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広野

七郷村誌原稿 広野村(社寺明細帳) ルビ・注

戸長役場ノ扣
武蔵國比企郡廣野村社寺明細帳
埼玉縣下武蔵國比企郡廣野村字深谷 村社    八宮神社
一祭神 健速須佐之雄命(たけはやすさのおのみこと)
  由緒不詳
一社殿 間口二間三尺 奥行三間三尺
一境内(けいだい)坪数百六拾坪 官有第一種
【明治四一年三月三日上地林八畝七歩境内(けいだい)編入許可、計四百七坪となる】
一境内(けいだい)神社三社
  榛名神社
  祭神 苛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
       速須佐之男命
     由緒不詳
    建物 間口五尺 奥行□間
【于時文化九壬申((一八一二年))五月二日驟震動雷前代未聞之大大氷乱耕作竹木迄如枯野相成□地及大難男女老若驚入仍而為嵐災難除今般奉辻座此地満行宮令繁栄信願者也 当所講中敬白】(宮本敬彦氏撮影写真により、比企郡神社誌を訂正)

  琴平神社【比企郡神社誌には広正寺境内(けいだい)から明治維新時に境内(けいだい)に勧請したと言うとある】
    祭神 【大己貴命(おおなむちのみこと)】
       崇徳院
     由緒不詳
    建物 間口四尺 奥行五尺
  天祖神社
    祭神 天照皇大神宮
     由緒不詳
  建物 間口七尺 奥行壱間
一氏子戸数五拾五戸
一管轄廰迄ノ距離 拾貮里
  以上
右之通取調候処相違無御座候也
         右社
          惣代
明治十六年七月廿一日      永島竹次郎∪ 永島佐兵衛∪ 永島榮次郎∪ 権田浪吉 ∪ 戸長 井上萬吉 ∪
 埼玉縣令吉田清英殿
埼玉縣下武蔵國比企郡廣野村字寺臺 比企郡市ノ川村永福寺末   廣正寺 
一本尊 阿弥陀佛
  慶長十一丙午年((一六〇六年))五月徳川家臣高木筑後守廣正公法恩謝徳ノ為ニ奉安置
一法堂 間口九間 奥行七間四尺
一境内(けいだい)坪数千九百四拾四坪 官有第四種
一境内(けいだい)建物八ヶ所
 前衆寮(しゅりょう) 間口三間 奥行貮間壱尺五寸  後衆寮(しゅりょう) 間口三間 奥行貮間五尺
     大庫裡(おぐり)堂 間口五間壱尺 奥行四間壱尺
    寳蔵  間口貮間貮尺 奥行三間三尺((昭和六年九月二一日の地震で半壊))
    山門  間口貮間三尺 奥行貮間壱尺
 中雀門 間口七尺 奥行四尺  惣門  間口九尺 奥行五尺五寸  通用門 間口九尺 奥行五尺
一境外(けいがい)所有地
三百五十五番 田三畝廿四歩   廣野村字寺臺 地價金拾四円四拾壱銭三厘 三百五十六番
  畑五畝歩     仝  仝
  地價金六円七拾銭壱厘
三百五十四番
  田五畝拾五歩   仝  寺臺
  地價金貮拾四円六拾銭貮厘
三百八十二番 田壱反拾四歩   仝  字寺前 地價金五拾円四拾四銭四厘 三百八十七番 田四畝廿七歩   仝  仝 地價金弐拾壱円九拾四銭 三百八十八番 田三畝拾九歩   仝  仝 地價金貮拾壱円貮拾五銭貮厘 四百拾九番 田壱畝廿三歩   仝  仝 地價金七円八拾九銭五厘 四百廿番 田弐反四畝四歩  仝  仝 地價金百貮拾四円六拾壱銭九厘 四百二十四番 田壱反弐畝拾八歩 廣野村字寺前 地價金六拾五円八銭六厘 四百二十五番 田九畝廿貮歩   仝  仝 地價金四拾六円九拾壱銭 四百弐拾六番 田壱反九畝拾五歩 仝  仝 地價金八拾七円弐拾五銭六厘 九百九十五番 田貮反五畝廿壱歩 仝  大田坊 地價金百貮拾三円九拾三銭 九百九十六番 田七畝廿三歩   仝  仝 地價金三拾七円四拾五銭四厘 三百八十九番 田六畝六歩    仝  字寺前 地價金貮拾九円八拾八銭壱厘 三百九十四番 田五畝七歩    仝  仝 地價金三拾四円貮拾四銭壱厘 四百十六番 田九畝四歩    仝  仝 地價金四拾七円拾八銭五厘 四百貮十壱番 田貮畝拾九歩   仝  仝 地價金拾五円四拾貮銭貮厘 四百二十二番 田七畝歩     仝  仝 地價金四拾七円拾貮銭 四百二十三番 田弐畝拾六歩   廣野村字寺前 地價金拾六円五拾七銭 四百二十四番 田壱反貮畝拾八歩 仝  仝 地價金六拾五円八銭六厘 四百十七番 田壱反三畝廿一歩  仝  仝 地價金七拾円七拾三銭貮厘 四百十八番 田壱畝廿三歩   仝  仝 地價金七円八拾九銭五厘 四百十九番 田壱畝廿三歩   仝  仝 地價金七円八拾九銭五厘 三百三十八番 畑壱反八畝拾歩  廣野村字寺臺 地價金貮拾六円六拾五銭三厘 三百三十九番 畑八畝三歩    仝  仝 地價金拾五円四拾九銭五厘 三百四十二番 畑九畝拾歩    仝  仝 地價金拾七円八拾四銭 三百四十三番 畑四畝廿三歩   仝  仝 地價金八円壱銭七厘 三百四十四番 畑九畝六歩    仝  仝 地價金拾三円三拾七銭弐厘 三百四十五番 畑九畝九歩    廣野村字寺臺 地價金拾三円五拾貮銭五厘 三百四十九番 畑壱反六畝廿貮歩 仝  仝 地價金貮拾四円三拾貮銭七厘 三百五十六番 畑五畝歩     仝  仝 地價金六円七拾銭壱厘 三百九十八番 畑壱畝拾三歩   仝  字寺前 地價金貮円四拾壱銭七厘 四百貮番 畑三畝廿壱歩   仝  仝 地價金五円三拾八銭六厘 三百六十四番 畑貮反四畝三歩  仝  寺前 地價金三拾貮円貮拾六銭八厘 三百七十三番 畑壱反壱畝廿三歩 仝  仝 地價金拾九円七拾九銭八厘 三百七十四番 畑壱反四畝五歩  仝  仝 地價金貮拾三円八拾壱銭七厘 三百七十五番 畑九畝九歩    仝  仝 地價金拾七円七拾九銭四厘 三百七十六番 畑壱反八畝拾六歩 仝  仝 地價金三拾九円七拾銭四厘 三百七十七番 畑□畝拾八歩   廣野村寺前 地價金拾三円五拾五銭四厘 三百七十九番 畑壱反三畝拾貳歩 仝  仝 地價金拾九円四拾七銭七厘 三百八十番 畑六畝九歩    仝  仝 地價金拾円六拾銭三厘 三百五十七番 林壱反五畝廿三歩 仝  字寺臺 地價金 三百六十番 林壱町四反壱畝廿四歩  仝  仝 地價金 四百四十五番 畑壱反三畝拾九歩 仝  字馬場 地價金貳拾六円七銭壱厘 四百四十六番 畑五畝廿九歩   仝  字馬場 地價金拾円三銭七厘 四百四十九番 畑三畝廿六歩   仝  字馬場 地價金六円五拾銭三厘 四百五十七番 畑四畝廿六歩   仝  仝 地價金九円三拾銭四厘 四百五十八番 畑五畝九歩    仝  仝 地價金拾貳円五拾七銭七厘 四百六十番 畑壱反弐畝八歩  廣野村字馬場 地價金弐拾□円拾貳銭八厘 五百五十五番 畑八畝廿五歩   仝  字竹ノ花 地價金拾四円八拾七銭貳厘 五百五十九番 畑壱反四畝拾五歩 仝  仝 地價金貳拾七円七拾三銭九厘 五百六十番 畑壱反四畝廿貳歩 仝  仝 地價金弐拾四円八拾銭壱厘 七百三十番 畑七畝廿五歩   仝  字大野田 地價金拾円四拾八銭壱厘 八百六十三番 畑七畝七歩    仝  字深谷 地價金九円六拾八銭五厘 千八百九十六番 畑壱畝廿四歩   仝  字天沼 地價金貳円三銭五厘 四百六十一番 宅地四畝六歩   仝  字馬場 地價金拾壱円九拾七銭 千八百九十七番 宅地四畝廿八歩  仝  字天沼 地價金拾七円弐拾六銭七厘 千九百壱番 宅地貳畝拾八歩  仝  仝 地價金九円拾銭 三百二十八番 林六畝拾歩    廣野村字寺臺 地價金九拾五銭 三百七十四番 林六畝七歩    仝  字寺前 地價金九拾三銭五厘 六百十六番 林弐反壱畝三歩  仝  字中郷 地價金三円拾六銭五厘 千九百七十五番 林四反四畝拾弐歩 仝  字岩花 地價金六拾六銭
一檀徒 四百六拾六((ママ))人
一管轄廰迄ノ距離 拾弐里
以上
右之通取調候処相違無御座候也
右寺         明治十六年七月丗一日 惣代 永嶋竹次郎∪ 仝  永嶋佐兵衛∪ 仝  永嶋栄次郎∪ 仝  権田浪吉 ∪ 仝住職        阿山英俊 ∪ 戸長 井上萬吉 ∪
 埼玉縣令吉田清英殿

埼玉縣管下武蔵國比企郡廣野村字寺前 地蔵堂
一本尊地蔵菩薩
  天明五乙巳年((一七八五年))六月廣正寺十代梵光和尚奉安置
一堂宇 間口弐間 奥行三間三尺
一境内(けいだい)坪数弐拾三坪  民有持主 廣正寺
一信徒四百六拾名
一管轄廰迄ノ距離 拾弐里
  以上 
右之通取調候処相違無御座候也
右堂         明治十六年七月丗一日  惣代 永嶋栄次郎∪ 仝  権田浪吉 ∪ 廣正寺住職      阿山英俊 ∪ 戸長  井上萬吉 ∪
 埼玉縣令吉田清英殿

