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菅谷

庶民の楽しみ相撲(角力)

IMG_9459rweb 相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸の三大娯楽の一つであった。相撲の歴史は古い。吉田の小林武良家に伝わる嘉永元年(1848)に書かれた「角力軍配記」によれば、神代天照大神天の岩戸隠れの時、岩戸の前でたじから王の尊(天手力男命)他三柱の神が力争いをしたところ大神感応ましまされ岩戸を開かれた、と云う故事をもって「是則天下泰平国家安全五穀成就の祭り事の第一、神代角力の初まり是なるべし」としている。奈良平安の頃は「相撲の節会」といって毎年七月諸国から宮中に力士を集め天覧相撲がおこなわれていた。武家時代に入っても頼朝・信長・秀吉達も相撲を武術として奨励し、家来の力自慢を戦わせて楽しんでいた。江戸時代にはいると相撲人気は高くなり、庶民の間にも相撲興行が行われる様になった。幕府は質素を旨とする政策からこれ等の娯楽を牽制し、神社仏閣の建立や修復を名目に有料の勧進相撲の興行を許すこととなった。深川富岡八幡・芝神明社・浅草大護院・両国回向院等の境内で、晴天十日春秋二度興行が行われ、相撲取りは「一年を二十日で暮す良い男」といわれるほどの人気であった。こうした賑わいも三都(江戸・大坂・京都)のことで地方における相撲の記録は少ない。
 ただ、ここに菅谷の関根家に残された一通の手紙*1がある。江戸の綱錠鉄五郎(あみじょうてつごろう)から須ケ谷宿(今の嵐山町菅谷)の御所嶋源七(ごしょじまげんしち)に宛てたものである。御所嶋源七は菅谷東昌寺に軍配の彫られた墓石*2の人物で、享年は不明であるが天保2年(1831)死去した関根源七である。それにしても「御所嶋」の名に疑問が残る。御所嶋の名は江戸の相撲界に散見される。特に文政年間の大相撲星取表に文政6年(1823)から12年(1829)まで二段目として御所嶋の名が見える。この四股名(しこな)の人物が源七であればおもしろい。墓石の軍配とも符合する気がする。
 この手紙は何時出されたものか。文中に「正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様死去」とあり、赤羽根はいまの港区三田赤羽で、ここに久留米藩の江戸藩邸があり、相撲好きの殿様第八代有馬頼貴(よりたか)が文化九年(1812)にここで亡くなっている。即ち文化9年(1812)の手紙である。内容は殿様の死去によりお抱えの力士に暇が出された。(当時の角界は力士が大名家に抱えられ、場所に出て活躍し家名をあげた。)暇を出された力士は他の大名家に召抱えられたが、山脚(やまあし)と云う力士は抱え先もなく国元へ帰りたいが費用もなく困窮しているので、御所嶋のお世話になり華角力興行を催し、路銀を都合してもらいという依頼状である。尚、「大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候」とあり、大場所は回向院の春場所のことで四月に延期になった事を知らせて来ている。当時の江戸の相撲界のことも分り、思うに世話人御所嶋源七は山脚のために華角力(花相撲、本場所以外に地方で臨時に興行する相撲)興行を催したであろう。
 江戸から菅谷の関根源七へ手紙が届いた文化9年(1812)に源七はすでに御所嶋の四股名を持っており地元で相撲興行が可能な顔役であったこと、江戸で星取表に御所嶋の四股名が見られるのは手紙到着後の文政6年(1823)から12年(1829)であることを考えると、菅谷の御所嶋と江戸の御所嶋とはどうやら同一人物ではなさそうである。

 明治にはいっても、4年(1871)未だに「五人組帳」(村民の守るべき諸法則が箇条書され、村民全員の証印がなされている帳簿)を新政府に提出している。その前書に「狂言 操 相撲之類堅く仕間敷」と、若し仔細あれば訴え所へ申し出て御下知を得なさい、ということで庶民の楽しみ相撲は厳しく禁じられていた。ところが明治13年(1880)になると広野の森田角蔵が相撲興行願を戸長に提出した。それによると東京本所の相撲年寄玉垣額之助(15代玉垣額之助 嘉永3年生、明治38年没幕下まですすむが病気で廃業年寄となる、日清戦争では同志50人を率いて慰問興行を行う)外20名を雇い隣地(=森田千代吉の所有地)を借り受け、8月25・26日の両日雨天順延、大人2銭・小人1銭の木戸銭で催された。当日お客さんは二日間で大人607人、小人328人と大盛況であった(相撲興行が行われた場所は川島にある鬼鎮神社西裏であったと思われる)。ついで同年(1880)10月玉垣額之助が願人となって大関鶴ケ濱・菊ケ濱外26人の力士を引き連れ大蔵あたりで興行したのだろう、手書きながら立派な番付表*3が残されている。番付表によれば行司は木村藤次郎、呼出し末吉と名を連ね、なかには都幾石とか吉見山、荒船など地元出身と思われる四股名も見られ、本場所さながらの興行の内にも地方色もみられ、大いに観客を楽しませた事であろう。
 下って明治21年(1888)9月勝田村の利根川惣吉が勧進元となって、19日東京角力興行が行われ、翌年(1889)3月には田口百太が勧進元で若者達が世話人となり、能増村(のうます、旧・八和田村、現・小川町)で15・16日東京角力興行が行われる旨、木版刷りの広告が配られた。このようにして庶民の楽しみとしての相撲が定着していった。

*1:綱錠鉄五郎から御所嶋源七への手紙
 須ケ谷宿
   御所嶋源七
      人々御中
           従江戸
             綱錠鉄五郎 
以手紙致啓上候
向暑之砌(みぎり)弥(いよいよ)御安全珍重之御義ニ奉存候然者先達ハ御世話ニ預リ千万忝(かたじけなく)奉存候其砌御礼御状差上度候共種々取逃シ御座候間大キニ延引仕候
然処正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様御死去被遊候御抱角力衆中御暇ニ相成残江戸ケ崎楊羽大岬御抱ニ御座候
随而山脚事当時甚タ難儀仕在罷候国元へ登リ度候共物入多ク御座候故何分国元へ罷登候節貴公様御世話ニ而華角力興行仕度候間何分宜御世話被下候様奉頼上候
御屋敷様より御暇ニ相成候角力衆中者出羽安波西尾津軽様此御屋敷へ御抱ニ相成候且又大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候
其御地福田村善吉と申者東関方へ参り度由申候間私同道ニて先親方様罷(まかり)居候間乍憚(はばかりながら)御安心可被下候末筆乍半兵衛様紺屋様磯五郎様牧馬様文七様八五郎様尚又貴公様より皆々様へ宜敷御伝言可被下候
右御礼申上度如斯ニ御座候   以上
  三月廿二日
             綱錠鉄五郎
   御所嶋源七様
尚々御家内様へもよろしく御伝可被下候末筆乍六間【菅谷に隣接する現・滑川町六軒?】之大様友様へも宜敷く乍憚御伝言可被下候ひとへに奉頼上候以上

