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吉田

出水と窮民救済

 1870年(明治3)年7月14日(新暦8月10日)から降り出した雨は激しく、市之川、野原川、滑川、都幾川、加須川等は水嵩(みずかさ)が増し、20日より23日に至って、遂に荒川が決壊、田畑は水冠することとなった。越畑・土塩・菅田・菅谷・広野五ヶ村役人惣代広野村名主竹次郎は韮山県役所へ「田方出穂前畑方者草育肝要之節一円水冠ニ合成 −(中略)− 可立直様子も無御座候」(藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」)と届出ている。志賀の1870年(明治3)の御用留にも「当年出水等ニ而亡所出来 −(中略)− 破損流出等致候分巨細取調可申出候」(志賀一区有文書121「明治三年御用留」)との被害調査を通達している。

 出水騒動は治水の悪かった時代には頻発したことだろうが、1870年(明治3)のこの地域の出水は広範にわたり、その被害は時期が出穂前で根こそぎ流されたため、一粒の米も収穫出来ず、立直ることの出来ない状況であったと思われる。その結果多くの困窮した農民が現出されることとなった。

 維新による混乱は農民生活を圧迫し、吉田村においては 1870年(明治3)身元の良い者が出穀して困窮者へ割渡した書付が韮山県役所に出されている。名主彦右衛門他三名が銭拾貫文づつ計四拾貫文出し、これを和三郎他四名に一人壱貫八百拾七文ツヽ、家族の人員に応じて与えた様子が「融通書上帳」(藤野治彦家文書157)に記録されている。

 この様な状況のところへ取水による被害が追打をかけることになった。彦右衛門はその対策として、10月に三百拾六貫八百文を五ヶ年にわたって積立、貧民救方手当とすることを役所に届出、「窮民救助遣候」と裁可になった。どの様に配分されたか不明だが、五ヶ年で金にして百四拾四両が積立てられ窮民救済に当てられた。韮山県は彦右衛門他三名に対し「村方去秋稀成凶耗ニ而貧民夫食(日々の食糧)にさし支窮迫見聞ニ忍ひす飢民救助いたす段奇特之事」として褒状を与えている。こうした例は古里村の名主常三郎に対しても出されているので、窮民救済は随所におこなわれ、それ程出水の被害も大きかったのだろう。

  『参考史料』 藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」

           志賀一区有文書121「明治三年御用留」

           藤野治彦家文書157「融通書上帳」

           藤野治彦家文書168

           中島立男家文書541

賃貸された荷車

 二つの大きな車輪がついて人の引く木製の荷車を、嵐山町域では、ニグルマ、ダイハチグルマ、タカハグルマ、ダイシャ等と呼んでいたようである。明治期から太平洋戦戦争後にリヤカーが普及するまで、荷車は農作物、繭、肥料、薪炭、貨物の運送手段として使われてきた。

 1893年(明治26)、七郷村吉田の藤野長太郎外七人は荷車1輌を6円50銭で購入した。この年、同村越畑では、米1俵が3円31銭で小川町の米屋に販売されているので、この荷車の値段は、米2俵分に相当する。荷車は、ボウヤという車大工に作ってもらう高額な品物であった。

 1876年(明治9)に編さんされた『武蔵国郡村誌』には、嵐山町域16ヶ村の荷車の記載がある。保有数は、鎌形村が18輌と多いが、6ヶ村はナシ、他はあっても1、2輌で、合計31輌、32軒に1輌という保有率、車の大きさ別では中車23、小車8である。1911年(明治44)には、菅谷、七郷2村合計で91輌に増加し、12軒に1輌の割合となったが、その後も、すべての農家が荷車を保有するまでにはならなかった。

 吉田の共同購入された荷車は、共同所有者の8軒が使用しない時には貸し出されていた。賃貸料は一日4銭で、1896年(明治29)には、17回貸し出され、合計80銭の収入があった。貸出先は、吉田が大部分であるが、勝田、越畑、八和田村中爪(現小川町)にまで及んでいる。貸し出された時期は12月から1月に集中している。

 年間賃貸料としての80銭はどう遣われたのか。1月と5月に車税として25銭ずつ、2回で50銭、村税営業割が6銭3厘と6銭2厘で12銭5厘となり、合計62銭5厘が納税されている。税制度の細則を調べてみる必要があるだろうが、1875年(明治8)布告の車税規則では、荷積車は大きさにより、大七、大八は年間1円、中小車(大六以下)は50銭が課税され、耕作のみに使用される車は免税とされていた。納税後の残金17銭5厘に営業的な価値があったかどうか判断しがたいが、自他共に利するところは大いにあったと思われる。

