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志賀

出水と窮民救済

 1870年(明治3)年7月14日(新暦8月10日)から降り出した雨は激しく、市之川、野原川、滑川、都幾川、加須川等は水嵩(みずかさ)が増し、20日より23日に至って、遂に荒川が決壊、田畑は水冠することとなった。越畑・土塩・菅田・菅谷・広野五ヶ村役人惣代広野村名主竹次郎は韮山県役所へ「田方出穂前畑方者草育肝要之節一円水冠ニ合成 −(中略)− 可立直様子も無御座候」(藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」)と届出ている。志賀の1870年(明治3)の御用留にも「当年出水等ニ而亡所出来 −(中略)− 破損流出等致候分巨細取調可申出候」(志賀一区有文書121「明治三年御用留」)との被害調査を通達している。

 出水騒動は治水の悪かった時代には頻発したことだろうが、1870年(明治3)のこの地域の出水は広範にわたり、その被害は時期が出穂前で根こそぎ流されたため、一粒の米も収穫出来ず、立直ることの出来ない状況であったと思われる。その結果多くの困窮した農民が現出されることとなった。

 維新による混乱は農民生活を圧迫し、吉田村においては 1870年(明治3)身元の良い者が出穀して困窮者へ割渡した書付が韮山県役所に出されている。名主彦右衛門他三名が銭拾貫文づつ計四拾貫文出し、これを和三郎他四名に一人壱貫八百拾七文ツヽ、家族の人員に応じて与えた様子が「融通書上帳」(藤野治彦家文書157)に記録されている。

 この様な状況のところへ取水による被害が追打をかけることになった。彦右衛門はその対策として、10月に三百拾六貫八百文を五ヶ年にわたって積立、貧民救方手当とすることを役所に届出、「窮民救助遣候」と裁可になった。どの様に配分されたか不明だが、五ヶ年で金にして百四拾四両が積立てられ窮民救済に当てられた。韮山県は彦右衛門他三名に対し「村方去秋稀成凶耗ニ而貧民夫食(日々の食糧)にさし支窮迫見聞ニ忍ひす飢民救助いたす段奇特之事」として褒状を与えている。こうした例は古里村の名主常三郎に対しても出されているので、窮民救済は随所におこなわれ、それ程出水の被害も大きかったのだろう。

  『参考史料』 藤野治彦家文書153「御用向諸色手控帳」

           志賀一区有文書121「明治三年御用留」

           藤野治彦家文書157「融通書上帳」

           藤野治彦家文書168

           中島立男家文書541

御用留からみた明治初年の民政

 志賀一区区有文書のなかに明治三年(1870)の「御用留(ごようどめ)」が残されている。「御用留」というのは江戸時代、村里において領主・幕府等からの触書(ふれがき)や回状を村役が書き留めて綴っておいた帳簿のことである。当時は大切な通知文書は必ず控えをとって保存した。其の習慣が明治になっても引き継がれてこの「御用留」になったのだろう。この「御用留」は志賀村名主水野僖一郎が明治三年八月より十月までに伝えられた回状・通達の控えを書き残したものである。
 1868年(慶應4)鳥羽伏見の戦に始まった戊辰戦争が1869年(明治2)五稜郭開城をもって終わり、江戸を東京と改めて遷都、ここに新政府が樹立した。新政府は天皇を中心に公家及び薩・長・土・肥等の下級武士によって構成された。彼等は錦御旗(にしきのみはた)を押し立てることで戦いに勝利したが、政権の座から永く遠ざかっていた為に実際の行政においては試行錯誤も多かった。1869年二官六省の制【神祇官・太政官(兵部・民部・大蔵・刑部・宮内・外務各省)】が置かれ、国民(農民層)へ対する行政は主として民部省から出された。別表の発信先をみると民部省或いは民生局・民政裁判所からの通達が多い。その他の発信人は下里村の関根玄友か鎌形村の簾藤万右衛門であり、回状の形をとっている。
回状と言うのは次の様なものであった。

            以回状啓上仕候然牛馬渡世之もの
            共御鑑札相渡相成拙者上御下
     相成候間為請取御出向可被成候尤御受
     書差出申候義付当人印形并村役人
     印形御持参可被成候 以上
       九月七日          簾藤万衛
      根岸村 千手堂村 志賀村 月ノわ村
                    右村々御名主中