※この手紙を紹介した『埼玉新聞』の記事 1989年(平成1)9月28日
  江戸の草相撲知る古文書
   嵐山町 軍配の墓石きっかけに
        地方の相撲なまなましく
 軍配を彫り込んだ墓石の発見をきっかけに、江戸時代の草相撲を知る手掛かりとなる古文書がこのほど比企郡嵐山町で見つかり、東京に住む古書店員によって解読された。相撲に関する文献は江戸や大坂などのひのき舞台のものは多いが、それを支えた地方の状況を記した資料は貴重−と関係者は言っている。
 軍配を彫り込んだ墓石があったのは嵐山町の東昌寺。同町に住み、東松山演劇鑑賞会で活躍する柴崎富生さん(52)は戊辰(ぼしん)戦争当時新撰組、新徴組で活躍した甲源一刀流の剣士について調べていたが、今から七年前、歴史を知る重要な手掛かりとなる墓石の墓碑文を訪ね歩いていた時、軍配の墓石が目にとまった。墓の主は「通山良逢居士(俗名・関根源七)」(天保二年死去)。この墓石に興味を覚えた柴崎さんは、刻まれた碑文から子孫で同町に住む関根昌昭さん宅を訪ねたところ、一通の古文書を手渡されたという。
 古文書は縦十五センチ、長さ百四十センチほどの大きさで、九州久留米藩の相撲を取り仕切る綱錠鉄五郎から比企郡の草相撲の世話人御所嶋(関根)源七に送られたものだった。
 柴崎さんは、古文書の解読を東京杉並区に住む知り合いの古川三樹松さん(88)に依頼した。古川さんは「図説 庶民芸能―江戸の見世物」「江戸時代大相撲」の著書があり、当時の相撲に詳しい。明治四十三年の大逆事件で非業の死を遂げ、作家水上勉氏の著書「古川力作の生涯」に描かれた力作の末弟に当たる人。柴崎さんは古川さんに解読を依頼していたことをすっかり忘れていたが、古川さんは今年になって古文書を研究している東京大田区の古書店店員高橋徹さん(31)に「勉強の資料に」と預けた。
 高橋さんは資料を読み、歴史を研究するのが趣味だが、相撲にはまったくの門外漢。古文書の解釈そのものは古文書仲間に手伝ってもらいすぐ終わったが、時代背景や当時の比企郡や相撲の状況を分析するのに手間取った、という。研究しているうちに、内容のおもしろさに引き込まれた高橋さんは、受講している古文書講座の記念文集に加えることにし、八月柴崎さんに解読の成果を送ってきた。
 高橋さんの解説によると、この文書は文化九年(一八一二年)三月二十二日に綱錠鉄五郎から御所嶋源七にあてたもので、世話になった礼が述べられた後、同年一月に主君の久留米藩第八代藩主有馬頼貴が六十八歳で亡くなったのを機に、お抱え力士の多くが解雇されたり、他藩にスカウトされたことが書かれている。さらに山脚早助という力士にもヒマを取らせたいのだが、出身地まで帰るのに費用が掛かるため、ついては引退相撲を興行してもらえないか、と頼んでいるほか、比企郡出身の預かった力士は心配ないから世話人にもよろしく伝えてほしい―などとの内容になっている。
 高橋さんは「この文書を初めて読んだ時、無名力士の悲哀が行間からひしひしと伝わり、身につまされた」と語っている。
 この文書のことをすっかり忘れていた柴崎さんは、高橋さんの研究成果を目にし、思わぬ発見をしたという。柴崎家には、先祖に半兵衛という大男で草相撲の強い力士がいたとの言い伝えがあるが、この文書で鉄五郎に名指しされた世話人の一人に「半兵衛」の名が記されていた。どうやらこの半兵衛が言い伝えの半兵衛らしいということが分かった。
 柴崎さんは、「相撲と芝居の違いはあるものの、今も百八十年前の昔も興業は似たところがあり、身近なものに感じた」と感慨深げに語っていた。

*2:関根源七の墓石(嵐山町菅谷・東昌寺)
*3:1880年10月の番付表(大蔵・大沢知助家文書664)

   * 関根昌昭家文書 書簡
   * 小林武良家文書153 角力軍配記
   * 藤野治彦家文書174 五人組帳前書写
   * 広野区有文書216 相撲興行願
   * 大沢知助家文書664 相撲番付表
   * 田島栄定家文書16 舌代
   *   々    110 舌代
   * 他 日本人名大事典・大相撲星取表・フリー百科事典
       江戸の相撲・幕末期の角界・江戸時代館
   * 東昌寺 関根源七墓石

「三峰紀行草」(1808)にみる菅谷近傍

 「三峰紀行草」は旗本三枝(さえぐさ)家の家臣松岡本固が主君の代参として江戸より三峯神社へ旅をした折の旅日記(紀行文)である。
 先ず何故に松岡本固は主命を奉じて三峯神社に代参したのか。文化文政期頃「三峯講」というものが関東一円に盛行していた。三峯講というのは山犬信仰ともいわれ、「社記」によれば享保12年(1727)9月の夜、日光法印と云う方が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼の群がやってきて境内に満ちた。法印はこれを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬(狼)の神札を与えたところ霊験があった。この山犬が神の御眷属であり、その護符によって農作物を守り盗賊や災難から身を守ろうと「講」が組まれ、代表が護符を受けるために三峯神社詣が流行した。
 旗本三枝家でも紀行文に述べられている様に「封邸(知行屋敷)都(すべ)て災異のこと無らん為」或は「本支(本家・分家)の榮福臣庶(家来・百姓)の安全を祈り給ふ」の故をもって幣をささげ、護符を受ける事を毎年の業としていた。即ち御眷属信仰の「三峯講」の代参として本固が派遣されたのである。

 この旅は松岡本固(まつおかもとこ)が従者(官二)(かんじ)を伴って、文化5年(1808)3月16日に江戸を発って3月24日帰着した9日間の旅の記録である。先ずどの様な行程であったか追って見よう。

 16日 三枝邸(市ケ谷加賀町)―曹子ケ谷(雑司ケ谷)―池袋―金井ケ窪―前野―中窪―下板橋―錬馬(練馬)―河越(川越)方面―白子―野火止(平林寺)―膝折・大和田―大井(大和侯領内)−石原―川越(城)泊

 17日 川越(笠山遠望)−/入間川/―平塚―塚越―石井―島田の渡し<越辺川>―三戸―日彩原(にっさいかはら)(入西)・餅搗原―比企の岩殿観音(秩父第十千手観音)―郷土(ごうど)(神戸)―可楽(からく)(唐子)―菅谷(すがや)―小川 泊

 18日 小川―腰越―帯澤―小草(おぐさ)―坂本―三沢(官地)|粥煮嶺(かゆにとうげ)|―栃谷(とちや)(妙音寺・秩父第一番の観音寺)−大原野(三沢から此処まで阿部忍侯の封)−右第23・左第21番の観音寺―大宮(秩父)―第13自現寺  井上茂十郎の館 泊

 19日 大宮(武甲遠望)−禅刹金仙寺―影森―平沢―久奈(久那)−第27観音―上田野―/荒川/―三峯方面―小野原(牧野大和守の封)―日向(ひなた)(官地)ー酒店の前石表あり(三峯へ至る迄三里)/贄(にえ)川/―猪ノ鼻(阿部侯の村)ー大瀧(官地)ー強石(こわいし)―太田原(官地)ー禅刹円通寺―大和多(おおわた)―三峯山頂上―二王門(是より女人を禁ず)―院 泊

 20日 三峯・本院―/贄川/―日向村―上田野村第28馬頭観音―洞天(ほろあな)ー観音(第幾番なるかを失す)ー大宮 泊

 21日 大宮の館―第15番の寺―妙見の堂(木表に不許汚穢之者と)―第11番の寺(十聖人の像あり)ー三戸村・坂氷(さかこおり)−第10刹―柳生(阿部侯の封)―芦ガ窪(官地)―店(子の権現の程(みちのり)を問う 三里半と)―禅寺茂林寺―庄丸(官地)ー南川―│権現山│―華表(神社の門・鳥居)(扁に左文山・大鱗山とあり)ー中澤(官地)ー中藤(なかとう)(田安卿の封)―原市場―石倉(いしくら)―直(なお)竹(たけ)―店(青梅の程(みちのり)を問う 二里余と)―郡足(ぐんたり)―中里・黒澤―青梅、三枝氏の門 泊

 22日 <三枝家に逗留> 勝沼―青梅―青梅山金剛寺―/玉川/―桃花村―大井―三枝家 泊 

 23日 青梅―下長�隅(しもながぶち)―雨間(あまま)―吉兆(きっかけ)・宮ノ下―赤坂―狗目(いぬめ)―│高尾山遠望│―/和田川/―四家(よつや)―旧八王子邑―八町乃原―横山原<駅―駒来関―橋頭二幡建つ是より高尾山内―七曲―宮―久野来(くのぎ)―八王子千人坊(まち)―八王子駅  泊

