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遠山

新編武蔵風土記稿 遠山村(現・嵐山町) ルビ・注

   遠山村(とおやまむら)(現・埼玉県比企郡嵐山町大字遠山)

遠山村モ玉川領ニ属シ江戸ノ里数モ前ニ同ジ*1。民戸二十余。東ハ千手堂(せんじゅどう)・平沢(ひらさわ)ノ二村ニ隣リ、南ハ田黒村(たぐろむら)ニテ、西北ハ下里村(しもざとむら)ニ接(せつ)セリ。東西二十町余、南北十七町許(ばか)リ。御入国(ごにゅうこく)*2ノ後ヨリ御料所(ごりょうしょ)*3ナリシガ、宝永六年(ほうえい)(1709)内藤某ニ賜リ今モ子孫主膳(しゅぜん)知行セリ。撿地(けんち)ハ前村ニ同ジ*4。
   *1:下里村(しもざとむら)から江戸まで17里と同じ。
   *2:徳川家康が1590年(天正18)に江戸城に入ったことをさす。
   *3:幕府の直轄地。
   *4:下里村の1668年(寛文8)坪井次右衛門実施と同じ。

高札場(こうさつば)*1 村ノ中程ニアリ。
   *1:掟(おきて)などを書いて、人目を引く所に掲(かか)げた立て札の場所。

小名 滝守 井上 小林 蛇谷 中沢 茗荷沢 打越 横吹

槻川(つきかわ) 村内南ノ方ヲ流ル。川幅十間(けん)*1許(ばか)リ。
   *1:1間(けん)は約1.8メートル。

八幡社 村ノ鎮守ナリ、遠山寺(えんざんじ)持。

稲荷社

神明社 共ニ村民持

遠山寺(えんざんじ) 曹洞宗*1、上野国緑野郡(こうずけのくにみどのぐん)御嶽村永源寺末、長谷山(ちょうこくさん)ト号ス。寺領十石ノ御朱印(ごしゅいん)ハ慶安二年(けいあん)(1649)賜(たま)フ所ナリ。開山ハ漱怒全芳*2永正十五年(えいしょう)(1518)十二月十五日示寂(じじゃく)、開山ハ遠山右衛門太夫光景(とおやまうえもんたゆうみつかげ)ト云フ。過去帳ヲ見ルニ当寺開基無外宗関(むげそうかん)居士(こじ)コノ父政景(まさかげ)也。天正八年(てんしょう)(1580)三月廿三日開基桃雲宗見(とううんそうけん)大居士遠山右衛門大夫藤原光景天正十五年(1587)五月廿九日トアリ、按(かんがえる)ニコノ二人トモニ開基トノセ、宗関居士ノ下ニ此父政景也トアルニヨレバ、其実光景が父政景ノ追福(ついふく)ノタメニ当寺を草創(そうそう)シテ、父ヲ開基トセシヲ合セテ二人共開基ト記セルニ似(に)タリ。又開山ノ寂(じゃく)*3永正十五年トナレバ是(これ)モ請待開山(しょうたいかいざん)ナルベシ。又按ニ隣村田黒村(たぐろむら)ニ、遠山右衛門大夫光景が城蹟*4ト云フ地アルヲ以テ考フレバ、当時此辺彼ガ所領ナリシコト知ラル。光景が事蹟(じせき)ハ他ノ書ニ所見ナケレド、此人モ甲斐守綱景(かいのかみつなかげ)*5等ノ一族ニテ共ニ北条氏ニ仕ヘシ人ナルベシ。
○鐘 本堂ノ軒(のき)ニ掛ク。銘文(めいぶん)中ニ遠山右衛門大夫光景家臣杉田吉兼ト云フ者、大檀那(おおだんな)*6トシテ鋳造(ちゅうぞう)セシ鐘ナリシガ後*7破壊(はかい)セシニヨリ、元祿十一年(げんろく)(1698)当寺十一世畦峻和尚*8ノ代ニ再造セシコトヲ載ス。
   *1:1227年、道元が中国から伝えた禅宗の一派。臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派。
   *2:漱恕全芳(そうじょぜんほう)が正しい。
   *3:死亡する。
   *4:小倉城址(おぐらじょうし)。
   *5:北条氏の家臣の遠山丹波守綱景。HP『風雲戦国史』の「武家家伝 武蔵遠山氏」。
   *6:重立った寺の檀家(だんか)。布施などを多くする人。
   *7:雄山閣版では「彼」。
   *8:圭峻大和尚が正しい。