【社寺什物帳      □□□□】

埼玉縣下武蔵國比企郡廣野村字花見堂 薬師堂
一本尊薬師佛
  正和二年((一三一三年))九月九日安置
一堂宇 間口二間三尺 奥行三間
一境内(けいだい)坪数 二百坪 官有第四種
一信徒 四百六拾名
一管轄廰迄ノ距離 拾壱里
  以上
右之通取調候処相違無御座候也
右信徒      惣代     明治十六年七月 永嶋竹次郎 永嶋佐兵衛 廣正寺住職  阿山英俊 
       戸長
        井上萬吉
埼玉縣令吉田清英殿

【昭和一七年三月三一日広野広正寺に所属認可】

七郷村誌原稿 広野村(地籍帳) ルビ・注


地籍帳 武蔵國比企郡 廣野邨
官有地
   第一種
一神社
  村社
    此反別壱反六畝拾壱歩

   第三種
一林反別三反五畝五歩
    内
   用材林反別七畝九歩
   薪炭(しんたん)材反別貮反七畝廿六歩
一芝地反別弐町九反四畝歩
一河反別貮町壱反八畝四歩
    内
   市ノ川反別壱町弐反三畝廿四歩 但長千八百五十七間巾平均弐間
   賀須川反別七反六畝廿歩 但長千百五十間巾平均弐間
   滑川反別壱反七畝廿歩 但長弐百十二間巾平均弐間五歩
一溜池反別貮町四反壱畝拾四歩
一溝渠(こうきょ)反別九反五畝廿六歩
    内
   扇谷水路反別壱反六畝拾七歩 但長四百九十七間巾平均壱間
   用悪水路反別四反三畝拾九歩
   堀敷反別三反五畝廿歩
一堤塘(ていとう)反別七反廿八歩
    内
   市ノ川堤敷(つつみしき)反別六反七畝拾八歩 但長六百七十六間巾平均三間
   賀須川堤敷(つつみしき)三畝拾歩      但長五十間巾平均弐間
一道路反別八町五反八畝四歩
    内
   村道反別貮町三反三畝六歩
   耕作道反別六町貮反四畝廿八歩
一湧水溜(ゆうすいため)反別貮拾貮歩

   第四種
一寺院境内(けいだい)反別七反壱畝拾四歩

    民有地
   第一種
一田反別四拾八町七段四畝拾五歩
    内
   反別壱反廿四歩 冷水場
   反別壱畝拾歩  湧水場(ゆうすいば)
   内反別弐拾五歩  井戸敷
   外反別三町五畝廿八歩 畦畔敷
一畑反別四拾六町三反壱畝拾八歩
    内
   反別八歩 湧水堀
一郡村宅地反別九町六反三畝拾七歩
一林反別七拾四町八反四畝拾壱歩
    内
   用材林反別七町五段六畝歩
   薪炭(しんたん)材林反別六拾七町弐反八畝拾壱歩
一芝地反別壱反壱畝拾五歩

   第二種
一溜池反別弐反弐畝歩
一墓地反別□反五畝廿四歩
一斃馬捨場反別壱反歩
   合反別貮百貮町七段壱畝拾六歩
    此譯
   官有地
    此反別拾九甼貮畝八歩
   民有地
    此反別百八拾三町六段九畝八歩

右者地籍編纂之儀本年本縣乙第六號ヲ以テ御達シ趣ニ依リ私共立會取調候処書面之通リ相違無之候也
            比企郡廣野村
             小前惣代
   明治十五年四月廿九日      小林佐右エ門
                  仝
                   権田浪吉
                  戸長
                   井上萬吉
 埼玉縣令吉田清英殿

七郷村誌原稿 広野村(村誌) ルビ・注

地誌
  比企郡
   廣野村

武蔵国比企郡廣野村
本村古時ヨリ三部ニ分レ東南ノ壱部ヲ川島トシ北ノ壱部ヲ勝田トシ本郡松山領ニ屬シ村名改稱分郷等ノ事ナシ
疆域
東ハ伊子(いこ)太郎丸水房(みずふさ)ノ三村ト山林丘陵ヲ或ハ田畝ヲ以テ界トシ正南ハ月輪(つきのわ)村ト田畝山林ヲ以テ境トス南ヨリ西ハ志賀村杉山ノ二村ニ接ス正西ハ越畑村ト田畝ヲ畫(くぎ)リ北ハ吉田村ニ憐シ北ヨリ東ハ滑川ヲ隔テヽ和泉(いずみ)菅田(すがた)ノ二村相接ス
幅員
東西拾町五十六間南北拾五町五拾間 面積實測ヲ経ス暫ク欠ク 十五年二月十四日本郡戸上申面積六拾壱万八千百五十壱坪
管轄沿革
天正ノ頃((一五七三〜九二年頃))松山領ト言傳ス文禄元年((一五九二年))二月一日徳川氏ノ家臣高木九助廣正之ニ代リ知行トス元禄十一年((一六九八年))寅五月高木廣正遠江ニ知行ヲ遷スニ因リ本村四分ノ三ヲ黒田豊前守代リ領ス其ノ四分一ヲ御代官高谷太兵衛ニ代リ支配ス同暦十一年七月嶋田藤十郎高谷太兵衛ニ代リ知行ス元禄十四年((一七〇一年))正月比企長左エ門黒田氏ニ代リ支配ス同暦十七年((一七〇四年))其ノ三分ノ一ヲ木下伊賀守ヘ渡ス同人之ヲ知行トス残リ三分ノ二ヲ宝永二酉年((一七〇五年))正月内藤主膳ヘ渡ス同人之ヲ知行トス其残地ヲ宝永四亥年九月大久保筑前守ヘ渡ス同人之ヲ知行トス元禄十一年ヨリ寳永四年マテ拾年間ニ漸々本村四給ニ分ル明治元辰年((一八六八年))王政復古ニ際シ同年八月品川縣ノ管轄スル処トナリ仝二巳年九月韮山縣ニ轉ス以後明治四年十一月ニ至リ又入間縣ニ轉シ同六年熊谷縣ノ所轄スル処トナリ
里程(りてい)
熊谷縣廳ヨリ南方貮里三十丁 四隣同郡伊子(いこ)村ヘ三拾町 本村及各村共ニ元標ナキヲ以テ皆掲示場ヨリ掲示場迄距離 月輪(つきのわ)村ヘ三十三町三十二間杉山村ヘ九町和泉(いずみ)村ヘ廿八町太郎丸村ヘ拾四町廿四間近傍(きんぼう)宿町本郡松山町イ貮里拾七町五間小川村イ壱里十八町
地勢
東ハ岡巒起伏シ雜樹叢生ス西南ハ地形平衍(へいえん)ニシテ其中央ヨリ西南ニ賀須川ヲ帯(お)ビ下流市ノ川ニ入ル舟楫(しゅうしゅう)通セス北ハ滑川ヲ帯(お)ビ舟筏(しゅうばつ)【ふねといかだ】便ナラス但薪炭(しんたん)ノ欠乏ヲ知ルモノ稀ナリ
地味(ちみ)
其色赤黒壚土粘土(方言ノツチネバツチ)相混シ過半壚土ヲ交エ稍ニ稲梁(とうりょう)ニ宜シク桑茶ニ適セス水利便ナラス時々水旱(すいかん)ニ苦シム
税地
 田  旧反別四十壱甼五反七畝廿((十二?))歩
    改正反別四十八甼七反四畝十五歩
 畑  旧反別四十七甼四反九畝十二歩
    改正反別四十六甼三反壱畝十八歩
 宅地 旧反別貮甼八反貮畝廿三歩
    改反別九甼六反三畝十七歩
 山林 旧反別貮十弐甼八反二歩
    改正反別七十四甼八反四畝十一歩
 芝地 旧反別四反八畝廿二((四?))歩
    改正反別貮町九反四歩
 聰計 旧反別百拾甼壱反八畝廿五歩
    改正反別百八十二町四反八畝壱歩
飛地
本村ノ東南川島ノ壱部ハ太郎丸水房(みずふさ)月輪(つきのわ)志賀村ノ四村ノ間ニ
 旧反別三十二町四反三畝廿歩
 改正反別六十壱町六反二畝廿六歩
   内
  田  旧反別九甼[一反五畝二十三歩]
     改正反別十壱甼三反八畝廿七歩
  畑  旧反別拾貮町三反五畝八歩
     改正反別拾貮甼六反九畝十四歩
 [宅地 七反九畝十五歩
  山林 九町九反八畝十六歩]
本村北方勝田ノ壱部勝田吉田伊子(いこ)和泉(いずみ)ノ四村ノ間ニ挟リ
 旧反別九町七反三畝五歩
 改正反別十三甼八反六畝壱歩
   内
  田  旧反別四町四反貮畝四歩
     改正反別四町八反貮畝十二歩
  畑  旧反別三町八反壱畝九歩
     改正反別三町九反三畝廿九歩
  宅地 旧反段別三反四畝壱歩
     改正反別□□□□□
  山林 旧反壱甼壱反五畝廿壱歩
     改正反別四町壱反貮畝六歩
字地
中郷(なかごう) 村中央掲示場ノ位置東ヘ[百]二十八間西ヘ四十間南ヘ百三十八間北ヘ八十五間 下郷(しもごう) 中郷ノ東南ニ当リ東西百八十間南北二百四拾五間 廣野ヶ谷戸(こうやがいと) 中郷ノ西北ニ当リ東西百四十三間南北百七十四間 川島 本村東南ニ当リ東西五((三?))百六((二?))十八間南北三百五十間 勝田 本村ノ北ニ当リ東西二百五十間南北四百二十四間
貢租(こうそ)
 地租(ちそ) 旧税 米百三十九石九斗七升四合
       金八百六十九円九十五銭壱厘
    新税 米四百八十八石九斗壱升六合
       金五百六十壱円壱銭五厘
 賦金(ふきん) 旧国税金七十二円六銭九厘
    旧縣税金拾壱円三十銭
    新国税金二百八十円廿銭四厘
    新縣税金百五十九円三十四銭五厘
 聰計 旧税 米百三十九石九斗七升四合
       金九百五十三円三十二銭
    新税 米四百八十八石九斗壱升六合
       金一千円五拾六銭四厘
戸數
 本籍七拾四戸平民 寄留(きりゅう)【九〇日以上、本籍地以外の一定の場所に居住する目的で住所または居所を有すること】三戸平民 社二戸村社二座
 【寺二戸曹洞宗一宇 堂一宇 総計八十一戸]
人数
 男百貮拾五口平民 女貮百三十口平民 聰計三百五十五口 他出(たしゅつ)寄留【(きりゅう)転出者】男四人女四人 外寄留(きりゅう)男五人女五人
牛馬
 牡馬四拾頭
舟車
 荷車壹輌