上の文書は鎌形の簾藤万右衛門が出した回状で、牛馬売買人の鑑札がきているので当人と村役人の印鑑持参の上受け取りにお出向き下さい。という文面で、根岸・千手堂・志賀・月輪と順達するように村名主に宛てたものである。

 さて、この明治三年七月二十五日から十月八日までの御用留に控えられた三十二件ほどの用件(別紙参照)から当時の新政府が末端の農民に何を望んでいたのか探って行きたい。
 新政府が発足以来最も困っていた問題は経済であった。徳川幕府は八百万石という圧倒的な財力をもって天下を御(ぎょ)して来たが、新政府はほとんど無一文の出発で、除々に版籍が奉還され上知された土地を財源とするより他なかった。特に徳川家を七十万石で静岡に封じ込め、残りの所領(関東一円の旧旗本領)を中心の財源とした。従ってこの地方は恰好の徴税対象地域であった。
 先ず民部省に地理司をおいて各地に地誌の作成を命じた。これが村明細帳(村鑑)である「今般天朝より雛形の通りご布告之有り候」という文章で「村鑑帳」の雛形が伝えられた。明治三年八月二十三日附、天朝即ち天皇からの命令で九月五日までに雛形の通微細取調べ持参せよというのである。天皇のもつ権威をもって僅か十二日間で調査提出させようとした。「村鑑」の内容雛形をみよう。

 一、高何程 一、田何程 一、畑何程 一、石盛 一、何年度御検地
 一、水町(帳)損有無 一、小物成諸運上(うんじょう)有無
 一、家数何軒 一、人数何人 一、牛馬何疋 一、農間女稼
 一、林何ケ石 一、百姓林何ヶ処 一、秣場(まぐさば)何ヶ所
 一、漁猟場何ヶ所 一、御普請所 一、自普請所
 一、米津出(つだし)之場何ヶ所 一、東京迄里数 
 一、村方之内山里并豊窮之仕訳

