志賀一区区有文書のなかに明治三年(1870)の「御用留(ごようどめ)」が残されている。「御用留」というのは江戸時代、村里において領主・幕府等からの触書(ふれがき)や回状を村役が書き留めて綴っておいた帳簿のことである。当時は大切な通知文書は必ず控えをとって保存した。其の習慣が明治になっても引き継がれてこの「御用留」になったのだろう。この「御用留」は志賀村名主水野僖一郎が明治三年八月より十月までに伝えられた回状・通達の控えを書き残したものである。
 1868年(慶應4)鳥羽伏見の戦に始まった戊辰戦争が1869年(明治2)五稜郭開城をもって終わり、江戸を東京と改めて遷都、ここに新政府が樹立した。新政府は天皇を中心に公家及び薩・長・土・肥等の下級武士によって構成された。彼等は錦御旗(にしきのみはた)を押し立てることで戦いに勝利したが、政権の座から永く遠ざかっていた為に実際の行政においては試行錯誤も多かった。1869年二官六省の制【神祇官・太政官(兵部・民部・大蔵・刑部・宮内・外務各省)】が置かれ、国民(農民層)へ対する行政は主として民部省から出された。別表の発信先をみると民部省或いは民生局・民政裁判所からの通達が多い。その他の発信人は下里村の関根玄友か鎌形村の簾藤万右衛門であり、回状の形をとっている。
回状と言うのは次の様なものであった。

            以回状啓上仕候然牛馬渡世之もの
            共御鑑札相渡相成拙者上御下
     相成候間為請取御出向可被成候尤御受
     書差出申候義付当人印形并村役人
     印形御持参可被成候 以上
       九月七日          簾藤万衛
      根岸村 千手堂村 志賀村 月ノわ村
                    右村々御名主中

上の文書は鎌形の簾藤万右衛門が出した回状で、牛馬売買人の鑑札がきているので当人と村役人の印鑑持参の上受け取りにお出向き下さい。という文面で、根岸・千手堂・志賀・月輪と順達するように村名主に宛てたものである。

 さて、この明治三年七月二十五日から十月八日までの御用留に控えられた三十二件ほどの用件(別紙参照)から当時の新政府が末端の農民に何を望んでいたのか探って行きたい。
 新政府が発足以来最も困っていた問題は経済であった。徳川幕府は八百万石という圧倒的な財力をもって天下を御(ぎょ)して来たが、新政府はほとんど無一文の出発で、除々に版籍が奉還され上知された土地を財源とするより他なかった。特に徳川家を七十万石で静岡に封じ込め、残りの所領(関東一円の旧旗本領)を中心の財源とした。従ってこの地方は恰好の徴税対象地域であった。
 先ず民部省に地理司をおいて各地に地誌の作成を命じた。これが村明細帳(村鑑)である「今般天朝より雛形の通りご布告之有り候」という文章で「村鑑帳」の雛形が伝えられた。明治三年八月二十三日附、天朝即ち天皇からの命令で九月五日までに雛形の通微細取調べ持参せよというのである。天皇のもつ権威をもって僅か十二日間で調査提出させようとした。「村鑑」の内容雛形をみよう。

 一、高何程 一、田何程 一、畑何程 一、石盛 一、何年度御検地
 一、水町(帳)損有無 一、小物成諸運上(うんじょう)有無
 一、家数何軒 一、人数何人 一、牛馬何疋 一、農間女稼
 一、林何ケ石 一、百姓林何ヶ処 一、秣場(まぐさば)何ヶ所
 一、漁猟場何ヶ所 一、御普請所 一、自普請所
 一、米津出(つだし)之場何ヶ所 一、東京迄里数 
 一、村方之内山里并豊窮之仕訳

