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平沢

勤皇の志士 奥平栄宜(兵庫)

 奥平栄宜は1839年(天保9)千手堂内田元次郎と持正院38世栄州の長女との間に次男房吉として誕生した。39世栄鏡の嫡子が早世していたので、1850年(嘉永3)房吉12歳の時、其の養子となり家督を相続することになった。房吉は幼少期、義父の教える寺子屋の筆子として学問の手ほどきを受けたが、彼が養子となった持正院は円城寺聖護院を本所とする本山派修験の寺であったから、その宗法の習得練磨に精進しなければならなかった。修験道は難行苦行をなめて霊験を習得することを業とする一派であったから、13歳から15歳まで3年間寒中水行の荒行を修する傍ら、漢学を関左、菊地五郎、菊城等に学んだ。1854年(安政元)には「加行護摩二十一座」を修し、名を全教房栄宜と改め、栄鏡の長女サワと結婚、遂に1856年(安政3)弱冠18歳で持正院第40世住職となった。
 1868年(明治元)正月、栄宜は新聞により維新の大業がなったことと徳川恩顧の幕臣が徒党を組んで乱に及び、その鎮定のため有栖川宮、聖護院宮が京を発向したことを知った。彼は欣喜雀躍「予平素勤皇ノ志篤ク尽忠報告ノ志ヲ達センガ為王政復古ノ今日ニ至リ空ク辺土ニ彷徨スル時ニアラズ」と、3月28日親兄弟縁者の制止を振り払って上京した。栄宜30歳の時であった。始め勝海舟や山岡鉄太郎と共に、暴走する幕臣の鎮撫に当たったがのち、尾張藩の磅礴隊に加わり西丸吹上見附番頭として有栖川宮の警衛の任にあたり、11月には京都へ凱旋、紫宸殿に於いて勲功慰労の令旨を賜った。1869年(明治2)尾張へ帰り、藩校明倫堂で学問修行の傍ら練兵分隊指令として活躍したが、国の老父(栄鏡)病危篤との報に接し、無念ながら暇を乞い平沢村へ帰ってきた。
 その後1872年(明治5)太政官の修験廃止の布告によって、栄宜は持正院護持のために奔走することとなった。1874年(明治7)には天台宗寺門派として「八ヶ院総代」を申し付けられ、翌々年には「一派教導仮副取締」となって、近隣の寺門派寺院の取り纏めとお世話に力を尽くした。また1880年(明治13)衛生委員に選任され1884年(明治17)まで勤めた。その間「衛生委員通信」を出す等、地域の社会事業に貢献した。晩年は有栖川宮が総裁を務めた「日本帝国水難救済会」に加盟したり、各種の事業や災害へ寄付をする等、彼は常に村民の師表としてその生涯を終わった。
 1916年(大正5)「皇君に捧まつりし身なれどもまだ存命の心恥かし 梁山」の歌を残し、翌年69歳をもって永眠した。勤皇の志を失わなかった奥平栄宜を偲ぶことが出来る。

新編武蔵風土記稿 平沢村(現・嵐山町) ルビ・注

  平沢村(ひらさわむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字平沢)
 平沢村ハ江戸ヨリノ行程(こうてい)十七里ニシテ玉川郷(たまがわごう)玉川領(たまかわりょう)ニ属(ぞく)セリ。此地(このち)昔ハ平沢寺領(へいたくじりょう)ノ内ナリト云フ。按(おもふ)ニ郡中志賀村(しかむら)ノ民、内田氏某ガ所蔵ノ天正十三年(てんしょう)(1585)霜月(しもつき)*1十九日、内田佐渡守広重(うちださどのかみひろしげ)ヨリ同三郎左衛門広次(さぶろうさえもんひろつぐ)ヘ与ヘシ文書ニ武州平沢云々トアルハコヽノコトナルベシ。東ハ菅谷村ニ隣リ、南ハ千手堂村(せんじゅどうむら)、西ハ下里(しもさと)・遠山(とおやま)ノ二村ニテ、北ハ志賀村ニ界(さか)ヘリ。東西ノ径(さしわた)リ十八町*2南北ヘ九町許(ばか)リ。家数三十余。正保(しょうほう)(1644−1648年)ノ頃モ御料所(ごりょうしょ)*3ニテ寛文八年(かんぶん)(1668)坪井次右衛門(つぼいじえもん)*4検地シ、延宝八年(えんぽう)(1680)中川八郎左衛門(なかがわはちろうざえもん)*5新田ヲ糺(ただ)セシ*6ト云フ*7。其後元祿十一年(げんろく)(1698)金田周防守(すおうのかみ)*8ニ賜リシヨリ今子孫主殿ニ至レリ。
  *1:陰暦(いんれき)十一月の別称。
  
*2:1町は約109メートル。
  
*3:幕府の直轄地(ちょっかつち)。
  
*4:代官坪井治右衛門とも書かれている。
  
*5:『吉見町史 下』によると、武田の旧臣で家康に従った今井九右衛門忠昌の長男であったが、同じ武田の旧臣で家康に従った中川昌勝の養子になり、やがて代官になった。中川八郎右衛門の支配地は八王子の代官所と横見郡(現吉見町全域)で、御所村(ごしょむら)に陣屋(じんや)を置いていた。彼は1668年(寛文8)に横見郡内の検地に着手し、1680年(延宝8)に郡内の検地を完了している。
  
*6:新田の検地をした。
  
*7:中川八郎左衛門は横見郡の検地終了後、平沢村の新田検地を行なったことになる。しかし、その2年後の1682年(天和2)に年貢の滞納(たいのう)と行状(ぎょうじょう)よろしからずということで切腹(せっぷく)を命じられ、家も断絶(だんぜつ)になったという。『新編武蔵風土記稿』御所村の「陣屋蹟」の項には、「当郡ノ御代官中川八郎左衛門ガ居シ所ナリ。八郎左衛門ハ天和ノ頃家絶(た)エタリ。今其蹟(あと)スベテ畑トナレリ。」とある。
  
