江戸時代の女用書「女諸禮綾錦」に「とりあげばばをゑらびたのむ事。中華(もろこし)にも有よし。医書にも見えたり。能(よく)たんれんんの婆(ばば)を頼むべし」と教えている。出産は生死にかかわる女性の大事であったから、腕のよい隠婆(とりあげばば)が必要とされた。しかし田舎においてはそれも得られず、近くに住むお産について経験豊かな年配の女性を頼んで出産することが多かつた。

 明冶になっても依然として相互扶助的な考え方でお産が取り扱われて来ていた。だがこうしたことでは死産になったり、産後間も無く子が死んでしまうことも多く、一方では隠婆が堕胎や間引きに手を貸すこともあった。人的資源の確保の必要性を痛感した明治政府は、この改善を意図することとなつた。それには出産にあたつて助力する人の職分と資格を規定し、その倫理観を正してゆく必要があつた。

 1869年(明治2)には「産婆取扱規則」がだされ「産婆」という呼称も定着し、1874年(明治7)には衛生、医学、薬に関する規定を「医制」として発布した。その中で産婆の資格を厳しく定め、職業として認定してゆくこととなつた。しかし、その資格は「産科医の眼前にて難産二人平産十人取り扱いたるもの」に与えられる産科医の実験証明書の所持が条件であつた。産科の専門医はすくなかつたから、そんな経験をもつ者は少ないし、医者すらいない地方に於いては絶無という状況だったろう。

 そこで埼玉県は明治十年「医務条例」によって「当分学術ノ深浅ヲ論セス鑑札下渡候事」とした。要するに「医制」に規定された水準に及ばなくても免許を認めるということである。

 広野村第九番地の嶋崎助次郎の母てつはこれに応じ、戸長永嶋竹次郎名をもつて1877年(明治10)8月「鑑札御下附願」を県令白根多助宛提出した。てつは従前からの産婆であり、産科医の前ではなかつたにしろ十分な助産の経験をもち、地域の信頼を得ていたのだろう。また「医制」が産婆の年齢を四十歳以上と定めているので、てつも恐らくその年を越え円熟した人物であつたとおもわれる。

 1877年(明治10)9月には産婆営業の鑑札が下り、御請書が提出されている。てつの産婆業は順調であつたようで、1878年(明治11)1月25日附で明治十年後半年分の産婆営業税一円八十銭を上納している。

 嶋崎てつは産婆を生業とし、多くの人々の出産に立会い医術を施し、女性の地位の低迷する明治期にあつて、独立した女性の歩みをしめした人ということが出来る。