   博物誌だより88(嵐山町広報2001年11月号掲載)から作成

草莽の師 塩村の千野文太郎

 千野文太郎は1819年(文政2)、塩村(現・熊谷市、旧・大里郡江南町)に生まれた。文太郎は俗称で、姓は千野、名は賢隆と称した。性格はおとなしく、気立てが良く、正直で誠実な人柄であった。農に従事して怠ることがなかったが、時には薪を馬の背にのせ、市に行って売り、帰りには酒をしたたかに飲んで上機嫌で馬にゆられ、詩歌を吟じ帰ったと云う様で村夫子然としたところもあった。
 幕末の儒者寺門静軒は文太郎を評して、「農耕しては食し、機織しては衣とすれば、体は苦労だとしても心は安閑としていられる。農人は羨ましい」と農民学者文太郎を羨んでいる。農業の傍ら学芸にも精進した。学問や書においては「声譽(せいよ)(よい評判)を馳す」という風で世間でも良い評判を得ていた。俳諧・和歌にも秀で、
蟻通と号していた。1878年(明治11)9月、大里巡幸を拝して「巡りあふ月の宮古そ十き鏡」の秀句が残されている。又生花投げ入れにも巧で一民と称していた。世に言う在野の文人であった。
 性格が温順・誠実で農業を愛し、高い学芸を体得し、春風駘蕩とした生活を持している人物のもとに人が集まって来るのは当然であった。彼は自宅に質素な学塾を開いていたのであろう。その人格・学徳を慕って弟子達がその門に集まり、皆、彼を先生と称して、敬意を払って接していた。
 又、彼は塩村の戸長でもあった。1885年(明治18)9月、飯島岡右衛門の養嫡子が不和で離別した手続きに不都合があって、遅れ迷惑をかけたことへの始末書を、戸長千野文太郎の名において県令吉田清英へ提出している。こんな他人の民事的なことにまで責をおって始末書を出している。政治的には不向きな人であったろうが、誠実な性格の良く現れた出来事であったと言えるだろう。
 1897年(明治30)8月発起人飯島貴寿等によって「師恩ノ万一ニ報センガ為メ」に建碑を思い立った。その趣意書ともいうべき「謝恩録叙」に「吾師蟻通千野先生温厚篤実、人ニ教テ倦マス、故ニ郷党ノ子弟贄(にえ)ヲ執テ(入門の礼として進物を差上ること)子来ス」と、人柄の良さと飽くなき教育への情熱を慕って近隣の村々から集まった多くの門弟達は「其門ニ入テ其教ヲ承(う)ケ而(しか)シテ今ヤ世ニ処シ人ニ交リ稍(やや)過失ヲ少クスル真ニ先生ノ賜(たまもの)ナリ」と、先生のお陰をもって世に処し、大過なく生きてゆく事ができたと、その薫陶に感謝している。
 1898年(明治31)11月文太郎は79歳の長寿をもって他界された。「千野文太郎翁会葬式役割記」によれば先生の遺徳を偲ぶが如く、葬儀は神葬祭をもつて盛大に執行され、多くの門人達が参列した。墓は塩村の千野家墓地にあり、戒名は「普教院以文弘道居士」と諡(おくりな)された。文を以って道を弘めるという文太郎にとってその生涯に相応しいものであった。
 そして翌年12月、門弟たちによって念願の顕彰碑が塩村字塩東(熊谷・小川道の途中、塩村の俗称おおまがり付近)に建てられた。篆額(てんがく)(碑の上部に篆文で書かれた題字)は枢密院顧問官・子爵杉孫三郎の書で「千野君碑」とあり、其の下に碑文が刻まれている。その文章はかつて寺門静軒翁撰と記された175文字の碑文原稿と酷似している。両者を考え合わせれば高位の方が筆を振るい、高名な儒学者が文を草したということは千野文太郎がそれだけ高い評価を得ていたことを示すものということが出来ると思う。
 碑の裏面に有縁の方々の名が刻まれている。筆弟56人中、古里の人11人、吉田の人13人、建碑の発起人の中には、古里の飯島貴寿、中村武八郎、安藤富五郎、越畑の久保三源次、吉田の鞠子万右衛門、小林所左衛門、小林三右衛門。幹事に古里の飯島平六、田嶋三津五郎、吉田の内田源七。いずれも門弟で薫陶を受けた人々で、後年村の指導的立場にあって活躍した方々であった。千野文太郎先生の学塾のあった塩村は熊谷・小川道にそった古里の東隣七町(750メートル位)のところにあり、わが郷党から門弟達が通い易いところにあった。従って見られる通りの多くの門弟が教えを受けることが出来た。千野文太郎先生を大いに顕彰し、厚恩に謝せねばなるまい。


※寺門静軒(てらかどせいけん)(1706-1868):「江戸小石川水戸藩邸内に生まれる。江戸時代の儒学者。江戸駿河台に克己塾を開いて子弟を教育し、著書である「江戸繁昌記」がベストセラーとなったが、風俗を乱すものとして江戸追放となり、各地を流転。奈良・四方寺の吉田家などに寄寓しながら、安政6年に妻沼・歓喜院に入り「両宜塾(りょうぎじゅく)」を開きました。その門弟には竹井澹如、石川弥一郎らがいます。鎌倉町・石上寺に寄寓後、晩年は親交深い根岸家に身を寄せ、邸内の三余堂で塾生を指導していました。(熊谷市のHPより引用)

村の法度 五人組帳

 江戸時代の農民統制は領主にとって極めて大切なことであった。この時代の経済の基本が米価であり、所有する土地からの米の収穫高(石高)が人の地位価値を決めるほどであったから、「農は国の大本」といわれ、それに従事する者の身分は「士農工商」と社会の第二に置かれていた。従って幕府・領主の農民に対する政策は重要な課題とされてきた。その一端を示すものが「法度」である。法度というのは掟(おきて)・禁令・触(ふれ)・議定等名称は区々であるが、生活を規制・拘束する法律の総称である。
 農村に対してはどんな法度が課せられたのだろうか幕府の庶民統制として知られている制度に「五人組」制度がある。五人組は五戸前後の家を組み合わせて設置されたもので、年貢の納入、キリシタン・浪人の取り締まり、日々の生活にまで立ち入って、彼等に連帯責任、相互監察の役目を負わせ、支配の末端組織として重要な役割を荷(にな)わせた。名主は「五人組帳」というものを毎年領主に差し出した。この五人組帳には組員全員が署名捺印している部分と、その前に彼等が守らなければならない法度が数々記された部分とがあり、この法度の部分を「五人組帳前書」といつている。
 1836年(天保7)、吉田村の「五人組帳」の前書を見て行こう。この五人組帳は「山本大膳版」と刻印され、木版仕立のものであり、旗本山本大膳(600石)の知行所全部へ配布されたものと思われる。
 冒頭次ぎの様に述べて、五人組のあり方をしめしている。