 24日 八王子―横山―/和田川/―和田村―新田―日野―/玉川/―柴崎村・立川―藪―本村―府中(六所宮)−金井―井之頭(明静山大盛寺)―高�羔(だかいど)―邸

以上のようであった。

 この頃「三峯講」はこの地方でも伊勢講や大山講と並んで行われていたようで、御眷属(山犬)信仰の護符が残されている。恐らく前掲18日19日の小川から三峯往復の行程で参詣又は代参が行われていたと思われる。以下17日・18日の両日川越から大宮(秩父)までの旅の中で見聞したこと、人情、民の生活等について見てみょう。
 16日江戸を発って最初の宿は石原宿にとった。石原は川越の外れであるが、川越について次の様に語っている。国主<松平大和守>の組屋敷が七八町(770〜880m)つづき、城下町には家が千戸以上もあり、裕福な家は江戸に比べても多かつた。城は慶長の昔北條氏の要塞であったもので、名城と呼ばれているものであると。
 17日川越出発に当って遠くの山々を眺めると、一際目立つ山が見られたので、村人に聞くと、俗に笠山と言い余り高い山ではないが、いくつもの国から見ることの出来る山だと云うことだった。今、菅谷の地からも笠山が遠望できる。やがて島田の渡しを渡るのであるが、これは越辺川にあった渡し舟であろう。いまは立派は木橋が架けられ、「島田橋」と云う埼玉の名物橋となっているが、古来重要な交通路であったのだろう。渡しを越えると、海かとみちがえるほど広漠とした畑の道をすすんだ。土地の農婦がいうには、余り広々としているので、自分の畑を間違えてしまうほどだと。しかも日照りの強い日は一本の木もないので木陰もなく、弁当を食べたり休むところもなく苦しむと。筆者も農民の苦しみの中でも苦しいことだろうと同情している。
 やがて比企の岩殿に至る。「是所謂秩父第十千手観音即鎌倉の時の比企判官の護身仏とする者也」と記しているが、ここ岩殿山正法寺は坂東第十番の札所で「秩父」では無い。千手観音が比企判官能員の護身仏であったろう事は頷ける。門前左右に三四十戸ほどの村があり、石の階段を百段余り上って平地になり、又三四十段上って寺の庭となる。堂迂は扁平で賞賛すべきものもないが、ただお堂の後は十余丈(30m余)の切り立った嶮しい断崖で、草木も生えないような山を斬崩してお堂を建てたのであろう。里人が云うには近年八年ぐらいの事で山の上にはうつつの冥府(地獄)ありと。「浮屠(ふと)氏の誣(ぶ)なり見ることを欲せず」即ち僧侶が事実をいつわり人をあざむき、地獄があるなどと言っているので私は見たくないと、空海上人の御影だけを買って去った。近くの店に入ったが、雨激しき中人多く集まるのを不思議に思い、どうした事かを問えば「月の十八日は秩父霊場の開建の日故にこの日を開帳として村の老若僧を請じ回向す」と、「また芝居を買う、今日戯場なしといえどもその回向の為なり」と。岩殿観音は十八日が御開帳で、必ず回向(えこう)のために芝居がかかったと云う。
 岩殿観音をくだってまた山に入り、棘の道を進み郷土(ごうど)(神戸だろう)を過ぎて小流を渡ると可楽(からく)(唐子か)に出た。ここは松ノ木が多く、切り倒し適当な長さに約めて積み上げてあった。薪材だろう。ここは現東松山分だが一帯松樹多く薪として江戸に送り生業としていたと聞く。ここを過ぎて山、林、原、丘をこえて二里(8km)ばかりで菅谷に至る。その間左に常に川(都幾川だろう)が見え、その岸に茆屋(茅屋=かやぶきのあばら家)が点在し、必ず上流を背にした一人用の小屋であった。不思議に思って民家に寄り尋ねると、「これは楮(こうぞ)を晒す所だ」と乾瓢のようなその皮を示して「外側は麁紙(粗末な紙)にし、内側は上品(上等な紙)とする」と。そこでその製法を聞くと「日に晒し、流れにあらい、囲炉裏火にくさらかし、のちこれを搗く」と教えてくれた。紙漉はこの地方から小川にかけての伝統的な産業であった。一里ばかり歩くと小川宿に入った。小川宿は戸数八百戸もある当時としてはかなり大きな宿場である、「富める者多し」と記しているので、豊かな町と感じたのだろう。この地はもと素麺の生産において有名だったが、今は多くを製せず、かえって近村より出していると言っているが、現今この地方が素麺の産地というようなことは聞かない。その晩は小川に泊った。
 翌18日曇り空ながら意気盛んに出発した。右を山左を川の流れを見て進む。恐らく川は槻川であり、山は官ノ倉山であろう。まもなく道の左に碑を見付ける。「背に銘有村学村木春延なる者、洪水の為に道を修の事を自誌也」と、即ち田舎の学者である村木春延が洪水で失った村の道を修復したと云う事跡を自記したものであった。ただ文章は簡潔であるが称讃するようなものではなく、しかも末尾に地名を記さず、「当所」としたのは卑俗だと酷評しているが、「然れども避邑(かたいなか)此人ある亦懐(おもう)へし」村木春延を忘れてはならないと諭しているが、今はどうなっているのだろうか。
 道は槻川の本支流に沿い腰越―帯澤―小草―坂本と進んだが、途中何度も川を渡らねばならず、その度に話題をうんだ。この辺りに架かっていた橋は多く土橋(圯はし)で増水のためか落ちて、修理されていない状態だった。最初にめぐりあった川は「広さ七八丈瀰漫深浅をしらず」即ち川幅21mから24mでひろびろとみなぎり深いも浅いも分らなかった。困っていると子供たちが渡って行くのが見えて、これに従い渡ることが出来た。次にまた川に出逢い、土橋もまた落ちていた。前の川の上流だが流れが激しく、向う岸で洗濯をしている村の婦人を見つけ、渡しのことを聞いたが声届かず。逡巡して困っていると、向うから一人の裸の男が渡って来て私を背負って渡してくれた。「地獄に仏を拝する者是か」と大いに喜び、感謝した。また土橋の落ちた川に逢う、粗末な一軒の家に行きつき、川渡りの方法を問う。「従者(官二)が先ず試しに渡り次いで私を背負って渡ってはどうか」と。ある人が云うには「背負って渡るのはだめだ。一つ間違えば二人とも失敗する。相携えて渡るにしかず」と。「これは兵法にいう魚貫(ぎょかん)(魚を串に刺したように連ねるさま)して渡るの理である」と、大いに悟りこれに従って渡ることが出来た。当時旅人にとって橋の無い川は旅の大きな障害となったことだろうが、山間の人々の情や知恵に助けられた。坂本宿を過ぎ三沢に着いた。
 茅葺の貧しい一軒の茶店あり。腹が減ってきたのでここに入り飯を注文したが、みすぼらしい衣を着た百歳にもなろうかと思われる爺が出てきて、飯は無いという。飯の出来るあいだ爺が語って聞かせてくれた話。ここの山上り下り三里を粥煮嶺と云う。鎌倉のころ、ここに角王と云う鬼がいて人を取って食らうということがあった。庄司重忠(畠山)がこれを討伐しようと願いい出て、「右府も亦卒を発す」とあるが、右府は右大臣のことで織田信長を指すことが多い。源頼朝が右近衛大将だったのでそれと錯覚したのだろう。とにかく重忠は頼朝の応援をえてこの山に陣を布いたが、山に布陣する時は兵を損ねる、即ち病にかかること多いのに配慮して、粥を煮て糧としたという。粥煮嶺の名ここに起こる。竈の跡山の乾(北西の方角)にあり。角王は生け捕られ蔦(つた)で松の木につながれ、いよいよ切り殺される時に臨み、「俺はこんな仕打ちを受ける覚えはない、松と蔦の二物は誓ってこの山に生やさぬぞ」と云って死んだ。従ってこの山には松と蔦のあることは少ないと、たしかに松蔦はなかったと云う。粥煮嶺は今粥新田(がゆにだ)峠と呼ばれている所だろう。
 峠を下ると栃谷である。秩父第一番の観音の寺、妙音寺(四万部寺の別当寺)があった。寺域は狭かったが二王門があり堂宇も、そこに掲げられた篆書の扁額も世間並みであった。坂道の途中に車井戸の櫓を見る。上から見ればこれは普通の井戸だが、下から見れば流れを天に汲むものである。「何人の子貢(しこう)がこの機(からくり)を作(なす)」と、子貢は孔門の十哲といわれた賢者である。そんな賢い人が何人よってこの仕掛け作ったのだろう。水に乏しい山村で力を省くこの仕掛けは驚くべきことであると感嘆している。
 山を越え川を渡り百戸ばかりの集落大野原宿を過ぎて荒川の下流を渡ると二流の幡が立てられていた。右は秩父第23番音楽寺、左は第21番観音寺である。しばらくしてここを去り五六町(500〜600m)にして大宮に着いた。大宮は今日の秩父市であろう。戸数四百戸ばかりの宿場で裕福な家が多かったが、そのなかでいつも奉仕者の定宿となっている井上茂十郎という者の館に泊まった。
 以上菅谷近傍の様子を探ろうとしたが、結局川越から菅谷を通り秩父(大宮郷)に至る間、松岡本固が見聞したことを見てあるくことになってしまった。今から約二百年以前(文化5年1808)からこの地方の人々はこの道を歩き、み聞きしてきていたのだろう。そのように思ったのでやや冗漫になったが、昔を偲んでここに書き記した。