 金讃(かなさな)山 高サ三拾六丈余周回本村ニ限リ八町五十八間村ノ東方ニアリ岩石聳(そび)エ樹木過半生セス登路一條稍ニ険ナリ西方字下郷ヨリ登ル五丁余

 市ノ川 深キ所五尺淺キ処五寸廣キ処五間狭キ処二間緩流水色澄清舟筏(しゅうばつ)通セス堤防アリ村ノ東南岩花ヨリ東方月輪(つきのわ)境ニ至リ長拾壱丁五十一間水流志賀村ヨリ来リ月輪(つきのわ)ニ至ル長サ三十壱丁四拾間
 滑川  深キ処ハ四尺淺キ処ハ五寸廣キ処五間狭キ処ハ三間緩流水色濁リ吉田村ヨリ来リ伊子(いこ)村ニ至リ其間七丁五十六間田貮町歩ノ用水ニ供ス
 大橋  小川道ヲ屬ス村ノ西方ニ当リ三町二尺賀須川ノ中流ニ架ス長サ三間[三尺]巾貮間土造
森林
 明神((八宮神社の通称))林 官有ニ屬ス東西五十間南北三拾二間段別貮反七畝廿六歩村ノ東南貮丁壱間ニアリ大樹繁茂(はんも)シ雜木多シ
 鬼神林 官有ニ属ス東西三十四間南北二十間段別七畝九歩村南方二十三町五間ニアリ大樹繁茂(はんも)シ□時納涼ニ適ス
原野 ナシ
牧場 ナシ
礦山 ナシ
湖沼
 ・廣野ヶ谷戸溜池(異名殿ヶ谷戸(とんがいと)沼)東西十九間南北十八間周回五十七間村ノ西北ニアリ田壱町七反九畝九歩ノ用水ニ供ス
 ・石倉上ノ溜池((上・下あわせて谷沼)) 東西三十八間南北六十二間周回百七十七間村ノ西北ニアリ田壱丁五反歩ノ用ニ供ス
 ・石倉下ノ溜池((上・下あわせて谷沼)) 東西二十八間南北三[十三]間周回百〇壱((二十二?))間村ノ西北ニアリ田壱町壱反歩ノ用水ニ供ス
 ・寺前溜池 東西三十四間南北三十七間周回六百間村ノ西北ニアリ田壱町壱反歩ノ用水ニ供ス
 ・中郷溜池((わきのぬま))(異名宇塔坂((おとうざか))沼)東西三十壱間南北拾間周回壱町拾三間村ノ東ニアリ田壱町歩用水供ス
 ・大野田溜池(異名弁天沼)東西三十八間南北三十九間周回貮丁八間村北東ニアリ田三町五反歩ノ用水ニ供ス
 ・大野田手洗溜池(異名盥(たらい)沼)東西十二間南北十二間周回四十七間村ノ北方ニアリ田四反三畝歩ノ用水ニ供ス
 ・金塚順平(かねづかじんべい)溜池 東西二十間南北二十間周回壱丁八間村ノ東ニアリ田壱町三反貮畝廿歩用水ニ供ス
 ・金塚溜池(異名深谷ツ沼)東西十五間南北三十七間周回壱丁五十二間村ノ東ニアリ田壱町壱反七畝歩用水供ス
 ・深谷ツ(ふかやつ)溜池(異名雨ヶ谷沼)東西二十八間南北二十五間周回壱丁二十五間村ノ東方ニアリ田壱町三反五畝十五歩用水供ス

 ・下郷溜池(異名ウシロ□ノ池)東西三間南北十三間周回壱丁十九間村ノ東南ニアリ田壱反九畝廿歩ノ用水供ス
 ・金皿溜池(異名ノ扇沼)東西六十間南北六十間周回三丁十一間村ノ東ニアリ田五町七反歩ノ用水ニ供ス
 ・花見堂溜池 東西十二間南北二十四間周回壱丁壱間村ノ南東ニアリ田九反八畝十四歩ノ用水ニ供ス
 ・天沼溜池 東西壱丁南北五十四間周回三丁村ノ南ニアリ田六町八反七畝廿六歩ノ用水ニ供ス
 ・□山溜池 東西四十六間南北十七間周回壱丁三間村ノ東南ニアリ田壱丁八反歩ノ用水ニ供ス
 ・猿田溜池 東西五十[三間南北二十]四間周回二町五十八間村ノ北方[ニアリ]壱町八反七畝廿五歩用水供ス
道路
 熊谷道 村ノ西方武蔵國比企郡杉山村ヨリ入リ北方本郡勝田村ニ至ル長サ九町二間巾壱間半道敷ナシ本郡小川村ヨリ大里郡熊谷驛ニ達スルノ経路ナリ
掲示場 村ノ中央字中郷民有地ニ有リ
塘堤
 囲堤(いてい) 市ノ川ニ沿ヒ南方本村字岩花ヨリ連続シ東方月輪(つきのわ)境ニ至ル長拾壱町五十壱間馬踏(ばふみ)【堤防の上を人馬が通行できるように平にした部分】壱間敷二間半修繕費用ハ民ニ属ス
瀧 ナシ
温泉 ナシ
冷泉 ナシ
陵墓
 高木廣正墓 村ノ北方廣正寺境内(けいだい)ニアリ碑石依然トシテ存高木氏ハ後陽成帝ノトキ徳川氏ノ家臣ニシテ功多シト□□ス慶長十一丙午年((一六〇六年))七月廿六日卒ス

 八宮神社 村社々地東西十五間南北十三間面積百六十坪村ノ東南ニアリ建速須佐之雄命((たけはやすさのおのみこと))ヲ祭ル勧請年月不詳祭日五月十日老杉三本小樹草生ス
 鬼神神社 村社々地東西三十二間南北十四間面積三百三十壱坪村ノ南方ニアリ衝立久那止命((つきたつくなどのかみ))ハ衢比古命((やちまたひこのみこと))ハ衢比賣[命]((やちまたひめのみこと))勧請年月不詳祭日四月廿四日十月十八日老松数本

 廣正寺 東西四十間南北五十間面積千八百六十九坪曹洞宗武蔵國比企郡市ノ川村永福寺末派ナリ村ノ西北ニ有リ慶長十酉年((一六〇五年))麾下高木九助廣正開基(かいき)創建ス
 藥師堂 東西十九間南北十八間面積貮百坪
學校
 村ノ西方同郡杉山村椙山(すぎやま)小斈校ヘ通フ生徒男二十二人女十七人
事務所
 村ノ中央字中郷永島竹次郎ノ宅舎ヲ仮用ス村ノ事務ヲ取扱
病院 ナシ
郵便局 ナシ
製絲場 ナシ
古跡 ナシ
名勝 ナシ
物産
 動物 繭質美悪相混ス八石 鶏二百四十羽 鶏卵一千五十
 植物 米質美二百四十三石 大麦質美九十六石 小麥質美百三十石八斗 大豆質美百六十石 小豆質美[十九石]九斗 粟質悪壱石七斗五升 蕎麦(そば)質悪八石
 器用物 鎌二百挺
 製造物 生絹(きぎぬ)質美百五十疋(ひき)本郡小川村ヘ輸送ス 薪八百駄
民業
 男農桑(のうそう)ヲ業トスモノ六十七戸工ヲ業ヲスルモノ七戸
 女農業紡織ヲ業トスルモノ百四十人

前記之通編輯仕候ニ付此段上申候也
           右村
             戸長
  明治十四年二月十七日        井上萬吉
埼玉縣令白根夛助殿

中郷掲示場ヨリ太郎丸村境迄拾貮町四十八間
同所より太郎丸村掲示場江拾四丁貮拾四間
同所より川島鬼神迄貮拾三丁五間
同所より月輪(つきのわ)村境迄三拾貮丁拾七間
同所より月輪(つきのわ)村掲示場江三拾三丁三拾貮間
同所より松山町元標江貮里拾七丁五間

井上萬吉墓誌

(正面)

 寶光院萬瑞春晶居士

 慈泉院金厳妙光大姉


(左側面)

 居士通称萬吉字春昌號文秀斎井上氏考曰勝次郎居士其長子妣亦井上

 氏以弘化三年六月廿二日生埼玉県比企郡七郷村大字廣野居士夙入杉

 山義順之門研学数年後更遊東都入加藤瑞翁之門其業益進明治五年学

 制新布也創設学校六年七月選為熊谷県立暢発学校徴集生八年十月卒

 業同月為上横田学校教員九年十一月任上横田学校訓導兼校長十三年

 十月退職十一月為広野村戸長十六年十月丗一日任満而罷十一月一日

 更任廣野村戸長十七年七月以県令聯合町村為越畑村聯合同役場挙首

 座筆生廿二年町村制施行也改称越畑村聯合七ヶ村曰七郷村選村会議

 員列役場吏員廿八年三月退職尋又選為村会議員学区会議委員学務委員

 四十年四月為七郷村長及軍人分会長明年四月退職尋為七郷小学校新


(背面)

 築副委員長四十四年四月以有学校新築之労賜賞状及木盃大正二年四

 月為学務委員六年四月為村会議員七年九月選区長町村制施行以来常

 設委員区長毎満期選為衆議院議員県会議員区会議員村会議員選挙立

 会人数回又列衛生委員消防頭取農会役員地主会理事等為神社仏閣学

 校及道路慈善其他公共之事或竭心力或献資金日清日露戦役中應軍事

 公債及国庫債券献納陸海軍恤兵及義勇艦隊等金若干賜褒状木盃数回

 又為八宮神社氏子総代広正寺檀中総代及四十有余年之久就中為檀中

 総代功労甚多大本山管長□之賜両大本山御紋章附金襴之打敷八年四

 月区長其他因公職退邑民胥議催送別会且為記念贈唐金火鉢壱対感謝

 其多年居公職有功績居士天資温厚自幼好学嗜書画尤巧画又居俳諧宗


(右側面)