*8:旗本。

高札場(こうさつば)*1 村ノ中程ニアリ。
  *1:掟(おきて)などを書いてかかげた立て札の場所。

小名 赤井谷 デジョウ坊 タカン坊

平沢寺(へいたくじ) 天台宗*1、入間郡仙波(せんば)中院(なかいん)*2ノ門徒成覚山実相院ト号ス。相伝フ往昔(おうせき)*3ハ大ナル仏刹(ぶっさつ)*4ニシテ此地モトヨリ寺領(じりょう)ノ内ナリシト。今村内ノ不動堂ノ不動*5ハ古ノ本尊(ほんぞん)ニテ、又白山ノ社(はくさんのやしろ)モ其頃ヨリノ鎮守(ちんじゅ)ナリト云フ。此堂社ノコトハ下ニ辨(べん)ゼリ。『東鑑(あづまかがみ)』*6ニ文治四年(ぶんじ)(1188)七月十三日丁未(ひのとひつじ)*7武蔵国平沢寺(へいたくじ)院主被付僧永寛訖(おわんぬ)*8トアルハ当寺ノコトナルベシ。サレド今ハ開山モ伝ヘズ。イツノ頃ニヤ一度廃寺(はいじ)トナリシヲ郡中平村(たいらむら)慈光寺(じこうじ)*9ノ住職重永ト云フ僧、カヽル名刹ノ絶タルヲ歎(なげ)キテ天正ノ頃(てんしょう)(1573−1592)ニヤ中興(ちゅうこう)セシトイヘリ。宗長ガ『東路土産』(あづまじのつと)*10ニ鉢形ヲ立テ須賀谷ト云フ所ニ至リ、小泉掃部介(こいずみかもんのすけ)ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)シ、其ホトリノ平沢寺ニシテ連歌(れんが)アリ。此寺ノ本尊ハ不動尊、池ニフリタル松アルヨシノセタリ。是(これ)ニヨレバ永正(えいしょう)頃(1504−1521)マデハ存セシ寺ニシテ、廃(はい)シタルハ夫(それ)ヨリ後ノコトナルベシ。中興開山重永、寛永九年(かんえい)(1632)十二月廿九日示寂(じじゃく)ス。本尊は弥陀(みだ)*11安セリ*12。

  *1:平安時代に唐に渡って学んだ最澄(さいちょう)が帰国後開いた宗派。

  *2:川越市小仙波町にある中院は、1301年には関東天台宗580余寺の本山となり、関東天台教学の中心であった。江戸時代に天海大僧正が家康の信頼を得て活躍するようになると、関東天台宗の中心は同じ小仙波町にある喜多院(きたいん)に移った。現在は「天台宗別格本山特別寺」の称号を持っている。
  
*3:昔(むかし)。
  
*4:寺院。
  
*5:不動明王。
  
*6:吾妻鏡(あづまかがみ)。治承4年(1180)4月9日、源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵(きょへい)から文永3年(1266)7月20日、第6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任(かいにん)されて京都に帰るまでの事歴を編年体に記した史書。編著者は不明であるが鎌倉幕府の公式記録とする説が有力。
  
*7:文治四年は丁未ではなく戊申(つちのえさる)が正しい。
  
*8:訖(きつ)。動詞の連用形について動作が完了したことを示す。……してしまった。「武藏國平澤寺院主職事。被付僧永寛訖。」(むさしのくにへいたくじのいんじゅしきのこと。そうえいかんにつけられをはんぬ。)は「武蔵国平沢寺の寺主職を僧の永寛に与えられた」という意味。
  
*9:ときがわ町にある天台宗寺院、開山は鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟釈道忠(しゃくどうちゅう)といわれ、奈良時代以来の教えを伝える関東を代表する山岳寺院(さんがくじいん)。国宝、国重要文化財、県・町指定文化財が多数保存されている。
  
*10:東路の津登(あづまじのつと)。連歌師宗祇(そうぎ)の門人宗長(そうちょう)(1448−1532)が永正6年(えいしょう)(1509)東国を訪れた時の紀行文。「つと」というのはわらで作った包みのことで転じてみやげもののことも指す。「東路の津登」は「東国のお土産話」という意味。
  
*11:阿弥陀如来。
  
*12:安置する。

○天神社
○寺宝 経筒(きょうづつ) 一口
 享保(きょうほう)ノ頃ナリシ境内ニツヅケル地ニ、土人*1長者塚(ちょうじゃつか)トイヘル古キ塚ヲ掘シニ、古木ノ根ヨリ出シト云フ。銅ニテ尤モ古色ナルモノナリ。久安(きゅうあん)ハ今ヨリ六百七十年ノ余ニ及ベリ。
  *1:その土地に住んでいる人。土地の人。

其図左ノ如シ。
 長七寸九分 口(くち)ノ円形四寸
   敬白 勧進沙門實與
   奉施入如法経御筒一口
   右志者為自他法界平等利益也
   久安四年 歳次戊辰 二月廿九日 戊午
            当国大主散位平朝臣玆縄方縁等
       藤原守道 安●末恒【●は部の異体字】
       藤原助員(すけかず)*1

  *1:文意は、「沙門実与を勧進(かんじん)とし、久安(きゅうあん)4年(きゅうあん)(1148)2月29日に当国大主平玆縄とゆかりのものが施主となり、経筒を納めた。この志は、施主及びすべての者の平等利益の為に行なうものである。経筒の製作者は藤原守道、安部末恒、藤原助員である。」(嵐山博物誌第5巻)。平沢寺と経筒、持正院については、嵐山博物誌第5巻ほか、林宏一「藤原守道の経筒」(『埼玉県立博物館紀要 1』、埼玉県立博物館、1974年)『嵐山町史』、吉田稔「嵐山町平沢の旧修験持正院と平沢寺」(『研究紀要 17』、埼玉県立歴史資料館、1995年)などを参照。

