明治新政府は1872年(明治5)、「学制」を発布し、全国に小学校五万三千七百六十校の設置を目指し、国民皆学を標榜しました。しかし思惑どうり事は進みませんでした。埼玉県が文部省に出した伺書に「ニ・三ノ黌ヲ興ススラ百方手ヲ尽サスシテハ其功成リ難シ」と嘆き、1874年(明治7)になっても県下全体で二百七十七校の小学校を数えるに過ぎませんでした。それでも小学校が曲りなりにも開設されていったかげには、江戸時代以来の寺子屋に負うところが多かったと思われます。1872年(明治5)に記録された宗心寺の「筆弟人数改帳」は住職光外栄老の学塾の名簿ですし、大蔵の大沢晩斎も1872年まで自宅で教えた児童の名を「童蒙入学録」に記しています。その他にも杉山八宮神社の杉山宝斎や鎌形八幡神社の斎藤周庭も門弟を教導したことがその筆塚で明らかにされています。こうした先人の学塾(寺子屋)を基礎にして、この地域の小学校は誕生したのです。『武蔵国郡村誌』(明治9年)によれば公立小学校は、鎌形村、菅谷村、杉山村に既に存続していたことが分かります。

   鎌形村:村の西方にあり、生徒男六十九人女十八人

   菅谷村:村の乾の方東昌寺を仮用す。生徒男十二人女七人

   杉山村:東西十九間南北十二間。村の中央にあり。生徒男四十九人女十三人

 ここに椙山小学校が与えた杉山伊保利(年齢:十一年八月)の小学下等卒業の証書が残されています。1876年(明治9)4月の日付です。当時の小学規則によれば小学校は下等四年、上等四年の二段階になっていましたから、逆算すれば伊保利は1872年(明治5)

、七歳で入学したことになり、椙山小学校が明治5年に開設されていた事が分かります。

 こうして学制以来徐々に小学校は誕生してゆきましたが、そこに通う生徒は多くはありませんでした。広野村の六歳から十四歳(就学対象年令:男女六十一人)の1874年(明治7)から1876年(明治9)までの就学状況を見ますと、女子は一人、男子も半数以下で、全国的に見ても三十二%から三十八%という有様で、政府の皆学方針は遅々としていました。

 ただ教育の内容をみますと、下等小学の教科目は読み方、書き方、算術は勿論ですが、「地学大意」(地理)「窮理学大意」(物理・化学)「養生法」(保険・衛生)といったものまであり、七・八歳の児童としては相当程度の高いものでした。実際、古里・中村常男家には「輿地誌略」(世界各国の地誌大要)「小学化学書」「窮理捷径十二月帖」、大蔵・山下豊作家にも「地理初歩」等の教科書が残されていますから、これ等を学んだのは確かです。1874年(明治7)、文部省刊行・師範学校編集「小学読本三」の記述をみますと「母又童子に告げて曰 夫人世の業を務むるは猶乱れたる糸を理むが如し」というようでとても今日の比ではありませんでした。