GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

古里

古里に火力飼育による「養蚕伝習所」が生まれる

 明治期に入って、生糸の輸出に占める比率が高まるとともに養蚕、製糸業が盛んになってゆきました。勢い養蚕業においては良質の繭の量産を目論見、各地でその研究・改良が進められました。
 古里では1887年(明治20)養蚕飼育改良のため、中村武八郎・中村清介等が発起人となり、青森県人松木定吉を教授として迎え、「古里蚕業伝習所」が設立されました。松木定吉は福島県梁川の田口平兵衛の塾生で、従来の自然育を改良して、火力による温暖育を鼓吹、指導しました。
 この考えに賛同した有志は十一ヶ村五十七名、三名の伝習生を加えて研鑽、実践成果を挙げていきました。翌年4月の二週間に比企・男衾・大里・榛沢・入間・山梨に及ぶ地域から八十一名の参観人が訪れ大そうな広がりを示しました。
 1894年(明治27)6月の「県報」第85号には蚕の発生から上蔟まで「日数二十四日間ニシテ絶佳至良ノ繭ヲ収メ隣里郷党ノ者温育ノ勝レタルヲ感覚セリ」と報告するまでになりました。この伝習所は1884年(明治17)児玉に創立された競進館とともにこの地域の養蚕業発展の一助となったもので、近代養蚕の先駆的役割を果たしたものと云うことが出来るでしょう。
  《資料》中村常男家文書703「養蚕火力飼絵入実験表」
        〃            708「埼玉比企郡古里共有養蚕組規約書」
        〃            710「養蚕改良飼育法伝習所建設有志嘆願書」
        〃            715「養蚕参観人名控帳」
        〃            586「日記費用留」
       明治27年(1894)6月3日付『県報』第85号

古里村の相給

 江戸時代の政治体制は大名領国制であったが、この地域の属する武蔵国一帯は川越・忍・岩槻の各藩を除けば、ほとんど幕府直轄の御料地か直轄地を採地として旗本に与えられた土地であった。御料地は代官支配であり、旗本に与えられた知行地は夫々各旗本の支配とされた。村が行政の単位の様に見られているが、それが確固たる形を形成したのは明治(廃藩置県)以降のことであり、それまでは一村といえどもその中に知行主が何人もあれば夫々の支配を受けた。このように一村を二人以上の旗本が分割して知行している状態を相給といった。
 この嵐山町旧十七カ村の支配体制は幕末期次の「表1」の様であった。旧菅谷地域は大部分川越藩松平家の所領であり、菅谷・勝田・太郎丸村は猪子家及び、杉山村は森川家と一家の支配であったが、越畑・吉田・広野村は夫々四旗本の支配を受け、これを四給の村といった。そして古里村はなんと御三卿清水家も含めれば十給となり、相給の村としては珍しく細分化された地域であった。

●表1

旧村名知行主・領主旧村名知行主・領主
菅谷猪子古里長井・市川・有賀・松崎・森本・横田・林・内藤・清水御料地
志賀松平(川越藩)
平沢吉田折井・山本・菅沼・松下
遠山越畑酒井・羽太・山高・黒田
千手堂勝田猪子
鎌形広野内藤・島田・木下・大久保
大蔵杉山森川
根岸太郎丸猪子
将軍沢

 古里の詳しい相給の様子及び変遷は「表2」に示した。徳川家関東御入国以来享保に至る間に段々と分与が繰り返され一七三二(享保十七)年の「村鑑」に示されたような相給が形成された。その後は松崎家の兄弟相続の時分与があった以外は幕末まで変化なく継承されていった。一八三九(天保十)年の「村鑑」に書き上げられたものをもって、御三卿御料地も含め十給の村と考えてよいと思うが、この様に一村で十給にもなる村は少ない

●表2

享保以前享保17年
(1732)
文化14年
(1807)
天保10年
(1839)
明治元年
(1868)
徳川家は関東御入国以来元和(1615)頃までに旗本に対し、知行地を与えていた。長井、市川、有賀、松崎各家及び酒井家は当初から知行地を貰い、その他は御料地として代官が支配していた長井五右衛門
10石
長井五右衛門長井龍太郎
10石
長井又五郎
10石
市川瀬兵衛
30石
市川瀬兵衛市川信八郎
30石
市川鉄太郎
30石
有賀長三郎
114石4斗9升
有賀繁之丞有賀滋之丞
114石4斗9升
有賀錦十郎
114石4斗9升
松崎権左衛門
17石5斗1升
松崎藤十郎松崎藤重郎
10石5斗1升
松崎藤十郎
17石5斗1升
1745年( 延享2),7石を弟伊織に分与松崎甲之進松崎甲之進
7石
正保の頃は酒井紀伊守の所領。1698年(元禄11)に、林半太郎、権田源太郎、森本惣兵衛に分与森本助重郎
11石7斗6升
森本寛次郎森本惣兵衛
11石7斗6升
森本潤七郎
17石1斗
横田斎宮
28石5合2勺
横田源太郎横田三四郎
28石5合7勺
横田裕次郎
28石5合7勺
林理左衛門
61石6斗6升4合3勺
林半太郎林内蔵頭
61石6斗6升4合3勺
林辰太郎
61石
1642〜1644年(正保)、御料地(天領)46石2斗6升2合を代官高室喜三郎の時、御三家清水家と内藤権右衛門に分与内藤権右衛門
20石2斗2升7合
内藤熊太郎内藤一学
20石2斗2升7合
内藤真人
20石2斗2升
清水御料地
26石3升5合
当分御預所
山田常右衛門(代官)
清水御料地
26石3升5合
新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌「村鑑之控」(中村常男家文書1)「 訴訟文書」(中村常男家文書242)「 村鑑」(中村常男家文書318)「旧旗下相知行調」(県史編纂室)

 十給中には長井家のように古里での知行高が少なくても(十石)、総石高は一七三〇石とかなり多く、随所(七郡)に知行地を持っている者、松崎家のように古里では兄弟合わせて十七石余だが、総石高は五〇〇石あり比企の伊戸村との二カ所に知行地を有する者、有賀家のように古里では最も多い一一四石余の採地をもつているが総石高は四〇〇石といった風の者もあり、古里の知行高のみでは推し量れないものもある。こうした旗本家の様子を「表3」にまとめて見た。旗本お屋敷地(江戸切絵図)とあわせて参考としてもらいたい。

●表3

旗本氏名総石高古里以外の知行地御屋敷所在地
長井又五郎
(竜太郎)
1730石男衾(武)・印旛・香取・海上(下)
・行方・鹿島(常)・望陀(上)
麹町裏二番町
市川鉄太郎
(信八郎)
439石男衾・入間・多摩(武)
・千葉・印旛・香取(下)
牛込門内土手四番町
有賀金十郎
(滋乃丞)
400石男衾・高麗(武)下谷三味線堀
松崎藤重郎
(藤十郎)
500石伊戸村(武・比企)本庄(所)徳右衛門町
森本惣兵衛
(潤七郎)
500石榛沢・秩父(武)・望陀(上)・愛甲(相)深川清住町
横田裕次郎
(三四郎)
1000石旛羅・緑野(武)

本庄(所)南割下
水きん堀

林辰太郎
(内蔵頭)
500石高谷村(武・比企)市谷鷹匠町
内藤真人
(熊太郎)
600石男衾・高麗・南埼玉(武)・豊田(下)四谷仲殿町

 この様に一村が十給にも及ぶ支配系列に置かれると何かと不便があったであろうと想像されるが、ただ問題によっては知行地の区分を越えて一村が結束して事に当たった記録もある。例えば年を追って厳しくなった助郷において「増助郷」や「差村」を通告された時は一村を挙げて連名連印をもって免除を歎願している。又、鉄砲の不法使用によって迷惑を蒙る農民たちは知行所村役人連署してその停止を訴願している。なお河岸・沼の修理、道路・橋の整備、犯罪への対応、水害・旱害への対処等知行所単位より村全体として取り掛からねばならない問題も多く、名主・組頭・百姓代等の村役人が連携して総代を定め対処していった

