GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

越畑

馬場儀平次年譜

1868年(明治元)  4・18 馬場藤三郎の長男として誕生
1878年(明治11)  5・ 3 椙山学校下等小学第6級 優
1880年(明治13)  4・29  〃 小学高等科第5級 優
1881年(明治14) 11・ 1  〃 小学高等科第2級卒業 優
1885年(明治18)  4・  石川軍平妹ちよ(慶応元年生れ)と結婚(18歳)
1888年(明治21) 11・ 1 歩兵第15連隊(高崎)へ入隊(21歳)
 【1899年(明治22) 4・1 町村合併により七郷村誕生】
1891年(明治24) 11・30 除隊 陸軍上等兵(21歳)
1892年(明治25) 10・ 9 儀平次発起人で久保三源次他2名の入営送別会開く。参加者73名
1894年(明治27)  8・31 召集令状受領(27歳)
1894年(明治27)  9・11 過員のため即日、帰郷を命ぜられる
 【1894年(明治27)8〜1895年(明治28)4 日清戦争】
1894年(明治27) 10・21 忠勇義烈会の発会(発起人儀平次、参会150余人)
1894年(明治27) 11・30【?】 従軍志願意見書を出す
1895年(明治28)  3・ 6 高崎補充大隊第4中隊へ新兵教育係として入隊
1895年(明治28)  6・   帰郷
1899年(明治32) 11・21〜1901年(明治34) 5・ 2 七郷村収入役職務代理(32歳〜34歳)
 【1904年(明治37)2〜1905年(明治38)9 日露戦争】
1904年(明治37)  7・21 七郷村助役(37歳)
1904年(明治37) 12・12 充員召集により後備歩兵第49連隊へ入隊
1905年(明治38)  1・21 外地出征。「満州」各地転戦(38歳)
1905年(明治38)  4. 3 戦地より家族への教訓を送る
1905年(明治38) 11・10 復員
1912年(明治45)     この間、区長20余年。道路委員として甲乙丙の道路新設に貢献
1936年(昭和11)  9・10 69歳にて永眠。戒名:義岳永忠居士
1937年(昭和12)  5・ 9 妻チヨ73歳にて永眠。戒名:教屋理順大姉。

市川藤三郎と産業組合

 市川藤三郎は常吉の長男として1871年(明治4)に生まれた。常吉は五人の男の子を儲けた。次男高次郎は病身で1916年(大正5)に病没してしまうが、三男和市郎は県立二中(熊谷中学校)から札幌農学校(現北海道大)土木科を経て、近衛連隊の工兵将校となり、四男茂平は熊谷中学校から慶応義塾(現慶応大)経済科を経て経理将校となった。五男徳治は日清・日露の戦争の影響もあり、熊谷中卒業後直ちに軍隊に入り軍曹にまで昇進した。明治の中頃において中学への進学者は希少であり、ましてこの寒村にあって大学教育をうけたことは稀有の事と言わざる得ない。いづれにしても軍人優位の社会情勢の中でそれぞれ立派に身を立てていった。

 これ程までに子供の教育に熱心だった常吉だが、何故か藤三郎にはそうした学歴も軍歴も見当たらない。わずかに1893年(明治26)、成田村の晩成義塾権田春徳から常吉宛の書状に、教え子からの寄付により墓碑を建設したい旨の便りがあったのを見ると、近隣の私塾において数年学問を習った形跡が窺える程度である。当時の通念として長男は家業を継ぎ、家督を相続してゆくものとされていた。また農業後継者として学問必要はないと考えられていたからではないだろうか。また軍籍になかったのは当時の徴兵制度のなかに嫡男は兵役が免除される特典があったためである。こした状況の中で藤三郎は成長し、父常吉の膝下にあって家業に精励していた。

 1909年(明治42)、常吉は他界し、その家督を藤三郎が相続した。時に藤三郎三十八歳であった。偉大な政経家であった常吉の死によって、家業・家政のすべてが藤三郎の双肩にかかってくることになった。この頃、日露戦争後で景気が下降し、明治天皇の崩御を契機に不況は一層ひどくなり、世に諒闇(天子が父の喪に服する期間)不景気といわれる時代にあった。藤三郎はこの状況から脱却し農村生活の安定をはかるべきことを痛感していた。これに先立って、1900年(明治33)、「産業組合法」(信用組合・販売組合・購買組合・生産組合の四種、七人以上で成立)が公布され、組合員の協力によりその産業経済の発展をはかり、資力の少ない中・小生産者を救済することを目的として、農村部を中心に組織されていった。1910年(明治43)には全国で七三〇八組合が結成されていたことが伝えられている。藤三郎はこうした社会情勢の中から「七郷信用組合」の設立をおもいたったのである。

 1913年(大正2)3月12日、市川藤三郎を発起人として創立総会を宝薬寺(越畑)において開催、3月28日「産業組合設立許可申請書」を県知事に提出、同年11月22日設立が認可された。

 申請書によれば、組合名は「有限責任七郷信用購買販売組合」、設立者は、市川藤三郎・船戸小重郎・新井重太郎・青木五三郎・久保三源次・市川兵蔵・馬場儀平次・田嶋稲吉・船戸平左衛門の九名で、産業組合法に依り設立申請する旨記述されている。なお、同年12月20日には熊谷区裁判所小川出張所へ設立登記申請がなされ、名実共に産業組合が成立した。その後1914年(大正3)5月には埼玉県信用組合連合会へ加入、6月には全国組織の産業組合中央会への勧誘を受け、これに加盟、1917年(大正6)には仮事務所(吉田鶴巻の七郷村役場前方)を定め、ここに確固たる基盤を築くことができた。

 早速、同年12月1日、出資申込金第一回払い込み通知が出された。出資金は一口に付き一円で、20日までを納期とした。どの位の申し込みがあったのだろうか。1913年(大正2)12月から1914年(大正3)3月までの会計帳簿を見ると、第一回払い込み二三五口、増資十七口であった。収入としては二五二円あったことになる。支出の面を見ると目立つのが貸付金で、1913年(大正2)には船戸揖夫の一〇〇円を筆頭に九人三〇五円が貸し出され、1914年(大正3)には久保三源次の五〇円を始に、十人一九五円が貸し出され、計五〇〇円となっている。これに対し収入としての払い込み金は二回分で五〇四円で、収支とんとんの状況である。他の販売物品の購入や運営にも資金は必要で、止む無く藤三郎が1月25日に一〇二円、2月14日に一四六円物品肥料の購入代金として出資している。経営状況は所謂自転車操業であり、出資金だけでは運営できず、藤三郎の持ち出し分が多かった。従って、購入先への支払いも滞り勝ちでしばしば支払い督促をうけている状態であった。

 ではどんな物品が購買されていたのだろうか。最も多くしかも重要だったものは肥料である。1897年(明治30)頃から人肥にかわって化学肥料が利用されるようになり、当地方にもそうした傾向が伝えられ、需要がたかまったのだろう。硫安(硫酸アンモニア)・過燐酸石灰・生石灰・チリ硝石・大豆粕等が販売されている。次いで多いのは食品で、砂糖・塩・醤油・酒粕・海産物等、また燃料として石油・木炭、 細かい日用雑貨ではローソク・線香・油紙・障子紙・桧笠・カッパ・盆花・盆ゴザ、そして道具類として草刈鎌・桑切り鎌・宮島(杓子)・蚕具等、苗木から蔬菜類の種子まで販売された。今日のスーパーマーケツトの小型判のようであった。

 個人の側から購入利用状況を見てみょう。次に示したものは1921年(大正10)の組合員・栗原侃一家の「物品買入覚帳」の一部である。購入者はこの帳面に記載してもらい、現金なしで物を買うことが出来た。購入品は前掲のものとあまり変わらないが、裏地・シャツ・股引・学帽・巻ゲートル・手拭といった衣料が目に付く。十年の間にやや変わってきた。

