづれにしても新政府の財政の苦悩を窺い知ることが出来る。
 次には宗教の問題である。江戸時代は仏教が中心となって民の精神界を支配し、行政にも深く関り、寺請制度等によって民の戸籍を管理し、又朱印地、除地等によって保護もされていた。しかし幕末、勤皇思想や倒幕、天皇親政の考えが成熟してくる背景に神道があった。日本は神の国であり、天皇はその末孫である、この国を統治するものは天皇である。という考え方である。新政府は天皇中心の新しい国を造っていく為には仏教を押えて神道を興隆させていかねばならなかった。1868年(明治元)年早くも「神仏分離令」をだした。これまで神宮寺のように神社と寺とが融合していたのを分離して、神社を独立させ引き立ててゆこうとした。以来廃仏毀釈(仏教と儒教を廃棄すること)の考えが鼓吹され、寺や聖堂がないがしろにされる傾向が生まれた。八月十八日に民政裁判所から「御支配所諸寺本末寺号始め元朱印地又は境内除地山林反別等明細取調差出候」よう通達があった。要するに寺が所有している年貢の免除地(朱印地・除地・山林)を調査し、これを削減して官有とし苦しい国の財政を潤し、同時に寺の勢力を殺ごうとした。次いで九月七日修験(役小角(えんのおずの)を祖と仰ぐ日本仏教の一派、山伏)に対しても調査している。「村々修験復餝神主に相成観音免とか地蔵免或いは虚空蔵免等と申仏名にて除地之有り候向は反別其の外取調」また「修験にて相続罷在候者所持の除地反別其の外巨細取調」差し出すこと。百姓でも仏号に付く除地反別、仏号の家作を所有する者の調査をさせた。これには但し書きがあって「神号に付く除地は書出しに及ばず候」とした。そうして民生局は廃寺を進めることとなる。九月二十九日「当管轄の村々無住無檀の寺院並びに修験復餝跡寺号の義更に廃寺申付候」ということで関係財産を取り調べ最寄三役へ十月十日限り差出すべしと通達した。十月四日志賀村の万福寺について下里村の名主玄友は志賀村の名主喜一郎の相談に応じ「村中一統御相談之上は勧農之御主意に基き是非共廃寺成られ候方然べく候」と、万福寺は廃寺となった。かくして廃仏毀釈はすすめられ神国日本が形成されていった。
 これに関連して日本は天皇の国であるという国体を明らかにしたかった。明治維新を創り出した新しい勢力は錦御旗(天皇家の家紋(菊花)を中央にあしらった錦織の旗)を押し立てることでそれを成就した。従って新政を推し進める上でも尊王思想を鼓吹したかった。太政官は「九月二十二日聖上御誕辰毎歳この日を以て天長節とし」と布告、末文に一昨年布告したが趣旨がよく徹底していないので周知させて奉祝せよ、というのである。またこれより先、七月太政官は「弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇右の通三帝御諡(おくりな)奉なされ候」と通達した。当時の農民もなんのことかと思っただろうが、これは皇統に関することで、この三人は争乱によって廃帝になったか、帝位につけなかった方々だが、これらに謚して万世一系の天皇家であることの証しとし権威づけようとしたのだろう。
 最後にもう一つ、七月、養蚕について民部省からの通達と諭告がみられる。諭告によれば「蚕卵紙(蚕が卵を産み付ける紙、種紙)の義は御国産第一の品にてその豊凶によりては御国内の損益のみならず貿易上にも差響き内外の人民商業の盛衰に拘る程のもの」で、当時としては農業についで養蚕は重要な産業であった。ところが近年製造が乱雑になり、私欲を謀り、衆人を欺く粗悪なものが多くなってきた。このように安くて粗悪な原産卵を使えば、翌年は減産に陥り養蚕衰微に至は必定である。そこで「諭告」を出したので養蚕に関るものには趣意をよく弁え説諭して、一時の利に拘泥せず精良の原産卵が国内に残り、将来の生産が倍殖するように世話すべし、と養蚕熟練者および村役人へ通達した。政府は九月五日には「蚕種製造規則同税則」を定め、養蚕製糸へ国が乗り出し、1872年(明治5)には国営の富岡製糸場の設置となっていった。
 この他にも陸軍の国章・旗章の布告、中学校の開校、下庁の役配等々の通達が控えられているが、大部分は新政府の財政に関連する調査・通達とみることができる。徳川幕府が大政を奉還して新しい天皇親政政府が出来上がっても財政は窮乏を告げ、それは農民層の負担に負うところとなった。
     ※志賀一区区有文書121 「明治三年御用留」 名主僖一郎
     ※岩波書店編『近代日本総合年表』

官許産婆第一号 嶋崎てつ

 江戸時代の女用書「女諸禮綾錦」に「とりあげばばをゑらびたのむ事。中華(もろこし)にも有よし。医書にも見えたり。能(よく)たんれんんの婆(ばば)を頼むべし」と教えている。出産は生死にかかわる女性の大事であったから、腕のよい隠婆(とりあげばば)が必要とされた。しかし田舎においてはそれも得られず、近くに住むお産について経験豊かな年配の女性を頼んで出産することが多かつた。

 明冶になっても依然として相互扶助的な考え方でお産が取り扱われて来ていた。だがこうしたことでは死産になったり、産後間も無く子が死んでしまうことも多く、一方では隠婆が堕胎や間引きに手を貸すこともあった。人的資源の確保の必要性を痛感した明治政府は、この改善を意図することとなつた。それには出産にあたつて助力する人の職分と資格を規定し、その倫理観を正してゆく必要があつた。

 1869年(明治2)には「産婆取扱規則」がだされ「産婆」という呼称も定着し、1874年(明治7)には衛生、医学、薬に関する規定を「医制」として発布した。その中で産婆の資格を厳しく定め、職業として認定してゆくこととなつた。しかし、その資格は「産科医の眼前にて難産二人平産十人取り扱いたるもの」に与えられる産科医の実験証明書の所持が条件であつた。産科の専門医はすくなかつたから、そんな経験をもつ者は少ないし、医者すらいない地方に於いては絶無という状況だったろう。

 そこで埼玉県は明治十年「医務条例」によって「当分学術ノ深浅ヲ論セス鑑札下渡候事」とした。要するに「医制」に規定された水準に及ばなくても免許を認めるということである。

 広野村第九番地の嶋崎助次郎の母てつはこれに応じ、戸長永嶋竹次郎名をもつて1877年(明治10)8月「鑑札御下附願」を県令白根多助宛提出した。てつは従前からの産婆であり、産科医の前ではなかつたにしろ十分な助産の経験をもち、地域の信頼を得ていたのだろう。また「医制」が産婆の年齢を四十歳以上と定めているので、てつも恐らくその年を越え円熟した人物であつたとおもわれる。

 1877年(明治10)9月には産婆営業の鑑札が下り、御請書が提出されている。てつの産婆業は順調であつたようで、1878年(明治11)1月25日附で明治十年後半年分の産婆営業税一円八十銭を上納している。

 嶋崎てつは産婆を生業とし、多くの人々の出産に立会い医術を施し、女性の地位の低迷する明治期にあつて、独立した女性の歩みをしめした人ということが出来る。

寺子屋から小学校へ

 1872年(明治5)「学制」が頒布(はんぷ)された。その序文ともいうべき「被仰出書」に「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんこと」と述べて、全国を8大学区、32中学区、210小学区に分け、学区毎に各々学校を一校置くこととした。単純に計算しても全国に小学校を5万3760校設置して、不学の人のなくなることを希(こいねが)った。しかし簡単に計算通り小学校が設置された訳ではない。1872年(明治5)埼玉県が文部省に出した伺書に「中学一所ヲ置ケバ二百十小学校ヲ置ク可キノ御規則ニ候処、二三ノ黌(こう・校)ヲ興ススラ百方手ヲ尽サスシテハ其功成リ難キ」と訴え、1874年(明治7)になっても県下全体で小学校277校を数えるに過ぎなかった。小学校が曲りなりにも開設されていったかげには、江戸時代以来、継続盛行して来た寺子屋・郷学に負うところが多かったと思う。本町に於てその足跡を探ってみると次の様なものがあったことが考えられる。

〔広野〕広正寺 寛山和尚 1813年(文化10)生 1867年(慶応3)遷化 54才 広正寺住職 号:東雲庵字山子
 寛山の功績を讃えて建てられた筆塚「大般若経書廃筆記」の裏面に350余名の筆弟の名前が刻まれている。又、大蔵の大沢晩斎の著「余力集」にも寛山が病に罹ったのを憂えて贈った七言律詩中に「学弟一千人」とあり、なお右綺(下福田村光福寺隠居)の「筆塚碑蔭記」にも「弟子蓋数百人其入室昇堂者以十算之」とある。数はともかくとして多数の弟子達が寛山によって教導されたことは間違いない。寛山の寺子屋というべきか。

〔吉田〕宗心寺 光外栄老 宗心寺住職 生没年不明 1859年(安政6)住職を寛補にゆずる
 1872年(明5)2月に記録された「筆弟人数改帳」に筆弟68人の名前が連記され、内15人の死亡が記録されている。思うに光外が宗心寺住職を退任した1859年(安政6)以降寺内において弟子の指導に当ったものであろう。

〔杉山〕八宮神社 杉山宝斎 1825年(文政8)生 1889年(明治21)没 65才 幼名:多聞 名:義順
 1883年(明治16)建碑の「杉山宝斎退筆塚」があるが、その裏面の「旌真報恩鑑」に180余名の名が刻まれている。門弟その有縁者であろう。宝斎の営む寺子屋が存在し、それが椙山学校(すぎやまがっこう)へと引継がれたことは想像に難くない。