古里瀧泉寺のこと

 江戸時代の瀧泉寺に関する記録は極めて少ない。文化・文政期に編纂された『新編武蔵風土記稿』、明治十年代に書かれた『武蔵国郡村誌』、1896年(明治29)合綴(ごうてつ)された「村誌寺社明細帳」等によって本末寺、寺領等について勘案してみよう。
 本寺の開山は1364年(貞治3)に示寂した僧侶とされているので、名前は判然としない伝説的な事柄ではあるが、江戸開府以前二百四十年、南北朝時代に創建された古い寺ということになる。また本寺は山王社即ち日吉神社の別当(神仏習合思想により神社に設けられた神宮寺)勧理院(城琳寺)の末寺として建てられ、金剛山金州院、光林寺と称されていた。1650年(慶安3)に中興の祖真海が出るにおよんで、寺号を瀧泉寺と改称している。本尊に「弥陀を安ぜり」とあるから、ご本尊は今も変わらぬ「阿弥陀如来」であったと思われる。1777年(安永6)には光海出でて本堂を再興した。寺域は東西二十一間・南北三十八間、面積九〇〇坪(少々計算が合わない)であったという。
 1869年(明治2)8月の書付文書を見ると寺名が「天台宗世尊院触下 万年山瀧泉寺」となっている。「勧理院」が駒込千駄木(東京・文京区)にある「世尊院」と変わり、山号も「金剛山」から「万年山」になっている。本尊が「阿弥陀如来」というのはかわらない。除地(朱印地・見捨地以外で租税を免除された土地)が二千九百坪とあり、広大に聞こえるが舳執神社の社地が二千九百二十五坪あり、瀧泉寺は寺領を共有した形であったのでこのよう記したのであろう。その後1871年(明治4)になって、神仏分離令(1868年の政令)のためであろう、社地を改めて分割し、二千五百七十七坪を神社分に、三百四十八坪を寺分とした。
 なお1871年(明治4)社寺の所領の上地令が出るに及んで、時の戸長安藤貞良は県令にたいして「社寺境内外取調書」を提出している。それによれば除地は四反壱畝五歩となつているが、内訳をみると境内一反七畝四歩、墓地一畝歩で他は畑二反三畝一歩すべて上知され、直作人へ払い下げられている。周囲は上知官林・上知畑地となつている。

   【安藤文博家文書408の図 準備中】

 また、「寺社明細帳」や『郡村誌』は一様に「維新の際浅草寺末となる」としているが、1886年(明治19)の瀧泉寺世話人安藤貞良と浅草寺執事との往復書簡を見ていると、浅草寺を本寺とするには少々曲折があったように思う。1886年1月6日、安藤貞良は塩村の常安寺立会いの上取り調べた寺明細帳を浅草寺へ送って奥印を願い出たところ、2月2日返事があって「然る所当寺従来末寺名帳に該瀧泉寺儀ハ相見へ不申候」と、寺明細帳四通を返戻してきた。要するに瀧泉寺は浅草寺の末寺ではないので奥書は出来ないということであった。その後2月17日に至って浅草寺執事から「本月十二日付書簡を以云々御申越之旨正ニ致承知候」との書簡がもたらされた。2月12日付の安藤貞良・常安寺(塩村の兼務寺)の朝倉亮全からの再度の請願に応えて、末寺として奥書したという知らせであった。

 1886年(明治19)11月の「寺属明細取調書」において
   「 埼玉県武蔵国比企郡古里村外一番
      本寺東京浅草寺末
      等外寺 金剛山瀧泉寺 」と堂々と記載されている。この取調書によれば、
    本尊 弥陀如来
    本堂 間口五間×奥行五間
    庫裏 間口四間三尺×奥行五間三尺
    境内坪数 四百三十八坪
    境外所有地 畑弐畝五歩(中内出甲七百六十五番)
    檀家 拾壱軒
とあり、所々に検閲の印が押され、末尾に略絵図が付けられている。

   【安藤文博家文書561の図 準備中】

 本末寺・寺領等の関係についてその推移を見て来たが、挿入された二枚の略絵図に本堂・庫裏・墓地は示されているが「鐘楼」は見当たらない。鐘撞堂や梵鐘はあったのだろうか。
嘉永六年(1853)丑十一月、瀧泉寺の留守居恵前房が書き写した文書がある。「右瀧泉寺釣鐘破れ候ニ付今般相払」と、即ち鐘がこわれたので廃棄した。「釣鐘出来之節切付可申候」として、元禄四年(1691)辛未八月に作られた鐘銘が書き残されている。鐘楼はともかくも梵鐘は嘉永六年(1853)まであったことが分かる。次に釣鐘を創る時は元禄四年の鐘銘(壊れた釣鐘に刻まれていたもの)を彫刻してくれという意味で全文を書き残した。
鐘銘は「経云若打鐘時三悪道一切苦悩皆停止」に始まる九行百三十七文字の鐘撞の功徳を説いた名文が綴られている。銘文の作者は金剛山瀧泉寺秀源法印であり、施主は古里村安藤長左衛門外三人、鋳物師(いもぢ)(鋳物職人、鐘の鋳造者)は江戸の人で長谷川伊勢守藤原国永となっている。

   【安藤文博家711 鐘銘原文】

 その後「釣鐘出来之節」はあったのだろうか。年不詳ながら鐘について、江戸深川の釜屋七左衛門が瀧泉寺に宛てた覚書が残されている。文面に
   「一口 差渡シ壱尺八寸鐘壱本 
        貫目四拾五貫附
       代金拾三両壱分也  
     右之通リ念入鋳立差上ケ可申候 」とある。
 鐘は直径54.5僉⊇鼎168圈大釣鐘とは云い難いが立派なもので、代金十三両一分と見積もっている。しかしこの釣鐘が出来たとか、出来なかったという証拠はない。ただ年不詳といったが「申六月二十日」との記載があり、鐘の破損廃棄の嘉永六丑年以降の「申」の年は「万延元申年(1860)」か「明治五申年(1872)」が考えられるが、明治五年頃は廃仏棄釈の横行した時代であり、万延元年以降は幕末喧噪の中にあって、ともにその実現は難しかったのではあるまいか。いづれにしても「瀧泉寺幻の鐘」として記憶にどどめる他あるまい。

重輪寺の位牌座争い 1775年

 古里山重輪寺は1774年(安永3)8月新位牌堂(檀家の位牌をまとめて安置するお堂、祠堂ともいう)の建立に着手、同年12月に完成をみた。
 ところが翌年正月古里村の百姓長左衛門、新兵衛から重輪寺を相手取り重輪寺本山群馬郡白川村龍澤寺へ訴えが出された。それによれば、牌堂の普請にあたって重輪寺から先祖の位牌立て位置が少々脇へ片寄るときかされ、元々本堂ご本尊脇に置かれていたものだが、少しの移動は「不苦」(くるしからず)と了解していたが、普請が終わると檀家の位牌を残らず牌堂へ移し、順不同に立て置かれた。約束が違うので再応先規の通り立て置くように願い出たが、外の檀方に差し障(さわ)るので聞き入れられないとのことであったので、止むを得ず本山へ対し、「私共先祖位牌は本尊脇へ立て置かれる様」と訴えた。
 同年2月には上柴村金竜寺、和田山村金左衛門等の内済扱い人が立ち入り、長左衛門、新兵衛一家先祖の位牌は東側初め(好位置)に立て置き、絵図面を差し出すことで内済、訴状の貰い下げを願い出た。
 これで一件落着と思われたが、名主の庄左衛門、茂左衛門が重輪寺、長左衛門、新兵衛を相手取り奉行所へ訴訟に及んだ。要するに長左衛門・新兵衛先祖の位牌が茂左衛門の先祖の位牌より座上に置かれたのは如何(いかが)の訳か、寺と馴(な)れ合ってのことではないかといった位牌座の争いであった。重輪寺は本寺からの申付けで直しがたい旨を主張して譲らなかった。庄左衛門達は名主惣檀中に何の挨拶もなく新規の定を立てることは「心得難し、仕来の通り仕るべし」と訴えた。この訴えに対し奉行所は6月13日「評定所へ罷出(まかりいで)対決すべし若し不参に於いては越度(あやまち)と為すべき者也」と評定衆連署をもって申し渡され、大事件になってしまった。
 そこで先ず返答書を評定所へ出すことになり、同年6月長左衛門、新兵衛は返答書を差し出した。即ち「新牌堂完成後私共に沙汰なく茂左衛門の指図で勝手侭に位牌を配置したが、私共の先祖位牌は少々訳合あり(当寺開山に尽力多分の寄付等をしてきた事)本尊脇へ立て来たったという旧例を本山へ訴え、扱人立ち入った結果、旧例に随って取り計らうことで内済している。茂左衛門達は私共が菩提所と馴れ合って本山へ願い出たことを遺恨に思って提訴したが、そのようなことはないので御賢察下さい」と、また重輪寺も同時に返答書を提出した。事の経緯は前同様であったが、重輪寺としては「縦(たと)い誰が上座に相成り候共強いて拙寺に意見なし、この上は皆で相談して決められたし、尚長左衛門、新兵衛と馴れ合ったとあるが、この出入(争い)の発端は両人が拙寺を本山へ訴えたことにあるのだから、それは言い掛かりである。また位牌座の立て方は拙寺一己の存意ではない」と突っぱねた。
 1775年(安永4)7月の日付で「新位牌堂建立之絵図一枚重輪寺へ預置」とした絵図が残されている。その末尾に「右位牌座順之儀は先規本堂に之有候通相違無御座候」として、茂左衛門、庄左衛門、新兵衛、長左衛門が連署している。また同年8月に賢栄(重輪寺の僧)によって記された一文によれば「長左衛門慥(たしか)なる証拠書付を以申立仍之訴訟人共へ御理解被仰聞先規之通済方被仰付」と、この訴訟の済口証文はないが、位牌座の争いは長左衛門達の主張が通って目出度く円満に解決した様である。
 思うに死後の世界に於いても地位の上下は看過出来ないということだろうか。