  買入月日  金 額  品名・数量、

  2月4日    40銭   釘・60匁釘

  3月2日    10銭   縫糸

  3月2日    1円38銭   裏地・地縞1反

  3月29日     30銭   白足袋

  【中        略】

  1月26日    20銭    お玉2本

  1月26日    25銭    ひしゃく1本

  1月26日    10銭    水引

  1月26日   1円      小桶

 大正11年7月27日 右計19円88銭・利子2円33銭 相済 青木

 栗原家の場合は1921年(大正10)2月4日から(途中省略)翌年の1月26日まで記載があり、1922年(大正11)7月27日に「青木」(青木五三郎か)のサインがあって、「相済」となっているので、この時に支払いをしたのであろう。この帳面の表紙裏の諸注意に「掛買金ハ毎月末ニ必ズ支払スルコト」とあるのを見れば、これは明らかに規則に反している。一年以上も支払いがない上に、延滞の利子が一割一分強というのでは、経営状況がおおらかと言おうか、杜撰(ずさん)といわざるをえない。それでも信用購買販売組合の名前の通り信用に守られながら永続していった。

 1932年(昭和7)8月、三十年間にわたって組合長を勤めた市川藤三郎が死去し、創立の同志であった青木五三郎にその職を譲った。1936年(昭和11)、安藤寸介が組合長に就任し、翌年創立者の功績を讃えて故市川藤三郎へ感謝状が贈られた。感謝状が贈られるまでもなく信用組合は頼母子講や金融機関の代替でもあったし、生活必需品の低廉販売等によって農村生活の向上に益することが多かったことを思えば先見の明のあった藤三郎の功績は大きかったと言えよう。1942年(昭和17)、組合長は藤三郎の長男武市に引き継がれたが、未曾有の戦争のために、1944年(昭和19)に七郷村農業会に吸収され、やがて終戦とともに七郷農業協同組合へと移行されていった。

 資料:市川貢家文書(二次整理分)1493 感謝状

    栗原靖家文書84 物品購入覚帳

    仮事務所前の写真

百年前の年賀ハガキ

 今年も大変年賀郵便が輻輳しましたが、ここに示した一枚の写真は今から百年程前、1893年(明治26)、小石川(東京)の宮島栄三郎から越畑(七郷)の市川常吉に宛てた「郵便はがき」による年賀状です。この市川家には明治期の「郵便はがき」が千百余枚保存されていますが、その中で最も古い年賀の郵便はがきです。

 葉書の文面は御定まりの「謹賀新年」の賀詞に続いて「大廈(家)将来の万祥を祈り併平素の疎濶謝す」と挨拶文を添えていますが、それだけではなく次に「明治廿六年略歴」として、黒地に白抜きで新暦による祝日・日曜・雑節等を表記し、それに並べて「仝年旧暦」として、八将神の吉凶・庚申の日・甲子の日・八専・種まきの日等々まで印刷されています。1872年(明治5)太陽暦(新暦)が採用されますが、なかなか定着せず、明治二十年代になってもその励行遵守が促されていた状況を考えると、新暦もよいが旧暦も捨てがたいという気持がよく現れた面白い意匠となっています。なお、活字印刷による葉書も見られる頃ですが、これは旧来の印刷術である木版で作られたもので、今日に残る貴重な一枚の年賀葉書でしょう。

 官製「郵便はがき」は郵便制度が創設された1871(明治4)の翌々年、1873年(明治6)12月に発行されたのが始まりです。これが年賀状として利用されるようになったのは1879年(明治12)頃からで、1890年(明治23)の1月1日から三日間は賀状が急増したとつたえられています。こんな気運に乗ってこの地域にも「郵便はがき」の年賀状が現れたのでしょう。その混雑の緩和のため1899年(明治32)、年賀郵便の特別取扱制が実施されるようになりました。暮れの十二月二十日から三十日までに出された年賀郵便は元旦に配達されることとなつたのです。

 ところが日露戦争が始まった1904年(明治37)には、七郷村長久保三源次の名において、「戦地ニ在ル軍人軍属其他従軍者ニ宛テ発送スル年末年始ノ賀状ヲ廃止スベキ事」という回章が出されました。文中「其筋ヨリ」としていますから全国的にこの措置はとられたのでしょう。また1940年(昭和15)から1947年(昭和22)までは戦争のため年賀の特別取扱いが中止されるという躓(つまず)きもありましたが、1949年(昭和24)「お年玉付年賀はがき」が売り出され、今日まで国民的行事として毎年々々盛況の中に郵便はがきによる年賀状の交換が行われてきたと言えるでしょう。

     博物誌だより126 (嵐山町広報2005年1月号)から作成

金泉寺祖舟和尚と筆子塚

 越畑金泉寺境内の一隅に写真のようなさして大きくない一基の石碑がある。碑面は「当十六世」とあり、基壇に「施主筆子中」と刻まれている。「当十六世」というのは金泉寺十六代の住職ということである。金泉寺過去帳によれば、十六世は「当寺拾六世東外宗舟大和尚 弘化三丙午三月於当寺隠居其後月窓寺江住職於彼寺遷化」となっている。また1846年(弘化3)、日影村の真光寺からの「差上申遷化届書之事」という文書に、「別所村月窓寺祖舟長老…略…当三月十九日寅之下刻遷化仕候」とあり、東外宗舟大和尚は金泉寺十六世祖舟であることが明らかである。従ってこの小さな石碑は祖舟の墓石であり、筆子達によって建てられたものと考えられる。

 前出の過去帳によれば、祖舟の生国は加賀国金沢で、武士の家に生まれたが、金沢の鶴林寺に入って修業のうえ出家した。1818年(文政元)、先住禅喬の後任として金泉寺住職となり、在任十七年間、後住本瑞に席を譲り隠居、その後別所村(現ときがわ町)月窓寺へ移転、1846年、彼の地において遷化したのである。墓石に「施主筆子中」とあるのは、彼が金泉寺において読み書きを教えた筆子達が施主となって建てたものであることを意味している。云うところの筆子塚でもある。元来筆子塚は寺子屋(近世の初等教育機関)の生徒(寺子)が恩師(師匠)の遺徳を顕彰するために建立したものである。即ち、祖舟の筆子塚の存在は金泉寺に寺子屋があり、付近の子弟を集めて読み書きえを教えたことを物語っている。1852年(嘉永五)、祖舟和尚の七回忌が営まれた。「十六世和尚七会忌香資授納控」には吾兵衛・善兵衛・吉左衛門・新右衛門等三十六人の名前が書かれ、中にはもと・みきといった女性の名も見られた。総額七貫弐百文にもなったが、恐らくここに香資を寄せた人々の多くは教え子であったのではないだろうか。祖舟和尚が近世越畑地域の初等教育を担ってきた功績は大きいといわざるを得ない。

 

 蛇足ながら、1820年(文政3)、祠堂金の寄付を勧進、七十人から多額の金員を集め以来諸霊の祭奠、堂宇の補修等の資となした。また、1821年(文政4)には「不許葷酒入山門」と刻んだ石碑を山門の傍らに建て、不浄なものや心を乱すものは寺門内に入ることを許さないという厳しい禅宗の教義を標榜し、寺の格式を整えるのに大きく貢献した。なお、近年新潟県小国町にある上谷内観音堂[1827年(文政10)再建、創建者男谷検校の孫恵山尼]の勧進帳に「武州比企郡越畑村金泉寺祖舟和尚観世音一体」とあり、祖舟が観音堂に観世音菩薩像を勧請していたことがわかった。因果関係は不明であるが、祖舟和尚の力量の大きさと、仏の道を説く者の真摯な姿を見ることが出来る。