〔鎌形〕鎌形八幡神社 斎藤周庭 1811年(文化8)生 1890年(明治23)没 80才
 1883年(明治16)建立の「周庭翁碑」によれば、近隣の子弟を集めて教導、その数200余人と伝えられている。鎌形学校の先駆ということが出来るだろう。

〔大蔵〕自宅 大沢国十郎 1831年(天保2)生 1914年(大正3)没 84才 号:沢大器・晩斎
 1885年(明治18)の彼の履歴書に「嘉永五年(1852)十二月ヨリ家庭ニ於テ近隣村ノ児童ヲ教育シ読書習字等授業ス凡生徒二百有余名明治五年(1872)ニ至リ疾病ニ遭テ辞ス」と記している。又「童蒙入学録」には1852年(嘉永5)から1872年(明治5)まで在籍の氏名が88名記録されている。自宅を教場とした寺子屋が営まれていたのであり、次の大蔵学校の前身となったと考えられる。

 かくの如く、僧侶・神官・修験或いは農民が寺院・神社或いは自宅を教場として、附近の筆弟達を教育して来た。しかし学制発布以後村々にあった私家塾(寺子屋)は「不都合ノ儀モ有之候間悉皆(しっかい)令廃止候事」となり、前記の私塾・寺子屋も存続できなくなった。さりとて急速に公立の小学校を建設することは当時の社会経済体力から云って到底出来得なかったろう。1876年(明治9)1月比企郡全体を調査し記録した『武蔵国郡村誌』によって、学校の設置状況を見ると、鎌形村に「公立小学校(村の西方にあり生徒男六十九人女十八人)」、菅谷村に「公立小学校(村の乾の方東昌寺を仮用ス)」、杉山村に「公立小学校(東西十九間南北十三間の中央にあり生徒男四十九人女十三人)」とあり他の村々に学校の存在は認められない。学制発布以来4年が経過している。この間この地域に学校はなかったのか、『七郷村誌』によれば、「明治六年八月一日(1873)創メテ杉山学校ヲ設立シ大字杉山九番地民家ヲ以テ校舎ニ充ツ」としている。又杉山伊保利が1876年(明治9)4月12日椙山小学校の小学下等を卒業した証書が残されているが、当時の学制は下等小学校は4年間で、伊保利はこの時11年8ヶ月の年となっているので入学は8才、そして1872年(明治5)と推定される。又比企郡内公立小学校敷地調査表によれば、杉山学校敷地は二反二畝十五歩が「明治七年(1874)中敷地ニ御払下相成」となっているので1873年(明治6)頃には学校が存在したことが窺える。杉山学校の創立存在を立証して来たが、同様に『嵐山町誌』にも記された如く、1873年(明治6)班溪寺に鎌形学校が、1874年(明治7)に東昌寺に菅谷学校が置かれたことも首肯出来るように思う。即ち経済的困窮の状況に置かれた村落においては寺院や私邸を仮用して学校が開かれ急場を凌(しの)いだのである。
 学制による小学校は下等小学4年(6才〜9才)、上等小学4年(10才〜13才)の就学で各等8級に分け、「此二等ハ男女共必ズ卒業スヘキモノトス」と定めた。1874年(明治7)県から文部省に伺出た教則を別表に示した。教科の内書取・問答・復読・暗誦・作文は除いて読本・算術・習字について8級に別け表記したが、1つの級が6ヶ月で卒業となるので程度も高く、進度も速い。国民皆学となるとかなり無理があったと思う。
 又学制は「生徒幾分ノ授業料ヲ納メサル可カラス」として受益者負担を定めたが、「貧困ノ民多クシテ一時ニ学資ヲ弁ズルコト難シ」という状況で、「授業料ヲ厳ニ督促スルトキハ、寒郷荒駅ノ民情自ラ就学ヲ嫌避スル思ナキ能ハス」と云う程であった。1892年(明治25)9月七郷村長が県へ提出した「授業料額伺」は別表の通りで貧富と学年に応じ九等に分けて定めている。
 古里の田嶋家が昇進学校へ納付した授業料の領収書が残されているが栄三郎の分は1890年(明治23)7・8・9月分いづれも25銭、栄吉の分は1891年(明治24)8・10・11月分12銭5厘、1893年(明治26)4・5月分は22銭5厘である。地租の納付額、学年に応じて授業料に等差があったことを実証している。
 授業料は1893年(明治26)廃止となった。しかし経済的問題と旧来の陋習から就学を拒む者が多かった。広野村の1874年〜1876年(明治7〜9)の就学・不就学書上を別表に示し、全国との比較もしてみたが、就学率は著しく低いものであった。
 1873年(明治6)12月には早くも「学問ハ人民日用ノ急務タルヲ以テ、其ノ子弟ヲ小学ニ就カシムルコトヲ告諭ス」として、学に就かなければ「文盲ノ野人トナリ生涯人タルノ道ヲ得ル能ハズ」とまで云って督学を行ったが、急足に就学率をあげることは出来なった。1879年(明治12)学務委員制度が設けられ、「学令児女ヲシテ故ナク学ニ就カシメザル父母及ヒ後見人アルトキハ之ヲ説諭シテ就学セシムベシ」と督学にあたらせた。戸長を通じての執拗なまでの就学督励と、1890年(明治23)の教育勅語の発布の頃を契機に、教育は国民の三大義務(他は兵役・納税)の一つという認識が生れ、1890年(明治23)全国統計で平均就学率がようやく50%を超えることとなる。初等教育の定着にはほぼ4分の1世紀を要したということであり、これから更に充実発展期にかけて幾多の問題を処理しなければならなかった。

【参考文献】
  宗心寺文書186「三休山光外栄老筆弟人数改帳」
  杉山貞夫家文書104「杉山伊保利卒業証書」
  大沢知助家文書661 履歴書 825・826「余力集」・104「童蒙入学録」
  田島定栄家文書36・37・38・83・84・92・93・97・98・107 授業料納付書
  広野区有文書49・55 就学不就学書上・167 学令人員取調手続
  埼玉県文書 比企郡内公立小学校敷地調査表・七郷尋常小学校授業料額伺
  埼玉県史料叢書2 埼玉県史料二 政治部 学校
  武蔵国郡村誌 比企郡 巻之六 巻之七
  私家版『七郷村誌』 安藤専一著
  『嵐山町誌』
  『嵐山町学校沿革誌』嵐山町教育委員会編
  『日本近代教育史大事典』(平凡社)
  大沢知助家文書「東雲庵先生遺稿」

庶民の楽しみ相撲(角力)

IMG_9459rweb 相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸の三大娯楽の一つであった。相撲の歴史は古い。吉田の小林武良家に伝わる嘉永元年(1848)に書かれた「角力軍配記」によれば、神代天照大神天の岩戸隠れの時、岩戸の前でたじから王の尊(天手力男命)他三柱の神が力争いをしたところ大神感応ましまされ岩戸を開かれた、と云う故事をもって「是則天下泰平国家安全五穀成就の祭り事の第一、神代角力の初まり是なるべし」としている。奈良平安の頃は「相撲の節会」といって毎年七月諸国から宮中に力士を集め天覧相撲がおこなわれていた。武家時代に入っても頼朝・信長・秀吉達も相撲を武術として奨励し、家来の力自慢を戦わせて楽しんでいた。江戸時代にはいると相撲人気は高くなり、庶民の間にも相撲興行が行われる様になった。幕府は質素を旨とする政策からこれ等の娯楽を牽制し、神社仏閣の建立や修復を名目に有料の勧進相撲の興行を許すこととなった。深川富岡八幡・芝神明社・浅草大護院・両国回向院等の境内で、晴天十日春秋二度興行が行われ、相撲取りは「一年を二十日で暮す良い男」といわれるほどの人気であった。こうした賑わいも三都(江戸・大坂・京都)のことで地方における相撲の記録は少ない。
 ただ、ここに菅谷の関根家に残された一通の手紙*1がある。江戸の綱錠鉄五郎(あみじょうてつごろう)から須ケ谷宿(今の嵐山町菅谷)の御所嶋源七(ごしょじまげんしち)に宛てたものである。御所嶋源七は菅谷東昌寺に軍配の彫られた墓石*2の人物で、享年は不明であるが天保2年(1831)死去した関根源七である。それにしても「御所嶋」の名に疑問が残る。御所嶋の名は江戸の相撲界に散見される。特に文政年間の大相撲星取表に文政6年(1823)から12年(1829)まで二段目として御所嶋の名が見える。この四股名(しこな)の人物が源七であればおもしろい。墓石の軍配とも符合する気がする。
 この手紙は何時出されたものか。文中に「正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様死去」とあり、赤羽根はいまの港区三田赤羽で、ここに久留米藩の江戸藩邸があり、相撲好きの殿様第八代有馬頼貴(よりたか)が文化九年(1812)にここで亡くなっている。即ち文化9年(1812)の手紙である。内容は殿様の死去によりお抱えの力士に暇が出された。(当時の角界は力士が大名家に抱えられ、場所に出て活躍し家名をあげた。)暇を出された力士は他の大名家に召抱えられたが、山脚(やまあし)と云う力士は抱え先もなく国元へ帰りたいが費用もなく困窮しているので、御所嶋のお世話になり華角力興行を催し、路銀を都合してもらいという依頼状である。尚、「大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候」とあり、大場所は回向院の春場所のことで四月に延期になった事を知らせて来ている。当時の江戸の相撲界のことも分り、思うに世話人御所嶋源七は山脚のために華角力(花相撲、本場所以外に地方で臨時に興行する相撲)興行を催したであろう。
 江戸から菅谷の関根源七へ手紙が届いた文化9年(1812)に源七はすでに御所嶋の四股名を持っており地元で相撲興行が可能な顔役であったこと、江戸で星取表に御所嶋の四股名が見られるのは手紙到着後の文政6年(1823)から12年(1829)であることを考えると、菅谷の御所嶋と江戸の御所嶋とはどうやら同一人物ではなさそうである。

