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太郎丸

七郷村誌原稿 太郎丸村(神社明細帳) ルビ・注



埼玉縣下武蔵國比企郡太郎丸村字午     村社    淡洲(あわす)神社
一祭神 豊玉姫命
一由緒 抑々本社由緒書ハ慶應二寅年秩父地方ヨリ亂民蜂起シ来リ民家ヲ佗壊【破壊】シ或ハ放火スル際遺憾ナル哉由緒書類モ悉(ことごと)ク絡亂燃焼セラレ故ニ其詳細ヲ知ルニ由ナシ只口々ニ傳フルハ大化年中本社再建スル所ナルト自来年月久キヲ經ルヲ以テ之レガ修繕ヲ施スト雖モ元禄ノ頃。社宇大ニ披損ス是レヲ以テ猶再建スト云棟札(むなふだ)【由緒、建築年月、建設者などを書いて棟木に打ち付ける札】ニ元禄八子年((西暦一六九五年))九月吉辰ト記載アリ今現ニ存立スル社宇ハ則之也
一社殿(しゃでん) 間口 貳間貳尺
    奥行 貳間七寸
一境内(けいだい) 貳百四拾五坪  官有地第壱種
一境内(けいだい)神社三社 
 菅原神社
  祭神 學大神
  由緒 末社菅公ハ本社ヨリ後ニ建立シタル由シ只口ニ傳フ本社右側ニ存ス
  社殿(しゃでん) 間口壱尺壱寸五歩
     奥行二尺八寸
  祭神 稲荷大神
  由緒 末社稲荷大神ハ本社ヨリ後ニ建立シタル由シ只口ニ傳フ本社ノ右側ニ存ス
  社殿(しゃでん) 間口壱尺壱寸五歩
     奥行二尺八寸
 嚴島神社
  祭神 市杵姫命
  由緒 嚴島神社ハ石造宮ニシテ寛政戊午年((寛政十年 西暦一七九八年))十一月吉日本村婦女子等ノ建立スル所ナリ
  社殿(しゃでん) 間口六寸五歩
     奥行六寸
  鳥居(とりい) 高サ壱丈壱尺二寸
     巾壱丈
  旗掉置場 間口三尺二寸
       奥行八間壱尺
一氏子 戸數廿三戸
一管轄廰迄距離 拾貳里廿五町
以上
右者明治十二年本縣第廿三号御達之基キ取調候所相違無御座候也
氏子惣代      大澤常十郎∪ 明治十七年五月六日       中村嘉十郎∪ 田幡慶三郎∪ 淡洲(あわす)神社祠掌兼務       権訓道寸      宮本廣野 ∪ 戸長代理筆生(ひつせい)      田幡載太郎∪
 比企横見郡長鈴木庸行殿
武藏國比企郡    太郎丸村
淡之洲神社境内(けいだい)上地(あげち)【収公された土地】官林字鎮守
従前反別三畝七歩 明治丗六年四月廿五日付境内(けいだい)ニ編入ヒ写届∪
一改正反別 四畝五歩
  東耕地  南現境内(けいだい)  平地
  西道   北用水堀  赤交
 木種
  杉木目通(めどおり)【目の高さで測った木の太さ】壱尺四以上弐尺八寸迄 四本 長壱間
  同   三尺四以上五尺七寸迄 拾本 長弐間
  松木目通(めどおり)六尺四□八尺五寸迄  五本 長三間
 下草料無御座候 里程(りてい) 都幾川通菅谷村迄陸路三十丁右川岸ヨリ東京迄四拾七里廿丁
右之通リ御座候也
右村      旧戸長    明治十二年七月七日         田幡宗順
 埼玉縣比企横見郡長鈴木庸行殿

村社淡洲(あわす)神社     第六大區五小區       比企郡太郎丸村 字午三百七十三番       立会人       除税地反別八畝五歩        大澤作右衛門∪ 官林反別四畝五歩        副戸長      田幡載太郎 ∪ 戸長       田幡宗順  ∪
   明治十年四月十四日

丈量詰村扣  明治十年四月廿四日四人泊リ奥田氏其外三人御派出ニ相成該地御検査済ニ相成御取調候以上扣
除地(じょち)【朱印地以外で租税を免除された土地】淡ノ(ママ)洲神社    第六大區五小區      
比企郡太郎丸村 境内(けいだい)反別八畝五歩       立會人       大澤作右衛門∪ 副戸長       田幡載太郎 ∪ 戸長       田幡宗順  ∪
   明治十年丑四月廿四日

七郷村誌原稿 太郎丸村(村誌) ルビ・注

別紙之通村誌編製草稿仕候条御査點之上御指揮被成下度此段上申候也
比企郡         太郎丸村      明治十三年十二月         戸長     田幡宗順∪
 埼玉縣比企横見郡長鈴木庸行殿

