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川島

七郷村誌原稿 広野村(社寺明細帳・鬼鎮神社) ルビ・注

武蔵國比企郡廣野村社寺明細帳
埼玉縣下武蔵國比企郡廣野村字天沼 村社    鬼鎮神社
一祭神 衝立久那止命(つきたつくなどのみこと) 八衢比古命(やちまたひこのみこと) 八衢比賣命(やちまたひめのみこと)
一由緒 壽永元壬寅年勧請
    現今社殿ハ壽永五壬子年閏二月再建従来村社
一社殿(しゃでん) 間口二間三尺 奥行四間
一神樂殿(かぐらでん) 間口二間 奥行□間三尺
一社務所(しゃむしょ) 間口□間三尺 奥行□間
一神輿庫(みこしくら) 間口二間 奥行二間
一境内(けいだい)坪数□壱坪   官有第壱種
一境内(けいだい)神社□□
   八坂神社
     祭神 須佐之男命
     由緒 元治元年甲子年六月勧請
        上野(こうつけ)国新田郡世良多村【世良田村】鎮座八坂神社ノ分神霊ナリ
     建物 間口三尺 奥行三尺
一氏子戸数弐拾三戸
一管轄廰迄ノ距離 拾壱里
  以上
右之通取調候処相違無御座候也
右社       惣代      明治十六年七月丗一日 権田□右□□ 島崎助次郎  権田恵助   右社       祠掌      小川喜六   戸長      井上萬吉  
 埼玉縣令吉田清英殿

官許産婆第一号 嶋崎てつ

 江戸時代の女用書「女諸禮綾錦」に「とりあげばばをゑらびたのむ事。中華(もろこし)にも有よし。医書にも見えたり。能(よく)たんれんんの婆(ばば)を頼むべし」と教えている。出産は生死にかかわる女性の大事であったから、腕のよい隠婆(とりあげばば)が必要とされた。しかし田舎においてはそれも得られず、近くに住むお産について経験豊かな年配の女性を頼んで出産することが多かつた。

 明冶になっても依然として相互扶助的な考え方でお産が取り扱われて来ていた。だがこうしたことでは死産になったり、産後間も無く子が死んでしまうことも多く、一方では隠婆が堕胎や間引きに手を貸すこともあった。人的資源の確保の必要性を痛感した明治政府は、この改善を意図することとなつた。それには出産にあたつて助力する人の職分と資格を規定し、その倫理観を正してゆく必要があつた。

 1869年(明治2)には「産婆取扱規則」がだされ「産婆」という呼称も定着し、1874年(明治7)には衛生、医学、薬に関する規定を「医制」として発布した。その中で産婆の資格を厳しく定め、職業として認定してゆくこととなつた。しかし、その資格は「産科医の眼前にて難産二人平産十人取り扱いたるもの」に与えられる産科医の実験証明書の所持が条件であつた。産科の専門医はすくなかつたから、そんな経験をもつ者は少ないし、医者すらいない地方に於いては絶無という状況だったろう。

 そこで埼玉県は明治十年「医務条例」によって「当分学術ノ深浅ヲ論セス鑑札下渡候事」とした。要するに「医制」に規定された水準に及ばなくても免許を認めるということである。

 広野村第九番地の嶋崎助次郎の母てつはこれに応じ、戸長永嶋竹次郎名をもつて1877年(明治10)8月「鑑札御下附願」を県令白根多助宛提出した。てつは従前からの産婆であり、産科医の前ではなかつたにしろ十分な助産の経験をもち、地域の信頼を得ていたのだろう。また「医制」が産婆の年齢を四十歳以上と定めているので、てつも恐らくその年を越え円熟した人物であつたとおもわれる。

 1877年(明治10)9月には産婆営業の鑑札が下り、御請書が提出されている。てつの産婆業は順調であつたようで、1878年(明治11)1月25日附で明治十年後半年分の産婆営業税一円八十銭を上納している。

 嶋崎てつは産婆を生業とし、多くの人々の出産に立会い医術を施し、女性の地位の低迷する明治期にあつて、独立した女性の歩みをしめした人ということが出来る。

庶民の楽しみ相撲(角力)