地蔵堂 村民持

参照:小倉城址、遠山氏については、大塚仲太郎「小倉城阯」(『埼玉郷土史談』1935年)。杉田一夫「小倉城址に登る」、中島運竝「武蔵嵐山の桜」。

武蔵国郡村誌 遠山村 ルビ・注

  ○遠山村(とおやまむら)【埼玉県比企郡嵐山町遠山】

本村古時大河原郷松山領に属す風土記に玉川領に作る


疆域(きょういき)*1
東は鎌形千手堂平沢の三村と西より北は下里村と山嶺を接し、南は田黒村と槻川を隔てゝ相対す。
   *1:土地の境.境界内の土地。


幅員(ふくいん)*1
東西十二町南北八町二十一間

   *1:ひろさ。はば。

管轄沿革
天正中(1573-1591)徳川氏の有となり代官之れを支配。、田*1に高四十九石一斗とのす*2慶安二年(1649)己丑(つちのとうし)十石を遠山寺に付す風土記 貞享の頃(1684-1687)黒田豊前守の領地となり風土記にのせず 元祿の頃(1688-1703)代官支配に復す。宝永六年(1709)己丑(つちのとうし)旗下士*3内藤日向守の采地*4となる。天保十三年(1842)壬寅(みずのえとら)村高七十九石一升三合松平大和守の領地となり、明治二年(1869)己巳(つちのとみ)前橋藩となり、四年(1871)辛未(かのとひつじ)正月遠山寺領も同藩に入り、七月前橋県と改り、十月群馬県に転じ、十一月入間県に隷し、六年(1873)癸酉(みずのととり)熊谷県に属す。

   *1:「武蔵田園簿」(正保期-1644〜1648 -の武蔵国郷帳の控、各郡村高及び寄せ高、道のり等がかかえている)をさす。
   *2:「のす」は載す。
   *3:旗本。将軍直属の武士。
   *4:領地。知行地。

里程(りてい)*1
熊谷県庁より南方四里二十四町。
四隣下里村へ三十町四十九間。田黒村へ二十二町五十九間二尺。千手堂村へ二十二町五十二間。平沢村へ十八町十三間。
近傍*2宿町小川村一里十八町。字瀧森を元標とす。
   *1:道のり。
   *2:付近。


地勢
東西北は山巒連亙し、南に槻川を帯ふ。運輸不便。薪炭贏余(えいよ)*1。
   *1:あまり。

地味(ちみ)*1
色薄赤小石を交ゆ。稲粱に適しからす麦桑に応す。水利不便。時々旱(かん)*2に苦しむ。
   *1:地質の良しあし。
   *2:ひでり。

税地
田  二町四反三畝二十九歩
畑  八町一反一畝八歩
宅地 七反八畝二十六歩
山林 二町四反七畝十三歩
原野 一反二畝三歩
総計 十三町九反三畝十九歩


字地
瀧森(たきもり) 村の東にあり。東西二町。南北一町二十八間。
山の根 瀧森の北に連る。東西六町二十間。南北五十間。
井の上(いのうえ) 山の根の南方。東西一町三十二間。南北一町五十間。
木の下 井の上の西。東西六町二間。南北四十五間。