 匠之列殊愛玩古銭所蔵之書画古銭不下数百種居常勤倹大殖其産至於

 有土地十数町歩築倉庫及蚕室配八和田村大字伊勢根柴崎次郎右衛門

 二女金子金子先而歿生一女曰美津為嗣子云

      大正九年十二月      東京隠士 文苑石川兼六選 


 
   居士俗名萬吉 大正十四年十二月二日病罹歿行年八十歳

  大姉俗名金子 大正七年十一月十一日病歿行年七十有年  

                  故養嗣子 井上久五郎

                     長女 井上美津子

井上萬吉年譜

1846年 弘化3 6月22日 井上勝次郎・ちよ の長男として広野に生れる。通称萬吉、文秀斎・春昌・魚樵と号す
1857年 安政3(12歳) 杉山義順(寛斎)に就き習字・和漢の書を学ぶ(七年間)
1862年 文久2(17歳) 忍藩士塩野瑞翁に随い漢学を修業(五年間)
1866年 慶応2(21歳) 金子治三郎(栃木県邑楽郡上五箇村)に就き数学・諸相場     割より十乗法まで研究
1869年 明治2(24歳)7月 長女みつ誕生
1873年 明治6(28歳)10月 熊谷県本庄駅暢発学校徴集生徒となる 
1874年 明治7(29歳)2月 松山町荒川学校定員生に転校
              2月16日 舎長申付けられる
              6月 下等小学卒業
              6月 熊谷駅暢発学校に入る
1875年 明治8(30歳) 4月 上等小学三級卒業。病に因り退校
              10月 暢発学校下等小学一級卒業 
              10月 熊谷県より上横田学校教員申付けられる
1876年 明治9(31歳)12月 上横田学校一等授業生嘱任。兼校長
1878年 明治11(33歳)4月 上横田学校四級訓導補嘱任
1880年 明治13(35歳)10月 同校退職 
               11月 廣野村戸長となる
1881年 明治14(36歳)12月 比企郡第十学区学務委員に加えられる
1882年 明治15(37歳)10月 志賀村出火罹災者救助金3円差し出す
               11月 菅谷分署建築費として金1円差し出す
               12月 遠山村新道開鑿費として金30銭差し出す
               12月 職務勉励慰労金1円下賜
1883年 明治16(38歳)10月 戸長・学務委員任期満了
               11月 廣野村戸長・第十学区学務委員に再任される
1884年 明治17(39歳)1月 職務勉励慰労金1円50銭下賜
               7月 聯合町村制により越畑村聯合となり、同役場首席筆生
1887年 明治20(42歳)3月 衛生組合長に当選
              12月 職務勉励賞金1円下賜
1888年 明治21(43歳)6月 押切村持田久五郎を井上萬吉の養嗣子とする
              12月 比企・横見郡長より越畑村聯合筆生を命ぜられる
1889年 明治22(44歳)1月 職務勉励賞金75銭下賜
               1月 土地取調事務勉励賞金1円50銭下賜
               4月 村会議員選挙掛に選任される
               4月 町村制施行。越畑村聯合七ヶ村は七郷村と称し同村村      会議員に選ばれ、役場吏員となる
1892年 明治25(47歳)3月 菅谷村役場費として金1円50銭寄附す
               4月 議員任期満了。村会議員選挙掛に選任される  
1894年 明治27(49歳)9月 陸軍へ軍資金として2円献納
1895年 明治28(50歳)2月 書記辞職
               3月 村会議員・学区会議委員・学務委員に選任される
1896年 明治29(51歳)3月 永島弥助宅失火の際消防尽力につき30銭下賜
1897年 明治30(52歳)6月 明治二十七・八年戦役(日清戦争)の際軍資金として3    円献納に付表彰
1898年 明治31(53歳)1月 慈恵救済資金寄附金募集比企七郷村委員を嘱託される
               4月 七郷村役場新築費として4円10銭余寄附
1903年 明治36(58歳)2月 衆議院議員選挙七郷村投票所立会人に選任される
               4月 官幣中社金讃神社営繕費として金1円寄附
              11月 慈恵救済資金寄附金募集委員に対し慰労感謝状をうける
1904年 明治37(59歳)4月 村会議員に当選
1906年 明治39(61歳)11月 明治三十七・八年戦役(日露戦争)の際従軍者家族扶助のため金1円50銭寄附に付表彰
               12月 比企郡教育会基本金として3円寄附
1906年 明治40(62歳)5月 七郷村村長に就任。また軍人分会長となる
               7月 帝国義勇艦隊建設比企郡奨励委員を委嘱される
1907年 明治41(63歳)4月 村長を退職、七郷小学校新築副委員長に就任
1908年 明治42(64歳)6月 比企郡徴兵慰労義会解散に当たり村幹事としての尽力に対し木杯一組を記念品として贈呈される
1911年 明治44(66歳)4月 学校新築之労により賞状・木杯を賜る
              10月 曹洞宗大本山総持寺再建勧募委員補に推薦される
1913年 大正2(68歳)2月 比企郡地主会に入会
              4月 学務委員を命ぜられる
              9月 菅谷第一尋常高等小学校費として金66円寄附に付、木  杯下賜される
1914年 大正3(69歳)4月 比企郡教育会改元記念基本金として2円寄贈
1917年 大正6(72歳)4月 村会議員に当選
1918年 大正7(73歳)3月 七郷青年団顧問に推薦される
              9月 区長に選ばれる。町村制施行以来、常設委員・区長・衛生委員・消防頭取・農会役員・地主会理事を歴任
             11月 妻かね病歿。行年73歳
1919年 大正8(74歳)4月 公職を退任するに当たり送別会が催され、感謝の記念として唐金火鉢一対を贈られる
1920年 大正9(75歳)3月 埼玉県消防協会設立に際し金10円寄附
1921年 大正10(76歳)4月 村会議員に当選(大正14年4月まで在任)
1924年 大正14(80歳)12月2日 逝去。戒名 宝光院萬瑞春晶居士
             井上家文書・井上萬吉墓誌・嵐山町議会史より作成

井上萬吉小伝

 1846年(弘化3)井上萬吉(いのうえまんきち)は勝次郎・ちよの長男として広野に誕生した。字(あざな)【実名の他に付ける別名】は春昌、号して文秀斎・漁樵(ぎょしょう)【りょうしときこりのことで、名利を離れて民間に暮らすこと】と称した。

 1857年(安政3)十二歳で杉山義順(寛斎)の門に入七年間にわたって習字・和漢の書を学んだ。墓誌によれば「幼より学を好み」となっているが、就学の年齢は決して早くはなかった。ただ彼はこれに満足せず、その後更に忍藩【行田に居城を構えた一万石の譜代藩】の武士で儒学者であった塩野瑞翁に就いて1862年(文久2)から五年間漢学の修業に没頭。漢文には精通したことであろう、自ら「文秀斎」と号する程であった。更に1866年(慶応2)からは上州(栃木県)上五箇村の算学者金子治三郎について和算(相場割=比例・十乗法=掛算等)の研究を行っていた。この研究が何時まで続けられたか定かではないが、後年、1888年(明治21)この成果として「草算例題下」【榛沢郡於田舎楼 井上漁樵誌】を作成した。和算の例題六十問と解答を書き記したものである。この年は押切村【大里郡】から持田久五郎【无邪志同盟を創立啓蒙活動を行った教育者】が長女みつの聟となり、養嗣子に入った年である。教員であった久五郎へ先輩として、かつて学び研究した算術の問題を書き送ったのだろう。

 この間に伊勢根村【現小川町】の柴崎次右衛門の二女きんと結婚、長女みつが誕生している。一人前の男子として一家を形成したが、青年としての悩みも持っていた。彼の書き残した一文「筆のまゝに」は青年としての覚悟を記したものであるが、人と人との関り合いについて懊悩し、世の中の生き方にとまどい、彼なりの人生哲学を開陳している。曰、「もっともっと心に於て精神に於て其の観念に於て充分の独立独歩の気性を養って行かねばなるまい」又「吾等が自己を愛し、自己を信じ、自己の行為をつゝしむも無意味のことではない。こうした時に他人を愛し、他を尊重し他をいましむることが出来るのだ」云々と。独立独歩の気性即ち自律した人間となること、そして自己を確立することが、利己主義ではなく他を愛し尊重することの出来る人になると述べている。この考え方は恐らく彼の生涯にわたって貫かれた姿勢であったろう。墓誌には「居士天資温厚」と記されているが、こうした考えの人であったから人々は温厚篤実な人柄と評していたのであろう。

 1873年(明治6)10月、二十八歳の時暢発(ちょうはつ)学校の徴集生となった。時の政府は1872年(明治5)学制を発布して、小学校の創設をうながしたが、生徒を教える先生の不足を痛感し、各地に教員養成の伝習所を設けさせた。熊谷県が開設した教員伝習所が暢発学校で、本庄に設けられた。彼はここの徴集生【教員養成のため呼び集められた生徒】となったのである。次いで1874年(明治7)熊谷に設けられようとしていた荒川学校【教員養成所】が松山に誘致され2月15日開校されたので、彼はわずか四ヶ月で荒川学校へ定員生として転校することになった。ここで彼は直ちに2月16日舎長【学舎制の名残でその学校生徒の長という立場】を命ぜられている。年齢が二十九歳と高かったこと、かなりの学問修行が認められた為であろう。

 その後再び熊谷の暢発学校に移るが、1875年(明治8)10月、三十歳にして同校を卒業。同時に上横田学校【小川町】の教員を申し付けられた。翌1876年(明治9)には一等授業生【正規の訓導を補助する教員三等から一等まである】となり、1878年(明治11)には四級訓導補【訓導の下にあって五級から一級まである】に昇進したが1880年(明治13)10月同校を退職した。1879年(明治12)9月教育令が公布され、その中で公立小学校教員は師範学校卒業の者と定められた。又1880年7月には埼玉県令より「公立小学校教員委嘱規則」が制定され通知されたことによって、その資格取得が困難であることを察知し、五年間の教員生活に終止符を打ったのである。

 その年の11月、廣野村の戸長【町村におかれ行政事務を司るとともに町村を代表した】となり、三十五歳にして教員から行政官へと大きく転身することとなった。翌1881年(明治13)には第十学区の学務委員に加えられた。この制度は1879年(明治12)設置、学校事務を管理し、児童の就学、学校の設置、教員の任命等にかかわり、1880年(明治13)には戸長が兼務として加えられ、学校教育発展期の大切な役割を担っていた。以後彼は大正に至るまで幾度か再任され、地域初等教育の充実発展のために貢献した。教員として果たせなかった夢を学務委員として成し遂げたことになり、その意味では生涯教育者であったとも言えるだろう。

 1884年(明治17)聯合町村制【数ヶ町村が聯合して一つの行政体を形成する制度】により誕生した越畑村聯合役場の主席筆生【書記】となり、以来1895年(明治28)辞職するまで書記の仕事は続けられた。途中1889年(明治22)年町村制が施行され越畑村聯合の七ヶ村は七郷村となった。彼は同年四月選ばれて村会議員となった。以来議員を歴任すること以下の通りであった。