不動堂(ふどうどう) 堂領六石五斗ハ慶安二年(けいあん)(1649)先規(せんき)ノゴトク御朱印(ごしゅいん)ヲ賜フ所ナリ。不動ハ伝教大師(でんぎょうだいし)*1ノ作、コノ像古ハ平沢寺ノ本尊ト云ヘバ、当時コノ地モカノ寺の境内ナルベシ。僧万里(ばんり)ガ『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』*2長享二年(ちょうきょう)(1488)八月ノ条(じょう)ニ云フ、十七日入須賀谷之北平沢山間太田源六資康之軍営於明王堂畔ニ三十騎突出迎余今亦深泥之中解鞍各拝其面賀資康無恙余己暫寓云
   明王堂畔間君軍  雨後深泥似度雲
   馬足未臨草吹血  細看要作戦場文
自註(じちゅう)ニ云フ六月十八日須賀谷有両上杉戦死者七百余員馬亦数百疋。是ニヨレバ此辺太田資康ノ軍営トモナリシコト知ルベシ。
  *1:日本の天台宗を開いた最澄(さいちょう)のこと。
  
*2:梅花無尽蔵は、室町末期の五山禅僧万里集九(1428−)が、その晩年、永正3年(1506)に自作の詩文を自ら編し注をつけた漢詩文集7巻(詩1451首、文111編)。万里集九が美濃鵜沼に構えた庵室を梅花無尽蔵(後年江戸城中にも同名の庵を設ける)と名づけ、また自称としても用いたことから家集の名としたもの。

○七社権現社(ごんげんしゃ) 村ノ鎮守ニテ境内ニアリ。祭神ハ白山及ビ熊野三社三嶋ノ三社ヲ合殿シテ七社ト号ス。サレド古ハ白山ノミノ社ニヤ『梅花無尽蔵』ノ詩社頭ノ月ノ自註ニ云フ、九月廿五日太田源六於平沢寺鎮守白山ノ廟(びょう)*1詩歌会与敵塁相対講風雅叶西俗無此様トソノ詩ニ
   一戦乗勝勢尚加  白山古廟沢南涯
   皆知次第有神助  九月如春月自花
依テ按(かんがえ)ルニ古ヘ平沢寺ノ鎮守白山ハ、当社ノコトニテ熊野・三嶋ヲ合セ、今七社ト号スルハ長享(ちょうきょう)(1487−1489)ヨリ後ナルコト知ルベシ。
  *1:白山神社のやしろ。

○別当(べっとう)*1 持正院(じしょういん) 本山修験(ほんざんしゅげん)*2、葛飾郡(かつしかぐん)小渕村(こぶちむら)*3不動院*4配下(ふどういんはいか)、顕蜜山不動寺ト号ス。当院本尊ニ神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)*5ヲ安ズ。寺伝ニ開山ハ栄源(えいげん)延宝(えんぽう)二年(1674)五月廿三日示寂(じじゃく)*6ト云フ。サレド、世代(せだい)ノ内ニ覚長(かくちょう)ト云ヘル僧アリテ永禄八年(えいろく)(1565)八月寂(じゃく)トアレバ、別当トナリシモ古キコトナルベケレバ、栄源ハ中興開山(ちゅうこうかいざん)*7ナルベシ。
  *1:神社の管理者。
  
*2:京都の聖護院(しょうごいん)を本山とする修験の派。明治政府の神仏分離政策(しんぶつぶんりせいさく)によって、1872年(明治5)に修験道は廃止になり、本山派は事実上解体された。
  
*3:現・春日部市小渕(こぶち)。葛飾郡幸手領に属した。
  
*4:関東を代表する本山派修験の大先達で配下の本山派修験寺院を支配した。参照:「春日部地史 近世−信仰−春日部市の寺社 近世の不動院
  
*5:役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)。7世紀末頃、大和の葛城山にいた呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。神変大菩薩は1799年(寛政2)に光格天皇から送られた諡号(しごう、おくりな)。
  
*6:僧侶の死のこと。
  
*7:寺を再興した人。

武蔵国郡村誌 平沢村 ルビ・注

  ○平沢村(ひらさわむら)【埼玉県比企郡嵐山町平沢】

本村古時玉川郷玉川領に属す

疆域(きょういき)*1
東は菅谷村と山巒(さんらん)*2及畦畔(けいはん)*3を界し、西は遠山、下里の二村と道路或山嶺(さんれい)*4を界し、南は千手堂村と道路を限り、北は志賀村と山嶺及び渓流を接す
   *1:境界内の土地。
   *2:ぐるぐると廻っている山つづき。
   *3:あぜ。
   *4:山のみね。


幅員(ふくいん)*1
東西十八町 南北十町五十間
   *1:ひろさ。はば。 

管轄沿革(かんかつえんかく)
天正中【1573〜1592】徳川氏の有となり代官之を支配す、田に高百四十一石九斗一升五合慶安二年伽【1649】六石五斗を不動堂に付す、元祿十一年【1698】戊(つちのえ)寅(とら)旗下士(きかし)*1金田周防守の采地(さいち)*2となる、天保十四年【1843】癸卯(みずのとう)上地、尋(つい)て松平大和守の領地となり、明治二年【1869】己巳(つちのとみ)前橋藩の管轄となり四年【1871】辛未(かのとひつじ)前橋県に改り、十月群馬県に転じ、十一月入間県に属し、六年【1873】癸酉(みずのととり)熊谷県に隷す
   *1:旗本。将軍直属の武士。
   *2:領地。知行地。
  

里程(りてい)*1
熊谷県庁より未(ひつじ)の方*2四里四町
四隣菅谷村へ十四町三十五間五尺志賀村へ十四町二十七間四尺、下里村へ一里九町三十九間四尺、千手堂へ十五町二十間、遠山村へ十八町十三間
近傍*3宿町松山町へ二里十三町二十九間五尺 字表を元標とす
   *1:道のり。
   *2:南西の方角
   *3:付近。

