1870年(明治3)年7月14日(新暦8月10日)から降り出した雨は激しく、市之川、野原川、滑川、都幾川、加須川等は水嵩(みずかさ)が増し、20日より23日に至って、遂に荒川が決壊、田畑は水冠することとなった。越畑・土塩・菅田・菅谷・広野五ヶ村役人惣代広野村名主竹次郎は韮山県役所へ「田方出穂前畑方者草育肝要之節一円水冠ニ合成 −(中略)− 可立直様子も無御座候」(藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」)と届出ている。志賀の1870年(明治3)の御用留にも「当年出水等ニ而亡所出来 −(中略)− 破損流出等致候分巨細取調可申出候」(志賀一区有文書121「明治三年御用留」)との被害調査を通達している。

 出水騒動は治水の悪かった時代には頻発したことだろうが、1870年(明治3)のこの地域の出水は広範にわたり、その被害は時期が出穂前で根こそぎ流されたため、一粒の米も収穫出来ず、立直ることの出来ない状況であったと思われる。その結果多くの困窮した農民が現出されることとなった。

 維新による混乱は農民生活を圧迫し、吉田村においては 1870年(明治3)身元の良い者が出穀して困窮者へ割渡した書付が韮山県役所に出されている。名主彦右衛門他三名が銭拾貫文づつ計四拾貫文出し、これを和三郎他四名に一人壱貫八百拾七文ツヽ、家族の人員に応じて与えた様子が「融通書上帳」(藤野治彦家文書157)に記録されている。

 この様な状況のところへ取水による被害が追打をかけることになった。彦右衛門はその対策として、10月に三百拾六貫八百文を五ヶ年にわたって積立、貧民救方手当とすることを役所に届出、「窮民救助遣候」と裁可になった。どの様に配分されたか不明だが、五ヶ年で金にして百四拾四両が積立てられ窮民救済に当てられた。韮山県は彦右衛門他三名に対し「村方去秋稀成凶耗ニ而貧民夫食(日々の食糧)にさし支窮迫見聞ニ忍ひす飢民救助いたす段奇特之事」として褒状を与えている。こうした例は古里村の名主常三郎に対しても出されているので、窮民救済は随所におこなわれ、それ程出水の被害も大きかったのだろう。

  『参考史料』 藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」

           志賀一区有文書121「明治三年御用留」

           藤野治彦家文書157「融通書上帳」

           藤野治彦家文書168

           中島立男家文書541