武藏國比企郡太郎丸村
 本村昔時ヨリ壱部ニシテ口碑本郡松山領ニ属シ村名改称分郷等ノ事ナシ
疆域
 東ハ中尾水房(みずふさ)ノ二村ト山林丘陵ヲ以界トシ正南ハ廣野村字川嶋ト市ノ川ヲ以境トス南ヨリ西ハ志賀村杉山二村ニ接ス正北ハ廣野村ト田畝ヲ以畫(くぎ)リ北ヨリ東ハ伊古(いこ)村ト田畝ヲ以相對ス
幅員
 東西拾壱町五拾五間南北六町五拾三間
管轄ノ沿革
 慶應二寅年六月((六月十七日))無頼之徒蜂起シ世直ト称シ民家ニ亂入シ財貨ヲ掠奪シ或ハ放火シ或ハ破毀シ頗(すこ)ブル惨状ヲ極ム噫乎遺憾ナルカナ本村古書稿[?]ヲ蒙リ蕩然(とうぜん)烏有(うゆう)【皆無】ニ属ス故ニ沿革ノ詳(つまびらか)ナルヲ知ルニ由ナシ只タ此ニ記スル所ハ口碑ニ流傳スルヲ述ルニ過ス天正ノ頃松山領トナリ宝暦年間ハ御代官岡部料((領))ニ属ス其後宝永年間頃ヨリ猪子左太夫ノ知行所トナル明治元辰年 王政復古之際シ同年八月品川縣ノ管轄スル処トナリ仝二年九月韮山縣ニ轉ス以後明治四年十一月ニ至リ而入間縣ニ轉ス同六年熊谷縣ノ所轄スル処トナル
里程(りてい)
 熊谷縣廰(けんちょう)ヨリ南方三里
 四隣同郡廣野村壱町二拾間
本村及ヒ各村元標ナキヲ以テ皆掲示場ヨリ掲示場マテ
 水房(みずふさ)村十二丁杉山村十六町
 近傍(きんぼう)宿町本郡松山町二里小川村ヘ壱里廿五町
地勢
 東ハ岡巒起伏シ雑樹欝生(うっせい)シ西南地勢平衍(へいえん)シテ賀須川ハ杉山廣野二村ノ間ヨリ来リ南部ヲ流レテ市ノ川ニ入ル市ノ川ハ西ヨリ来リ賀須川ノ水ヲ合セテ南境ヲ環流ス其側ニ賀須川市ノ川ニ入ル本村ノ南舟筏(しゅうばつ)ノ理アラス夏時驟雨ノ過スルアレハ忽チ汎濫シテ堤外ニ溢レ田圃ヲ害ス土人(どじん)之レヲ憂フ但薪炭(しんたん)ノ窮ヲ告ル者稀也
地味(ちみ)
 其色赤黒壚(ろ)土粘土相混シ過半壚(ろ)土ヲ交エ稍ニ稲梁(とうりょう)ニ回シ桑茶楮ニ適セス
 水利便ナラス時ニ水旱(かん)【おおみずとひでり】苦シム
税地
 田  旧反別  八町貳反九畝二歩
    改正反別 九町弐反七畝廿九歩
 畑  旧反別  拾四町八畝七歩
    改正反別 拾壱町五反五畝十歩
 宅地 旧反別  四反八畝十七歩   
    改正反別 貳町三反五畝拾八歩
 山林 旧反別  拾六町九畝拾八歩
    改正反別 二十町二反二畝拾五歩
 芝地 旧反別  
    改正反別 四反拾五歩
飛地
 本村ノ東ノ方水房(みずふさ)村ノ部分ニアリ
字地
 午地  村ノ中央ニ当リ東西二百三十間南北百二十間
 子地  午ノ地ノ西方ニアリ東西二百間南北百二十間
 卯地  午ノ地ノ南端ニ接ス東西百二十七間南北百八十七間
 巳ノ地 午ノ地ノ東方アリ東西百八十五間南北百二十五間
 酉地  午ノ地ノ東北ニアリ東西百五十間南北七十間
貢租(こうそ)
 地租(ちそ) 米三拾四石八斗五升七合
    金貳百拾六円六拾五銭弐厘
 賦金(ふきん) 国税金百七拾八円九十六銭二厘
    縣税金拾壱円拾七銭五厘
明治八年ノ租ニ依ル
 總計 米三十四石八斗五升七合
    金貳百四十五円弐銭三厘

戸數    寄留(きりゅう)壱戸平民
 本籍廿三戸平民 社壱戸
人數
 男六十八人口平民女七十九人口平民 総計百四拾七口
牛馬
 牡馬拾四頭
舟車
 荷車二輌
山 ナシ