一、兼(か)ねて仰(あおせ)出され候通大小百姓五人組を極(き)め置き、何事によらず五人組内にて御法度に相背(そむ)き候義は申上るに及ばず、悪事仕(つかまつ)り候もの之有り候はばその組より早速申し上べく候、 (中略) 若(もし)五人組に外れ申し候もの御座候はば名主組頭曲事(くせごと)(法に背く事柄)に仰附らるべく候事

 即ち大百姓から小前、下人に至るまで全てを五人組で組織し、組員で法度に背いたものを報告させ、若し隠しておいて他から判明した時は五人組員、名主全員が処罰された。謂所五人組のあり方は連帯責任制であり相互監視で、そのことを始めに規定している。五人組帳前書の内容項目は地域、時代により区々であり数か条から五十ヵ条、百ヵ条にも及ぶものもあったが、この吉田村のものは12項目で、比較的少ないものであった。1項目は前書のとおりであるから第2項から逐条概略見ておこう。

 一、欠落(かけおち)者、あやしき者、一人(ひとり)者に宿を貸さぬこと。
  但し縁者のときは名主組頭で穿鑿(せんさく)し証人を立て許可すること。
 一、手負い(傷を負っているもの)行き倒れ(病気、疲れ、寒さ等で路上に倒れること)        の者があれば報告すること。煩っている者は看病し早速申し上げること。
 一、奉公人の請け人(保証人)には猥(みだ)りにならぬこと。
 一、浪人を抱え置くときは名主に申上げよく理解し請け人を立て手形を取って役所      役所の帳簿に記載すべし。
 一、切支丹宗門御制禁のこと。不審なる者は捕らえ置くこと。また召仕(めしつかい)等は寺請状(庶民がキリシタン信徒でなく寺の檀家であることを檀那寺に証明させた書状)を取り入念吟味すること。
 一、耕作商売もせず遠国まで遊び歩き博奕(ばくえき)賭け事を好み不似合いの衣裳を着るような不審なる者あれば早速報告すべし。一夜泊まりで他所へ外出するときでも行き先用事の仔細を名主五人組へ断るべし。
  附り、 盗人訴人は密々御役所の定めの筒に書付を入れること。
 一、鉄砲は許可ある以外所持すべからず。
 一、聟取養子取は名主組頭立合い念を入れ後日争いにならぬようにすべし。
 一、婚礼の節は貧富によらず一汁一采有り合わせの野菜肴二種に限り、過酒をせず、衣類櫛簪等は華美にならぬこと。
 一、婚礼の節は奢ることなく名主組頭の内一人立合い客は親類組合本家分家に限るべし。
 一、婚礼の節大勢にて申し合わせ途中にて妨害したり、船着場で船頭穢(え)多(た)非人祝儀をねだったりすることあれば訴出るべし。

 末尾に「月々再々読諭し悪事に移らず善事に導候様心掛け申すべし」とむすんでいるので、毎月五人組の者共へ読んで諭しこの法度を徹底させようとした意図が窺える。なおこの法度に違背したものがあれば組合員は言うに及ばず、村役人までも罰せられることが再度うたわれている。
 更に1838年(天保9)には鉄砲の再調査があり「議定連形之事」として「相改候得共鉄砲は勿論筒台似寄候品にても一切無御座候」と山本・松下・菅沼・折井知行所村々小前全員が署名捺印して報告している。鉄砲の不法所持の禁止取締りである。
 又1858年(安政5)には「議定一札之事」として「博奕宿は申すに及ばず二銭壱銭之諸勝負事一切致間敷候」と山本・松下・菅沼知行所小前役人連印して議定書を提出している。
 そして又、1866年(慶応2)、「組合村々一同相談之上議定取極御趣意左之通り」と組合村々31ヶ村が評議して次の事柄を議定し連印の上報告した。その内容は、

 一、婚礼・紐解(幼児が附け帯をやめ帯を用いる祝)・孫祝(初子の誕生祝)等の祝儀 の折酒は一切無用、婚礼のみ酒一升、客は両隣、組合総代、親類総代、村役人各一人とすべし
 一、葬儀に酒は無用、追善法事も質素にすべし
 一、諸振舞(饗応すること)の儀は相止めるべし
 一、九月九日の日待ちに客の行来を止め、初米を神仏に備える儀は家内限りとすべし
 一、正月の祝も門松も質素に、餅は支度せず、酒盃一切無用、年頭品は紙一折とすること
 一、村々の付き合いと称して良いにつけ悪きにつけ酒を用いたが今般取極め候上は致さざること
 一、日々の食物なるべく粗食相用うべきこと

の七項目だが、祝儀不祝儀、年中行事付き合い、日々の食生活まで細かく規定している。
 吉田村の五人組帳を中心に幕末の村の法度をみてきたが、要するに切支丹宗の制禁、博奕の厳禁、鉄砲不法所持の禁止、祝儀不祝儀日常生活の質素倹約、浪人部外者の排除対応等々が中心になっていた。
 思うに、幕府は天変地災(旱天・大水)から飢饉となり困窮疲弊の農民が一揆を企て、欠落、逃散した農民が浪人博徒に操られて騒乱を起こすことを恐れて、治安の維持のためこの様なやや過酷とも思われる法度が定められたのであろう。

