徳川幕府が倒れて御一新となったが、新政府の経済的基盤は勿論通貨そのものも不足していた。幕府が鋳造した金銀銭貨及び各藩が出した藩札が当時流通していたが、幕藩の瓦解によって当然通貨の不足を生じ、新政府も国民も大いに困窮することになった。そこで1868年(明治元)7月4日(旧5月15日)、新政府は新紙幣として十両、五両、一両、一朱、一分の五種類を発行した。これが太政官札、世に「金札」というものである。

 1868年(明治元)12月の通達・願書を見ると「金札之儀は世上融通のため御発行相成候」とか「万民之疾苦救なされ候厚御趣意」によって金札貸渡しがなされたことが記されている。中爪村名主藤右衛門は村内の農工商の買入のため或いは困窮の者に貸与えるために「金札千両」の拝借を願い出るが、許可にならず、「月迫之折柄旁当惑罷在候」ということで、更に越畑村・菅谷村・和泉村の名主が合同で古賀一平(武蔵知県事)役所へ願出ている。新座郡の上内間木村の「金札五千両」十三年賦の貸渡願もあるが、いづれも思うように貸与されなかったのだろう。

 初め金札は時の相場によって通用させ正金(江戸幕府の貨幣)との引替も出来た。しかし1869年(明治2)になると「断然相場廃止正金同様通用致す可き旨」通達される。世上物価の紛乱・不弁が生じたとしているが、新貨幣金札への疑惑が大きかったためであろう。「愚昧之小民共に置き候ては疑惑いたし金札不請取」とか、「在々より諸品持出し東京市中売買の折柄金札不請取と疑惑申立候」という具合で、金札に対する疑惑が根底にあった。貨幣制度はその発行元の信用において流通が成り立つものであるから、新政府が樹立されても未だ徳川幕府程の信用はもたれていなかったのだと思う。それが疑惑を生み流通に頓挫を来たし、正金への引替に傾いたのであろう。

 新政府は納税に金札を用いることを許可すると共に「聊の疑惑も不生融通いたし候様」小前(農民)共へ申諭することを通達し、「万一心得違之ものも御座候はヾ御召捕の上如何厳科仰付られ候とも違背仕間敷候」と連印誓約させている。それでも金札の流通は意に任せなかったのだろう。早くも1871年(明治4)6月7日(旧5月10日)新貨幣条例が定められ、両を改め呼称を円・銭・厘とし、一両を一円、百文を一銭とする十進法を定めた。翌年七月(旧四月一日)新貨幣計五二八九万七一六五円が発行された。世に言うゲルマン貨幣である。

銭箱2
     鎌形・宗信寺の銭箱 天明八戊申年(1788)

  資料:中島立男家文書70 中村常男家文書520

     藤野治彦家文書153 近代日本総合年表(岩波書店)

     明治大正家庭史年表(河出書房新社) 大和銀行貨幣資料館あんない