貢租
地租 米九石五斗八升二合 金二十三円十九銭一厘
賦金(ふきん)*1 金二円五銭
総計 米九石五斗八升二合 金二十五円二十四銭一厘
   *1:割り当ての金銭。

戸数
本籍 二十三戸平民
社  一戸村社
寺  一戸曹洞宗
総計 二十五戸


人口
男七十口、女七十五口、総計百四十五口


牛馬
牡馬八頭


山川
物見山 高五十丈。周回(しゅうかい)*1不詳。村の北方にあり。嶺上より二分し、西は下里村、東南は本村に属す。山脉【脈の俗字】東は大平山、西は寺山の両山に連る。打越谷より上る、八町三十五間。
   *1:まわり。

槻川  深処八尺、浅処一尺五寸。広処二十四間、狹処十三間三尺。村の西方下里村より来り東方鎌形村に入る。其間十四町三十一間。

瀧の橋 村道に属す。村の東方槻川の下流に架す。長四間、巾一間。木製。


道路
松山道 村の西方下里村界より東北千手堂平沢二村の界に至る。長十八町十一間、巾九尺。

 掲示場 村の中央にあり。


神社
八幡社 村社。社地東西二十三間、南北十二間。面積二百七十六坪。村の西方にあり誉田別尊(ほんだわけのみこと)*1を祭る。祭日四月十一月三日。
   *1:応仁天皇の名で知られる有力な文武の神であり、「八幡様」と呼ばれている。

仏寺
遠山寺 東西四十間、南北二十四間。面積九百六十坪。曹洞宗上野国緑野郡御嶽村永源寺の末派なり。村の西方にあり、開山は漱怒全芳。永正十五年(えいしょう)(1518)十二月十二日示寂。開基は遠山右衛門太夫光景と云ふ。


役場
事務所 村の北方戸長宅舎を仮用す。


物産
繭  十一石二斗
鮎  二十五貫目
米  三十五石一斗四升
大麦 七十二石七升
小麦 十八石七斗五升
大豆 十一石五斗
小豆 二石六斗五升
粟  十二石
蕎麦 四石一斗五升
桑  百三十駄
楮(こうぞ)*1 二百二十貫目
生絹(すずし)*2 九十疋
木綿布 百七十反
薪  千四百五十駄
炭  二千貫目
   *1:和紙の原料となるクワ科の落葉低木。
   *2:生糸の織物。

民業
農桑採薪*1を業とす。
   *1:薪をとること。

神社明細帳 遠山・八幡神社 菅谷村(現・嵐山町) ルビ・注

埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字遠山字蛇跡
  村社
 八幡神社

一 祭神(さいじん) 譽田別命(ほむたわけのみこと)*1
  *1:皇統では、第14代仲哀天皇と第16代仁徳天皇の間の第15代応神天皇(在位、西暦270年〜310年)であるが、4世紀末から5世紀初頭の頃在位したとみられる大王。記紀(古事記・日本書紀)では、治世中に多数の渡来人が来て漢字や儒教、養蚕など大陸の文物・技術を伝えた。騎馬民族説では、朝鮮から渡来した征服王朝ともいう。

一 由緒(ゆいしょ) 創立年月不詳明治四年中(1871)村社書上濟(すみ)

一 社殿 本殿

一 境内 四百十七坪

一 氏子 貮拾参戸

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遠山八幡神社春季例大祭記念 1977年(昭和52)4月3日

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2003年5月14日 小川京一郎さん撮影
※八幡神社境内図(『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁、1992年)1429頁
八幡神社(遠山)

空から見た嵐山町 309 遠山 2011年6月

嵐山町遠山
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2011年6月22日、内田泰永さん撮影

A:遠山集会所、B:八幡神社、C:遠山寺、D:谷川橋(槻川)(嵐山町遠山)
E:日枝神社(ときがわ町大字田黒字小倉)

