今年も大変年賀郵便が輻輳しましたが、ここに示した一枚の写真は今から百年程前、1893年(明治26)、小石川(東京)の宮島栄三郎から越畑(七郷)の市川常吉に宛てた「郵便はがき」による年賀状です。この市川家には明治期の「郵便はがき」が千百余枚保存されていますが、その中で最も古い年賀の郵便はがきです。

 葉書の文面は御定まりの「謹賀新年」の賀詞に続いて「大廈(家)将来の万祥を祈り併平素の疎濶謝す」と挨拶文を添えていますが、それだけではなく次に「明治廿六年略歴」として、黒地に白抜きで新暦による祝日・日曜・雑節等を表記し、それに並べて「仝年旧暦」として、八将神の吉凶・庚申の日・甲子の日・八専・種まきの日等々まで印刷されています。1872年(明治5)太陽暦(新暦)が採用されますが、なかなか定着せず、明治二十年代になってもその励行遵守が促されていた状況を考えると、新暦もよいが旧暦も捨てがたいという気持がよく現れた面白い意匠となっています。なお、活字印刷による葉書も見られる頃ですが、これは旧来の印刷術である木版で作られたもので、今日に残る貴重な一枚の年賀葉書でしょう。

 官製「郵便はがき」は郵便制度が創設された1871(明治4)の翌々年、1873年(明治6)12月に発行されたのが始まりです。これが年賀状として利用されるようになったのは1879年(明治12)頃からで、1890年(明治23)の1月1日から三日間は賀状が急増したとつたえられています。こんな気運に乗ってこの地域にも「郵便はがき」の年賀状が現れたのでしょう。その混雑の緩和のため1899年(明治32)、年賀郵便の特別取扱制が実施されるようになりました。暮れの十二月二十日から三十日までに出された年賀郵便は元旦に配達されることとなつたのです。

 ところが日露戦争が始まった1904年(明治37)には、七郷村長久保三源次の名において、「戦地ニ在ル軍人軍属其他従軍者ニ宛テ発送スル年末年始ノ賀状ヲ廃止スベキ事」という回章が出されました。文中「其筋ヨリ」としていますから全国的にこの措置はとられたのでしょう。また1940年(昭和15)から1947年(昭和22)までは戦争のため年賀の特別取扱いが中止されるという躓(つまず)きもありましたが、1949年(昭和24)「お年玉付年賀はがき」が売り出され、今日まで国民的行事として毎年々々盛況の中に郵便はがきによる年賀状の交換が行われてきたと言えるでしょう。

     博物誌だより126 (嵐山町広報2005年1月号)から作成