Latitude : 36.077415
Longitude : 139.302056


久保三源次年譜

1872年(明治 5)  8・11 久保常右衛門の長男として誕生
1881年(明治14) 11・ 2 椙山学校小学科第4級 優
1883年(明治16) 12・ 5 家督代替願を戸長に提出認可される(16歳) 
1884年(明治17) 10・15 椙山学校小学初等科卒業(埼玉県) 
1884年(明治17) 11・17 一等賞下される(埼玉県)
1886年(明治19) 10・30 昇進学校中等小学第1級卒業(15歳)
1888年(明治21)     ちよ(明治5年生れ)と結婚(17歳)
1889年(明治22) 4・〜6・ 改良清温育 養蚕日誌を書く(飼育者:久保三源次)
 【1899年(明治22) 4・1 町村合併により七郷村誕生】
1892年(明治25) 12・ 1 要塞砲兵第1連隊(横須賀)へ入隊(21歳)
1893年(明治26)  3・  貴治誕生
1894年(明治27)  2・23 実弟義三郎死去
1894年(明治27)  3・ 3 貴治死去
 【1894年(明治27)8〜1895年(明治28)4 日清戦争】
1894年(明治27) 11・29 陸軍砲兵二等軍曹に昇進(23歳)
1895年(明治28)  1・  出戦命令下る(24歳)
1895年(明治28)  5・25 野戦首砲廠旅順口支部へ着任
1895年(明治28) 11・30 除隊、帰国
1896年(明治29)  2・23 凱旋により旡邪志同盟会頭井上久五郎より石杯を受く(25歳)
1897年(明治30)  8・ 7 七郷村収入役職務代理 〜1899年(明治32)10・11(26歳〜28歳)
1899年(明治32)     日本赤十字社員・日本尚兵義社社員となる
1901年(明治34)  4・  七郷村村会議員に当選(30歳)
1902年(明治35) 11.28 七郷村助役に就任 〜1903年(明治36)4・8(31歳〜32歳)
1903年(明治36)  4・ 8 七郷村村長に就任 〜1907年(明治40)4・7(36歳〜36歳)
1903年(明治36) 12・17 小学校統合問題より村長辞職
1903年(明治36)     七郷村軍友会設立(32歳)
 【1904年(明治37)2〜1905年(明治38) 9 日露戦争】
  12・12  充員召集により後備歩兵第49連隊へ入隊 
1905年(明治38)     日露戦争の功により勲七等青色桐葉章を受く
1905年(明治38)     愛国婦人会七郷村委員となる
1905年(明治38)     七郷村農会長となる
1910年(明治43)  2・  在郷軍人会初代分会長に就任(39歳】
1911年(明治44) 10・18 再び助役就任 〜1912年(明治45)3・4(40歳〜41歳)
1912年(明治45)  3・ 4 七郷村村長に再任 〜1916年(大正5)1・8(41歳〜45歳)
1920年(大正 9) 12・  比企郡会議員に当選(49歳)
1920年(大正 9)     日本赤十字社に尽力した功により木杯を受く
1927年(昭和 2)     昭和天皇即位の大礼により記念章を受く
1946年(昭和21)  8・ 4 75歳にて永眠。戒名:慈雲院三徳源居士
1953年(昭和30)  3・21 妻チヨ83歳にて永眠。戒名:観光院千峰妙性大姉

友愛に貫かれた儀平次と三源次の生涯

 これは明治という日本の大変革期に越畑(おっぱた)に生まれ、友愛を育(はぐく)み人間愛に包まれて、熱い心で軍務に、村政に精励した馬場儀平次(ぎへいじ)と久保三源次(さげんじ)の物語である。

 儀平次は1868年(明治元)に、三源次は五年後の1872年(明治5)にそれぞれの家の長男として誕生した。学校の制度が目まぐるしく変り、就学率の極(きわ)めて低かった時代(明治14年就学率全国平均45%)に、二人とも八年間にわたる小学校教育を終えた(椙山(すぎやま)学校・昇進(しょうしん)学校)。しかも度々、優等賞を受ける俊才(しゅんさい)であった。栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し、とはこのことを云うのであろう。後年二人の書いた書簡を読むにつけ、その学才の高さが、今日の大学卒業者に比(ひ)するとも劣らないものであることに驚かされる。

 儀平次は卒業後間もなく十六歳にして馬場家の家督(かとく)を相続し、十八歳で妻帯、若くして一家の生計を荷(にな)ってゆく事となった。そして、1888年(明治21)年徴兵(ちょうへい)によって歩兵第十五聯(れん)隊(高崎)へ入営(にゅうえい)、1891年(明治24)陸軍上等兵で除隊した。入れ替わりに翌年、小学校卒業以来農事に勤(いそし)み、盛んになってきた養蚕業にも手を染め、改良温育法の研究に取組んでいた三源次も徴兵され、要塞砲兵(ようさいほうへい)第一聯隊へ入隊した。

 その後を追うように12月6日儀平次が三源次へ送った手紙がある

「玉書謹(つつしん)デ拝見仕(つかまつり)候、陳者(のぶれば)足下恙(つつが)無(な   く)御入隊ニ相成欣喜(きんき)ノ至ニ奉存(ぞんじたてまつり)候(中略)君ト手ヲ分ツ、独 リ悲ニ不堪(たえず)(略)嗚呼(ああ)、是ヨリ以後ハ君ヲ措(おい)テ誰(だれ)ヲカ友トセン(略)生(せい)、今ヨリ一心ヲ君ノ勤務中ト同ウシ決シテ生モ他出ヲ禁ジ諸事控(ひか)エ目ニシテ月日ヲ送ル(略)君ヨ遠隔(えんかく)ナガラモ兄弟ノ約ノ如クセヨ只、生ハ君ノ名誉ヲ挙ゲテ帰国セン事ヲ日ニ月ニ楽(たのし)ムノミ尚(な)ホ三十日ノ夜、又昇堂(しょうどう)シテ御尊家一同取分(とりわけ)君ノ妻君(さいくん)其他妹樣方ニ至マデ兄上樣ノ御不在中ニハ決シテ遊(あそび)日(び)ナリトモ可成(なるべく)丈(だけ)他出セズ、只(ただ)母上樣ノ御合手(おあいて)ヲ致シ、他ヨリ必ズ不名誉ヲ来タサザル事ニ注意(略)生不肖(ふしょう)、将来益(ますます)貴家ニ力(ちから)ヲ尽シ、百事不都合(ふつごう)出来ザル事ニ注意可致(いたすべし)(略)次ニ御老母樣ヤ御母上樣其他妻君(さいくん)御妹共ニ至ル迄心ヲ一番ニ止メ、日々農業無抜目(ぬけめなく)致シ居(おる)心掛ニ付、君ニモ其心ニ成リテ御勤メ被下度(くだされたく)願上候(略)君ノ御実家ハ御女中計(ばかり)ニ付、生等不足ナガラモ充分御注意可致(いたすべく)候トモ尚貴殿ヨリ御書状ヲ以テ不在中ニ充分注意シ諸事不都合アラザル様可致事(いたすべきこと)ヲ御送付相成度候也(あいなりたくそうろうなり)」

 儀平次の切々とした友愛の情あふれ、残された女性ばかりの久保家を護り、三源次が後顧(こうこ)の憂(うれ)いなく軍務に精励出来るように激励する姿を偲ぶことが出来よう。

 1894年(明治27)年3月3日悲報が三源次のもとに届いた。

「如何(いか)に貴家は不幸なる哉(かな)、又不幸の嵩(かさ)みたる哉(かな)、談ずるにも生、涙数降(すうこう)して談ずるを得ず、(略)貴兄の実弟儀三郎君永々の病気の処遂に去月二十三日を以て無常の風に導かれ、未だ其の涙の干(かわ)かざる中に大切なる貴兄の一子貴治(たかじ)様(略)寿命とは申す者の不憫(ふびん)なる哉(かな)、遂(つい)に本月三日黄泉(こうせん)の客に相成(あいな)り(略)君よ君一心を変ずる勿(なか)れ、君一心不乱(ふらん)に軍業勉励し(略)決して悪酒抔(など)呑(の)む事勿(なか)れ、必ず呑(のみ)玉(たま)ふなよ、思止るは男子なり」