以上の二十項目であるが、下線のものは田畑その他の収穫量或いは労働力に関係するもので、その他も経済にかかわる調査が目立つ内容である。新政府が如何に焦っていたかが偲ばれる。その他八月五日には畑からの収穫は金納(物で納めるのではなく金銭で納める)として納期をあらためて通達した。また、牛馬渡世の者(牛馬の売り買いを生業にする者・博労(ばくろう))には鑑札を渡し、かわりに冥加金(みょうがきん)(利益の一部を差し出すもの。一鼻綱(はなづな)に附き鑑札一枚冥加金三分)を徴集した。なお九月十五日には今年(午年)の年貢米を定免(過去五年から十年平均の年貢収納高をもって以降検見をおこなわず年貢を賦課すること)で承知し、例年の通り半紙に請書を書いて十八日までに差出すよう仰せ付けられた。その上十月八日、民生局から福田村・志賀村に対し「増米出精致し来る二十三日までに願書差出すべきもの也」と通達している。増米というのは定まっている年貢に上乗せして納める米である。また八月二十五日と九月十八日には出水・大風雨の災害の状況を雛形を示して調査させているが、新政府で破損箇所を修繕し救難しょうというのではない。何のための調査かというと「出水等にて亡所出来租税に相係り候分」即ち洪水で田畑が流され収穫できなくなり年貢(租税)に影響する分について巨細に取り調べよ、というのである。災害が徴税にどの程度影響するかをあらかじめ予測したかった。いづれにしても新政府の財政の苦悩を窺い知ることが出来る。
 次には宗教の問題である。江戸時代は仏教が中心となって民の精神界を支配し、行政にも深く関り、寺請制度等によって民の戸籍を管理し、又朱印地、除地等によって保護もされていた。しかし幕末、勤皇思想や倒幕、天皇親政の考えが成熟してくる背景に神道があった。日本は神の国であり、天皇はその末孫である、この国を統治するものは天皇である。という考え方である。新政府は天皇中心の新しい国を造っていく為には仏教を押えて神道を興隆させていかねばならなかった。1868年(明治元)年早くも「神仏分離令」をだした。これまで神宮寺のように神社と寺とが融合していたのを分離して、神社を独立させ引き立ててゆこうとした。以来廃仏毀釈(仏教と儒教を廃棄すること)の考えが鼓吹され、寺や聖堂がないがしろにされる傾向が生まれた。八月十八日に民政裁判所から「御支配所諸寺本末寺号始め元朱印地又は境内除地山林反別等明細取調差出候」よう通達があった。要するに寺が所有している年貢の免除地(朱印地・除地・山林)を調査し、これを削減して官有とし苦しい国の財政を潤し、同時に寺の勢力を殺ごうとした。次いで九月七日修験(役小角(えんのおずの)を祖と仰ぐ日本仏教の一派、山伏)に対しても調査している。「村々修験復餝神主に相成観音免とか地蔵免或いは虚空蔵免等と申仏名にて除地之有り候向は反別其の外取調」また「修験にて相続罷在候者所持の除地反別其の外巨細取調」差し出すこと。百姓でも仏号に付く除地反別、仏号の家作を所有する者の調査をさせた。これには但し書きがあって「神号に付く除地は書出しに及ばず候」とした。そうして民生局は廃寺を進めることとなる。九月二十九日「当管轄の村々無住無檀の寺院並びに修験復餝跡寺号の義更に廃寺申付候」ということで関係財産を取り調べ最寄三役へ十月十日限り差出すべしと通達した。十月四日志賀村の万福寺について下里村の名主玄友は志賀村の名主喜一郎の相談に応じ「村中一統御相談之上は勧農之御主意に基き是非共廃寺成られ候方然べく候」と、万福寺は廃寺となった。かくして廃仏毀釈はすすめられ神国日本が形成されていった。
 これに関連して日本は天皇の国であるという国体を明らかにしたかった。明治維新を創り出した新しい勢力は錦御旗(天皇家の家紋(菊花)を中央にあしらった錦織の旗)を押し立てることでそれを成就した。従って新政を推し進める上でも尊王思想を鼓吹したかった。太政官は「九月二十二日聖上御誕辰毎歳この日を以て天長節とし」と布告、末文に一昨年布告したが趣旨がよく徹底していないので周知させて奉祝せよ、というのである。またこれより先、七月太政官は「弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇右の通三帝御諡(おくりな)奉なされ候」と通達した。当時の農民もなんのことかと思っただろうが、これは皇統に関することで、この三人は争乱によって廃帝になったか、帝位につけなかった方々だが、これらに謚して万世一系の天皇家であることの証しとし権威づけようとしたのだろう。
 最後にもう一つ、七月、養蚕について民部省からの通達と諭告がみられる。諭告によれば「蚕卵紙(蚕が卵を産み付ける紙、種紙)の義は御国産第一の品にてその豊凶によりては御国内の損益のみならず貿易上にも差響き内外の人民商業の盛衰に拘る程のもの」で、当時としては農業についで養蚕は重要な産業であった。ところが近年製造が乱雑になり、私欲を謀り、衆人を欺く粗悪なものが多くなってきた。このように安くて粗悪な原産卵を使えば、翌年は減産に陥り養蚕衰微に至は必定である。そこで「諭告」を出したので養蚕に関るものには趣意をよく弁え説諭して、一時の利に拘泥せず精良の原産卵が国内に残り、将来の生産が倍殖するように世話すべし、と養蚕熟練者および村役人へ通達した。政府は九月五日には「蚕種製造規則同税則」を定め、養蚕製糸へ国が乗り出し、1872年(明治5)には国営の富岡製糸場の設置となっていった。
 この他にも陸軍の国章・旗章の布告、中学校の開校、下庁の役配等々の通達が控えられているが、大部分は新政府の財政に関連する調査・通達とみることができる。徳川幕府が大政を奉還して新しい天皇親政政府が出来上がっても財政は窮乏を告げ、それは農民層の負担に負うところとなった。
     ※志賀一区区有文書121 「明治三年御用留」 名主僖一郎
     ※岩波書店編『近代日本総合年表』

新編武蔵風土記稿 志賀村 ルビ・注

新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国(現在の東京都・埼玉県と神奈川県の一部)の地誌。ここでは、『昭和改修版』を底本とした。

   志賀村(しかむら)(現・比企郡嵐山町大字志賀)