寺院明細帳 曹洞宗 遠山寺 菅谷村(現・嵐山町)遠山 ルビ・注

埼玉懸管下武蔵国比企郡遠山村字宮前
 群馬縣下上野国(こうずけのくに)緑野郡(みどのぐん)浄法寺村永源寺*1末
  曹洞宗通幻派(そうとうしゅうつうげんは)*2 遠山寺(えんざんじ)
   昭和十七年 月 日 規則ヲ認可ス
   *1:現・群馬県藤岡市浄法寺甲1873にある永源寺。『新編武蔵風土記稿』・『武蔵国郡村誌』の「上野国緑野郡御嶽村永源寺」は誤りで、「上野国緑野郡浄法寺村(じょうほうじむら)永源寺」が正しい。
   *2:曹洞宗は鎌倉時代に道元によって開かれた仏教の宗派。通幻派は南北朝時代に活躍した通幻寂霊の流れを汲んだ人びと。通幻禅師は越前、能登、丹波で活躍し、通幻派は曹洞宗のなかで大きな派になり、通幻の建てた福井県の龍泉寺は通幻派の本山になっている。

一 本尊(ほんぞん)   釋迦如来(しゃかにょらい)

一 由緒(ゆいしょ)   創立永正二年(えいしょう)(1505)北條家ノ籏下(きか)*2遠山右エ門太夫藤原光景之開基ニシテ慶安二年(けいあん)(1649)徳川政府ヨリ御朱印高拾石下賜リ代々是(これ)ヲ領ス明治元年(1868)御上知(おんあげち)被仰付候
   *1:小田原北条氏。
   *2:部下。

一 本堂   間口拾間三尺 奥行(おくゆき)七間三尺

一 庫裏(くり)*1 間口八間 奥行四間三尺
  土蔵 間口参間半 奥行弐間
   *1:住職やその家族などの住む所。

一 境内 九百九拾九坪 官有地第四種
    昭和廿三年四月七日
     一〇一五坪九七

一 境外所有地
山林(さんりん) 六町(ちょう)参畝(さんせ)五歩(ぶ) 遠山村字寺山
 地價(ちか) 金六拾円三拾壱銭六厘
墓地 壱畝拾貮歩 同村字同所

一 管轄廰迄(かんかつちょうまで) 拾貮里廿町(じゅうにりにじゅうちょう)
             以上

山林 貮反五畝四歩 大字遠山寺山
 地價 金弐円五拾壱銭参厘
山林 貮畝六歩 大字遠山字嘉原
 地價 金弐拾弐銭
山林 三反七畝弐歩 同上 二百七十八番ノ一
 地價 金参円七拾四銭
山林 壱反四畝弐拾壱歩 大字遠山字嘉原二七九番
 地價 金壱円四拾七銭

大字  字   地番   地目  段    別   地 価
                 町反畝 歩     円
遠山  坂下   六   田     九一二    二四、三七○
 同  宮前 一九一   同     二二三     七、一七○
 同  同  一九五   同    一二二○    三二、八五○
 同  同  二一三   同    一五二八    四一、三二○
 同  同  二一五   同     五二八    一三、八六○
 同  坂下   九ノロ 同      一五     一、三○○
 同  宮前 一八○   畑     三一三     四、七九○
 同  同  一八一   同    二八一三    三九、六三○
 同  同  一九六ノ一 同    一四一七     九、二三○
 同  同  二一四   同    一八○八    一五、○四○
 同  同  二○八   同     七○七     八、七○○
 同  同  二二一   同     七○七    一○、○八○
 同  同  一七六   同    一二二五    二二、七七○
 同  同  一七七   同    一○二八    一七、三二○
 同  坂下   九ノイ 同     二○九     一、九○○
 同 山ノ根  五七   同     三○八     四、五五○
 同 木ノ下 二四三ノ一 同     三一四     四、八三○
 同  嘉原 二七四   山林  一一九一○    一一、九三○
 同  同  二七八ノ一 同    三七一二     三、七四○
 同  宮前 二○九   原野    一一七       一六○
 同  嘉原 二七八ノ二 宅地     九五坪九五 一九、一九○ 
 同  寺山 二六七ノ一 山林  五六九二九    五○、○一○
 同  同  二六七ノ五 同     四一五       四四○
 同  同  二六七ノ三 同    二○一九    一六、九八○
 同  同  二六七ノ四 同     八○二     六、六三○