 1889年(明治22)4月〜1892年((明治25)4月
 1895年(明治28)3月〜1901年(明治34)3月

 1904年(明治37)4月〜1907年(明治40)年4月
 1917年(大正6)4月〜1921年(正10)4月

 1921年(大正10)4月〜1925年(大正14)4月。 

 何と三十五年間に五度、村会議員として村政に参画し、最後は死去する直前までその任にあったことになる。またこの間1907年(明治40)5月から翌年4月までの一年間は齢六十二歳にして村長の重責を担って、村政を指揮したのである。書記としての行政官から脱皮して政治家として戸長・村会議員・村長を歴任し、人生の大半を独立独歩、不屈の精神力をもって村政に尽くしたのである。その他 衛生組合委員・常設委員・衛生委員・区長・消防頭取・軍人分会長・七郷小学校新築副委員長・農会長・七郷青年団顧問等々数多公職に就き、いずれにおいても誠実に其の職務を全うされた。また、地域社会の人々の精神的拠りどころとなっていた寺社に対しても、廣野村八宮神社氏子総代或いは広正寺中総代として貢献された。思うに常人のとうてい出来得る業とは云い難いところである。

 また寄附・献金・募金活動に積極的に協力してきた。日清・日露戦争期には陸軍への献金・軍事公債・国庫債券の購入、従軍者家族の扶助、菅谷・七郷を問わず小学校・役場の建設・運営費の援助、消防・警察への資金協力、慈恵救済資金募集委員として、帝国義勇艦隊建設奨励委員として、或いは大本山総持寺再建勧募委員としての資金協力と募金活動、枚挙に暇の無いほどである。これに対して数々の慰労・感謝状が送られている。学校建設に対して木杯、徴兵慰労義会から村幹事としての協力に対して木杯、慈恵救済資金募集の功により埼玉県知事から感謝状、大本山総持寺より勧募の功により御紋章入り金襴打敷(きんらんうちしき)【仏壇・仏具の敷物】そして1920年(大正9)すべての公務を去るに当たって村民から感謝の意をこめて、記念品唐金火鉢一対が送られた。彼が国家社会に尽瘁した功を称えるにしてはやや寂しい気もする。現在であれば地方自治の功により相等の勲章が授与されてしかるべきであったろう。ただ、名利をきらって漁樵と号したことを思えば彼の意に添ったことであったのかとも思う。

 晩年の井上萬吉翁(前列向かって右)

 1925年(大正14)12月2日、彼は遂にその生涯を終えた。行年八十歳。生涯、温厚篤実な性格をもって、誠心誠意、各方面わたり多大の業績を残し、社会へ莫太の貢献をなした功績はまことに偉大であったといわざるを得ない。

鬼神宮(鬼鎮神社)をめぐる帰属争い

   放光寺と広野村の争い 1824年(文政7)

 1824年(文政7)年8月、水房村の天台宗放光寺(智信)は法善寺応賢を代理人として広野村四給村々の名主源七・重兵衛・弥藤治・半蔵を相手取り、寺社奉行所へ鬼神宮をめぐる不法出入を訴え出た。
 訴状によれば、放光寺は川嶋の鬼神宮を始め太郎丸の粟巣大明神・観音堂、勝田の天神、中尾の雷神、菅谷の山王権現等々の法楽・神事・祭祀を執行してきた。また延享(1744〜1747)・安永(1772〜1780)年中には東叡山寛永寺に上書記録されている。即ち放光寺は鬼神宮の別当(神宮寺を支配する検校に次ぐ僧籍)を自認していた。然るに広野村村民は、鬼神宮には別当は無く、村持ちであると触れ回り、新規に錠前を取り付け、1823年(文政6)には無断で社地内の立ち木を伐木し新規に神楽殿(二間×三間×一丈五尺)を造営する等、不法勝手気侭の行為があり、このままに捨て置いては外の放光寺支配の社地へも影響が出て、寺務を続けることができないと判断、是非不法を行わず以前の通り支配の出来るようにと裁定を願い出た。
 これに対し評定所は広野村名主らに対9月13日返答書(弁明書)を差し出し、評定所へ出頭対決するように命じた。そこで広野村四給村々の名主組頭は連署して長文の返答書を提出した。
 それに依れば、宝暦年中(1751〜1763)領主嶋田藤十郎へ「名細帳(村明細帳)」を差し出し「鬼神宮村持之書上有之」として記録されており、又その頃川嶋住居の者で上屋(うわや)[霊屋(みたまや)]を再建、1841年(文政4)関東地誌御改御廻村の節にも「川嶋氏子村持」と報告されている。祭祀祈願の折は放光寺に鳥目二百文を出して頼んだことはあるが、「別当」等と云うことではない。三ヵ年前から参詣人が増加してきたので、放光寺は別当にしてくれと再三申し出はあったが承知していない。賽銭・宮鍵は当方組頭にて保管、賽銭は宮の修復に使い、不足の分は氏子が割合出金してきた。「宮鍵を出せ」との水房村の名主・組頭・百姓代共の不法強要もあったが断固として断った。すると今度は本寺東叡山より検僧(葬式の時髪剃をする僧、異状があれば葬儀を差し止めることが出来た)をたのんで、放光寺別当の件を無理強いに及んだこともあった。放光寺は別当となって私欲を貪り、困窮の私共を見掠め、難題不法を申しかけていると弁明、「是迄之通り出来村内平和に相治り候様」と返答書を差し出した。
 これを受けて、評定所は「放光寺の鬼神宮別当の由申立は全く心得違に付相手方へ相詫以来鬼神宮は氏子広野村村持と相心得申べし」と議定通知した。これによって、放光寺は別当との申し分立たざるを恐れ入り相手方に詫び、鬼神宮は広野村氏子村持ちであることを承知し、鍵は先規の通り川嶋氏子が保管、社木入用の時は給々地頭へ届け出て伐木することで、済口証文に両者署名捺印、一件は落着したのである。


   泉学院と広野村の争い 1851年(嘉永4)

 ところが、それから27年後の1851年(嘉永4)8月廣野村総鎮守八宮明神別当の泉学院栄長は廣野村内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代を相手取り鬼神宮に関する不法出入を寺社奉行所へ訴え出た。
 訴状によれば、鬼神宮は八宮明神の末社であり、これまで武運長久・氏子安穏の祈願を行ってきた。1640年(寛永17)には川嶋の者達の頼みにより飛地川嶋の秣野に仮産宮として遷座したが、引続き法楽祈願も行い護摩札・札守を差し出してきた。元禄年中(1688〜1703)、栄長の親栄茂は若年病身の上、鬼神宮は凡そ二十町余も遠隔の地にあり諸事不便だったのだろう、当座限りということで宮鍵を川嶋の組頭に預けた。しかし社務は引き続き執り行ってきたのであるが、1851年(嘉永4)年5月14日、馬之丞・政右衛門・民蔵等がやって来て、近年参詣人が増加したので取り計らい方について万端議定したい旨申し出た。しかし泉学院はその必要なしと返答して帰した。翌15日は鬼神宮の縁日だったので勤行に出向いたところ、社前に馬之丞ら三人居並び勤行を制止され、その上百姓代の音三郎・馬次郎も駈け付け、社内への立ち入りも拒否された。これは泉学院をのけ者にして神事祈祷を勝手に取り計らい、布施物までも私欲にまかせて取り上げようとする企み、捨て置いては神事を俗家にまかせ、僧俗の差別を失い、職道の掟も崩れ神慮にも叶わず、院務相続方にも拘わる大事、どうか相手のもの呼び出し、不法を止め先規の通り拙院にて鬼神宮守護祈願執行出来ます様にと願い出た。
 これに対して同年9月川嶋の氏子から評定所へ返答書が差し出された。それに依れば、第一に泉学院が八宮明神別当であり、鬼神宮はその末社というのは全く跡形もない偽りであり、両者は往古以来村持ちである。それが証拠には八宮明神の鍵は廣野村名主千代吉が、又鬼神宮の鍵は川嶋の組頭ども預り、賽銭は年々帳面に記入して組頭あずかり、宮修復等の足し合いにしてきた。その他1808年(文化5)に泉学院は八宮明神別当であると理不尽な申し出を阿部主計頭寺社奉行へ訴願したが、訴訟人の申立相立たず、氏子共に詫び、以来鬼神宮は廣野村字川嶋氏子村持ちと心得ること、また社木は入用の節村役人・地頭所へ届けて伐木すること、鍵は組頭預かり置くこと、祈祷は泉学院・放光寺何れかに依頼することで決着した。次いで1824年(文政7)放光寺からの不法出入訴訟の折も、鬼神宮は氏子村持ということで済口証文を差し出している。また1844年(弘化元)鬼神宮再建の砌には組頭預の賽銭を差し出し、不足分は氏子一同にて出銭したにも拘らず、泉学院は一銭たりとも差し出すことはなかった等、綿々と書き綴られていた。
 この返答書は評定所の理解するところとなり、泉学院の訴えは退けられ、1808年(文化5)の裁定どうり、八宮明神・鬼神宮共に「村持」ということで、1852年(嘉永5)、泉学院栄長、内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代連署して済口証文が評定所に差し出され決着したのである。
 要するに、鬼神宮の帰属を巡って再三紛争があったが、何れの時も「鬼神宮は川嶋氏子村持」ということで決着し、恐らく明治に引き継がれていったのであろう。

   参考史料 田幡丈家文書4
           永嶋正彦家文書26・27・29

鬼鎮神社の名称の変遷

 川島にある鬼鎮神社は1182年(寿永元)、畠山重忠が菅谷館築造のときに城門大手の艮(うしとら)の方角に守護神として祀り、古くは「鬼神社」と呼ばれたといわれている。鬼鎮神社に関する文書で最も古いものは1821年(文政4)の地誌調査の記録「村方古物改口上書」(永島正彦家文書22)である。「飛地川嶋二鬼神明神一社四給入会川嶋氏子村持」とあり、「鬼神明神」と称している。また1830年(天保元)、昌平坂学問所地理局によって編纂完成された『新編武蔵風土記稿』(全266巻)には広野村の項に「鬼神明神社 村民持」と書れている。これは前書した文政4年の地誌改の集大成なのでほぼ同じ名称である。ところが1824年(文政7)の放光寺訴訟(田幡丈家文書4)においては「鬼神宮」と称し、降って1852年(嘉永4)の泉学院訴訟(永島正彦家文書26)においても「鬼神宮」と称している。明治に入って1884年(明治17)調査の「邨誌社寺明細帳」では「鬼神神社」となっている。尊称が「明神」、「明神社」、「宮」、「神社」と変っても「鬼神」の名に変りはなかった。

 ところが1882年(明治14)に編纂された『武蔵国郡村誌』では広野村の項に「鬼鎮社」と記されている。「鬼神」が「鬼鎮」に変り、音は類似しているが全く違う文字で表記されている。どうした訳があったのだろうか。1880年(明治13)4月10日にこの神社の社務所から戸長役場へ出された例祭の挙行と戸長の出席をもとめた文書(永島正彦家文書88)にも明らかに「鬼鎮神宮」と書かれている。