 明治にはいっても、4年(1871)未だに「五人組帳」(村民の守るべき諸法則が箇条書され、村民全員の証印がなされている帳簿)を新政府に提出している。その前書に「狂言 操 相撲之類堅く仕間敷」と、若し仔細あれば訴え所へ申し出て御下知を得なさい、ということで庶民の楽しみ相撲は厳しく禁じられていた。ところが明治13年(1880)になると広野の森田角蔵が相撲興行願を戸長に提出した。それによると東京本所の相撲年寄玉垣額之助(15代玉垣額之助 嘉永3年生、明治38年没幕下まですすむが病気で廃業年寄となる、日清戦争では同志50人を率いて慰問興行を行う)外20名を雇い隣地(=森田千代吉の所有地)を借り受け、8月25・26日の両日雨天順延、大人2銭・小人1銭の木戸銭で催された。当日お客さんは二日間で大人607人、小人328人と大盛況であった(相撲興行が行われた場所は川島にある鬼鎮神社西裏であったと思われる)。ついで同年(1880)10月玉垣額之助が願人となって大関鶴ケ濱・菊ケ濱外26人の力士を引き連れ大蔵あたりで興行したのだろう、手書きながら立派な番付表*3が残されている。番付表によれば行司は木村藤次郎、呼出し末吉と名を連ね、なかには都幾石とか吉見山、荒船など地元出身と思われる四股名も見られ、本場所さながらの興行の内にも地方色もみられ、大いに観客を楽しませた事であろう。
 下って明治21年(1888)9月勝田村の利根川惣吉が勧進元となって、19日東京角力興行が行われ、翌年(1889)3月には田口百太が勧進元で若者達が世話人となり、能増村(のうます、旧・八和田村、現・小川町)で15・16日東京角力興行が行われる旨、木版刷りの広告が配られた。このようにして庶民の楽しみとしての相撲が定着していった。

*1:綱錠鉄五郎から御所嶋源七への手紙
 須ケ谷宿
   御所嶋源七
      人々御中
           従江戸
             綱錠鉄五郎 
以手紙致啓上候
向暑之砌(みぎり)弥(いよいよ)御安全珍重之御義ニ奉存候然者先達ハ御世話ニ預リ千万忝(かたじけなく)奉存候其砌御礼御状差上度候共種々取逃シ御座候間大キニ延引仕候
然処正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様御死去被遊候御抱角力衆中御暇ニ相成残江戸ケ崎楊羽大岬御抱ニ御座候
随而山脚事当時甚タ難儀仕在罷候国元へ登リ度候共物入多ク御座候故何分国元へ罷登候節貴公様御世話ニ而華角力興行仕度候間何分宜御世話被下候様奉頼上候
御屋敷様より御暇ニ相成候角力衆中者出羽安波西尾津軽様此御屋敷へ御抱ニ相成候且又大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候
其御地福田村善吉と申者東関方へ参り度由申候間私同道ニて先親方様罷(まかり)居候間乍憚(はばかりながら)御安心可被下候末筆乍半兵衛様紺屋様磯五郎様牧馬様文七様八五郎様尚又貴公様より皆々様へ宜敷御伝言可被下候
右御礼申上度如斯ニ御座候   以上
  三月廿二日
             綱錠鉄五郎
   御所嶋源七様
尚々御家内様へもよろしく御伝可被下候末筆乍六間【菅谷に隣接する現・滑川町六軒?】之大様友様へも宜敷く乍憚御伝言可被下候ひとへに奉頼上候以上

※この手紙を紹介した『埼玉新聞』の記事 1989年(平成1)9月28日
  江戸の草相撲知る古文書
   嵐山町 軍配の墓石きっかけに
        地方の相撲なまなましく
 軍配を彫り込んだ墓石の発見をきっかけに、江戸時代の草相撲を知る手掛かりとなる古文書がこのほど比企郡嵐山町で見つかり、東京に住む古書店員によって解読された。相撲に関する文献は江戸や大坂などのひのき舞台のものは多いが、それを支えた地方の状況を記した資料は貴重−と関係者は言っている。
 軍配を彫り込んだ墓石があったのは嵐山町の東昌寺。同町に住み、東松山演劇鑑賞会で活躍する柴崎富生さん(52)は戊辰(ぼしん)戦争当時新撰組、新徴組で活躍した甲源一刀流の剣士について調べていたが、今から七年前、歴史を知る重要な手掛かりとなる墓石の墓碑文を訪ね歩いていた時、軍配の墓石が目にとまった。墓の主は「通山良逢居士(俗名・関根源七)」(天保二年死去)。この墓石に興味を覚えた柴崎さんは、刻まれた碑文から子孫で同町に住む関根昌昭さん宅を訪ねたところ、一通の古文書を手渡されたという。
 古文書は縦十五センチ、長さ百四十センチほどの大きさで、九州久留米藩の相撲を取り仕切る綱錠鉄五郎から比企郡の草相撲の世話人御所嶋(関根)源七に送られたものだった。
 柴崎さんは、古文書の解読を東京杉並区に住む知り合いの古川三樹松さん(88)に依頼した。古川さんは「図説 庶民芸能―江戸の見世物」「江戸時代大相撲」の著書があり、当時の相撲に詳しい。明治四十三年の大逆事件で非業の死を遂げ、作家水上勉氏の著書「古川力作の生涯」に描かれた力作の末弟に当たる人。柴崎さんは古川さんに解読を依頼していたことをすっかり忘れていたが、古川さんは今年になって古文書を研究している東京大田区の古書店店員高橋徹さん(31)に「勉強の資料に」と預けた。
 高橋さんは資料を読み、歴史を研究するのが趣味だが、相撲にはまったくの門外漢。古文書の解釈そのものは古文書仲間に手伝ってもらいすぐ終わったが、時代背景や当時の比企郡や相撲の状況を分析するのに手間取った、という。研究しているうちに、内容のおもしろさに引き込まれた高橋さんは、受講している古文書講座の記念文集に加えることにし、八月柴崎さんに解読の成果を送ってきた。
 高橋さんの解説によると、この文書は文化九年(一八一二年)三月二十二日に綱錠鉄五郎から御所嶋源七にあてたもので、世話になった礼が述べられた後、同年一月に主君の久留米藩第八代藩主有馬頼貴が六十八歳で亡くなったのを機に、お抱え力士の多くが解雇されたり、他藩にスカウトされたことが書かれている。さらに山脚早助という力士にもヒマを取らせたいのだが、出身地まで帰るのに費用が掛かるため、ついては引退相撲を興行してもらえないか、と頼んでいるほか、比企郡出身の預かった力士は心配ないから世話人にもよろしく伝えてほしい―などとの内容になっている。
 高橋さんは「この文書を初めて読んだ時、無名力士の悲哀が行間からひしひしと伝わり、身につまされた」と語っている。
 この文書のことをすっかり忘れていた柴崎さんは、高橋さんの研究成果を目にし、思わぬ発見をしたという。柴崎家には、先祖に半兵衛という大男で草相撲の強い力士がいたとの言い伝えがあるが、この文書で鉄五郎に名指しされた世話人の一人に「半兵衛」の名が記されていた。どうやらこの半兵衛が言い伝えの半兵衛らしいということが分かった。
 柴崎さんは、「相撲と芝居の違いはあるものの、今も百八十年前の昔も興業は似たところがあり、身近なものに感じた」と感慨深げに語っていた。

*2:関根源七の墓石(嵐山町菅谷・東昌寺)
*3:1880年10月の番付表(大蔵・大沢知助家文書664)

   * 関根昌昭家文書 書簡
   * 小林武良家文書153 角力軍配記
   * 藤野治彦家文書174 五人組帳前書写
   * 広野区有文書216 相撲興行願
   * 大沢知助家文書664 相撲番付表
   * 田島栄定家文書16 舌代
   *   々    110 舌代
   * 他 日本人名大事典・大相撲星取表・フリー百科事典
       江戸の相撲・幕末期の角界・江戸時代館
   * 東昌寺 関根源七墓石

「三峰紀行草」(1808)にみる菅谷近傍

 「三峰紀行草」は旗本三枝(さえぐさ)家の家臣松岡本固が主君の代参として江戸より三峯神社へ旅をした折の旅日記(紀行文)である。
 先ず何故に松岡本固は主命を奉じて三峯神社に代参したのか。文化文政期頃「三峯講」というものが関東一円に盛行していた。三峯講というのは山犬信仰ともいわれ、「社記」によれば享保12年(1727)9月の夜、日光法印と云う方が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼の群がやってきて境内に満ちた。法印はこれを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬(狼)の神札を与えたところ霊験があった。この山犬が神の御眷属であり、その護符によって農作物を守り盗賊や災難から身を守ろうと「講」が組まれ、代表が護符を受けるために三峯神社詣が流行した。
 旗本三枝家でも紀行文に述べられている様に「封邸(知行屋敷)都(すべ)て災異のこと無らん為」或は「本支(本家・分家)の榮福臣庶(家来・百姓)の安全を祈り給ふ」の故をもって幣をささげ、護符を受ける事を毎年の業としていた。即ち御眷属信仰の「三峯講」の代参として本固が派遣されたのである。