IMG_9459rweb 相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸の三大娯楽の一つであった。相撲の歴史は古い。吉田の小林武良家に伝わる嘉永元年(1848)に書かれた「角力軍配記」によれば、神代天照大神天の岩戸隠れの時、岩戸の前でたじから王の尊(天手力男命)他三柱の神が力争いをしたところ大神感応ましまされ岩戸を開かれた、と云う故事をもって「是則天下泰平国家安全五穀成就の祭り事の第一、神代角力の初まり是なるべし」としている。奈良平安の頃は「相撲の節会」といって毎年七月諸国から宮中に力士を集め天覧相撲がおこなわれていた。武家時代に入っても頼朝・信長・秀吉達も相撲を武術として奨励し、家来の力自慢を戦わせて楽しんでいた。江戸時代にはいると相撲人気は高くなり、庶民の間にも相撲興行が行われる様になった。幕府は質素を旨とする政策からこれ等の娯楽を牽制し、神社仏閣の建立や修復を名目に有料の勧進相撲の興行を許すこととなった。深川富岡八幡・芝神明社・浅草大護院・両国回向院等の境内で、晴天十日春秋二度興行が行われ、相撲取りは「一年を二十日で暮す良い男」といわれるほどの人気であった。こうした賑わいも三都(江戸・大坂・京都)のことで地方における相撲の記録は少ない。
 ただ、ここに菅谷の関根家に残された一通の手紙*1がある。江戸の綱錠鉄五郎(あみじょうてつごろう)から須ケ谷宿(今の嵐山町菅谷)の御所嶋源七(ごしょじまげんしち)に宛てたものである。御所嶋源七は菅谷東昌寺に軍配の彫られた墓石*2の人物で、享年は不明であるが天保2年(1831)死去した関根源七である。それにしても「御所嶋」の名に疑問が残る。御所嶋の名は江戸の相撲界に散見される。特に文政年間の大相撲星取表に文政6年(1823)から12年(1829)まで二段目として御所嶋の名が見える。この四股名(しこな)の人物が源七であればおもしろい。墓石の軍配とも符合する気がする。
 この手紙は何時出されたものか。文中に「正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様死去」とあり、赤羽根はいまの港区三田赤羽で、ここに久留米藩の江戸藩邸があり、相撲好きの殿様第八代有馬頼貴(よりたか)が文化九年(1812)にここで亡くなっている。即ち文化9年(1812)の手紙である。内容は殿様の死去によりお抱えの力士に暇が出された。(当時の角界は力士が大名家に抱えられ、場所に出て活躍し家名をあげた。)暇を出された力士は他の大名家に召抱えられたが、山脚(やまあし)と云う力士は抱え先もなく国元へ帰りたいが費用もなく困窮しているので、御所嶋のお世話になり華角力興行を催し、路銀を都合してもらいという依頼状である。尚、「大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候」とあり、大場所は回向院の春場所のことで四月に延期になった事を知らせて来ている。当時の江戸の相撲界のことも分り、思うに世話人御所嶋源七は山脚のために華角力(花相撲、本場所以外に地方で臨時に興行する相撲)興行を催したであろう。
 江戸から菅谷の関根源七へ手紙が届いた文化9年(1812)に源七はすでに御所嶋の四股名を持っており地元で相撲興行が可能な顔役であったこと、江戸で星取表に御所嶋の四股名が見られるのは手紙到着後の文政6年(1823)から12年(1829)であることを考えると、菅谷の御所嶋と江戸の御所嶋とはどうやら同一人物ではなさそうである。