江戸時代の隠居 その生活の保証

 今の世の中で「隠居」という言葉は余り聞かれなくなったが、江戸時代には人生の中で或る時、第一線を退きやや閑な人生を過ごすという風調を「隠居」と称した。厳密には世帯主が生存中に自分の自由意思によって所有する権利を相続人に譲って閑居することを言う。武士は主君にお役御免を願い出て、子息に家督を譲って隠居の身分となる。町人は店の中心から退くことを宣言して息子なりしかるべき後継者に財産権利を譲り、自分は隠居所に閑居する。農民は所有する田畑を息子に渡して閑人となる。こうした人々の生活の保証は得られたのだろうか。

 1820年(文政3)、宗心寺十四世周山は住職の席を後任雉賢和尚に譲った際「隠免之記」なる書付を送っている。退隠する者が現当主に隠居後の生活保証を約束させたものである。その内容は次の通りであった。

  一、田方四反七畝歩(年貢諸役は先勤) 一、胡麻一升六合 一、小豆三升
 一、大豆六升一、味噌半樽余 一、醤油壱樽と壱升 一 、堅木真木入用次第
 一、小麦粉 少々宛ニ貰い一、蕎麦粉 少々宛ニ貰い

 「年々被下候」とあるので生存している間毎年これだけの手当ては受けられた。一人の食生活を賄うに不足はなかったろうが、衣・住の費はどうしたのだろう。田四反の収穫を換金してそれに充てたのだろうか

 1849年(嘉永2)に同じ宗心寺において現住職の隆暁が閑居大和尚(十七世劫外と思われる)に「隠居免議定一札」を差し出している。内容は次の通りであった。

 一、金三両也 年中小遺 一、玄米拾俵 年中飯米 一、真木 入用次第 
 一、野菜 入用次第一、蕎麦粉 入用次第 一、小麦粉 入用次第 
 一、大小豆 入用次第 一、胡麻 壱升一、水油 三升 一、餅白米 壱斗
 一、醤油 弐樽 一、味噌 壱樽

 「御存命中年々其都度入用次第」と極めて心強い一文が添えられている。内容は前者とあまり変わっていないが、三両の金を一年の小遣として差し上げるというのは有難い限りで、三両もあれば贅沢しない限り一年位生活出来たという時代にあっては生産性の少ない老人にとって余裕のある生活が保証されたことになろう。

 僧家の二例をみたが、俗家(農民層)においても類似の書付が見られる。

 1802年(享和2)古里村の武兵衛が実父五郎右衛門に「賄料相渡シ申」という一札を差し出している。恐らく五郎右衛門が退隠し実子武兵衛に家督を譲った際、隠居の生活費として約束したものであろうう。内容は次の通りであった。

 一、下郷地ニ而すな畑(川沿いの荒砂混じりの畑) 弐枚 一、同所畑添之田 壱ヶ所

 一、同所下ニ而すな畑 壱枚 一、寺ノ後ニ而大畑 壱枚 一、柏木山壱ヶ所
 一、新林山 壱ヶ所一、下郷地下ニ而麦畑 九升蒔

 全部が田畑・山林である。一枚・弐枚というのは一区画・二区画というほどの意味で広さを特定していない。山にしても一ヶ所というだけで広さは不明である。しかし百姓にとって土地が財産であり、土地から生ずる果実、米・麦・野菜・薪等によって生活が支えられていたので、土地が隠居の賄料となったのであろう。この一札の末尾に「若シ又親父様江不和之義も御座候ハヽ加判之者共立合急度可申付候」という一文で結ばれている。親子の間で仲違いした時は立合った者が必ず履行させることを誓約したものであり、組合総代原右衛門、親類総代長左衛門が連署し、更に名主銀六が「相違無之」ことを書き添えている。之だけ慎重にしておけば、家督を譲った親も老後の生活において安心出来たであろう。

 更にもう一例、1867年(慶応3)、運太郎(安藤)が栄之助に与えた書付がある。この書付によれば、伯父長左衛門の死後栄之助が家督を相続して来たが、病身のため身代を維持してゆくことが出来ず、隠居することとなった。その家督を運太郎が受け継ぐことを承諾して、隠居する栄之助に隠居免(隠居の財産としてその家の動産不動産を分割してあてがうもの)を約束したものである。内容は次の通りであった。

 一、田弐斗蒔 字前田ニ而 此小作米五俵也
 一、畑八升蒔 字寺脇 外ニ金壱両ツヽ年々

 一、山壱ヶ所 字かに沢東平 一、隠居庭畑 一、月々金壱両ツヽ

 一、玄米七俵也年々〆拾弐俵也

 米が年に十二俵(四石八斗)、畑は八升蒔の広さだが何反何畝とは特定出来ない。しかし金が年一両づつついている。そして別に月々金一両づつとあり、金を合算すれば年に十三両となる。その上字蟹沢に一山あって、なお隠居所には庭畑(庭の前面にある蔬菜の畑)がついている。かなり豊かに安定した生活が保証されているように思う。伯父の家を相続したので、その子(運太郎の従兄弟)の退隠につき普通より手厚くしたのだろう。伊左衛門外六人が連署して、此書付の信憑性を高めている。

 以上僧俗それぞれについて四例をみてきたが、財産・権限を次代に移譲して余生を送る身分としては充分な生活保証がなされていたように思われる。儒教思想の徹底していた江戸時代においては敬老の精神も浸透していたことであろうし、また「隠居免(隠免)」なる語が今日まで伝えられて来たところを見ると、書き立てるまでもなく一般的に行われていたとも考えられる。但し経済的なことを考えると誰でもと言う訳にはいかず、こうした確りした隠免書付は或る程度の経済力を保持していた人々の間で実行せれたものであろう。

