GO! GO! 嵐山 3

嵐山ふるさと塾・チーム嵐山

越畑

空から見た嵐山町 376 杉山・広野・越畑 2011年10月

嵐山町越畑
P1090162webword
杉山・広野

2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:杢ノ入沼、B:打越沼
C:台山沼、D:大木入沼、E:相模沼
F:越畑第二公民館、G:越畑第一公民館
H:埼玉県道69号深谷嵐山線
I:粕川
J:嵐山中部第2貯水池
K:関越自動車道嵐山小川インターチェンジ

官営富岡製糸場の伝習工女 越畑村からも参加

  開国によって生糸の輸出が盛んに
 江戸幕府は、1854年(安政元)に日米和親条約を結んでアメリカに門戸を開き、さらに1858年(安政5)には日米修好通商条約を結んでアメリカと通商する体制に入った。同じような条約がイギリス、ロシア、オランダ、フランスとも結ばれ、200年以上にわたる幕府の鎖国政策は終りを告げた。自由貿易港の一つとして横浜港が開かれると、蚕種、生糸、茶などが欧米各国に盛んに輸出されるようになった。
 埼玉では最初は蚕種の輸出が主流だったが、やがて生糸の輸出が盛んになった。生糸の生産は、児玉・大里・秩父・比企・入間の各郡で盛んになった。


  政府は官営模範工場の建設へ
 生糸と蚕種の輸出は明治政府にとって重要だったが、輸出が盛んになると粗製濫造のものも出回るようになった。政府はそれを防ぎ、海外市場での競争力を強めるため、新しい製糸技術の習得と普及をめざすことを決意し、1872年(明治5)群馬県の富岡に、官営模範工場として富岡製糸工場を建設した。
 官営模範工場の基本的な考え方は、次の三つであった。一、洋式の製糸機械を導入する。二、外国人を指導者とする。三、全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地にもどり地元の指導者とする。
 フランス人ポール・ブリュ―ナは、製糸場の建設、フランスからの技術者集め、そして工場運営の指導者として活躍した。今も富岡に残るブリューナ館は、彼が家族とともに住んでいた建物である。


  製糸場で働いた工女たち
 1872年(明治5)に製糸場は開業されたが、最初は製糸工女がなかなか集まらず大変だった。フランス人技師がブドウ酒をよく飲んでいたことから「生き血をとられる」という噂が広まったからといわれていた。渋沢栄一の従兄で、初代富岡製糸場長の尾高惇忠(おだかあつただ)は自分の長女勇(ゆう)を工女として入所させ、自分の出身地手計村(てばかむら、現深谷市)から広く工女を勧誘した。
 富岡製糸場の「工女名簿」によると、養蚕の盛んであった入間県(熊谷県)から、1872年(明治5)の年末までに93人が入所している。そのなかに嵐山町域からはただ一人越畑村の福島作(さく)が入所している。旧埼玉県から1872年に入所したのは、桶川宿からの5人だけだった。そのため旧埼玉県参事白根多助(しらねたすけ)は、1873年(明治6)に管内の各区に対して、工女を入所させて修行させるようにという通達を出した。養蚕の盛んであった入間県と違って工女を集めるのは大変だったようである。その結果、1973年だけでも69人の工女が入所した。しかし士族の娘が圧倒的に多いのが注目される。それに対して、入間県から入所した工女は、士族の娘が2人だけで、それ以外は農家の娘と思われる。最初の2年間に入間県と旧埼玉県から入所した工女は延べ178人で、長野県からは180人、群馬県からは170人だった。
 こうした工女の一人として越畑村から先にのべた福島作が1872年(明治5)9月に入所している。24歳だった。工女は16歳から18歳が多かったので、リーダー格で働いたものと思われる。伝習を終了した工女は地元に帰って指導者として活躍するというのが模範工場建設の基本方針だったので、工女は1年から2年で退所している。越畑村の福島作の場合は74年(明治7)5月に退所している。1年9ヶ月の間工女として働いたことになる。越畑村に戻ってからの具体的な活動については、記録が見つかっていないのでわからないが、おそらく地元で養蚕の指導者として活躍したものと思われる。伝習工女は近代日本の産業の基礎を築いた人たちだった。


※参考資料「富岡製糸場県内出身工女一覧 明治五年〜二四年」
        (表紙)「工女名簿」
       (新編埼玉県史 資料編21 近代・現代3 農業・経済1)