志賀村ハ菅谷(すがや)村ノ内ナレバ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村*1ニ同ク、又郷庄領(ごうしょうりょう)ノ唱(とな)エモナシ。ソノ分村(ぶんそん)セシハ寛文(かんぶん)年中(1661−1673)ナリト云フ。サレバ正保(しょうほう)年中(1644−1648)ノ国図(くにず)*2ニハ此村名見エズ。元祿(げんろく)(1688−1704)改定ノ図*3ニ始テ出タリ。爰(ここ)モ隣村*4ト共ニ人馬次立(つぎたて)ヲナセリ。村名古ハ四ヶ村ト書キタリシト。イツノ頃ヨリ今ノ文字ニ改リシト云フハ詳(つまびらか)ナラズ。民家百二十、少シク宿並ヲナセリ。東ハ太郎丸(たろうまる)・月輪(つきのわ)ノ二村ニトナリ、南ハ菅谷村(すがやむら)・千手堂(せんじゅどう)・平沢(ひらさわ)ノ三村ニシテ、西ハ下里(しもざと)・中爪(なかつめ)ノ二村ニ続キ、北ハ市ノ川(いちのかわ)ニ限リテ杉山村ニ界(さか)ヘリ。東西二十町南北十町許(ばか)リ。コヽモ古ヘ岡部太郎作*5ノ采地(さいち)*6ナリシガ、明和(めいわ)九年(1772)上(あが)リテ*7御料所(ごりょうしょ)トナリ、安永(あんえい)九年(1780)秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)*8ニ賜リ、今モ子孫左衛門佐領セリ。検地ハ前村*9ニ同ジ。
   *1:菅谷村と同じで江戸より15里。
   *2:正保田園簿のこと。武蔵国のものは武蔵田園簿ともいう。
   *3:元禄郷帳。
   *4:菅谷村。
   *5:旗本。岡部氏2代目岡部玄蕃のこと。初代岡部主水(もんど)の母は徳川家康の命で秀忠(ひでただ)の乳母(うば)を勤め、主水は家康から2千石を与えられる。玄蕃は秀忠に小姓組(こしょうぐみ)で仕えた。
   *6:知行地。
   *7:上地(あげち)となって。没収されて。
   *8:秋元但馬守永朝のこと。秋元家の祖先は、戦国時代の末期深谷城主上杉憲盛(うえすぎのりもり)の重臣「上杉四天王」の一人秋元越中守景朝(あきもとえっちゅうのかみかげとも)で、深谷城落城後息子の長朝(ながとも)が家康に仕え、秋元家四代目秋元喬知(あきもとたかとも)と七代目涼朝(すけとも)はともに川越藩主・幕府の老中を勤めた。その涼朝の子が秋元永朝で、秋元家を相続して江戸城で奏者番(そうしゃばん)を務めた。
   *9:菅谷村。

高札場*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟などを書いて、人目を引く所に掲げた立て札の場所。

小名  鎌ヶ谷戸  坊谷  下新田


市ノ川 村ノ北ヲ流ル、川幅三間*1。
   *1:1間は約1.8メートル。

八宮明神(やみやみょうじん)二社 何レモ村ノ鎮守(ちんじゅ)ニテ村持。


稲荷社(いなりしゃ) 保食稲荷(うけもちいなり)ト号ス。保食神(うけもちのかみ)*1は稲荷ノ祭神ナレバ、タマタマ此唱ヲ得シナルベシ。
   *1:食物を司る神。

諏訪社(すわしゃ)*1
   *1:狩猟・農業の神社として崇拝された。


太神宮(だいじんぐう)*1 以上三社共ニ村持。
   *1:天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀った。

宝城寺(ほうじょうじ) 曹洞宗*1、中尾村慶徳寺(けいとくじ)末、大谷山ト号ス。開山臥雲寅竜(がうんいんりゅう)ハ慶長(けいちょう)三年(1598)十一月十六寂(じゃく)ス。本尊正観音*2ヲ安ス。
   *1:鎌倉時代に道元によって開かれた宗派で、坐禅を重視した。
   *2:聖観音に同じ。

万福寺(まんぷくじ) 新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)*1、秩父郡安戸(やすど)町*2上品寺(じょうほんじ)末。山号*3ヲ唱ヘズ。本尊不動*4ヲ安ス*5。
   *1:真言宗の一派。
   *2:安戸村とも書く。現・東秩父村大字安戸。
   *3:寺号の上につける称号。例○○山○○寺。
   *4:不動明王。
   *5:安置する。

武蔵国郡村誌 志賀村 ルビ・注

   ○志賀村(しかむら)【比企郡嵐山町大字志賀】

本村古時郷庄領不詳。元菅谷村と一村たりしが寛文(かんぶん)の頃(1661〜1679)分れて二村となり四ヶ村と称せしか後今の文字に改む。


疆域
(きょういき)*1
東は太郎丸(たろうまる)村と市の川を界し、広野・月の輪の二村と林丘及び小逕(しょうけい)*2を限り、西は下里・中爪の両村と山峯(さんぽう)を以て界とし、南は菅谷・平沢の二村と林巒(りんらん)*3或は耕地を接し、北は市の川を隔てゝ杉山村と相対す。