※資料
 吉田宗心寺文書62「現雉賢和尚江隠免書付」文政三年(1820)
 同115「差上申隠居免議定一札之事」嘉永二年(1849) 
 中村常男家文書194「賄料相渡シ申一札事」享和二年(1802)
 安藤文博家文書701「差出申書付之事」慶応三年(1867) 

むかしの吉田村の様子 1764年(明和元)頃

 『武蔵国郡村誌』によれば御一新の折の吉田村は折井氏(四〇〇石)・山本氏(二〇〇石)・菅沼氏(一九石余)・松下氏(八〇石余)の四給入会の村で、総高六九九石余であった。この状態は徳川氏関東入府以来与えた採地であり、一部菅沼氏が曽我氏に変り、石高の微動はあったが、概ね受け継がれてきた。
 いま、ここに一七六四(明和元)年の吉田村に関連する二つの村明細帳が残されている。 一つは松下清九郎知行所のもので、他の一つは菅沼小膳知行所のものである。松下は八〇石余、菅沼は拾九石余合わせても九十九石、吉田村全体石高の七分の一程で、これをもって全村の昔時を語ることは出来ないが、大凡の様子は類推出来ると思う。
 先ず土地の状況は別表に示したように、田畑共広さにおいて上・中田畑が下・下々田畑を上回っている。『郡村誌』によれば地味は色が赤或は黄色で埴(徴密な黄赤色の粘土質)が交じり、稲粱(いねとあわ)に適しているが、水利が悪く旱魃に苦しめられたと記されている。両所の石高・反別から試算してみると反当り松下は一石八斗、菅沼は一石で平均すれば一石四斗で、石盛の標準一石五斗に比べて、それなりの収量は収められていたと思われる。
 これに対して労働力は両所合わせて、家数八軒、人口男十八人女十七人の計三十五人、一軒当たり四人か五人の家族で、その内に子供、老人も含まれていたであろうから、本来の働き手は十五人から二十人位であったろう。それに馬三頭で、ほぼ七町歩の田畑の耕作はかなりの重労働であったろう。従って新開畑の項に見られる通りほとんどが藪山になり収穫は思うように得られなかったようである。
 この収穫の中から上納される年貢米は大里郡の江川村の河岸(かし)から津だし(港から船の荷を積んで出すこと)された。
 水利の関係は中央に滑川が流れ、そこに堰が一ヵ所あり、水門圦樋(いりひ)が二ヵ所に設けられていた。その他溜池は吉田全体で十五ヵ所あり、四給入会いであったので羽口(堤防の傾斜地)を修理したり、樋(溜池から水を導き送るための管)の伏替、或いは堀さらえ等は村全体の負担で行われた。
 道は割合よく整っていたと思われる。なにしろ滑川に橋が十二ヵ所にわたって架けられていたし、小川へ二里、熊谷へ三里、深谷へ四里、鴻巣へ六里と道は四通していた。ただこの道の普請や橋の架け替えも村役で全体で負担しなければならなかった。
 その他村の負担になったものに「助郷」(宿駅常備の伝馬人足が不足したとき指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村)があり、川越から高崎へ通ずる脇街道の宿駅志ケ村(志賀)への助郷村に定められていたので、時により人馬の提供を与儀なくされていた。また記録によれば猪鹿が多く出て田畑を荒らした。領主に鉄砲の貸与を願い出た文書もみられ、これを追い払い畑作をまもることにも多大の労力が払らわれた。
 村民の大部分が農に従事し、天変地異の起こらない限り過不足のない生活だったろう。ただ、河川・溜池・道路・橋等の管理補修への負担は大きく、助郷役等の夫役もまた生活を圧迫した事であろう。

古里の土地開発 1870年

 1870年(明治3)6月韮山県役所へ開拓の願出があった。願出た人物は古里村の横田裕次郎知行所(28石余)の小前役人総代の百姓代兼吉と名主の藤吉である。
 御一新になって徳川領はすべて上知(政府へ土地を返納すること)されていたので旗本横田氏の所領も新政府韮山県の支配下にあった。出願された韮山県も誕生間もなく土地をどう所有するのか、どう管理運用するのか定説も法制もなかったので混乱していたと思われる。幕政下では領主に願い出れば穏田(かくしだ)とならない限り、収入増(年貢が増える)となることでむしろ奨励された。
 「村明細帳」や「年貢割付帳」にはしばしば「新開」として記されている。
 例えば吉田村の「明細帳」に
    外
  新開 中畑  壱反壱畝拾歩
  同  下畑  七反弐畝歩
  同  下々畑 五反八畝六歩
 右之内五反五畝山ニ相成申候
とあり、十四反開発しても、三分の一は畑として使えなくなったことを報告している。
 開発には莫大な労力かかっていても、それに見合う収益が必ずしも得られないという恨みはあった。
 そうした事情があってか兼吉・藤吉は同年三月に願い出たが許可にならず、今回二度目の出願取調べとなった。
 開発の場所は古里村字馬内(もうち)と熊谷から小川に通ずる往還の間の旧地頭林(領主の私有する山林)三反歩(約九百坪)のところである。5年前の1865年(慶応元)に地頭所において残らず伐木し、今では藪山(雑草雑木の密生しているところ)となっている所であった。2人は今回更に麁絵図(略図)を貼付し、1871年(明治4)から3ヵ年間、毎年永86文宛上納する事を条件に申し出た。
 開発側にしてみればここを切り開き作物を作ってみても、成功するかどうか分からない、それでも年86文の上納約束をしてまで許可を受けたかった。土地についての考え方も変ろうとしていた時期だったのだろう。
 新政府は1871(明治4)には「田畑勝手作」を許可し、翌年には「土地永代売買禁令」を解除、「地券」(土地の所有者、地目、反別、地価を明記したもの)の発行を定めた。土地に関する規制や運用が緩和され、全国で開発が進み、やがて北海道への開拓へと進んでいった。