 この旅は松岡本固(まつおかもとこ)が従者(官二)(かんじ)を伴って、文化5年(1808)3月16日に江戸を発って3月24日帰着した9日間の旅の記録である。先ずどの様な行程であったか追って見よう。

 16日 三枝邸(市ケ谷加賀町)―曹子ケ谷(雑司ケ谷)―池袋―金井ケ窪―前野―中窪―下板橋―錬馬(練馬)―河越(川越)方面―白子―野火止(平林寺)―膝折・大和田―大井(大和侯領内)−石原―川越(城)泊

 17日 川越(笠山遠望)−/入間川/―平塚―塚越―石井―島田の渡し<越辺川>―三戸―日彩原(にっさいかはら)(入西)・餅搗原―比企の岩殿観音(秩父第十千手観音)―郷土(ごうど)(神戸)―可楽(からく)(唐子)―菅谷(すがや)―小川 泊

 18日 小川―腰越―帯澤―小草(おぐさ)―坂本―三沢(官地)|粥煮嶺(かゆにとうげ)|―栃谷(とちや)(妙音寺・秩父第一番の観音寺)−大原野(三沢から此処まで阿部忍侯の封)−右第23・左第21番の観音寺―大宮(秩父)―第13自現寺  井上茂十郎の館 泊

 19日 大宮(武甲遠望)−禅刹金仙寺―影森―平沢―久奈(久那)−第27観音―上田野―/荒川/―三峯方面―小野原(牧野大和守の封)―日向(ひなた)(官地)ー酒店の前石表あり(三峯へ至る迄三里)/贄(にえ)川/―猪ノ鼻(阿部侯の村)ー大瀧(官地)ー強石(こわいし)―太田原(官地)ー禅刹円通寺―大和多(おおわた)―三峯山頂上―二王門(是より女人を禁ず)―院 泊

 20日 三峯・本院―/贄川/―日向村―上田野村第28馬頭観音―洞天(ほろあな)ー観音(第幾番なるかを失す)ー大宮 泊

 21日 大宮の館―第15番の寺―妙見の堂(木表に不許汚穢之者と)―第11番の寺(十聖人の像あり)ー三戸村・坂氷(さかこおり)−第10刹―柳生(阿部侯の封)―芦ガ窪(官地)―店(子の権現の程(みちのり)を問う 三里半と)―禅寺茂林寺―庄丸(官地)ー南川―│権現山│―華表(神社の門・鳥居)(扁に左文山・大鱗山とあり)ー中澤(官地)ー中藤(なかとう)(田安卿の封)―原市場―石倉(いしくら)―直(なお)竹(たけ)―店(青梅の程(みちのり)を問う 二里余と)―郡足(ぐんたり)―中里・黒澤―青梅、三枝氏の門 泊

 22日 <三枝家に逗留> 勝沼―青梅―青梅山金剛寺―/玉川/―桃花村―大井―三枝家 泊 

 23日 青梅―下長�隅(しもながぶち)―雨間(あまま)―吉兆(きっかけ)・宮ノ下―赤坂―狗目(いぬめ)―│高尾山遠望│―/和田川/―四家(よつや)―旧八王子邑―八町乃原―横山原<駅―駒来関―橋頭二幡建つ是より高尾山内―七曲―宮―久野来(くのぎ)―八王子千人坊(まち)―八王子駅  泊

 24日 八王子―横山―/和田川/―和田村―新田―日野―/玉川/―柴崎村・立川―藪―本村―府中(六所宮)−金井―井之頭(明静山大盛寺)―高�羔(だかいど)―邸

以上のようであった。

 この頃「三峯講」はこの地方でも伊勢講や大山講と並んで行われていたようで、御眷属(山犬)信仰の護符が残されている。恐らく前掲18日19日の小川から三峯往復の行程で参詣又は代参が行われていたと思われる。以下17日・18日の両日川越から大宮(秩父)までの旅の中で見聞したこと、人情、民の生活等について見てみょう。
 16日江戸を発って最初の宿は石原宿にとった。石原は川越の外れであるが、川越について次の様に語っている。国主<松平大和守>の組屋敷が七八町(770〜880m)つづき、城下町には家が千戸以上もあり、裕福な家は江戸に比べても多かつた。城は慶長の昔北條氏の要塞であったもので、名城と呼ばれているものであると。
 17日川越出発に当って遠くの山々を眺めると、一際目立つ山が見られたので、村人に聞くと、俗に笠山と言い余り高い山ではないが、いくつもの国から見ることの出来る山だと云うことだった。今、菅谷の地からも笠山が遠望できる。やがて島田の渡しを渡るのであるが、これは越辺川にあった渡し舟であろう。いまは立派は木橋が架けられ、「島田橋」と云う埼玉の名物橋となっているが、古来重要な交通路であったのだろう。渡しを越えると、海かとみちがえるほど広漠とした畑の道をすすんだ。土地の農婦がいうには、余り広々としているので、自分の畑を間違えてしまうほどだと。しかも日照りの強い日は一本の木もないので木陰もなく、弁当を食べたり休むところもなく苦しむと。筆者も農民の苦しみの中でも苦しいことだろうと同情している。
 やがて比企の岩殿に至る。「是所謂秩父第十千手観音即鎌倉の時の比企判官の護身仏とする者也」と記しているが、ここ岩殿山正法寺は坂東第十番の札所で「秩父」では無い。千手観音が比企判官能員の護身仏であったろう事は頷ける。門前左右に三四十戸ほどの村があり、石の階段を百段余り上って平地になり、又三四十段上って寺の庭となる。堂迂は扁平で賞賛すべきものもないが、ただお堂の後は十余丈(30m余)の切り立った嶮しい断崖で、草木も生えないような山を斬崩してお堂を建てたのであろう。里人が云うには近年八年ぐらいの事で山の上にはうつつの冥府(地獄)ありと。「浮屠(ふと)氏の誣(ぶ)なり見ることを欲せず」即ち僧侶が事実をいつわり人をあざむき、地獄があるなどと言っているので私は見たくないと、空海上人の御影だけを買って去った。近くの店に入ったが、雨激しき中人多く集まるのを不思議に思い、どうした事かを問えば「月の十八日は秩父霊場の開建の日故にこの日を開帳として村の老若僧を請じ回向す」と、「また芝居を買う、今日戯場なしといえどもその回向の為なり」と。岩殿観音は十八日が御開帳で、必ず回向(えこう)のために芝居がかかったと云う。
 岩殿観音をくだってまた山に入り、棘の道を進み郷土(ごうど)(神戸だろう)を過ぎて小流を渡ると可楽(からく)(唐子か)に出た。ここは松ノ木が多く、切り倒し適当な長さに約めて積み上げてあった。薪材だろう。ここは現東松山分だが一帯松樹多く薪として江戸に送り生業としていたと聞く。ここを過ぎて山、林、原、丘をこえて二里(8km)ばかりで菅谷に至る。その間左に常に川(都幾川だろう)が見え、その岸に茆屋(茅屋=かやぶきのあばら家)が点在し、必ず上流を背にした一人用の小屋であった。不思議に思って民家に寄り尋ねると、「これは楮(こうぞ)を晒す所だ」と乾瓢のようなその皮を示して「外側は麁紙(粗末な紙)にし、内側は上品(上等な紙)とする」と。そこでその製法を聞くと「日に晒し、流れにあらい、囲炉裏火にくさらかし、のちこれを搗く」と教えてくれた。紙漉はこの地方から小川にかけての伝統的な産業であった。一里ばかり歩くと小川宿に入った。小川宿は戸数八百戸もある当時としてはかなり大きな宿場である、「富める者多し」と記しているので、豊かな町と感じたのだろう。この地はもと素麺の生産において有名だったが、今は多くを製せず、かえって近村より出していると言っているが、現今この地方が素麺の産地というようなことは聞かない。その晩は小川に泊った。
 翌18日曇り空ながら意気盛んに出発した。右を山左を川の流れを見て進む。恐らく川は槻川であり、山は官ノ倉山であろう。まもなく道の左に碑を見付ける。「背に銘有村学村木春延なる者、洪水の為に道を修の事を自誌也」と、即ち田舎の学者である村木春延が洪水で失った村の道を修復したと云う事跡を自記したものであった。ただ文章は簡潔であるが称讃するようなものではなく、しかも末尾に地名を記さず、「当所」としたのは卑俗だと酷評しているが、「然れども避邑(かたいなか)此人ある亦懐(おもう)へし」村木春延を忘れてはならないと諭しているが、今はどうなっているのだろうか。
 道は槻川の本支流に沿い腰越―帯澤―小草―坂本と進んだが、途中何度も川を渡らねばならず、その度に話題をうんだ。この辺りに架かっていた橋は多く土橋(圯はし)で増水のためか落ちて、修理されていない状態だった。最初にめぐりあった川は「広さ七八丈瀰漫深浅をしらず」即ち川幅21mから24mでひろびろとみなぎり深いも浅いも分らなかった。困っていると子供たちが渡って行くのが見えて、これに従い渡ることが出来た。次にまた川に出逢い、土橋もまた落ちていた。前の川の上流だが流れが激しく、向う岸で洗濯をしている村の婦人を見つけ、渡しのことを聞いたが声届かず。逡巡して困っていると、向うから一人の裸の男が渡って来て私を背負って渡してくれた。「地獄に仏を拝する者是か」と大いに喜び、感謝した。また土橋の落ちた川に逢う、粗末な一軒の家に行きつき、川渡りの方法を問う。「従者(官二)が先ず試しに渡り次いで私を背負って渡ってはどうか」と。ある人が云うには「背負って渡るのはだめだ。一つ間違えば二人とも失敗する。相携えて渡るにしかず」と。「これは兵法にいう魚貫(ぎょかん)(魚を串に刺したように連ねるさま)して渡るの理である」と、大いに悟りこれに従って渡ることが出来た。当時旅人にとって橋の無い川は旅の大きな障害となったことだろうが、山間の人々の情や知恵に助けられた。坂本宿を過ぎ三沢に着いた。
 茅葺の貧しい一軒の茶店あり。腹が減ってきたのでここに入り飯を注文したが、みすぼらしい衣を着た百歳にもなろうかと思われる爺が出てきて、飯は無いという。飯の出来るあいだ爺が語って聞かせてくれた話。ここの山上り下り三里を粥煮嶺と云う。鎌倉のころ、ここに角王と云う鬼がいて人を取って食らうということがあった。庄司重忠(畠山)がこれを討伐しようと願いい出て、「右府も亦卒を発す」とあるが、右府は右大臣のことで織田信長を指すことが多い。源頼朝が右近衛大将だったのでそれと錯覚したのだろう。とにかく重忠は頼朝の応援をえてこの山に陣を布いたが、山に布陣する時は兵を損ねる、即ち病にかかること多いのに配慮して、粥を煮て糧としたという。粥煮嶺の名ここに起こる。竈の跡山の乾(北西の方角)にあり。角王は生け捕られ蔦(つた)で松の木につながれ、いよいよ切り殺される時に臨み、「俺はこんな仕打ちを受ける覚えはない、松と蔦の二物は誓ってこの山に生やさぬぞ」と云って死んだ。従ってこの山には松と蔦のあることは少ないと、たしかに松蔦はなかったと云う。粥煮嶺は今粥新田(がゆにだ)峠と呼ばれている所だろう。
 峠を下ると栃谷である。秩父第一番の観音の寺、妙音寺(四万部寺の別当寺)があった。寺域は狭かったが二王門があり堂宇も、そこに掲げられた篆書の扁額も世間並みであった。坂道の途中に車井戸の櫓を見る。上から見ればこれは普通の井戸だが、下から見れば流れを天に汲むものである。「何人の子貢(しこう)がこの機(からくり)を作(なす)」と、子貢は孔門の十哲といわれた賢者である。そんな賢い人が何人よってこの仕掛け作ったのだろう。水に乏しい山村で力を省くこの仕掛けは驚くべきことであると感嘆している。
 山を越え川を渡り百戸ばかりの集落大野原宿を過ぎて荒川の下流を渡ると二流の幡が立てられていた。右は秩父第23番音楽寺、左は第21番観音寺である。しばらくしてここを去り五六町(500〜600m)にして大宮に着いた。大宮は今日の秩父市であろう。戸数四百戸ばかりの宿場で裕福な家が多かったが、そのなかでいつも奉仕者の定宿となっている井上茂十郎という者の館に泊まった。
 以上菅谷近傍の様子を探ろうとしたが、結局川越から菅谷を通り秩父(大宮郷)に至る間、松岡本固が見聞したことを見てあるくことになってしまった。今から約二百年以前(文化5年1808)からこの地方の人々はこの道を歩き、み聞きしてきていたのだろう。そのように思ったのでやや冗漫になったが、昔を偲んでここに書き記した。