   *1:境界内の土地。
   *2:小みち。
   *3:ぐるぐる巡っている林つづき

幅員
(ふくいん)*1
東西二十六町四十五間 南北十二町。
   *1:はば。

管轄沿革
寛文の頃分村以前より旗下士岡部太郎作の采地(さいち)*1となり、安永元年壬辰(みずのえたつ)(1772)代官支配となり、九年庚子(かのえね)(1780)秋元但馬守の領地となる。天保十三年壬寅(みずのえとら)(1842)松平大和守の領地に転す。其高四百三十二石四斗六升とす。明治二年己巳(つちのとみ)(1869)前橋藩の管轄となり、四年辛未(かのとひつじ)(1871)七月前橋県と改り、十一月入間県に隷(れい)し、六年癸酉(みずのととり)(1873)熊谷県に属す。

 
里程(りてい)*1
熊谷県庁より南方三里二十五町四十二間。
四隣、中爪村へ二十一町十九間、杉山村へ十三町八間、菅谷村へ十五町十七間平沢村へ十四町二十七間、下里村へ一里二十七町。
近傍(きんぼう)*2、宿町松山町へ二里十四町六間。字東町裏を元標(げんぴょう)*とす。
   *1:道のり。
   *2:近所。

地勢
(ちせい)
西南に林丘連亙(れんこう)*1、東北に市の川を帯(お)ふ。車馬の便を得、薪炭贏余(えいよ)*2
   *1:長くつらなり続くこと。
   *2:あまり。

地味(ちみ)*1
色赤黒白相混し質悪く稲粱に適せす。麦、桑、茶、 楮(こうぞ)*に応す。時々水旱(かん)*2に苦しむ。

   *1:地質の良し悪し。
   *2:おおみずと日照り。

税地
田 四十一町三反六畝五歩
畑 四十町二反二畝二十八歩
宅地 四町二反七畝十六歩
山林 四十二町三反七畝三歩
総計 百二十八町二反三畝二十二歩


飛地*1

本村の北方杉山村の内畑五畝十四歩。

   *1:同じ行政区に属するが他に飛び離れて存在する土地。

字地
東町裏(ひがしまちうら) 村の東北にあり東西三町五十間四町三十五間。
西町裏 東町裏の西に連る東西二町四十五間南北三町四十五間。
北町裏 東町裏の北方に連る東西三町十四間南北三町二十間。
窪の前(くぼのまえ) 東町裏の東に連る東西四町十五間南北四町五間。
本竹(もとたけ) 窪の前の東南に連る東西二町四十間南北二町五十三間。
向原(むかいはら) 本竹の東に連る東西三町三十間南北三町三十五間。


貢租
地租 米百六十七石九斗三升三合。金七十二円八十八銭四厘。
賦金(ふきん)*1 金八円。
総計 米百六十七石九斗三升三合。金八十円八十八銭四厘。

   *1:賦課金。

戸数

本籍九十五戸、平民。 社一戸、村社。 寺二戸、曹洞宗一宇、堂一宇。
総計九十八戸。


人口

男二百六十一口・女二百四十七口・ 総計五百八口。他出寄留、男一人・女一人。


牛馬

牡(おす)馬四十七頭。


舟車

荷車一輛、中車。農車一輛。


山川

大谷山 高三十五丈。周回不詳。村の西方にあり。嶺上(れいじょう)より二分し北方は中爪村東方は本村に属す。山脈遠平山に連る。樹木欝葱(うっそう)字大木ヶ谷より上る三町。

上野山 高三十七丈。村の中央にあり。山脈清岩山に連る。樹木欝葱字西町裏より上る、五町四十八間。

清岩山 高三十六丈。周回十五町十間。村の中央にあり山脈上野山に連る樹木欝葱字南町裏より上る四町。

遠平山 高四十六丈。村の西隅(せいぐう)にあり嶺上より三分し、北は中爪村西南は下里村東は本村に属す。山脈雀ヶ峠日向山(ひなたやま)に連る。樹木欝葱西方より上る四町十五間。