以上の二十項目であるが、下線のものは田畑その他の収穫量或いは労働力に関係するもので、その他も経済にかかわる調査が目立つ内容である。新政府が如何に焦っていたかが偲ばれる。その他八月五日には畑からの収穫は金納(物で納めるのではなく金銭で納める)として納期をあらためて通達した。また、牛馬渡世の者(牛馬の売り買いを生業にする者・博労(ばくろう))には鑑札を渡し、かわりに冥加金(みょうがきん)(利益の一部を差し出すもの。一鼻綱(はなづな)に附き鑑札一枚冥加金三分)を徴集した。なお九月十五日には今年(午年)の年貢米を定免(過去五年から十年平均の年貢収納高をもって以降検見をおこなわず年貢を賦課すること)で承知し、例年の通り半紙に請書を書いて十八日までに差出すよう仰せ付けられた。その上十月八日、民生局から福田村・志賀村に対し「増米出精致し来る二十三日までに願書差出すべきもの也」と通達している。増米というのは定まっている年貢に上乗せして納める米である。また八月二十五日と九月十八日には出水・大風雨の災害の状況を雛形を示して調査させているが、新政府で破損箇所を修繕し救難しょうというのではない。何のための調査かというと「出水等にて亡所出来租税に相係り候分」即ち洪水で田畑が流され収穫できなくなり年貢(租税)に影響する分について巨細に取り調べよ、というのである。災害が徴税にどの程度影響するかをあらかじめ予測したかった。いづれにしても新政府の財政の苦悩を窺い知ることが出来る。
 次には宗教の問題である。江戸時代は仏教が中心となって民の精神界を支配し、行政にも深く関り、寺請制度等によって民の戸籍を管理し、又朱印地、除地等によって保護もされていた。しかし幕末、勤皇思想や倒幕、天皇親政の考えが成熟してくる背景に神道があった。日本は神の国であり、天皇はその末孫である、この国を統治するものは天皇である。という考え方である。新政府は天皇中心の新しい国を造っていく為には仏教を押えて神道を興隆させていかねばならなかった。1868年(明治元)年早くも「神仏分離令」をだした。これまで神宮寺のように神社と寺とが融合していたのを分離して、神社を独立させ引き立ててゆこうとした。以来廃仏毀釈(仏教と儒教を廃棄すること)の考えが鼓吹され、寺や聖堂がないがしろにされる傾向が生まれた。八月十八日に民政裁判所から「御支配所諸寺本末寺号始め元朱印地又は境内除地山林反別等明細取調差出候」よう通達があった。要するに寺が所有している年貢の免除地(朱印地・除地・山林)を調査し、これを削減して官有とし苦しい国の財政を潤し、同時に寺の勢力を殺ごうとした。次いで九月七日修験(役小角(えんのおずの)を祖と仰ぐ日本仏教の一派、山伏)に対しても調査している。「村々修験復餝神主に相成観音免とか地蔵免或いは虚空蔵免等と申仏名にて除地之有り候向は反別其の外取調」また「修験にて相続罷在候者所持の除地反別其の外巨細取調」差し出すこと。百姓でも仏号に付く除地反別、仏号の家作を所有する者の調査をさせた。これには但し書きがあって「神号に付く除地は書出しに及ばず候」とした。そうして民生局は廃寺を進めることとなる。九月二十九日「当管轄の村々無住無檀の寺院並びに修験復餝跡寺号の義更に廃寺申付候」ということで関係財産を取り調べ最寄三役へ十月十日限り差出すべしと通達した。十月四日志賀村の万福寺について下里村の名主玄友は志賀村の名主喜一郎の相談に応じ「村中一統御相談之上は勧農之御主意に基き是非共廃寺成られ候方然べく候」と、万福寺は廃寺となった。かくして廃仏毀釈はすすめられ神国日本が形成されていった。
 これに関連して日本は天皇の国であるという国体を明らかにしたかった。明治維新を創り出した新しい勢力は錦御旗(天皇家の家紋(菊花)を中央にあしらった錦織の旗)を押し立てることでそれを成就した。従って新政を推し進める上でも尊王思想を鼓吹したかった。太政官は「九月二十二日聖上御誕辰毎歳この日を以て天長節とし」と布告、末文に一昨年布告したが趣旨がよく徹底していないので周知させて奉祝せよ、というのである。またこれより先、七月太政官は「弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇右の通三帝御諡(おくりな)奉なされ候」と通達した。当時の農民もなんのことかと思っただろうが、これは皇統に関することで、この三人は争乱によって廃帝になったか、帝位につけなかった方々だが、これらに謚して万世一系の天皇家であることの証しとし権威づけようとしたのだろう。
 最後にもう一つ、七月、養蚕について民部省からの通達と諭告がみられる。諭告によれば「蚕卵紙(蚕が卵を産み付ける紙、種紙)の義は御国産第一の品にてその豊凶によりては御国内の損益のみならず貿易上にも差響き内外の人民商業の盛衰に拘る程のもの」で、当時としては農業についで養蚕は重要な産業であった。ところが近年製造が乱雑になり、私欲を謀り、衆人を欺く粗悪なものが多くなってきた。このように安くて粗悪な原産卵を使えば、翌年は減産に陥り養蚕衰微に至は必定である。そこで「諭告」を出したので養蚕に関るものには趣意をよく弁え説諭して、一時の利に拘泥せず精良の原産卵が国内に残り、将来の生産が倍殖するように世話すべし、と養蚕熟練者および村役人へ通達した。政府は九月五日には「蚕種製造規則同税則」を定め、養蚕製糸へ国が乗り出し、1872年(明治5)には国営の富岡製糸場の設置となっていった。
 この他にも陸軍の国章・旗章の布告、中学校の開校、下庁の役配等々の通達が控えられているが、大部分は新政府の財政に関連する調査・通達とみることができる。徳川幕府が大政を奉還して新しい天皇親政政府が出来上がっても財政は窮乏を告げ、それは農民層の負担に負うところとなった。
     ※志賀一区区有文書121 「明治三年御用留」 名主僖一郎
     ※岩波書店編『近代日本総合年表』