※埼玉県立浦和図書館蔵「三峯紀行草」松岡本固著。埼玉県立図書館デジタルライブラリー 

古里村の相給

 江戸時代の政治体制は大名領国制であったが、この地域の属する武蔵国一帯は川越・忍・岩槻の各藩を除けば、ほとんど幕府直轄の御料地か直轄地を採地として旗本に与えられた土地であった。御料地は代官支配であり、旗本に与えられた知行地は夫々各旗本の支配とされた。村が行政の単位の様に見られているが、それが確固たる形を形成したのは明治(廃藩置県)以降のことであり、それまでは一村といえどもその中に知行主が何人もあれば夫々の支配を受けた。このように一村を二人以上の旗本が分割して知行している状態を相給といった。
 この嵐山町旧十七カ村の支配体制は幕末期次の「表1」の様であった。旧菅谷地域は大部分川越藩松平家の所領であり、菅谷・勝田・太郎丸村は猪子家及び、杉山村は森川家と一家の支配であったが、越畑・吉田・広野村は夫々四旗本の支配を受け、これを四給の村といった。そして古里村はなんと御三卿清水家も含めれば十給となり、相給の村としては珍しく細分化された地域であった。

●表1

旧村名知行主・領主旧村名知行主・領主
菅谷猪子古里長井・市川・有賀・松崎・森本・横田・林・内藤・清水御料地
志賀松平(川越藩)
平沢吉田折井・山本・菅沼・松下
遠山越畑酒井・羽太・山高・黒田
千手堂勝田猪子
鎌形広野内藤・島田・木下・大久保
大蔵杉山森川
根岸太郎丸猪子
将軍沢

 古里の詳しい相給の様子及び変遷は「表2」に示した。徳川家関東御入国以来享保に至る間に段々と分与が繰り返され一七三二(享保十七)年の「村鑑」に示されたような相給が形成された。その後は松崎家の兄弟相続の時分与があった以外は幕末まで変化なく継承されていった。一八三九(天保十)年の「村鑑」に書き上げられたものをもって、御三卿御料地も含め十給の村と考えてよいと思うが、この様に一村で十給にもなる村は少ない

●表2

享保以前享保17年
(1732)
文化14年
(1807)
天保10年
(1839)
明治元年
(1868)
徳川家は関東御入国以来元和(1615)頃までに旗本に対し、知行地を与えていた。長井、市川、有賀、松崎各家及び酒井家は当初から知行地を貰い、その他は御料地として代官が支配していた長井五右衛門
10石
長井五右衛門長井龍太郎
10石
長井又五郎
10石
市川瀬兵衛
30石
市川瀬兵衛市川信八郎
30石
市川鉄太郎
30石
有賀長三郎
114石4斗9升
有賀繁之丞有賀滋之丞
114石4斗9升
有賀錦十郎
114石4斗9升
松崎権左衛門
17石5斗1升
松崎藤十郎松崎藤重郎
10石5斗1升
松崎藤十郎
17石5斗1升
1745年( 延享2),7石を弟伊織に分与松崎甲之進松崎甲之進
7石
正保の頃は酒井紀伊守の所領。1698年(元禄11)に、林半太郎、権田源太郎、森本惣兵衛に分与森本助重郎
11石7斗6升
森本寛次郎森本惣兵衛
11石7斗6升
森本潤七郎
17石1斗
横田斎宮
28石5合2勺
横田源太郎横田三四郎
28石5合7勺
横田裕次郎
28石5合7勺
林理左衛門
61石6斗6升4合3勺
林半太郎林内蔵頭
61石6斗6升4合3勺
林辰太郎
61石
1642〜1644年(正保)、御料地(天領)46石2斗6升2合を代官高室喜三郎の時、御三家清水家と内藤権右衛門に分与内藤権右衛門
20石2斗2升7合
内藤熊太郎内藤一学
20石2斗2升7合
内藤真人
20石2斗2升
清水御料地
26石3升5合
当分御預所
山田常右衛門(代官)
清水御料地
26石3升5合
新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌「村鑑之控」(中村常男家文書1)「 訴訟文書」(中村常男家文書242)「 村鑑」(中村常男家文書318)「旧旗下相知行調」(県史編纂室)

 十給中には長井家のように古里での知行高が少なくても(十石)、総石高は一七三〇石とかなり多く、随所(七郡)に知行地を持っている者、松崎家のように古里では兄弟合わせて十七石余だが、総石高は五〇〇石あり比企の伊戸村との二カ所に知行地を有する者、有賀家のように古里では最も多い一一四石余の採地をもつているが総石高は四〇〇石といった風の者もあり、古里の知行高のみでは推し量れないものもある。こうした旗本家の様子を「表3」にまとめて見た。旗本お屋敷地(江戸切絵図)とあわせて参考としてもらいたい。

●表3

旗本氏名総石高古里以外の知行地御屋敷所在地
長井又五郎
(竜太郎)
1730石男衾(武)・印旛・香取・海上(下)
・行方・鹿島(常)・望陀(上)
麹町裏二番町
市川鉄太郎
(信八郎)
439石男衾・入間・多摩(武)
・千葉・印旛・香取(下)
牛込門内土手四番町
有賀金十郎
(滋乃丞)
400石男衾・高麗(武)下谷三味線堀
松崎藤重郎
(藤十郎)
500石伊戸村(武・比企)本庄(所)徳右衛門町
森本惣兵衛
(潤七郎)
500石榛沢・秩父(武)・望陀(上)・愛甲(相)深川清住町
横田裕次郎
(三四郎)
1000石旛羅・緑野(武)