※資料:中村常男家文書118 安永4年2月「お貰下内済証文之事」、中村常男家文書148 安永4年4月「乍恐書付を以御訴訟奉申上候」、中村常男家文書119 安永4年6月「乍恐返答書ヲ以奉申上候」、中村常男家文書121 安永4年6月「乍恐以返答書奉申上候」、中村常男家文書152 安永4年7月「覚」、安藤文博家文書66 安永4年正月「乍恐右之書を以奉願上候」、安藤文博家文書69 安永4年4月「乍恐書付を以御訴訟奉申上候」、安藤文博家文書75 安永4年8月「記」

→「寺院明細帳 曹洞宗 重輪寺 古里村(現・嵐山町)

古里の助郷

 江戸時代の交通は道路と河海に頼っていた。道路は江戸を中心に五街道が発達し、それに付随して脇往還(脇街道)もつくられていった。こうした街道筋には宿駅が設けられ、旅する人々を宿泊させ、また荷物の運搬に要する人馬の継立等の便宜をはかっていた。大きな宿駅には一日百人百疋の人馬を常置し、特に諸藩公用旅(参勤交代等)の継立に充てたというが、時勢と共に往来が激しくなり、継立人馬の不足が生じてきた。そこでその近隣の村々から人馬を出させる制度を設けた。これが「助郷役」である。助郷の村々は宿駅より五里以内にあり、差し出す人馬は村高百石につき馬三疋人足二人の割合であった。この助郷が恒常的になったものが「定助郷」といったが、その定助郷では負担に耐えられない程の大旅行団や大小旅行団が重複して通行の際は他の村々の助力を要請した。その際宿駅または定助郷村から前もって村を指名したのでこれを「差村(さしむら)」という。差村を道中奉行に進言すると道中奉行は指名された村柄(村の様子)を調査したうえで差村に指定したが、村の中にはこれを拒否する村もあった。
 古里村の「助郷」の状況はどうであったか。1764年(明和元)、中仙道深谷宿から差村の要請があったが村では赦免を願い出、村柄見分の上、道中奉行所倉橋与四郎は「差免候重而申付候事無之者也」(赦したので、重ねて申し付けることは無い)のお墨付きを東西古里村惣百姓へ与えた。この書付は以後永く古里村に降りかかった差村の危難を救ってくれる上で大変役立つ存在となった。
 次いで1796年(寛文8)8月、奈良梨村の名主光右衛門が古里村を相手取って「助郷人足滞出入」の訴を起こした。川越から秩父・上州への往還の拠点であった奈良梨村は「連々困窮に及び百姓数も減少、継立人足勤められる者拾九人」となってしまったので、拠無く古里・能増・高谷・伊勢根・越畑の五箇村に人足の助合を頼んだが、古里村は明和年中の御裁許をたてに断った。評定所は訴を受けて返答書を持って対決せよと命じた。結果は記録にないが恐らくお墨付きによって事なきを得たのであろう。
 1839年(天保10)には中仙道深谷宿が「困窮の余り人馬継立難し」との理由で、差村を申し立てた。古里村も差村の対象となり奉行所より立石伝八郎と町田庄右衛門が村柄御見分のため11月27日廻村となった。これに対して十給(古里村は10人の旗本・代官で分割支配されていた)惣百姓代兼で名主の善蔵と清左衛門は次の6ヶ条をもって愁訴に及んだ。
 1、高(収穫)319石6斗7升5合と少なく10人の知行支配地が入り交り、無民家もあり、人の少ない困窮の村である。
 2、当村は熊谷宿から3里、小川村へ2里にあたり、中間の御用継立に難渋している。
 3、深谷宿へ4里、荒川・吉野川があり、少々の出水でも川留めとなり御用に差し支える。
 4、当村は山間にあり猪鹿多く昼夜を分かたず田畑を荒らすので番小屋をたて、番人を置いて防ぐのに難儀至極の状況である。
 5、当村は山谷にあり田畑悪しく、天水場(雨水に頼って農耕するところ)にて困窮極まり夫食(農民の食糧となる米穀)に差支え地頭所より貧民手当を戴いている程である。
 6、明和年中御見分の倉橋与四郎様書付を頂戴所持している。
 なお、十給中の内藤一学知行所の名主孫十郎は同文の愁訴を地頭所役人へも提出している。
 1866年(慶応2)の「御伝馬差村歎願書」の末尾に「是迄何れの宿方へも助郷等一切相勤候儀無之」と記しているので、この結果もその難を遁れることが出来たのであろう。
 次いで、1859年(安政6)8月、熊谷宿定助郷32ヶ村総代問屋栄蔵達が「定助郷当分休役差村ヘ代助郷被仰付候様」と嘆願書を道中奉行に差し出した。即ち、近年脇往還多くなり緒家樣御通行相殖え、触人馬では処理困難となって来ていた。又定助郷の村々は荒川・利根川の間にあり、照れば旱損、降れば水損両難遁れ難く違作(不作)が打ち続いて来たところ、6月には異病流行し死亡した者少なからず。7月24日、25日には降雨大風にて荒川・利根川堤切込(決壊)出水、宿郷一円水没、家具・農具・家作流失し、人馬死亡する者少なからず。夫食手当ても出来ない有様であった。その上8月12日、13日再び大雨となり出水、田畑皆無、麦作蒔入れの時期に差し掛かったが、為す術もなく茫然自失の態であった。そこで、59ヶ村を選んで当9月より10ヶ月の間差村仰せ付けられ、御伝馬急場の救助を歎願した。その中に古里・吉田・勝田が含まれていた。
 これに対して、古里村では差村の知らせに驚き早速奈良梨村と連合して、9月、道中奉行所へ「熊谷宿代助郷御免」を願い出た。嘆願書に「差村被仰付候ハヽ一村潰及転退候外無御座候」と、村全体が破産するか、どこかへ逃げ隠れる他はない程の困窮となることを訴えた。別に同9月林・有賀知行所の名主栄八と運太郎が給々惣代として地頭所へほぼ同文の内容で差村を回避出来る様願い出た。そしてこれも又避けることが出来た。
 次いでその5年後、1863年(文久3)4月、再び熊谷宿より当分助郷が触れ出された。触書には「今般御変革被仰出」と幕府の御改革を理由として挙げている。この御改革というのは1862年(文久2)8月に出された「参勤交代制の緩和」である。参勤交代というのは大名の妻子を江戸に常住させ、江戸と国許とを1年交替で往復させる制度であった。この年これを緩和して3年毎の出府(江戸に出ること)とし妻子の帰国を許した。その為諸大名御当主、妻子、御家族、御家来といった方々挙って国許へ引っ越すということとなった。従って道筋にあたった熊谷宿は普段の人馬継立では処理出来ず、近隣村々へ応援を触れ出した訳である。古里村は早速いろいろ難渋を申し立て当分助郷御免除を願い出た。しかし今回は遁れられないと思ったのか、「二重役」の解消を条件に請印(承諾の印)の押印を保留した。「二重役」というのは、古里村が秩父通り(熊谷から秩父への道)の途中にあって、熊谷からの人馬を一手に継立小川へ送る役と、川越往還(川越から上州への道)の途中の継駅奈良梨村へ継立人馬を差し出すという二つの課役をさしている。要求は秩父通りの一手継立を止めて、熊谷から直接小川村へ持ち越しにしてくれるのならば今回は御請けしようというのである
 3月には十給総代名主卯兵衛が熊谷宿御役人へ訴え、4月12日には佐々井半十郎代官所組頭利兵衛が道中奉行所へ追願に及んだが、裁許は困難だった。なお「御伝馬御免除出府諸入用帳」に依れば同年5月3日には平三郎と運太郎が出府、6日逗留先の公事宿(農民達の民事訴訟を取り扱う宿)万屋にお呼出があり「助郷免除」の旨達しがあった。
 御請け印形を差出し、7日代官佐々井様へ帰村届を提出し、9日村へ帰ったことが記されている。7日間の出府の旅で〆て1貫768文を費やしている。助郷免除の裁許を得るのも書面一通では用が足りなくなっていった。
 1866年(慶応2)6月第二次長州征伐のため政長軍が江戸を出発することとなった。この軍勢の輸送のため東海道は大変な混雑となることが予測されたので、品川宿は早くも2月当分助郷の御印状を各村々へ発した。これに対し、古里村では4月、十給知行所連名で道中奉行所へ「品川宿当分助郷之儀幾重ニも皆御免除」下さる様嘆願書を提出した。又ほぼ同文の免除願を古里有賀忠太郎知行所の名主総代運太郎の名において東海道品川宿へと差し出した。免除の理由は秩父通り、川越往還の二重役の継立人馬が手余りのこと、村勢が貧困であること、過去の差村(明和度・天明度・天保度・安政度・文久度)の何れの時にも免除されて来たこと、その上十給内では御上洛に供奉する地頭(旗本)も多く歩役人夫を多数差し出していること等々を挙げている。ただこの度は征長御上洛の折柄で出精相勤なければならないことがよく分っていたので、「御用向御差支出来奉恐入候間、不得止事出府此段御歎願奉申上候」と出府してまでその意を通す決意で結んでいる。名主運太郎は「品川宿江助合歎願中用留帳」に克明に出府の様子を伝えている。それに依れば、運太郎と儀四郎は1866年(慶応2)3月29日古里を出立、同晦日湯島の足立屋に落ち着き、その後免除歎願に奔走、9日嘆願書を差し出した。同18日お呼出しがあったが決着せず。この間儀四郎は栄八と交代、その栄八も21日帰村してしまった。同24日村では一同相談の上、26日儀四郎を再び出府させ、5月14日再嘆願書を差し出したのである。7月23日にお呼び出し、同月24日夜通しで飛脚が走る程の重大な結果が齎されたものと考えられる。
 但し3月29日から8月1日まで儀四郎、運太郎、栄八に常三郎も加えて延147日出府滞在して歎願の決果、〆99両1分2朱と323文を費やしたが、助郷が回避されたという記録はない。
 1872年(明治5)各駅の助郷解散命令が出され、宿駅制度も廃止されたので、これ以降は宿駅の問屋も定助郷の村々も、差村を仰せつけられた村々も人馬継立の課役に苦しめられることはなくなった。