新編武蔵風土記稿 吉田村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  吉田村(よしだむら)(埼玉県比企郡嵐山町大字吉田)
 
 吉田村ハ松山領ニ属(ぞく)ス。家数七十余。東ハ和泉村(いずみむら)、南ハ勝田村(かちだむら)、西ハ越畑村(おっぱたむら)、北ハ古里村(ふるさとむら)ニ接(せっ)セリ。東西十八町(ちょう)南北三十町。江戸ヨリ行程(こうてい)十六里(り)*1。御入国(ごにゅうこく)*2ノ後、折井市左衛門(おりいいちざえもん)・山本四兵衛(やまもとしひょうえ)・曽我又左衛門(そがまたざえもん)・松下清九郎(まつしたせいくろう)等ニ賜(たまわ)レリ。其内山本四兵衛ニ賜リシハ寛永十年(かんえい)(1633)二月ノコトナリト家譜(かふ)*3ニ載(の)セタリ。曽我又左衛門ノ知行(ちぎょう)*4ハ何ノ頃カ替(かわ)リテ菅沼氏ニ賜(たま)ヒシナルベシ。今ハ折井九郎次郎・山本大膳(やまもとだいぜん)・菅沼又吉(すがぬままたきち)・松下内匠(まつしたないしょう)等知行ス。検地(けんち)*5ハ宝永(ほうえい)二年(1705)四月御代官(おだいかん)町野惣右衛門(まちのそうえもん)糺(ただ)*6セリ。
   *1:1里は約3.927キロメートル。
   *2:徳川家康が天正18年(1590)江戸城に入ったことをさす。
   *3:寛政重修諸家譜(かせいちょうしゅうしょかふ)のこと。
   *4:主君から与えられた領地。
   *5:支配地の田畑の面積や生産高を調査すること。
   *6:調査。

 高札場(こうさつば)*1 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

  小名(こな) 上(かみ) 下(しも) 長竹(ながたけ) 前谷(まえやつ) 沼下(ぬました)
 滑川(なめがわ) 当村ノ田間(たま)所々ヨリ涌出(わきいで)ル水、村内ニテ落合(おちあい)ヒ一条ノ流トナリ、始テコノ名ヲ負(お)ヘリ。コレ滑川ノ水源(すいげん)ナリ。
 峰明神社(みねみょうじんしゃ)
 手白明神社(てじろみょうじんしゃ)
 五竜明神社(ごりゅうみょうじんしゃ) 以上三社祭神詳(つまびらか)ナラズ、泉蔵院(せんぞういん)持。
 六所社(ろくしょしゃ)
 天神社(てんじんしゃ) 以上二社ハ村民ノ持。
 宗心寺(そうしんじ) 三休山(さんきゅうざん)ト号ス。曹洞宗*1、中尾村慶徳寺(けいとくじ)末、故(モト)ノ地頭折井市左衛門次昌(つぐまさ)、其父次忠(つぐただ)ガ菩提(ぼだい)*2ノ為ニ僧了三雲哲(りょうざんうんてつ)ヲ開山(かいさん)トシテ元和年中(げんな)(1615−1624)起立(きりつ)ス。次忠法諡(ほうし)*3:好源院三休道白(こうげんいんさんきゅうどうはく)ト云ヒ、天正十八年(1590年)八月四日卒(そつ)ス*4:。本尊釈迦(しゃか)*5ヲ安(あん)ス*6。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:冥福(めいふく)を祈る。
   *3:死者へのおくり名。
   *4:死ぬこと。
   *5:釈迦牟尼(しゃかむに)のこと。
   *6:安置すること。
  
   ○ 鐘楼(しょうろう) 元祿七年(げんろく)(1694)ニ鋳(ちゅう)シ鐘(かね)ヲ掛(か)ク。
   ○ 稲荷社
 泉蔵院(せんぞういん) 三宝山(さんぽうざん)福王寺(ふくおうじ)ト号ス。新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、埼玉郡上ノ村(かみのむら)*2一乗院(いちじょういん)門徒(もんと)ナリ。本尊(ほんぞん)不動(ふどう)*3ヲ安ス。
   *1:真言宗の一派で、根来寺を中心に発展した。
   *2:現・熊谷市上之。
   *3:不動明王。悪魔(あくま)や迷(まよ)いを静めるとして信仰された。

   ○山宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ)
 薬師堂(やくしどう)
 観音堂(かんのんどう) コノ二堂ミナ村民持。

武蔵国郡村誌 吉田村(現嵐山町) ルビ・注

吉田村(よしだむら)【現・埼玉県比企郡嵐山町吉田】
本村古時伊古郷水房庄松山領に属す

疆域(きょういき)*1
東は滑川を隔(へだ)てゝ和泉広野両村と相対し西は越畑村南は勝田村と山巒(さんらん)*2或は樵径(しょうけい)*3を限り北は土塩村古里村男衾郡西古里村と小径(しょうけい)*4及ひ耕地を接す
   *1:境界内の土地。
   *2:ぐるぐるめぐっている山つづき。
  *3:きこりが通う山道。
   *3:こみち