 実弟の死はおろか、前年に生まれた愛児貴治(たかじ)をも失った三源次の胸中は如何許(いかばか)りか、それでも儀平次は一心不乱に軍務に精励せよと励まし、その身を案ずればこそ悪酒を禁じている。
 1894年(明治27)年8月、日清戦争勃発(ぼっぱつ)、31日儀平次は召集令状(しょうしゅうれいじょう)を受領(じゅりょう)、後事を馬場松太郎に託(たく)して、勇躍(ゆうやく)高崎の聯隊へ入隊したが、9月11日突然、過員により帰休(ききゅう)を命ぜられ、泣く泣く帰郷することになった。しかし、儀平次はこのままでは引き下がらなかった。

 10月31日、「天皇陛下ニ御厚恩ノ万分一ニモ奉報(むくいたてまつ)ラント一心不乱 義ハ山岳ヨリ高ク死ハ鴻毛(こうもう)ヨリ最ト軽キト覚悟シテ郷里ヲ出発シタルニ其精神ヲ貫徹(かんてつ)スルヲ得ザルハ不幸之レヨリ大ナルハナシ」という熱い赤心(せきしん)は[従軍志願意見書]を提出させるに至った。当時、既に砲兵軍曹に昇進していた三源次はこの相談を受け、次の一文を送っている。

「追白(ついはく)、貴兄事(こと)従軍志願致準備(じゅんびいたす)ニテ、余ニ御相談被下(くだされ)、誠ニ敵(てき)概(がい)ノ御精神実ニ感ズルニ余リアリ、然(しか)レドモ君ハ一度兵役ノ義務ヲ終リタルニアラズヤ今回トテモ吾々モ同様従軍ノ叶(かな)ハザレバ素(もと)ヨリ残念ノ義ニ候得共(そうらえども)、是互(これたがい)ニ之ヲ忌避(きひ)シタルニハ無之(これなく)、何レモ命ニ依テ成ル者ナレバ是非ナシ、世ニハ少モ其義務ニ服ザル者モ有ルニアラズヤ、君ヨ其念ヲ絶(た)チ、家ニアリ殖産(しょくさん)事ヲ盛大ニシ、余暇ニハ壮年輩(はい)ヲシテ鼓舞(こぶ)、敵愾(てきがい)気性ヲ発奮(はっぷん)スル事ニ勤(つと)メ、父母ノ膝下(しっか)ニアリテ忠孝二つヲ全(まっとう)セヨ、是余(よ)ガ深ク希望スル所ナリ、敢(あえ)テ愚(ぐ)意(い)ヲ吐露(とろ)ス」

 即ち、血気(けっき)にはやる儀平次を諌(いさ)め、儀平次またよく其の言を入れ、七郷・八和田・菅谷・宮前聯合忠勇義烈会を主唱(しゅしょう)し、会員百七十余名を集め、軍資金を献じ、大いに敵愾心(てきがいしん)を鼓舞した。

 1895年(明治28)1月20日、三源次から儀平次宛に「故郷ヲ懐(おもい)テ」と題する一書が送られて来た。

「かりにも他郷に身を寄せて誰れか故郷を懐はざる者あらん、己れの生れし方を恋はざる者あらん、況(ま)して我々の如き身の自由ならざる者に於(おい)てをや、都は如何に慰(なぐさ)むる者多きと雖(いえど)も故郷の好(よ)きにしかず、己れ北の空を眺むる時寝る時未(いま)だ一たびも故郷の老母の事、母の事、親友の事或は思を通(かよわ)せし乙女の事(笑い玉ふ(たまう)な)家事の整頓及び火事の事思い出さぬ事とてなし、山又山、川又川幾(いく)数(かず)をへだてぬる処に我が故郷は有るらん、恋しき母は居(お)るならん、親しき友は居るならんと想ふ心のやるせなく、山時鳥(やまほととぎす)を聞くに付、森の子がらす見るに付、己が心如何(いか)ならん、(略)嗚呼(ああ)、思へば余が兵役に服するの前、放蕩(ほうとう)以て君及び父母の意を傷(そこな)ふ事数回其不幸の罪何事か之に加へん、然(しか)るに未だ一日も其意を安んぜし事なく郷を離れ、殊(ことに)、日清開戦以来層一層(そういっそう)其我が為めに君又家族の慮(りょ)を煩(わずら)わし何を以てか之に報(むく)ゆることを得(え)ん、転(うた)た悵然(ちょうぜん)として哀愁極(きわまり)て為(な)す所を知らず然(しか)りと雖(いえども)、古(いにしえ)に既往(きおう)は咎(とが)めずと云う語あり、故に日に月に其精力練り、上(かみ)は皇恩の万分の一に報い、下(しも)は自家の功名を成(な)し、以て父母の名顕(あらわ)さんとす、君之を諒(りょう)せよ」

 遠く故郷を離れて軍務に従事する三源次が故郷を偲(しの)び、祖母や母、親しき友のことを想うやるせない心情がよく伝わってくる。こうした状況下におかれた義兄弟のために儀平次は1892年(明治25)年から1895年(明治28)まで、何と四十六通の手紙を送っている。或いは農事や養蚕の事、火事・洪水の事或いはお祖母(ばあ)さん・お母(かあ)さん・奥(おく)さんの様子を伝え、そして久保家の守護を誓い、健康を気遣(きづか)いながらも軍務への精勤(せいきん)を励まし続けた。

 同じ年の3月儀平次は再び応召(おうしょう)され、高崎補充大隊へ入隊、新兵教育掛(かかり)を命ぜられる。一方三源次にも1月出戦命令が下り、旅順口へ着任したが、幸いにも日清戦争は四月講和条約が締結(ていけつ)され、戦争が終わった。儀平次は6月に帰郷、三源次も11月には除隊となって帰国できた。以来二人は七郷村の村政に深く関(かかわ)って行くことなる。
 先ず1897年(明治30)、三源次は二十六歳の若さで七郷村収入役職務代理となり、1899(明治32)には儀平次も又三十二歳で収入役職務代理となった。三源次は1901(明治34)年には村会議員に当選、翌1902(明治35)年には助役、1903年(明治36)には三十二歳で村長に就任した。

 時に1904(明治37)年2月、再び戦争勃発、即(すなわ)ち日露戦争である。この頃儀平次は三源次村長のもとで助役代理の職にあったが、そこへ召集の報(しらせ)あり、同年7月21日、村長三源次は申報書(しんぽうしょ)をもつて留守(るす)第一師団長阪井重季宛に「馬場儀平次ハ本村助役在職中ニシテ戸籍及徴発(ちょうはつ)事務主任者ニ有之(これあり)代人ヲ以テ代ヘ可(べか)ラザル者ニ候」と具申(ぐしん)、第一師団参謀(さんぼう)渡辺、これを諒(りょう)とした。三源次は行けば死ぬかもしれない戦争に、親友儀平次をゆかせたくなかった。しかし、戦火は拡大し12月には遂に、儀平次は後備歩兵第49聯隊に入隊を命ぜられ、「儀平次ガ 行末(ゆくすえ)如何(いか)ニト 人問ハヽ 水ノ流ト 吾(われ)ハ答ヘン」の一首を残して、1905年(明治38)1月には海外へ出征、満州各地を転戦、儀平次は三十八歳になっていた。もはや老兵である。4月には奉天に達し、そこから父親へ宛て一書を送っている。