 明治にはいっても、4年(1871)未だに「五人組帳」(村民の守るべき諸法則が箇条書され、村民全員の証印がなされている帳簿)を新政府に提出している。その前書に「狂言 操 相撲之類堅く仕間敷」と、若し仔細あれば訴え所へ申し出て御下知を得なさい、ということで庶民の楽しみ相撲は厳しく禁じられていた。ところが明治13年(1880)になると広野の森田角蔵が相撲興行願を戸長に提出した。それによると東京本所の相撲年寄玉垣額之助(15代玉垣額之助 嘉永3年生、明治38年没幕下まですすむが病気で廃業年寄となる、日清戦争では同志50人を率いて慰問興行を行う)外20名を雇い隣地(=森田千代吉の所有地)を借り受け、8月25・26日の両日雨天順延、大人2銭・小人1銭の木戸銭で催された。当日お客さんは二日間で大人607人、小人328人と大盛況であった(相撲興行が行われた場所は川島にある鬼鎮神社西裏であったと思われる)。ついで同年(1880)10月玉垣額之助が願人となって大関鶴ケ濱・菊ケ濱外26人の力士を引き連れ大蔵あたりで興行したのだろう、手書きながら立派な番付表*3が残されている。番付表によれば行司は木村藤次郎、呼出し末吉と名を連ね、なかには都幾石とか吉見山、荒船など地元出身と思われる四股名も見られ、本場所さながらの興行の内にも地方色もみられ、大いに観客を楽しませた事であろう。
 下って明治21年(1888)9月勝田村の利根川惣吉が勧進元となって、19日東京角力興行が行われ、翌年(1889)3月には田口百太が勧進元で若者達が世話人となり、能増村(のうます、旧・八和田村、現・小川町)で15・16日東京角力興行が行われる旨、木版刷りの広告が配られた。このようにして庶民の楽しみとしての相撲が定着していった。

*1:綱錠鉄五郎から御所嶋源七への手紙
 須ケ谷宿
   御所嶋源七
      人々御中
           従江戸
             綱錠鉄五郎 
以手紙致啓上候
向暑之砌(みぎり)弥(いよいよ)御安全珍重之御義ニ奉存候然者先達ハ御世話ニ預リ千万忝(かたじけなく)奉存候其砌御礼御状差上度候共種々取逃シ御座候間大キニ延引仕候
然処正月廿三日赤羽根御屋敷有馬様御死去被遊候御抱角力衆中御暇ニ相成残江戸ケ崎楊羽大岬御抱ニ御座候
随而山脚事当時甚タ難儀仕在罷候国元へ登リ度候共物入多ク御座候故何分国元へ罷登候節貴公様御世話ニ而華角力興行仕度候間何分宜御世話被下候様奉頼上候
御屋敷様より御暇ニ相成候角力衆中者出羽安波西尾津軽様此御屋敷へ御抱ニ相成候且又大場所之義も臨じ延引ニ相成興行之義ハ四月上旬ニ相始メ候様ニ承候
其御地福田村善吉と申者東関方へ参り度由申候間私同道ニて先親方様罷(まかり)居候間乍憚(はばかりながら)御安心可被下候末筆乍半兵衛様紺屋様磯五郎様牧馬様文七様八五郎様尚又貴公様より皆々様へ宜敷御伝言可被下候
右御礼申上度如斯ニ御座候   以上
  三月廿二日
             綱錠鉄五郎
   御所嶋源七様
尚々御家内様へもよろしく御伝可被下候末筆乍六間【菅谷に隣接する現・滑川町六軒?】之大様友様へも宜敷く乍憚御伝言可被下候ひとへに奉頼上候以上