即ち江戸時代には「鬼神」であり、恐らく明治十年代に何らかの事情により「鬼鎮」とあらためられたのであろう。一時期両者の名前が混用されていた時期もあったろうが、大正に入っては全くその名は定着していた。大正年間、この神社の鳥居際にあった羊羹・せんべい等の土産ものを商っていた岡島家製菓所の広告には「鬼鎮のおみやげ」と大書し、菅谷村川島鬼鎮神社鳥居前とその住所を表記している(「発展の武州松山」大正14年発行)。また神社前にあった料理旅館川田屋もその広告に菅谷村川島鬼鎮神社前と書いている(「岩殿山案内」大正4年発行)。1963年(昭和38)編纂の『比企郡神社明細帳』によれば1946年(昭和21)に「鬼鎮神社」として法人登記されている。

鬼鎮神社の名称の変遷をたどって見てきたが何故に「鬼神」を「鬼鎮」に変名したのかについてはなお定かではない。

明治時代のムラ規約

 江戸時代から農民に対する法令・生活規範を示す掟は数多あった。
 1643年(寛永20)、田畑の売買を禁ずる「田畑永代売買の禁」、1649年(慶安2)「諸国郷村江被仰出」という副題付で、農民生活を三十二ヶ条にわたって規制した「慶安の御触書」*1、そして寛永年間、五人組制度(5軒を一つの単位とする相互扶助的行政制度)が整えられてからは五人組帳が数年毎に書かれるようになった。その前書に法度の遵守、貢租の完納、治安の維持、キリシタンの禁止等農民の厳守すべき事柄が示され、これに対し五人組が連署して了承させられてきた。こうした法令・触書・取締条項はいずれも幕府の「農は国の大本」、「農民は生かさず、殺さず」の方針に従って作成され、農民達は一方的にこれに従わされて来た。
 明治期に入ってもこうした意向はあらかた踏襲されていったが、部落単位、小字単位で農民自身の手になる掟が創られるようにもなってきた。ここに挙げる「広野村下郷規定」はそれに当たるものであろう。これは1884年(明治17)12月15日定められたもので、広野村の中の下郷地域にのみ通用する規定であった。小前総代栗原保之丞が中心になり、19名が連署している。おそらく当時下郷は19軒で構成されていて、全員が賛同したということだろう。掟、規定がどうして出来るのかというと、その地域の中での社会生活を円滑に行っていくための約束が必要になった時、或いはある方針を徹底遂行しようとする時に成立する。
 この規約の場合、文末に次の様な一節がある。「村方下郷是迄不極リ(ふきまり)*2ニテ落葉掃取草刈等ノ義ニ付度々(たびたび)苦情(くじょう)申者有之候、近頃(ちかごろ)又私が総代人ニナリタルヲ以テ右等之義ニ付書面ヲ差シ出ス者アリ或ハ苦情ヲ唱(とな)フル者有之候ニ付」と、即ち、肥料となる落葉を勝手に掃取るものがいたり、飼料としての草を気侭に刈ることへの苦情が絶えなかったことが、この規定を創った理由である。
 定めの条項は5つで、落葉掃取の日限を定める事、他人の所有地に入って、野荒(田畑の作物を荒らし取ること)したものは見つけ次第通報する事、野荒人からは50銭とる事、馬入道や道端の落葉掃取は自由とする事、草刈でも芝刈でも一切野荒にかかるものは見付け次第科料(50銭)とする事である。決め事はさしたる事ではないように思われるが、当時の人々にとっては困り果てた事柄だったのであろう。
 なお、この決定に当たっては住民皆が参加して協議し、不参のものには分かり易いように全文仮名をつけて回覧している。承諾の捺印についても、印形は大切な品なので追って日時を定め、「拙宅(総代の家)」へご持参の上捺印するようにと、細かく配慮している。又「別紙規定ノ通二而者差支ノ御方も可有之ニ被存候ニ付集会ノ節ノ相談ニ而若し差支ノ者ハ地主ニ話シ貰ヒ置クベシト申し候間、是亦添へて申上置候」とあくまで丁寧に、承服出来兼ねる者は申し出るように伝えている。
 維新以来政治の体制が大きく転換したとはいえ、この規定の内容、制定に至る過程等見るに、実に丁重で、かつての幕政時代の上意下達式の法令、規定とは大きく様変わりし、農民達自身が自分達のために作成した様子が強く感ぜられる。
 降って1905年(明治38)に作られた「規約書」は前者とは大分趣を異にして江戸時代の上意下達的に作成されたものと思われる。この規約の制定された年は日露戦争中であり、日清戦争後国家経済は逼迫し、その上未曾有の大戦に突入した訳で、国家全体の経済負担は著しいものがあり、勢い国民の末々に至るまで節約・倹約が強制されるに至った。こうした国家統制といった背景からこの規約は作成されたものである。1905(明治38)2月12日に七郷村長久保三源次は「目下時局ノ大勢ニ鑑ミ」として、歳末歳首について餅搗・回礼・〆飾り・来客への酒食献酬を禁じ、「其他諸事質素ヲ旨トスベシ」と、各地区の常設委員へ通達している。この主旨を戴して規約は作成されたのだろう。なお同様の規約は大蔵・千手堂地域にも存在しているので、行政機関からの指示指導があって成立したものと考えられる。
 内容はとかく華美になり勝ちな「祝儀」の簡素化を規定し、祝い事の席には客を招かないか、少数とし「酒ハ三杯ニ限ル」と極端に制限している。また、見栄を張る風潮にあった「葬儀」についても、念仏玉(供養のためにくばられる菓子と小銭)の遣り取りを禁じ、忌明・年回も客は親戚縁者のみに限定し、「穴掘リ人足(墓穴を掘る人)ハ四人ト定メ、穴場ノ酒ハ一升ニ限ル」と細かく規定している。また、当時農村部で盛んに行われ、農民達の唯一の楽しみとなっていた講・日待についても、新規の講(社寺を参詣する同好者の組織)をつくることは見合せ、各社寺への代参人は一講につき一人、代参なき日待は全廃と制限した。夜明かしで酒宴を張った男の日待(田植え・稲刈り・正月・庚申等)は規定から省かれたが、「婦人の遊日待ハ壱年一回ニ限ル」とした。男尊女卑感の強かったこの時代においては女性の遊楽は冗費と考えられていたのだろう。そして最後に前出した他人所有の山林での落葉掃採・柴草刈の禁止を定めている。
 文末には内田蔦五郎他49名が署名捺印しているが、これは前出の署名とは異なり江戸時代以来の慣行によった請書(うけしょ)としての署名捺印と思われる。
 この規約は非常時とはいえ全体として極めて厳しい、ゆとりのない規定であり、農民の生活を厳しく規制するものであった。そしてこうした傾向はこの後も永く生活規範のなかに君臨していったのである。

 *1:慶安の御触書(けいあんのおふれがき)は、1649年(慶安2)、江戸幕府が農民統制のために発令したとされてきた文書。現在では1697年(元禄10)、甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が、慶安年間出された幕法であるとして広まったものであると考えられている。
 *2:体裁がわるいこと。きまりがわるいこと。

新編武蔵風土記稿 広野村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

   広野村(埼玉県比企郡嵐山町大字広野)

 広野村(ひろのむら)ハ水房庄(みずふさしょう)*1ニ属(ぞく)セリ、領名(りょうめい)及(およ)ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村*2ニ同ジ*3。村ノ四方、東ハ太郎丸村(たろうまるむら)ニテ、南ハ杉山村(すぎやまむら)ニ接(せつ)シ、西ハ越畑村(おっぱたむら)、北ハ勝田(かちだ)・伊子(いこ)ノ二村ニ続ケリ。東西二十八町(ちょう)*4南北十町(ちょう)許(ばか)リ。戸数(こすう)六十軒(けん)、御打入(おうちいり)*5ノ後高木筑後守廣正(たかぎちくごのかみひろまさ)ニ賜(たまわ)リ子孫(しそん)続キテ知行(ちぎょう)*6セシガ、元祿十一年(げんろく)(16989御料所(ごりょうしょ)*7トナリ同十三年黒田豊前守(くろだぶぜんのかみ)ニタマヒ、同キ十七年木下求馬(きのしたきゅうま)・島田藤十郎(しまだとうじゅうろう)・内藤主膳(ないとうしゅぜん)・大久保筑後守(おおくぼちくごのかみ)ガ家ニ賜(たまわ)リテヨリ今ニ替(かわ)ラズ。
   *1:『新編武蔵風土記稿』に出てくる庄名。属したのは広野・水房村枝郷太郎丸・福田・伊子・水房・水房村枝郷中尾・野田・岡郷・小江川の九か村。現在の嵐山町・滑川町・東松山市・熊谷市の旧江南町あたり。
   *2:千手堂村。
   *3:「江戸ヨリ行程拾六里」。
   *4:1町は約109メートル。
   *5:徳川家康が天正18年(1590)江戸城に入ったことをさす。
   *6:支配。
   *7:幕府の直轄地。

 高札場(こうさつば)*1 四ヶ所ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

 小名(こな) 川島 爰(ここ)ハ村ノ飛地(とびち)ニシテ東ノ方太郎丸村ヲ隔(へだ)テシ所ヲ云フ。
       勝田(かちだ) 是(これ)モ村ノ飛地ナリ、北ノ方勝田村(かちだむら)ノ辺(へん)ニアリ。
       上郷(かみごう) 中郷(なかごう) 下郷(しもごう)
 八宮社(やみやしゃ) 村ノ鎮守(ちんじゅ)ナリ、泉覚院持
 鬼神明神社(きじんみょうじんしゃ) 村民持(そんみんもち)。
 金鑽社(かなさなしゃ)*1此(この)神社ハ当国(とうこく)ノ古社ナリ。児玉郡金鑽村(かなさなむら)金佐奈(かなさな)神社ノ遥拝(ようはい)ノ為ニ建シナルベシ。持(もち)前ニ同ジ。
   *1:地元に残る安政七年(1860)の神社修復帳には金皿大明神と記されている。金皿山(かなさらやま)の山頂近くにあったが、関越自動車道の建設により今はふもとに移されている。火伏(ひぶせ)の神として信仰されている。