草莽の師 塩村の千野文太郎

 千野文太郎は1819年(文政2)、塩村(現・熊谷市、旧・大里郡江南町)に生まれた。文太郎は俗称で、姓は千野、名は賢隆と称した。性格はおとなしく、気立てが良く、正直で誠実な人柄であった。農に従事して怠ることがなかったが、時には薪を馬の背にのせ、市に行って売り、帰りには酒をしたたかに飲んで上機嫌で馬にゆられ、詩歌を吟じ帰ったと云う様で村夫子然としたところもあった。
 幕末の儒者寺門静軒は文太郎を評して、「農耕しては食し、機織しては衣とすれば、体は苦労だとしても心は安閑としていられる。農人は羨ましい」と農民学者文太郎を羨んでいる。農業の傍ら学芸にも精進した。学問や書においては「声譽(せいよ)(よい評判)を馳す」という風で世間でも良い評判を得ていた。俳諧・和歌にも秀で、
蟻通と号していた。1878年(明治11)9月、大里巡幸を拝して「巡りあふ月の宮古そ十き鏡」の秀句が残されている。又生花投げ入れにも巧で一民と称していた。世に言う在野の文人であった。
 性格が温順・誠実で農業を愛し、高い学芸を体得し、春風駘蕩とした生活を持している人物のもとに人が集まって来るのは当然であった。彼は自宅に質素な学塾を開いていたのであろう。その人格・学徳を慕って弟子達がその門に集まり、皆、彼を先生と称して、敬意を払って接していた。
 又、彼は塩村の戸長でもあった。1885年(明治18)9月、飯島岡右衛門の養嫡子が不和で離別した手続きに不都合があって、遅れ迷惑をかけたことへの始末書を、戸長千野文太郎の名において県令吉田清英へ提出している。こんな他人の民事的なことにまで責をおって始末書を出している。政治的には不向きな人であったろうが、誠実な性格の良く現れた出来事であったと言えるだろう。
 1897年(明治30)8月発起人飯島貴寿等によって「師恩ノ万一ニ報センガ為メ」に建碑を思い立った。その趣意書ともいうべき「謝恩録叙」に「吾師蟻通千野先生温厚篤実、人ニ教テ倦マス、故ニ郷党ノ子弟贄(にえ)ヲ執テ(入門の礼として進物を差上ること)子来ス」と、人柄の良さと飽くなき教育への情熱を慕って近隣の村々から集まった多くの門弟達は「其門ニ入テ其教ヲ承(う)ケ而(しか)シテ今ヤ世ニ処シ人ニ交リ稍(やや)過失ヲ少クスル真ニ先生ノ賜(たまもの)ナリ」と、先生のお陰をもって世に処し、大過なく生きてゆく事ができたと、その薫陶に感謝している。
 1898年(明治31)11月文太郎は79歳の長寿をもって他界された。「千野文太郎翁会葬式役割記」によれば先生の遺徳を偲ぶが如く、葬儀は神葬祭をもつて盛大に執行され、多くの門人達が参列した。墓は塩村の千野家墓地にあり、戒名は「普教院以文弘道居士」と諡(おくりな)された。文を以って道を弘めるという文太郎にとってその生涯に相応しいものであった。
 そして翌年12月、門弟たちによって念願の顕彰碑が塩村字塩東(熊谷・小川道の途中、塩村の俗称おおまがり付近)に建てられた。篆額(てんがく)(碑の上部に篆文で書かれた題字)は枢密院顧問官・子爵杉孫三郎の書で「千野君碑」とあり、其の下に碑文が刻まれている。その文章はかつて寺門静軒翁撰と記された175文字の碑文原稿と酷似している。両者を考え合わせれば高位の方が筆を振るい、高名な儒学者が文を草したということは千野文太郎がそれだけ高い評価を得ていたことを示すものということが出来ると思う。
 碑の裏面に有縁の方々の名が刻まれている。筆弟56人中、古里の人11人、吉田の人13人、建碑の発起人の中には、古里の飯島貴寿、中村武八郎、安藤富五郎、越畑の久保三源次、吉田の鞠子万右衛門、小林所左衛門、小林三右衛門。幹事に古里の飯島平六、田嶋三津五郎、吉田の内田源七。いずれも門弟で薫陶を受けた人々で、後年村の指導的立場にあって活躍した方々であった。千野文太郎先生の学塾のあった塩村は熊谷・小川道にそった古里の東隣七町(750メートル位)のところにあり、わが郷党から門弟達が通い易いところにあった。従って見られる通りの多くの門弟が教えを受けることが出来た。千野文太郎先生を大いに顕彰し、厚恩に謝せねばなるまい。


※寺門静軒(てらかどせいけん)(1706-1868):「江戸小石川水戸藩邸内に生まれる。江戸時代の儒学者。江戸駿河台に克己塾を開いて子弟を教育し、著書である「江戸繁昌記」がベストセラーとなったが、風俗を乱すものとして江戸追放となり、各地を流転。奈良・四方寺の吉田家などに寄寓しながら、安政6年に妻沼・歓喜院に入り「両宜塾(りょうぎじゅく)」を開きました。その門弟には竹井澹如、石川弥一郎らがいます。鎌倉町・石上寺に寄寓後、晩年は親交深い根岸家に身を寄せ、邸内の三余堂で塾生を指導していました。(熊谷市のHPより引用)

組頭の罷免 1857年

   村方三役 組頭の罷免
 江戸時代、村の行政は領主の支配のもとで、村方三役(名主・組頭・百姓代)と呼ばれる人々によって行われてきた。名主は村の代表であり村政のすべてを処理した。組頭(与頭)は村長に次ぐ村役で村長を補佐する役どころで、村が分割されているところでは二、三人で勤める処もあった。百姓代は名主以下の職務を観察する目的で後年設けられ、小前(高持の小百姓)から公選されたので小前総代ともいった。いづれの村役も村内の信望が高く、ある程度の経済力を持った人々であったが、時としては行政上の不信や後任選びの縺(もつ)れ等による問題も発生していた。 
 これは古里村市川又兵衛知行所の出来事である。
 1857年(安政4)4月、同知行所の名主徳次郎が死亡し、その後跡について差縺(さしもつ)れが起こった。小前総代であった仙次郎は百姓要蔵、源三郎、常次郎、権六、善五郎を代表して、1857年(安政4)9月4日、出府の上、当時組頭であった明三郎の不行跡4ヶ条を地頭所へ訴え、その名主就任を阻止しようとした。即ち4ヶ條は次の様な事であった。

 一、1855年中(安政2)、御林山(おはやしやま)(領主の直轄した山林でお留山と呼び勝手に伐木厳禁の場所)の雑木を理不尽に伐木。それを止(と)めたが役権をもって願済みとして伐木におよんだこと。
 一、1854年(安政元)、明三郎は潰れ百姓(つぶれひゃくしょう)(破算した百姓)伊三郎の持ち山、字藪谷(やぶやつ)において雑木を並外れて伐採し自宅へ運び込んだこと。
 一、1855年(安政2)、源三郎の所有する字船久保(ふなくぼ)の畑地内に明三郎の畑地二畝歩(せぶ)余り入り交じり、是まで横領されていたので畝歩だけ引き揚げるといいだし、取調べたところ源三郎の持ち地に相違ないことが判ったが、難題を持ちかけ多分の金子を貪(むさぼ)り取る計画だったこと。
 一、明三郎と隣接していた潰れ百姓孫七の屋敷内、横二間三尺竪(たて)十五間余囲い込み、組合のものが見付け掛け合いに及んだが、境筋は其の方には分らないだろうと、役権をもって不法申募り、取りあってもらえなかったこと。