「謹啓(きんけい)仕候(つかまつりそうろう)、陳者(のぶれば)御地方蝶舞、鳥歌ふの好期節に相成候(あいなりそうろうこう)、御家内樣愈々(いよいよ)ご清祥(せいしょう)之由奉欣賀候(きんがたてつりそうろう)、(略)来信に依れば覚司(かくじ)は今回励農会会計長に選任被致居候由(いたされおりそうろうよし)、就ては諸事務は金銭等之取扱ひ(い)を為す役目に付随分(ずいぶん)注意周到(しゅうとう)にして出務を要す、何共なれば人の信用不信用は只(ただ)、金銭上に止まり、些少(さしょう)たる事も後悔ゆとも其詮(せん)なきものなれば、厳重ニも熱心に注意致すべき事に御座候(ござそうろう)、古語に曰(いわく)、一年の計は元旦にありと、金言なる哉(かな)、人の一生は未成年之うちにあり宜敷(よろしく)善良に心掛けべき事に御座候(ござそうろう)間、御祖父様にて御教訓相成度候(あいなりたくそうろう)、(略)次に過般家政之教訓申上候得共(そうらえとも)、猶(なお)又(また)、小生心配に付左に一言申進候(もうしすすめそうろう)間宜敷(よろしく)ご承引被下度候(くだされたくそうろう)、早々不備(ふび)
       教訓
              覚嗣ニ告(つぐ)
一、予不在中は取分(とりわ)け母ニ幸ニ、祖父ニ順ニ、叔母姉妹弟等ニ信ニ、以て世人ニ善ニ交誼(こうぎ)を結ぶべし、以て父の帰国を待てよ
              ちよニ告
一、父ニ幸ニ妹ニ信切ニして、子供等を善良ニ教育し、一家之和ニ注意を加へ、吾(わ)が不在中ハ専(もっぱ)ラ夫の名誉上ニ留意する事、日夜忘却(ぼうきゃく)すべからず、以て我家祖先之恩二報(むく)ふべし、以て夫の帰国を待てよ

              かんニ告
一、其許(そこもと)は随分不仕合(ふしあわ)せの事なれば、必ず百般ニ堪忍(かんにん)して家業ニ従事し、兄の無事帰国するを待つべし
右之者は吾不在と雖(いえど)も主人在宅と心得て百事ニ従事相成度(あいなりた)し、外しま及つき以下皆老父之命ニ従い一言も反(そむ)く事なき様致し度し、此教訓は各自眠間(ねむるま)も忘るヽ勿(なか)れ、若吾が意ニ反く事有ば其罰(ばち)必ず宥(ゆる)すべからず、夫れ留意せよ

              

 三源次出征中は久保家の残された女性たちを気遣い、何くれとなく尽力して来た儀平次だったが自分も応召され戦場に出てみると、自分の家の人々が心配になり、厳しくも懇篤(こんとく)な忠言を長男覚嗣、妻ちよ、実妹かんへ与えたのである。戦場にあった人々は儀平次も三源次もみんな家郷(かきょう)をしのび、残してきた人々を気遣ったことだろう。

  1905年(明治38)9月には戦争も終決し、11月に儀平次も無事復員した。日露戦争中、三源次は応召されることもなく、七郷村村長として1907年(明治40)年4月まで銃後(じゅうご)に在って村治に勤め、軍友会(後の在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)を設立し、愛国婦人会委員となって、婦人層や在郷の壮年層の指導、戦意の高揚(こうよう)につとめた。また農会長を兼任(けんにん)農政にも深く関与した。

 1911年(明治44)10月再び助役に就任、翌年には村長に再任された。一度ならず二度までも村の要職を歴任する事になったのは,いつに彼の人徳と熱誠(ねっせい)に拠(よ)るものと思われる。1916年(大正5)まで村政に尽瘁(じんすい)、遂に1920年(大正9)、比企郡会議員に当選、県政にまでかかわって力を尽くすこととなった。儀平次は三源次ほど華々しく表面にたって活躍はしなかったが、その後二十余年の長きにわたって、区長、道路委員、衛生委員等を歴任、三源次の村政を支え、その良き理解者・協力者となって村の諸問題の解決に尽くした功績は大きく、儀平次あっての三源次と云うとも過言(かごん)ではない。

 儀平次は1936年(昭和11)9月、熱く国を愛し、友愛と人間愛につらぬかれた一生を終わった。六十九歳であった。三源次は軍籍にあって手柄を立て出世もしたが、それ以上に村にあって再度助役・村長そして郡会議員を歴任、長きにわたって村治に尽くした功績は偉大であった。1946年(昭和21)8月、七十五歳にして永眠した。後年、五男茂男は歌碑を建ててその功を称えた。

 碑文に云う

  人からは 土龍(もぐら)村長と 言われつヽ

         我父は村の道を拓(ひら)きし(土屋文明選)

通俗巡回文庫始まる 1910年

 1909年(明治42)9月、埼玉県知事は「教育ノ普及並青年修養ノ資ニ供スルノ目的」をもつて「通俗巡回文庫」を設置しました。全県を6方面48区に区分し、一定量の図書を巡回閲覧させ、義務教育以後の青年女子の修養と風紀の振興と知識の開発を意図したものでした。
 この時期公共の図書閲覧機関が極めて未発達で、本を読む機会に乏しかった地域の人々にとっては本に接する良い機会だったことでしょう。翌年6月、七郷村に巡回文庫が到着し、新築なった七郷小学校で開始式が行われました。
 どんな本がどのように巡回されたか、吉田・広野・古里地域の例を図示してみました。一度に25冊〜37冊の本が配られ、一ヶ所に13日滞留させました。小学校長が事務取扱となり、一週間以内の貸出しもしたようですが、主として小学校を閲覧所としていました。本の種類は伝記・道徳・農業・女性・家庭に関するものが多く、小説や娯楽類の読み物はほとんどみあたりません。
 1914年(大正3)の比企郡下の文庫閲覧人員を10月末より翌3月10日まで130日間の統計でみますと、3万1284人で、一日凡そ240人の人々が本を読んだことが分かります。
 普及利用の程度、或いは効果は即断できませんが、知事が「是ヲ以テ、(中略)図書館設置ノ基礎ヲ為スニ至ルベシ」と告諭した通り、これが図書館の先駆となりました。
 七郷青年興農会学集部々長馬場覚司の名前で、金泉寺に於いて図書館開館式の挙行が案内された文書が残されています。年不詳ではあるが、恐らく若かった馬場覚司が活躍した大正10年代(1920年代前半)のことだと思われます(市川貢家文書7172)。

   付 巡回文庫図書目録・回覧順序図

※資料 根岸茂夫家文書150、井上清家文書88、市川貢家文書2351、『小川町の歴史 資料編(近代)』

 →「七郷村郷土研究91 社会教育 青年会」、「菅谷村郷土誌20 教育会、同窓会、青年会の沿革

新編武蔵風土記稿 越畑村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  越畑村(おっぱたむら)(現・埼玉県比企郡村嵐山町大字越畑)

 越畑村ハ領名(りょうめい)及ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ*1:。東ハ吉田・勝田(かちだ)ノ二村ニ隣リ、南ハ杉山・中爪(なかつめ)ノ村々ニテ、西ハ下上横田村(しもよこたむら、かみよこたむら)ニ交(まじわ)リ、北ハ古里村ナリ。東西七町南北二十町余。家数九十軒。御打入(おんうちいり)*2ノ後、高木筑後守広正(たかぎちくごのかみひろまさ)ガ采邑(さいゆう)*3ニシテ其子甚左衛門ガ時慶安(けいあん)元年(1648)検地(けんち)*4セリ。ソノ後元祿元年(げんろく)(1688)替(かわ)リテ御料所(ごりょうしょ)*5及ビ酒井但馬守(たじまのかみ)ガ知行(ちぎょう)*6トナリシニ、同キ十一年(1698)御料所ノ内ヲ割テ山高十右衛門ニ賜リ、又享保十二年(きょうほう)(1727)残リシ御料所ノ分ヲ黒田豊前守(ぶぜんのかみ)・羽太清左衛門ノ二人ニ賜リテ、今モ高木・山高・黒田・羽太等ノ子孫四人ノ知ル所*7ナリ。
   *1:吉田村と同じで、江戸よりの行程16里。
   *2:徳川家康が天正18年(1590)に江戸城に入ったことをさす】
   *3:領地。
   *4:農民の田畑を測量して等級をつけ、生産力を米の生産高で表わした。そして土地の耕作者を年貢や労役の負担者に定めた。
   *5:幕府の直轄地(ちょっかつち)。
   *6:領地。
   *7:領地。

