嵐山町北部の七か村は1884年(明治17)越畑村連合となった。この当時、連合内には、杉山学校(1873年創立)と吉田学校(1879年創立)の二つの小学校があったが、1886年(明治19)、二校は統合されて大字越畑に昇進学校が設立された。1889年(明治22)には町村制が施行され、越畑村連合の各村は、広野村川島が菅谷村に合併した外は、合併して七郷村となり、昇進学校は七郷尋常小学校と改称された。

 1894年(明治27)、七郷村では、新たに学区制を設け、村内に二つの小学校を置くことになった。大字古里・吉田・越畑及び勝田・広野の一部を通学区とする第一七郷小学校と、大字杉山・太郎丸及び勝田・広野の一部を通学区とする第二七郷小学校である。

 しかし、九年後に事件は起った。1903年(明治36)10月12日に学区廃止調査委員会が、従来の学区を廃止、七郷村中央に一校を新築し高等科を併設する事を決議、これは10月18日の村議会において満場一致で可決された。ところが、思わぬ所から横槍が入った。12月10日、比企郡長山田奈津次郎が七郷村へ来村、小学校の統合に反対し、第二小学校の存続を強く支持したと思われる。12月20日、村会議長から郡長に対し、「お考えには応ぜられぬ」と答申、村会と郡長の間に於て意見が相違し村会議決事項の施行が困難となった。村会議員十一名は連署して辞職届を村長に提出、久保三源次村長もまた「去ル十月十八日ノ決議ノ件ニ対シ責任ヲ重ジ、茲(ここ)ニ辞職候也」と辞職届を郡長宛提出、さらに第一小学校学務委員三名も辞職届を出した。こうして学校統合問題のもつれは村長、村会議員などの退陣へと進展し、この問題は一時中断することになる。

 翌1904年(明治37)12月20日、村長久保三源次は埼玉県知事に陳情書を提出した。その中で、第一小と第二小の二校の存続は、村を二分することになり、村民の円満を欠く状態となること、経済上からも二校を維持してゆくために村民に多くの経済負担を強いていることを挙げ、更に統合によって、高等科を併置し学校教育の基礎を確定することが出来ると主張した。そして第二学区住民の中に統合に同意しない者がいることを理由として、その実施を躊躇(ちゅうちょ)している郡長に対して、「県知事閣下より適切な御指示をお願いします」と切々と現状打開を陳情した。

 その後、五年の歳月を経て、1909年(明治42)第一・第二の学区は廃止され、七郷尋常高等小学校が現在の七郷小学校の校地に誕生したのである。思うに広域の学校の統廃合には、想像を絶する軋轢があるものだろう。

    博物誌だより85(嵐山町『広報』2001年8月号掲載)より作成