※埼玉県立浦和図書館蔵「三峯紀行草」松岡本固著。埼玉県立図書館デジタルライブラリー 

新編武蔵風土記稿 菅谷村(現・嵐山町) ルビ・注

  菅谷村(すがやむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷)
菅谷村ハ江戸ヨリ十五里*1、郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)ヘヲ伝ヘズ。古ハ須賀谷ト書キシヲ仮借(かしゃく)シテ今ハカク記セリ。『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』*2ニ長享(ちょうきょう)年間(1487-1489)、須賀谷之地平沢山ト云フコトミエタリ。其文ノ大略ハ古城蹟(こじょうあと)ノ条ニ出セリ。平沢ハ隣村ナレバ当村ヲ指セシコト明ナリ。下リテ正保(しょうほう)(1644-1648)ノ頃マデモ須賀谷ト書キシガ、元祿(げんろく)ノ図*3ニハ菅谷ト書シタレバ、改リシハ元祿前ノコトナルベシ。戸数四十。江戸ヨリ秩父郡、或ハ中山道へ出ル脇往還(わきおうかん)ニシテ人馬継立(つぎたて)ヲナセリ。東ハ月輪(つきのわ)村ニ接シ、巽(たつみ)*4ノ方ハ上唐子(かみからこ)村ニテ、南ハ都幾川(ときがわ)ヲ隔(へだ)テ大蔵(おおくら)村ニ隣リ、西ハ平沢・志賀ノ二村ニテ北ハ杉山・太郎丸ノ二村ナリ。東西八町南北九町。此モ天水ヲ待テ耕セリ。御入国(ごにゅうこく)*5ノ後ハ岡部太郎作(おかべたろうさく)*6ノ知行所(ちぎょうしょ)ニシテ、寛文五年(1665)時ノ地頭(じとう)撿地(けんち)セリ。其後子孫徳五郎*7ノ時、上地(あげち)*8セラレシヨリ御料所トナリ、安永九年(1780)猪子左太夫(いのこさだゆう)*9ニ賜リ子孫栄太郎知行セリ。
  *1:1里は約3.927キロメートル。
  *2:室町時代の漢詩文集。著者は万里集九(ばんりしゅうく)。
  *3:「新編武蔵風土記稿」の比企郡巻1にある郡図の「元禄年中改定図」のこと。
  *4:南東。
  *5:徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
  *6:旗本。岡部家二代目の岡部玄蕃(げんば)のこと。初代岡部主水(もんど)の母は家康の命で秀忠(ひでただ)の乳母(うば)を勤め、主水は家康から2千石を与えられる。玄蕃は秀忠に小姓組(こしょうぐみ)で仕えた。
  *7:岡部家8代目。「新編武蔵風土記稿」の勝田村の項には「罪アリテ没収セラレ御料所トナリ」と記されている。
  *8:没収。
  *9:旗本。

高札場*1 北ノ方ニアリ。
  *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 元宿(もとじゅく) 昔宿並(しゅくなみ)ヲナセシ所ナリ。
都幾川 南方ヲ流ル。川幅二百間(けん)*1
  *1:1間は約1.8メートル。およそ360メートル。

山王社(さんのうしゃ)*1村ノ鎮守ナリ。村持下同ジ。
稲荷社(いなりしゃ)*2
天神社(てんじんしゃ)*3
  *1:1907年(明治40)に菅谷神社と改称した。
  *2:五穀豊穣(ごこくほうじょう)をもたらす神を祭った。
  *3:学問の神として菅原道真(すがわらみちざね)を祭った。

東昌寺(とうしょうじ) 当時元ハ長慶寺(ちょうけいじ)ト云フ。古城ノ鬼門(きもん)*1ニアリ、其頃ノ開山(かいさん)*2ヲ伝ヘズ。後寛文(1661−1673)ノ始能国芸大ト云フ僧、村民孫右衛門トイヘルモノト謀(はか)リテ今ノ地ニ引移シ、長慶山東昌寺ト改メ、曹洞宗遠山寺(えんざんじ)ノ末トナリ、再興ノ功ハ則チ本山二世幻室伊芳ニユヅリ、コレヲ勧請(かんじょう)開山トナセリ。サレバ能国芸大ハ寛文八年(1668)十二月十六日ノ示寂(じじゃく)*3ナレドモ、開山ノ僧伊芳ハ天文五年*4(1536)二月朔日(さくじつ)*5ノ示寂ナリ。本尊弥陀(みだ)*6ヲ安ス*7。
観王堂*7 千手観音(せんじゅかんのん)ナリ、村持。
  *1:陰陽道で、鬼が出入りする門とされ忌み嫌われた北東の方角。災いを避けるために鬼門の方角に神仏を祭った。
  *2:寺を開いた僧侶。
  *3:高僧の死のこと。
  *4:「天文五年」は、雄山閣版「新編武蔵風土記稿」では「天文十五年」(1546)。
  *5:陰暦(いんれき)で月の第1日。ついたち。
  *6:阿弥陀(あみだ)の略。
  *7:安置。
  *8:雄山閣版「新編武蔵風土記稿」では観音堂である。