 高札場(こうさつば)* 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

 小名*1 櫛挽(くしびき) 大槻(おおつき) 深谷 島 大木
   *1:小字。

 市ノ川 西ノ方、上下横田村ノ堺ヲ流ル、川幅三間。

 八宮社(やみやしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ。
  ○別当(べっとう)*1 観音寺 天台宗、中爪村普光寺ノ門徒ナリ、八宮山多門院ト云フ。本尊正観音(しょうかんのん)*2ハ慈覚大師(じかくだいし)*3ノ作ナリ、長二尺許(ばか)リ、開山(かいさん)*4憲舜(けんしゅん)延宝六年(えんぽう)(1678)十月七日寂(じゃく)*5ス。
   *1:神社の管理に当たった寺。
   *2:聖観音とも書く。聖観世音(しょうかんぜおん)の略。
   *3:平安時代初期の僧円仁(えんにん)のこと。延暦寺(えんりゃくじ)第三世座主(ざす)。天台宗山門派の祖。死後,慈覚大師の名を贈られた。
   *4:寺院の創始者。
   *5:死去。

 浅間社(せんげんしゃ)*1
   *1:富士山を信仰し、木花開耶姫(このはなのさくやしめ)を祭神とした。

 客人社(きゃくじんしゃ)*1
   *1:八大社の誤り。櫛入玉神を祀る。

 大天社 以上三社観音寺持。

 雷電社(らいでんしゃ)*1 金泉寺持。
   *1:落雷を避けるために雷電様を祀った。

 宝薬寺(ほうやくじ) 曹洞宗(そうとうしゅう)*1、広野村広正寺(こうしょうじ)ノ末、薬王山(やくおうざん)ト号ス。元和年中(げんな)(1615−1623)ノ僧南叟(なんそう)壽玄*2ノ草創(そうそう)ト云フ。寿玄ハ本寺二世ノ住僧ニテ寛永十九年(1642)二月三日寂ス。本尊釈迦(しゃか)ヲ安置セリ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:この『新編武蔵風土記稿』と『嵐山町史』に「壽玄」と記されているのは間違い。「玄壽」が正しい。広野の廣正寺にある位牌には「前永平當寺二世 南叟玄壽大和尚 禅師 寛永十三年丙子五月三日 示寂」と記されている。死亡年月日もこちらをとるべきだろう。

 薬師堂(やくしどう) 薬師ハ行基(ぎょうき)*1ノ作ナリ。安永四年(あんえい)(1775)ニ書キタル縁起(えんぎ)*2【お堂の由来(ゆらい)を書いたもの】ニ、此堂ハ神亀元年(じんき)(724)ノ起立ナリト云フト、信ズルニ足ラザル説多ケレバ爰(ここ)には採(と)ラズ。
   *1:奈良時代の僧。布教しながら諸国を回り、道、橋、用水施設を建設した。

 金泉寺(きんせんじ) 前ト同寺ノ末ナリ、大龍山ト号ス。本尊釈迦(しゃか)ヲ安ス*1。当寺モ開山ハ南叟壽玄*2ニテ元和年中(げんな)(1615−1624)ノ起立ト云フ。
   *1:安置。
   *2:上に述べた如く玄壽が正しい。

 塁蹟(るいせき)*1 村ノ西ニアリ土人*2其所ヲ城山トヨブ、今ハ陸田トナレリ。何ノ頃何人ノ住セシト云フコト詳(つまびらか)ナラズ、或ハ庄主水(しょうもんど)ト云ヒシ人ノ居蹟(きょせき)*3トイヘド其年代モ定カナラズ。按(あんず)ルニ当国七党*4ノ内、児玉党ニ庄権頭弘高(しょうごんのかみひろたか)ナドアレバ是等(これら)ノ後裔(こうえい)*5ナルニヤ、『小田原役帳』*6ニ庄氏ノ人*7見エタリ、又杉山村ニモ此人ノ居蹟アリ照(てら)シ見ルベシ。
   *1:砦(とりで)の跡。
   *2:土地の人。
   *3:住居跡。
   *4:鎌倉時代に武蔵七党といわれた七つの武士団のこと。児玉党(こだまとう)はその一つ。
   *5:子孫。
   *6:「小田原衆所領役帳」のこと。北条氏康が各家臣の知行高と知行地を記録し、それに応じた軍役などの諸役賦課の基準とするために作成した。
   *7:庄式部少輔、庄新四郎の二人。

 旧家者五兵衛 酒井但馬守ガ知行ノ名主ナリ、氏ヲ船戸ト云ヒ其祖先ハ左兵衛督成氏ヨリ出タリ。成氏ノ子重氏ソノ子氏経ハ船戸左近ト称ス。是(これ)ヨリ世々船戸ヲモテ氏(うじ)トセリ、氏経ノ子孫太郎倶氏、ソノ子大学行氏、ソノ子玄藩浄氏ト云フ。コノ浄氏ハ北条安房守氏邦(ほうじょうあわのかみうじくに)*1ニ仕へ、天正十八年(1590)鉢形落城セシ後当村ニ来リテ農民トナリ、慶長九年(けいちょう)(1604)二月晦日(みそか)死セシ由、家ニ蔵(ぞう)スル過去帳(かこちょう)ニ見エタリ、浄氏ヨリ今ノ五兵衛マデ九代ニ及ベリト云フ。按ルニ重氏・氏経等将軍ノ譜(ふ)*2ニ所見(しょけん)ナケレバ最疑(うたが)フベシ。船戸ノコトハ足立郡鳩ケ谷町ノ民、喜市ナルモノノ先祖ヲ船戸大学助ト云ヒ卒年(そつねん)*3【没年】ハ伝ヘザレド其家ニ蔵スル天正七年(1579)小田原北条家ヨリ与ヘシ文書ニ、鳩ケ谷百姓船戸大学助トアレバ天正ノ頃世ニアリシ人ナリ、前ニイフ大学行氏ハ元亀元年(げんき)(1570)ニ卒(そつ)セシヨシ伝フレバ、大学助トハ別人ニテ其一族ナドニテアルベシ。
   *1:戦国時代末期に活躍した鉢形城主北条氏邦。
   *2:寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)。 江戸幕府が編集した国主、領主をはじめお目見え以上の士についての系譜の書。
   *3:没年。

武蔵国郡村誌 越畑村 ルビ・注

   越畑村(おっぱたむら)【現・埼玉県比企郡嵐山町越畑】
 
本村古時松山領に属す

疆域(きょういき)*1
東は吉田勝田の村と林木或は耕地を接し西は市の川を隔てゝ奈良梨 上横田の二村と相対し、南は中爪村と市の川及ひ畦畔(けいはん)*2を劃(かぎ)り、杉山広野の二村と限るに林岡(りんこう)*3及畦畔を以てし、北は男衾郡西古里村と山巒(さんらん)*4を界(さかい)とす
   *1:境界内の土地。
   *2:あぜ。
   *3:林の丘
   *4:ぐるぐると巡っている山つづき。 

