二つの大きな車輪がついて人の引く木製の荷車を、嵐山町域では、ニグルマ、ダイハチグルマ、タカハグルマ、ダイシャ等と呼んでいたようである。明治期から太平洋戦戦争後にリヤカーが普及するまで、荷車は農作物、繭、肥料、薪炭、貨物の運送手段として使われてきた。

 1893年(明治26)、七郷村吉田の藤野長太郎外七人は荷車1輌を6円50銭で購入した。この年、同村越畑では、米1俵が3円31銭で小川町の米屋に販売されているので、この荷車の値段は、米2俵分に相当する。荷車は、ボウヤという車大工に作ってもらう高額な品物であった。

 1876年(明治9)に編さんされた『武蔵国郡村誌』には、嵐山町域16ヶ村の荷車の記載がある。保有数は、鎌形村が18輌と多いが、6ヶ村はナシ、他はあっても1、2輌で、合計31輌、32軒に1輌という保有率、車の大きさ別では中車23、小車8である。1911年(明治44)には、菅谷、七郷2村合計で91輌に増加し、12軒に1輌の割合となったが、その後も、すべての農家が荷車を保有するまでにはならなかった。

 吉田の共同購入された荷車は、共同所有者の8軒が使用しない時には貸し出されていた。賃貸料は一日4銭で、1896年(明治29)には、17回貸し出され、合計80銭の収入があった。貸出先は、吉田が大部分であるが、勝田、越畑、八和田村中爪(現小川町)にまで及んでいる。貸し出された時期は12月から1月に集中している。

 年間賃貸料としての80銭はどう遣われたのか。1月と5月に車税として25銭ずつ、2回で50銭、村税営業割が6銭3厘と6銭2厘で12銭5厘となり、合計62銭5厘が納税されている。税制度の細則を調べてみる必要があるだろうが、1875年(明治8)布告の車税規則では、荷積車は大きさにより、大七、大八は年間1円、中小車(大六以下)は50銭が課税され、耕作のみに使用される車は免税とされていた。納税後の残金17銭5厘に営業的な価値があったかどうか判断しがたいが、自他共に利するところは大いにあったと思われる。

   博物誌だより88(嵐山町広報2001年11月号掲載)から作成