※この手紙を紹介した『埼玉新聞』の記事 1989年(平成1)9月28日
  江戸の草相撲知る古文書
   嵐山町 軍配の墓石きっかけに
        地方の相撲なまなましく
 軍配を彫り込んだ墓石の発見をきっかけに、江戸時代の草相撲を知る手掛かりとなる古文書がこのほど比企郡嵐山町で見つかり、東京に住む古書店員によって解読された。相撲に関する文献は江戸や大坂などのひのき舞台のものは多いが、それを支えた地方の状況を記した資料は貴重−と関係者は言っている。
 軍配を彫り込んだ墓石があったのは嵐山町の東昌寺。同町に住み、東松山演劇鑑賞会で活躍する柴崎富生さん(52)は戊辰(ぼしん)戦争当時新撰組、新徴組で活躍した甲源一刀流の剣士について調べていたが、今から七年前、歴史を知る重要な手掛かりとなる墓石の墓碑文を訪ね歩いていた時、軍配の墓石が目にとまった。墓の主は「通山良逢居士(俗名・関根源七)」(天保二年死去)。この墓石に興味を覚えた柴崎さんは、刻まれた碑文から子孫で同町に住む関根昌昭さん宅を訪ねたところ、一通の古文書を手渡されたという。
 古文書は縦十五センチ、長さ百四十センチほどの大きさで、九州久留米藩の相撲を取り仕切る綱錠鉄五郎から比企郡の草相撲の世話人御所嶋(関根)源七に送られたものだった。
 柴崎さんは、古文書の解読を東京杉並区に住む知り合いの古川三樹松さん(88)に依頼した。古川さんは「図説 庶民芸能―江戸の見世物」「江戸時代大相撲」の著書があり、当時の相撲に詳しい。明治四十三年の大逆事件で非業の死を遂げ、作家水上勉氏の著書「古川力作の生涯」に描かれた力作の末弟に当たる人。柴崎さんは古川さんに解読を依頼していたことをすっかり忘れていたが、古川さんは今年になって古文書を研究している東京大田区の古書店店員高橋徹さん(31)に「勉強の資料に」と預けた。
 高橋さんは資料を読み、歴史を研究するのが趣味だが、相撲にはまったくの門外漢。古文書の解釈そのものは古文書仲間に手伝ってもらいすぐ終わったが、時代背景や当時の比企郡や相撲の状況を分析するのに手間取った、という。研究しているうちに、内容のおもしろさに引き込まれた高橋さんは、受講している古文書講座の記念文集に加えることにし、八月柴崎さんに解読の成果を送ってきた。
 高橋さんの解説によると、この文書は文化九年(一八一二年)三月二十二日に綱錠鉄五郎から御所嶋源七にあてたもので、世話になった礼が述べられた後、同年一月に主君の久留米藩第八代藩主有馬頼貴が六十八歳で亡くなったのを機に、お抱え力士の多くが解雇されたり、他藩にスカウトされたことが書かれている。さらに山脚早助という力士にもヒマを取らせたいのだが、出身地まで帰るのに費用が掛かるため、ついては引退相撲を興行してもらえないか、と頼んでいるほか、比企郡出身の預かった力士は心配ないから世話人にもよろしく伝えてほしい―などとの内容になっている。
 高橋さんは「この文書を初めて読んだ時、無名力士の悲哀が行間からひしひしと伝わり、身につまされた」と語っている。
 この文書のことをすっかり忘れていた柴崎さんは、高橋さんの研究成果を目にし、思わぬ発見をしたという。柴崎家には、先祖に半兵衛という大男で草相撲の強い力士がいたとの言い伝えがあるが、この文書で鉄五郎に名指しされた世話人の一人に「半兵衛」の名が記されていた。どうやらこの半兵衛が言い伝えの半兵衛らしいということが分かった。
 柴崎さんは、「相撲と芝居の違いはあるものの、今も百八十年前の昔も興業は似たところがあり、身近なものに感じた」と感慨深げに語っていた。

*2:関根源七の墓石(嵐山町菅谷・東昌寺)
*3:1880年10月の番付表(大蔵・大沢知助家文書664)

   * 関根昌昭家文書 書簡
   * 小林武良家文書153 角力軍配記
   * 藤野治彦家文書174 五人組帳前書写
   * 広野区有文書216 相撲興行願
   * 大沢知助家文書664 相撲番付表
   * 田島栄定家文書16 舌代
   *   々    110 舌代
   * 他 日本人名大事典・大相撲星取表・フリー百科事典
       江戸の相撲・幕末期の角界・江戸時代館
   * 東昌寺 関根源七墓石

鬼神宮(鬼鎮神社)をめぐる帰属争い

   放光寺と広野村の争い 1824年(文政7)