幅員(ふくいん)*1
東西十五町南北十七町十間
   *1:ひろさ。はば。

管轄(かんかつ)沿革(えんかく)
天正十八年(1590)徳川氏の有に帰し、旗下士高木築後守(ちくごのかみ)の采地(さいち)*1となる。 田に高四百六十八石一斗九升五合高木甚右衛門知行とのす 元祿元年戊辰(つちのえたつ)(1688)上地となり村高を割(さ)き二百三十四石九斗七升五合は代官に属し、二百三十四石九升七合五勺は酒井但馬守(たじまのかみ)に与(あた)ふ。十一年戊寅(つちのえとら)代官属地の内高七十八石三升を割(さ)き山高十右衛門に享保十二年丁未(ひのとひつじ)(1727)七十八石三升を羽太清右衛門の采地(さいち)となし、七十八石三升三合五勺を黒田豊前守(ぶぜんのかみ)の領地となす。明治元年戊辰(つちのえたつ)(1868)酒井羽太高山氏の采地は武蔵知県事に隷(れい)し、二年己巳(つちのとみ)(1869)品川県となり尋(つい)て韮山県に転(てん)し、黒田氏の領地は是(この)歳(とし)久留里(くるり)藩*2となり、四年辛未(かのとひつじ)(1871)七月久留県と改り、十月群馬県に転し、十一月韮山県と共に入間県に隷し、六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県に属す
   *1:知行地。   
   *2:千葉県君津市久留里。

里程(りてい)*1
熊谷県庁より西南三里
四隣吉田村へ十五町奈良梨村へ十五町 杉山村へ二十一町男衾郡西古里村へ十町  
近傍(きんぼう)*2宿町中山道熊谷駅へ三里 字柳原を元標(げんぴょう*3とす
   *1:道のり。
   *2:付近。
   *3:測量のもととなる目標。

地勢
山脈南北に亙(わた)り市の川西南を流る東西に稍(やや)平地あり運輸便ならす薪炭贏余(えいよ)*1
   *1:あまり。

地味(ちみ)*1
色赤黒稲粱(とうりょう)*2に宜しく菽(しゅく)*3桑楮(ちょ)*4に適せす時々水旱(かん)に苦しむ
   *1:地質の良し悪し。  
   *2:稲(いね)と粟(あわ)。転じて穀物の総称。
   *3:まめ類の総称。
   *4:こうぞ。

税地
田 四十三町二反四畝四歩五厘
畑 四十三町九反八畝二十八歩
宅地 一町六反六畝六歩
山林 三十八町七反七畝二歩
総計 百二十七町六反六畝十歩五厘

字地
柳原(やなぎはら) 村の北方にあり東西一町五十三間南北四町
前大月(まえおおつき) 柳原の西南に連る東西二町五十四間南北一町二十五間
島(しま) 前太月の南方東西三町三十間南北一町三十四間
後谷(うしろやつ) 島の西東西三町三十四間南北一町三十間
大木(おおぎ) 後谷の東南東西三町四十間南北一町二十九間
小栗(おぐり) 大木の南東西二町五十五間南北二町三十二間
中櫛引(なかくしひき) 小東の西北東西一町三間南北三町二十六間
下櫛引(しもくしひき) 中櫛引の南東東西一町十七間南北三町四十三間

貢租(こうそ)
地租 米百三十一石六斗五升 金七十一円二十九銭八厘
賦金(ふきん)*1 金四十二円
総計 米百三十一石六斗五升 金百十三円二十九銭八厘
   *1:割り当てられた金銭。

戸数
本籍 八十八戸平民
社 三戸 村社一座 平社二座
寺 三戸 曹洞宗二宇 堂一宇
総計 九十四戸

人口
男 二百二十六口
女 二百二十二口
総計 四百四十八口

牛馬
牡馬三十頭

舟車
荷車一輛小車

山川
浅間山 高二十丈周回不詳。村の西にあり。樹木繁茂。山脈男衾郡鷹巣村に連る。字富士山より上る二町

市の川 深処五尺、浅処二尺。広処三間、狹処一間三尺 。緩流、清水、堤防あり。村の西方奈良梨より来り南方中爪、杉山二村の界に入る。其間十六町二十六間。田二町四反五畝歩の用水に供す

野郎子橋 熊谷道に属す。村の西南市の川の上流に架す。長四間、巾一間。土造。

賀須川 深処四尺、浅処二尺、巾二間。 源を村の西方より発し東南を環流して杉山村に入る。其間六町拾六間。田二町九反三畝九歩の用水に供す

庚申橋 熊谷道に属す。村の東南賀須川の上流に架す。長四間巾一間。石造

原野
大谷原(おおやつはら) 民有に属す村の北にあり。東は吉田村、西は奈良梨村、北は西古里村。樹木生ぜず唯(ただ)茅葦(ぼうい)*1を生ず
   *1:かやとあし。

湖沼
川後岩沼 東西四十間南北二十六間周回五町五十六間村の北にあり
十三間沼 東西二十六間南北九十間周回三町四十二間村の西隅にあり
三田堂沼 東西百八十一間南北二十三間周回七町村の西北にあり
相模沼 東西百一間南北三十三間周回四町村の南にあり以上の各沼村の用水に流す

道路
熊谷道 村の北方西古里村界より西方奈良梨村界に至る。長四町三十四間三尺、巾九尺

掲示場
村の東方にあり

森林
林 民有に属し村の南北に亘る。反別三十八町七反七畝二歩
堤塘(ていとう)*1
   *1:つつみ。土手。堤防。

囲堤(いてい) 市の川に沿ひ村の西方奈良梨村界より南方杉山村界に至る。長四町三十七間馬踏(ばふみ)*1一間堤敷(つつみしき)*2二間三尺。修繕費用大破は官に、小破は民に属す
   *1:ばぶ。堤防や土塁の上の人馬の通行する道路。
   *2:堤防の敷地。


神社
八宮社 村社々地東西二十間南北二十九間面積四百三十一坪 村の東にあり素盞嗚尊(すさのおのみこと)*1を祭る。祭日三月十日
   *1:天照大神の弟、病難除去、五穀豊穣の神。

浅間社 平社々地東西二十間南北三十間面積六百八十二坪村の西にあり木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)*1を祭る。祭日六月十五日
   *1:大山祇神の娘。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃、富士山の神とみなされる。

社宮司社 東西十四間南北十七間三尺面積二百一坪村の西隅にあり倉稲魂命(うかみたまのみこと)*1を祭る。祭日三月十五日
   *1:五穀をつかさどる神。

仏寺
宝薬寺 東西二十三間南北二十八間面積三百八十三坪村の中央にあり。曹洞宗広野村広正寺の末派なり。元和中(1615-1623)僧南叟玄寿開基創建す

金泉寺 東西二十七間南北二十二間三尺村の中央にあり。本寺及び開基創建宝薬寺に同じ

薬師堂 東西九間南北十六間面積百三十七坪村の中央にあり

役場
事務所 村の北隅戸長宅舎を仮用す

古跡
城山城墟(あと) 東西五町南北三町村の西にあり風土記に土人(どじん)*1その所を城山(じょうやま)と呼ぶ。今は陸田(りくでん)*2となれり何の頃何人の住せしと云こと詳(つまびらか)ならず。或は庄主水(しょうもんど)と云し人の居蹟といへど、其年代も定かならず按(あん)。ずるに当国七党の内児玉の党に庄の権頭(ごんのかみ)弘高などあれば、是等の後裔(こうえい)*3なるにや云々(うんぬん)
   *1:その地に生れた人民、土地の人。
   *2:はたけ。
   *3:子孫。

物産
繭 十五石
米 百七十六石五斗
大麦 三十四石四斗
大豆 五十五石五斗
楮(こうぞ) 三百斤
竈石(かまどいし) 五十個
生絹(すずし)*1 百疋
瓦 五百駄
薪 八百八十駄
   *1:生糸の織物。

民業
男女農桑採薪を専らとす

■写真■
IMG_0250
日清日露戦役記念碑(八宮神社)

IMG_0251
新道(十三間道路)記念碑(八宮神社)

IMG_0252
越畑の獅子舞(八宮神社)