菅谷村

古城蹟 凡(およそ)三丁*1四方ノ地ニシテ南ノ一方ハ都幾川ヲモテ要害(ようがい)トシ、其余ノ三方ハ穴堀アリテ所々ニ堤(つつみ)ノ形残レリ。其内ハ総テ陸田トナリタレド、今モ本丸・二ノ丸・三ノ丸等ノ名アリ。『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』ニ云フ、長享(ちょうきょう)戊申(つちのえさる)(1488)八月十七日入須賀谷之北平沢山間太田源六資康(おおたげんろくすけやす)*2之軍営(ぐんえい)ト。此辺ニ平沢村アレバ須賀谷ハコヽノコトナルべケレバ、此頃ハ太田氏ノ陣営ナリシコト知ラル。又『東路土産』*3ニ鉢形ヲ立テ須賀谷ト云フ所ニ、小泉掃部助(こいずみかもんすけ)*4ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)云云(うんぬん)トアリ、今モ当所ヨリ上州(じょうしゅう)ニ至ルニ小川・鉢形ト人馬ヲ次デ順路ナレバ、此書ニ載(のせ)セタル小泉ガ宿所モ当所ノコトナルベシ。又ココヲ畠山重忠居城ノ地トモ云ヒ、後岩松遠江守義純(いわまつとおとうみのかみよしずみ)*5一旦畠山ガ名籍(めいせき)*6ヲ続イテ爰(ここ)ニ住セシナドイヘリ。サレド重忠晩年当所ニ移リシコトシラル。『東鑑(あずまかがみ)』*7元久(げんきゅう)二年(1205)六月二十二日ノ条ニ、重忠十九日小衾郡*8菅谷ヲ出テ云云トアレバ、全クコノ地ノコトナルベシ*9。郡名ハタマタマ訛(なま)リ書セシニヤ。男衾郡畠山村古城蹟ノ条ト参考スベシ。
  *1:距離の単位町(ちょう)のこと。1町は約109メートル。
  *2:扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家老太田道灌(どうかん)の息子。道灌は扇谷上杉氏の下で江戸城や河越城(かわごえじょう)の築城も担当。父道灌が扇谷上杉の実権を握っていることから主君の上杉定正に殺害されたため、太田一族は山内上杉家のもとに走ったといわれている。
  *3:「東路津登(あずまじのつと)」のこと。
  *4:後北条氏の家臣で、当時菅谷城の城代(じょうだい)。
  *5:源氏から分かれた新田氏二代目の新田義兼の娘が、同じく源氏から分かれた足利氏の義純を婿(むこ)に迎え、その間に時兼(ときかね)が生まれた。義純は足利姓で、息子の時兼から岩松姓を名乗るようになった。上野国(こうずけのくに)新田荘岩松郷(群馬県新田郡旧尾島町)に住み地頭職を務めた。後に明治になったとき子孫の俊純(としずみ)は男爵(だんしゃく)になり、新田氏を称した。なお新田義兼の弟新田義季(よしすえ)は後に名を変え、徳川氏の始祖(しそ)とされる徳川義季となる。
  *6:名簿。ここでは「名跡」(みょうせき)の意か。
  *7:「吾妻鏡(あづまかがみ)」。鎌倉幕府編纂(へんさん)の歴史書。1180年の源頼政の挙兵(きょへい)から、第6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任(かいにん)されて1266年に京都に帰るまでを記述(きじゅつ)。
  *8:男衾(おぶすま)郡。
  *9:雄山閣版では、「ことにして」。
  

武蔵国郡村誌 菅谷村(現・嵐山町) ルビ・注

   ○菅谷村(すがやむら)【埼玉県比企郡嵐山町菅谷】

 本村古時郷庄領の唱(となえ)を伝へす。元と須加谷(すかや)と書せしか寛文(かんぶん)の頃(1661-1679)分割して菅谷志賀の二村となす


疆域(きょういき)*1
東は月の輪、上唐子(かみからこ)の二村、西は千手堂(せんじゅどう)、平沢の二村と耕地を接し、南は都幾(とき)川を隔(へだ)てて大蔵、鎌形の二村と相対し、北は志賀村と山林を接す

   *1:境界内の土地。

幅員(ふくいん)*1
東西十町二十五間南北十四町二十七間

   *1:ひろさ。はば。

管轄沿革(かんかつえんかく)
天正十八年庚寅(かのえとら)(1590)徳川氏の有に帰し旗下士(きかし)*1岡部太郎作の采地(さいち)*2となり田に高六百三十二石四斗六升岡部太郎作知行須加谷村とのす【戴す】寛文(かんぶん)の頃(1661-1673)村高を割(さ)き志賀村を置く安永元年壬辰(みずのえたつ)(1772)代官支配となり九年庚子(かのえね)猪子左太夫の采地となる時に村高二百二石七升一合あり明治元年戊辰(つちのえたつ)(1868)武蔵知県事の所轄となり二年己巳(つちのとみ)(1869)二月品川県に隷し八月韮山県に転し四年辛未(かのとひつじ)(1871)十一日入間県に属し六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県の管轄となる
   *1:旗本。
   *2:知行所。


里程(りてい)*1 
熊谷県庁より南方三里三十町四十二間三尺
四隣上唐子村へ十二町二十二間、大蔵村へ十六町十六間、平沢村へ十四町三十五間五尺、志賀村へ十五町十七間
近傍(きんぼう)*2宿町松山町へ一里三十四町四十九間一尺。字西側を元標とす

   *1:道のり。
   *2:付近。

地勢(ちせい)
林丘連亙(れんこう)*1雑樹欝葱(うつそう)*2南に都幾川を帯(お)ふ運輸便なり薪炭贏余(えいよ)*3
  *1:長くつながりつづくこと。
  *2:樹木がこんもりと茂っている様子。
  *3:つかいのこり。


地味(ちみ)*1
色赤黒相混し質悪く稲粱(とうりょう)*2菽麦(しゅくばく)*3に適せす桑茶に適す時々旱(かん)*4に苦しむ
  *1:地質の良し悪し。
  *2:稲と粟。転じて穀物の総称。
  *3:豆と麦。
  *4:日照り。旱魃。


税地
田 三町三畝十五歩
畑 二十八町九反四畝二十歩
宅地 二町三反二畝二十六歩
山林 三十町三反六畝五歩
総計 六十四町六反七畝六歩


字(あざ)地
東側 村の東北にあり東西三町三十二間三尺、南北四町四十一間三尺
西側 東側の西南に連(つらな)る。東西二町五十間三尺、南北三町三十六間三  尺
上(かみ) 西側の西北に連る。東西二町四十八間、南北一町四十七間三尺
下 東側の東南に連る。東西四町三十六間三尺、南北二町
本宿(もとじゅく) 下の南に連る。東西二町二十五間、南北三町十七間
山王回(さんのうめぐり) 本宿の西に連る。東西三町三十七間、南北三町
城(じょう) 山王回の南に連る。東西三町五十五間、南北三町二十二間


貢租
地租 米八石四斗一合
   金三十四円六十七銭五厘
賦金(ふきん)*1 金二十七円五十銭
総計 米八石四斗一合 金六十二円十七銭五厘
  *1:賦課金。県税。


戸数
本籍 四十六戸平民
寄留(きりゅう)*1 一戸同上
社 二戸村社一座平社一座
寺 二戸曹洞宗一宇堂一宇
総計 五十一戸
  *1:90日以上本籍地以外の一定の場所に住所、居所をもつこと。


人口
男百口女百二十口 総計二百二十口
他出寄留男一人 外寄留男三人女一人


牛馬
牡(おす)馬十八頭


舟車
荷車二輛小車
人力車四輛
総計六輛


山川
都幾川(ときがわ) 深処一丈、浅処一尺、広処百間、狹処五十間。急流澄清堤防あり。村の西方鎌形村より来り、東方上唐子村に入る。其間十二町二間三尺
 
槻川(つきがわ) 深処五尺、浅処一尺、巾三十間。村の西方千手堂村より来り、都幾川に入る。其間一町五十一間


森林
林 官有に属し東西九十八間、南北二十九間三尺。反別三反一畝二十九歩。村の西方にあり松杉樹多し
林 民有に属し反別三十町三反六畝五歩。諸所(しょしょ)に散在(さんざい)す。雑樹繁茂(はんも)す


湖沼(こしょう)
森の池 東西五十八間、南北三十八間三尺、周回四百六十九間。村の西方にあり用水に供す


道路
秩父道 村の東方上唐子村界より西方千手堂村界に至る。長九町三間巾三間
掲示場 村の東口より四町五十八間にあり


堤塘(ていとう)*1
堤 都幾(とき)槻(つき)の二川に沿ひ村の西方千手堂村界より東方上唐子村界に至る。長十三町五十三間二尺、馬踏(ばふみ)*2一間、堤敷(つつみしき)*3三間。根堅め蛇籠(じゃかご)*4修費用大破は官に小破は民に属す
   *1: 堤、土手。     
   *2: 堤防の頂上
   *3: 溜池の敷地 
   *4:丸く細長く粗く編んだ籠の中に栗石砕石等を詰めたもの、河川工事の護岸水制に用う。