地勢(ちせい)
山脈四方に連亙(れんこう)*1し、東南に稍平地あり運輸便利薪炭贏余(えいよ)*2
   *1:ながくつづくこと。
   *2:あまり。

地味(ちみ)*1
色赤埴を相混じ稲粱(とうりょう)*2に宜しく桑茶に応せす水利不便時々旱(かん)*3に苦しむ
   *1:地質の良し悪し。
   *2:いねとあわ。
   *3:ひでり。

税地
田 十二町一畝歩
畑 十四町七反八畝二十七歩
宅地 一町三反二畝二十七歩
山林 三十二町七反五畝二十八歩
総計 六十町八反八畝二十二歩


字(あざ)地
表(おもて) 村の中央にあり東西三町三十間 南北三町
閼伽井(あかい) 表の西に連(つらな)る東西三町四十間 南北二町三十間
京枝(きょうす) 表の東に連る東西四町 南北二町三十間
延命橋(えんめいばし) 京枝の東北に連る東西四町五十間 南北一町四十九間


貢租(こうそ)
地租 米六十八石二斗五升二合 金四十円七銭
賦金(ふきん)*1 金四円十三銭三厘
総計 米六十八石二斗五升二合 金四十四円二十銭三厘

   *1:賦課金。

戸数
本籍四十六戸平民 社二戸村社一座平社一座 寺二戸天台宗一宇堂一宇
総計五十戸


人口
男百二十三口 女百七口 総計二百三十口


牛馬
牡馬十五頭


舟車
荷車一輛中車


山川
早風山 高三十丈周回(しゅうかい)*1不詳、村の西方にあり、嶺上より二分し西は下里村、東は本村に属す、山脈遠山村物見山に連る、樹木欝葱(うっそう)、字沢山より上る五町四十七間三尺

   *1:まわり。

森林 
中谷林 民有に属す、村の諸処にあり、反別三十二町七反五畝二十八歩*1雑樹繁茂す
  *1:32町7反5畝28歩は村の税地の山林面積と等しい。


湖沼(こしょう)
鴉池 東西三十二間 南北八十間周回(しゅうかい)四町四十八間。村の北隅にあり、村の用水に供す


道路
秩父道 村の東方菅谷村界より西方志賀村界に至る長十七町十八間二尺巾二間
掲示場 村の東口より十一町十五間にあり


神社
白山社 村社々地東西六間三尺、南北十一間、面積六十二坪、村の西方にあり。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)*1を祭る。祭日一月十三日
   *1:わが国土や神を生み山海草木をつかさどる男神,天照大神の父神

仏寺
平沢寺 東西十九間、南北十七間、面積五百六十四坪、村の西方にあり。天台宗入間郡小仙波村中院の末派なり、開基創建不詳 ○風(ふう)*1に何の頃にや一度廃寺となりしを、郡中西平村慈光寺(じこうじ)住職重永と云(い)へる僧、かゝる名刹(めいさつ)*2の絶えたるを歎きて、天正の頃にや中興(ちゅうこう)*3せしと云(いう)
   *1:うわさ。「武蔵風土記」のこと。
   *2:名高い寺。
   *3:いったん衰えたものを再び盛んにすること。

不動堂 東西十四間、南北十二間尺、面積六十坪。村の西方にあり ○風(ふう)に堂領六石五斗は慶安(けいあん)二年(1649)先規(せんき)*1のごとく御朱印(ごしゅいん)*2を賜(たま)ふ所なりとのす【載す】
   *1:以前からのおきて。
   *2:御朱印状のことで幕府が朱印を押して証明した公文書。


役場
事務所 村の西方戸長宅舎を借用す


物産
繭十五石 米百九十石 大麦百二十三石 小麦三十五石三斗 大豆二十八石 小豆七石 生糸八貫目 生絹(すずし)*1五十疋 炭五十駄

   *1:生糸の織物。

民業
 男女農桑及び採薪*1を業とす
   *1:薪をとること。

神社明細帳 白山神社 菅谷村(現・嵐山町)平澤 ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村(すがやむら)大字平澤(ひらさわ)字入(いり)
 村社(そんしゃ) 白山神社(はくさんじんじゃ)
   昭和二一、一○、一五 法人登記済

一 祭神(さいじん)
  菊理媛命(くくりひめ)*1
  伊弉諾尊(いざなぎのみこと)*2
  伊弉冉尊(いざなみのみこと)*3
  菅原道真公(すがわらみちざねこう)*4
   *1:黄泉(よみの)国からにげる伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が伊奘冉尊(いざなみのみこと)とあらそったとき、二神の主張を聞きいれ助言した。白山(はくさん)神社の総本宮である石川県白山比(しらやまひめ)神社の主祭神。
   *2:日本神話に登場する男神。天地開闢において伊弉冉(いざなみ)とともに生まれた。本州・四国・九州等の島々、石・木・海・水・風・山・野・火など森羅万象の神をもうけた。天照大神の父神。
   *3:日本神話に登場する女神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行う。火神を生んで死に、黄泉国(よみのくに)(死者の国)を支配する黄泉大神となった。
   *4:平安前期の公卿・学者・文人(845-903)。学問・書・詩文にすぐれ、菅公と称され、後世、天満天神として祭られる。

一 由緒(ゆいしょ) 天保十年(てんぽう)(1839)ニ至リ再建、然後(しかるのち)明治三年(1870)氏子寄附ヲ以テ修繕(しゅうぜん)ス。明治四十五年(1912)三月十九日同大字字表無格社(むかくしゃ)菅原社ヲ本社ト合祀ス

一 社殿 本殿

一 境内 五十五坪 昭和廿三年(1948)四月廿六日五五坪
   決 昭和二十四年(1949)十月十八日 五五坪

一 氏子 四拾六戸

※白山神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1423頁)
白山神社

空から見た嵐山町 318 千手堂・平沢 2011年5月

嵐山町千手堂・平沢
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2011年5月18日、内田泰永さん撮影

