川島にある鬼鎮神社は1182年(寿永元)、畠山重忠が菅谷館築造のときに城門大手の艮(うしとら)の方角に守護神として祀り、古くは「鬼神社」と呼ばれたといわれている。鬼鎮神社に関する文書で最も古いものは1821年(文政4)の地誌調査の記録「村方古物改口上書」(永島正彦家文書22)である。「飛地川嶋二鬼神明神一社四給入会川嶋氏子村持」とあり、「鬼神明神」と称している。また1830年(天保元)、昌平坂学問所地理局によって編纂完成された『新編武蔵風土記稿』(全266巻)には広野村の項に「鬼神明神社 村民持」と書れている。これは前書した文政4年の地誌改の集大成なのでほぼ同じ名称である。ところが1824年(文政7)の放光寺訴訟(田幡丈家文書4)においては「鬼神宮」と称し、降って1852年(嘉永4)の泉学院訴訟(永島正彦家文書26)においても「鬼神宮」と称している。明治に入って1884年(明治17)調査の「邨誌社寺明細帳」では「鬼神神社」となっている。尊称が「明神」、「明神社」、「宮」、「神社」と変っても「鬼神」の名に変りはなかった。

 ところが1882年(明治14)に編纂された『武蔵国郡村誌』では広野村の項に「鬼鎮社」と記されている。「鬼神」が「鬼鎮」に変り、音は類似しているが全く違う文字で表記されている。どうした訳があったのだろうか。1880年(明治13)4月10日にこの神社の社務所から戸長役場へ出された例祭の挙行と戸長の出席をもとめた文書(永島正彦家文書88)にも明らかに「鬼鎮神宮」と書かれている。

即ち江戸時代には「鬼神」であり、恐らく明治十年代に何らかの事情により「鬼鎮」とあらためられたのであろう。一時期両者の名前が混用されていた時期もあったろうが、大正に入っては全くその名は定着していた。大正年間、この神社の鳥居際にあった羊羹・せんべい等の土産ものを商っていた岡島家製菓所の広告には「鬼鎮のおみやげ」と大書し、菅谷村川島鬼鎮神社鳥居前とその住所を表記している(「発展の武州松山」大正14年発行)。また神社前にあった料理旅館川田屋もその広告に菅谷村川島鬼鎮神社前と書いている(「岩殿山案内」大正4年発行)。1963年(昭和38)編纂の『比企郡神社明細帳』によれば1946年(昭和21)に「鬼鎮神社」として法人登記されている。

鬼鎮神社の名称の変遷をたどって見てきたが何故に「鬼神」を「鬼鎮」に変名したのかについてはなお定かではない。