 1824年(文政7)年8月、水房村の天台宗放光寺(智信)は法善寺応賢を代理人として広野村四給村々の名主源七・重兵衛・弥藤治・半蔵を相手取り、寺社奉行所へ鬼神宮をめぐる不法出入を訴え出た。
 訴状によれば、放光寺は川嶋の鬼神宮を始め太郎丸の粟巣大明神・観音堂、勝田の天神、中尾の雷神、菅谷の山王権現等々の法楽・神事・祭祀を執行してきた。また延享(1744〜1747)・安永(1772〜1780)年中には東叡山寛永寺に上書記録されている。即ち放光寺は鬼神宮の別当(神宮寺を支配する検校に次ぐ僧籍)を自認していた。然るに広野村村民は、鬼神宮には別当は無く、村持ちであると触れ回り、新規に錠前を取り付け、1823年(文政6)には無断で社地内の立ち木を伐木し新規に神楽殿(二間×三間×一丈五尺)を造営する等、不法勝手気侭の行為があり、このままに捨て置いては外の放光寺支配の社地へも影響が出て、寺務を続けることができないと判断、是非不法を行わず以前の通り支配の出来るようにと裁定を願い出た。
 これに対し評定所は広野村名主らに対9月13日返答書(弁明書)を差し出し、評定所へ出頭対決するように命じた。そこで広野村四給村々の名主組頭は連署して長文の返答書を提出した。
 それに依れば、宝暦年中(1751〜1763)領主嶋田藤十郎へ「名細帳(村明細帳)」を差し出し「鬼神宮村持之書上有之」として記録されており、又その頃川嶋住居の者で上屋(うわや)[霊屋(みたまや)]を再建、1841年(文政4)関東地誌御改御廻村の節にも「川嶋氏子村持」と報告されている。祭祀祈願の折は放光寺に鳥目二百文を出して頼んだことはあるが、「別当」等と云うことではない。三ヵ年前から参詣人が増加してきたので、放光寺は別当にしてくれと再三申し出はあったが承知していない。賽銭・宮鍵は当方組頭にて保管、賽銭は宮の修復に使い、不足の分は氏子が割合出金してきた。「宮鍵を出せ」との水房村の名主・組頭・百姓代共の不法強要もあったが断固として断った。すると今度は本寺東叡山より検僧(葬式の時髪剃をする僧、異状があれば葬儀を差し止めることが出来た)をたのんで、放光寺別当の件を無理強いに及んだこともあった。放光寺は別当となって私欲を貪り、困窮の私共を見掠め、難題不法を申しかけていると弁明、「是迄之通り出来村内平和に相治り候様」と返答書を差し出した。
 これを受けて、評定所は「放光寺の鬼神宮別当の由申立は全く心得違に付相手方へ相詫以来鬼神宮は氏子広野村村持と相心得申べし」と議定通知した。これによって、放光寺は別当との申し分立たざるを恐れ入り相手方に詫び、鬼神宮は広野村氏子村持ちであることを承知し、鍵は先規の通り川嶋氏子が保管、社木入用の時は給々地頭へ届け出て伐木することで、済口証文に両者署名捺印、一件は落着したのである。


   泉学院と広野村の争い 1851年(嘉永4)

 ところが、それから27年後の1851年(嘉永4)8月廣野村総鎮守八宮明神別当の泉学院栄長は廣野村内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代を相手取り鬼神宮に関する不法出入を寺社奉行所へ訴え出た。
 訴状によれば、鬼神宮は八宮明神の末社であり、これまで武運長久・氏子安穏の祈願を行ってきた。1640年(寛永17)には川嶋の者達の頼みにより飛地川嶋の秣野に仮産宮として遷座したが、引続き法楽祈願も行い護摩札・札守を差し出してきた。元禄年中(1688〜1703)、栄長の親栄茂は若年病身の上、鬼神宮は凡そ二十町余も遠隔の地にあり諸事不便だったのだろう、当座限りということで宮鍵を川嶋の組頭に預けた。しかし社務は引き続き執り行ってきたのであるが、1851年(嘉永4)年5月14日、馬之丞・政右衛門・民蔵等がやって来て、近年参詣人が増加したので取り計らい方について万端議定したい旨申し出た。しかし泉学院はその必要なしと返答して帰した。翌15日は鬼神宮の縁日だったので勤行に出向いたところ、社前に馬之丞ら三人居並び勤行を制止され、その上百姓代の音三郎・馬次郎も駈け付け、社内への立ち入りも拒否された。これは泉学院をのけ者にして神事祈祷を勝手に取り計らい、布施物までも私欲にまかせて取り上げようとする企み、捨て置いては神事を俗家にまかせ、僧俗の差別を失い、職道の掟も崩れ神慮にも叶わず、院務相続方にも拘わる大事、どうか相手のもの呼び出し、不法を止め先規の通り拙院にて鬼神宮守護祈願執行出来ます様にと願い出た。
 これに対して同年9月川嶋の氏子から評定所へ返答書が差し出された。それに依れば、第一に泉学院が八宮明神別当であり、鬼神宮はその末社というのは全く跡形もない偽りであり、両者は往古以来村持ちである。それが証拠には八宮明神の鍵は廣野村名主千代吉が、又鬼神宮の鍵は川嶋の組頭ども預り、賽銭は年々帳面に記入して組頭あずかり、宮修復等の足し合いにしてきた。その他1808年(文化5)に泉学院は八宮明神別当であると理不尽な申し出を阿部主計頭寺社奉行へ訴願したが、訴訟人の申立相立たず、氏子共に詫び、以来鬼神宮は廣野村字川嶋氏子村持ちと心得ること、また社木は入用の節村役人・地頭所へ届けて伐木すること、鍵は組頭預かり置くこと、祈祷は泉学院・放光寺何れかに依頼することで決着した。次いで1824年(文政7)放光寺からの不法出入訴訟の折も、鬼神宮は氏子村持ということで済口証文を差し出している。また1844年(弘化元)鬼神宮再建の砌には組頭預の賽銭を差し出し、不足分は氏子一同にて出銭したにも拘らず、泉学院は一銭たりとも差し出すことはなかった等、綿々と書き綴られていた。
 この返答書は評定所の理解するところとなり、泉学院の訴えは退けられ、1808年(文化5)の裁定どうり、八宮明神・鬼神宮共に「村持」ということで、1852年(嘉永5)、泉学院栄長、内藤・嶋田・木下知行所の組頭・百姓代連署して済口証文が評定所に差し出され決着したのである。
 要するに、鬼神宮の帰属を巡って再三紛争があったが、何れの時も「鬼神宮は川嶋氏子村持」ということで決着し、恐らく明治に引き継がれていったのであろう。