市の川 深処三尺五寸、浅処五寸。広処四間、 狹処二間三尺。緩流清水堤防あり。
     村の北方中爪村より来り東方太郎丸村に入る。其間三十九町二十間。

高橋(たかはし) 熊谷道に属す。村の北方市の川上流に架す。長三間三尺、巾一間。木製。


森林
向原 民有に属す。東西四町、 南北二町三十七間。反別九町一反二畝歩。村の東方にあり雑樹繁茂す。


湖沼
(こしょう)
亀水上池 東西三十一間三尺、南北一町四十間。周回四町三十四間。村の西方にあり。

同下池  東西四十七間、南北四十間。周回二町四十八間三尺。村の西方にあり。

津金沢池 東西四十二間三尺、南北一町二十九間三尺。周回四町三十七間。村の南にあり。

諏訪入池 東西七十一間、南北六十八間。村の酉(とり)【西の方角】にあり。
         以上の池村の用水に供す


道路

東京道 村の西方中爪村界より東方菅谷村界に至る。長二十一町十間四尺。巾四間。本道より分れ秩父及び熊谷小川等への支道あり。


掲示場

村の東口より十二町一間にあり。


堤塘
(ていとう)*1
北町裏堤 市の川に沿ひ村の北方にあり。長二十四町二十間四尺。馬踏(ばふみ)*2七尺、堤敷(つつみしき)*3二間三尺。修繕費用は民に属す。  
   *1:つつみ。土手。
   *2:堤防の頂上。
   *3:堤防の占める土地。

神社 
八宮社 村社。社地東西二十一間南北十七間、面積百五十坪。村の坤(ひつじさる)*1の方にあり下照姫命(したてるひめのみこと)*2を祭る。祭日三月十五日、九月十九日。

   *1:南西の方角。
   *2:大国主命の娘 安産・農業開発の神として崇敬される。

仏寺
宝城寺 東西二十四間、南北三十五間。面積八百五十坪。村の西方にあり。曹洞宗中尾村慶徳寺の末脈なり。慶長(けいちょう)三年(1598)僧臥雲黄龍*1開基(かいき)*2創建す。
   *1:新編武蔵風土記には寅龍とあり。
   *2:寺院創建の際経済面を負担する世俗の信者。
 
観音堂 東西十四間、南北三十間。面積三百二十五坪。村の東にあり。


役場
事務所 村の中央戸長宅舎を仮用す。


物産
繭三十石。米五百石。大麦二百石。小麦二百七十石。大豆百八十六石。小豆十七石六斗。粟八石五斗。蕎麦十四石五斗。桑八百駄(だ)*1。楮二千五百貫目。生糸三貫二百目。生絹三百五十疋(ひき)。太織(ふとおり)*2二十七端(たん)*3。縞(しま)太織二十七反。白木綿三百八十五反。錦織四百十九反。炭五百三十貫目。真木(まき)二万三千五百貫目。薪(たきぎ)三千六百駄。
   *1:馬一頭に負わすだけの重量三十六貫位。
   *2:太糸をつかって平織にした地厚の絹織物。
   *3:布帛の大きさの単位、成人一人前の衣料に相当する分量。


民業
男女農桑採薪を専とす。


神社明細帳 八宮神社 菅谷村(現・嵐山町)志賀 ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村(すがやむら)大字志賀(しか)字清岩(せいがん)
 村社 八宮神社(やみやじんじゃ)

一 祭神(さいじん)
  天照大神(あまてらすおおみかみ)御子五柱命(みこごはしらのみこと)*1
  月讀命(つくよみのみこと)御子三柱命(みこみはしらのみこと)*2
  下照姫命(したてるひめのみこと)*3
  天照大御神(あまてらすおおみかみ)*4
  建御名方命(たけみなかたのみこと)*5
  保食命(うけもちのみこと)*6
  素盞嗚命(すさのおのみこと)*7
   *1:天照大神の子五柱の神。天照大神と素盞鳴尊が誓約をした時、天照大神の八尺勾玉を天真名井の水で清め、素盞鳴尊が噛み砕き、それを吹き出すとその息(狭霧)から、正勝吾勝々速日天忍穗耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと、正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命)、天菩卑命(あめのほひのみこと、天穂日命)、天津日子根命(あまつひこねのみこと、天津彦根命)、活津日根命(いくつひこねのみこと、活津彦根命)、熊野久須毘命(くまのくすひのみこと、熊野夫須美神)という五柱の神々が生まれた。
   *2:月読尊・月夜見命(月の神・農業の神)の子三柱の神。
   *3:大国主神(おおくにぬしのかみ)の娘。国や家庭、事業の安泰を司る神。
   *4:日本神話で、高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神。
   *5:大国主命の子。武神、軍神、農耕神、狩猟神。
   *6:五穀をつかさどる神。食物の神。田の神。
   *7:建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)・須佐乃袁尊。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。