 この外にも種々悪計をたくらみ小前に難渋を強いていた。訴状は「明三郎差配(指図)此上請候様相成候而者潰及退転(落ちぶれてその地を立ち退くこと)候外無御座難儀至極仕候」と、即ちこのままでは潰百姓になるか、夜逃げでもする外よりないというぎりぎりの窮状を訴え、組頭明三郎の罷免を願い出た。
 1857年(安政4)9月8日、明三郎も、地頭所の仙次郎達へ年番名主(年毎に交代して勤める名主)を命じても障りはないかのお尋ねに答える恰好で前の訴状へ対して次のような返答書を提出している。
 伊三郎の家は流行病で一家死失し、一人残った盲目の娘は村岡村のごぜ(三味線を弾きうたを歌って銭を貰う盲目の女)の弟子とし、やがて跡相続させたいと思っていたところ、仙次郎外二人名主徳次郎と馴れ合い、断りもなく伊三郎の家財道具、屋敷、野山、竹木までも売り払い横領した。
 又、仙次郎達は潰百姓佐助方も相続人が居るのに人別を除き、私に断りもなく佐助の跡式を横領した。
 又、仙次郎達は私が役儀を勤めていては銘々の悪事が露顕してしまうことを恐れているのである。
 この様な者共に年番名主仰せ付けられてはこの上どのような悪巧みをするか計りしれないので、私は「右様之者共之支配請不申候」と答申した。
 それぞれに相手を誹謗し、己の立場を主張したが、一体地頭所の裁可はどうなったのだろうか。「明三郎申口不相立」と、返答書の抗弁は少しも聞き入れられず、「明三郎義役儀も乍相勤不行届之儀ニ付退役被仰付候」という結果となった。
 名主徳三郎は死し、明三郎は退役となっては「跡役一同で相談の上取り決め、その者の指図を受けよ」と仰せ渡された。1857年(安政4)9月、百姓要蔵・善五郎・明三郎は連印の上「済口証文」を地頭所に提出している。
 跡役は誰がなったのだろうか。事件の翌年の1858年(安政5)5月27日の文書は市川又兵衛の御林山の雑木を長井五右衛門知行所の名主常三郎が理不尽に伐木したことを訴えたものであるが、その文書の末尾に訴人の名が記されている。
     名主 源三郎
     組頭 善五郎
     百姓代 要蔵
いずれも組頭明三郎を弾劾して訴出た百姓六名の中から選ばれた人々であった。

江戸時代の隠居 その生活の保証

 今の世の中で「隠居」という言葉は余り聞かれなくなったが、江戸時代には人生の中で或る時、第一線を退きやや閑な人生を過ごすという風調を「隠居」と称した。厳密には世帯主が生存中に自分の自由意思によって所有する権利を相続人に譲って閑居することを言う。武士は主君にお役御免を願い出て、子息に家督を譲って隠居の身分となる。町人は店の中心から退くことを宣言して息子なりしかるべき後継者に財産権利を譲り、自分は隠居所に閑居する。農民は所有する田畑を息子に渡して閑人となる。こうした人々の生活の保証は得られたのだろうか。

 1820年(文政3)、宗心寺十四世周山は住職の席を後任雉賢和尚に譲った際「隠免之記」なる書付を送っている。退隠する者が現当主に隠居後の生活保証を約束させたものである。その内容は次の通りであった。

  一、田方四反七畝歩(年貢諸役は先勤) 一、胡麻一升六合 一、小豆三升
 一、大豆六升一、味噌半樽余 一、醤油壱樽と壱升 一 、堅木真木入用次第
 一、小麦粉 少々宛ニ貰い一、蕎麦粉 少々宛ニ貰い

 「年々被下候」とあるので生存している間毎年これだけの手当ては受けられた。一人の食生活を賄うに不足はなかったろうが、衣・住の費はどうしたのだろう。田四反の収穫を換金してそれに充てたのだろうか

 1849年(嘉永2)に同じ宗心寺において現住職の隆暁が閑居大和尚(十七世劫外と思われる)に「隠居免議定一札」を差し出している。内容は次の通りであった。

 一、金三両也 年中小遺 一、玄米拾俵 年中飯米 一、真木 入用次第 
 一、野菜 入用次第一、蕎麦粉 入用次第 一、小麦粉 入用次第 
 一、大小豆 入用次第 一、胡麻 壱升一、水油 三升 一、餅白米 壱斗
 一、醤油 弐樽 一、味噌 壱樽

 「御存命中年々其都度入用次第」と極めて心強い一文が添えられている。内容は前者とあまり変わっていないが、三両の金を一年の小遣として差し上げるというのは有難い限りで、三両もあれば贅沢しない限り一年位生活出来たという時代にあっては生産性の少ない老人にとって余裕のある生活が保証されたことになろう。

 僧家の二例をみたが、俗家(農民層)においても類似の書付が見られる。

 1802年(享和2)古里村の武兵衛が実父五郎右衛門に「賄料相渡シ申」という一札を差し出している。恐らく五郎右衛門が退隠し実子武兵衛に家督を譲った際、隠居の生活費として約束したものであろうう。内容は次の通りであった。

 一、下郷地ニ而すな畑(川沿いの荒砂混じりの畑) 弐枚 一、同所畑添之田 壱ヶ所

 一、同所下ニ而すな畑 壱枚 一、寺ノ後ニ而大畑 壱枚 一、柏木山壱ヶ所
 一、新林山 壱ヶ所一、下郷地下ニ而麦畑 九升蒔

 全部が田畑・山林である。一枚・弐枚というのは一区画・二区画というほどの意味で広さを特定していない。山にしても一ヶ所というだけで広さは不明である。しかし百姓にとって土地が財産であり、土地から生ずる果実、米・麦・野菜・薪等によって生活が支えられていたので、土地が隠居の賄料となったのであろう。この一札の末尾に「若シ又親父様江不和之義も御座候ハヽ加判之者共立合急度可申付候」という一文で結ばれている。親子の間で仲違いした時は立合った者が必ず履行させることを誓約したものであり、組合総代原右衛門、親類総代長左衛門が連署し、更に名主銀六が「相違無之」ことを書き添えている。之だけ慎重にしておけば、家督を譲った親も老後の生活において安心出来たであろう。

 更にもう一例、1867年(慶応3)、運太郎(安藤)が栄之助に与えた書付がある。この書付によれば、伯父長左衛門の死後栄之助が家督を相続して来たが、病身のため身代を維持してゆくことが出来ず、隠居することとなった。その家督を運太郎が受け継ぐことを承諾して、隠居する栄之助に隠居免(隠居の財産としてその家の動産不動産を分割してあてがうもの)を約束したものである。内容は次の通りであった。

 一、田弐斗蒔 字前田ニ而 此小作米五俵也
 一、畑八升蒔 字寺脇 外ニ金壱両ツヽ年々

 一、山壱ヶ所 字かに沢東平 一、隠居庭畑 一、月々金壱両ツヽ

 一、玄米七俵也年々〆拾弐俵也

 米が年に十二俵(四石八斗)、畑は八升蒔の広さだが何反何畝とは特定出来ない。しかし金が年一両づつついている。そして別に月々金一両づつとあり、金を合算すれば年に十三両となる。その上字蟹沢に一山あって、なお隠居所には庭畑(庭の前面にある蔬菜の畑)がついている。かなり豊かに安定した生活が保証されているように思う。伯父の家を相続したので、その子(運太郎の従兄弟)の退隠につき普通より手厚くしたのだろう。伊左衛門外六人が連署して、此書付の信憑性を高めている。

 以上僧俗それぞれについて四例をみてきたが、財産・権限を次代に移譲して余生を送る身分としては充分な生活保証がなされていたように思われる。儒教思想の徹底していた江戸時代においては敬老の精神も浸透していたことであろうし、また「隠居免(隠免)」なる語が今日まで伝えられて来たところを見ると、書き立てるまでもなく一般的に行われていたとも考えられる。但し経済的なことを考えると誰でもと言う訳にはいかず、こうした確りした隠免書付は或る程度の経済力を保持していた人々の間で実行せれたものであろう。

※資料
 吉田宗心寺文書62「現雉賢和尚江隠免書付」文政三年(1820)
 同115「差上申隠居免議定一札之事」嘉永二年(1849) 
 中村常男家文書194「賄料相渡シ申一札事」享和二年(1802)
 安藤文博家文書701「差出申書付之事」慶応三年(1867) 