   参考史料 田幡丈家文書4
           永嶋正彦家文書26・27・29

鬼鎮神社の名称の変遷

 川島にある鬼鎮神社は1182年(寿永元)、畠山重忠が菅谷館築造のときに城門大手の艮(うしとら)の方角に守護神として祀り、古くは「鬼神社」と呼ばれたといわれている。鬼鎮神社に関する文書で最も古いものは1821年(文政4)の地誌調査の記録「村方古物改口上書」(永島正彦家文書22)である。「飛地川嶋二鬼神明神一社四給入会川嶋氏子村持」とあり、「鬼神明神」と称している。また1830年(天保元)、昌平坂学問所地理局によって編纂完成された『新編武蔵風土記稿』(全266巻)には広野村の項に「鬼神明神社 村民持」と書れている。これは前書した文政4年の地誌改の集大成なのでほぼ同じ名称である。ところが1824年(文政7)の放光寺訴訟(田幡丈家文書4)においては「鬼神宮」と称し、降って1852年(嘉永4)の泉学院訴訟(永島正彦家文書26)においても「鬼神宮」と称している。明治に入って1884年(明治17)調査の「邨誌社寺明細帳」では「鬼神神社」となっている。尊称が「明神」、「明神社」、「宮」、「神社」と変っても「鬼神」の名に変りはなかった。

 ところが1882年(明治14)に編纂された『武蔵国郡村誌』では広野村の項に「鬼鎮社」と記されている。「鬼神」が「鬼鎮」に変り、音は類似しているが全く違う文字で表記されている。どうした訳があったのだろうか。1880年(明治13)4月10日にこの神社の社務所から戸長役場へ出された例祭の挙行と戸長の出席をもとめた文書(永島正彦家文書88)にも明らかに「鬼鎮神宮」と書かれている。

即ち江戸時代には「鬼神」であり、恐らく明治十年代に何らかの事情により「鬼鎮」とあらためられたのであろう。一時期両者の名前が混用されていた時期もあったろうが、大正に入っては全くその名は定着していた。大正年間、この神社の鳥居際にあった羊羹・せんべい等の土産ものを商っていた岡島家製菓所の広告には「鬼鎮のおみやげ」と大書し、菅谷村川島鬼鎮神社鳥居前とその住所を表記している(「発展の武州松山」大正14年発行)。また神社前にあった料理旅館川田屋もその広告に菅谷村川島鬼鎮神社前と書いている(「岩殿山案内」大正4年発行)。1963年(昭和38)編纂の『比企郡神社明細帳』によれば1946年(昭和21)に「鬼鎮神社」として法人登記されている。