一 由緒(ゆいしょ) 従前(じゅうぜん)五社明神(ごしゃみょうじん)ト唱ヒ五ヶ所ニ鎮座在ス明治五年(1872)八月旧入間縣廳ニ出願許可ノ上合併明治四年中(1871)村社届濟(とどけすみ)
 明治四十五年(1912)三月二十七日同大字字北町裏無格社八雲神社(やくもじんじゃ)ヲ本社ニ合祀ス

一 社殿 本殿

一 境内 百五十坪

一 氏子 九拾五戸

一 境内神社
 天神社
  祭神 菅原道真公*1
  由緒 不詳
  社殿 本殿
   *1:平安前期の公卿・学者・文人(845-903)。学問・書・詩文にすぐれ、菅公と称され、後世、天満天神として祭られる。

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2003年5月22日 小川京一郎さん撮影
※八宮神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1439頁
八宮神社(志賀)

空から見た嵐山町 368 志賀 2011年10月

嵐山町志賀(しか)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:上沼(堂沼)、B:下沼(堂沼)、C:観音堂(比企西国28番札所)、D:志賀第一集会所、E:嵐山町第2浄水場、F:水境下沼(嵐山町志賀)(しか)
N:大平山、O:千手院(曹洞宗)(嵐山町千手堂)
G:遠ノ平山(198.4m)
H:シロックス東京物流、I:カインズモール嵐山、J:大沼、K:太陽インキ製造嵐山北山事業所(嵐山町平沢)
L:千手院(曹洞宗)
M:大平山、N:小千代山、O:塩山
P:ときがわ町立玉川中学校(ときがわ町玉川)
Q:弓立山(426.9m)、R:雷電山(418.2m)、S:仙元山(298.9m)
T:武甲山(1295m)、U:丸山(960.3m)、V:堂平山(875.8m)、W:笹山、X:笠山(837m)

空から見た嵐山町 366 志賀 2011年10月

嵐山町志賀(しか)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:相生橋、B:杉山橋、C:六万橋(市野川)
D:宝城寺(曹洞宗)、E:武藏メモリアルパーク、F:小川地区衛生組合池ノ入環境センター(嵐山町志賀)(しか)
G:武甲山(1295m)、H:堂平山(875.8m)、I:笠山(837m)、J:大霧山(766.6m)、K:両神山(1723m)、L:西御荷鉾山(1286m)?

空から見た嵐山町 365 志賀 2011年10月

嵐山町志賀(しか)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:相生橋、B:杉山橋(市野川)
C:志賀沢橋
D:東武東上線
E:埼玉県道296号菅谷寄居線
F:宝城寺(曹洞宗)、G:武藏メモリアルパーク、H:小川地区衛生組合池ノ入環境センター(嵐山町志賀)(しか)

空から見た嵐山町 363 志賀 2011年10月

嵐山町志賀(しか)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:志賀沢橋
B:上沼(堂沼)、C:下沼(堂沼)、D:観音堂(比企西国28番札所)、E:志賀第一集会所、F:嵐山町第2浄水場、G:水境下沼、H:八宮神社(やみやじんじゃ)、I:大谷山(たいこくさん)(128.7m)、J:寺沼、K:宝城寺(曹洞宗)、L:武藏メモリアルパーク、M:小川地区衛生組合池ノ入環境センター(嵐山町志賀)(しか)
N:大平山、O:千手院(曹洞宗)(嵐山町千手堂)
P:遠山寺(曹洞宗)(嵐山町遠山)
Q:不動尊、R:白山神社、S:太陽インキ製造嵐山北山事業所、T:大沼、U:カインズモール嵐山、V:シロックス東京物流(嵐山町平沢)
W:遠ノ平山(198.4m)(小川町下里・中爪・嵐山町志賀)
X:国道254号、Y:国道254号小川バイパス
Z:東武東上線
a:埼玉県道296号菅谷寄居線
b:小川町立東小川中学校(小川町下里)(しもざと)
c:小川町立東小川小学校(小川町東小川2)
d:小川地区衛生組合ごみ焼却場(小川町中爪)(なかつめ)
e:仙元山(298.9m)(小川町下里・青山)(あおやま)