A:春日神社、B:蓮沼(大字千手堂字明神前)
C:千手院(曹洞宗)、D:天磐戸宮(谷)
E:嵐山町上水道配水場(比丘尼山)
F:コワセウッディ&BOX事業部(大字遠山字坂下)
G:白山神社、H:平沢寺(天台宗)、I:不動尊(大字平沢字入)
J:太陽インキ製造嵐山北山事業所、K:大沼(北山)
L:カインズモール嵐山(遠道)
M:国道254号
N:東武東上線

奥平栄宜(兵庫・梁山)略歴

天保十年(1839)三月
  内田元次郎の次男として誕生。幼名房吉(七日)。
嘉永三年(1850)十二月 
  房吉十二歳にて栄鏡の養子となり家督を相続。
嘉永六年(1853)
  聖護院流宗法を練磨、三ケ年間寒中水行を修す。また、この間漢学を関左(栄州の墓誌をかいた人物)菊地太郎・菊城に学ぶ(十三歳から十五歳まで)。
安政元年(1854)
  十六歳の時加行護摩二十一座を修し、名を全教房栄宜と改称。栄鏡長女サワと結婚。
安政二年(1855)
  女子モン誕生(十一歳にて早世)。
安政三年(1856)二月
  十八歳にて持正寺住職となる。
安政六年(1859)
  長男谿司誕生(十一月ニ十九日)。奥州塩釜神社参詣。その間文人墨客を訪問見聞を広める。
文久二年(1862)四月
  次男泰三郎誕生(八日)。
文久二年(1862)八月
  妻サワ病死(二日、麻疹)。
明治元年(1868)三月
  後妻として永嶋采太郎長女ツギを娶る。尽忠報国の志を達せんがため上京(八日)。勝海舟・山岡鉄太郎等と共に反乱の幕臣誠忠隊等の鎮撫に当たる。
明治元年(1868)七月
  「考える処ありて」当局を辞す。後、尾張藩中西信之助の磅礴隊へ加わり有栖川宮警衛となり、西丸吹上見附番頭に任ぜらる。
明治元年(1868)八月
  徳川家からの朱印地(六石五斗)及び除地返納の旨を申し出る。
明治元年(1868)十一月
  有栖川宮凱旋御帰京(京都)に供奉(七日)。京着、紫宸殿において勲功慰労の令旨と酒肴を賜る(二十八日)。ツギに子生まれる。八歳のとき遠山寺本多金龍の従弟となり本多随龍と称す。
明治二年(1869)四月
  尾張藩校明倫堂に於いて文学修行差し許される。
明治二年(1869)五月
  練兵分隊指令を命ぜられる。
明治二年(1869)八月
  国元老父病危篤の報により暇を賜り帰国。この時の感状に「奥平兵庫」の名あり。
明治五年(1872)
  太政官布告により「修験」廃止。
明治六年(1873)
  本山修験持正院栄宜として「建言書」を政府へ提出。
明治七年(1874)
  八ケ院総代に選任される(四日)。
明治九年(1876)六月
  院称廃止の旨申聞かさる。
明治九年(1876)九月
  埼玉県一派教導仮副取締申し付けられる(二十五日)。
明治十年(1877)六月
  不動堂元朱印地内二段五畝五歩(地代十五円)払下げ願い出る(十五日)。
明治十一年(1878)九月
  不動堂進退御伺出す(一日)。
明治十三年(1880)四月
  平沢村衛生委員に選任される。以来明治十七年(1884))まで勤め、その間「衛生委員通信」を出す。
明治十五年(1882)十一月
  菅谷分署建築費寄付感状受ける。
明治十五年(1882)十二月
  遠山村新道開鑿費寄付感状。
明治十六年(1883)十一月
  教導職試補・教導取締代務差免さる(七日)。
明治十七年(1884)四月
  「養蚕補育必携」の出版を願い出る(七日)。
明治三十一年(1898)五月
  「日本帝国水難救済会」(総裁有栖川宮威仁親王)正会員となる(二十二日)。
明治三十六年(1903)
  義父栄鏡の墓碑を建つ。
明治三十六年(1903)十二月
  横浜市伊勢佐木町火災罹災者救恤金寄付感状(二十八日)。
明治三十九年(1906)六月
  明治三十七・八年戦役の際従軍者家族扶助のため寄付感状。
大正五年(1916)
  「皇君に捧げまつりし身なれどもまだ存命の心恥かし」梁山の一首を残す。
大正六年(1917)六月二十五日
  六十五歳をもって寂滅。

平沢寺・不動尊縁起

   菅谷平澤寺縁起
何事のおはしますかは知らねども忝なき只不動尊を信じ侍るに感るい催し尊くおぼへければ、誠や不可説不可思議の大聖、中々申すも愚かなれど郡參のふしもの故障なく、修補等の砌も冥感ありて風雨晦明し、諸人の知らざる自然の冥益數えるにいとまあらず、只古ことの靈驗を伺ひ見むと、道澤靈塲集をさかし求れど、舊古因縁はさたかならず、更にあらくとあらわのみを書ぬきて、道澤两部靈塲記と號して、遠境の人にしらする、一度詣して尊むべきものなり。
                  道澤柳條書