神社
日枝社(ひえしゃ) 村社々地東西七十九間、南北七間、面積二百二十二坪。村の西方にあり大山咋命(おおやまくいのみこと)*1を祭る祭日九月十九日
   *1:家内安全、豊業振興の神。

稲荷社(いなりしゃ) 平社々地東西四十九間、南北四間、面積百三十七坪。村の南方にあり倉稲魂命(うかのみたまのみこと)*1を祭る祭日二月初午
   *1:五穀豊穣をもたらす神。
仏寺
東昌寺 東西二十四間南北十六間面積三百十二坪村の乾(いぬい)*1の方にあり曹洞宗遠山村遠山寺の末派なり古は長慶寺と称し村の東方にありしを寛文(かんぶん)(1661-1679)初今の地に移し東昌寺と改て僧伊芳を以て再興開山(かいざん)*2となす
   *1:北西。
   *2:寺院の創始者。

千日堂 東西十七間南北十一間面積百八坪村の東方にあり正徳四年(しょうとく)(1714)岡部氏の家人(けにん)*1多田平馬創建し宝暦(ほうれき)七年(1757)再建す
   *1:家来。



学校
公立小学校 村の乾(いぬい)の方東昌寺を仮用す。生徒男十二人女七人


役場
事務所 村の西方戸長宅舎を仮用す


古跡(こせき)
古城墟(あと) 東西三町南北三町二十間村の南方にあり五稜形をなし遺壕尚存す○風*1に梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)*2云長享(ちょうきょう)戊申(つちのえさる)(1488)八月十七日入須加谷之地平沢山向太田源六資康之軍営下と此辺に平沢村あれは須加谷はこヽのことなるへけれは此頃は太田氏の陣営なりしことしらる又東路土産(あずまじみやげ)*3に鉢形を立ちて須加谷と云所に小泉掃部助(かもんのすけ)の宿所に逗留(とうりゅう)云云とあり今も当所より上州に至るに小川鉢形と人馬を継ぐ順路なれは此書に載(のせ)たる小泉か宿所も当所のことなるへし又こゝを畠山重忠居城の地ともいへり後岩松遠江守義純一旦畠山から名跡(みょうせき)*4を続(つぎ)て爰(ここ)に住せしなどいへりされは晩年重忠当所に移りしことしらる云々と載(の)す
   *1:武蔵風土記のこと。
   *2:室町中期の禅僧万里集九の詩集。各作品の人名・地名・件名等に自註を加えてあり歴史史料として有益。
   *3:東路の津登」のこと、永正6年(1509)連歌師宋長(宋祇の高弟)の作、群書類従に戴す。
   *4:跡目・家督。


物産
繭十石 米六十二石 大麦九十石 桑二百駄 楮(こうぞ)*1千二百貫目 絹五十疋(ひき)*2
  *1:樹皮は和紙の原料。
  *2:布類の単位。織物二反で一疋。


民業
 男女農桑を専とす

神社明細帳 菅谷神社 菅谷村(現・嵐山町) ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字菅谷字山王回(さんのうめぐり) 
 村社 菅谷神社(すがやじんじゃ)

一 祭神(さいじん) 大山咋命(おおやまくいのみこと)*1
 菅原道真公(すがわらみちざねこう)*2
 保食命(うけもちのみこと)*3
  *1:国造り、酒造りの神。
  *2:学問の神として尊崇(そんすう)された。
  *3:食物の起源になった神。その体から五穀や家畜が生まれたという。

一 由緒(ゆいしょ) 勧請(かんじょう)年紀不詳、元来山王宮ト稱シ来シヲ維新(いしん)*1ノ際當号ニ改稱(かいしょう)セシモノナリ。明治四年中(1871)村社書上濟(かきあげずみ)。明治三十七年(1904)四月二十日上地林(あげちりん)壱反九畝拾七歩境内編入許可。明治四十年(1907)四月十七日同大字字城無格社(むかくしゃ)天神社及字本宿無格社稲荷神社ノ二社ヲ本社ト合祀ノ上社号日枝神社(ひえじんじゃ)ヲ菅谷神社ト改称(かいしょう)ス
 明治四十一年(1908)五月二十二日官有溜池(かんゆうためいけ)五反六畝拾歩境内編入許可。大正十年(1921)三月十八日幣殿(へいでん)*2新築許可、仝年四月十五日竣工(しゅんこう)
  *1:明治維新。
  *2:神への供え物を捧げる社殿。拝殿と本殿の間にある。

一 社殿 本殿 拝殿 向拝附属(こうはいふぞく)*1 幣殿
  *1:拝殿の前についているひさしの部分。

一 境内 二千四百九十九坪 昭和廿三年四月廿八日二六一五坪
      決 昭和廿五年一月二十五日二三二四坪〇合五勺(しゃく)

一 氏子 六拾六戸

一 境内神社
巖島神社(いつくしまじんじゃ)
 祭神(さいじん) 市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)*1
  *1:水の神。

 由緒(ゆいしょ) 創立年月不詳ナルモ本社ハ安藝國(あきのくに)佐伯郡(さえきぐん)巌島町(いつくしまちょう)ニ鎮座(ちんざ)ナス巖島神社ノ分霊(ぶんれい)ヲ當所ニ勧請(かんじょう)シ弁財天(べんざいてん)*1ト稱シテ、春ハ三月初巳(はつみ)*2ノ日、秋ハ八月初巳ノ日ヲ以テ巳待(みまち)*3ト称シテ祭事致来リ候。維新(いしん)*4ノ際巖島神社ト改称シテ祭事現今ニ至モ尚信仰厚ク従来ノ通奉仕ス
 本社ハ明細帳脱漏(だつろう)ノ神社ナリシカ明治四十一年(1908)五月二十二日公認許可セラレ境内神社トナル
  *1:水の神、恵みをもたらす豊穣の神、音楽、学芸、知恵の神、蓄財の神と多様なご利益のある神として崇拝される。
  *2:月の最初の巳(み)の日。
  *3:巳の日の夜に行なう弁財天のお祭り。
  *4:明治維新。

 社殿 石祠(ほこら)

津島神社(つしまじんじゃ)
 祭神 素盞嗚命(すさのおのみこと)*1
  *1:天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。

 由緒 明治四十年(1907)五月九日同大字字西側無格社八雲神社(やくもじんじゃ)ヲ境内神社トシテ移轉ノ上、社号ヲ津島神社ト改称ス

 社殿 本殿

 由緒追記
  昭和三年(1928)八月二十七日神饌(しんせん)幣帛料(しんせんへいはくりょう)*1供進料神社ニ指定ス
  昭和二一(1946)、一〇、一五 法人登記済
  *1:神への供物料。

00221

00223

00224

00232

00233

00237

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影
※菅谷神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1419頁)
菅谷神社