空から見た嵐山町 362 志賀 2011年10月

嵐山町志賀(しか)
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2011年10月4日、内田泰永さん撮影

A:新市野川橋(市野川)
B:志賀沢橋
C:嵐山町立志賀小学校、D:上沼(堂沼)、E:下沼(堂沼)、F:志賀第一集会所、G:観音堂(比企西国28番札所)、H:水境下沼、I:嵐山町第2浄水場(嵐山町志賀)(しか)
J:シロックス東京物流、K:カインズモール嵐山、L:大沼、M:太陽インキ製造嵐山北山事業所、N:ヤオコー嵐山バイパス店、O:比企広域消防本部小川消防署嵐山分署(嵐山町平沢)(ひらさわ)
P:JA埼玉中央嵐山農産物直売所、Q:嵐山ゴルフ練習場(嵐山町千手堂)(せんじゅどう)
R:国道254号
S:埼玉県道296号菅谷寄居線

空から見た嵐山町 320 志賀 2011年5月

関越高速自動車道
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志賀

2011年5月18日、内田泰永さん撮影嵐山インター

A:嵐山消防団第1分団第2部
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B:志賀沢川、C:寺沼、D:宝城寺、E:武藏メモリアルパーク(嵐山町志賀)
F::小川パークヒル団地(東小川角栄団地)(小川町東小川6)
G:埼玉県道296号菅谷寄居線
H:関口橋・東関口橋、I:六万橋、J:杉山橋、K:相生橋(市野川)
L:間越自動車道嵐山インターチェンジ、M:セイメイファーム、N:嵐山町立玉ノ岡中学校(嵐山町杉山)

空から見た嵐山町 323 志賀 2011年5月

嵐山町志賀
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2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:金平橋(東武東上線)
B:堂沼(上沼)、C:堂沼(下沼)
D:観音堂(比企西国第28番札所)
E:志賀第一集会所
F:嵐山町立志賀小学校
G:志賀二区自治会館
H:新市野川橋、I:川袋橋(市野川)
J:ヤオコー嵐山東口店(むさし台3)
K:埼玉県道296号菅谷寄居線
L:比企広域消防本部小川消防署嵐山分署
   →「比企広域消防発足までのあゆみ
   →「比企広域消防のあゆみ」(比企広域消防HP)

空から見た嵐山町 322 志賀 2011年5月

嵐山町志賀
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2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:東武東上線
B:堂沼(上沼)、C:堂沼(下沼)
D:観音堂(比企西国第28番札所)
E:志賀第一集会所
F:嵐山消防団第1分団第2部
G:志賀沢橋(志賀沢川)
H:新市野川橋、I:川袋橋(市野川)
J:嵐山町学校給食センター(杉山)
K:埼玉県道296号菅谷寄居線

空から見た嵐山町 321 志賀 2011年5月

嵐山町志賀
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2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:嵐山消防団第1分団第2部、B:志賀沢川、C:寺沼、D:宝城寺、E:武藏メモリアルパーク(嵐山町志賀)
F:埼玉県道296号菅谷寄居線
G:東武東上線
H:杉山橋、I:相生橋(市野川)
J:嵐山町学校給食センター(杉山)

空から見た嵐山町 319 平沢・志賀 2011年5月

小川パークヒル団地
(東小川角栄団地、1981年分譲開始)
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平沢・志賀

2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:太陽インキ嵐山北山事業所、B:沙羅英慕嵐山店、C:キーパープロショップ快洗隊、D:大沼、E:カインズモール嵐山(ベイシアフードセンター、カインズホーム嵐山店)、F:ヤマムラ倉庫(嵐山町平沢)
G:国道254号、H:国道254号小川バイパス、I:東武東上線
J:嵐山ドライブイン、K:八宮神社(志賀神社 五柱大神)、L:宝城寺(曹洞宗)、M:武藏メモリアルパーク、N:諏訪沼、O:小川地区衛生組合池ノ入環境センター(嵐山町志賀)
P:小川町立東小川中学校(小川町小川)
Q:旧・上野台中学校(小川町東小川2)
   1991年4月〜2011年3月、卒業生1485人。2011年3月卒業生53人。
   →「空から見た小川町 27 東小川、中爪
R:小川町立東小川小学校(小川町東小川2)
S:小川カントリークラブ(小川町小川・中爪ほか)
   →「空から見た小川町 28 小川カントリークラブ
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