    不動尊縁起
夫れ當山草創來由を尋て其の縁起の大概を伸るに、往古は無雙の伽藍にして大日遍照能化鎭護國家の道塲、顯密秘法の靈たり、大聖忿怒王普く三部の寶劍を持して、盤石の上に在座し忿怒の靈を呈し、恥を此の地に飛はし塵を點劫の穹に廻らし、心を深山の月に澄し、跡を斗藪の雪に埋み、彼の先蹤を仰き其の遺塵の繼て一の陀羅尼を明王の誓願に歸し、忿身利生の化たり。爰に靈地の濫觴を伸る人皇三十七代孝天皇の馭宇、(當山榮山阿闍梨は京都嵯峨に大覺寺宮の出にして則ち密家緇林密行を本とし給故眞言宗なり、此時堂寺の號を大阿羅惹寺という、即ち大覺寺宮の面名にしてしかいふとかや)、榮山阿闍梨という聖人正妙覺の大智を隱し、外に形躰を秘し内には羮慈悲を催し、眞實不虚の妙理なり、寔は鶻侖を環りて金輪蓬莢に戴て巖間に漲起るの粧ひ、大雪響の音を發し大龍氣を吐くににたり、時に本尊寶劔の振て羂索を提けて光明雲臺に在り微妙能樂を奏し、時風開けて艸創舊しといゑども、顯密の峰に塋きて寶殿月光を看るの頃しも、持統天皇御歳四十八年二月雪路を凌いて密に藪々深く實相の月を棲して、當山に臥起す、明王縛法を繋けて永く顯密山に居住殘り団明纂垈鬚べからず、當來導師の忿怒尊是即ち凡夫實類の迷精たり、衆生を傾倒せしめ七千恒沙の薬又羅刹荷擔して一乘菩提の靈地たり、玉字普賢窟に耀く、明光天長地久國家安全の祈誓し、蘋蘩薀藻の奠を獻して、法味を羨て、慈雲廣く壽ひて四生の迷徒を導ひきて、法雨普く澍て六趣の牢獄を潤おし、佛智の知見に應し天道の威を瓩笋髪庄勝其の刻天武天皇の御宇に役の優婆塞、(即ち此尊摩訶陀國の正中に妙圓滿と號し、閻浮の北に北辰補膽落迦山門主城にて大天、雪山にて佰太と號し、我朝にて證誠大菩薩熊野權現那智権現、今御勅にて馳諒郢Г箸い嫐)伊豆の大嶋より冨士山の仙窟を討ねて關東の靈地武藏の山峰飛行して密行を調練し給ふ頃しも、當山に攀しもふで何心なく唯大覺忿怒を思唯して、大悲心を以て方便利導し、凡庸をして漸趣修行して此土を大檀として莊嚴集花し、採燈大護摩の秘法を修せしめんと當堂南谷の邊に閼伽水を祈求し給ふに、知兇隆禁羔しからず倏に大地裂て浄水湧出す、(今閼伽井といふ世俗あやまりてあかゑの井戸抔といふ)
夫より數百歳の今に至て湧き溢るゝ、旱魃にも涸る事なし、嚴冬にも冱る事なし、一時有信の人此水に臨ミ大聖の尊影を拜したてまつれり、近郷郡民是を影向閼伽井といふ、常に是を服して病を痊者少からず、此に人皇四十代天皇天武帝の馭宇當山にもふでゝ結縁していはく、我か心願成就いたしなば御堂建立しぬらんと、即ち御祈誓して夫より當山に歸依厚くして再び堂宇構營したまふ、(當山實嶺法印現住の時、本尊大聖忿怒の聖法の精舎を營みなしおはんぬ)寔そ尊像顯はにして公士の渇仰國史に顯然たり、中頃廣慧菩薩傳教大師暫く滯跡の靈塲前世無雙の蕞堤にして、大師自ら忿怒の尊形を彫刻し給ふ(頃は貞觀十年座像御長五尺尊躰一軀彫す、古より傳來の尊像は腹籠り在座)
寔に佛化の尊影顯はにし能く萬民豐樂の知釼を帶る淡出之鼎留童をなし、無二三臨の海鬚覆劇に天治二年(此時當山聖護院末風を承天台宗を掌の内として顯秘を修せり、是に依て两宗兼練に難成、然に顯密山といふ今に至て天台眞言共に兼る者なり)
實海正道驗家秘密の勤行をなし、夫より今に三密加持の道塲を調表するものなり、頃に就て久安餘年には國司平の朝臣在廳(藤原乃守道安部の末恒)宦利等悉く歸敬有て御經密具等を獻せらる(連署能文等是なり、器物今に一二を存すなり)
頃しも、人皇七十六代近衞院の御時に左馬頭源乃義朝朝臣鎌田兵衞政罎鳩臣北國奥州ゑ發向の刻當山に詣せらる(此山内の北に遠藤武者の屋敷と當寺山内鎌倉道筋今に至て鎌倉海道といふて古き道有、守任の暫く居住所といゑり世俗只ゑんといふ)
時軍中安寧の祈願を鬚鵑討茲衙猛△房颪ぬ、其時堂宇再構し給いぬ、其右大將家の皈仰により(鯆公此時父義朝の感應文覺寺の由來を巨細に聞こしめし百十餘石の朱印を下し給付と)
當寺の主長鎌倉に參勤し專ら君寵を蒙りし事東鑑寺諸録に委し、往古七堂伽藍の舊跡今纔に地明歴然たり、此に記す(本堂不動尊堂大日堂十一面觀音堂藥師堂十王堂毘沙門堂辨天堂右七堂伽藍なり、坊中に金藏坊、妙觀坊、阿住坊、俗あやまりてたがん坊といふ、御山坊今は深山といふ解道寺今下道といふ団緬圭仂訐就坊持心坊智明院延命院天男敬蹐燭蝓∨社に鎭守妙理大權言并熊野三社三嶋三社子安大明弾8吟鵬拉啓厮算匍榲楕燭遼訐仕卦楷笋两頭諏訪明壇)
今古傳の仰き尊く聖護院宮の門風を嘯き龢光の法燈を耀し顯密の行を盛にし(是に依て顯密山と號し大明王の感を感し大阿羅惹寺稱號し給ふ也) 國守擁護の佛躰にして寔は靈驗無双速證一にあらざらむや、金鈴玉磬の聲響き影向散華退轉なく罪障消滅家運榮耀の誓願誤らず、閼伽井を不動と稱しては近隣の緇素巨益を蒙り、然といゑとも永祿天正の頃上杉謙信關東横行、小田原北條氏沈落等の兵燹に罹り、囘縁の災ひにて此時當山覺長三十世に現住の時火災に逢て倫旨御朱印等諸記録等も永く絶たり、殿堂坊舎一宇全からす、數代連綿たる儈坊路傍に顚倒する事一百餘年此時に寶物傳器等土中に埋むと云今寶玉塚と稱して山中にあり、是を堀に靈物在レ之、然れども堀人必す崇ありという當山近邊に塚の數難レ計此に略するものなり)
悉く焦土す、嗚呼大智慧の利劍も徒に三毒の劫火に壊せらる、三昧寶索も空しく魔風止めかたし、雖レ然尊像恙くして金剛石座にまします事火性三昧を誓語不レ誤知らす、諸の障を焚燒するの謂ならむや、誠に四民仁政風雨順熟して天下安全懇祈を抽んで金剛胎藏两部の秘法修せしめんや、猶邦民歩を寶殿に運は自ら利生を得る、殊更最勝陀羅尼を信すれば諸の魔を降伏す、一念三千のを得大中下根に隨ひて利益を作す能く障難を降伏し給ふ、信者の感應は天地雲泥の敬禮にや依べし、若人信心面に三八日酉の日信ずれば大智慧を得のみならず、諸病衆難を除き壽命長延にして七難を除き七福を家内に設けんや、士農工商の意願は叶はさらんや、歎の丹匯由い傍韻餘光を蒙り忝も古代の佳模を糺れて新に今寺封として御朱印を下し給ふ、後寺跡を相續し寶前の御祈禱護摩怠る事なし、當山乃眷屬を家内に祝ければ夫■狼の災ひままぬかれ、盗賊の難を遁て惡火鎭防する事世間求樂豈に唐捐ならんや、古代の濫觴を一二と明す而已。
(仁王門跡下階にあり、側如意輪塔祖師堂是に本坊顯密山大乘坊大阿羅惹寺、持正院此邊右坊舎古社等其外の委き事當山大縁起に有レ之只少略して靈のみ記印す)
  享和三照陽大淵獻朱律星月吉石燕日
               顯密山別當所
                  大阿羅惹寺持正院