幅員(ふくいん)*1
東西十九町二十間南北二十三町二十間
   *1:ひろさ。はば。

管轄沿革
天正十八年庚寅(かのえとら)(1590)徳川氏の有に帰し後村高を割(さ)き旗下士折井市左衛門山本四郎兵衛曾我又左衛門松下清九郎の采地(さいち)*1とす 風土記高三百六十三石五斗八升折井右宗二百石山本四郎兵衛十九石曾我又左衛門八十石六斗六升九合松下清九郎知行と載す 曾我氏の采地は其後菅沼氏に替(かわ)り四氏世襲す明治元年戊辰(つちのえたつ)(1868)折井氏四百石山本氏二百石松下氏八十石六斗六升九合菅沼氏十九石八升二合明治元年戊辰(つちのえたつ)武蔵知県事の管轄となり、二年己巳(つちのとみ)(1869)二月品川県に隷(れい)し八月韮山(にらやま)県に転(てん)し、四年辛未(かのとひつじ)(1871)十一月入間県に属し、六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県の所轄(しょかつ)となる
   *1:領地。知行所。

里程(りてい)*1
熊谷県庁より西方三里八町
四隣和泉村へ二十町 勝田村へ十六町 越畑村へ十五町古里村へ十五町 土塩村へ十五町 小江川村へ三十町
近傍(きんぼう)宿町松山町へ三里中山道熊谷駅へ三里八町 字前谷を元標(げんぴょう)*2とす
   *1:みちのり。里数。
   *2:計測などの基準となる目印。

地勢
山巒連亙(さんらんれんこう)*1起伏し東に市の川を帯(お)ひ東北に少し平地あるのみ運輸不便薪は余あれとも炭は乏(とぼ)し
   *1:山が連なって続いていること。

地味(ちみ)*1
色赤或黄埴(こうしょく)*2を交(まじ)ゆ稲梁(とうりょう)*3に適し麦桑(ばくそう)*4に応(おう)せす水利不便時々旱(かん)*5に苦しむ
   *1:土地が肥えているか、いないかの状態。土地の生産力の程度。
   *2:黄色いねばつち。
   *3:稲と粟(あわ)。
   *4:麦と桑(くわ)。
   *5:日照り


税地
田   四十五町四反二十四歩
畑   四十町四反九畝六歩
宅地  一町六反二畝二十九歩
大繩場(おおなわば)*1 二十四町九反六畝四歩
総計  百十二町四反九畝三歩
   *1:新田開発後正規の検地をうけて新田年貢を課されるようになるまでの期間定率の見込年貢を徴される田畑。見取場。


字地
長竹(ながたけ) 村の西隅にあり東西七町南北八町三十間
沼下(ぬました) 長竹の東に連る東西五町二十間南北九町二十間
前谷(まえやつ) 沼下の東南に連る東西九町三十間南北十六町二十間
下(しも) 前谷の東に連る東西三町四十間南北十町三十間
上(かみ) 下の西北に連る東西八町五十五間南北六町三十間

貢租
地租 金千三十七円八十一銭三厘
賦金(ふきん)*1 金十円四十九銭六厘
総計 金千四十八円三十銭九厘
   *
1:割り当てられた金銭。

戸数
本籍 八十四戸平民
社  四戸村社
寺  一戸曹洞宗
総計 八十九戸

人口
男  二百六十四口
女  二百三十九口
総計 五百三口

牛馬
牡馬四十二頭

舟車
荷車一輛小車

山川
滑川 深処一丈浅処三尺広処五間狹処二間。緩流濁水。村の北方土塩村より来り東南端勝田村に入る。其間十一町五十間

湖沼
三反田沼 東西五十間南北百二十間周回百七十間村の西方にあり
五反田沼 東西百八十間南北三十間周回二百十間村の西方にあり
新沼   東西百二十間南北四十二間周回百六十二間村の南方にあり

道路
寄居道 村の東北勝田村界より西方古里村界に至る長三十四町三間巾八尺
道   村の東方和泉村界より西方越畑村界に至る長十三町二十五間巾三尺

神社
峯社  村社々地東西十三間五尺南北十三間五尺面積百二十五坪村の北方にあり祭神不詳祭日陰暦十月十五日

六所社 村社々地東西十三間五尺南北十三間五尺面積百二十九坪村の南方にあり大山祗命(おおやまづみのみこと)*1を祭る祭日十月十五日
   *1:山の神。

手白社 村社々地東西十二間三尺南北十六間一尺面積百五十二坪村の中央にあり手白香姫命(たしらかひめのみこと)*1を祭る祭日十月十五日
   *1:手の神様。

五竜社 村社々地東西九間南北十間面積七十四坪村の乾(いぬい)*1の方に在り高龗命(たかおかみのみこと)*2を祭る祭日十月十五日
   *1:北西。
   *2:雨乞いの神。高霎神とも書く。

仏寺
宗心寺 東西三十一間南北五十一間面積千六百六十五坪村の中央民有地にあり、曹洞宗中尾村慶徳寺の末派なり。文祿三年(1594)元地頭折井市左衛門次忠開基(かいき)*1僧雲哲を開山(かいさん)*2とす。
   *1:寺院創建の際、経済面を負担する世俗の信者。
   *2:寺院の創始者。

役場
事務所 村の北方戸長宅舎を仮用(かよう)す

物産
繭(まゆ) 十石
楮(こうぞ)*1 三百四十貫目
生絹(すゞし)*2 百六十疋
薪 五百駄
   *1:和紙の原料。
   *2:生糸の織物。

民業
男は農桑(のうそう)*1を専とし、女は農桑紡織*2(ぼうしょく)を専とす
   *1:農耕と養蚕。
   *2:糸をつむぐことと、布を織ること。

■写真■
P1000323
手白神社の幟旗

神社明細帳 手白神社 七郷村(現・嵐山町) ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡七郷村大字吉田字宮田
 村社(そんしゃ)*1
         昭和二一、一○、一五 法人登記済
手白神社(てじろじんじゃ)
  *1:江戸幕府は寺院を通じて民衆を掌握していたが、明治政府は神道中心の宗教政策に転換し、1871年(明治4)に神社の社格制度を定めて神社を通して民衆を掌握していった。これにより埼玉の場合は大宮の氷川神社を官幣大社、次を県社、郷社、村社、無格社と定めた。村の鎮守は村社となった。この社格制度は敗戦により1945年(昭和20)に廃止になった。