古里に電燈灯る 1929年

 江戸時代の照明は菜種油などを燃やす行灯(あんどん)か、蝋燭(ろうそく)を灯す燭台(しょくだい)・雪洞(ぼんぼり)・提灯(ちょうちん)でした。幕末、西洋から石油を燃料とするランプが伝えられ、明治に入ると石炭ガスを燃やすガス燈が街路を照らすことになり、生活は一段と明るさを増すことになりました。
 次いで電燈が初めて点灯されたのは1878年(明治11)3月25日、工部大学校(東大工学部)におけるある祝賀会の時でした。この電燈はアーク燈でしたが、今でもこの日を「電気デー」として記念しています。続いて1885年(明治18)、白熱燈も発明され、全国各地に電燈会社が次々と誕生し、その利用は急速に広まって行きました。しかし、埼玉県の電燈は1900年(明治33)に川口、1902年に大宮、1905年に川越と点灯されましたが、1913年(大正2)にいたっても全県380町村の中、電気供給を受けたものは8分の1の45町村に過ぎませんでした。
 七郷村北部の古里への伝播は更に遅く、1929年(昭和4)4月28日、東京電燈株式会社熊谷出張所と電燈設置の契約が締結されています。電気工事は85世帯、172燈の設置に5月21日から44日間、電工延156人を要しました。安藤寸介・安藤幸蔵を中心に25名の電燈委員会が設けられ諸事審議、運営にあたりました。
 総経費は500円を超え、1戸当り6円弱の負担でした。その他有力者は相当の寄付もし、引込み用の小柱は各戸自弁ということで大変な出費となりました。6月28日、本検査、夜仮点火。ランプに代わって明るい電燈が灯(とぼ)ったのです。その夜、点燈祝賀会が開かれ、来賓10名、字内の人々30名程が参加、電燈の灯ったことの喜びを分かち合いました。
 始め電燈料は定額制(一定時間だけ点燈して一定の料金)で、16燭(しょく)一灯で月78銭でした。やがて計量器(メートル器)に示される使用量にもとづき料金を支払うメートル制が導入され、いつでも電気がつくようになりました。
 明るさは16燭で20ワット、32燭でも40程度の明るさでしたが、それれでも行灯やランプよりははるかに明るく手間もかからず安全であつたので、大いに歓迎され普及していきました。

武蔵国郡村誌 古里村(現・嵐山町) ルビ・注

   古里村(ふるさとむら) 【現・埼玉県比企郡嵐山町大字古里】


本村古時伊子郷(ごう)*1、水房庄(しょう)*2松山領(りょう)*3に属す。
  *1:もと行政区画が国・郡・郷・村とあり数村を合せたものを郷と呼んだ。
  *2:郷と並び称されるが元荘園の名を受け継いでいる土地の呼び方。
  *3:大名等の領地。


彊域(きょういき)*1
東は男衾郡塩村と耕地を接し、西は西故里(にしふるさと)*2鷹巣二村と森林を連(つら)ね、南は本郡吉田村、男衾郡古里村に接し*3、北は板井、本田二村と畦畔(あぜ)を接す。
   *1:境界内の土地。
   *2:西古里。    
   *3:「男衾郡古里村に接し」は、誤り。

幅員(ふくいん)*1
東西十七町五十間。南北十五町五十間。

   *1:広さ。はば。
  
管轄沿革
天正十八年庚寅(かのえとら)(1590)徳川氏に帰し代官の支配たり。正保の頃(1644-1647)村高三百十九石六斗三升七合を割(さ)き旗下士酒井紀伊守、有賀半左衛門、内藤権右衛門、松崎権左衛門、長井七郎右衛門の采地(さいち)*1となし、余は猶代官に属す。宝暦中(1751-1763)代官属地は清水家の領地となり、寛政中(1789-1800)代官に復す。元祿十一年戊寅(つちのえとら)(1698)酒井氏の采地は上地(じょうち)*2となり、林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛に分与す。延享二年乙丑(きのとうし)(1745)松崎氏の采地を割(さ)き伊織に分つ。後代官属は再ひ清水家の領地となり、安政二年乙夘(きのとう)(1855)復(ふたた)ひ代官の支配となる。維新の際武蔵知県事の所轄となり、二年己巳(つちのとみ)(1869)品川県となり尋(つい)て*3韮山県に転し、四年辛未(かのとひつじ)(1871)入間県に隷(れい)し*4、六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県に属す。
  *1:知行地。
  *2:上知。幕府に拝領地を返すこと。あげち。
  *3:ついで。まもなく。
  *4:所属する


里程(りてい)*1
熊谷県庁より西方二里二十町。
四隣 吉田村へ十八町、西故里村(にしふるさとむら)へ十六町、本田村へ一里、板井村へ十六町三十間、塩村へ十五町。
近傍(きんぼう)*2宿町小川村へ一里二十町、榛沢郡寄居町へ三里五町。
   *1:みちのり。里数。

   *2:付近。         

地勢
東西は丘陵連亘(れんこう)*1、運輸不便、薪炭贏餘(えいよ)*2。
  *1:連亙。つながって長く続いていること。
  *2:あまり。剰余。


地味(ちみ)*1
色赤黒、水利不便、時々旱害(かんがい)*2を被(こうむ)る
  *1:地質の良否の状態。
  *2:干害。ひでりのために生じる農作物等の被害。


税地
田  三十二町七反七畝歩
畑  三十町二反五畝二十七歩
宅地 一町九反一畝二十八歩
山林 九町一反二十一歩
総計 七十四町五畝十六歩


字地
前田(まえだ) 村の南にあり、東西百三十間、南北百間。
明時(みょうとき) 前田の東に連る。東西二百間、南北八十間。
下耕地(しもこうち) 明時の東北に連る。東西二百三十間、南北五十間。
駒込(こまごめ) 下耕地の西に連る。東西百四十間、南北三百間。
岩根沢(いわねざわ) 駒込の西に連る。東西五十間、南北三百五十間。
長峯沢(ながみねざわ) 岩根沢の西南に連る。東西八十間、南北三百間。
尾根(おね) 長峯沢の西に連る。東西百八十間、南北百五十間。
向井(むかい) 尾根の西に連る。東西百間、南北百八十間。
薮谷(やぶやつ) 向井の西に連る。東西百八十間、南北四十間。
中内出(なかうちで) 薮谷の西に連る。東西百間、南北二百四十間。
内出(うちで) 中内出の南に連る。東西百間、南北百五十間。
神伝田(しんでんだ) 内出の西に連る。東西百八十間、南北百七十間。
上耕地(かみこうち) 神伝田の西南に連る。東西二百間、南北百三十間。
柏木(かしわぎ) 上耕地の東に連る。東西六十間、南北二百六十間。
道参山(どうさんやま) 柏木の西に連る。東西二百間、南北六十間。
神山(かみやま) 道参山の南に連る。東西二百五十間、南北二百四十間。
御領台(ごりょうだい) 神山の北に連る。東西百七十間、南北百間。
富士塚(ふじづか) 御領台の東北に連る。東西百二十間、南北二百六十間。
馬内(もうち) 富士塚の西に連る。東西百四十間、南北二百間。
原後(はらご) 馬内の北に連る。東西四百七十間、南北五十間。
林合(はやしあい) 原後の南に連る。東西三百間、南北百二十間。
中の下(なかのした) 林合の南に連る。東西二百間、南北百間。
新林(しんばやし) 中の下の東北に連る。東西百二十間、南北百六十間。
蟹沢(がんざわ) 村の中央にあり、東西百七十間、南北二百六十間。
二塚(ふたつか) 蟹沢の東に連る。東西百六十間、南北三百間。
茨原(いばら) 二塚の北に連る。東西百八十間、南北二百間。
保井(ぼい) 茨原の北に連る。東西二百間、南北七十間。
元全町(がんぜんまち) 保井の東に連る。東西二百五十間、南北五十間。
清水(しみづ) 元全町の南に連る。東西百三十間、南北二百間。
善久(ぜんきゅう) 清水の東に連る。東西九十間、南北二百五十間。
上土橋(かみどばし) 善久の東に連る。東西百二十間、南北二百二十間。
下土橋(しもどばし) 上土橋の北に連る。東西百四十間、南北九十間。


貢租
地租 米百三十七石四斗四升八合
    金三十四円三十七銭二厘
賦金(ふきん)*1 金二十五銭
総計 米百三十七石四斗四升八合
    金三十六円五十二銭二厘
  *1:割り当てられた金銭。賦課金。