※内田保治・内田豊作奉額「不動堂」 1976年(昭和51)
奉額

嵐山町の奉額 不動堂の俳額

不動堂(平沢)の俳額
1
俳額1

2
俳額2

3
俳額3

※天保11年(1840)に奉納された俳額で、評者は蘭山と可布とある。可布は久米逸淵(1790-1861)。武藏国八幡山(現・本庄市児玉町児玉)の人。毛呂山の春秋庵川村碩布(せきふ)に学ぶ。春秋庵5世、可布庵1世。可布については、埼玉県HPの『埼玉ゆかりの偉人データベース』「久米逸淵」参照。

寺院明細帳 天台宗 平沢寺 菅谷村(現・嵐山町)平沢 ルビ・注

埼玉県管下武蔵国比企郡平澤村字入
 同県同国入間郡小仙波村中院(なかいん)末
  天台宗(てんだいしゅう) 平澤寺(へいたくじ)

一 本尊(ほんぞん) 阿彌陀如来(あみだにょらい)

一 由緒(ゆいしょ) 創立年度不詳(ふしょう)ニテ中興開基(ちゅうこうかいき)比企郡西平(にしだいら)慈光寺(じこうじ)住職重永ト云僧、天正之頃(てんしょう)(1573−1592)再建。然(しか)シテ後天保九年(てんぽう)(1838)五月焼失セリ。仝十年(1839)該寺(がいじ)*1本堂建立。降(くだっ)テ明治十三年(1880)檀徒(だんと)ノ寄附ヲ以テ修繕(しゅうぜん)ヲ加フ
     昭和十七年(1942) 月 日  規則ヲ認可ス
  *1:その寺。


一 本堂 間口(まぐち)六間(けん)
     奥行(おくゆき)三間

一 境内 二百九拾四坪 ○決昭和二十四年(1949)十一月二十五日
     四五七坪七合七勺
     二八四坪トアリ(官有地第四種)

一 境外所有地
田反別(たたんべつ) 三畝(せ)十四歩(ぶ) 平澤村字表
 地價(ちか) 金拾三円拾貮銭七里
田反別 壱補壱八歩       同村字後谷
 地價 金七円拾六銭
田反別 三畝廿四歩       同村字京枝
 地價 金貮拾円九拾三銭
田反別 六畝貮歩        同村同字
 地價 金三拾五円五拾貮銭七里
田反別 五畝廿五歩       同村字入
 地價 金貮拾貮円七銭八里
畑反別 貮畝三歩        同村字後谷
 地價 金貮円五拾七銭
畑反別 貮畝廿貮歩       同村同字
 地價 金三円三拾五銭壱里
畑反別 三畝拾壱歩       同村同字
 地價 金三円三拾五銭壱厘
畑反別 壱反拾三歩       同村字上原
 地價 金七円九拾八銭七里
畑反別 八畝廿三歩       同村字松葉
 地價 金八円七拾貮銭壱厘
畑反別 貮畝十六歩       同村字入
 地價 金三円拾銭六里
畑反別 五畝廿三歩       同村同字
 地價 金五円七拾三銭八里
林反別 壱畝廿五歩       同村字峯
 地價 金拾八銭三里
林反別 壱反四畝廿壱歩(一反三畝拾五歩) 同村字上原七四ノ一
 地價 金貮円貮拾銭五厘
芝地(しばち)反別 貮畝七歩   同村字入
 地價 金六銭七里

一 檀徒(だんと)   四拾壱人

一 管轄廰迄(かんかつちょうまで) 拾壱里九町貮間四尺
                      以上
00318

00315
2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

堂庵明細帳 不動堂 菅谷村(現・嵐山町)平沢 ルビ・注

埼玉縣管下武蔵国比企郡平沢村字入
 同縣同国同郡同村平沢寺持
 曹洞宗三門派(ママ)(そうとうしゅうさんもんは)*1
不動堂
  *1:曹洞宗には三門派はない。天台宗の山門派の間違いではないか。1940年の宗教法人法の規定で仏堂は寺院に属することになり、その関係で不動堂が天台宗の平沢寺に属するようになったため、天台宗の山門派が誤記されたのではないか。