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 畠山重忠事蹟之記 ルビ・注

   畠山重忠事蹟之記
菅谷村大字菅谷字城ニ菅谷城趾在リ、秩父荘司次郎畠山重忠ノ鎌倉創業ニ策應(さくおう)*1シ相地築城居守シタルノ古墟タリ、現形(げんけい)*2菅谷宿通(東西)迤南(いなん)*3数丁ニ位シタル凡(およそ)三丁四方許(ばかり)ノ丘陵ナリ、南邊ハ東流セル都幾川ニ臨ミ、處々(ところどころ)絶壁ヲナシ大率(たいしゅつ)*4五六丈(じょう)ノ高嶂(こうしょう)*5連綴(れんてつ)*6シ、北邊ハ宿南小名(こな)*7元宿(もとじゅく)ト称セル境上ヨリ、平地ニ高キコト二三丈ヲ以テ里道ニ沿フテ蜿蜒(えんえん)*8シ東西復(ま)タ澗田(かんでん)*9谿窪(けいあ)*10ヲ以テ限リ、尚北面左右翼隅(よくぐう)*11ニ追手門(おうてもん)*12搦手(からめて)門*13等ノ遺型在リ、四縁ヨリ乳内ニ亘(わた)リ起伏ノ裡(うち)*14自然ノ要扼(ようやく)*15ヲ存シ、如今(じょこん)*16ハ陸田(りくでん)*17ニ變シテ多ク桑楮(そうちょ)*18其他農植ノ間彼此ニ松栢(しょうはく)*19ノ疎林(そりん)*20或ハ茅薄(ぼうはく)*21葛蘿(かつら)*22ノ参差(さんさ)*23タルヲ認ムルノミナルモ、少ナクトモ昔時天嶮(てんけん)*24ノ一壮郭墟タリシヲ偲(しの)バルヽナリ、殊ニ諸種ノ傳説ヲ輳合(そうごう)*25スレバ其東西北陸續ノ三郊(こう)*26ハ仍(すなわち)幾数十丁ニ渉(わた)レルノ要塞地タリシヲ覺(おぼ)ユ、宜(うべ)ナリ*27古史、皆(みな)本城ノ重忠ニ重カリシヲ載(の)セテ大同(だいどう)*28タルコト、其後世、岩松遠江守又ハ太田源六其他ノ在営セシ等ハ姑(しばら)ク措(お)クモ、必ズヤ先ヅ當初ノ主将重忠ヲ以テ該城ノ歴史ヲバ装飾スベシ、抑(そもそ)モ本城址ニ直接ノ関係ヲ有セル重忠ハ青史(せいし)*29既(すで)ニ已(すで)ニ定論アリ、由来世人ニモ知レタル中ニ就キ略序(りゃくじょ)*30センニ、其家ハ素(もと)関東ノ名豪、特ニ武州秩父ニ於テ奕葉(えきよう)*31ヲ累ネ来リ、祖父重綱父重能*32ニ至リ庄司(しょうじ)*33ヲ以テ擢(ぬき)ンデテ源平ノ間ニ著シ、重忠箕裘(ききう)*34ヲ承(うけつ)グニ及ンデ仁忠才勇父祖ニ超乗*35シ信義徳望ノ歸スル所鎌倉右大将源頼朝ノ親任ニ會(あ)フテ連(しき)リニ*36大官(だいかん)*37ヲ司直(しちょく)*38スルヨリ施政ノ偏倚(へんき)*39ヲ避(さ)クルタメ、北武(ほくぶ)*40男衾(おぶすま)ノ畠山ニ城(きづ)キ終(つい)ニ更(さら)ニ當菅谷ニ城キ幾(ほと)ント北武全體ヲ管轄スルニ逮(およ)ビ、敢テ求メズシテ威名赫々(かっかく)*41彼レガ如クアリシナリ、重忠ノ人ト為(な)リ誠(まこと)明月ノ如クニシテ、而(し)カモ盈(み)チテ虧(か)ケズ善ク圓ヲ持テルモノ徳望ノ然(しか)ラシムル所、和田義盛ト倶(とも)ニ覇府(はふ)*42第一ノ左右(さう)*43タリ、旦仁忠奇禍(きか)*44ヲ避ケズ、頼朝没後、頼家*45・實朝*46ヲ輔安(ほあん)*47スルヲ自任トセルニ反シ、君家外戚ノ大奸(かん)*48黨與(とうよ)*49ヲ擧(あげ)テ構陷(こうかん)*50是(これ)務(つと)ムルニ抗(こう)シ、成(な)ラザルニ迫(せま)リテ*51寃厄(えんやく)*52ニ斃(たお)レタルモ勇ニシテ義ナリ、其往日(おうじつ)*53頼朝ノ蔭子(かげこ)*54三郎忠久ヲ冥護(みょうご)*55擁封(ようふう)*56セル如キ真ニ才ナリ信ナリ、是ニ於テカ八百年来ノ嶋津公爵家ノ今日在リ一(いつ)*57ニ重忠ノ賜(たまもの)タリ、此他曽我兄弟ニ、又ハ或方面ニ其徳行ヲ致セルコト鮮少(せんしょう)*58ニアラザリシ、此菅谷地方幸ニ斯(かか)ル偉人最終ノ治本領内タリ、学校モ因(よっ)テ其城山ヲ冠字トシタリキ、亦将(は)タ斯クノ如キ正大ノ氣象ノ其孰(いず)レニカ調謬(ちょうびゅう)*59センコトヲ相思セラル、世説ニ云ヘル菅公*60重盛*61ニ重忠ヲ併(あわ)セテ本朝ノ三聖者トハ、蓋(けだ)シ輿臺子(よだいし)*62輩ノ衆庶ニマデ其人格ヲ首肯(しゅこう)*63セシムルノ近キヲ知ルニ足(た)ル、本文ニ由緒アル碑文ヲ掲(かか)クル左ノ如シ
  武蔵國比企郡菅谷村者(は)畠山重忠之墟(きょ)*64也、方(まさに)其盛城備置佛寺曰(いう)長慶、至中世遷於此云、寛永(かんえい)中岡部某公受邑(ゆう)*65、是地有故癈寺、寶永(ほうえい)三年丙戌(ひのえいぬ)(1706)遂以其址賜先太夫多田重勝、命永為塋域(えいいき)*66乃(すなわち)安千手大士名多田堂、没則(ぼっすればすなわち)葬焉(ここに)、子英貞嗣(つぎ)月以其没日會衆(しゅうかい)*67誦(ずす)普門品已(すでに)十三萬餘巻、先是岡部氏滅而(て)英貞土着、不徒(ただならず)今茲(ここ)建石勒(きざむ)概銘曰
  維春維秋維石維悠
   寛政(かんせい)九年歳在丁巳(ひのとみ)(1797)夏四月十九日
              多田英貞一角甫(ほ)*68誌(しるす)

   *1:しめしあわせること。
   *2:現在の形。
   *3:斜め南につらなる。
   *4:おおむね。
   *5:高くけわしい山。
   *6:連なること。
   *7:小字。
   *8:うねうねと長いさま。
   *9:「澗」は谷川の意。谷水の田。
   *10:谷のくぼんだところ。
   *11:つばさのはて。
   *12:大手門、城の正面の門。
   *13:城の裏門
   *14:裏の俗字。
   *15:敵を待ち伏せして食い止めること。
   *16:今の世。
   *17:はたけ。
   *18:桑とこうぞ。
   *19:松と柏。
   *20:木のまばらな林。
   *21:かやとすすき。
   *22:くずとかづら。
   *23:不揃いな樣。
   *24:自然の要害。
   *25:あつめあわせる。
   *26:郊外。
   *27:もっともである。
   *28:大体同様である。
   *29:歴史。
   *30:あらましを述べる。
   *31:代々。
   *32:畠山重忠の曽祖父が重綱、祖父が重弘、父が重能となる。
   *33:荘園領主の命を受けその荘園を管理した職。
   *34:父祖の業をつぐこと。
   *35:追い越すこと。
   *36:つづけざまに。
   *37:大官、高官。
   *38:公明正直に司る。
   *39:かたよりもたれる。
   *40:北武蔵。
   *41:あらわれて盛んなさま。
   *42:幕府。
   *43:かたわら。
   *44:思いがけない災難。
   *45:頼朝の長子、二代将軍、比企能員と結んで北条氏を除こうとして伊豆修善寺に幽閉され暗殺された。
   *46:頼朝の次子、三代将軍、鶴岡八幡宮の境内で兄の頼家の子公暁に殺された。
   *47:助力し安んずること。
   *48:非常な悪者。
   *49:なかま。
   *50:無実の罪を作って人をおとしいれる。
   *51:きわまる。
   *52:無実のわざわい。
   *53:過ぎ去った日。
   *54:人知れずかくまった子。
   *55:神仏が知らず知らずのうちに守ってくれること。
   *56:まもりふうずる。
   *57:第一
   *58:わずか。
   *59:あやまりをしらべる。
   *60:菅原道真。
   *61:平重盛。
   *62:召使。
   *63:うなずくこと。
   *64:古跡。
   *65:封土。
   *66:墓所。
   *67:会に寄り集まる。
   *68:あざな。

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

都幾川・二瀬橋下の聖牛 2007年7月

都幾川二瀬橋下の「聖牛」
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蛇篭(じゃかご)を重しにつかう