寺院明細帳 曹洞宗 金泉寺 七郷村(現・嵐山町)越畑 ルビ・注

埼玉縣管下武蔵国比企郡越畑村(おっぱたむら)字大堂
  同縣同国同郡廣野村廣正寺(こうしょうじ)末
曹洞宗(そうとうしゅう)*1
  通幻派(つうげんは)*2
  *1:曹洞宗は鎌倉時代に道元によって開かれた仏教の宗派。
  *2:通幻派は南北朝時代に活躍した通幻禅師の流れを汲んだ人びと。通幻禅師は越前、能登、丹波で活躍し、通幻派は曹洞宗のなかで大きな派になり、通幻の建てた福井県の龍泉寺は通幻派の本山になっている。

 金泉寺(きんせんじ)
      昭和十七年(1942) 月 日規則ヲ認可ス

一 本尊(ほんぞん) 釋迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)*1
  *1:古代インドで釈迦族出身の聖者を意味する。仏教の開祖、いわゆるお釈迦様のこと。

一 由緒(ゆいしょ) 寛永十九年(1642)八月建立
  開祖 南叟玄寿(なんそうげんじゅ) 廣正寺二世ナリ

一 本堂 間口七間三尺 土蔵 間口三間
     奥行七間三尺    奥行弐間
一 庫裏(くり)*1 間口六間三尺
         奥行三間三尺
  *1:寺の住職や家族の住んでいる建物。

一 衆寮(しゅうりょう)*1 間口四間
             奥行三間三尺
  *1:修行僧の住んだ建物。

一 境内 五百三拾五坪 官有地第四種

一 境外所有地
田反別(たんべつ) 壱反八畝(せ)拾歩(ぶ) 越畑村大堂
 地價(ちか) 金六拾弐円廿八銭(せん)六厘(りん)
田反別 五畝八歩 同村字同所
 地價 金拾七円九拾銭壱厘
田反別 壱畝廿壱(にじゅういち)歩 同村字同所
 地價 金五円七拾八銭三厘
田反別 三畝廿六歩 同村字同所
 地價 金拾三円拾弐銭七厘
田反別 弐拾五歩 同村字同所
 地價 金弐円八拾四銭六厘
田反別 一反九畝十四歩 同村字六反町一二八二ノ一
 地價 金七拾五円四十九銭
田反別 壱反六畝廿四歩 同村字川後谷
 地價 金五拾七円五銭四厘
田反別 三反三畝廿四歩 同村字同所
 地價 金百拾四円七拾九銭六厘
田反別 三畝廿四歩 同村字同所
 地價 金拾弐円八拾九銭八厘
田反別 壱畝拾九歩 同村字軽巻
 地價 金五円五拾五銭四厘
畑反別 弐畝廿四歩 同村字大堂
 地價 金弐円七拾八銭五厘
畑反別 壱反四畝拾五歩 同村字同所
 地價 金拾四円四拾弐銭八厘
畑反別 六畝九歩 同村字松沢
 地價 金六円廿七銭三厘
畑反別 壱反五畝廿歩 同村字同所
 地價 金拾五円六拾五銭弐厘
畑反別 弐反拾六歩 同村字同所
 地価 金弐円五拾弐銭五厘
畑反別 弐畝拾九歩 同村字東川端七八〇ノ一
 地價 金二円六十七銭
畑反別 五畝拾歩 同村字深谷
 地價 金六円五拾三銭三厘
畑反別 三反三畝拾弐歩 同村字山ノ神
 地價 金四拾円八拾八銭弐厘
畑反別 壱反五畝廿歩 同村字同所
 地價 金拾五円六拾五銭弐厘
畑反別 弐反拾六歩 同村字同所
 地價 金弐円五拾弐銭五厘
山林反別 壱反四畝五歩 越畑村字大堂一〇一五番
 地價 金弐円拾参銭
山林反別 壱反五畝拾九歩 同村字山ノ神
 地價 金弐円三拾四銭五厘
山林反別 八反弐畝廿四歩 同村字大堂
 地價 金拾弐円四拾弐銭
山林反別 壱町四反四畝九歩 同村字立山
 地價 金廿壱円六拾四銭五厘
山林反別 三反廿五歩 同村字同所
 地價 金四円六拾弐銭五厘
林反別 壱畝七歩 同村字大堂
 地價 金拾八銭五厘
林反別 壱反五畝拾四歩 同村字大堂
 地價 金弐円三拾弐銭
林反別 六畝七歩 同村字同所
 地價 金九拾三銭五厘
林反別 弐畝廿壱銭 同村字同所
 地價 金四拾銭五厘
林反別 三反七畝六歩 同村字幡後谷前
 地價 金五円五拾八銭
林反別 壱反弐畝拾六歩 同村字同所
 地價 金壱円八拾八銭
林反別 四畝拾六歩 同村字川後岩入
 地價 金六拾八銭
林反別 壱反弐畝□ 同村字十三間一八四五ノ一
 地價 金壱円八拾壱銭
林反別 八畝廿五歩 同村字軽巻
 地價 金壱円三拾壱銭
溜池(ためいけ)反別 弐畝拾壱歩 同村字立山
溜池反別 壱畝七歩 同村字川後谷
溜池反別 五畝弐歩 同村字川後岩入
墓地 四畝拾歩 同村字立山