 市ノ川深キ處五尺浅キ処五寸廣キ処ハ五間狭キ処ハ二間緩流水色澄清舟筏(しゅうばつ)通セス堤防アリ村ノ西ヨリ南四拾五町五拾間水流長拾町水房(みずふさ)村ニ至ル用水不便賀須川深キ処三尺浅キ処五寸廣キ処四間狭キ処二間本村ノ西方廣野村ヨリ来ル市ノ川ト合水流長四町拾二間用水不便時ニ大水患有リ
 大橋 川嶌道ニ屬ス村ノ南方ニ当リ二町八間三尺
    市ノ川中流ニ架ス長三間五尺巾壱間土造
森林
 淡洲(あわす)林 官有ニ屬ス東西四間南北四間反別
     村東二丁十二間ニアリ大樹繁茂(はんも)シ杉多シ
原野 ナシ
牧馬 ナシ
礦山 ナシ
湖沼
 表谷(おもてやつ)溜池【小字辰にある馬喰(ばく)沼】 東西二十一間南北三十一間周回百六十八間五尺本村東ノ方ニアリ田[以下記入なし]
 小谷溜池 【小字辰にある小谷沼】 東西二十六間南北八間三尺周回六十七間二尺村ノ東南ノ方ニアリ田[以下記入なし]
 下溜池【小字申の三ツ沼下沼】 東西二十二間南北三十間周回百四十三間三尺村ノ東ノ方ニアリ田[以下記入なし]
 中溜池【小字申の三ツ沼中沼】 東西六十三間南北十五間周回百五十二間村ノ東ノ方ニアリ田[以下記入なし]
 上溜池【小字申の三ツ沼上沼】 東西五十壱間南北三十四間周回百五十九間五尺村ノ東方ニアリ田[以下記入なし]
 小申山溜池【小字酉にあるゴッチザル沼(ゴキ沼)】 東西十六間三尺南北十一間四尺周回五十六間五尺村ノ北東ノ方ナリ田[以下記入なし]
 申山溜池【小字甲の与左衛門沼カ】 東西三十一間南北二十一間四尺周回百三間二尺村北東ノ方ナリ田[以下記入なし]
 五十谷(ごじゅうやつ)溜池【小字戌の五(後)重谷沼】 東西十五間三尺南北七間周回四十七間三尺村ノ東北ナリ田[以下記入なし]
道路
 熊谷道 村西ノ方比企郡杉山村界ヨリ入東ノ方本郡中尾村ニ至ル長九町四十一間巾壱間半道敷□ナリ本郡小川村ヨリ大里郡熊谷駅エ達スルノ経路ナリ
堤塘(ていとう)
 囲堤(いてい) 市ノ川賀須川ニ沿ヒ西ノ方字酉ノ前ヨリ連續シ東方本村ノ南方ニ至リ長四町五十五間馬踏(ばふみ)壱間敷二間四尺修繕費用ハ民ニ屬ス
瀧 ナシ
温泉 ナシ
冷泉 ナシ
陵墓 ナシ

 淡洲(あわす)神社村社々地東西十七間南北十八間三尺面積村東ニアリ豊玉姫命ヲ祭ル勧請年月不詳祭日九月十九日老杉拾数本
寺 ナシ
學校
 村ノ北西ノ方同郡杉山村椙山(すぎやま)小学校ヘ通学生生徒男十五人 女二人
事務所
 村ノ中央田幡宗順ノ宅舎ヲ仮用ス村ノ事務ヲ取扱ス
病院 ナシ
郵便局 ナシ
製綿場 ナシ
古跡 ナシ
名勝 ナシ
物産
 動物 繭 質美悪相混ス 七石   鶏 百五十羽
    鶏卯 九百六十
 植物 米質美百二十石 大麦質四十五石 小麦質悪二十石 大豆質美八石 小豆質悪五石五斗 粟質悪八斗六升 蕎麦(そば)質悪三石
製造物
 生絹(きぎぬ)質美百三十疋(ひき)本郡小川村ヘ輸ス 薪(まき)五百駄
 生酒百何石
器用物 ナシ
民業
 男 農桑(のうそう)ヲ業トスルモノ二十戸工ヲ業トスルモノ三戸
 女 農業紡織ヲ業トスルモノ五十人

田幡和十郎の「太郎丸八景」 1828年

 1828年(文政11)秋、田幡和十郎は太郎丸のすぐれた景観(けいかん)八ヶ所を選んで漢詩・和歌に詠んだ。和十郎弱冠(じゃっかん)十八歳の時であった。
 太郎丸の佳景八ヶ所の詩歌は次の様なものである。