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2003年5月14日 小川京一郎さん撮影

稲村坦元先生菅谷村誌原稿 附記・遠山隧道 ルビ・注

遠山隧道(ずいどう)*1
 大字遠山ノ東方ニシテ平澤區ノ堺上ニ在リ、明治初年鑿築(さくちく)*2セシモノ、関東地方隧道ノ嚆矢(こうし)*3トシテ草創(そうそう)*4ノ数月都鄙ヨリ来観セシモノ多カリシ、其数町西麓ヲ流ルヽ槻川中南北ノ野馬渓(やばけい)*5ト唱フル長峡アリ、高崖低磯ノ彼此晶岩(しょうがん)*6碧潭(へきたん)*7ヲ隠顕シ、湛漣(たんれん)*8其間ニ刻々洋々放下セルモノト相須(あいま)チ*9、此般(はん)*10ノ風光宛然(えんぜん)*11天界仙境(せんきょう)*12ノ概(がい)*13有リ
   *1:トンネル。
   *2:うがちつくること。
   *3:物事のはじまり。最初。
   *4:創業のこと。
   *5:耶馬渓。大分県中津市を流れる山国(やまぐに)川の渓谷。
   *6:きらめき光る岩。
   *7:あおあおとした深いふち。
   *8:水を深く湛(たた)えあるいはさざなみとなること。
   *9:一つになって。
   *10:すべておしなべて。
   *11:そっくりそのまま。
   *12:仙人の住むところ。
   *13:おもむき。

嵐山町の桜 遠山 2010年4月12日

嵐山町大字遠山
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2010年4月12日撮影

嵐山町の桜 谷川橋(遠山) 2010年4月12日

谷川橋(槻川、嵐山町大字遠山)

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2010年4月12日撮影

嵐山町の桜 遠山寺(遠山) 2010年3月31日

遠山寺(嵐山町遠山)

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2010年3月31日撮影

嵐山町の桜 遠山 2010年4月10日

嵐山町遠山

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2010年4月10日、井島宏さん撮影

嵐山町の桜 ゲートボール場(遠山) 2010年4月8日

ゲートボール場(遠山)

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2010年4月8日、井島宏さん撮影

古い写真 谷川橋が完成する 1962年5月

谷川橋完成134号web


谷川橋起工式 1961年1月8日
遠山−小倉を結ぶ谷川橋の新設工事は、本村と玉川村共同事業として、計画が進められ、土木事務所吉松技師により、巾員四米、延長二十米、鉄筋コンクリートラーメン構造の近代的設計が出来上がったので、両村々長は、議会に諮ってその予算措置を講ずると共に請負業者と交渉を進め、十一月二十八日東松山関中組と工費二四〇万円で、契約締結を完了した。工期は来年三月二十五日。その起工式が、十二月八日午後二時から遠山側現場で挙行された。出席者は、両村助役、土木係、議長、土木委員長、請負者、土木事務所吉松技師、遠山、小倉区長等。
猶この橋の完成と共に玉川村小倉地内、本村遠山地内、小川町の下里地内の町村道改良工事も実地され、菅谷、玉川、小川町を結ぶ、中央幹線が出来上がって、関係地区民の増祉に寄与するところが大きい。経費は、菅谷、玉川各一一〇万負担、小川町四〇万寄附で実地
される。
『菅谷村報道』129号 1961年(昭和36)12月20日