戸数
本籍 七十九戸 平民
社  八戸  村社一坐 平社七坐
寺  二戸 天台宗一宇 曹洞宗一宇
総計 八十九戸


人口
男 二百十二口
女 二百九口
総計 四百二十一口


牛馬
牡馬三十一頭


舟車
荷車三輛 中車


山川
和田川 深二尺八寸、巾八尺。村の西方本田村より来り東方板井村に入る。其間二十二町。


道路
熊谷往還(おうかん)*1 村の東方塩村界より西南西故里(にしふるさと)村界に至る。長十一町一間一尺、道巾二間。
  *1:街道。主要な道路。


湖沼
駒込溜池 東西十五間、南北四十間、周回百十間。村の寅(とら)の方*1にあり田の用水に供す。
   *1:東北東の方位。

岩根沢溜池 東西十二間、南北四十間、周回百四間。村の寅(とら)の方にあり田の用水に供す。

薮谷溜池 東西二十五間、南北五十間、周回百五十間。村の子(ね)の方*2にあり田の用水に供す。
 *2:北の方位。

神山溜池 東西三十間、南北十五間、周回九十間。田の用水に供す。

林合溜池 東西二十五間、南北十五間、周回八十間。村の亥(い)の方*3にあり田の用水に供す。
   *3:北北西の方位。


蟹沢溜池  東西二十五間南北百二十間周回二百九十間村の子(ね)の方にあり田の用水に供す

神社
舳執社(へとりしゃ) 村社。社地東西十間、南北十五間、面積百五十坪。村の中央にあり武甕槌命(たけみかづちのみこと)*1を祭る。祭日九月十九日。社地中老樹あり。
  *1:剣の叩武道の叩

 
 稲荷社 平社。社地東西十一間、南北二十一間、面積二百三十一坪。村の東北にあり倉稲魂命(うかみたまのみこと)*1を祭る。祭日二月初午(はつうま)。社地中松の老樹あり。
  *1:五穀豊穣をもたらす神。

 
 愛宕社(あたごしゃ) 平社。社地東西九間、南北六間、面積五十四坪。村の東方にあり火産靈命(ほむすびのみこと)*1を祭る。祭日六月十五日。
  *1:火難除けの神。

 
 八幡社 平社。社地東西四間、南北十二間、面積四十八坪。村の西にあり誉田別尊(ほんだわけのみこと)*1を祭る。祭日八月十五日。
  *1:記紀の第15代応神天皇。仲哀天皇の皇子で、母は神功皇后。


天神社 平社。へ執社地中にあり菅原道真を祭る。祭日二月二十五日。

 
日枝社(ひえしゃ) 平社。社地東西八間半、南北十七間、面積百四十五坪。村の西にあり大山咋命(おおやまくいのみこと)*1を祭る。祭日九月七日。
  *1:家内安全、豊業振興の神。

 
 小女郎社(こじょろうしゃ) 平社。社地東西九間、南北七間、面積百四十五坪。村の西に帛幡千々姫(はくはたちぢひめ)*1を祭る。祭日一月十五日。
  *1:『七郷村誌原稿』では、「帛」ではなく、拷幡千々姫(たくはたちぢひめ)。高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の女(むすめ)。穀霊神の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の母。

 
山神社 平社。社地東西九間、南北十二間、面積百八坪。村の西にあり大山祗命(おおやまづみのみこと)*1を祭る。祭日一月初申(さる)。
  *1:山の神。神奈川県伊勢原市大山の阿夫利神社の祭神と同じ。


仏寺
瀧泉寺(りゅうせんじ) 東西二十一間、南北三十八間、面積九百坪。村の北方にあり。天台宗東京山王社別当勧理院の末派なりしか、維新の際浅草寺末となる。当寺は旧(も)と光林寺と称せしを、慶安三年(1650)僧真海中興せしとき今の寺号に改むと云。

 
重輪寺 東西六十四間、南北五十間、面積三千坪。村の西方にあり。曹洞宗上野国群馬郡白川村瀧沢寺の末派なり。慶長二年(1597)僧理山銀察開基す。


役場
事務所 村の中央。戸長宅舎を仮用す。


物産
繭 五十三石
米 二百四十石
薪 六百駄


民業
男女農桑山稼(かせぎ)を専とす。

古里の土地開発 1870年

 1870年(明治3)6月韮山県役所へ開拓の願出があった。願出た人物は古里村の横田裕次郎知行所(28石余)の小前役人総代の百姓代兼吉と名主の藤吉である。
 御一新になって徳川領はすべて上知(政府へ土地を返納すること)されていたので旗本横田氏の所領も新政府韮山県の支配下にあった。出願された韮山県も誕生間もなく土地をどう所有するのか、どう管理運用するのか定説も法制もなかったので混乱していたと思われる。幕政下では領主に願い出れば穏田(かくしだ)とならない限り、収入増(年貢が増える)となることでむしろ奨励された。
 「村明細帳」や「年貢割付帳」にはしばしば「新開」として記されている。
 例えば吉田村の「明細帳」に
    外
  新開 中畑  壱反壱畝拾歩
  同  下畑  七反弐畝歩
  同  下々畑 五反八畝六歩
 右之内五反五畝山ニ相成申候
とあり、十四反開発しても、三分の一は畑として使えなくなったことを報告している。
 開発には莫大な労力かかっていても、それに見合う収益が必ずしも得られないという恨みはあった。
 そうした事情があってか兼吉・藤吉は同年三月に願い出たが許可にならず、今回二度目の出願取調べとなった。
 開発の場所は古里村字馬内(もうち)と熊谷から小川に通ずる往還の間の旧地頭林(領主の私有する山林)三反歩(約九百坪)のところである。5年前の1865年(慶応元)に地頭所において残らず伐木し、今では藪山(雑草雑木の密生しているところ)となっている所であった。2人は今回更に麁絵図(略図)を貼付し、1871年(明治4)から3ヵ年間、毎年永86文宛上納する事を条件に申し出た。
 開発側にしてみればここを切り開き作物を作ってみても、成功するかどうか分からない、それでも年86文の上納約束をしてまで許可を受けたかった。土地についての考え方も変ろうとしていた時期だったのだろう。
 新政府は1871(明治4)には「田畑勝手作」を許可し、翌年には「土地永代売買禁令」を解除、「地券」(土地の所有者、地目、反別、地価を明記したもの)の発行を定めた。土地に関する規制や運用が緩和され、全国で開発が進み、やがて北海道への開拓へと進んでいった。

新編武蔵風土記稿 古里村(現・嵐山町) ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。
 
  古里村(ふるさとむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字古里)

古里村ハ江戸ヘノ行程(こうてい)前村ト同ジ*1。郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)ヘ詳(つまびらか)ナラズ。東ハ土塩村(つちしおむら)ニ隣リ、南ハ吉田村ニ錯(まじわ)リ、西北ノ二方ハ男衾郡(おぶすまぐん)西古里・本田ノ二村ニ接(せつ)ス。東西十七、八町(ちょう)、南北八町*2許(ばか)リ。民戸七十。正保(しょうほう)ノ頃(1644-1648)ノモノニハ高室喜三郎(たかむろきさぶろう)御代官所及ビ酒井紀伊守(さかいきいのかみ)、有賀半左衛門(ありがはんざえもん)、市川太左衛門(いちかわたざえもん)、内藤権右衛門(ないとうごんえもん)、松崎権左衛門(まつざきごんざえもん)、永井七郎右衛門(ながいしちろうえもん)ガ知行*3トアリ、後宝暦(ほうれき)年中(1751-1764)ニ至リ御料所(ごりょうしょ)*4ノ分ヲ清水殿ノ領地ニ賜(たまわ)リシニ、寛政(かんせい)年中(1789-1801)上リテ又御料所トナレリ。松崎権左衛門ノ知行ハ子孫権左衛門忠延(ただのぶ)ノ時、延享(えんきょう)二年(1745)七月二男松崎伊織幸喜ニ分テリ。酒井紀伊守ノ知行ハ子孫兵部(ひょうぶ)ノ時上リテ元祿十一年(げんろく)(1698)林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛ガ家ニ賜リ、今モ此等ノ子孫、永井五左衛門、市川瀬兵衛、内藤熊太郎、有賀滋之丞(しげのじょう)、松崎藤十郎、同キ弥兵衛、林半太郎、横田源太郎、森本惣兵衛ノ知行所ナリ。
  *1:前村(奈良梨村)から江戸までの行程17里と同じ。
  
*2:1町は約109メートル。
  
*3:領知。領地。
  
*4:幕府の直轄地。

 高札場(こうさつば)*1 十ヶ所ニアリ。
  *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

  小名(こな) 中内手(なかうちで) 峯内手(みねうちで) モウチ

 滑川(なめがわ) 南ノ方吉田村ヨリ来ル水、村内小渠(しょうきょ)*1ノ悪水(あくすい)*2ニ合シ、一条*3ノ流トナリテ東ノ方ヲ通ズ。川幅四、五間。
  *1:小さな堀。
  
*2:水田の水を落とす小川。排水路。用水の反対語。悪水堀。
  
*3:一筋。

 兵執明神社(へとりみょうじんしゃ)*1 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ。社内ニ蔵(ぞう)スル宝永(ほうえい)七年(1710)ノ棟札(むなふだ)ニハ兵執明神ト書セリ。
  *1:武甕槌命(たけみかづちのみこと)を武勇の神として祀る。