  三本松の夜雨
 今夜通霄思渺然
 霏々戸外雨如烟
 風吹松滴向何落
 更憶明朝花色鮮

 いつの間に ふるともなくて 夜の雨
          三もとの松の 雫にぞしる


  淡洲社暮雪
 風来寒冽自然深
 雲淡頻々一色陰
 日暮玉英飄堕積
 松杉真白満宮森

 神心 にごらぬからに 淡の洲の
          夕べにきよく 雪のふりける

  市の川帰帆
 萬頃晴川興自幽
 幾多漁艇賈前浮
 波心一脉清流徹
 帆影随風帰峯頭

 家々の 土産(つと)をもとめて 市の川
          村浪もよく 帰ゑる友船


  萱場晴嵐
 晴日紅雲興不窮
 忽然萬籟満山中
 即今頻失煙霞色
 薄葉飄來撹碧空

 四方山の 雲吹それて おちこちの
          あらしになびく 尾花かるかや

  平ヶ谷戸落雁
 白雲千里望淒然
 野色西風興可憐
 幾陣雁飛何処去
 追随叫々落平田

 朝な夕な 平ヶや戸に 友の居て
          空行雁も 落るこの頃


  妻夫橋夕照
 幾重青嶂碧渓潯
 民竈軽烟出樹陰
 数里引筇行客渡
 橋頭残照夕陽沈

 忍びかね 夕日のてりし 旅人の
          女夫(めおと)のはしを 恋わたるなり


  向山晩鐘
 林籟山風祇樹隈
 嶺雲還盡素烟堆
 入看幽景青連宇
 処々鐘声暮色催

 詣ふでつる 人の帰りを むかい山
          のぼればひヾく 入相のかね


  三堂山秋の月
 山色淒涼爽気催
 雲晴峯畔月明来
 清輝次第翻天外
 含露柱花徹暁開

 秋の夜の さやかのかけを 三堂山
          名におふ月も 外なかなくに

 抑々(そもそも)、八つの風景(八景)を選んで詩歌を詠ずる風習は中国北宋時代(960〜1127)に洞庭湖・潚水(しゅうすい)・湘水(しょうすい)を中心として、すぐれた景観を選んで詠んだ「潚湘八景」にはじまる。これがわが国に伝わったのは室町時代(1336〜1579)で、五山禅僧達が漢詩文や山水画を愛好したことによって取り入れられていった。1500年(明応9)公家の近衛政家・尚道父子が琵琶湖畔に遊んだ時、付近の景観の美しさに感動して和歌八首を詠んだ。これが「近江八景」と云われるもので、わが国「八景もの」の元祖となった。その後江戸時代にはいり「八景もの」がだんだんと流行して、各地に「〇〇八景」がつくられていった。その原因は霊場巡拝(伊勢参り・大山詣・四国札所めぐり等々)を中心に諸国を旅することが流行し、名所・景勝地を訪れることが盛んとなったこと。又、江戸の中期以降は浮世絵版画が興り、景勝地の宣伝にこれが利用されたこと。安藤広重(1797−1858)の「東海道五十三次」を始め「江戸百景」とならんで「近江八景」を版画にして世にだしたのが好例である。又、1830年(文政13)に再販され、当時の文章規範とされた「御家流諸状用文章」の頭書欄に「近江八景」の漢詩・和歌及び略画ながら当時の景観を偲ばせる図画が収録されている。恐らく庶民の教養として読み伝えられたであろう。そうしたことが「太郎丸八景」を生んだと思われる。
 中国の「潚湘八景」わが国の「近江八景」そして和十郎の「太郎丸八景」の三者に共通しているのは景観の主題である。「秋月(しゅうげつ)」(秋の夜の月)、「夕照(せきしょう)」(ゆうばえ)、「晴嵐(せいらん)」(晴れた日のかすみ)、「帰帆(きはん)」(帰路につく帆掛け舟)、「晩鐘(ばんしょう)」(入相(いりあい)の鐘)、「夜雨」(夜ふる雨)、「落雁(らくがん)」(空から舞い下りる雁)、「暮雪(ぼせつ)」(くれがたに降る雪)の八つで、どの主題も連想してみれば美しい情景で、詩歌の題材としてはこの上ないものだが、太郎丸において、その場所を特定することは、今となっては大変難しい。

 『御家流諸状用文章』に収録された「近江八景」

新編武蔵風土記稿 太郎丸村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

  水房村(みずふさむら)枝郷(えだごう) 
   太郎丸村(たろうまるむら)
(現・埼玉県比企郡嵐山町大字太郎丸)

 太郎丸村ハ水房村ノ西ニ続キテ江戸ヨリノ行程(こうてい)ハ本村ニ同ジ*1、水房庄(みずふさしょう)松山領(まつやまりょう)ト唱(とな)フ。古ハ水房村*2ノ内ナリシガ、寛文五年(かんぶん)(1665)検地(けんち)*3アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)*4トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』*5ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ。家数二十余、東ハ中尾(なかお)*6・水房ノ二村ニ続キ、南ハ市ノ川(いちのかわ)ヲ界(くぎり)テ広野村ノ飛地(とびち)ニ隣(とな)リ、西ハ志賀村(しかむら)及ビ杉山村ニ接(せつせ)リ、北ハ広野・伊子(いこ)*7ノ二村ニ及ベリ。東西二町許(ばか)リ南北五町(ごちょう)余り、水利不便ナレバ天水(てんすい)ヲ仰(あお)イデ耕(こう)ヲナセド、又水溢(すいいつ)ノ患(わずらい)*8アリ。爰(ここ)モ本村*9ト同ク古ハ岡部氏ノ知ルトコロ*10ナリシガ、安永元年(あんえい)(1772)収公(しゅうこう)*11セラレ、同ク九年猪子左太夫(いのこさだゆう)ニ賜(たまわ)リ、今子孫(しそん)栄太郎ガ知ル所ナリ。
   *1:水房村は江戸より16里。1里は約3.927キロメートル。
   *2:現在は滑川町大字水房。
   *3:支配地の田畑(たはた)の面積(めんせき)や生産高を調査(ちょうさ)すること。
   *4:開発によって新しい村が作られたり、村高を分割して新村をつくったりしたとき枝郷とか枝村といった。
   *5:検地帳(けんちちょう)。
   *6:現在は滑川町大字中尾。
   *7:1868年(明治元年)に伊古村と変更(へんこう)した。
   *8:水害など。
   *9:水房村。
   *10:知行所。
   *11:幕府に回収。