一 祭神(さいじん)
 手白香姫命(たしらかひめのみこと)*1
 大貴巳命(おおきみのみこと)外六神
 大山祇命(おおやまつみのみこと)*2
 金山彦命(かなやまびこのみこと)*3
 高霊神(たかおかみのかみ)*4
 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)*5
  *1:手の神。
  *2:山の神。
  *3:鉱山、鍛冶(かじ)、金属技工(きんぞくぎこう)の神。
  *4:水を司る神。
  *5:水の神。

一 由緒(ゆいしょ) 天治元年(てんじ)(1124)九月十五日創立。明治四年中(1871)村社届濟(とどけずみ)。大正五年(1916)二月廿四日神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)*1ト指定
  *1:勅令にもとづき、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社。郷社は県から、村社は村から奉納された。

一 社殿 本殿 拝殿

一 境内 二百八十五坪

一 氏子 拾壹戸

一 境内神社
   稲荷神社
    祭神(さいじん)  倉稲魂命(うかみたまのみこと)*1
  *1:五穀(ごこく)の神。

    由緒 不詳(ふしょう)
 大正二年(1913)九月二十三日同大字字宮山(みややま)村社六所神社境内社稲荷神社、同大字字陣屋(じんや)村社峯野神社(みねのじんじゃ)境内社稲荷神社、仝大字字長竹(ながたけ)無格社(むかくしゃ)稲荷神社ノ三社ヲ本社ヘ合祀ス

    社殿 本殿

 由緒(ゆいしょ)追記(ついき) 大正二年(1913)九月二十三日同大字字宮山村社六所神社、字陣屋東(じんやひがし)村社峯野神社、同境内社琴平(ことひら)神社、字西ノ谷村社五龍神社、字宮田無格社巖島(いつくしま)神社ノ五社ヲ本社ヘ合祀ス
 大正九年(1920)九月二十日本殿改築(かいちく)許可仝年十月二日竣工(しゅんこう)
 昭和十三年(1938)四月二十八日隣接(りんせつ)山林百三十三坪境内取擴(とりひろげ)竝(ならびに)上地(あげち)許可

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2005年10月16日撮影

P1000319

P1000322
皇紀2552年は西暦1892年(明治25)。

※手白神社の写真は『GD OF FIRE 神社ぐでぐで参拝記』の記事「手白神社」もご覧下さい。

※手白神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1421頁)
手白神社

空から見た嵐山町 391 吉田 2011年10月

嵐山町吉田
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:久保谷沼(地獄沼)(熊谷市塩)(しお)
B:大入沼(滑川町和泉)(いずみ)
C:竹ノ花橋(滑川)
D:池田沼、E:吉田二区集会所、F:三角堂、G:宗心寺(曹洞宗)、H:手白神社(嵐山町吉田)(よしだ)
I:瀧泉寺(天台宗)、J:埼玉県立嵐山郷(嵐山町古里)
K:埼玉県立循環器・呼吸器病センター(熊谷市板井)(いたい)

空から見た嵐山町 390 吉田 2011年10月

嵐山町吉田
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:滑川
B:手白神社、C:五反田沼、D:池田沼、E:上瀬沼、F:吉田二区集会所、G:三角堂、H:宗心寺(曹洞宗)(嵐山町吉田)(よしだ)

空から見た嵐山町 389 吉田 2011年10月

嵐山町吉田
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:嵐山町立七郷小学校校庭、B:嵐山町第三配水場、C:五反田沼、D:池田沼、E:三角堂、F:吉田二区集会所、G:上瀬沼、H:新沼、I:谷戸沼(嵐山町吉田)(よしだ)
J:勝田農村センター
K:勝福寺(真言宗智山派)(嵐山町勝田)(かちだ)
   「寺院明細帳 新義真言宗 勝福寺 ルビ・注」
L:花見台工業団地管理センター(嵐山町花見台)(はなみだい)

空から見た嵐山町 388 吉田 2011年10月

嵐山町吉田
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:滑川
B:吉田変電所、C:手白神社、D:宗心寺(曹洞宗)、E:吉田二区集会所、F:比企西国第三十一番札所三角堂、G:嵐山町第三配水場、H:池田沼、I:五反田沼、J:池ノ谷沼、K:新沼(嵐山町吉田)(よしだ)

空から見た嵐山町 387 吉田 2011年10月

嵐山町吉田
P1090244webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:滑川、B:寺橋、C:新川
D:塩駒込沼(熊谷市塩)
E:埼玉県道11号熊谷小川秩父線
F:駒込沼、G:岩根沢沼、H:藪谷沼、I:瀧泉寺(天台宗)、J:兵執神社(へとりじんじゃ)、K:柏木沼、L:重輪寺(曹洞宗)(嵐山町古里)(ふるさと)
M:埼玉県道69号嵐山深谷線
N:三反田沼、O:姥谷沼(うばやつぬま)、P:新沼、Q:吉田第一区公民館、R:池ノ谷沼、S:手白神社(嵐山町吉田)(よしだ)
T:岩鼻沼(嵐山町越畑)(おっぱた)
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