本庄(所)南割下
水きん堀

林辰太郎
(内蔵頭)
500石高谷村(武・比企)市谷鷹匠町
内藤真人
(熊太郎)
600石男衾・高麗・南埼玉(武)・豊田(下)四谷仲殿町

 この様に一村が十給にも及ぶ支配系列に置かれると何かと不便があったであろうと想像されるが、ただ問題によっては知行地の区分を越えて一村が結束して事に当たった記録もある。例えば年を追って厳しくなった助郷において「増助郷」や「差村」を通告された時は一村を挙げて連名連印をもって免除を歎願している。又、鉄砲の不法使用によって迷惑を蒙る農民たちは知行所村役人連署してその停止を訴願している。なお河岸・沼の修理、道路・橋の整備、犯罪への対応、水害・旱害への対処等知行所単位より村全体として取り掛からねばならない問題も多く、名主・組頭・百姓代等の村役人が連携して総代を定め対処していった

井上萬吉墓誌

(正面)

 寶光院萬瑞春晶居士

 慈泉院金厳妙光大姉


(左側面)

 居士通称萬吉字春昌號文秀斎井上氏考曰勝次郎居士其長子妣亦井上

 氏以弘化三年六月廿二日生埼玉県比企郡七郷村大字廣野居士夙入杉

 山義順之門研学数年後更遊東都入加藤瑞翁之門其業益進明治五年学

 制新布也創設学校六年七月選為熊谷県立暢発学校徴集生八年十月卒

 業同月為上横田学校教員九年十一月任上横田学校訓導兼校長十三年

 十月退職十一月為広野村戸長十六年十月丗一日任満而罷十一月一日

 更任廣野村戸長十七年七月以県令聯合町村為越畑村聯合同役場挙首

 座筆生廿二年町村制施行也改称越畑村聯合七ヶ村曰七郷村選村会議

 員列役場吏員廿八年三月退職尋又選為村会議員学区会議委員学務委員

 四十年四月為七郷村長及軍人分会長明年四月退職尋為七郷小学校新


(背面)

 築副委員長四十四年四月以有学校新築之労賜賞状及木盃大正二年四

 月為学務委員六年四月為村会議員七年九月選区長町村制施行以来常

 設委員区長毎満期選為衆議院議員県会議員区会議員村会議員選挙立

 会人数回又列衛生委員消防頭取農会役員地主会理事等為神社仏閣学

 校及道路慈善其他公共之事或竭心力或献資金日清日露戦役中應軍事

 公債及国庫債券献納陸海軍恤兵及義勇艦隊等金若干賜褒状木盃数回

 又為八宮神社氏子総代広正寺檀中総代及四十有余年之久就中為檀中

 総代功労甚多大本山管長□之賜両大本山御紋章附金襴之打敷八年四

 月区長其他因公職退邑民胥議催送別会且為記念贈唐金火鉢壱対感謝

 其多年居公職有功績居士天資温厚自幼好学嗜書画尤巧画又居俳諧宗


(右側面)

 匠之列殊愛玩古銭所蔵之書画古銭不下数百種居常勤倹大殖其産至於

 有土地十数町歩築倉庫及蚕室配八和田村大字伊勢根柴崎次郎右衛門

 二女金子金子先而歿生一女曰美津為嗣子云

      大正九年十二月      東京隠士 文苑石川兼六選 


 
   居士俗名萬吉 大正十四年十二月二日病罹歿行年八十歳

  大姉俗名金子 大正七年十一月十一日病歿行年七十有年  

                  故養嗣子 井上久五郎

                     長女 井上美津子

井上萬吉年譜

1846年 弘化3 6月22日 井上勝次郎・ちよ の長男として広野に生れる。通称萬吉、文秀斎・春昌・魚樵と号す
1857年 安政3(12歳) 杉山義順(寛斎)に就き習字・和漢の書を学ぶ(七年間)
1862年 文久2(17歳) 忍藩士塩野瑞翁に随い漢学を修業(五年間)
1866年 慶応2(21歳) 金子治三郎(栃木県邑楽郡上五箇村)に就き数学・諸相場     割より十乗法まで研究
1869年 明治2(24歳)7月 長女みつ誕生
1873年 明治6(28歳)10月 熊谷県本庄駅暢発学校徴集生徒となる 
1874年 明治7(29歳)2月 松山町荒川学校定員生に転校
              2月16日 舎長申付けられる
              6月 下等小学卒業
              6月 熊谷駅暢発学校に入る
1875年 明治8(30歳) 4月 上等小学三級卒業。病に因り退校
              10月 暢発学校下等小学一級卒業 
              10月 熊谷県より上横田学校教員申付けられる
1876年 明治9(31歳)12月 上横田学校一等授業生嘱任。兼校長
1878年 明治11(33歳)4月 上横田学校四級訓導補嘱任
1880年 明治13(35歳)10月 同校退職 
               11月 廣野村戸長となる
1881年 明治14(36歳)12月 比企郡第十学区学務委員に加えられる
1882年 明治15(37歳)10月 志賀村出火罹災者救助金3円差し出す
               11月 菅谷分署建築費として金1円差し出す
               12月 遠山村新道開鑿費として金30銭差し出す
               12月 職務勉励慰労金1円下賜
1883年 明治16(38歳)10月 戸長・学務委員任期満了
               11月 廣野村戸長・第十学区学務委員に再任される
1884年 明治17(39歳)1月 職務勉励慰労金1円50銭下賜
               7月 聯合町村制により越畑村聯合となり、同役場首席筆生
1887年 明治20(42歳)3月 衛生組合長に当選
              12月 職務勉励賞金1円下賜
1888年 明治21(43歳)6月 押切村持田久五郎を井上萬吉の養嗣子とする
              12月 比企・横見郡長より越畑村聯合筆生を命ぜられる
1889年 明治22(44歳)1月 職務勉励賞金75銭下賜
               1月 土地取調事務勉励賞金1円50銭下賜
               4月 村会議員選挙掛に選任される
               4月 町村制施行。越畑村聯合七ヶ村は七郷村と称し同村村      会議員に選ばれ、役場吏員となる
1892年 明治25(47歳)3月 菅谷村役場費として金1円50銭寄附す
               4月 議員任期満了。村会議員選挙掛に選任される  
1894年 明治27(49歳)9月 陸軍へ軍資金として2円献納
1895年 明治28(50歳)2月 書記辞職
               3月 村会議員・学区会議委員・学務委員に選任される
1896年 明治29(51歳)3月 永島弥助宅失火の際消防尽力につき30銭下賜
1897年 明治30(52歳)6月 明治二十七・八年戦役(日清戦争)の際軍資金として3    円献納に付表彰
1898年 明治31(53歳)1月 慈恵救済資金寄附金募集比企七郷村委員を嘱託される
               4月 七郷村役場新築費として4円10銭余寄附
1903年 明治36(58歳)2月 衆議院議員選挙七郷村投票所立会人に選任される
               4月 官幣中社金讃神社営繕費として金1円寄附
              11月 慈恵救済資金寄附金募集委員に対し慰労感謝状をうける
1904年 明治37(59歳)4月 村会議員に当選
1906年 明治39(61歳)11月 明治三十七・八年戦役(日露戦争)の際従軍者家族扶助のため金1円50銭寄附に付表彰
               12月 比企郡教育会基本金として3円寄附
1906年 明治40(62歳)5月 七郷村村長に就任。また軍人分会長となる
               7月 帝国義勇艦隊建設比企郡奨励委員を委嘱される
1907年 明治41(63歳)4月 村長を退職、七郷小学校新築副委員長に就任
1908年 明治42(64歳)6月 比企郡徴兵慰労義会解散に当たり村幹事としての尽力に対し木杯一組を記念品として贈呈される
1911年 明治44(66歳)4月 学校新築之労により賞状・木杯を賜る
              10月 曹洞宗大本山総持寺再建勧募委員補に推薦される
1913年 大正2(68歳)2月 比企郡地主会に入会
              4月 学務委員を命ぜられる
              9月 菅谷第一尋常高等小学校費として金66円寄附に付、木  杯下賜される
1914年 大正3(69歳)4月 比企郡教育会改元記念基本金として2円寄贈
1917年 大正6(72歳)4月 村会議員に当選
1918年 大正7(73歳)3月 七郷青年団顧問に推薦される
              9月 区長に選ばれる。町村制施行以来、常設委員・区長・衛生委員・消防頭取・農会役員・地主会理事を歴任
             11月 妻かね病歿。行年73歳
1919年 大正8(74歳)4月 公職を退任するに当たり送別会が催され、感謝の記念として唐金火鉢一対を贈られる
1920年 大正9(75歳)3月 埼玉県消防協会設立に際し金10円寄附
1921年 大正10(76歳)4月 村会議員に当選(大正14年4月まで在任)
1924年 大正14(80歳)12月2日 逝去。戒名 宝光院萬瑞春晶居士
             井上家文書・井上萬吉墓誌・嵐山町議会史より作成

井上萬吉小伝

 1846年(弘化3)井上萬吉(いのうえまんきち)は勝次郎・ちよの長男として広野に誕生した。字(あざな)【実名の他に付ける別名】は春昌、号して文秀斎・漁樵(ぎょしょう)【りょうしときこりのことで、名利を離れて民間に暮らすこと】と称した。

 1857年(安政3)十二歳で杉山義順(寛斎)の門に入七年間にわたって習字・和漢の書を学んだ。墓誌によれば「幼より学を好み」となっているが、就学の年齢は決して早くはなかった。ただ彼はこれに満足せず、その後更に忍藩【行田に居城を構えた一万石の譜代藩】の武士で儒学者であった塩野瑞翁に就いて1862年(文久2)から五年間漢学の修業に没頭。漢文には精通したことであろう、自ら「文秀斎」と号する程であった。更に1866年(慶応2)からは上州(栃木県)上五箇村の算学者金子治三郎について和算(相場割=比例・十乗法=掛算等)の研究を行っていた。この研究が何時まで続けられたか定かではないが、後年、1888年(明治21)この成果として「草算例題下」【榛沢郡於田舎楼 井上漁樵誌】を作成した。和算の例題六十問と解答を書き記したものである。この年は押切村【大里郡】から持田久五郎【无邪志同盟を創立啓蒙活動を行った教育者】が長女みつの聟となり、養嗣子に入った年である。教員であった久五郎へ先輩として、かつて学び研究した算術の問題を書き送ったのだろう。