 高札場(こうさつば)*1 村ノ西ニアリ。
   *1:禁令や法令を板書し、庶民に周知するよう掲示した場所。

 市ノ川 村ノ南堺(みなみさかい)ヲ流ル、川幅(かわはば)三間(さんげん)*1
   *1:1間は約1.8メートル。

 淡洲明神社(あわすみょうじんじゃ) 村ノ産神(うぶすなかみ)*1ナリ、村持(むらもち)。
   *1:守り神、鎮守の神。


 観音堂(かんのんどう)*1 村持。
   *1:観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の像を祀(まつ)っているお堂。

武蔵国郡村誌 太郎丸村 ルビ・注

   太郎丸村(たろうまるむら)【埼玉県比企郡嵐山町太郎丸】

本村古時水房(みずふさ)庄(しょう)*1松山領に属す 風土記に水房枝郷と載(の)す
   *1:荘の俗字 むらざと。

疆域*1
東は中尾水房二村と山林を界とし、西は志賀 杉山二村と耕地を接し、南は広野村飛地字川島と市の川を劃(かぎ)り*2、北は広野伊古二村と畦畔(けいはん)*3を界とす
   *1:境界内の土地。
   *2:はっきりとくぎること。
   *3:あぜ。

幅員*1
東西十一町五十五間南北六町五十三間
   *1:はば。

管轄沿革
天正十八年庚寅(かのえとら)【1590】徳川氏に属し高百石一斗七升二合旗下士*1岡部太郎作の采地(さいち)となり、安永元年壬辰(みずのえたつ)【1772】岡部氏罪あり采邑(さいゆう)*2を没収せられ、代官の支配となり、九年戊戌(つちのえいぬ)【1778】猪子左太夫の采地となる。維新の際武蔵知県事*3に属し、明治二年己巳(つちのとみ)【1869】二月品川県に属し尋(つい)て韮山(にらやま)県に転し、四年辛未(かのとひつじ)【1871】十一月入間県に属し、六年癸酉(みずのととり)【1873】熊谷県の所轄(しょかつ)となる。
   *1:将軍直属の武士。
   *2:領地。
   *3:明治元年に置かれた県の長官。同二年県知事と改称された。

里程*1
熊谷県庁より南方三里
四隣広野村へ十四町二十間 志賀村へ十五町中尾村へ二十町 伊古村へ二十五町 水房村へ十二町 杉山村へ十六町
近傍宿町松山町へ二里小川村へ一里二十五町
   *1:道のり。

地勢*1
東は岡巒(こうらん)*2起伏し雑樹鬱葱(うっそう)*3し、西北は稍平衍(ややへいえん)*4にして市の川南境を環流す。運輸不便薪炭乏しからす。
   *1:土地のありさま。
   *2:おかとやま。
   *3:樹木がしげってあをあをとしているさま。
   *4:たひらかでひろいこと。

地味*1
色赤黒壚(ろ)土*2粘土相混し稲粱(とうりょう)*3に宜しく、桑茶に適せす。水利不便時々水旱(すいかん)*4に苦しむ。
   *1:地質の良し悪し。
   *2:くろつち・あらつち。
   *3:いねとあわ。
   *4:おおみづとひでり。

税地
田  八町二反九畝二歩
畑  十四町八畝七歩
宅地 四反八畝十歩
山林 十六町九畝十八歩
総計 三十八町九反五畝七歩

飛地*1
本村の東方水房村の内 林三畝十二歩
   *1:同じ行政区に属するが、他に飛び離れて存在する土地。

字地
宮前  村の東にあり東西三町五十五間南北二町
三堂山(みどうやま) 宮前の南に連る東西二町五十五間南北二町五間
川端  宮前の南に連る東西二町十間南北三町三十間
居屋敷 宮前の北に連る東西三町五十間南北二町二十五間
内谷(うちやつ)  宮前の東に連る東西二町四十間南北二町十五間
鷂諭 ‘眞の北に連る東西二町四十間南北二町十五間
申山(さるやま)  鷂佑療譴墨△訶貔昌幼十間南北三町五間
表谷  内谷の南に連る東西三町四十間南北三町十間