 愛宕社(あたごしゃ)*1
  *1:雷神を祀り、防火の守護神。

 稲荷社(いなりしゃ)*1
  *1:五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神を祀る。

 以上三社ハ竜泉寺持。

 竜泉寺(りゅうせんじ) 天台宗*1、江戸山王社(さんのうしゃ)別当(べっとう)城林寺ノ末、金剛山(こんごうさん)金州院(きんしゅういん)ト云ヒ、開山(かいさん)ノ僧ハ貞治三年(じょうじ)(1364)十月示寂(じじゃく)セシ*2ト云フノミ。其名詳ナラズ。当寺ハモト光林寺(こうりんじ)ト号セシヲ、慶安三年(けいあん)(1650)真海(しんかい)ト云フ僧中興(ちゅうこう)セシ時今ノ寺号ニ改メタリ。真海ガ寂年(じゃくねん)*3詳ナラズ。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*4ヲ安セリ*5。
  *1:平安時代に中国で学んだ最澄(さいちょう)が、帰国して比叡山に延暦寺をつくり、新しく開いた仏教の宗派。空海の開いた真言宗とともに平安仏教の中心になった。
  *2:死亡する。
  
*3:死亡した年。
  
*4:阿弥陀(あみだ)の略。
  
*5:安置する。

 重輪寺(じゅうりんじ) 元ハ重林寺ト書セリ。曹洞宗(そうとうしゅう)*1、上野国群馬郡白川村竜沢寺末、旧里山ト号ス。慶長(けいちょう)年中(1596-1615)ノ草創ニテ、開山理山銀察(りざんぎんさつ)ハ寛永十年(かんえい)(1633)十一月廿五日化ス*2。本尊地蔵*3ヲ安セリ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
  
*2:死亡する。
  
*3:地蔵菩薩。

神社明細帳 村社 兵執神社 古里村(現・嵐山町)

埼玉縣武蔵國比企郡七郷村大字古里字中内出
村社(そんしゃ) 昭和二一、一○、一五 法人登記済
                    兵執神社(へとりじんじゃ)
一 祭神(さいじん)
   武甕槌命(たけみかづちのみこと)*1
     *1:武勇の神。

一 由緒(ゆいしょ) 不詳(ふしょう)
   明治四年(1871)中、村社届濟(とどけずみ)。
   明治二十二年(1889)七月六日社殿改築許可
   明治三十六年(1903)四月二十日上地林(あげちりん)壱反五畝壱歩境内編入許可。
   大正五年(1916)四月十三日神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)*1供進神社ト指定。
     *1:神への供物料。

一 社殿 本殿
一 境内 七百八坪(つぼ
     「決 昭和二十四年八月三十日 七二二坪六合」
一 氏子 八拾四戸
一 境内神社
   天神社(てんじんしゃ)
     祭神(さいじん)
       菅原道真公(すがわらのみちざねこう)*1
     *1:学問の神として崇拝された。

     由緒(ゆいしょ) 不詳(ふしょう)
     社殿 本殿

   愛宕神社(あたごじんじゃ)
     祭神
       火産靈命(ほむすびのみこと)*1
       素盞嗚尊(すさのおのみこと)*2*
       拷幡千々姫命(はたちじみのひめのみこと)*3
       倉稲魂命(うかみたまのみこと)*4
     *1:火難除けの神。
     *2:建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)・須佐乃袁尊。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。
     *3:紡織の神。
     *4:五穀をつかさどる神。

     由緒 明治四十年(1907)六月六日字尾根無格社愛宕神社、境内社八坂神社、字上耕地無格社小女郎神社、字清水無格社稲荷神社ノ四社ヲ境内神社トシテ移轉合祀ス。
     社殿 本殿
   八幡神社
     祭神 品陀別命(ほんだわけのみこと)*1
        大山咋命(おおやまくいのみこと)*2
        大山祇命(おおやまつみのみこと)*3
     *1:応神天皇。
     *2:山の神。
     *3:山の神の総元締め。

     由緒 明治四十年(1907)六月六日、字馬内無格社八幡神社、字藤塚無格社日枝神社、字蟹沢無格社山神社ノ三社ヲ境内神社トシテ移轉合祀ス。
     社殿 本殿

     埼玉県立文書館所蔵『比企郡神社明細帳』

※社殿内の奉納額など
1
IMG_8978

2
IMG_8981

3
IMG_8996

4
IMG_8973

5
IMG_8975

6
IMG_8995

7
IMG_8987

8
IMG_8989

9
IMG_8988

10
IMG_8977

11
IMG_8992

※兵執神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1435頁
兵執神社

私の100話 目次(更新) 大塚基氏 2011年

目次
はじめに

1.ぶっちゅめ

2.昆虫採集

3.消防小屋の蛾

4.はなどりとしんどり

5.天王様と旗もち

6.さかなとり

1)さかな釣り

2)おきばり

3)とりかい

4)よぼり

5)かえどり

7.たなばた

8.からねこ

9.じんとり

10.けだし

11.竹馬

12.どこらふきん

13.お正月

14.ガシャガシャとり

15.やまし

16.夜まわり

17.てんぐだんご

18.うさぎ

19.やぎの世話

20.朝草刈り

21.薪づくり

22.めじろとり

23.お蚕様
1)蚕室

2)お蚕あげ

3)わらまぶし作り

4)桑つみ

5)繭だし

6)桑原きっかけ

24.子供の夜遊び

25.しょいたとやりん棒

26.氏神様と井戸さらい

27.我が家の母屋

28.子供の使い

29.古里駒込墓地の話

30.八坂神社

31.たにあ

32.馬内(もうち)

33.きのこ

34.飯島稲荷

35.おまいり

36.たなぐさとり

37.アイスキャンデー屋さん

38.稲刈り

39.麦まきと手入れ

40.にわとり

41.帰ってきた伝書鳩

42.納豆屋さん

43.盆やぐら

44.四郎次さん

45.ほたる

46.水あび

47.雨ごい

48.道草

49.丸木橋

50.流れ人

51.藤塚の阿弥陀如来像

52.小便町

53.粘土シャンプー

54.さわ蟹とえび蟹

55.うどんつくり

56.はたおり

57.お風呂

58.風呂たき

59.さなぶり

60.かや(蚊帳)

61.ひるね
62.溝あげ
63.いっそう作り
64.つばめ
65.さつまいもほり
66.熊谷の花火
67.野良弁当
68.花祭り(潅仏会)
69.我が家のねずみ
70.相生の松
71.蚕屋の煙突と屋根裏

72.屋根の葺き替え
73.桑の木の皮むき
74.井戸の水源探し
75.天気予報
76.むじなの嫁入り
77.ひーおばあさん(曾祖母)
78.ガラスうけ(筌)
79.さとうだんご
80.おなめ
81.大豆はたき
82.こんにゃく玉干し
83.おひな様
84.石うす
85.こたつとあんか
86.お土産のようかん
87.焼き餅
88.春蝉(松蝉)
89.野山の恵み
90.ガッチャンポンプ
91.洗たく
92.お正月の準備
93.松の内の行事
94.小正月の準備
95.小正月の行事
96.恵比寿様
97.節分
98.お盆様
99.お月様
100.しろうと演芸会
あとがき

私の100話 あとがき 大塚基氏 2011年

 明治維新は、それまでの日本の中で如何にあるべきかであった日本人の在り方を、世界の中で如何にあるべきかであるかと大きく変えました。
 しかし、日本人の生活の基盤は農林業や漁業の第一次産業であって、地方に残る遊びなども含む伝統文化、生活様式は、変化がありながらも脈々と息づいていました。
 そして、家族や地域を大事にする心情にも変わらぬものがありました。
 しかし、第一次世界大戦での敗戦で味わったどん底の生活の中から、日本が産業経済大国へと駆け上がる過程で、従来の価値観の崩壊と生活のリズムに大きな変化が生まれました。住居も茅葺屋根から新建材主体の建物に変わり、生活様式、生活観も完全に変わりました。子供の遊びも、大人の遊びもいろいろな年中行事も、そして仕事をするやり方までも180度と言われるほどの変化を遂げました。
 そこで、まだ戦前の流れと雰囲気が其処ここに残っていた昭和20年代後半から30年代を、過敏なる子供時代として過し体験した者として、その頃の知ったこと、その当時の生活の事柄を、完全に忘れ去る前に活字にしてまとめておく必要性を感じました。
 それから2年、記憶が定まりきれずに「だったと思う」と書かざるをえないところも多々有りました。しかし、疑問に感じる所は真実を追求してその都度書き直すこととして、ここに100ばかりの小話としてまとめる事ができました。
 今から50〜60年前の、子供の目で見て感じた農家の生活の香りを、少しでも嗅いでいただければ幸いに思います。
LINKS
記事検索
最新コメント
最新記事(画像付)
Categories
GO! GO! 嵐山
GO! GO! 嵐山 2
GO!GO!嵐山 4
里やまのくらしを記録する会
嵐山石造物調査会
武谷敏子の自分史ノート
嵐山町の古文書を読む会