三十一、田端次郎、同じく大河村赤木の人、友さんの弟子である。友さんは文学もあったが、此人は十露盤だけであった。教えもしたが、近所のものが習いに来ると云ふ程度に過ぎなかった。明治三十年(1897)二月三日、五十歳で没し、戒名を潤叟自禪定門と云ふ。昭和四年(1929)正月「算法子弟」が其墓を建てた。隣の谷合で炭焼をして居た双生の兄弟などが、晝には働いて、夜分に習いに来たものもある。(遺族及び其他の談、墓誌に拠る)
     『埼玉史談』12巻3号(1941年1月)21頁〜22頁 目次