一 本尊 不動尊(ふどうそん)

一 由緒(ゆいしょ) 人皇(にんのう)四十一代持統(じとう)天皇十八年*1二月建立。降テ宝永七年(ほうえい)(1710)二月再建
  *1:持統天皇は690年に即位し、在位7年。十八年では年数が合わない。

一 本堂   間口三間三尺
       奥行四間

一 境内   百七拾坪 官有地第四種

一 信徒*1  四拾六人
  *1:信者。

一 管轄廰迄(かんかつちょうまで) 拾壱里九町貮間四尺
                         以上
 昭和十七年(1942)三月三十一日比企郡菅谷村大字平沢天台宗平澤寺(へいたくじ)へ所属ノ件認可。

00309

00311

00313
2003年5月22日 小川京一郎さん撮影

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・平澤懐古 ルビ・注

平澤懐古
 大字平澤ノ古刹(こさつ)*1成覺山實相院平澤寺ハ往代(おうだい)著(いちじ)ルキ*2大伽藍(がらん)*3ニシテ当部落モ其寺領ノ僅々(きんきん)タル*4一部分ナリリシガ程(ほど)ニ隷堂(れいどう)*5末社ノ彙(あつまり)モ多数浄境ノ内外ニ列在シタルハ書傳(しょでん)*6其他ニ徴(ちょう)シテ*7識(し)ラルルナリ、其間ノ諸消息(しょうそく)*8ニハ懐古(かいこ)*9ニ清趣妙味(せいしゅみょうみ)*10ヲ覺ユル事往々ニシテ少ナカラズ、今試ミニ一二ヲ表出センニ、先ヅ中古関左(かんさ)*11ノ名将タル太田左金吾持資入道(おおたさきんごもちすけにゅうどう)親子*12ガ薬籠(やくろう)*13中ノ俊才幕賓(ばくひん)*14間ノ策士(さくし)*15タル奇僧萬里(ばんり)*16ガ「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」ノ一二齣(こま)ヲ視(み)ヨ「長享二年(ちょうきょう)(1488)八月(上畧)十七日入須賀谷(すがや)之北平沢山問太田源六資康之軍營於明王堂畔二三十騎突出(とっしゅつ)*17迎余今亦深泥之中解鞍各拜其面賀資康無恙余已(すでに)暫(しばらく)寓(ぐうす)*18云(うんぬん)*19
  明王堂畔問君軍、雨後深泥似度雲、
  馬足未臨草吹血、細看要作戦場文、
自註云六月十八日須賀谷有両上杉戦死者七百餘員馬亦数百疋
 又自註云九月廿五太田源六於平沢寺鎮守白山廟催詩歌會與敵壘相對風雅叶西俗無比様
  一戦乗勝勢尚加、白山古廟澤南涯、
  皆知次第有神助、九月如春月白花、 云々
次ニ宗長(そうちょう)トイヒケル才学ガモノセシ「東路土産」*20ニ「(上畧)鉢形(はちがた)ヲ立テ須賀谷(すがや)ト云所ニ至リ小泉掃部助(こいずみかもんのすけ)ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)シ、其ホトリノ平澤寺ニシテ連歌(れんが)アリ、此寺ノ本尊ハ不動尊、池ニ古リタル松アリ(下畧)云々」以上孰(いずれ)レモ観古(かんこ)*21ニ興味ヲ有スル事共ニテ、如何ニ斯(かく)傍近(ぼうきん)*22ニ採(と)ルベキ資料ノ逸(いっ)セル*23カヲ惜(おし)ム
   *1:古い由緒のある寺。
   *2:はっきりとわかる。
   *3:寺の建築物。
   *4:わずかな。
   *5:付属するお堂。
   *6:書き伝え。古人が書き残した書物。
   *7:見比べて考える。
   *8:事情。変化するものごとのその時その時のありさま。
   *9:昔の事を懐かしく思うこと。
   *10:けがれの無いすぐれたおもむき。
   *11:関東のこと。
   *12:太田持資(道潅、1432-1486)と子の太田資康(すけやす、1476-1513)。左金吾は左衛門督(さえもんのかみ)の唐名。
   *13:薬箱の中にある薬品のように、いつでも必要なときに、自分の役に立ち、自由自在に使える人物。
   *14:相談役となり、特別の待遇を受けている人。
   *15:はかりごとをたくみにする人。
   *16:万里集九(1428ー?)。室町中期の臨済宗の僧。後期五山文学の代表者。
   *17:出し抜けに飛び出すこと。
   *18:かりずまいする。
   *19:と云う。
   *20:東路の津登(あづまじのつと)。連歌師宗祇(そうぎ)の門人宗長(そうちょう)(1448−1532)が永正6年(えいしょう)(1509)東国を訪れた時の紀行文。「つと」というのはわらで作った包みのことで転じてみやげもののことも指す。「東路の津登」は「東国のお土産話」という意味。
   *21:古いことをしらべ見ること。
   *22:近いところ。
   *23:失う。

嵐山町の桜 平沢寺(平沢) 2010年4月12日

平沢寺(天台宗)
(嵐山町大字平沢字入)

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2010年4月12日撮影

嵐山町の桜 白山神社(平沢) 2010年4月12日

白山神社(嵐山町大字平沢字入)

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境内社・天神社
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2010年4月12日撮影

嵐山町の桜 平沢児童遊園地 2010年4月1日

平沢児童遊園地(平沢)
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2010年4月1日、井島宏さん撮影

嵐山町の桜 嵐山歩道橋(平沢) 2010年4月1日

嵐山歩道橋(平沢)
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2010年4月1日、井島宏さん撮影

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