 廣正寺(こうしょうじ) 曹洞宗(そうとうしゅう)*1 郡中(ぐんちゅう)市ノ川村(いちのかわむら)*2永福寺(えいふくじ)末(まつ)、高木山(こうぼくさん)ト云フ。慶安二年(けいあん)(1649)寺領(じりょう)二十石(こく)ノ御朱印(ごしゅいん)ヲ賜(たま)ヘリ。当山(とうざん)ハ入間郡龍ケ谷村(たつがやむら)龍穏寺(りゅうおんじ)、四世(よんせい)ノ住僧(じゅうそう)天庵(てんあん)ノ草創(そうそう)*3ニシテ、元ハ萬福寺(まんぷくじ)ト号(ごう)セシヲ、当所(とうしょ)ノ地頭(じとう)高木甚左衛門正綱(たかぎじんざえもんまさつな)、其父筑後守廣正(ちくごのかみひろまさ)ノ追福(ついふく)*4ノタメ永福寺ノ僧起山(きざん)*5ヲ請(こう)テ中興(ちゅうこう)*6シ、父ノ実名(じつめい)ヲモテ寺号(じごう)*7トシ中興開墓トセリ。廣正(ひろまさ)ハ慶長十一年(けいちょう)(1606)七月二十六二日卒ス*8。法名(ほうみょう)萬福院殿大翁秀椿大居士(まんぷくいんでんだいおうしゅうちんだいこじ)ト云フ。正綱(まさつな)ハ寛永(かんえい)九年(1632)十一月十日卒ス。廣正寺性空道把居士(こうしょうじせいくうどうはこじ)*9ト謚(おくりな)*10セリ。中興開山(ちゅうこうかいさん)起山(きざん)元和六年(げんな)(1620)十一月十二日化(か)ス*11。本尊(ほんぞん)弥陀(みだ)*12【阿弥陀(あみだ)の略】ヲ安(あん)ス。小野篁(おののたかむら)*13ノ作ト云フ。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗とならぶ禅宗の二大宗派。
   *2:現・東松山市大字市ノ川。
   *3:創建。
   *4:追福。
   *5:起山洞虎禅師(きざんどうこぜんじ)。
   *6:ふたたび盛んにすること。
   *7:寺の呼び名。廣正寺。
   *8:死ぬこと。
   *9:正しくは廣正寺殿性空道把大居士(だいこじ)。
   *10:死後、徳をたたえて贈る称号。
   *11:死ぬこと。
   *12:阿弥陀の略。
   *13:平安時代前期に宮中に仕え参議になった漢学者。歌人として名を残した。
 
  ○鐘楼(しょうろう) 享保年中(きょうほう)(1716−1735)ニ鋳(い)タル鐘(かね)ヲ掛(か)ク。
 泉覚院(せんかくいん) 本山修験(しゅげん)*1男衾郡(おぶすまぐん)板井村(いたいむら)*2長命寺(ちょうめいじ)配下(はいか)、本尊(ほんぞん)不動(ふどう)*3ヲ安(あん)ス。
   *1:京都の聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派修修道(しゅげんどう)のこと。修験道は日本固有の山岳信仰に根ざし、密教(みっきょう)の影響(えいきょう)を受けて形成された宗教の一派。
   *2:江戸時代から1889年(明治22)までの村名。現・熊谷市の旧江南町の大字名。
   *3:不動明王のこと。


 弥陀堂(みだどう)*1
 薬師堂(やくしどう)*2二宇(にう)*3共(とも)ニ村持(むらもち)。
   *1:阿弥陀仏(あみだぶつ)を安置したお堂。
   *2:薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)を安置したお堂。
   *3:二つのお堂。

神社明細帳 八宮神社 七郷村(現・嵐山町)広野 ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡七郷村大字廣野字深谷(ふかやつ)
 村社(そんしゃ) 八宮神社(やみやじんじゃ)

一 祭神(さいしん)
    健速須佐之雄命(たけはやすさのおのみこと)*1
    大己貴命(おおあなむちのみこと)*2
    稲田姫命(いなだひめのみこと)*3
   *1:建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)・須佐乃袁尊。日本神話の神。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。
   *2:大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)・大汝神(おほなむぢのかみ)・大穴持命(おほあなもちのみこと)。大国主命(おおくにぬしのみこと)のこと。
   *3:奇稲田姫(くしいなだひめ)・櫛名田比売(くしなだひめ)。八岐大蛇(やまたのおろち)退治神話にみえる神。八岐大蛇にのみこまれようとするところを、素戔嗚尊(すさのおのみこと)にたすけられて結婚する。6世の孫に大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主神)がある。

一 由緒(ゆいしょ) 不詳(ふしょう)
 明治四十一年(1908)三月三日上地林八畝(せ)七歩(ぶ)境内(けいだい)編入(へんにゅう)許可(きょか)

一 社殿(しゃでん) 本(ほん)殿(ほんでん)

一 境内(けいだい) 四百七坪(つぼ)

一 氏子(うじこ) 五拾(じゅう)五戸(こ)

一 境内神社
 榛名(はるな)神社
  祭神 彦由伎命(ひこゆきのみこと)*1
     速須佐之雄命(はやすさのおのみこと)*2
     奇稲田姫命*3
  由緒 不詳
  社殿 本殿
   *1:彦湯支命。饒速日(にぎはやひの)命の孫。物部(もののべ)氏の祖といわれる。
   *2:建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)
   *3:稲田姫命と同じ。

 琴平(ことひら)神社
  祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)*1
  由緒 不詳
  社殿 本殿
   *1:日本書紀では、大己貴命(おおなむちのみこと)と称される。古事記では、
大国主命いわれて、国づくりの神とされる。

 天祖(てんそ)神社
  祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
  由緒 不詳
  社殿 本殿

P1000325
2005年10月16日撮影
P1000324
2005年10月16日撮影
P1000329
鳥居の社額は「八宮大神社」

※八宮神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1443頁
八宮神社(広野)

村方古物改口上書(1821年、広野・永嶋正彦家文書22)

  文政四巳年二月十四日
 村方古物改口上書 写
  広正寺共
        比企郡広野村
            四給村中

今度地誌認御用ニ付村方開発已来之始末寺社
之由緒名所古跡之類取認候条右由緒拘リ候記録
并古證文寺社之棟札古来より領主地頭遷替之
年代性名等兼而取認置可申候且又百姓之家柄等
迄相糺候ニ付是又系図古記録古證文之類武
器等所持之者も有之哉能々相尋置追而廻村之
節可申聞候尤廻村日限等之義者追而可申遣候
右之段兼而村方為心得申遣候廻状早々順達留村
より廻村先江相届ヶ可申候已上
   巳ノ二月八日
       地誌認御用出役
            井上彦右衛門 印
            築山茂左衛門 印
南薗部村 北薗部村 古氷村 同新田 長楽村
上押垂村 下押垂村 今泉村 野本村 同新田
柏崎村 同新田 流川村 松山宿 同新田
市川村 月輪村 同新田 平村 野田村
大谷村 岡郷村 山田村 羽尾村 同新田
水房村 太郎丸村 中尾村 福田村 土塩村
菅田村 和泉村 伊古村 広野村 杉山村
中爪村 勝田村 越畑村 吉田村 古里村
奈良梨村 上横田村 下横田村 遠山村 下里村
伊勢根村 高谷村 能増村 高見村 角山村
大塚村 小川村 右村々役人中
追替村絵図有之候村方ハ写差出可申候本文記録
古證文棟札百姓之家柄ニ拘リ候書物等者一覧之上
写取候ニ付別ニ写差出ニ不及候尤村方之由緒地名
等相糺候事ニ候得バ村役人ニ不限百姓之内土地之
様子古来より之申伝へ等覚居候もの有之候ハバ
廻村之節差出可申候但寺社之内御朱印地又ハ格別之
由緒有之候寺社ハ罷越見分取認候間兼而其段
其向江申通可置候以上

  弐度羽尾村江呼出御廻状写
地誌認御用ニ付先達而廻状を以申遣候通リ
取認候条村役人ハ勿論土地之儀相心得候者
壱人明十四日九ツ時羽尾村江可被罷出候此廻状
早々相廻シ留村方より可相返候已上
   二月十三日  地誌調御用出役
            井上彦右衛門 印
            築山茂左衛門 印
羽尾村会所 平村 野田村 大谷村 山田村
水房村 菅【田欠カ】村 伊古村 太郎丸村 中尾村 福田村
越畑村 広野村 右村々役人中
拾三ヶ村高六千百拾石    月番名主半右衛門
会所掛リ金三両弐朱也      同  弥藤治
此割合高半分村半分      同  太兵衛
割ニ仕候            同  半蔵
              百姓代 宇八
              罷出御答申上候

  御答申上候口上書覚左之通リ
慶安元年子七月御検地
一高木九助様御知行所 元禄十一年迄
元禄十一年
一高谷太兵衛様御支配所
元禄十一年纏同十三年迄
一黒田豊前守様御領地
元禄十四年纏十六年迄
一比企長左衛門様御支配所
元禄十一年寅七月高谷太兵衛様御支配纏渡ル
一嶋田藤十郎様御知行所
同十七年比企長左衛門様纏渡ル
一木下伊賀守様御知行所
宝永二年小林太郎左衛門様纏渡ル
一内藤主膳様御知行所
宝永四年九月小林太郎左衛門様纏渡ル
一大久保筑前守様御知行所

広野村トハ広正寺開基高木九助広正ト
申ニ付同寺ヲ広正寺と名付此由来を以
広ト云儒ヲ取リ広野村ト云ト申上候東西江
弐拾八丁南北江八丁又ハ九丁郷境東ハ太郎丸村
南纏酉ノ方続杉山村西ハ越畑村北ハ勝田村ニ而
北東ノ間伊古村飛地字川嶋江八丁有
猪子栄太郎様御知行所太郎丸村ヲ飛申候又ハ
飛地広野勝【田欠カ】有是ハ猪子栄太郎様御知行所勝田村ヲ
飛申候て字勝田御座候森之御尋ニ御座候
右森之義八宮明神一社四給入会御除地村中
惣鎮守本山山伏泉学院しめはぎ掃除人
下草落葉支配ニ候金皿明神一社是ハ吉兵衛持
弥陀堂壱ヶ所下村持又弥陀堂壱ヶ所中郷村持
飛地字川嶋ニ鬼神明神一社四給入会川嶋氏子
惣村持薬師堂壱ヶ所村持北ニ当リ市ノ川畔ニ
千弐百間之堤有北ハ市之川境水房村太郎丸村
東ハ月輪村南同村西志賀村又飛地字勝田
東ハ伊子村南西ハ勝田村又西吉田村北和泉村
なめ川有本村ニ田仲ニ南西江之加須川あり
此かす川之義者西より南江流申候