 この間に伊勢根村【現小川町】の柴崎次右衛門の二女きんと結婚、長女みつが誕生している。一人前の男子として一家を形成したが、青年としての悩みも持っていた。彼の書き残した一文「筆のまゝに」は青年としての覚悟を記したものであるが、人と人との関り合いについて懊悩し、世の中の生き方にとまどい、彼なりの人生哲学を開陳している。曰、「もっともっと心に於て精神に於て其の観念に於て充分の独立独歩の気性を養って行かねばなるまい」又「吾等が自己を愛し、自己を信じ、自己の行為をつゝしむも無意味のことではない。こうした時に他人を愛し、他を尊重し他をいましむることが出来るのだ」云々と。独立独歩の気性即ち自律した人間となること、そして自己を確立することが、利己主義ではなく他を愛し尊重することの出来る人になると述べている。この考え方は恐らく彼の生涯にわたって貫かれた姿勢であったろう。墓誌には「居士天資温厚」と記されているが、こうした考えの人であったから人々は温厚篤実な人柄と評していたのであろう。

 1873年(明治6)10月、二十八歳の時暢発(ちょうはつ)学校の徴集生となった。時の政府は1872年(明治5)学制を発布して、小学校の創設をうながしたが、生徒を教える先生の不足を痛感し、各地に教員養成の伝習所を設けさせた。熊谷県が開設した教員伝習所が暢発学校で、本庄に設けられた。彼はここの徴集生【教員養成のため呼び集められた生徒】となったのである。次いで1874年(明治7)熊谷に設けられようとしていた荒川学校【教員養成所】が松山に誘致され2月15日開校されたので、彼はわずか四ヶ月で荒川学校へ定員生として転校することになった。ここで彼は直ちに2月16日舎長【学舎制の名残でその学校生徒の長という立場】を命ぜられている。年齢が二十九歳と高かったこと、かなりの学問修行が認められた為であろう。

 その後再び熊谷の暢発学校に移るが、1875年(明治8)10月、三十歳にして同校を卒業。同時に上横田学校【小川町】の教員を申し付けられた。翌1876年(明治9)には一等授業生【正規の訓導を補助する教員三等から一等まである】となり、1878年(明治11)には四級訓導補【訓導の下にあって五級から一級まである】に昇進したが1880年(明治13)10月同校を退職した。1879年(明治12)9月教育令が公布され、その中で公立小学校教員は師範学校卒業の者と定められた。又1880年7月には埼玉県令より「公立小学校教員委嘱規則」が制定され通知されたことによって、その資格取得が困難であることを察知し、五年間の教員生活に終止符を打ったのである。

 その年の11月、廣野村の戸長【町村におかれ行政事務を司るとともに町村を代表した】となり、三十五歳にして教員から行政官へと大きく転身することとなった。翌1881年(明治13)には第十学区の学務委員に加えられた。この制度は1879年(明治12)設置、学校事務を管理し、児童の就学、学校の設置、教員の任命等にかかわり、1880年(明治13)には戸長が兼務として加えられ、学校教育発展期の大切な役割を担っていた。以後彼は大正に至るまで幾度か再任され、地域初等教育の充実発展のために貢献した。教員として果たせなかった夢を学務委員として成し遂げたことになり、その意味では生涯教育者であったとも言えるだろう。

 1884年(明治17)聯合町村制【数ヶ町村が聯合して一つの行政体を形成する制度】により誕生した越畑村聯合役場の主席筆生【書記】となり、以来1895年(明治28)辞職するまで書記の仕事は続けられた。途中1889年(明治22)年町村制が施行され越畑村聯合の七ヶ村は七郷村となった。彼は同年四月選ばれて村会議員となった。以来議員を歴任すること以下の通りであった。

 1889年(明治22)4月〜1892年((明治25)4月
 1895年(明治28)3月〜1901年(明治34)3月

 1904年(明治37)4月〜1907年(明治40)年4月
 1917年(大正6)4月〜1921年(正10)4月

 1921年(大正10)4月〜1925年(大正14)4月。 

 何と三十五年間に五度、村会議員として村政に参画し、最後は死去する直前までその任にあったことになる。またこの間1907年(明治40)5月から翌年4月までの一年間は齢六十二歳にして村長の重責を担って、村政を指揮したのである。書記としての行政官から脱皮して政治家として戸長・村会議員・村長を歴任し、人生の大半を独立独歩、不屈の精神力をもって村政に尽くしたのである。その他 衛生組合委員・常設委員・衛生委員・区長・消防頭取・軍人分会長・七郷小学校新築副委員長・農会長・七郷青年団顧問等々数多公職に就き、いずれにおいても誠実に其の職務を全うされた。また、地域社会の人々の精神的拠りどころとなっていた寺社に対しても、廣野村八宮神社氏子総代或いは広正寺中総代として貢献された。思うに常人のとうてい出来得る業とは云い難いところである。

 また寄附・献金・募金活動に積極的に協力してきた。日清・日露戦争期には陸軍への献金・軍事公債・国庫債券の購入、従軍者家族の扶助、菅谷・七郷を問わず小学校・役場の建設・運営費の援助、消防・警察への資金協力、慈恵救済資金募集委員として、帝国義勇艦隊建設奨励委員として、或いは大本山総持寺再建勧募委員としての資金協力と募金活動、枚挙に暇の無いほどである。これに対して数々の慰労・感謝状が送られている。学校建設に対して木杯、徴兵慰労義会から村幹事としての協力に対して木杯、慈恵救済資金募集の功により埼玉県知事から感謝状、大本山総持寺より勧募の功により御紋章入り金襴打敷(きんらんうちしき)【仏壇・仏具の敷物】そして1920年(大正9)すべての公務を去るに当たって村民から感謝の意をこめて、記念品唐金火鉢一対が送られた。彼が国家社会に尽瘁した功を称えるにしてはやや寂しい気もする。現在であれば地方自治の功により相等の勲章が授与されてしかるべきであったろう。ただ、名利をきらって漁樵と号したことを思えば彼の意に添ったことであったのかとも思う。

 晩年の井上萬吉翁(前列向かって右)

 1925年(大正14)12月2日、彼は遂にその生涯を終えた。行年八十歳。生涯、温厚篤実な性格をもって、誠心誠意、各方面わたり多大の業績を残し、社会へ莫太の貢献をなした功績はまことに偉大であったといわざるを得ない。

鬼神宮(鬼鎮神社)をめぐる帰属争い

   放光寺と広野村の争い 1824年(文政7)

 1824年(文政7)年8月、水房村の天台宗放光寺(智信)は法善寺応賢を代理人として広野村四給村々の名主源七・重兵衛・弥藤治・半蔵を相手取り、寺社奉行所へ鬼神宮をめぐる不法出入を訴え出た。
 訴状によれば、放光寺は川嶋の鬼神宮を始め太郎丸の粟巣大明神・観音堂、勝田の天神、中尾の雷神、菅谷の山王権現等々の法楽・神事・祭祀を執行してきた。また延享(1744〜1747)・安永(1772〜1780)年中には東叡山寛永寺に上書記録されている。即ち放光寺は鬼神宮の別当(神宮寺を支配する検校に次ぐ僧籍)を自認していた。然るに広野村村民は、鬼神宮には別当は無く、村持ちであると触れ回り、新規に錠前を取り付け、1823年(文政6)には無断で社地内の立ち木を伐木し新規に神楽殿(二間×三間×一丈五尺)を造営する等、不法勝手気侭の行為があり、このままに捨て置いては外の放光寺支配の社地へも影響が出て、寺務を続けることができないと判断、是非不法を行わず以前の通り支配の出来るようにと裁定を願い出た。
 これに対し評定所は広野村名主らに対9月13日返答書(弁明書)を差し出し、評定所へ出頭対決するように命じた。そこで広野村四給村々の名主組頭は連署して長文の返答書を提出した。
 それに依れば、宝暦年中(1751〜1763)領主嶋田藤十郎へ「名細帳(村明細帳)」を差し出し「鬼神宮村持之書上有之」として記録されており、又その頃川嶋住居の者で上屋(うわや)[霊屋(みたまや)]を再建、1841年(文政4)関東地誌御改御廻村の節にも「川嶋氏子村持」と報告されている。祭祀祈願の折は放光寺に鳥目二百文を出して頼んだことはあるが、「別当」等と云うことではない。三ヵ年前から参詣人が増加してきたので、放光寺は別当にしてくれと再三申し出はあったが承知していない。賽銭・宮鍵は当方組頭にて保管、賽銭は宮の修復に使い、不足の分は氏子が割合出金してきた。「宮鍵を出せ」との水房村の名主・組頭・百姓代共の不法強要もあったが断固として断った。すると今度は本寺東叡山より検僧(葬式の時髪剃をする僧、異状があれば葬儀を差し止めることが出来た)をたのんで、放光寺別当の件を無理強いに及んだこともあった。放光寺は別当となって私欲を貪り、困窮の私共を見掠め、難題不法を申しかけていると弁明、「是迄之通り出来村内平和に相治り候様」と返答書を差し出した。
 これを受けて、評定所は「放光寺の鬼神宮別当の由申立は全く心得違に付相手方へ相詫以来鬼神宮は氏子広野村村持と相心得申べし」と議定通知した。これによって、放光寺は別当との申し分立たざるを恐れ入り相手方に詫び、鬼神宮は広野村氏子村持ちであることを承知し、鍵は先規の通り川嶋氏子が保管、社木入用の時は給々地頭へ届け出て伐木することで、済口証文に両者署名捺印、一件は落着したのである。