貢租
地租 米三十四石八斗五升七合
    金二百十六円六十五銭二厘
賦金 金百九十円十三銭七厘
総計 米三十四石八斗五升七合
    金四百六円七十八銭九厘

戸数
本籍 二十三戸平民
寄留*1 一戸平民
社  一戸村社
総計 二十五戸
*1:他郷または他家に一時的に身を寄せて住むこと。

人口
男  六十八口
女  七十九口
総計 百四十七口 外寄留男一人

牛馬
牡馬 十四頭

舟車
荷車 二輛小車

山川
市の川 深処五尺浅処五寸広処五間狹処二間 緩流澄清堤防あり、村の南方志賀村より来り東方水房村に入る。其間十町二十間
賀須川 深処三尺浅処五寸広処四間狹処二間村の西方杉山村より来り市の川に合す。
大橋(おほはし) 村道に属し村の南市の川の中流に架(か)す。長三間五尺巾一間土造

森林
淡洲林 官有に属す東西四間南北四間反別四畝五歩村の東にあり大杉多し

湖沼
麦谷溜池 東西二十一間五尺南北三十一間周回(しゅうかい)*1百六十八間五尺本村東方にあり用水に供す
   *1:まわり。

小谷溜池 東西二十六間南北八間三尺周回六十二尺村の東南にあり用水に供す。                                                                               
下溜池  東西二十二間南北三十間周回百四十三間三尺 本村東方にあり用水に供す。
中溜池  東西六十三間南北十五間周回百五十二間 村の東方にあり用水に供す。
上溜池  東西五十一間南北三十四間周回百五十九間五尺 村の東方にあり用水に供す。
小申山溜池 東西十六間南北十一間四尺周回五十六間五尺 村の東北にあり用水に供す。
申山溜池 東西三十一間南北二十一間四尺周回百三間二尺 村の東北にあり用水に供す。
五十谷溜池 東西十五間三尺南北七間周回四十七間三尺 村の東北にあり用水に供す。

道路
熊谷道 村の西方杉山村界より東方中尾村界に至る長九町四十一間巾九尺

堤塘(ていとう)*1
堤 市の川賀須川に沿ひ村の西方より起り南方に了(おわ)る長四町五十五間馬踏(うまふみ)*2一間堤敷(つつみしき)*3二間四尺修繕費用は民に属す
   *1:つつみ。どて。
   *2:堤防の上端に作る人馬の通路。
   *3:堤防の占める土地。

神社
淡洲(あわす)社 村社(そんしゃ)*1東西十七間南北十八間三尺面積二百四十五坪村の東にあり豊玉姫命(とよたまひめのみこと)*2を祭る。祭日九月十九日社地中杉の老樹あり。
   *1:神社の格で官幣社、郷社につぎ無格社の上に位置した 一九四五年以降廃止された。
   *2彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)の妃。産屋の屋根を葺き終らぬうちに産気づきわにの姿になっているのを天神に見られ恥じ怒って海へ去ったと伝えられる。その時生れたのが鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)である。

役場
事務所 村の中央民家を仮用す

物産
繭  五石
鶏卵 三百二十個
米  五十石
大麦 三十五石
小麦 十石
大豆 一石
生絹 三疋
薪  二百駄

民業
男女農を専とす

神社明細帳 淡洲神社 七郷村(現・嵐山町)太郎丸 ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡七郷村(ななさとむら)大字太郎丸(たろうまる)字午(うま)
 村社(そんしゃ) 淡洲神社(あわすじんじゃ)

一 祭神(さいしん) 速御玉姫命(はやみたまひめのみこと)
一 由緒(ゆいしょ)
 大化(たいか)年中(645-650)本社再建スル所ナルト自来(じらい)*1年月久シキヲ経(へ)ルヲ以テ之レカ修繕(しゅうぜん)ヲ施(ほどこ)スト雖(いえども)元禄ノ頃(げんろく)(1688-1704)社宇(しゃう)*2大(おおい)ニ破損(はそん)ス是(これ)ヲ以テ猶(なお)再建スト云フ棟札(むなふだ)ニ元禄八年(げんろく)(1695)九月吉辰ト記載(きさい)アリ今現ニ存立(そんりつ)スル社宇ハ則(すな)チ之トナリ明治四年中(1871)中村社(そんしゃ)ニ列(れつ)セラル明治三十六年(1903)四月二十五日上地林(あげちりん)百十八坪(つぼ)ヲ境内(けいだい)ニ編入(へんにゅう)許可(きょか)
   *1:それ以来。
   *2:神社の建物。

一 社殿(しゃでん) 本殿 向拝(こうはい)*1付(つき)
   *1:社殿や仏堂の前面にあって、参拝する人や階段を雨からまもるためのもの。階隠(はしかくし)・日隠。

一 境内(けいだい) 三百六十三坪

一 氏子(うじこ) 貮拾参戸(にじゅうさんこ)