谷川橋工事進捗
三月末、完了予定の谷川橋工事はセメント不足資材難でおくれていたが、去る四月二十七日、床板打ちを終って、基幹工事を略々完了した。
支柱型枠除去は、五月二十日頃、あと仕上げ工事で完成する見込み。竣工祝い等については、菅谷玉川両村で協議しているという。
『菅谷報道』133号 1972年(昭和37)5月15日

谷川橋完成 1962年5月
谷川橋完成
小川・菅谷・玉川 三町村の道路の焦点
        五月三十一日祝賀会
本村の遠山と、玉川村の小倉境界、槻川上に、村道の谷川橋が出来上り、五月三十一日、その竣工式が行われた。
この橋梁は、本村では昭和三十五年度から計画され、その後玉川村と共同施工することになった結果、その位置や、規模等も変更になり、最後は東松山土木事務所の設計により、鉄筋コンクリートラーメン構造、幅員四米、延長二十米のものとなった。請負は松山関中組で、その金額は二四〇万円である。
一平荘門前から大平山の山腹を、ゆるく西北に廻って槻川渓谷上を、遠山に進むと、左手に屹立する小倉城趾と、その懐に抱かれた小倉の清境が行人の目を惹き心を往昔に運ばせる。
山腹の道路が尽きて、車が急角度に左折して、山を下ると遠山の桃源郷に入る。ここは、前述の小倉城主遠山氏の菩提寺、遠山寺があり松山城の支城小倉城が陥落した天正十五年より三年前に歿した遠山光景の遺骸がここに葬られたと伝えられている。かくして、古く小倉遠山は等しく遠山氏の領土として一地区をなし、又、近くは、槻川の沿岸を辿って玉川村田黒、菅谷村鎌形から小倉、遠山を経て下里、下小川を過ぎる小川町に通ずる重要路線の一部であった。然し、この道路も、幅員狭くとくに、小倉遠山間に、橋梁がないため、最近の交通事情に即応することが出来ず、槻川を境にこの両地区は分断されて、夫々、菅谷玉川両村の辺境的地域として、生活の不自由を忍ばねばならなかった。
偲々小川町と玉川村が、数年前から、この古い路線の改良に着手し、本村も又、これに同調して、遠山地内村道の議が定まった。これ等の事情から、この町村道の復活と、関係地域開発のためその集点となったのが、谷川橋の建設であってここに玉川菅谷小川三町村の連繁が成って、永久橋の完成を見るに至ったのである。かくして、現在計画中の遠山及び、下里地内の町村道改良が終了すれば、この道路は、再び、小川菅谷玉川を結ぶ、大動脈となって関係地域の発展は期して挨つべきものがあるとされている。
式は午前十一時前に始り、玉川議長の開会、神事、玉川村長の経過報告、菅谷村長の式辞、感謝状の贈呈(土木事務所職員・関中組)、小川町長の祝辞の後、両村々長によってテープが切られ、遠山側から渡り始めが行はれた。閉会は菅谷議長、続いて、一平荘で直会の儀が行はれた。当日の参列者は菅谷・玉川村議、遠山・小倉区長、小川町長、議長、建設委員、小久保県議、土木事務所員、関中組等七十余名に上がった。
『菅谷報道』134号 1962年(昭和37)6月10日

古い写真 遠山・槻川の雪景色 1975年2月

槻川の雪景色
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1975年2月21日 西山光燐さん谷川橋上から上流を撮影

夕暮の槻川
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年月不明 西山光燐さん谷川橋上から上流を撮影

古い写真 遠山・谷川橋 1970年代前半?

谷川橋(槻川)
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上流(左岸)から撮影

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下流(右岸)から撮影

1970年代前半? 西山光燐さん撮影

谷川橋完成 1962年 

古い写真 遠山・槻川 1970年代前半?

槻川(谷川橋上流)
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1970年代前半? 西山光燐さん左岸下流から撮影

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