   泉学院と広野村の争い 1851年(嘉永4)

 ところが、それから27年後の1851年(嘉永4)8月廣野村総鎮守八宮明神別当の泉学院栄長は廣野村内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代を相手取り鬼神宮に関する不法出入を寺社奉行所へ訴え出た。
 訴状によれば、鬼神宮は八宮明神の末社であり、これまで武運長久・氏子安穏の祈願を行ってきた。1640年(寛永17)には川嶋の者達の頼みにより飛地川嶋の秣野に仮産宮として遷座したが、引続き法楽祈願も行い護摩札・札守を差し出してきた。元禄年中(1688〜1703)、栄長の親栄茂は若年病身の上、鬼神宮は凡そ二十町余も遠隔の地にあり諸事不便だったのだろう、当座限りということで宮鍵を川嶋の組頭に預けた。しかし社務は引き続き執り行ってきたのであるが、1851年(嘉永4)年5月14日、馬之丞・政右衛門・民蔵等がやって来て、近年参詣人が増加したので取り計らい方について万端議定したい旨申し出た。しかし泉学院はその必要なしと返答して帰した。翌15日は鬼神宮の縁日だったので勤行に出向いたところ、社前に馬之丞ら三人居並び勤行を制止され、その上百姓代の音三郎・馬次郎も駈け付け、社内への立ち入りも拒否された。これは泉学院をのけ者にして神事祈祷を勝手に取り計らい、布施物までも私欲にまかせて取り上げようとする企み、捨て置いては神事を俗家にまかせ、僧俗の差別を失い、職道の掟も崩れ神慮にも叶わず、院務相続方にも拘わる大事、どうか相手のもの呼び出し、不法を止め先規の通り拙院にて鬼神宮守護祈願執行出来ます様にと願い出た。
 これに対して同年9月川嶋の氏子から評定所へ返答書が差し出された。それに依れば、第一に泉学院が八宮明神別当であり、鬼神宮はその末社というのは全く跡形もない偽りであり、両者は往古以来村持ちである。それが証拠には八宮明神の鍵は廣野村名主千代吉が、又鬼神宮の鍵は川嶋の組頭ども預り、賽銭は年々帳面に記入して組頭あずかり、宮修復等の足し合いにしてきた。その他1808年(文化5)に泉学院は八宮明神別当であると理不尽な申し出を阿部主計頭寺社奉行へ訴願したが、訴訟人の申立相立たず、氏子共に詫び、以来鬼神宮は廣野村字川嶋氏子村持ちと心得ること、また社木は入用の節村役人・地頭所へ届けて伐木すること、鍵は組頭預かり置くこと、祈祷は泉学院・放光寺何れかに依頼することで決着した。次いで1824年(文政7)放光寺からの不法出入訴訟の折も、鬼神宮は氏子村持ということで済口証文を差し出している。また1844年(弘化元)鬼神宮再建の砌には組頭預の賽銭を差し出し、不足分は氏子一同にて出銭したにも拘らず、泉学院は一銭たりとも差し出すことはなかった等、綿々と書き綴られていた。
 この返答書は評定所の理解するところとなり、泉学院の訴えは退けられ、1808年(文化5)の裁定どうり、八宮明神・鬼神宮共に「村持」ということで、1852年(嘉永5)、泉学院栄長、内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代連署して済口証文が評定所に差し出され決着したのである。
 要するに、鬼神宮の帰属を巡って再三紛争があったが、何れの時も「鬼神宮は川嶋氏子村持」ということで決着し、恐らく明治に引き継がれていったのであろう。

   参考史料 田幡丈家文書4
           永嶋正彦家文書26・27・29

鬼鎮神社の名称の変遷

 川島にある鬼鎮神社は1182年(寿永元)、畠山重忠が菅谷館築造のときに城門大手の艮(うしとら)の方角に守護神として祀り、古くは「鬼神社」と呼ばれたといわれている。鬼鎮神社に関する文書で最も古いものは1821年(文政4)の地誌調査の記録「村方古物改口上書」(永島正彦家文書22)である。「飛地川嶋二鬼神明神一社四給入会川嶋氏子村持」とあり、「鬼神明神」と称している。また1830年(天保元)、昌平坂学問所地理局によって編纂完成された『新編武蔵風土記稿』(全266巻)には広野村の項に「鬼神明神社 村民持」と書れている。これは前書した文政4年の地誌改の集大成なのでほぼ同じ名称である。ところが1824年(文政7)の放光寺訴訟(田幡丈家文書4)においては「鬼神宮」と称し、降って1852年(嘉永4)の泉学院訴訟(永島正彦家文書26)においても「鬼神宮」と称している。明治に入って1884年(明治17)調査の「邨誌社寺明細帳」では「鬼神神社」となっている。尊称が「明神」、「明神社」、「宮」、「神社」と変っても「鬼神」の名に変りはなかった。

 ところが1882年(明治14)に編纂された『武蔵国郡村誌』では広野村の項に「鬼鎮社」と記されている。「鬼神」が「鬼鎮」に変り、音は類似しているが全く違う文字で表記されている。どうした訳があったのだろうか。1880年(明治13)4月10日にこの神社の社務所から戸長役場へ出された例祭の挙行と戸長の出席をもとめた文書(永島正彦家文書88)にも明らかに「鬼鎮神宮」と書かれている。

即ち江戸時代には「鬼神」であり、恐らく明治十年代に何らかの事情により「鬼鎮」とあらためられたのであろう。一時期両者の名前が混用されていた時期もあったろうが、大正に入っては全くその名は定着していた。大正年間、この神社の鳥居際にあった羊羹・せんべい等の土産ものを商っていた岡島家製菓所の広告には「鬼鎮のおみやげ」と大書し、菅谷村川島鬼鎮神社鳥居前とその住所を表記している(「発展の武州松山」大正14年発行)。また神社前にあった料理旅館川田屋もその広告に菅谷村川島鬼鎮神社前と書いている(「岩殿山案内」大正4年発行)。1963年(昭和38)編纂の『比企郡神社明細帳』によれば1946年(昭和21)に「鬼鎮神社」として法人登記されている。

鬼鎮神社の名称の変遷をたどって見てきたが何故に「鬼神」を「鬼鎮」に変名したのかについてはなお定かではない。

七郷の学校統廃合問題

嵐山町北部の七か村は1884年(明治17)越畑村連合となった。この当時、連合内には、杉山学校(1873年創立)と吉田学校(1879年創立)の二つの小学校があったが、1886年(明治19)、二校は統合されて大字越畑に昇進学校が設立された。1889年(明治22)には町村制が施行され、越畑村連合の各村は、広野村川島が菅谷村に合併した外は、合併して七郷村となり、昇進学校は七郷尋常小学校と改称された。

 1894年(明治27)、七郷村では、新たに学区制を設け、村内に二つの小学校を置くことになった。大字古里・吉田・越畑及び勝田・広野の一部を通学区とする第一七郷小学校と、大字杉山・太郎丸及び勝田・広野の一部を通学区とする第二七郷小学校である。

 しかし、九年後に事件は起った。1903年(明治36)10月12日に学区廃止調査委員会が、従来の学区を廃止、七郷村中央に一校を新築し高等科を併設する事を決議、これは10月18日の村議会において満場一致で可決された。ところが、思わぬ所から横槍が入った。12月10日、比企郡長山田奈津次郎が七郷村へ来村、小学校の統合に反対し、第二小学校の存続を強く支持したと思われる。12月20日、村会議長から郡長に対し、「お考えには応ぜられぬ」と答申、村会と郡長の間に於て意見が相違し村会議決事項の施行が困難となった。村会議員十一名は連署して辞職届を村長に提出、久保三源次村長もまた「去ル十月十八日ノ決議ノ件ニ対シ責任ヲ重ジ、茲(ここ)ニ辞職候也」と辞職届を郡長宛提出、さらに第一小学校学務委員三名も辞職届を出した。こうして学校統合問題のもつれは村長、村会議員などの退陣へと進展し、この問題は一時中断することになる。

 翌1904年(明治37)12月20日、村長久保三源次は埼玉県知事に陳情書を提出した。その中で、第一小と第二小の二校の存続は、村を二分することになり、村民の円満を欠く状態となること、経済上からも二校を維持してゆくために村民に多くの経済負担を強いていることを挙げ、更に統合によって、高等科を併置し学校教育の基礎を確定することが出来ると主張した。そして第二学区住民の中に統合に同意しない者がいることを理由として、その実施を躊躇(ちゅうちょ)している郡長に対して、「県知事閣下より適切な御指示をお願いします」と切々と現状打開を陳情した。

 その後、五年の歳月を経て、1909年(明治42)第一・第二の学区は廃止され、七郷尋常高等小学校が現在の七郷小学校の校地に誕生したのである。思うに広域の学校の統廃合には、想像を絶する軋轢があるものだろう。

    博物誌だより85(嵐山町『広報』2001年8月号掲載)より作成

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