寛永十七年棟札
 八宮明叩〜敖端蘆輜△呂掃除 泉学院
同年棟札
 金皿明神           吉兵衛持
棟札無御座候
 鬼神明神 字川嶋氏子村持
       参銭 川嶋
       宮鍵  組頭三人支配

   寺分書上
        慶安二年八月廿四日初而頂戴
一御朱印              六通
   高弐拾石
一本尊阿弥陀如来          一尊
   本寺市之川村永福寺九代
一御開山    起山洞虎大和尚
          元和六年庚申十一月十二日示寂
一御開基    萬福院殿大翁秀椿大居士
          慶長十一丙午七月二十六日示寂 
一広正寺殿性空道圍大居士
   寛永九壬申十一月十日 俗名高木甚左衛門正縄
一大鐘 指渡シ二尺三寸
     大哉宝器 虚而体堅
 音応扣撃 功不虚損
       高木山広正寺住持
            通岸達円代
  享保二龍集丁酉年
       三月二十一烏
     野州安蘇郡佐野命住
         井上治兵衛重治
         同 太郎左衛門重友
    施主 高木氏正長
  右之通リニ御座候以上
      武州比企郡広野村
             広正寺
 広正寺世代現住共ニ拾八代  暁山僧 印
 文政四巳年    比企郡広野村
    二月十五日      月番名主半右衛門
                  名主弥藤治
                  名主太兵衛
                    名主半蔵
             四給代兼百姓代宇八
  御勘定奉行所様纏
   御儒者
     林大学頭様御附
        井上彦右衛門様
        築山茂左衛門様

高百五拾石三斗五升壱合
 一内藤主膳知行所      名主弥藤治
高百九石四斗五升四合
 一嶋田藤重郎知行所     名主太兵衛
高九拾五石五合
 一木下久兵衛知行所     名主半右衛門
高七拾五石壱斗七升五合
 一大久保筑前守知行所    名主半蔵

                  (広野・永嶋正彦家文書22)

武蔵国郡村誌 広野村 ルビ・注

   広野村(ひろのむら)【埼玉県比企郡嵐山町広野】

本村古時水房庄(しょう)松山領に属す

疆域(きょういき)*1
東は伊古(いこ)太郎丸の二村と林丘或は畦畔(けいはん)*2を限り、西より南は杉山村と畦畔或林木及小渠(きよ)*3を界し、北は勝田村と林岡及ひ畦畔を界とす。
   *1:土地のさかい。
   *2:あぜ。
   *3:小さなほり。

幅員(ふくいん)*1
東西十町五十六間 南北十七町四十間
   *1:はば。

管轄(かんかつ)沿革
天正中【1573〜15919】徳川氏の有に帰し 田に高四百六十七石四斗五升五合高木甚右衛門知行とす 文禄元年壬辰(みずのえたつ)【1592】旗下士高木筑後守の采地(さいち)*1となり、慶安二年己丑(つちのとうし)二十石を広正寺に付す。元禄十一年戉寅(つちのえとら)【1698】上地*2(じょうち)となり十三年庚寅(かのえとら)【1700】黒田豊前守の領地となり、宝永元年甲申(きのえさる)【1704】木下求馬 高九十五石五合 島田藤十郎 百九石四斗六升五合 内藤主膳 百五十石三斗一升五合 大久保筑後守 七十五石一斗七升六合 に分与し世襲す。 風土記 明治元年戉辰(つちのえたつ)【1868】武蔵知県事の管轄となり二年己巳(つちのとみ)【1869】二月品川県となり、八月韮山県に転し、四年辛未(かのとひつじ)【1871】正月広正寺領も同県に入り、十一月入間県に隷(れい)し、六年癸酉(みずのととり)【1873】熊谷県に属す。
   *1:領地・知行所。
   *2:土地をお上に返納すること。

里程(りてい)*1
熊谷県庁より南方二里三十町
四隣伊古村へ三十町月輪村へ三十三町三十二間杉山村へ九町勝田村へ二十五町太郎丸村へ十四町二十九間
近傍宿町松山町へ二里十七町五間 字中郷(なかごう)を元標(げんぴょう)*2とす
   *1:みちのり。
   *2:測量などのもとになる目印。

地勢
東北に林巒(らん)*1起伏し西に賀須川を帯(お)ふ、運輸便を得す。薪炭贏余(えいよ)*2、
   *1:ぐるぐる巡っている山つづき。
   *2:よぶん。

地味(ちみ)*1
色赤黒相混し稲梁(とうりょう)*2に宜しく桑茶に応せす。水利不便時々旱(かん)*3に苦しむ
   *1:地質の良し悪し。     
   *2:いねとあわ。
   *3:雨が降らず大地が乾くこと。

税地
田  四十一町五反七畝十四歩
畑  四十七町四反九畝十二歩
宅地 二町八反二畝二十三歩
山林 二十二町八反二歩
芝地 四反八畝二十四歩
総計 百十町一反八畝二十五歩

飛地(とびち)*1
木村の東南太郎丸水房月輪羽尾志賀五村の間に
 田  九町一反五畝二十三歩
 畑  十二町三反五畝八歩
 宅地 七反九畝十五歩
 山林 九町九反八畝十六歩
北方勝田吉田和泉伊古四村の間に
 田  四町四反二畝四歩
 畑  三町八反一畝九歩
 宅地 三反四畝一歩
 山林 一町一反五畝二十一歩
   *1:同じ行政区に属するが、他に飛び離れて存在する土地。

字地
中郷(なかごう) 村の中央にあり東西二町四十八間南北三町四十三間
下郷(しもごう) 中郷の東南に連る東西三町南北四町五間
広野ヶ谷戸(こうやがやと) 中郷の西北に連る東西二町二十三間南北二町五十四間
川島 村の東南飛地にあり東西五町二十八間南北五町五十間
勝田(かちた) 村の北方飛地にあり東西四町十間南北七町四間

貢租(こうそ)*1 
地租米百三十九石九斗七升四合 金八百六十九円九十五銭一厘
賦金(ぶきん)*2 金八十三円三十六銭九厘
総計 米百三十九石九斗七升四合 金九百五十三円三十二銭
   *1:田地にかせられる租税。
   *2:賦役の代りに徴集する金銭。

戸数
本籍 七十四戸平民
寄留(きりゅう)*1、三戸平民 
社 二戸 村社 
寺 二戸曹洞宗一字 堂一字
総計 八十一戸
   *1:他郷又は他家に一時的に身を寄せて住むこと。

人口
男 百二十五口 
女 二百三十口
総計 三百五十五口 他出寄留男四人女四人 外寄留男五人女五人

牛馬
牡馬四十頭

舟車
荷車一輛小車

山川
賀須川 深処四尺浅処五寸広処四間狭処一間三尺 村の西方越畑村より来り 東方太郎丸村に入る 其間二十五町二十六間三尺田六町三反五畝十五歩の用水に供す。
大橋  小川道に属す村の西方加須川の中程に架す。長三間三尺巾二間土造

森林
林 民有に属し村の東北にあり。反別二十二町八反二歩雑木茂生す

湖沼(こしょう)
石倉上溜池 東西三十八間南北六十二間周回二町五十七間村の西北にあり
同上下池 東西二十八間南北三十三間周回二町二間村の西北にあり
寺前溜池 東西三十四間南北三十七間周回二町村の西北にあり
大野田溜池 東西三十八間南北三十九間周回二町八間村の東北にあり
金皿溜池 東西六十間南北六十間周回三町十一間村の東にあり
天沼溜池 東西六十間南北五十四間周回三町村の南にあり
猿田溜池 東西五十三間南北二十四間周回二町五十八間村の北にあり
以上の池用水に供す

道路
熊谷道 村の西方杉山村界より北方勝田村界に至る長九町二間巾一間三尺

掲示場
村の中央にあり

神社
八宮社 村社々地東西十五間南北十三間面積百六十坪 村の東南にあり素盞鳴尊を祭る祭日五月十日

鬼鎭(きじん)社 東西三十二間南北十四間面積三百三十一坪村の南にあり衝立久那止命(つきたつくなとのみこと)*1八衢彦命(やちまたひこのみこと)八衢姫命(やちまたひめのみこと)*2を合祭る。祭日四月二十四日、十月十八日
   *1:進路の入口などにまつられ、災禍を防ぐ神、道路・旅行の神。
   *2:道祖神の源流と考えられる夫婦神。疫神・邪神が京に侵入してくるのを防ぐため     にこの神を祭って「八衢祭」が行われる。

仏寺
広正寺 東西四十間南北五十間面積千八百六十九坪村の西北にあり。曹洞宗市の川村永福寺の末派なり。慶長十年高木九助広正開基創建す。
薬師堂 東西十九間南北十八間面積二百坪村の中央にあり風*1に慶安二年【1649】寺領二十石の御朱印(ごしゅいん)*2を賜へりとのす(と載す
   *1:うわさ。武蔵風土記をさす。
   *2:朱印状のことで、将軍より寺社への所領の給付を証明する文書。

役場
事務所 村の中央戸長宅舎を仮用す

物産
繭  八石 
米  二百四十三石 
大麦 九十六石 
小麦 百三十石八斗
大豆 百六十石 
小豆 十九石九斗 
蕎麦(そば)八石  
鎌  二百挺
薪  八百駄 
生絹(すずし)*1百五十疋 
   *1:生糸の織物。

民業
男女農業を専とす

空から見た嵐山町 372 広野 2011年10月

嵐山町広野(ひろの)

P1090141webword

2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:埼玉県道69号深谷嵐山線
B:関越自動車道
C:粕川
D:嵐山中部第3貯水池
E:広正寺、F:広野上中郷集会所、G:武蔵嵐山霊園
H:谷沼、I:トバ沼、J:寺沼、K:タライ沼、L:油面沼、M:弁天沼

空から見た嵐山町 370 広野 2011年10月

嵐山町広野
P1090123webword
2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:薬師堂(嵐山町杉山)(すぎやま)
B:太田坊橋、C:竹ノ花橋(粕川)(かすがわ)
D:嵐山中部第4貯水池
E:埼玉県道69号深谷嵐山線
F:八宮神社、G:百庚申、H:寺沼、I:広正寺(曹洞宗)、J:広野上中郷集会所、K:武蔵嵐山霊園、L:深谷沼、M:広野二区自治会館、N:金皿山、O:扇沼(嵐山町広野)(ひろの)
P:広野下郷橋、Q:広野中郷橋(関越自動車道)
R:トッパンパッケージングサービス、S:凸版印刷嵐山工場(嵐山町花見台)(はなみだい)
T:おおむらさきゴルフ倶楽部(滑川町中尾)(なかお)
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