一 境内神社
 菅原(すがわら)神社
  祭神(さいじん) 菅原道真(すがわらみちざね)公(こう)*1
  由緒(ゆいしょ) 本社アリ後ニ建立シラル由(よし)只(ただ)ニ口(くち)ニ傳(つた)フ
   *1:平安前期の公卿・学者・文人(845-903)。学問・書・詩文にすぐれ、菅公と称され、後世、天満天神として祭られる。

 稲荷(いなり)神社
  祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)*1
  由緒 不詳(ふしょう)
  社殿 本殿
   *1:伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の子、あるいは速須佐之男命(すさのおのみこと)の子ともいう。「うか」は「うけ」の転で穀物・食物を意味し、「たま」は霊の義。五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神。

 巖島(いつくしま)神社
  祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)*1
  由緒 寛政十年(1798)十一月本村婦女子等ノ建立スル処(ところ)ナリ
  社殿 (本殿)石宮(いしみや)
   *1:天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約(占い)をした際、須佐之男命の剣から生まれた三女神のなかの一神。水の神。

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影
※淡洲神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1405頁)
淡洲神社(太郎丸)

『御家流諸状用文章』に収録された「近江八景」

   唐崎夜雨       からさきのよるのあめ
 瀲灔湖光潮露晴   けんえんここうちょうろはる
 玲瓏山色暮雲横   れいろうたりさんしょくぼうんよこたう
 唐崎一夜摸稜手   からさきいちやもれうのて
 半作松風半雨声   なかばはしょうふうなりなかばはうせい


 夜の雨に 音をゆずりて ゆうかぜを
           よ所に名たつる からさきの松




   矢橋帰帆      やばせのきはん
 釣竿手熟白頭翁   てうかんてじゅくはくとうおう
 辛苦客船西又東   しんくすかくせんにしまたひがし
 幾度風帆帰去後   いくたびふうはんかへりさりてのち
 呂公栄達一盃中   りょこうえいたついっぱいのうち


 真帆引て 矢橋に帰る 船はいま
           打出のはまを あとのおひ風


   堅田落雁      かたたのらくがん
 鴻雁幾行更不弧   こうがんいくばくゆくぞさらにこならず
 晩風帯月落東湖   ばんふうつきをおびてとうこにおつ
 嚢沙背水堅田浦   のうしゃはいすいかたたのうら
 猶見孔明八陣図   なおみるこうめいはちじんのづ


 峯あまた こえて越路に まづ近き
           かたゝになびき 落る雁がね



   勢田夕照      せたのせきしょう
 沙鳥風帆帯夕陽   しゃちようふうはんせきようをおぶ
 夕陽人影與橋長   せきようじんえいはしとともにながし
 勢田曝網東山月   せたにはあみをさらしとうさんにはつき
 一色江天両景光   いっしきこうてんりょうめいのひかり


 露しぐれ 守山遠く 過来つゝ
           夕日のわたる 勢田の長橋




   石山秋月      いしやまのあきのつき
 秋風肅颯一店涯   しうふうせうさつたりいってんがい
 霜満四山不帯霞   しもしさんにみちかすみをおびず
 古木回厳寒月影   こぼくかいげんかんげつのかげ
 吟残葉々夢中花   ぎんじのこすようようむちうのはな


 石山や にほの海てる 月かげは
           あかしも須磨も 外ならなぬとは




   粟津晴嵐      あわづのせいらん
 嵐度粟津春興長   あらしあわづにわたってしゅんけうながし
 吹霞吹雨似相狂   かすみをふきあめをふいてあいくるふににたり
 山花片々一蘆浪   さんくわへんへんたりいちろのなみ
 湖上閑鴎夢也香   こしゃうのかんおうゆめまたかうばし


 雲払う あらしにつれて 百ぶねも
           ちぶねもなみの 粟津にそすむ




   比良暮雪      ひらのぼせつ
 吹入雲兮飛入瀾   ふきてくもにいりとんでなみにいる
 比良嶺雪暮江寒   ひらのれいせつぼこうさむし
 軽舟短棹興何尽   けいしうたんとうきょうなんぞつきん
 無作剡渓一様霞   えんけいいくようのかんをなすことなかれ


 雪はるヽ ひらの高根の 夕くれは
           花のさかりに すくる比かな




   三井晩鐘      みゐのばんしょう
 湖面朦朧画不成   こめんもうろうとしてゑがけどもならず
 昏鯨高響出円城   こんけいたかくひびいてえんじょうをいづ
 霞間好是客船月   かかんよしこれかくせんのつき
 十倍楓橋半夜声   じゅうばいすふうきょうはんやのこえ


 おもふその 暁ちぎる はじめぞと
           まつきく三井の 入相のかね



   →太郎丸八景「志賀八景」

※近江八景については、滋賀県HP「滋賀県の紹介」


※御家流(おいえりゅう):江戸時代に朝廷、幕府などの公用文書に用いられた書道の流派。鎌倉時代、伏見天皇の皇子、青蓮院(しょうれんいん)門主尊円法親王(そんえんほうしんのう)が創始。小野道風(おののとうふう)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の書法に宋風を加えた書体。