鬼鎮神社の名称の変遷をたどって見てきたが何故に「鬼神」を「鬼鎮」に変名したのかについてはなお定かではない。

神社明細帳 川島・鬼鎮神社 菅谷村(現・嵐山町)川島 ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字志賀*1字天沼(あまぬま)
  *1:ママ。鬼鎮神社は大字川島にあるが、大字志賀とされている理由については、「菅谷村大字川島の誕生 1941年」、「川島呼称回復請願の理由書 1889年」を参照。
 村社(そんしゃ) 鬼鎮神社(きじんじんじゃ)
     昭和二一、一〇、一五法人登記済

一 祭神(さいじん) 衝立久那止命(つきたつくなとのみこと)
          八衢比古命(やちまたひこのみこと)
          八衢比賣命(やちまたひめのみこと)

一 由緒(ゆいしょ) 壽永元酉(とり)年(じゅえい)(1182)*1勧請(かんじょう)
  現今社殿ハ嘉永五子(ね)年(かえい)(1852)再建、但従来村ノ鎮守ナルヲ以テ明治五年(1872)村社書上濟、明治四十年(1907)七月二十二日上林七畝九歩境内編入許可
  *1:この年は酉ではなく寅(とら)年である。

一 社殿 本殿
     内殿
     神楽殿(かぐらでん)
     社務所
     神輿殿(みこしでん)
     御影繪馬納置場
一 境内 五百五十坪
一 氏子 貮拾参戸

一 境内神社
   八坂神社
    祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
    由緒 元治元年(げんじ)(1864)勧請
       上野國(こうずけのくに)*1新田郡世良田村鎮座八坂神社*2ノ分社
  *1:群馬県。
  *2:八坂神社ホームページやブログ「プチ神楽殿」、「ゆるプチ堂」等。

    社殿 本殿

 ※鬼鎮神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1415頁)
鬼鎮神社

空から見た嵐山町 358 川島 2011年10月

嵐山町川島(かわしま)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:小峰工務店(滑川町水房)(みずふさ)
B:矢崎橋(市野川)
C:埼玉県道173号ときがわ熊谷線
D:下沼、E:天沼(上沼)、F:天沼(下沼)、G:川島集会所、H:鬼鎮神社、I:川島自治会館、J:聞かず薬師、K:川島運動場、L:サトーラシ嵐山工場、M:ユニスター、N:明星食品嵐山工場、O:根岸電材埼玉工場(嵐山町川島)
P:嵐山志賀郵便局(嵐山町志賀)(しか)
Q:埼玉県道69号深谷嵐山線

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・鬼鎮神社 ルビ・注

鬼鎮神社
大字志賀第一川嶋區ニ在リ、元七郷村大字廣野ノ飛地(とびち)*1タリシ當地ノ民有祠*2ナルガ、明治二十二年(1889)本村ニ属シ村社トシテ遠ク都鄙(とひ)*3ニ鳴レルモノ名社タリ、由来(ゆらい)鬼神又ハ近林ニ雉子(きじ)ノ群棲セルヲ以テ雉子之宮ト称號セルヲ、革命*4ノ際爰(ここ)ニ奉仕シタル社掌(しゃしょう)*5並ニ敬神有力ノ人士等相議(はか)リ相賛(たす)ケ、遂ニ官准(かんじゅん)*6ヲ仰ギテ現称尊號ヲ奉上シタリシモノ、主齋(さい)御柱ハ則チ賽神(さいしん)*7ニシテ、神苑(しんえん)*8ノ風光粛清(しゅくせい)*9ナルニ加ヘテ巨松、喬椙(きょうしょう)*10美櫻、好楓(こうふう)*11ノ景物ニ富ミ、社頭森厳(しんげん)*12ニシテ宏壮ナリ、春秋ノ大祭毎月ノ恒祭ハ勿論平日モ遠近ヨリ群参(ぐんさん)絶間(たえま)無シ、世傳(せいでん)*13ニ當社ハ「畠山重忠菅谷城鬼門鎮護ノ神ト崇(あが)メテ奉齋(ほうさい)*14シタルモ、重忠亡(ほろ)ビ後世力ヲ盡シテ主宰(しゅさい)*15スルモノナキヨリ、永ク衰微シテ在(お)ハセシ」ト云ヘリシガ、今ヤ重忠時代ニヲサヲサ復セントシツヽアリ
   *1:同じ行政区に属するが他に飛び離れて存在する土地。
   *2:人民の所有する社。
   *3:都会と田舎。
   *4:明治維新のこと。
   *5:社司の下に属した神職。
   *6:国の機関に準ずること。
   *7:塞神(さいのかみ)。道祖神(どうそじん、さえのかみ)。
   *8:神社の境内にある庭。
   *9:静かでしーんとしていること。
   *10:高い杉の木。
   *11:このましいもみじ。
   *12:きわめて厳粛なさま。
   *13:世々に相伝えること。
   *14:奉斎。神仏などを慎んでまつること。
   *15:主に切り盛りすること。中心となって運営すること。