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2007年7月7日、河川見学会で撮影

空から見た嵐山町 329 嵐山町市街地 2011年6月

嵐山町市街地
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2011年6月28日、内田泰永さん撮影

A:国立女性教育会館、B:郷学研修所、C:嵐山史跡の博物館、D:菅谷館跡、E:国道254号嵐山バイパス、F:嵐山町立菅谷中学校、G:嵐山町立菅谷小学校、H:東武東上線武藏嵐山駅、I:東昌寺(菅谷)
J:嵐山町立志賀小学校(志賀)
K:ヤオコー嵐山東口店(むさし台3)
L:嵐山町役場(杉山)
M:武藏嵐山病院(太郎丸)

菅谷・津島神社の夏祭り 2011年7月

菅谷の天王様

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2011年7月9日撮影

※「(菅谷神社)末社の津島神社は、天明6年(1786)に、当時領主であった猪子佐太夫が自分の崇敬する尾張国(おわりのくに)津島町に鎮座する津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)の分霊を祀ったもので、元は市神として字東側の路上に鎮座していたところを、明治4年(1871)に字西側に移転した。ところが、明治23年(1890)の大火で全焼したため、同40年(1907)7月9日に当社(菅谷神社)の境内に社殿を再建して遷座し、当社の境内社として祀られるようになり、毎年にぎやかに夏祭りが行われている。……(中略)……「夏祭り」もしくは「天王様(てんのうさま)の通称で親しまれている津島神社の夏祭りは、当地の祭りの中でも最もにぎやかに行われ、境内に露店が立ち並び、カラオケを主とした芸能大会や地区の剣劇舞踊団の公演も行われるため、菅谷に住む人々の大きな楽しみとなっている。この祭りには、昔から神輿(みこし)の渡御(とぎょ)が付きもので、大人神輿と子供神輿の両方が氏子区域内を「ワッショイ、ワッショイ」と掛け声も勇ましく巡行していたが、大人神輿は諸般の事情により、昭和62年(1987)ごろから自動車に載せて巡回するようになった*。また、菅谷には昔から祭囃子(まつりばやし)が伝わっており、太平洋戦争後は途絶えたままになっていたが、大人神輿の渡御の中止と入れ替わるように昭和62年(1987)ごろ復活した。祭囃子の練習は、夏祭りの一週間ほど前から行われ、太鼓の音が聞こえるようになると、だれもが「ああ、菅谷の祭りだな」といく気分になるという。」(埼玉県神社庁『埼玉の神社』1982年7月発行、1417〜1418頁より引用)
   *現在はまた担がれて渡御している。

空から見た嵐山町 316 菅谷・千手堂 2011年5月

菅谷・千手堂
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2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:独立行政法人国立女性教育会館、B:埼玉県立嵐山史跡の博物館、C:大妻嵐山 中学校 高等学校(菅谷)
D:嵐山ゴルフ練習場(千手堂)
E:国道254号嵐山バイパス


空から見た嵐山町 315 蝶の里公園、菅谷館跡 2011年5月

蝶の里公園、菅谷館跡
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2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:蝶の里公園、B:嵐山町上水道第一水源(千手堂)
C:オオムラサキの森活動センター、D:嵐山町上水道第二水源、E:ほたるの里、F:嵐山町上水道第三水源、G:独立行政法人国立女性教育会館、H:慈徳院こどもの心のケアハウス嵐山学園、I:郷学研修所、J:埼玉県立嵐山史跡の博物館、k:嵐山町立菅谷中学校、L:嵐山町立菅谷小学校、M:菅谷神社、N:大妻嵐山 中学校 高等学校(菅谷)
O:二瀬橋(都幾川)

古い写真 内田屋 1930年代?

内田屋(菅谷・駅通り)
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1930年代(昭和10年前後)撮影?

古い写真 東昌保育園が開園する 1974年

社会福祉法人杉の子会「東昌保育園」開園 1974年
東昌寺12

第一回修了式 1975年(昭和50)
東昌寺03
長谷川黙龍園長

お昼の給食 1975年4月15日
東昌寺04
献立:パン、オムレツ、即席漬(キャベツ、キュウリ)、いちご

運動会 1975年(昭和50)
東昌寺21

※たんぽぽ(2歳児)、ちゅうりっぷ(3歳児)、さくら(4歳児)
※1976年(昭和51)10月、社会福祉法人恵会「嵐山若草保育園」開園
※1978年(昭和53)10月、社会福祉法人杉の子会「東昌第二保育園」開園

仏堂千日堂東昌寺所属認可申請書 1940年11月

     仏堂寺院所属認可申請書
      埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷
       仏堂 千日堂
右仏堂左記ノ通リ寺院ニ所属致度ニ付御認可相成度関係書類添付此段及申請候也
 昭和十五年 月 日 仏堂受持僧侶
     比企郡菅谷村大字菅谷東昌寺住職
                     中島信龍 印
 埼玉県知事土岐銀次郎殿

     記
一、名称 千日堂
二、所在地 比企郡菅谷村大字菅谷字東側百五拾四番
三、本尊ノ称号 千手観世音
四、由緒沿革
 宝永三年(1706)先ノ知行岡部藤十郎元貞廃寺跡ヲ多田兵馬重勝ニ賜リ即チ一宇ヲ建立千手観音ヲ安置シ多田堂ト名ケ永ク子孫ノ墳墓ノ地トス。享保八年(1723)松山宿吉田七兵衛比企郡内ノ観音ヲ順拝札所ヲ開基シテ之レヲ比企弐拾六番ノ札所トナス。寛政九年(1797)重勝ノ嗣子一角英貞ノ建テタル由来ノ碑文モ境内ニ現存シアリ。明治七年(1874)五月時ノ判官ニ依リ千日堂ト改称シ来レリ
五、教義儀式及行事ニ関スル事項
 教義ハ曹洞宗ノ教義ヲ布演。儀式ハ曹洞宗ノ儀式ニ依遵(いじゅん)シ毎年九月二十日祭典ノ行事ヲ行フ
六、管理維持ノ方法
 東昌寺住職管理ノ責ニ任シ維持費ハ仏堂所有財産ノ内ヨリ毎年度ノ予算ニ計上シ充当ス*1
   *1:1919年(大正8)10月、千日堂所有の土地(畑5反4畝20歩)を菅谷小学校敷地として代金824円で売渡し、それで債券を購入して利子を受け取っていた。

七、属スヘキ寺院ノ名称及所在地
 比企郡菅谷村大字菅谷九番地東昌寺
八、属スヘキ寺院所属宗派ノ名称
 曹洞宗
九、属スヘキ寺院ノ選定理由
 大正八年(1919)ヨリ東昌寺受持トシテ事実上ノ管理ヲ受ケ来リタルニ由ル


   同意書
    埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷
    仏堂 千日堂
右仏堂ヲ当寺ニ所属スル事ニ同意候也
 昭和十五年 月 日
   埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷九番地
    曹洞宗東昌寺住職 中島信龍 印
   同所 九拾貳番地
    右寺檀徒総代 関根清一 印
   同所 八拾八番地
    同      関根子之助 印
   同所 四百拾六番地
    同      関根正作 印
   同所 大字志賀百番地
    同      水野眞平 印


   承認書
    埼玉県比企郡菅谷村
     曹洞宗 東昌寺
 一、仏堂千日堂ヲ東昌寺ヘ所属セシムルノ件
前記ノ件ニ関シ所轄官庁ニ認可申請スルコトヲ承認ス
 昭和十五年九月十九日
  曹洞宗管長代務者 高階瓏仙 印

※現在、嵐山町菅谷の東昌寺山門のそばにある「比企西国第二十六番札所多田堂」の由来のわかる資料である。
  →「比企西国札所26番 多田堂
  →「領主岡部家と陣屋の多田家

嵐山町の桜 観音堂(菅谷) 2010年4月11日

比企西国第二十六番札所観音堂(多田堂)
(嵐山町大字菅谷字上)

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2010年4月11日撮影

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