嵐山町の桜 御堂山(太郎丸) 2 2010年4月8日

御堂山(嵐山町大字太郎丸字卯)

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比企西国二十五番札所御堂山御詠歌

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篠原(しのはら)を分(わ)けつつゆけば御堂山(みどうやま)
法(のり)をたつきの道(みち)しるべにて

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2010年4月8日撮影

嵐山町の桜 御堂山(太郎丸) 1 2010年4月8日

御堂山(嵐山町大字太郎丸字卯)

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2010年4月8日撮影

嵐山町の桜 淡洲神社(太郎丸) 2010年4月8日


淡洲神社(嵐山町大字太郎丸字午)

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2010年4月8日撮影

1844年(天保15)〜1845年(弘化2)頃の太郎丸村の領主と石高・家数

■猪子岩三郎知行所  100石172  21軒
  (勝田村193石621、菅谷村202石071、葛飾郡遠野村66石3042、同郡吉野村53石0288、葛飾郡西大輪村123石6898)

■■太郎丸村  100石172  21軒

   「武蔵国改革組合村々石高・家数取調書」(『新編埼玉県史資料編14 近世5 付録』、1991年発行)

1884年(明治17)の県令あて開墾願

 太郎丸の田幡丈家に残された文書の中に、1884年(明治17)に埼玉県令吉田清英宛に出した「開墾地願」の控(ひかえ)が残されている。提出者は五名。自分の持つ草生地や林を開墾して、田畑や宅地にかえることの許可願いである。各々の開墾造成地(かいこんぞうせいち)には野取絵図(のとりえず)が付けられている。

 開墾地願に記されている草生地と林、開墾後の土地の一覧
  名前・現地目・ 面積(坪)・ 開墾後の地目・反別・収穫物・量
  田幡載太郎(草生地・52坪・田・55坪・米・1斗5升1合)
       (林・17坪・田・48坪・米・5升)
       ( 林・96坪・宅地・96坪)
       (林・18坪・宅地・18坪)
       (林・36坪・畑・47坪・麦・1斗2升5合)
  田幡亀吉(林・139坪・畑・169坪・麦・4斗5升)
  関口菊次郎(林・86坪・畑・87坪・麦・2斗3升2合)
  大沢太吉(林・32坪・畑・32坪・麦・8升5合)
  田幡熊次郎(林・47坪・畑・47坪・麦・9升4合)
(なお、田幡亀吉の場合のように開墾造成地の面積が増えているものは、造成時に面積を増やしたものである。)

 1884年(明治17)の時代状況

 太郎丸の人たちが県に開墾願いを出した1884年(明治17)はどんな時代だったのか。1881年(明治14)から始まる大蔵卿松方正義のインフレ抑制策によって、日本全体がデフレになり、埼玉県内でも民衆の生活は困窮(こんきゅう)を極めていた。1884年(明治17)には、秩父の山間の人たちが生活の苦しさのなかで武装蜂起(ぶそうほうき)する秩父事件が起こった。翌85年には埼玉県会議長加藤政之助が、県内民衆の窮乏状況(きゅうぼうじょうきょう)を視察している。彼の『埼玉県惨状視察報告』によると、「比企、横見両郡の人民世間不景気に沈み且物価の下落せるために其収入を減じて諸懸(しょかかり)の諸税負担に堪(た)へざるが為めか近年来非常に各自負担を増加し其高頃日驚くべきの巨額に登りたる」と述べ、比企郡の人民の負債額121万1843円・毎戸平均106円84銭5厘と述べ、比企・横見の両郡を「最も惨状を極めたる土地」の一つにあげている。太郎丸村も厳しい状況にあったはずである。

 開墾による変化

 太郎丸村の開墾願には、開墾地は「耕作便宜(べんぎ)」「商法便宜の場」で、「格別の立木も無く、人夫等の労賃も無く開墾」出来る地であると記されている。その開墾願をみると、草生地と林の地価が、開墾によって地目が田、畑、宅地に変わることによって大きく変わってくることがわかる。たとえば、田幡載太郎の草生地の地価はわずかに8銭7厘であるが、開墾によって造成された田の地価は6円93銭1厘、実に約80倍に跳ね上がり、収穫される米は1斗5升1合になる。関口菊次郎の場合は、林の地価が43銭、開墾による畑の地価が3円55銭であるから8.3倍に、麦の収穫2斗3升2合なっている。五人の持っている草生地と林の地価を合計してみると2円38銭2厘であるが、開墾によって造成された田、畑、宅地の地価の合計は34円28銭6厘、実に17倍になっている。太郎丸ではわずかな土地の開墾でも、不況の中で生活を守る打開策として行われたと思われる。しかし地価が上がると、地租(ちそ:土地に課される税金)も合計五銭九厘だったものが84銭6厘、14.3倍になってくる。

   開墾地の野取絵図の例(田幡載太郎の草生地)

   太郎丸村の開墾地(五人の開墾地を図面に示す)

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