一 壇徒(だんと) 三百四拾九人

一 管轄庁迄(かんかつちょうまで) 拾四里
                    以上
 ※山号額
DSC00875
「曹洞宗・大龍山金泉寺 〜紫陽花と大銀杏の咲くお寺〜」(HP)

 あじさい祭実施中
DSC00872
 アジサイ80種・2500株
DSC00871

DSC00878
 2011年6月23日撮影

古い写真 女子青年修養会 1950年前後

女子青年修養会
IMG_1833
1950年(昭和25)前後? 越畑・金泉寺で撮影?

越畑・八宮神社への国防資材献納感謝状 1940年

国防資材献納感謝状
IMG_0904
1940年(昭和15)2月 陸軍大臣畑俊六

※辱(ジョク、かたじけない、かたじけなくする):相手から好意を受けることをへりくだっていう語。

越畑・八宮神社の俳額 1933年

越畑・八宮神社の俳額 1933年(昭和8)10月
1
IMG_0910

2
IMG_0911

3
IMG_0916

越畑・八宮神社の奉納短歌 文定

IMG_0876

咲きさかる 花は秋桜 八宮路の
   ふれあう人の 心にもにて
       嵐山町吉田・小澤文定

越畑・八宮神社の社額 1762年

八宮大明神 1762年(宝暦12)

IMG_0893


IMG_0895

→「七郷村誌原稿 越畑村(神社明細帳) ルビ・注

越畑・八宮神社の社額

八宮大明神(やみやだいみょうじん)

IMG_0898


IMG_0899

→「七郷村誌原稿 越畑村(神社明細帳) ルビ・注

越畑・八宮神社の棟札 1863年

板井村 棟梁 定八政道
文久二戌年十二月(1863)吉日
脇棟梁 飯嶌喜兵衛
仙吉 藤吉 忠次郎 竹次郎 彦次郎 喜四郎
合棟梁木挽
當所 峯次郎 鷹巣 源七
石工 當所 嘉兵衛 羽生 倉吉政雄 江戸神田 冨吉

1
IMG_0925

2
IMG_0926

3
IMG_0927

4
IMG_0928

5
IMG_0930

6
IMG_0929


越畑・八宮神社の奉納木札

越畑・八宮神社の奉納木札
1

IMG_0931

2
IMG_0932

3
IMG_0933

4
IMG_0934

越畑・八宮神社の奉納木札 1863年

別当観音寺
文久二戌年十二月吉日
世話人當村役人 惣氏子中


IMG_0935


IMG_0939
文久2年12月は1863年

嵐山町の奉額 越畑八宮神社「神威赫々洽六合」 1902年

神威赫々洽六合
明治壬寅五月
1
IMG_0919

2
IMG_0921
1902年(明治35)5月、田島謙治奉納
八宮大明神(嵐山町越畑・八宮神社)

神威赫々洽六合(しんいかくかくとしてりくごうにあまねし)
神威(しんい):神の絶対的な力。
赫々(かくかく):功名・声望などがりっぱで目立つさま。
洽(こう):うるおす、ゆきわたる。あまねし。
六号(りくごう):天地と四方。天下、世界。宇宙
壬寅(じんいん、みずのえとら)

越畑の涸れずの泉

越畑の涸れずの泉
1
IMG_0488

2
IMG_0487

3
IMG_0491

4
IMG_0489
2006年5月撮影 嵐山町大字越畑字幡後谷前(はたごやつまえ)

この清水は、昔(明治四十年・1907年)越畑富士山に鎮座してあった浅間社(せんげんしゃ)(祭神は木花咲耶姫命)(このはなさくやひめのみこと)に、氏子衆による獅子舞奉納の際に、神前に供えたり、乾いた喉(のど)を潤し、又雨乞いに用いるなどに、特に水資源の少ないこの地方の人々の生活を潤して来た泉で、未だかってこんこんと湧き出る澄んだ水の涸れたことのない「八宮神社かれずの泉」である。

越畑中郷の愛宕神社・天満天神宮

中郷の愛宕神社・天満天神宮
1
IMG_1104

2
IMG_1113

3
IMG_1111
1985年(昭和60)4月改築 2006年7月撮影
嵐山町大字越畑字後谷(うしろやつ)

LINKS
記事検索
最新コメント
最新記事(画像付)
Categories
GO! GO! 嵐山
GO! GO! 嵐山 2
GO!GO!嵐山 4
里やまのくらしを記録する会
嵐山石造物調査会
武谷敏子の自分史ノート
嵐山町の古文書を読む会