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

空から見た嵐山町 305 川島 2011年5月

川島
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2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:二区第一公園、B:薬師堂(きかず薬師)、C:川島区自治会館、D:川島区運動場、E:川島区集会所、F:川島区公民館、G:鬼鎮神社、H:天沼、I:ユニスター、J:サトーラシ嵐山工場、K:明星食品嵐山工場、L:根岸電材埼玉工場(川島)
M:埼玉県道69号深谷嵐山線
N:鶴巻運動公園(むさし台3)
O:嵐山志賀郵便局(志賀)
P:埼玉県道173号ときがわ熊谷線
Q:滑川町立月の輪小学校(滑川町月の輪6)
R:埼玉県立滑川総合高等学校(滑川町月の輪4)
S:東武東上線つきのわ駅
T:市野川

古い写真 回転蔟 1985年

回転蔟(かいてんまぶし)(晩秋蚕)

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1985年(昭和60)撮影

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・流薬師堂 ルビ・注

流薬師堂
 大字志賀第一區川嶋ニアリ、世傳ニ云フ、往昔(おうせき)尊体ノ其初畠山荘司重忠奥方ノ守本尊ナリシガ、畠山家滅後ハ奈何(いかん)ナル処ニアリテヤ、一年洪水ノ為メ川嶋後郊市廼川(いちのかわ)大急曲ニ環涒(かんとん)*1セル澳頭(おうとう)*2ニ漂着シ大楢(おおなら)樹幹ノ又跨(さこ)*3ニ駐(とどま)リ懸(かか)リ在(あ)リタルモノ、時經(へ)テ由縁(ゆえん)*4モ解(わか)リシヨリ其留地ニ近キ村人等(ら)一宇(う)*5ヲ該着辺(がいちゃくへん)*6ニ建(た)テテ奉安祈願セルコト多年ノ後、浸災(しんさい)*7ヲ避(さ)ケシタメ現境内ニ奉遷シテ復(また)多年ヲ經タリ、尊体木彫長七八寸前地ハ艮位(こんい)*8ニ二丁(にちょう)*9許(ばかり)籔林アリ、古薬師ト唱(とな)フ、現地ニ古碑存ス正和二年(1313)九月ノ字アリ餘ハ讀ミ難シ
 附(つけたり)曰(いわく)當薬師尊楢(なら)樹ニトヾマリカヽリシ所ヨリ、其頃以来俗間「木カカリ薬師」ト唱傳(しょうでん)*10セルヲ後ニハ訛(なま)リテ「キカズヤクシ」トスルハヒガ事*11ナリ
   *1:まわりはきだすこと。
   *2:水の曲がりは入ったところの岸辺。
   *3:また。
   *4:ゆかり。
   *5:お堂。
   *6:その流れ着いた辺り。
   *7:大水の被害。
   *8:うしとらの方角、東北。
   *9:1町は109メートル。
   *10:となえ伝えること。
   *11:僻事、まちがったこと。

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

嵐山町の桜 きかず薬師(川島) 2010年4月8日

薬師堂(嵐山町大字川島字花見堂)

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2010年4月8日撮影

嵐山町の桜 川島グラウンド(川島) 2010年4月8日

川島グラウンド(嵐山町大字川島字岩花)

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2010年4月8日撮影

嵐山町の桜 天沼(川島) 2010年4月8日

天沼(嵐山町大字川島)

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2010年4月8日撮影

嵐山町の桜 鬼鎮神社(川島) 2010年4月8日

鬼鎮神社(嵐山町大字川島)

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2010年4月8日撮影

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