神社明細帳 八宮神社 七郷村(現・嵐山町)越畑 ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡七里村大字越畑字日向
  村社(そんしゃ)*1
          昭和二一、一○、一五 法人登記済
  *1:江戸幕府は寺院を通じて民衆を掌握していたが、明治政府は神道中心の宗教政策に転換し、1871年(明治4)に神社の社格制度を定めて神社を通して民衆を掌握していった。これにより埼玉の場合は大宮の氷川神社を官幣大社(かんぺいたいしゃ)、次を県社、郷社、村社、無格社と定めた。村の鎮守は村社となった。この社格制度は敗戦により1946年(昭和21)に廃止になった。

 八宮(やみや)神社

一 祭神(さいじん)
    応神(おうじん)天皇*1
    木花開夜姫命(このはなさくやひめのみこと)*2
    大雷神(おおいかずちのかみ)*3
    天照大御神(あまてらすおおみかみ)
    倉稲魂命(うかみたまのみこと)*4
    大山祇命(おおやまつみのみこと)*5
    櫛八玉神(くしやたまのかみ)*6
    品陀別命(ほんだわけのみこと)*7
  *1:諱(いみな)は誉田別尊(ほむたわけのみこと)。皇統では、第14代仲哀天皇と第16代仁徳天皇の間の第15代天皇(在位、西暦270年〜310年)であるが、4世紀末から5世紀初頭の頃在位したとみられる大王。記紀(古事記・日本書紀)では、治世中に多数の渡来人が来て漢字や儒教、養蚕など大陸の文物・技術を伝えた。騎馬民族説では、朝鮮から渡来した征服王朝ともいう。
  *2:富士山の神、安産や酒造りの神。
  *3:雷の神。
  *4:五穀(ごこく)をつかさどる神。
  *5:山の神。
  *6:漁労(ぎょろう)・調理の神。
  *7:『古事記』で応神天皇のこと。

一 由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)人皇(にんのう)四十七代*1聖武天皇(しょうむ)ノ御宇(おんう)*2ト申ス、其後承平(しょうへい)年中(931−938)経基公*3関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ヶ所ニ是(これ)ヲ祭ルト云フ。明治四年(1871)中村社(そんしゃ)届濟(とどけずみ)。
  明治三十二年(1899)五月二十二日八幡神社ヲ八宮神社ト訂正ス。
  明治四十年(1907)四月十日大字越畑字冨士山無格社浅間神社、字幡後谷前無格社雷電社、字柳原無格社神明社、字社宮司無格社社宮司社、字後谷無格社山神社、字下串引無格社大天獏社、字大堂無格社八大社、字清水無格社八幡社ノ八社ヲ本社ニ合祀(ごうし)ス。大正八年(1919)十二月二十二日拝殿幣殿(へいでん)*4改築許可。大正九年(1920)四月十五日竣工。
  *1:皇統では四十五代が正しい。
  *2:御代。
  *3:清和天皇の第六皇子貞純親王の子で源経基のこと。源氏姓を賜り、源氏姓の祖。後に平将門追討の征東副将軍になる。鴻巣市には「伝源経基館跡」県史跡がある。
  *4:神への捧物(ささげもの)を置く所。拝殿と本殿の間にある。

一 社殿 本殿

一 境内 四百三十一坪

一 氏子 八拾八戸

  由緒(ゆいしょ)追記(ついき)
    大正十一年(1922)三月二十日神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進神社(きょうしんじんじゃ)ト指定セラル

※街頭で「越畑の八宮神社はどこですか」と尋ねられて答えられますか。『柴田よしきの日記』さんの「越畑八宮神社」。

00443

00442

00440

00437

00435

00434

00432

00429
2003年5月22日 小川京一郎さん撮影
※八宮神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1437頁
八宮神社(越畑)

空から見た嵐山町 384 越畑 2011年10月

嵐山町越畑
P1090191webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:埼玉県道11号熊谷小川秩父線、B:埼玉県道296号菅谷寄居線
C:市野川橋、D:下横田橋(市野川)
E:奈良梨上横田地区クリーン施設、F:八和田神社、G:八和田郵便局(小川町奈良梨)(ならなし)
H:小川町立八和田小学校(小川町上横田)(かみよこた)
I:立山橋(関越自動車道)
J:金泉寺(曹洞宗)、K:宝薬寺(曹洞宗)、L:越畑第一公民館、M:八宮神社、N:樹会らんざん苑、O:川後岩沼、P:川後岩小沼、Q:十三間沼、R:嵐山パーキングエリア上り線、S:嵐山パーキングエリア下り線(嵐山町越畑)(おっぱた)
T:久保田倉庫嵐山物流センター、U:三反田沼(嵐山町吉田)(よしだ)

空から見た嵐山町 382 越畑 2011年10月

嵐山町越畑
P1090181webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:市野川、B:新川
C:関越自動車道
D:大木入沼、E:相模沼、F:城山沼
G:越畑第二公民館、H:金泉寺(嵐山町越畑)(おっぱた)

空から見た嵐山町 381 越畑 2011年10月

嵐山町越畑
P1090177webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:立山橋(たてやまばし)(関越自動車道)
B:城山沼、C:相模沼、D:観音堂 比企西国30番札所観音寺、E:金泉寺(曹洞宗)、F:宝薬寺(曹洞宗)、G:越畑第一公民館、H:関越自動車道嵐山パーキングエリア、I:十三間沼、J:川後岩沼、K:八宮神社、L:樹会らんざん苑、M:岩鼻沼、N:嵐山中部第1貯水池、O:七郷駐在所(嵐山町越畑)(おっぱた)
P:榎橋、Q:土橋、R:観音寺橋、S:越畑橋(粕川)(かすがわ)
T:埼玉県道69号嵐山深谷線
U:武蔵野フーズカムス第一工場(嵐山町花見台)
V:JA埼玉中央嵐山支店、W:嵐山町立七郷小学校、X:北部交流センター、Y:活き活きふれあいプラザやすらぎ、Z:吉田集会所、a:新沼(嵐山町吉田)

空から見た嵐山町 379 越畑 2011年10月

嵐山町越畑(おっぱた)
P1090171webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:農事組合法人らんざん営農(嵐山町広野)(ひろの)
B:嵐山消防団第2分団第1部、C:越畑第二公民館、D:音堂 比企西国30番札所観音寺、E:七郷駐在所(嵐山町越畑)(おっぱた)
F:JA埼玉中央嵐山支店、G:嵐山町立七郷小学校、H:旧七郷村役場跡(嵐山町吉田)(よしだ)
I:七里中部第1貯水池、J:相模沼
K:武蔵野フーズカムス第一工場(嵐山町花見台)(はなみだい)
L:榎橋、M:土橋、N:観音寺橋、O:越畑橋、P:川端橋、Q:庚申橋(粕川)(かすがわ)
R:関越自動車道、S:埼玉県道69号嵐山深谷線

空から見た嵐山町 377 越畑 2011年10月

嵐山町越畑
P1090165webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:高橋、B:田中の橋(新川)
C:横田橋(市野川)
D:奈良梨上横田クリーン施設(小川町奈良梨)(ならなし)
E:愛宕橋(あたごばし)、F:立山橋(たてやまばし)(関越自動車道)
G:大木入沼、H:城山沼、I:相模沼、J:嵐山消防団第2分団第1部、K:越畑第二公民館、L:観音堂 比企西国30番札所観音寺、M:金泉寺(曹洞宗)、N:宝薬寺(曹洞宗)、O:薬師堂、P:越畑第一公民館、Q:八宮神社、R:嵐山中部第1貯水池(嵐山町越畑)(おっぱた)
S:榎橋、T:土橋、U:観音寺橋、V:越畑橋、W:川端橋(粕川)(かすがわ)
LINKS
記事検索
最新コメント
最新記事(画像付)
Categories
GO! GO! 嵐山
GO! GO! 嵐山 2
GO!GO!嵐山 4
里やまのくらしを記録する会
嵐山石造物調査会
武谷敏子の自分史ノート
嵐山町の古文書を読む会